2013年7月21日日曜日

英雄の条件

 宇文泰にはこんなエピソードがある(『周書』巻1文帝紀・上)
少有大度、不事家人生業、軽財好施、以交結賢士大夫。
(宇文泰は)若くして度量が広く、家族の生業にいそしんだりしなかった。財産に執着せず、人に施しをすることを好み、そうして賢人や高位に就いている人[1]と交際した。
 おや、こんな話はどこかで聞いたような・・・
高祖為人、・・・常有大度、不事家人生産作業。(『漢書』巻1高帝紀・上[2]
 高祖劉邦その人である。劉邦にはこんな逸話も伝わっている(『漢書』巻1高帝紀・下・高祖9年10月)
上奉玉卮為太上皇寿、曰、「始大人常以臣亡頼、不能治産業、不如仲力。今某之業所就孰与仲多」。殿上群臣皆称万歳、大笑為楽。
高祖は玉製のさかずきを奉じて、太上皇〔高祖の父〕の長寿を祝福し、「当初、お父上はいつも、わたくしが無頼のやからで、家の仕事をこなすことができず、(兄の)仲の勤勉さに及ばないやつだと思っておいででした。(しかし)いま、わたくしが成し遂げた業績と、仲のそれとでは、どちらが勝っておられると思いますか?」と言った。殿上の群臣はみな万歳をとなえ、おおいに笑って楽しんだ。
 天子になって天下を統一したとほざくこの男、なんと30代までニートだったと言うのだ[3]。それに比べて兄の仲は、家がちゃんと食べていけるよう、よく働いていたらしい。まあしかし、英雄になるべき男は、そんな凡人がやるようなことで一生を終えるつもりなどない、という意気込みを持っておらねばならないのかもしれにょ
 だがしかし、本当にそうだろうか、ニート諸君。次の話もよく考えて欲しい。
世祖光武皇帝諱秀、・・・性勤於稼穡、而兄伯升好侠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。(『後漢書』紀1光武帝紀・上)
世祖光武帝は諱を秀と言う、・・・(帝は)農業に精を出す性格であったのに対し、兄の伯升は義侠の士を好んで、彼らを養っていた。(伯升は)いつも、帝が農業に努めていることをあざ笑い、高祖の兄の仲になぞらえていた。
斉武王縯、字伯升、光武之長兄也。性剛毅、慷慨有大節。自王莽簒漢、常憤憤、懐復社稷之意、不事家人居業、傾身破産、交結天下雄俊。(『後漢書』列伝4宗室四王三侯列伝)
斉武王の縯は字を伯升と言い、光武帝の一番上の兄である。剛胆な性格で、血気盛んに大志を抱いていた。王莽が漢を簒奪して以降、つねに不満を抱き、漢の朝廷を復興しようと考えていた。家族の生業は全くかえりみず、我が身を忘れて財産を散じ、天下の豪傑たちと交際した。
 光武帝は農業にいそしんでいたが、そんな様子を見て、その兄の劉縯は「おまえは高祖の兄の仲みたいやな笑」と言ったらしい。そうして自身は全く農業なんかしないくせに、家の財産は好き勝手に使って、豪傑(笑)と交際したそうだ。
 結果はすでに明らかなように、光武帝が漢の皇帝となった。とすると、家の生業にいそしんでいるからと言って、英雄の素質が無いとも言えないのかもしれない[4]
 というわけでね、人生どうなるかわからんねというだけです。
 ところで、冒頭の宇文泰はどうなったのだろう?彼の母は妊娠中、次のような夢を見たと言う。
母曰王氏、孕五月、夜夢抱子昇天、纔不至而止。寤而告徳皇帝、徳皇帝喜曰、「雖不至天、貴亦極矣」。
母は王氏と言う。妊娠五ヶ月のとき、夜に、子をかかえて天に登り、あと少しというところで届かなかった、という夢を見た。目が覚めて徳皇帝〔王氏の夫=宇文泰の父。名は肱〕に夢のことを話すと、嬉しがって言った、「天には届かずとも、高貴を極めるに違いない」。
 この夢の通り、彼は西魏の高貴を極めるにまで至ったが、天子にはなれなかった。もちろん、そこに至るまででも、ものすごい出世話であるが。


――【注】――

[1]原文「賢士大夫」だが、ここでは「賢士・大夫」で読んだ。「賢たる士大夫」のように読むこともできるが、ここでは語数やリズム等を勘案してこのように読んでおいた。[上に戻る]

