2013年12月28日土曜日

変人たちの列伝=独行列伝

『後漢書』列伝71独行列伝・序
 孔子は言った、「中庸を得た人と行動をともにできないのであれば、異常な理想家か偏狭な者と交わるべきだ」と。また「理想家はひたすら求めつづけ、偏狭な者は何もしないことを心得ている」とも言っている。これらの者たちはおよそ、完全なる道を失した者たちであり、かたよった端っこ(の一方)を採用しているのであろう。しかしながら、何もしないことを心得ているというのは、一方では(何もしないことをしなければならないという意味で)必ずしなければならないことがあるということだろう。ひたすら求めるとは言っても、一方では(あることだけを求めてほかのことはすべて投げうつという意味で)求めないということなのかもしれない。このように、心の尊重することがらはそれぞれ分かれているのであって、為すべきことと行なわざるべきこととは、(それぞれで)適切さが異なっているのである。
 中世の偏った行ないをする一介の人で、名声を立て方正を確立できた者は、これまた多かった。ある者は志の強さが金石のようで、強力な敵をも(ひるまずに)拒み、ある者は意志が厳冬の霜のように激しく、ちっぽけな信義にも喜びを感じた。また人と友好を結んで、昼夜心を共有する者たちもいれば、義を実践することにとりわけ厳しく、死と生が節義において等しくなるとみなす者もいた。その事跡はくまなく伝えられているわけではないとはいえ、まことにその風格の跡は慕うに足るものがある。しかし実際の事跡は特に整理されていないので、秩序を立てて記述することは難しく、(また)ちょっとした記録に特別なおもむきがあるのであって、独立させて列伝を立てる分量には不足している。彼らを捨ててしまえば事柄に遺漏があることになり、記録すれば体裁の秩序が失われてしまう。名実とも格別であるのに、その節義と行ないがともに絶えてしまうことを恐れるので、まとめあわせて独行の列伝をつくることとする。願わくは、欠文を補って、(前史の)遺漏を記録しておきたい。(孔子曰、「与其不得中庸、必也狂狷乎」。又云、「狂者進取、狷者有所不為也」。此蓋失於周全之道、而取諸偏至之端者也。然則有所不為、亦将有所必為者矣。既云進取、亦将有所不取者矣。如此、性尚分流、為否異適矣。中世偏行一介之夫、能成名立方者、蓋亦衆也。或志剛金石、而剋扞於強禦。或意厳冬霜、而甘心於小諒。亦有結朋協好、幽明共心。蹈義陵険、死生等節。雖事非通円、良其風軌有足懐者。而情迹殊雑、難為條品。片辞特趣、不足区別。措之則事或有遺、載之則貫序無統。以其名体雖殊、而操行俱絶、故総為独行篇焉。庶備諸闕文、紀志漏脱云爾。)

 范曄の論のなかでも名文として知られている(はずの)独行列伝・序を訳出してみました。できれば、わたしも普通の感覚なら記載しないような、クズみたいなものたちに価値を見出してみたいですね。

 本当は宋書百官志訳注の続きを更新しようと思ったのですが、光禄勲を調べたらたいへん面倒なことがわかったのでやめました。
 今年の更新はこれで最後です。ただの自己満足・虚栄心のかたまりのような文章ばかりでしたが、お読みいただいてありがとうございました。時々感想をいただけたりするのはとても嬉しかったですし、励みになりました。たとえ読者は少なくても、読んでくださる人を楽しませることができたら、それでわたしは満足でございます。
 どうぞ来年もご愛顧くださいますよう。

幸福のイメージのなかには、救済のイメージが、絶対に譲り渡せぬものとして共振している。歴史が事とする過去のイメージについても、事情は同じである。過去はある秘められた索引を伴っていて、それは過去に、救済(解放)への道を指示している。実際また、かつて在りし人びとの周りに漂っていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺(こだま)が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのない姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。だとすれば、私たちはこの地上に、期待を担って生きてきているのだ。だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。この要求を生半可に片づけるわけにはいかない。
――ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」テーゼⅡ

范曄やばない?

