2013年5月30日木曜日

晋南朝の「増位」(1)

 気が向いたので前回の続き。

 「増位」の行われた回数を王朝ごとに計算してみると以下の通り。

    増位  賜爵
西晋   4    1
東晋  13    3
楚    0    1
宋    10   16
斉     7    5
梁     6   20
陳     2   15

 参考までに賜爵の回数も附しておいた。1、2回の数の出入りはあるかもしれないがそれはアレで。なお晋南朝の賜爵が両漢代に劣らぬペースで行われていることについては、既に戸川貴行氏の好論で指摘されている。「魏晋南朝の民爵賜与について」(『九州大学東洋史論集』30、2002)を参照されたい(CiNiiからリポジトリで見れます)。

 こうしてみると「増位」にはムラがある。晋代~宋代はそこそこだが徐々に減少。まあしかし、それは王朝の持続年数によると言えなくもない。
 だが一転、賜爵の方は宋代から増加し、梁陳では相当頻繁になされている。より具体的に言うと、賜爵は劉宋・孝武帝期から増加しはじめる。どうやらこの皇帝が契機であるように思われる。

 「増位」というのは、漢代の賜爵という断絶した故事を代替するために創られた、新しい伝統だったのかもしれない。しかし古き伝統たる賜爵が復活するに伴い、新しく創られた伝統はお役御免になったのかもしれない。だったら楽しいのにね

続きはこちら(晋南朝の「増位」(2))

2013年5月29日水曜日

パラダイムと専門バカ

 野家啓一『パラダイムとは何か』を読んだのだけど、パラダイム概念の基礎的意味、クーンの生涯と業績、科学史、クーンに向けられた批判等々をコンパクトにまとめていて非常に読みやすかった。類まれな良書だと思う。

 で、パラダイムというのは根本的には、「科学に基礎的方法や設問といった模範を提示し得た科学的業績」、まとめると「模範的業績」のことを言うらしい。後続の学者はその人の手法や問題設定に範を取って、研究を進めるというわけである(歴史学で言うとランケとか?)。

 ここで更に興味深いのはクーンの「科学者像」。クーンはニュートンやアインシュタインといった、科学に新しい模範(パラダイム)をもたらした天才的で革命的な科学者よりも、型通り(パラダイム通り)に地道にコツコツと専門研究を重ねる科学者を重視したという。地道な専門研究を積み重ねるからこそ、新しい発見を成し得るのだという感じ。このような専門パカ科学者を「通常科学者」なんて言うらしい。

 これに反対したのがポパー。通常科学者は「憐れむべき人物」だとバッサリ。「通常科学者は、悪しき教育によってドグマ的精神を叩き込まれ、パズル解きに満足するようになってしまった犠牲者にすぎない」。科学者たるもの、常に柔軟で新しい発想を持ち、何事にも疑問のまなざしを向け、世界の説明を塗り替えるくらいの意気込みでなければならないそうだ。

 ポパーは「あるべき姿」を提示して、クーンは「現にある姿」を述べた、そんな印象。

 私はクーン派です。歴史学的には、専門バカならぬ実証主義はよく、汲々として細かいからつまらんと言われ、広いテーマででっかい話をしろなんて叱られたりするけれども。しかし、細かい研究には、それならではの洗練された知というのがある。木簡研究なんてのがその代表例じゃないだろうか。だから実証主義が悪いと思ったことは全くない。まあ実証主義こそ唯一の方法であるからお前もそうしろ、と強制されたら抵抗するかも、いやしないかも。
 無理に手を広げてノイローゼにかかるより、小さくとも良いから安心して座れる基礎に腰掛けるのがよっぽど良い。無理してまで理想を目指す必要はないんじゃないか。