[2]『史記』は所有していないので、『漢書』から引用させてもらった。[上に戻る]

[3]誇張表現です、すいませんでした。[上に戻る]

[4]といっても、新末後漢初の動向に詳しい方なら周知のことではあろうが、南陽における漢朝復興の反乱の狼煙は、劉縯によって挙げられた。劉縯こそがボスで、光武帝はその指揮下で戦っていたのである。引用した帝紀や列伝の記述にふさわしく、劉縯には相応のカリスマ性、リーダーシップおよび人望が備わっていたらしい。しかし、その溢れる才気があだなしたらしく、新市兵などとの合流を機に醸造された集団内部の権力闘争の前に、彼は殺されてしまった。要するに劉縯もひとかどの人物であったようである。[上に戻る]

2013年7月14日日曜日

『晋書』宣帝紀訳注

 宣帝紀の訳注は今年4月くらいからぼちぼちやってたんだけど、間もなく飽きてしまってずっと放置中だった。今週になって気が向いて、久々に更新。でまあ、せっかくだし、更新した分を公開してみるかあ、というわけである。版本等は最下段に記載。



 ちょうどそのとき、尾を長く引く星が現われた。色は白、尾の先はぼんやりしており、襄平城の西南から東北へ流れ、梁水に落ちた。襄平城の人びとは恐れおののいた。公孫淵は不安になり、そこでようやく、公孫淵が任じた相国の王建、御史大夫の柳甫を遣わして降伏を乞わせることとし、包囲の解除と投降を願い出た。(帝はこれを)許さず、王建らを捕えて、ともに斬った。檄を送って公孫淵に告げた、「むかし、楚と鄭は(ともに)諸侯国であったが、鄭伯はそれでも肌を脱いで羊を引き、楚を迎えたと言う。孤〔わたし〕は王人[1]であり、位は上公であるが、王建らは(何らへりくだることなく)孤に包囲を解いて引き下がれと言う。とても楚鄭の故事に似つかぬ話だ。二人は老人だったので、預かった言葉を言い洩らしてしまったに違いないから、(その過失を咎めて)すでに斬った。もし投降の意志がまだ変わらぬのであれば、年少で判断に明るい者を送ってよこすがよい」。公孫淵は侍中の衛演を遣わし、日にちを決めて人質を送ることを願い出た。帝は衛演に言った、「軍事にはかなめが五つある。戦えるときは戦うこと、戦えないときは守ること、守れないときは逃げること、(逃げることもできない場合の)残りの二つは投降と死だ。おまえは投降に納得していない。かくすれば、死を選ぶだけだろう。人質は不要だ」。公孫淵は南の包囲を攻め破ったが、帝は兵を送って攻め破り、梁水のほとりの星が落ちたところで公孫淵を斬った。襄平城に入ると、二つの標識を立てて新と旧に分けさせた。男子の十五歳以上七千余人は全て殺し、京観〔死体の山〕をつくりあげた。公孫淵の偽公卿以下は全て誅殺し、公孫淵の将軍の畢盛ら二千余人を殺した。四万戸、三十余万口を没収した。
 初め、公孫淵は叔父の公孫恭の位を奪って収監した。(公孫淵が魏に)叛逆しようとしたとき、将軍の綸直と賈範らは大いに諌めたが、公孫淵はともに殺してしまった。帝は公孫恭を釈放し、綸直らの墓に土を盛り、彼らの跡継ぎを表彰した。令を下して言うよう、「いにしえは国を討伐したとき、悪人の親玉を誅殺するのみであったと言う。公孫淵の巻き添えにされた者たちは、全て赦す。中国の人で故郷に還りたい者は、自由に許す」。
 ときに、寒さに凍えた兵士らが襦〔腰のあたりまでの上着〕を求めたが、帝は与えなかった。ある人が、「幸いにも襦はたくさんありますし、下賜してもよろしいのでは」と言ったが、帝、「襦は官物だ、人臣が勝手に与えて良いものではない」。そうして軍人で六十歳以上の者は軍務を止めさせ、その千余人を家に帰すこと、従軍した将吏で戦死した者は遺体を家に送り届けること、を奏上した。とうとう帰還することとなった。天子は使者を遣わして薊で軍を慰労させた。(帝の)封地に昆陽を加増し、前の二県と合わせた。
 当初、帝が襄平に到着したとき、天子が帝の膝をまくらにし、「わしの顔を見ろ」と言うので、かがんで見たところ、普段とは異なる顔色だった、という夢を見たが、心中気味悪がっていた。これより以前、即座に関中に向かい、出鎮せよ、という詔が帝に下っていた。(ところが、帝が)白屋に至ると、帝を(京師に)召す詔が下り、三日間で五回詔書が来た。手詔に、「このごろは不安で口で息をするのもままならず、到着を待ち望んでおる。着いたら即座に真っ直ぐ宮中に入り、わしの顔を見ろ」。帝は驚き、追鋒車[2]に乗って昼夜兼行で向かった。(京師は)白屋から四百余里あったが、一泊で到着した。(天子は帝を)嘉福殿の寝室に招き入れ、御牀に上げさせた。帝は涙を流して病気の様子をたずねたが、天子は帝の手を取って、斉王のほうを見やって言った、「後事を任せたぞ。死は抑えることができる。わしは死を抑え込んで君を待っていた。一目見ることができた以上、もう思い残すことはない」。(帝は)大将軍の曹爽と共に遺詔を受け、少主を輔佐することとなった。
 斉王が帝位につくと、侍中、持節、都督中外諸軍、録尚書事に移り、曹爽とともにそれぞれ兵三千人を統べ、共同で朝政を取り仕切り、(曹爽と)交替で殿中に当直し、車に乗って殿中に入った。曹爽は尚書の奏事を、まず自分を経由してから天子に言上させようと思い、帝を大司馬に移した。朝議では、最近の大司馬が相次いで在位中に没したことを思い(不吉に感じたため)、帝を太傅とし、入殿の際は小走りしなくともよく、謁見の際は名を呼ばれることなく、剣を佩びて靴をはいたままでの上殿を許され、漢の蕭何の故事に倣わせた。嫁入と嫁取り、喪や葬儀のときは官から(経済的に)支給し、世子の師を散騎常侍とし、子弟三人を列侯とし、四人を騎都尉とした。帝は子弟の官を固辞し、受けなかった。

