2014年1月25日土曜日

皇后の諡号

 晋朝皇后の諡号を列挙してみる。

楊艶(武帝皇后)→元
楊芷(武帝皇后)→悼
賈南風(恵帝皇后)→無し
羊献容(恵帝皇后)→無し
王媛姫(武帝中才人)→不明?(懐帝の母、即位と同時に追尊)
虞孟母(元帝皇后)→敬
庾文君(明帝皇后)→穆
杜陵陽(成帝皇后)→恭
褚蒜子(康帝皇后)→献
何法倪(穆帝皇后)→章
王穆之(哀帝皇后)→靖
庾道憐(廃帝海西公皇后)→孝(廃帝在世中に死去、廃帝が廃されると海西公夫人に格下げ)
鄭阿春(元帝夫人)→宣(簡文帝の母、即位と同時に追尊)
王簡姫(簡文帝皇后)→順
李陵容(孝武帝皇后)→文
王法慧(孝武帝皇后)→定
陳帰女(孝武帝夫人)→徳(安帝の母、即位と同時に追尊)
王神愛(安帝皇后)→僖
褚霊媛(恭帝皇后)→思


 と、挙げてはみたけど、今回の主旨はこれらの諡号から一般法則を取りだすとかそういうものではない。見てきたように、晋代では皇后への諡号はごく当然のこととして行なわれているが、『史記』、『漢書』をもっている人は確認してみて欲しい。前漢では皇后に諡号を贈っているだろうか? 贈っていませんね。
 じゃあ、皇后に諡号を送るしきたりはいつごろ形成されたのだろうか。この疑問に答えてくれるのが、『後漢書』紀10皇后紀・下に范曄が立てた「論」である。
漢の時代、皇后には諡号がなく、みな夫であった皇帝の諡号を使用して呼称としていた。呂氏は朝政をもっぱらにし、上官氏〔昭帝皇后〕は称制〔皇帝代行のようなもの〕したが、それでも特殊な称号は贈られなかった。後漢になると、明帝は初めて(光武帝皇后の陰皇后に)「光烈」の称号を贈り、その後はみな(皇帝の)諡号に「徳」を加え、賢愚優劣に関わりなく、一律にそのようにした。ゆえに(明徳)馬皇后、(章徳)竇皇后もともに「徳」と称されているのである。その他は側室の子や封建された皇族が帝位を継承した際に、追尊の重要性を理由に、特別に称号を(母へ)贈ったのみであり、(和帝の母の)恭懐梁皇后や(桓帝の母の)孝崇匽皇后らがその例である。初平年間、蔡邕が初めて諡号の規範をさかのぼって正し、(和帝皇后の鄧太后に)「和熹」の諡号を贈り、安帝皇后の閻皇后、順帝皇后の梁皇后より以下は、みなこれに倣って諡号が(追尊されて)加えられたのである。(漢世皇后無諡、皆因帝諡以為称。雖呂氏専政、上官臨称、亦無殊号。中興、明帝始建光烈之称、其後並以徳為配、至於賢愚優劣、混同一貫、故馬竇二后俱称徳焉。其余唯帝之庶母及蕃王承統、以追尊之重、特為其号、如恭懐孝崇之比、是也。初平中、蔡邕始追正蔡邕和熹之諡、其安思順烈以下、皆依而加焉。)
 李賢の注もあるので、参照してみよう。
『蔡邕集』「諡議」に言う、「漢代、母には諡号がありませんでしたが、明帝のときに初めて「光烈」の称号を建てました。これより後、(決まりが)変わって皇帝の諡号に「徳」を加え(た二文字を皇后の諡号とし)、優劣関係なく、一律にこの規則に従っていますが、これは『礼記』の「大いなる行ないは大いなる名号を受け、小さな行ないは小さな名号を受ける」の制度に違っています。『諡法』に「功績があって人々を安んじたことを『熹』と言う」とあります。皇帝と皇后は一体でありますので、(皇后に関する)礼も(皇帝と)同じように処するべきでありましょう。(行ないに関係なく、すべて『徳』にしてしまうのは間違っておりますし、偉大な業績を残した鄧太后を十分に顕彰することができません。皇帝と同じように、行ないに応じて個別の諡号を贈るべきです。)鄧皇太后の諡号は「和熹」とするべきだと考えます」。(蔡邕集諡議曰、「漢世母氏無諡、至于明帝始建光烈之称、是後転因帝号加之以徳、上下優劣、混而為一、違礼大行受大名、小行受小名之制。諡法有功安人曰熹。帝后一体、礼亦宜同。大行皇太后諡宜為和熹」。)
 少しわかりにくい面もあるので、整理しておこう。
 前漢→諡号無し。
 後漢明帝期→母の陰太后(光武帝皇后)が崩ずると、「光烈」を贈る。「光武」から一字を取ったようだ。
 後漢章帝期→母の馬太后(明帝皇后)が崩ずると、「明徳」を贈る。以後、皇帝の諡号+「徳」。
 後漢和帝期→和帝、生母の梁貴人に「恭懐」の諡号を贈る(和帝の父は章帝。和帝は章帝の皇后である竇皇后とのあいだの子ではなかった)。
 後漢桓帝期→桓帝、生母の匽氏に「孝崇」の諡号を贈る(桓帝の父は和帝の孫にあたる皇族。この皇族と側室とのあいだに生れたのが桓帝。桓帝は即位の翌年、皇帝にはなっていない父に「孝崇皇」の諡号を贈っている。したがって、生母の諡号は父の諡号と同じことになる)。
 後漢献帝期→蔡邕、一律にすべて「徳」とするのはおかしいと建議。あわせて和帝皇后の鄧皇后の諡号は「和熹」に改めるべきだと提案(明記はされていないが、これまでの鄧皇后の諡号は「和徳」だったのだろう)。採用されると、鄧皇后のほかにも、安帝皇后の閻皇后、順帝皇后の梁皇后、桓帝皇后の梁皇后にそれぞれ「思」、「烈」、「懿献」がさかのぼって贈られる。