2013年5月28日火曜日

官の「位」について

『晋書』巻3武帝紀・泰始元年の条
其余増封進爵各有差、文武普増位二等
そのほか、封邑を加増したり、爵を進めたりすることは各人に等差が設けられて行われた。文武官は全て「位」を二等加増した  
ここの「位」を何と訳すべきであるか?「二等」「増す」のであるから、何らかの体系を有した「位」なのだろう。しかも「文武」官に限定されているのだから、官吏に関係ありそうな「位」であろう。
 そんなもん決まってる、官位だろう!とは、残念ながら言えない。「官位とは何か?」と切り返されるだろう。この時代、官が有した位はいくつかある。官品、郷品等々。あなたの言った官位とはどの官位か?と問われるのは目に見えている。

 このような皇帝による一律「増位」の事例は、この記事を皮切りとして、西晋・東晋17例、南朝25例が確認される(『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』『南史』『文館詞林』)。

 この「増位」を見て想起されるのは、民に爵一級を賜うという、漢代の賜爵の記事。
朕初即位、其赦天下、賜民爵一級。(『漢書』巻4文帝紀)
何だか文言がよく似ている。しかし、「増位」というのは爵を増したというわけではなさそうである。というのも、『南斉書』巻2高帝紀・下・建元元年の条に、
可大赦天下。改昇明三年為建元元年。賜民爵二級、文武進位二等 
天下を大赦する。昇明三年を建元元年に改める。民には爵二級を賜い、文武官は「位」を二等進める
とあって、どうやら別個の事柄であるように読めるからだ。
 とすると、ほかに候補として挙げられそうなのは・・・官品、郷品、班位(朝廷での席順)など。
 また南朝、とりわけ劉宋孝武帝期以降、漢代同様の賜爵が行われるようになるのだが、これと「増位」との関係はどうなっているのだろう?どういう場面で「増位」したのだろう?
 気が向いたらまた次回。

続きはこちら(晋南朝の「増位」(1))

2013年5月27日月曜日

補足

 思い出したので昨日の補足。
 「陽秋」の用例を探してみると、次の記事が検索される。


『晋書』巻20礼志・中
寧康二年七月、簡文帝再周而遇閏。博士謝攸・孔粲議、「魯襄二十八年十二月乙未、楚子卒、実閏月而言十二月者、附正於前月也。喪事先遠、則応用博士呉商之言、以閏月祥」。・・・尚書令王彪之・侍中王混・中丞譙王恬・右丞戴謐等議異。・・・於是啓曰、「或以閏月附七月、宜用閏月除者。或以閏名雖附七月、而実以三旬別為一月、故応以七月除者。・・・三年之喪、十三月而練、二十五月而畢、礼之明文也。陽秋之義、閏在年内、則略而不数。明閏在年外、則不応取之以越朞忌之重、礼制祥除必正朞月故也」。己酉晦、帝除縞即吉。徐広論曰、「凡弁義詳理、・・・」。

 孝武帝年間初期の寧康2(西暦374)年の「議」についての記事。「議」というのは、公務上及び礼制上の問題を議題として、官僚たちから意見をつのり、それらのなかから皇帝や高官、礼官たちが優れた意見を採決するというもの。
 この記事の議題は「簡文帝が崩じて三年(二十五ヶ月)経過するときに、ちょうど閏月が来るんだけど、これどうすんのが正しいの?」という感じ。
 簡文帝は咸安2(372)年7月末に崩御。その月から数えて、寧康2年7月は二十五ヶ月になる。ところがこの年は閏7月があるそうで、喪服を脱ぐのは閏7月を終えてから、すなわち8月になってからなのか、それとも7月が終わった時点で除服して良いかがわからんということなのだそうだ。(たぶん)