 正始元年春正月、東倭が通訳を重ねて朝貢した。焉耆、危須の諸国、弱水以南(の?)鮮卑の名王が、みな使者を派遣して朝貢した。天子はその(朝貢を招いた)美徳を宰相によるものとし、再度帝の封地を加増した。
 初め、魏の明帝は宮殿の整備を好み、規模は必ず壮麗であったため、人民は苦しんだ。帝が遼東から帰ったとき、労役に就いている者は依然として一万余人おり、飾り立てられた観賞物は常に千ばかりを数えた。このときになって、みなが奏上してこれらを止めるよう言い、節約して農業に務めるよう願い出たので、天下はこれを喜んだ。

 二年夏五月、呉の武将の全琮が芍陂を攻め、朱然、孫倫が樊城を包囲し、諸葛瑾、歩騭が柤中を掠奪したので、帝はみずから討伐することを願い出た。議者はみな、「賊は遠方から来て樊城を包囲しているので、急に落とすことはできないだろう。(賊が)堅固な城で敗北を喫せば、勢い自然と瓦解していくだろうから、長期的な計画でおさえてゆけばよろしい」と言った。帝、「辺境の城が敵を迎えているのに、ゆったりと廟堂に座ったまま(とは何たることだ)。境界が騒がしく、人々は動揺しているのだぞ、この事態は社稷の大きな憂いなのだ」。
 六月、(帝は)ようやく(命じられ、)諸軍を統率して南方征伐に進発し、天子は津陽門まで送り出した。帝は南方が暑く、湿気があり、持久戦は適さないと判断し、軽騎兵で(呉軍を)誘わせたが、朱然は動かなかった。そのため、戦士に休息を取らせ、精鋭を選抜し、先頭部隊を募集し、号令を示し合わせて、決死攻撃の姿勢を見せた。呉軍は夜に遁走したので、(帝は)三州口まで追撃し、一万余人を斬首、捕獲し、舟や軍需物資を鹵獲して帰還した。天子は侍中常侍を遣わし、宛で軍を慰労した。
 秋七月、郾、臨潁を食封に加増され、前の四県と合わせ、食邑一万戸とした。子弟十一人を全て列侯とした。帝の勲功と徳は日々高まり、しかも謙遜はいよいよ極まった。太常の常林は郷里の年輩であったので、会うたびに拝礼していた。いつも子弟に、「満ちて一杯になることは、道家の嫌うことだ。(それは)四季に移り変わりがあるようなもの、どのような徳であっても維持はできぬ。損なえば損なわれる、どうして免れ得ようか」。