 皇后に諡号を贈るということ自体は、明帝期に始まったが、章帝以後、そのしきたりはかなり規則的であったようだ。皇帝の諡号が決まっちゃうと自動的に皇后の諡号も決まるわけで。皇后には必ず「徳」をつけるっていうのは、漢代の皇帝はすべて「孝」をつけるってしきたりと似ているね。
 これが改められたのはなんと後漢の末。そのときになって、後漢中期の鄧皇后の諡号が改正されたというのだから、いまさら感がすごいっすね。ていうか、なんで明帝皇后や章帝皇后は追尊しなかったんだ・・・?
 ともかく、後漢末に定まった規則によって、
皇帝⇒「孝」+個別の諡号
皇后⇒皇帝の個別諡号+皇后個別の諡号
となったわけですな。構造としてみれば両者とも似通っている。すなわち、前の一字は自動に、規則的に決定されるのにたいし、後ろの一字は当事者の行動や業績次第で決まる。

 ところで、冒頭に掲げた晋朝皇后の諡号一覧には、皇帝の諡号が加えられていない。後漢以後、皇帝の諡号がつくという風習はなくなってしまったのだろうか、というとそれはわからない。
 じつは、『晋書』巻31・32の皇后伝・上下をみると、各皇后の列伝の見出しは「武元楊皇后」とか、「元敬虞皇后」、「明穆庾皇后」、「簡文宣鄭太后」となっている。それをわたしは、意図して「皇帝の諡号を除いた部分」を冒頭に挙げておいたのです。
 そういうことをしておいてこう言うと開き直りのように聞こえるかもしれんですが、魏晋以後の皇后諡号は皇帝の諡号を省略してかまわんのではないかと思うのです。精査したわけでもないですが、ざっと見た感じ、「元后」、「靖后」、「宣太后」などと皇后を呼称しているし、『宋書』を見ても、「有司奏諡宣皇后」、「諡曰昭皇太后」などとあるのを見ると、皇帝の諡号は省略される傾向にあったか、そもそもそのしきたりは廃されていたか、どちらかだと思う。
 まあ、よく考えたらそうですね。前漢のように「衛皇后」とか言ってたら区別つかないから、「孝武衛皇后」としたり、「徳皇后」では誰のことかわからんから「明徳」としていたのであって、皇后に個別でほかの誰ともかぶらない、唯一の諡号が贈られることになったのであれば、その諡号で呼んだほうが手っ取り早いからね。わざわざうるさく、皇帝の諡号をつけなくても伝わるのだ[1]

 しかし、この現象をどのように捉えたらよいだろうか。皇后としての役割への重視、妻かつ母という人に対する感性の変化、等々。そんなところ?
 この点で示唆に富むのが下倉渉先生の論文「漢代の母と子」(『東北大学東洋史論集』8、2001年)である。下倉氏は、工藤元男先生らに代表される雲夢睡虎秦簡研究(=母の身分が子の身分に関係していたという指摘)を基礎にし、漢代(主に前漢)にも「母」を媒介とした血縁関係の広がりが広範に見られたことを指摘している。政治的には、外戚の輔政という協同観念(頼る黄帝と守ろうとする外戚)に象徴されているという[2]
 しかし、六朝期になると、「母の原理」は「父の原理」の後景に退いてしまった。政治的な現象としてみれば、宗室=父系同族が政治理念の根幹に据えられたことに象徴されている[3]
 晋朝にもいちおうマザコンっぽい皇帝はいるが・・・外戚の輔政っぽいのもたびたび起っているしね(庾冰兄弟、褚裒)[4]。しかし、詳しく調べたことがないので、このへんにかんするわたしなりの意見というのはとくにあるわけではない。たんに、下倉氏が重視する漢代の「母の原理」と皇后へ諡号を贈る慣習の確立とはなんらか関係はあるのだろうか、という点で気になるにすぎない。
 このことを考えていくうえで、さしあたり注意しておきたいのは、皇后が媒介して実際の人間関係が結ばれることと、礼制上で皇后の位置づけが上がっていくことは、慎重に区別されるべきであると思われることだ。とりわけ、六朝期に関しては、礼制が全般的に精密化していった時代なだけに、一見すると皇后の待遇はあがっているように見えそうである。が、本質的なところでは、秦代や漢代における重視のしかたとまったく違っている、というのはありえそう。まあ、簡単な問題ではありませんわな、おそらく(というか礼制関係の史料を読むのがめんどくさそう)。