言葉によって意図が伝わり、文飾によって言葉が生きる。言葉にしなければ、意図は誰にも伝わらない。言葉にしても文飾がなければ、相手に伝わりはするが印象には残らない。(言以足志、文以足言。不言誰知其志。言之無文、行而不遠。)
――『春秋左氏伝』襄公25年


 ちょっと史通を読んでたら久々に書く気になったので。

『史通』巻四論賛
 司馬遷は自序伝の最後に一つずつ各巻を挙げ、それぞれの意図を書き記した。(司馬遷は散文体であったのだが、)やがて班固はそれを詩風の韻文体に改め、「述」と称した。范曄は「述」を「賛」に改めた。ほどなく、彼らの述や賛は史書の体例となり、巻ごとに一つ書かれるようになったが、事柄が多い巻は要約されて(相対的に)少ない文章となり、内容が空虚な巻は誇張されて(相対的に)多い文章となってしまっているので、形式と内実が乖離し、(巻の内容と賛の内容とで)詳細さと簡略さが符合していない。それに人の善悪や歴史上の褒貶を知ろうとするうえで、この形式を利用する必要もなかろう。
 とはいっても、班固は述をすべてまとめて叙伝のうちに記し、一貫した筋道を立てた形式にしたので、その文章は見やすくて読むに足る。范曄『後漢書』の賛は実際のところ(多くの部分を)班固に倣っているが、(ただ班固とは違い)賛を各本伝にくっつけ、各巻末に書いたので、巻の題目と乖離し(?)、ばらばらに置かれているので秩序もない。しかし、范曄以後の作者はこの間違いに気づかなかった。例えば蕭子顕『南斉書』、李百薬『北斉書』、それに大唐が新たに編纂した『晋書』は、すべて范曄の間違った体裁にもとづき、巻末に賛を置いている。そもそも、巻ごとに論を立てるだけでも煩雑このうえないのに、論に続けて賛を置くとなると、見苦しくてしょうがない。(馬遷自序伝後、歴写諸篇、各叙其意。既而班固変為詩体、号之曰述。范曄改彼述名、呼之以賛。尋述賛為例、篇有一章、事多者則約之使少、理寡者則張之令大、名実多爽、詳略不同。且欲観人之善悪、史之褒貶、蓋無仮於此也。然固之総述合在一篇、使其条貫有序、歴然可閲。蔚宗後書、実同班氏、乃各附本事、書於巻末、篇目相離、断絶失次。而後生作者不悟其非、如蕭・李、南・北斉史、大唐新修晋史、皆依范書誤本、篇終有賛。夫毎巻立論、其煩已多、而嗣論以賛、為黷弥甚。)
 