 三年春、天子は皇考〔帝の父〕の京兆尹の防を追封し、舞陽成侯と諡号した。
 三月、(帝は)広漕渠を開鑿し、黄河を汴水に引き入れ、東南地方の陂に水を流し込むよう上奏した。こうしてようやく、淮北で耕作が行われるようになった。
 これ以前、呉は武将の諸葛恪を派遣して皖に駐屯させた。辺境の人々はこれに苦しんだので、帝は自ら(軍を率いて)諸葛恪を討とうとした。議者の多くは、「賊は堅城を拠りどころにし、食糧をたくわえているから、魏の官軍を引き寄せようと考えているだろう。(だというのに)いま遠征軍が皖を攻めれば、(呉の)援軍が必ず来るであろうから、(そうなってしまうと)進退もままならなくなる。(したがって、遠征する)利点がない」と考えた。帝、「賊が得意とするのは水軍である。いま呉軍の(占拠する)城を攻めたら、その対応を観察すればよい。もし得意とする水軍を活用しようとすれば、(賊は)城を棄てて逃げ去(り、こちらを誘い出そうとす)るだろうから、こうなれば(皖を取り戻したことになるので、)成功である。もしあえて皖を固守すれば、湖や川は冬に水位が低くなり、船が進めなくなるのだから、かかる情勢上、(賊は)必ず水軍を使わずに(陸軍で)救援を送ってこよう。不得手とする(陸上な)のだから、この場合であっても我が軍に有利である」。




[1]①周王室之微官(『春秋』荘公六年、杜預注「王人、王之微官也。雖官卑而見授以大事」)。②君王的臣見民。③国君(以上「漢典」)。ここでは③か(司馬懿は舞陽侯であり、封国を所有)[上に戻る]

[2]古代一種軽便的駅車、因車行疾速、故名。(「漢典」)[上に戻る]

☆底本には中華書局標点本(1974年11月)の2008年9月北京第9刷を使用。
☆他の版本(百衲本など)は所有していないので、参照してません。
☆工具書類
・『漢辞海』(第三版)・・・ハンディ辞書としてはかなり優秀
・『漢語大詞典』(縮印版)・・・中国語

・「漢典」(http://www.zdic.net/)・・・確認したわけではないが、たぶん『漢語大詞典』のデータを流用している。『説文』や『康煕字典』も合わせて引けるので、わりと便利。


2013年7月13日土曜日

「司馬懿のひざまくら」

〈あらすじ〉
 司馬懿は遼東で独立を図った公孫淵の討伐を命じられ、出発する。あれやこれやあったけど、何だかんだいって勝利を収めた司馬懿は、都・洛陽への帰途に就くが、何か嫌な予感にとらわれていた・・・


初、帝至襄平、夢天子枕其膝、曰「視吾面」。俛視有異於常、心悪之。

 帰途を行く司馬懿を捉えて離さないのは、遼東に着いたばかりのころに見たあの夢であった。夢、そうあれは夢であった。夢とは、潜在的な欲求なのだろうか。だからこそ、圧倒的なリアリティをもっているように感じられるのだろうか。
 その夢は、晴れた昼下がりの草原を舞台としていた。司馬懿の膝は、皇帝の枕と化していた。そう、あの聡明をもって知られる皇帝・曹叡である。
 
 「朕のほうを向け」

 天子が言った。いま、司馬懿は首を180度後ろに回して背後の草原を眺めている。顔色を、表情を、察せられてはまずい。司馬懿に可能な、ささやかな抵抗であった。天子の言葉に対しては、聞こえぬふりを通した。
 しかし、この皇帝は長けている。勝負どころの見極めが抜群に優れている。押せるところではどこまでも押してくる。相手の心理の推察が、それだけうまいのだ。

 「朕のほうを向け」

 「なりませぬ・・・」とすぐ言ってはみたものの、そこに意志が込められているかと言うと、自らもわからぬ。視線が後頭部に突き刺さっている。無言の時間が、司馬懿の抵抗を降した。恐る恐る、視線を下のほうに向けたまま、顔の方向を戻した。そこから先は・・・