――注――

[1]このように、後漢が皇后への諡号慣習のはじまりと確立の時代であったと見れば、范曄が『後漢書』で「皇后」を立てたのも、わからんでもない気がする。そこまでの意図があったのかどうかは知らないけど。以前、范曄が史書の記述形式を創出したことを論じたことがあるが、ただこの皇后は、沈約にも唐修晋書にも継承されなかった。[上に戻る]

[2]下倉氏は、「母を基点・結節点として異父の兄弟姉妹や母党の族員と血縁的な絆意識を当時の人々は堅持していた」という、このような親族観念を「母の原理」と名づけている。「父の存在が当該期に全く等閑視されていたと言いたいのではない。『母の原理』が『父の原理』と同等に人間関係を形成する上での重要な原理として有効性を発揮していたと主張したいのである。・・・この『母の原理』は、皇帝を中心とする関係にあっても最も機能的な役割を果たしたのである。皇帝は母后の生族を頼みとし、母族も出嫁女性の子である皇帝を守り立てようとした。『母の原理』に基づく皇帝と外戚のこうした相互的な関係が、外戚保翼の慣行を生み出し、更にその当権・擅朝なる事態を招来するに至ったのである」(p. 39)。[上に戻る]

[3]同論文p. 40。もっとも、これはあくまで「一つの見通し」だと述べられている。[上に戻る]

[4]少し長くなるが『晋書』巻77何充伝を引用しておこう。
 「庾冰ら兄弟は成帝の舅〔成帝の母・明穆庾皇后は庾亮らと兄妹〕であることから、王室を輔佐していたが、その権勢は主君にも等しいほどであった。庾氏は、皇帝が代替わりすると外戚は没落してしまうことを不安に思い、ちょうど外敵が攻めてきたことを機会に、康帝、すなわち成帝の同母弟を皇帝に擁立しようと画策した。いつも成帝に対し、『国家に強大な敵が存在する場合、(国家は)優れた君主を必要とするのです』と説き、(暗に退位しろと言っていたが、)成帝はこれを聴きいれた。・・・(何充は反対したが、とうとう庾氏の成帝退位・康帝即位が実現した)・・・。康帝が即位し、朝堂にのぞむと、庾冰と何充がそばにつきそって座った。帝、『朕が帝業を継ぐことになったのは、二人の力である』。何充、『陛下が即位できたのは冰のお力があったからです。臣の意見が採用されていれば、(わたくしどもは)陛下の太平の治世をお目にかかることができなかったでしょう』。康帝は恥じ入った(庾冰兄弟以舅氏輔王室、権侔人主。慮易世之後、戚属転疏、将為外物所攻、謀立康帝、即帝母弟也。每説帝以国有強敵、宜須長君、帝従之。・・・既而康帝立、帝臨軒、冰充侍坐。帝曰、『朕嗣鴻業、二君之力也」。充対曰、『陛下龍飛、臣冰之力也。若如臣議、不覩升平之世」。帝有慚色)」。
 「(康帝の建元年間、)庾翼が北伐を計画していたが、(庾翼の計画に協力する予定の)庾冰は江州に出鎮していた。何充は(京口から)朝廷に入ると、康帝に進言した、『臣冰は舅という重要な人物でございますから、宰相につけるべきです。遠くに行かせてはなりません』。朝議はこれを採用しなかった(庾翼将北伐、庾冰出鎮江州、充入朝、言於帝曰、『臣冰舅氏之重、宜居宰相、不応遠出」。朝議不従)」。
 「康帝の病気が急変して重くなった。庾冰と庾翼は簡文帝を後継者にしようと思っていたが、何充は(康帝の子を)皇太子に立てるよう建議し、奏上して採決され(すぐに皇太子が立てられ)た。康帝が崩御すると、何充は言いつけに従い、すぐに皇太子を皇帝に立てた。これが穆帝である。庾冰、翼はこれをたいへん悔しがった(俄而帝疾篤、冰翼意在簡文帝、而充建議立皇太子、奏可。及帝崩、充奉遺旨、便立太子、是為穆帝。冰翼甚恨之)」。
 穆帝は即位時2歳。褚皇后が皇太后となり、政治を執った。褚太后の父・褚裒はこれを機に中央に召され、重職に就く(たいした活躍はできなかったけど)。升平元年、穆帝が成人すると、同年にはさっそく皇后を立てた。皇后は何氏。ええ、何充の弟の娘です、コレが。しかしまあ、何充は穆帝即位後数年で亡くなっているけどね。[上に戻る]

2014年1月22日水曜日

唐の皇帝ってかっこいいよなあ!?

 唐皇帝の諡号の変遷を調べてみた。

李淵(廟号:太祖)
太武(貞観九年)→神堯(上元元年)→神堯大聖(天宝八載)→神堯大聖大光孝(天宝十三載)

李世民(太宗)
(貞観二十三年)→文武聖(上元元年)→文武大聖(天宝八載)→文武大聖大広孝(天宝十三載)

李治(高宗)
天皇大帝(文明元年)→天皇大聖(天宝八載)→天皇大聖大弘孝(天宝十三載)

李顕(中宗)
孝和(景雲元年)→孝和大聖(天宝八載)→孝和大聖大昭孝(天宝十三載)

李旦(睿宗)
大聖玄真(開元四年)→玄真大聖(天宝八載)→玄真大聖大興孝(天宝十三載)

李隆基(玄宗)
至道大聖大明孝(広徳元年)

李亨(粛宗)
文明武徳大聖大宣孝(宝応二年)

 「○○+大聖+大○+孝」っていう構造になっててわかりやすいね!