 案の一つが、閏7月が終わってからでよくね?というもの。なぜなら閏7月は7月のオマケのようなもので、実質7月と変わらん、実質ね。ほら、閏12月があったとすると、12月を終えた時点で「今年終わったアアアアア」ってなれる?なれないよね?だから閏7月を過ぎないと7月を過ごしたとはカウントされないのだよ、わからんかね?みたいなことを言っている。
 これに反対するのが、7月を終えた時点で服を脱ぐべきだというもの。なぜなら閏7月とはいえ、立派に一月分の日数あるじゃん?だとすれば?二十五ヶ月?越えちゃうじゃん?二十六ヶ月?なっちゃうじゃん?だからここは二十五ヶ月というのを重んじて閏7月も一月分にカウントし、上の案みたいに7月とセットで一ヶ月と見なすのは不適切だという。

 礼制というのは私も疎いもので、この記事をこのように読むことができるのかというと心許ない。
 が、内容の細かなところはどうでもよろしい。大事なことは「孝武帝年間初期の記事において、「陽秋」と避諱を行った表記がなされている」ということ。しかもそれが、王彪之の議に見えている。王彪之が議を作成した当時から避諱が行われていた蓋然性が高まるのだ。

 ところが、この議の落着部分を見ていただきたい。「徐広論曰」と、徐広なる人がこの一件について評論を下しているわけだ。いったい徐広とは?
 簡潔に言うと彼は東晋末~劉宋初の学者。『晋書』巻82、『宋書』巻55に立伝されている。『宋書』によると、義煕2(406)年、尚書が徐広を国史編纂の任に当てるよう上奏し、裁可された。その尚書の奏文に「太和以降、世歴三朝、玄風聖迹、倏為疇古」とあり、廃帝(海西公。この時期の年号が太和)、簡文帝、孝武帝の三代の時代を記述させるのが狙いであったらしい。その後義煕12(416)年、『晋紀』全46巻が完成したという。
 前掲した『晋書』の記事はこの『晋紀』からの引用ではないか?あるいは徐広には礼制に関する著述が色々あったらしいので、それらからの引用じゃないか?どちらにしても、東晋末に活動した徐広の著作で「春」が避けられているのは当然のことといえる。
 つまり、前掲記事は徐広の手が加わって「陽秋」と書き換えられている可能性を排除することができず、したがって孝武帝初期から避諱が行われていたと見なす根拠には成り得ない。
 それだけでした。

 それにしても『晋書』や『宋書』の志にはこうした具合で「干宝以為」「孫盛云」「魚豢曰」などのかたちで、散佚書の佚文を引用していることが多い。意外と掘り出しものがあったりするかもしれない。


2013年5月26日日曜日

『晋陽秋』の由来

ブログ始めました。ごひいきにしてください!

 『晋陽秋』は東晋の孫盛の著作です。
 『隋書』巻33経籍志2では別史に分類されており、哀帝年間(西暦361~365年)までを記述した全32巻の史書だったようです。佚文の状況から見ると、宣帝の時代から叙述が開始されています。
 残念ながら『晋陽秋』は散佚してしまいましたが、いくつか輯本が作られています。現在のところ最も便利な輯本は喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1999年)でしょう。

 ところで、「陽秋」とは何でしょう?
 これは「春秋」の言い換え表記です。簡文帝の母である鄭太后の諱が「阿春」だったので、「春」を避けて「陽秋」と書いているわけです。
 とすると、『晋陽秋』も「春」を避けて「陽秋」を書名にしている可能性が高い、避諱が行われるようになったのは簡文帝即以降のはずだ、ならば『晋陽秋』が成書されたのは簡文帝の即位以降!論証成立!キモチイイイイイ、となりそうですが、少し考えておきましょう。

『宋書』巻35州郡志1・揚州呉郡の条
富陽令。漢旧県、本曰富春。・・・晋簡文鄭太后諱「春」、孝武改曰富陽
『宋書』巻36州郡志2・江州安成郡の条
宜陽子相。漢旧県、本名宜春、属予章。晋孝武改名
 避諱が行われるようになったのはどうやら、簡文帝を継いだ孝武帝の時期と考えられます。ちなみに『宋書』には言及されてませんが、「寿春」が「寿陽」に改名されたのもこの時期でしょう。杜祐『通典』、胡三省『資治通鑑』注はそのように理解していますし、おそらく正しい。