同巻序例
 孔安国は「序とは作者の意図を述べるためのものである」と言っている。思うに、『尚書』には典や謨(などの体裁の篇)があり、『詩』には比や興(などの比喩)が含まれているから、もし最初に序がなければ、それらの文章の意味をちょっとでも理解することが困難であったろう。そのため、篇ごとに序が書かれ、その意味が述べられたのである。くだって『史記』、『漢書』になると、事柄の記述が中心となったので(すべての巻に序をつくることはしなくなったが)、表、志、雑伝にかんしては、しばしば序を立て(それらを制作した意図を述べ)たのである。その文章は華美でありながらも史書の体裁を(壊さずに)兼ね備えており、述べていることは諸子百家のようであって、(序の設けられた列伝は)『尚書』の誥や誓(といった諸篇)、『詩』の風や雅に等しいと言えるだろう。・・・
 范曄にいたって、そうした書き方ははじめて改められ、史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった。范曄以後の作者もみなこれに倣った。かくして司馬遷、班固の方法はここに途切れ、精緻で隠微に富んだ書き方も廃れていった。例えば(『後漢書』の)后妃列伝、列女伝、文苑列伝、儒林列伝といった類の列伝においては、范曄は必ず序を立てた。いったい、世の作者というのは、前代の史書(の志や列伝)にはあるのに自分の書(の志や列伝)だけにはないことを恥じるものである。そのため、晋、宋から陳、隋にいたるまで、伝を書くたびに序を立て、序を書いた数で評価が決まるほどであった。そもそも、史書を書く根本というのは、過去のことを現在に伝えることなのであるが、前代の史書にすでに序があるというのに、どうして現代の作者たちも(わざわざ)序を書く必要があろうか。(ある志や雑伝を制作する意図はすでに前代によって明らかに述べられているではないか。)(ある志や列伝に)一番最初に立てられた序は、見るべきところがあろう。だが屋上屋に重ねたもの(、すなわちそれ以後に同じ題目の志や列伝に立てられた序)にかんしては、まったくの無駄である。(孔安国有云、序者所以叙作者之意也。竊以書典謨、詩含比興、若不先叙其意、難以曲得其情。故毎篇有序、敷暢厥義。降逮史漢、以記事為宗、至於表志雑伝、亦時復立序。文兼史体、状若子書、然可与誥誓相参、風雅斉列矣。・・・爰洎范曄、始革其流、遺棄史才、矜衒文彩。後来所作、他皆若斯。於是遷固之道忽諸、微婉之風替矣。若乃后妃・列女・文苑・儒林、凡此之流、范氏莫不列序。夫前史所有、而我書独無、世之作者、以為恥愧。故上自晋宋、下及陳隋、毎書必序、課成其数。蓋為史之道、以古伝今、古既有之、今何為者。濫觴肇迹、容或可観、累屋重架、無乃太甚。)