 さて、粛宗のあとを継いで即位した代宗の治世中(大暦十四年)、顔真卿がこれら歴代皇帝の諡号について、大胆な提案をしている(『唐会要』巻2帝号雑録)
高祖から粛宗までの七帝の廟号、諡号は文字がとても多く、皇帝であれば必ず「大聖」、皇后であれば必ず「順聖」の称号がついておりますが、もしこれらの称号を(使用して)話をすれば(誰を指しているかわからないので)現代に混乱をひきおこしますし、(また)これらの称号を(このまま)採用するのは過去のしきたりからはずれています。どうか高祖以下の皇帝の諡号は、すべて最初の諡号を採用して決定版といたしてくださいますよう。かつての制度を調べまして、諡号を提案いたします。すなわち、高祖が武皇帝、太宗が文皇帝、高宗が天皇大帝、中宗が孝和皇帝、睿宗が聖真皇帝、玄宗が孝明皇帝、粛宗が孝宣皇帝、廟号はそのままといたします。漢魏および聖朝の故事に準拠されますよう、お願い申し上げます。(高祖至粛宗七聖、廟号諡号、文字繁多、皇帝則悉有大聖之号、皇后則尽有順聖之名。使言之者惑於今、行之者異於古。請高祖以下累聖諡号、悉取初諡為定。謹按旧制、上諡号、高祖為武皇帝、太宗為文皇帝、高宗為天皇大帝、中宗為孝和皇帝、睿宗為聖真皇帝、元宗為孝明皇帝、粛宗為孝宣皇帝、其廟号如故。仍請準漢魏及国朝故事。)
 たしかに、受験生にたいして「唐の皇帝の号を漢字で書け(廟号は不正解とする)」という問題が出たらクレームが出るだろう[1]。教科書なんかでは唐以降の皇帝を廟号で呼ぶのも、諡号がやたら長いという事情が関連しているんでしょうか、あんまり知らんけど(明清にいたっては元号で呼ぶよね)[2]
 顔真卿の建議はどうなったのだろうか。顛末を見てみよう。
そこで尚書省で審議させた。当時、諡号の規則はころころ変わることが多かったので、儒学を規範としていた臣下たちのあいだでは、これを改め(て正し)たいと考えている者たちが以前からいたのであった。(そんなときに)ちょうど顔真卿が上奏してきたので、これでしっかり正すことができるとみなで言い合っていた。しかし尚書兵部侍郎の袁傪、この者は軍事の業績でここまで出世したのであって、古典的な教養なぞまったく備わっていなかったのだが、「山陵の霊廟に奉じた玉製の冊書にはすでに諡号を刻んでしまっています。軽々に改めるべきではありません」と上言した。こうしてとうとう、沙汰止みになったのである。袁傪はなんにもわかっていないやつである。山陵に奉ずる玉冊は、実際には最初の諡号を刻むのであり、後世の追尊があったとしても、冊書の文字は改めないのである。(乃令尚書省議之。時以諡号前後不経、儒学之臣、思改者久矣。会真卿上奏、皆謂必克正焉。而兵部侍郎袁傪、官以兵達、不詳典故、乃上言、陵廟中玉冊既刊矣、不可軽改。遂罷之。傪曾不知陵中玉冊、実紀其初号、後雖追尊、而冊文如故。)
 というわけで、神堯大聖大光孝皇帝は神堯大聖大光孝皇帝のママとされたのでした。ていうか、袁傪以外の人はそのことがわからんかったのかね。だとしたら袁傪を責めるのではなく、袁傪を批判しなかった人たちに問題があるとするべきではないだろうか・・・。



――注――

[1]もちろん、ハイレベルな者なら「この場合の『号』とは諡号なのか、即位前の爵位のことなのか、それとも自称としての号なのか、判然としないので、複数の『号』を有している皇帝に関してはすべて併記する」という回答を記述するにちがいない。[上に戻る]

[2]余談だけど、漢の皇帝は「孝」を諡号に必ずつける規則があったらしいじゃない。孝文皇帝、孝武皇帝、孝宣皇帝、・・・。この規則は、宣帝期に和親を締結して以後の匈奴単于の称号にも取り入れられたらしい。『漢書』巻94匈奴伝・下「匈奴の言葉では『孝』を『若鞮』と言う。呼韓邪よりのち、匈奴は漢と親密になり、漢が皇帝に『孝』とおくりなしているのを知って、倣うことにした。そのため呼韓邪以後の単于はみな『若鞮』を単于の称号に加えているのである(匈奴謂孝曰若鞮。自呼韓邪後、与漢親密、見漢諡帝為孝、慕之、故皆為若鞮)」。東匈奴の単于の順番は次の通り。呼韓邪単于→復株絫若鞮単于→搜諧若鞮単于→車牙若鞮単于→烏珠留若鞮単于→烏累若鞮単于→呼都而尸道皋若鞮単于。なお、復株から呼都而尸までの単于はすべて呼韓邪単于の息子。たしか単于号は生前に名乗るんだったかな、呼韓邪に「若鞮」がついてないのはそういう事情だと思う。呼都而尸単于は新末から更始帝期に匈奴を一時期強盛せしめた単于輿のことですが、単于輿の死後、烏珠留若鞮単于の子の比がいざこざを起こして新単于から独立、呼韓邪を名乗って後漢に帰属していきます(南匈奴の成立)。[上に戻る]