 夢とは、決して他者に理解されてはならない私だけのものである。


―続―

※作者急病のため、次回以降の連載は未定となります。長年の御愛読、ありがとうございました。





―!―
○この作品はフィクションです。くれぐれも事実と受け止めないように。
○どこまでお前は創作を加えたのかって?『晋書』宣帝紀・景初二年の条に元ネタ記事(上掲)があるので、ご自身で確かめるとよろしい。
○いちおう言っておくと、男同士の膝枕と言うのはたぶん、親密度を表現するレトリックなんじゃなかろうか。え?その親密度がどれくらい行くとそうなるのかって?いやわからんけど、無二の友みたいな感じなんじゃないの?え、そのような間柄を「友」と表現するのは適当なのかって?もうしらねーよちくしょう

2013年7月1日月曜日

6月の読書メーター

 6月は改心して色々読んだ。未だ評価が定まらぬのは生成文法。ウィトゲンシュタインに親しみを感じる以上、生成文法はウソかレトリックの域を出ないようにしか思えないのだけど(実際、リチャード・ローティはカントへの回帰みたいな評を下していた)、なにぶん脳科学関係は疎いので、もう少し様子見。それにしてもアレだね、映画で「この世界は脳が見せている映像だ、全ては信号だ」みたいな話がやっていたけれど、脳科学がそのくらいの主張に収まるのならば、ようやく科学は形而上学(現象学)に追いついたのか、くらいの感想しか出ないっすわ。しかり、この世界は脳の信号で成り立っているとしても全く構わないし、そのような説明は斬新ではあるが神秘的ではない。神秘なのはなぜ脳が世界を見せているのか、である。『論考』のウィトゲンシュタインならば、そう言うんじゃないかしら。
 平勢先生はたしかに日本語は難しいところもあるが、論理をたどっていけばかなり真っ当で、重要な主張をしているように読めた。谷川先生については思うところが多々あるので、そのうちまとめるかもしれない。しかしブログには収まらんかもしれん。