同巻題目
 前代の史書の列伝を見てみるに、巻の題名には一定の決まりがない。(ある程度の規則としては、)文字が簡単な人にかんしては姓名を書く、例えば司馬相如、東方朔。文字がめんどうな人にかんしては姓だけを書く、例えば毋将、蓋、陳、衛、諸葛。(同じ巻に列伝を立てる)人が多くなると、(同巻で)同姓の者がいる場合もでてくる。そのときはまとめ合わせて数を記す、例えば二袁、四張、二公孫。この規則に従えば、十分いきとどくであろう。
 (ところが)范曄の規則となると、人はすべて姓名をともに書くようになったので、短い行となった巻〔人が少ない巻〕がまばらにあり、字を通常より細くした巻〔人が多い巻〕がわらわらとあるありさま。子孫で附伝した者は(逐一)祖先の名の下に注記している。こんなものは世の公文書目録、薬草の解説に類するようなもので、これほどまでに細々としてうるさいものがあるだろうか。
 これ以降、多くの者は范曄に倣うようになった。魏収も范曄に従ったが、とてもひどいものである。・・・およそ、法律の文言が煩雑になること〔原文「滋章」〕は、古人の避けることであった。范曄や魏収のような題目の書き方は、「文言が煩雑になること」のひどい例ではなかろうか。(観夫旧史列伝、題巻靡恒。文少者則具出姓名、若司馬相如、東方朔是也。字煩者唯書姓氏、若毋将、蓋、陳、衛、諸葛伝是也。必人多而姓同者、則結定其数、若二袁、四張、二公孫伝是也。如此標格、足為詳審。至范曄挙例、始全録姓名、歴短行於巻中、叢細字於標外、其子孫附出者、注於祖先之下、乃類俗之文案孔目、薬草経方、煩碎之至、孰過於此。・・・自茲已降、多師蔚宗。魏収因之、則又甚矣。・・・蓋法令滋章、古人所慎。若范魏之裁篇目、可謂滋章之甚者乎。)
 劉知幾は范曄が大嫌いなようですが、いやでもこれ、けっこう范曄すごない? 史書の形式においては、「范曄的転回」とでも言うようなパラダイムシフトがあったことを暗に示しているよね。
 とりわけ、これまで書いてきた拙ブログの記事との関連で言えば、序例の「史書を編纂する能力は軽視され、文飾だけにこだわるようになった」という記述であろう。これはまったく正しい。范曄自身、これは認めるところがあるのではないか。事実、「獄中与諸甥姪書」(『宋書』巻69范曄伝)で次のように范曄は述べている。
(わたしは)もともと史書に関心をもっておらず、いつも難しさを知るばかりであった。『後漢書』を執筆してからというもの、かえって要領をつかんだため、古今の著作や評論を読んでみたのだが、ほとんど満足できるものはなかった。班固の書が最も名声を得ているが、(わたしが思うに)気分のままに書いた文章で統一された規則がなく、(全体的には)優劣つけがたい。巻末の賛は道理においてほとんど得るところがないが、ただ志は悪くない。博識さではかなわないが、形式の秩序の点では(わたしも)劣らないだろう。わたしの書いた雑伝の論は、みな深みのある内容で、切れ味があるのは字句を圧縮したためだ。循吏列伝から六夷列伝の序や論は、筆が伸び伸びと走っており、まことに天下の名文だ。そのうちでも自信作となるのものは、あらゆる部分で賈誼の「過秦論」にひけをとらない。