2014年1月18日土曜日

『宋書』百官志訳注(5)――卿(光禄勲・衛尉)

 光禄勲は一人。丞は一人[1]。「光」とは「明」、「禄」とは「爵」、「勲」とは「功」のことである[2]。秦では郎中令と言い、漢はこれを継承していたが、漢の武帝の太初元年、光禄勲に改称した[3]。三署郎〔五官中郎、左中郎、右中郎〕を管轄する。郎は戟を持って宮殿の門を警備する。光禄勲は宮中におりながら(宋の?)殿中御史のような仕事〔取締り、弾劾〕をし[4]、宮殿の門外に(光禄勲が管理する)獄があるが、これを光禄外部と言う[5]。光禄勲は郊祀の際には三献を担当する[6]。魏晋以来、光禄勲が宮中で勤務することはなくなり、また三署郎も廃されたので、ただ外朝の朝会のときだけ、(卿の)名分によって参列しているだけである[7]。二台〔尚書台と御史台?〕が(ある人物の)罪を奏上して弾劾すれば、朝廷に出入りするための身分証明の符に、光禄勲が禁止を加え、禁止を解くときも光禄勲が担当した。禁止とは、宮殿や役所に入れないことを言い[8]、(これを光禄勲が担当するのは)光禄勲は宮殿の門のことを管轄しているからである。宮殿門戸の仕事は、現在でも光禄勲の管轄下である[9]。晋の哀帝の興寧二年、光禄勲を廃し、司徒に併合した。孝武帝の寧康元年、復置された。東漢のとき、三署の郎に振舞いが四科[10]にかなっている者がおれば、(そのなかから)毎年茂才二人、四行二人を推挙させていた[11]。三署郎が廃されても、光禄勲は旧制同様、四行を(毎年)推挙し、高官の子弟をこれにあてていた。三署とは、五官署、左署、右署のことであり、それぞれに中郎将を置いて管轄させていた。郡が孝廉を推挙すると、(その者を)三署郎に配し、(もし)年齢五十以上の孝廉であれば五官署に配し、それより下の者は左・右署に分配した。およそ郎には中郎、議郎、侍郎、郎中の四ランクがあり、定員は無く[12]、多いときは一万人にも登った。
 左光禄大夫、右光禄大夫の二大夫は晋の初めに置かれた。光禄大夫は、秦のときは中大夫であったが、漢の武帝の太初元年に光禄大夫に改称されたのである。晋の初めに左・右光禄大夫を置いたが、光禄大夫はもとのまま置かれた。光禄大夫は銀章青綬、尊重されれば金章紫綬を加えられ、これを金紫光禄大夫と言う。旧制では秩比二千石である[13]
 中散大夫は、王莽が置いた官で、後漢はこれを継承した。前漢の大夫はみな定員が無く、議論することが職掌であった。後漢では光禄大夫は三人、(太)中大夫は二十人[14]、中散大夫は三十人であった。魏以来、再び定員が無くなった。左光禄大夫以下は、老人や病人を養うための官となり、定まった仕事は無かった[15]。中散大夫は六百石。

 衛尉は一人。丞は二人。宮(城の?)門に駐屯して護衛する兵を掌る[16]。秦の官である。漢の景帝の初め、中大夫令に改称された。後元年、衛尉に戻された。江右〔江北=西晋のこと〕では(衛士の統率ではなく)金属の鋳造を職掌とし、三十九の冶令を統括した。(鋳造を行なう)戸は五千三百五十で、冶金工房はすべて江北にあり、江南には梅根と冶塘の二つに工房があるだけで、(しかも)ともに揚州所属で、衛尉には所属していなかった。衛尉は江左(東晋)では置かれず 、宋の孝武帝の孝建元年に復置された。旧制では丞は一人だったが、孝武帝はもう一人増した[17]


――注――

[1]『通典』巻25職官典7光禄卿・丞「丞、漢二人、多以博士・議郎為之。魏晋因之、銅印黄綬」。また『通典』によると、主簿も置かれていた。「主簿、漢置。晋・宋・斉・梁・陳、並有之」。[上に戻る]

[2]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「応劭曰、『光者、明也。禄者、爵也。勲、功也』。如淳曰、『胡公曰勲之言閽也。閽者、古主門官也。光禄主宮門」。師古曰、『応説是也』」。『太平御覧』巻229引『応劭漢官儀』「光者、明也。禄者、爵也。勲、功也。言光禄典郎謁諸虎賁羽林、学不安得、賞不失労、故曰光禄勲」。[上に戻る]

[3]なお『通典』巻25職官典7光禄卿によると「建安末、復改光禄勲為郎中令。魏黄初元年、復為光禄勲」。[上に戻る]

[4]原文「光禄勲禁中如御史」。『通典』巻25職官典7光禄卿に「光禄勲居禁中〔如宋之殿中御史――原注〕」とあるのを考慮した。殿中御史については、『晋書』巻24職官志に「殿中侍御史、案魏蘭台遣二御史居殿中、伺察非法、即其始也。及晋、置四人、江左置二人」とある。[上に戻る]