2013年6月の読書メーター
読んだ本の数:18冊
読んだページ数:5118ページ
ナイス数:8ナイス

新・自然科学としての言語学: 生成文法とは何か (ちくま学芸文庫)新・自然科学としての言語学: 生成文法とは何か (ちくま学芸文庫)感想
言語(記号)は音と意味の恣意的結合から成るというソシュール的言語観を下敷きに、どうしてその言語を人間が操作できるのかを解明しようとする。提示するモデルは、脳の処理(言語機能)であり、その初期状態(普遍文法)から何らかの言語的刺激を与えられて安定状態(個別言語)を得るとするもの。数学言語を用いて論じた箇所は全くわからないが、その試み字体は非常に興味深い
読了日:6月3日 著者:福井 直樹
古代〈中華〉観念の形成古代〈中華〉観念の形成
読了日:6月5日 著者:渡邉 英幸
方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫)感想
家は多人数で作るより、一人で作った方がデザインも一貫していたりしていて、とにかく良い。しかし一人でイチから作るのは大変である。だからすでに誰かある個人が家を作っていて、そこが住み心地良かったら、そこに住めばよい。しかしデカルトにそんな家はなかった、だから自分で作ることに決めた。だいたいそんな話。私はデカルトが依存した「神」の世界を信じないが、このデカルトの「自己開発」(漱石流に言えば「自己本位」)の話は全く正しいと信じている。だから、私は他の哲学者の言葉に安住します
読了日:6月6日 著者:デカルト
史記の「正統」 (講談社)史記の「正統」 (講談社)感想
「我々の言語に埋め込まれている或る挿し画に事実の方が合わねばならぬという考え」(ウィトゲンシュタイン『青色本』)。史記は正統の形式を創出して、それに事実を合わせた、だからそれを取り払う必要があるという主旨。称元法、暦などを手がかりに、複数の正統が混在したまま誤認識されたことを浮き彫りにしている。
読了日:6月9日 著者:平勢 隆郎
フランス歴史学革命―アナール学派 1929‐89年 (NEW HISTORY)フランス歴史学革命―アナール学派 1929‐89年 (NEW HISTORY)
読了日:6月9日 著者:ピーター バーク
増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)
読了日:6月11日 著者:野家 啓一
経済学に何ができるか - 文明社会の制度的枠組み (中公新書)経済学に何ができるか - 文明社会の制度的枠組み (中公新書)
読了日:6月13日 著者:猪木 武徳
<私>のメタフィジックス<私>のメタフィジックス
読了日:6月16日 著者:永井 均
李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書)李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書)感想
清朝は日本や西欧の言うがまま、みるみる落日してゆくのみ、といったイメージが強い。が、中国にも中国の意図や論理があった。それを丁寧に描いており、多くの点で認識を改められた。李鴻章を中心として描かれた、当時の中国社会や政治の様相、問題点も説得的。日清修好条規をめぐって、清朝としてはそれを一向に守ろうとしない日本にいらだつと同時に脅威を覚え、日本としてはいつまでも条規を持ち出す清朝に煮え切らないものを感じ、両者対話不足ですれちがったまま戦争に、というストーリーは、「所詮過去のこと」とは言ってられない気もした
読了日:6月16日 著者:岡本 隆司
トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)トクヴィル 現代へのまなざし (岩波新書)
読了日:6月16日 著者:富永 茂樹
歴史家の同時代史的考察について (1983年)歴史家の同時代史的考察について (1983年)感想
啓蒙主義的「進歩」の物差しから見れば、中国の歴史は繰り返しの停滞に映るだろう。しかし、中国の人の中国史の読み方は、現実の問題を歴史に投影して、過去と現在の位置を内面的に理解するもので、さればこそ変化より類似に注目が行っていたのだ。という。そのような内在的読みを津田左右吉、内藤湖南は出来ていたのか、我々は出来るのか、といった話にまとめている。ベンヤミンが膾炙した現代であれば、歴史に進歩思想のみを見るのは古臭い発想だと一蹴できるが、この先生はそれ以前にやってのけていた。そこがすごい
読了日:6月17日 著者:増淵 竜夫
中国史とは私たちにとって何か―歴史との対話の記録中国史とは私たちにとって何か―歴史との対話の記録
読了日:6月18日 著者:谷川 道雄
文化政治としての哲学文化政治としての哲学感想
「『神は存在するか』を問うべきではなく、『神の存在について問うことは社会に有用か』を問うべきだ」。この文句に、ローティの思想が端的に表明されている。真理や道徳などは社会的(言語的)に構築されたものだと見なす社会的構築主義、何について語ることが社会や人間(の生)に有用かを「会話」する社会的実践として哲学を捉えるネオ・プラグマティズム等々。私はローティほど社会への実践を意識することはできないが、ローティの言わんとすることはだいたいわかったつもりである。
読了日:6月18日 著者:リチャード・ローティ
中国中世の探求―歴史と人間中国中世の探求―歴史と人間感想
人間の理解の「方法としての歴史学/中国史」が氏のスタンスである。制度、経済のような外的変化はもちろん重要だが、その中身に次代を築こうとする人間の未来志向エネルギーを内在的に把握しなければ、人間の生のあり方を追求したとは言えぬとする。というのも人間は、種々の時代的制限(不自由)はあっても、その中で自らの生を主体的に決断して生きているからであり、その意味で生とは「自由」だから、と言う。ハイデガー?サルトル?的。旧パラダイムに固執しているのは明らかだが、「方法としての歴史学」には共感するところが多い
読了日:6月20日 著者:谷川 道雄
世界史の中のパレスチナ問題 (講談社現代新書)世界史の中のパレスチナ問題 (講談社現代新書)感想
「現代を理解するための歴史叙述」といった印象が強く残った。「おわりに」でイスラエル/パレスチナ問題をめぐる不正不義に苛立ちと絶望を感じると率直に心情を吐露しているが、叙述は冷静中立になされており、アメリカがどうしてイスラエルと特別な関係を維持せざるを得ないのかなどについても、丁寧に説明されていた。私はユダヤ教や聖地に関する言説に馴染みがなく、わからない感覚も多々あるけれど、この問題に多くの不正不法無関心が絡んでいることは感じた。政治の醜さも感じたけども、政治でなくては解決し得ないのだろう
読了日:6月20日 著者:臼杵 陽
経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)感想
「疎外された労働」から疎外されれば正常だろうか。そんなんはともかく、資本主義下の労働者たちの機械化、自己喪失現象に問題を感じたマルクスの議論は、現代だからこそ読むに値すると思う。
読了日:6月25日 著者:マルクス
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)感想
歴史、というか、人間社会への観方の根本的な転換を迫っている。唯物論(人間の生存は物質的諸条件にかかっている)、弁証法的歴史主義(全ての現象を止揚の歴史過程と捉える)、疎外化(人間が社会を作った後、社会が人間を支配する)。見辛い感じはするが、訳はこなれている
読了日:6月25日 著者:マルクス,エンゲルス
戦後日本から現代中国へ―中国史研究は世界の未来を語り得るか (河合ブックレット)戦後日本から現代中国へ―中国史研究は世界の未来を語り得るか (河合ブックレット)
読了日:6月30日 著者:谷川 道雄

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