ためしに班固の文章とも比べてみても、たんに恥ずかしくないだけではない(優っている自信がある)。志も作成し、『漢書』が立てている志もすべて備えるつもりであった。(ついにそれはできなかったが、志に関連した)事柄の記述は、多くはないとはいえ、文を読めばできるだけわかるように、さしあたり記述してある。また、事柄に応じて巻内に論を立て、一代の得失を正すつもりであったのだが、結局完全には果たされないままとなってしまった。賛はわたしの文章のうちでも傑作で、ほとんど一字の無駄もなく、変幻自在で、様々な文体を混ぜ合わせており、わたしですらほめかたがわからない。この書物が広まれば、必ずこの価値がわかるものが出るだろう。帝紀や列伝の体裁規則はあらましを説明しただけではあるが、多くの箇所で細心の注意を払っている。いにしえより、これほどまでに体裁が整っていて思考が細密なものはなかろう。おそらく世の人々にはこの書の価値がわかるまい。多くの者はいにしえを尊重していまをいやしむからだ。人間の本性に合致するのは狂言であるというのも、これに由来する。(本未関史書、政恒覚其不可解耳。既造後漢、転得統緒、詳観古今著述及評論、殆少可意者。班氏最有高名、既任情無例、不可甲乙辨。後贊於理近無所得、唯志可推耳。博贍不可及之、整理未必愧也。吾雑伝論、皆有精意深旨、既有裁味、故約其詞句。至於循吏以下及六夷諸序論、筆勢縦論、実天下之奇作。其中合者、往往不減過秦篇。嘗共比方班氏所作、非但不愧之而已。欲遍作諸志、前漢所有者悉令備。雖事不必多、且使見文得尽。又欲因事就巻内発論、以正一代得失、意復未果。賛自是吾文之傑思、殆無一字空設、奇変不窮、同合異体、乃自不知所以称之。此書行、故応有賞音者。紀、伝例為挙其大略耳、諸細意甚多。自古体大而思精、未有此也。恐世人不能尽之、多貴古賤今、所以称情狂言耳。)
 見られるように、范曄は自己の『後漢書』について、文章のできの良さから自己評価を下している。なので、劉知幾が「文飾だけにこだわりやがった ks 野郎」と言うのは間違ってないと思う。
 それにしても范曄はちょっと気持ち悪いくらいの自信家ですね。でもその一方で引用文後半からうかがえるように、少しペシミズムというかニヒリズムというか、そんな感覚ももちあわせていたように感じられます。実際、范曄の列伝を読むと、彼はかなり鬱屈した人生を送っている(それは范曄がわがままなところにも起因すると思うけど)。自分が面白いと思ったことはとことんやるし、事実自分がやってきたことはすべて面白い、自分はやりたいことだけやるんだと、そういう自信のようなものを強く抱いている一方で、誰も理解者はいないだろうという、他者や社会への冷めた目線ももちあわせているわけで。そうなると、彼はますますやりたいことだけやって、自分のやっていることだけを面白いと思うのでしょうね。「努力やがんばりなんて自己満足でいいじゃん」と言う人もいますが、それは違うと思います。人生をかけてまで費やしたその先に自己満足しか得られなかったら、虚しいでしょ、そりゃ(とは言いつつ、わたしはそういうニヒリズムから出発しないといかんとも思います)。