[5]『宋書』には本文のほかに二例の用例が見える。『宋書』巻34五行志5「晋成帝咸康四年十一月辛丑、有何一人詣南止車門自列為聖人所使。録付光禄外部検問、是東海郯県呂暢、辞語落漠、髠鞭三百、遣」、同巻94恩倖伝・阮佃夫伝「帝乃收佃夫・幼・伯宗於光禄外部、賜死」。[上に戻る]

[6]三献については「訳注(1)」の注[8]を参照のこと。[上に戻る]

[7]漢代の光禄勲は、五官中郎、左中郎、右中郎、虎賁中郎、羽林中郎、羽林左監、羽林右監の七署を管轄していたほか(なお郎は議郎、中郎、侍郎、郎中の四クラスある。また郎中には戸将、車将、騎将という役職があったらしいが、光武帝のときに廃されたらしい)、奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉(いわゆる奉朝請)、光禄大夫、太中大夫、中散大夫、諫議大夫、謁者僕射の文官系統の官も管轄していたのであった。
 だが、本文にあるように、三署郎は魏のときに廃され、さらにほかの郎も光禄勲の手から離れていったらしい。というのも、おいおい「百官志・下」の訳注で触れることになると思うけれども、魏のときには領軍将軍・護軍将軍が確立し、いわゆる「禁軍」が整備されていった(はず)なのだが、虎賁中郎、羽林中郎、羽林左監、羽林右監はこのときに禁軍のほうへ移されたようなのである(あくまで推測に留まるのだが)。その後、西晋のときに羽林中郎、右監は廃され、哀帝の時期には左監も廃止となったが、宋の武帝のときに復置されたそうである(『宋書』百官志・下)。なお、「三署」という組織はたしかに解体されたが、「左右中郎将」という官自体は魏の時代にも存続しており、晋の武帝のときになって省かれている(『通典』巻29職官11中郎将)。『晋書』巻3武帝紀泰始九年の条に「罷五官左右中郎将」とあることからすると、五官中郎将にかんしても位だけは残っていたのかもしれない。
 と、やや単線的なストーリーを構築してみた。上記の記述はおおむね『宋書』百官志・下、『通典』に拠っているが、『晋書』職官志には、「光禄勲、統武賁中郎将、羽林郎将、冗従僕射、羽林左監、五官左右中郎将、東園匠、太官、御府、守宮、黄門、掖庭、清商、華林園、暴室等令」とあり、上記のわたしの羽林などにかんする推測は外れている可能性がある(五官左右がここに見えるのは、泰始九年以前のことを記述しているとみればとくに問題とはならないだろう)。あんまりここらへんは明確にはわからんで、すみません。
 文官系の属官にかんしてはというと、奉朝請はどうなったのかよくわからん。『宋書』百官志・下では散騎常侍などと並べられているし、前掲の『晋書』職官志にも見えていないので、移されたのかもしれない。謁者僕射も『宋書』百官志・下や『通典』に見えはするが、明確な記述はない、こちらもまた『晋書』職官志に見えないので、やはり移されたのだろうか。
 ということで、魏・晋・宋時期の光禄勲の属官で確実な官は光禄大夫、太中大夫、中散大夫などの閑職くらいしかなかったことになる(大夫については後文で詳述する)
 一方、さきの『晋書』職官志でお気づきになられた方もいるかもしれないが、西晋の時期はなぜか宮中関連の官職が光禄勲の統属に置かれている。「東園匠、太官、御府、守宮、黄門、掖庭、清商、華林園、暴室等令」とね。『通典』巻25職官典7光禄卿・太官署令によれば、太官令は後漢・魏までは少府所属だったが、西晋から光禄勲に移されたらしい(なお『通典』によれば、晋代の太官令の属官には餳官と果官が二人ずつ、酒丞が一人いたらしい、前者が珍味、後者が酒を管理する官のようだ)。宋になると、太官令は侍中府に移されている。ともかく、晋の時代になると、太官に限らず後宮とか華林園とか、宮中の施設を管理する役職まで光禄勲下に置かれており、なぜ急に少府から移されたのか気になるところである。光禄勲が元来、宮中において職務を執る官職であったことが関係あったにせよ、こういう改革は気になるところですね。晋の組織改革はそのまま南朝にも継承されたのかどうかは不明瞭で、前述したように、少なくとも太官令は侍中府に移されている。とすれば、他の官もやはり宋以降は光禄勲から離れていったのかもしれない。たとえば守宮令は、漢代は皇帝の使用する紙、筆、墨などを管理する官職で、少府の所属であったが、晋代に光禄勲所属に移り、梁・陳になると将作大匠へと移っている(『通典』巻25職官典7衛尉卿・守宮署)[上に戻る]

 

[8]『後漢書』帝紀4和帝紀李賢注「禁中者、門戸有禁、非侍御者不得入、故謂禁中」。[上に戻る]

[9]原文「宮殿門戸、至今猶属」。『通典』光禄卿では「其宮殿門戸、至宋文猶属」となっている。もし『通典』を信ずれば、『宋書』の「今」とは宋の文帝のことを指すことになるが、文帝の時期というと、あの何承天が国史『宋書』を編纂した時期に重なる。とすると、沈約のこの箇所の記述は何承天『宋書』をそのまま引き写したものだといえるのかもしれない。何承天『宋書』については「訳注(3)」注[12]も参照。[上に戻る]