 それにしてもなぜ孝武帝年間?その事情はよくわかりません。
 ただ鄭太后はもともと、元帝の「夫人」、つまり皇后ではなく、側室のような位にいた人でした。その子の簡文帝も本来皇帝にはなりえないはずでしたが、長生きした甲斐あって(?)、偶然皇帝になってしまった人です。子供が偉くなったらその母親も偉くせねば!なんていう議論は漢代にもしばしばあった気がしますが、このときもそういう議論が出てきたみたいです。
 しかし簡文帝は即位後間もなくに崩じてしまったこともあってか、簡文帝年間に「追尊」はなされなかった。ようやく孝武帝の太元19(383)年になって、「太后」に追尊する詔、すなわち「実際は皇后じゃなかったけど待遇は皇后と同格にするぜ」という詔が下ったわけです。だとすれば、この太元19年の出来事をきっかけにして避諱が行われるようになったんやん、それでええやんとなりそうですが、いやいやいや。さらに問題になるのは「孫盛はいつ没したのか?」。

 孫盛の本貫は太原、現在の山西省太原市のあたりです。生没年に関する手がかりは、彼が10歳のときに長江を渡ったということと、享年が72であったということ(『晋書』巻82孫盛伝)。この2つの情報から、次の2つの生没年が提出されています。

①太安元(302)年~寧康元(373)年
 この説では孫盛の渡江を永嘉5(311)年、すなわち洛陽が陥落した年にかけます。
②永嘉元(307)年~太元3(378)年
 この説では渡江を建興4(316)年、すなわち長安が陥落した年にかけます。

 ①は「洛陽が陥落した年にみんな長江を渡ったんやろ」という先入観が根拠で、それから生没年を計算している。
 ②は少し複雑なので省きますが、結論から言うと①よりはまし。(興味のある方は王建国「孫盛若干生平事迹及著述考辨」、『洛陽師範学院学報』2006-3を参照ください)

 なんでこんな話をしているかというと、「避諱が行われるようになったと推測される太元19年の時点で孫盛は生きているか否か」を問題にしたいからなわけです。という次第で2説を見返してみると、
どっちの説にしてもももう死んでるやん…
というわけでね。
 いや、そもそも太元19年に避諱が行われるようになったというのも何ら根拠はないわけで、実際はまだ孫盛が存命中の孝武帝年間初期から行われていたのかもしれない。
 あるいは何らかの事情で孫盛没後に後人が改めたのかもしれない。
 またまた、仮に太元19年の時点でも孫盛が存命だとすれば、孫盛の渡江は320年代以降になり、少し遅い気もするが、無いわけではない。しかし、厳可均『全晋文』巻11孝武帝には太元15年に発せられた「答孫潜詔」という詔が収録されていて、孫盛の子の潜が孫盛の著作を朝廷に献上したことに対し、孝武帝が「ごくろう、秘書におさめとくわ」とねぎらったという主旨の詔だけども、ここでは孫盛のことを「故秘書監」と呼んでいる。秘書監は孫盛の最終官歴。おそらく太元15年の時点では孫盛は既に没していたため、子供が代わりに献上したのでしょう。
 以上より、「『晋陽秋』がいつ成書されたのかはよくわからん」という結論にたどりつきました。お疲れ様でした。

 当ブログはこんな感じで歴史ネタを中心に記事を書こうかと思います。「伝」というのは左氏伝、毛伝、孔伝とかみたいに、「注解」みたいな意味です。裴松之だか劉知幾だかは『晋陽秋』のことを左氏春秋のマガイモノだと評していましたが、「そのマガイモノをさらに解釈してやんよ!」という意気込みで継続してみようと思います。

 今回は長くなってしまいましたが、次からは短くします。ゆるして