 なんか話がそれてしまったが、「天下之奇作」(自称)たる『後漢書』の序や論は、じつはあんだけ范曄を嫌ってる劉知幾も評価しているんですわ(『史通』論賛)
陳寿以降、(論の体裁は)勝手気ままになって根本に立ち返ることをせず、たいてい、実質よりも華美で、道理は文飾より少なく、立派で美しい文章を自慢するばかりであった。そのうちでもよい者を選ぶとしたら、干宝、范曄、裴子野が最もよく、沈約、臧栄緒〔『晋書』〕、蕭子顕はその次によい。孫盛はダメにもほどがある。習鑿歯はたまにはよかろうもん。袁宏は玄学的な言葉の文飾に一生懸命で、謝霊運〔『晋書』〕は立派そうな論をおおげさに書いているが、「底のない玉製のさかずき」〔『韓非子』外儲説右上〕のようなもの、見た目は立派でもなんのありがたみもない、話にならん。王劭〔『斉志』〕は文意こそ簡明であるものの、言葉がきたなすぎる。かりに道理があったとしても、結局彼の文章は心に残るまい。孔子は「人の過ちを見てその人が仁者かどうかがわかる」と言っているが、王劭のような者のことを言うのだろう。(自茲以降、流宕忘返、大抵皆華多於実、理少於文、鼓其雄辞、誇其儷事。必択其善者、則干宝、范曄、裴子野是其最也、沈約、臧栄緒、蕭子顕抑其次也。孫安国都無足採、習鑿歯時有可観。若袁彦伯之務飾玄言、謝霊運虚張高論、玉巵無当、曾何足云。王劭志在簡直、言兼鄙野、苟得其理、遂忘其文。観過知仁、斯之謂矣。)
 というわけで、范曄の文章がよいことは劉知幾自身も認めていたようです。また最後の王劭に見られるように、きちんときれいな言葉で書くべきだ、っていうのは彼も意識していたようだ。まあというかこの時代の史書は「きれいに書く」ことは当然の通念だったと思うので、とくに不思議はないが(劉知幾はやりすぎるなと言っている)。
 最後に、范曄のいでたちについて。
范曄は身長七尺(=約170センチ)にも満たず、太っていて色黒で、眉とあごひげがなかった。(曄長不満七尺、肥黒、禿眉鬚。)
 うむ・・・なんか予想外な感じがしますね。

2013年12月3日火曜日

歴史の言語的想像力

要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
――H. White, Metahistory

「心に現われた考えを表現する」という言い方は、言葉で表現しようとするものが、ただ別の言語によってではあるが既に表現されている、そしてこの心に現われており、ただこの心的言語から話し言葉にそれを翻訳すればよい、と思わせる。しかし、「考えを言い表す云々」と我々が言うほとんどの場合に、それとは非常に違ったことが起こっている。ある言葉を模索している、といった場合に何が起きているかを考えてみたまえ。あれこれの語が浮かんでくる、私は拒否する、最後に一つの言葉が提案され、「これこそ私の意味したものだ」と言う具合だ。
――ウィトゲンシュタイン『青色本』