[10]『漢書』9元帝紀永光元年条「二月、詔丞相・御史挙質樸・敦厚・遜讓・有行者、光禄歳以此科第郎・従官」、師古注「始令丞相・御史挙此四科人以擢用之。而見在郎及従官、又令光禄毎歳依此科考校、定其第高下、用知其人賢否也」、『後漢書』列伝54呉祐伝「祐以光禄四行、遷膠東侯相」、李賢注引『漢官儀』「四行、敦厚・質樸・遜讓・節倹」。『漢書』元帝紀と李賢注とではわずかに異なっている(「有行」⇔「節倹」)。光禄勲が四科を基準に郎の成績をつけるんだと。
 あるいは「漢代、選挙のための四種の科目。徳行・学問・法令・決断」(『漢辞海』)をさすこともあり、『後漢書』紀4和帝紀・李賢注引『漢官儀』に「建初八年十二月己未、詔書辟士四科一曰徳行高妙、志節清白。二曰経明行脩、能任博士。三曰明曉法律、足以決疑、能案章覆問、文任御史。四曰剛毅多略、遭事不惑、明足照姦、勇足決断、才任三輔令。皆存孝悌清公之行。自今已後、審四科辟召、及刺史・二千石察挙茂才尤異孝廉吏、務実校試以職。有非其人、不習曹事、正挙者故不以實法」とある。ただ光禄勲の四科にかんしては前者のことをさすと考えてよかろう。[上に戻る]

[11]『後漢書』列伝51黄瓊伝「旧制、光禄挙三署郎、以高功久次才徳尤異者為茂才四行」。[上に戻る]

[12]『後漢書』紀4和帝紀・李賢注引『漢官儀』「三署謂五官署也、左・右署也。各置中郎将以司之。郡国挙孝廉以補三署郎、年五十以上属五官、其次分在左・右署、凡有中郎・議郎・侍郎・郎中四等、無員」。原文とほぼ同じ。[上に戻る]

[13]後漢期においても、定まった仕事はないとされてはいたが、観念的には「顧問」などの仕事があるとされていた。『続漢書』百官志2光禄勲・光禄大夫・本注「凡大夫議郎、皆掌顧問応対、無常事、唯詔令所使。凡諸国嗣之喪、則光禄大夫掌弔」、『晋書』職官志「漢時所置無定員、多以為拝仮賵贈之使及監護喪事」。また本注および『晋書』には「無員」とあるが、劉昭の引く『漢官』によると定員は「三人」である(『通典』巻34職官典16文散官・光禄大夫以下も同じ)
 これが魏になると、定員なしとなり、唯一の仕事らしい仕事であった喪の代行責任者という職務もなくなり、高齢で引退する者や優遇を加えたい者に与える名誉職へと位置づけされた。晋もこれを継承したが、『晋書』、『通典』には少し詳しい記述が残っているので、以下、紹介しておこう。
 本文にあるように、晋代は光禄大夫、左光禄大夫、右光禄大夫の三大夫が置かれていたが、光禄大夫は三品、秩中二千石(=卿と同等)、銀章青綬で、班位は金紫将軍(=二品将軍)より下、卿より上。皇帝のお気に入り具合では金章紫綬に格上げされることもあるので、ノーマルの場合を「銀青光禄大夫」、金章の場合を「金紫光禄大夫」と呼ぶ。左・右光禄大夫は、『晋書』によると二品、金章紫綬だが、『通典』は光禄大夫と同じ銀章青綬とする。『晋書』巻38宣五王伝・平原王榦伝に「太康年間の末、光禄大夫に任じられ、侍中を加えられた。特別に金章紫綬を仮され、班位は三司の次とされた。恵帝が即位すると、左光禄大夫に進められ、侍中はもとのとおりとされた(太康末、拝光禄大夫、加侍中、特仮金章紫綬、班次三司。恵帝即位、進左光禄大夫、侍中如故)」とあるのを見ると、左右のが格上と見なしてよい。光禄大夫は、晋以後、多く兼官であった(つまり、大半が加官として与えられたということ)。加官を一度辞退すると、「いやいやそう言わずに」なんて引き止められることはないそうである。加官であった場合は、特進同様、章綬、俸禄、班位が与えられるだけで、光禄大夫本来の馬車や冠服、吏卒は支給されない。本官が卿であった場合は加官しない。兵が与えられる場合は、三品将軍と同様の規定に従った。光禄大夫、左右光禄大夫は「文官公」なので、開府の規定も有している(はず)。没後の贈官として与えられる場合もあった。劉宋も基本的にこの晋の制度に従ったという(『通典』)
 『晋書』職官志「左右光禄大夫、仮金章紫綬。光禄大夫加金章紫綬者、品秩第二、禄賜、班位、冠幘、車服、佩玉、置吏卒羽林及卒、諸所賜給皆与特進同。其以為加官者、唯仮章綬、禄賜班位而已、不別給車服吏卒也。又卒贈此位、本已有卿官者、不復重給吏卒、其余皆給。光禄大夫仮銀章青綬者、品秩第三、位在金紫将軍下、諸卿上。漢時所置無定員、多以為拝仮賵贈之使、及監護喪事。魏氏已来、転復優重、不復以為使命之官。其諸公告老者、皆家拝此位、及在朝顕職、復用加之。及晋受命、仍旧不改、復以為優崇之制、而諸公遜位、不復加之。或更拝上公、或以本封食公禄。其諸卿尹中朝大官年老致仕者、及内外之職加此者、前後甚衆。由是或因得開府、或進加金章紫綬、又復以為礼贈之位。泰始中、唯太子詹事楊珧加給事中光禄大夫。加兵之制、諸所供給依三品将軍。其余自如旧制、終武恵孝懐三世。光禄大夫与卿同秩中二千石、著進賢両梁冠、黒介幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉日三斛。太康二年、始給春賜絹五十匹、秋絹百匹、綿百斤。恵帝元康元年、始給菜田六頃、田騶六人、置主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人」。[上に戻る]