 歴史学における「想像力」を問題としたヘイドン・ホワイト。日本の学界では「物語(り)論」の祖のような扱いを受け、それなりに著名である。たしかに彼の名を一躍知らしめた著作Metahistoryにおいて、歴史著作を「筋立て」などの構造をもつ「物語(story)」と見なして分析する「形式論(Formalism)」を展開しているわけだが、その「物語」という表現にとらわれて彼の著作のポイントを見落としてはならない。
 だが、いずれにせよ、弁証法的な歴史説明は〔説明の対象性質に内在しているのではなく〕文脈のうちに展開されるのであり、ここで言う文脈とは、歴史の対象領域の型にかんする首尾一貫した観方、ぴったりしたイメージのことである。この文脈こそが個々の思考家が使用する表象概念に合理的な全体性をもたらす。この首尾一貫性と合理性こそ、歴史化の仕事に彼独自の文体的特徴を与えるのである。ここで問題となるのは、説明の首尾一貫性や合理性を支える要素を明らかにすることである。私のみるところ、本質的にそれらの要素は詩的なもの、とりわけ言語的なものであると思われる。
 歴史家は、表象や説明に利用する概念的道具を、歴史の対象領域の資料に適用するまえに、まず必ず歴史の対象領域をあらかじめ形象している。――換言すると、歴史家は心的に認識した対象によって歴史の対象領域を構築しているのだ。歴史家のこの詩的な活動は、言語的活動となんら変わらない。言語的活動は、ある領域が特定の領域として解釈されることに決定しているときになされる。すなわち、与えられた歴史の領域が解釈を受ける以前に、認識可能な形象が内包した場として、その領域はすでに解釈されていなければならない。ついで、領域にある形象は目・類・属・種として分類することが可能な現象だと見なされるようになる。ここからさらに、その形象は別の形象と関係づけられ、その関係づけの変化が「課題」を設定せしめ、その「課題」は叙述の筋や世界観の次元によってもたらされる「説明」によって解決されるのである。
   英語の拙訳でもうしわけないが、つまりは、歴史家の叙述に見られる説得力(首尾一貫性、合理性)は、あくまで説明がうまいかどうかといった言語的問題ですよということ(説得力はその説明の真偽に関係ない。ウソっぽい話でも論理的で合理的な筋を通すことはできるよね。例は挙げないけど想像はしてもらえると思う)。しかし、言語でいろいろ書く前に、歴史叙述の対象にしようとしている世界空間をすでに想像しているんじゃないか? ホワイトはそのように問う。あの出来事はこういう性質のものだ、一方であの出来事はさっきの出来事の付随的なやつだな、・・・云々。こうして様々な出来事が関係づけられ、歴史的な世界空間が頭のなかに創出される。ホワイトは、この記述前の作用を重視し、この作用を「想像力」とも「詩学」とも彼は呼ぶ。ミソとなるのは、記述に先行する作用でありながらも言語的な作用である、ということだろうか。
 要するに、歴史家の問題とは、言語的な規則を構築すること、それは語彙・文法・統語・意味論の次元を完備するということである。規則の構築は、歴史の対象領域、およびその領域に散在する諸要素を彼独自の言語(というより、文書を整理する独自言語)によって特徴づけることでおこなわれる。そして構築された言語規則にもとづくことで、歴史家が歴史叙述に使用する説明や表象の言語がもたらされるのである。つづいて、概念に先立って構築されたこの言語規則は――その規則は本質的に先行形象化作用の性質がもたらす効力であるのだが――歴史の対象領域の型となる修辞様式にしたがって、特徴づけられる。
 ・・・過去に「実際にはなにが起こったのか」を形象するためには、歴史家はまずあらかじめ、文書に記録されたあらゆる出来事を、知識として認識可能な対象に形象しなければならない。この先行形象化活動は、詩的である。その活動が歴史家の歴史意識を未来予知的な歴史叙述に散りばめる限りで、または構造を構成する限りにおいて、すなわち「実際にはなにが起こったのか」を表象、説明する際に歴史家が用いる言語様式によって、構造がイメージづけされる限りにおいて、先行形象化活動は詩的なのである。
 現象は言語的に形象される。「~~は進歩と言うことができる」、「・・・は因果関係にあると言える」。ある現象の正しい言語表現はなにか、いや、ここで彼が述べているように、「その人にとって」適切と思える言語表現はなにか。まずはじめに、言語を使ってそのような想像がなされるのである(言語を抜きにした想像行為などありえない)。そのような意味で、まずなされるのは言語規則の構築なのだと彼は言う。現代のように先行研究のパラダイムにのっかっているとそんなことを意識することはまれだが、近代歴史学の祖たちをかえりみれば、たしかに彼らのやってきたことは言語表現の開発だと言ってもそれほどおかしくはない(六朝の「貴族」とかまさに)。歴史的な世界とは言語的に想像/創造されるのだ、端的に言うとそんな感じでしょうか。
 とまあ、これはわたしの拙い英語力と乏しい(英米)哲学の知識で読解したホワイトの主張なので、精確にはまちがっているかもしれません。ただ、今回わたしがこんなことを記事にしたのは、先日わたしが記事にしたテーマである「中国史学における文学性」を考えるうえで、多大な示唆を与えてくれると思うからです。

2013年12月2日月曜日

話し言葉と書き言葉の交錯

教養言語、文語はすべて、本の中に独自の存在領域を持つようになります。これは人の口という普通の領域から独立した、異なる伝播の領域です。本のための言語の用法が確立し、正書法と呼ばれる本のための文字表記のシステムが確立します。本が会話と同じくらい大きな役割を果たすのです。
――フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』



 六朝時代は言語に対する感性がとくだん研ぎ澄まされた時代。『世説新語』文学篇の以下の逸話は、中国における言語観をよく示しているんじゃなかろうか。
楽尚書令は清談を得意としていたが、文章を作るのは不得手であった。河南尹を辞退しようとしたとき、(文章の上手い)潘岳に(自分の代わりに辞退の旨を告げる)上表文を書いてくれないかと頼んだ。潘岳、「書きましょう。あなたのおっしゃりたいことを言ってください」。楽広は辞退する理由を言葉にしてみたが、二百語を数えるばかり。(ところが)潘岳はすぐに言葉を拾って組み合わせ、たちまち名文に仕上げてしまった。当時の人々はこう言いあったそうだ。「もし楽どのが潘どのの文章を利用できず、潘どのが楽どのの考えを得なかったら、あれを作るのは無理だったろうさ」(楽令善於清言、而不長於手筆。将譲河南尹、請潘岳為表。潘云、「可作耳、要当得君意」。楽為述己所以為譲、標位二百許語、潘直取錯綜、便成名筆。時人咸云、「若楽不仮潘之文、潘不取楽之旨、則無以成斯矣」)
 書き言葉と話し言葉の明確な技法の違い。同じ言語であってもそれぞれが創り出す世界はまったく違うのだと言わんばかりの言語世界観を見せてくれているじゃありませんか。話し言葉のほうが書き言葉よりより純粋なのだとかそういう優劣思想もここには見られないね。
 ここで范曄を挙げておこう。彼の最期の作品「獄中与諸甥姪書」(『宋書』巻69本伝)では以下のように自己の人生が回想されている。
 私は若いころ学問を怠けたために、一人前になるのが遅れ、三十歳ばかりになってようやく方針が定まったほどだ。それ以来、しだいに心境が変わり、すぐに老いがやってくるからと考え(学問に打ち込むようになっ)たが、いまだ完成していない。しばしば少し理解できたことがあっても、言葉では表現し尽くせなかった。(かといって、)注釈を調べない性格だったので、心中わだかまりがあっても、ちょっと悩んでは、(うまく表せずに)いらいらするといった状態だった。口弁も得意でなかったので、清談の業績もない。(そのため)理解できたことに関しては、すべて自分の胸中にしまい込むだけであった。
 文章はかえって上達するようになったのだが、才能に乏しく、発想も貧しかったので、筆を取るたびに書いた文章は、ほとんどすべて褒められたものでなく、いつも文士とされることが恥ずかしかった。(ところで、)文章の弊害としては、叙述が対象の描写に終始すること、心が修飾に集中すること、語の意味が文章全体の趣旨を損なうこと、韻の調整のために文意が変更させられることが挙げられる。たまに文章の上手い者がいても、おおよそこれらの弊害からは逃れられておらず、(そうであっては)うまい絵画のようなもので、とうとう(本当の文章を)得られない。(書くために書いたり、外観に専念したりして、内容をおろそかにしてはならない。)いつも思うに、(文章は)心をかこつけるものだから、まさに意図を第一とし、言葉に文飾を施してその意図を表現するべきだ。意図を第一とすれば、その文章の趣旨が必ずはっきりするし、文飾を施してその意図を表現すれば、その文章は印象に残る。こうしたことを踏まえた後で、(さらに修飾を加え)良い香りをただよわせ、美しい音色を響かせるようにするのである(吾少懶学問、晩成人、年三十許、政始有向耳。自爾以来、転為心化、推老将至者、亦当未已也。往往有微解、言乃不能自尽。為性不尋注書、心気悪、小苦思、便憒悶。口機又不調利、以此無談功。至於所通解処、皆自得之於胸懐耳。文章転進、但才少思難、所以毎於操筆、其所成篇、殆無全称者、常恥作文士。文患其事尽於形、情急於藻、義牽其旨、韻移其意。雖時有能者、大較多不免此累、政可類工巧図繢、竟無得也。常謂情志所託、故当以意為主、以文伝意。以意為主、則其旨必見、以文伝意、則其詞不流。然後抽其芬芳、振其金石耳)
 口下手な彼も文章は超一流の腕前にまでみがきあげたというところがわたしのお気に入りの箇所。なんかまあ、口頭でうまくしゃべれんだけで「コミュ障」とかいうことを言い出すどっかの社会がアレですね。
 ところで、さりげなく触れられているだけだが、韻=リズムのことが述べられている。この時代(に限らないが)、文章はすべて声に出して読まれるべきものであり、音読したときのリズム(韻)が美しくないと文章としてはイカンというわけだ。范曄は、リズムにとらわれ過ぎて文意がダメになってしまうというやり過ぎを批判していたわけです。
 文章はすべて声に出して読まれるべきだ、というこの発想。案外重要な考えだと思う。というのも、これは史書を読むときにも該当したようだからなのだ。
当時、『漢書』はたいへん尊重され、学者はみな暗誦したほどであった(当世甚重其書、学者莫不諷誦焉)
 『後漢書』伝30上・班彪伝附固伝にあるちょっとした記述だけど、「諷誦」(暗唱・朗読)は見逃せない記事なんじゃなかろうか。『漢書』という史書といえど、それは一種の文章作品としても愛好されたわけである。
 中国は「歴史」の国だとよく言われる。だが、すこぶる近代的な概念である「歴史」や「歴史学」を見かけだけ中国古代にあてはめるのは慎重になったほうがよいかもしれない。たしかに、中国では史書は古くから記述されてきたし、史学の伝統も長い。が、それら「史学」や「史書」はわたしたちが現代的に使用する「歴史学」や「歴史書」と同じようなニュアンスで表現して良いのだろうか。そこにわたしは違和感を覚えることがある。
 そんだけです。すんませんでした。