[14]原文「中大夫二十人」。前文にあるように、中大夫とは光禄大夫の旧名である。『続漢書』百官志2光禄勲・太中大夫の劉昭注引『漢官』によると、太中大夫の定員は二十人であり、おそらく原文のこの箇所は「太」字が誤脱したものと思われる。訳注で補っておいた。『通典』巻34職官典・文散官・光禄大夫以下「太中大夫、・・・後漢置二十人。魏以来無員。晋視中丞、吏部、絳朝服、進賢一梁冠、介幘」、『太平御覧』巻243太中大夫『韋昭辨釈』「太中大夫、大夫之中最高大也」。[上に戻る]

[15]注[7]で触れておいたが、後漢の光禄勲は諫議大夫という大夫も属官に置いていた。『続漢書』百官志2光禄勲・諫議大夫の劉昭注引「胡広曰」によると、漢の武帝期に置かれた諫大夫を、光武帝が諫議大夫に改称したとのこと。同じく劉昭注に引く『漢官』によれば定員は三十人。中散大夫とほぼ同格といったところか。胡広によれば、光禄大夫、太中大夫、中散大夫、諫議大夫の四大夫は「於古皆為天下之大夫、視列国之上卿」。曹魏までは置かれていた形跡が見えるのだが、西晋では二例のみ(『晋書』巻59趙王倫伝、同巻95芸術伝・陳訓伝)、趙王倫伝は西晋初、陳訓伝は西晋末の事例。西晋初めに廃され、西晋末に一時的に復活とか、そういったところなのだろうか。ともかく、東晋・南朝期には事例がなく、この時期には廃止されていたのだろう。『宋書』百官志に記述がないのもそのような事情によるものと思われる。[上に戻る]

[16]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「漢旧儀云、衛尉寺在宮内。胡広云、主宮闕之門内衛士、於周垣下為区廬。区廬者、若今之仗宿屋矣」。[上に戻る]

[17]見られるように、晋代になってまったく違う職務に変化している。おそらく、光禄勲同様、禁軍の独立とともにこれまでの職務がなくなってしまったのだろう。冶金の責任者なんて、漢代だったら大司農か少府の仕事のはずだが(あんまり詳しくないから自信ないけど)、まあ漢代以来の伝統ある衛尉を廃止するわけにもいかんし適当な仕事やらせとけみたいな感じになったんだろうか。ちなみに南斉、梁では漢代と同じ仕事に戻ったそうだ(『通典』巻25職官典7衛尉卿)
 と、これまたいかにもな解説をしておいたが、『晋書』職官志には「衛尉、統武庫、公車、衛士、諸冶等令、左右都候、南北東西督冶掾。及渡江、省衛尉」とあるので、上のようなわたしの考えでよいのかは疑問も残る。まあでも、『宋書』や『通典』の記述の仕方や、属官の具合から見ても、魏晋南朝の衛尉のメイン職務は「衛士の統率」ではなく「モノ(金属類)の製造」にあったと思いますが。
 さて、『通典』を主な史料として、衛尉の属官を簡単に見ておこう。
 主簿。晋代以降、二人。
 冶令。『宋書』百官志・上の少府の項目に記述があるので、そんときに述べます。
 武庫令。一人? 武器(武器庫)の管理。前漢・後漢・曹魏では執金吾の所属で、晋も当初はそれを継承していたが、のちに衛尉に移した。劉宋・南斉では尚書庫部、梁・陳では衛尉に所属。『宋書』百官志・上の尚書の項目に記述有。
 公車令、一人。秦官。秦漢代は公車司馬令、東晋以降は公車令。宮城南門の警備。皇帝への謁見の取次を門でおこなう感じらしい。後漢では丞と尉を一人ずつ。丞は諱に通暁している者を任命し、マナーを担当、尉は、ほらよくあるじゃん、門のまえとかで戟とか槍を左右から斜めに交錯させて入れさせない人たち、アレ。公車令は劉宋期に侍中府に移されているので、『宋書』百官志でも侍中府に連なっている(百官志・下に見える)。
 左右都候。後漢では一人ずつ、丞も一人ずつ。宮城の巡回警備。前掲の『晋書』によると、西晋時期にもいたらしいが、『通典』によれば後漢以降「無聞」。『宋書』百官志にも見えない。
 衛士令。後漢だと南宮と北宮で一人ずつ、丞も一人ずつ。前掲『晋書』に見えているが、『宋書』百官志、『通典』には記載がないのでわからない。
 というわけで、魏・晋・宋期の衛尉の属官は冶令(三朝)、武庫令(晋・宋)、公車令(魏・晋)が確実でしょう。こりゃあたしかに東晋になって廃されるわなあ・・・。[上に戻る]