2014年7月6日日曜日

家伝から見る家伝系史料の特徴と王敦の人望のなさ

『世説新語』言語篇
摯瞻曾作四郡太守、大将軍戸曹参軍、復出作内史[一]。年始二十九。嘗別王敦、敦謂瞻曰、「卿年未三十、已為万石、亦太蚤」、瞻曰、「方於将軍少為太蚤、比之甘羅已為太老」[二]

摯瞻はかつて四郡太守、大将軍(王敦)戸曹参軍を歴任していたが、今度は内史〔王国の長官。要するに太守〕に就任が決まった。そのとき、年齢はようやく29になったところ。王敦と別れるさい、王敦は摯瞻に言った、「君はまだ30にもなっていないというのに万石〔2000石×5=1万〕とは、ちょい早すぎるのではないかね」。摯瞻、「将軍と比べるといささか早すぎるようですが、(12歳で上卿になった)秦の甘羅と比べると遅すぎます」。

 ここで二ヶ所、劉孝標の注[一][二]が付され、『摯氏世本』が引用されている。見てみよう。
[一]
瞻字景游、京兆長安人、太常虞兄子也。父育、凉州刺史。瞻少善属文、起家著作郎。中朝乱、依王敦為戸曹参軍。歴安豊、新蔡、西陽太守。見敦以故壊裘賜老病外部都督、瞻諌曰、「尊裘雖故、不宜与小吏」、敦曰、「何為不可」、瞻時因醉、曰、「若上服皆可用賜、貂蟬亦可賜下乎」、敦曰、「非喩所引、如此不堪二千石」、瞻曰、「瞻視去西陽、如脱屣耳」。敦反、乃左遷随郡内史。

摯瞻は字を景游といい、京兆は長安の人である。太常であった摯虞の兄の子にあたる。父の育(の最高官)は涼州刺史であった。摯瞻は若いころから文章の作成に長けており、最初に就任した官は著作郎〔起居注の執筆など、言ってみればライター的な仕事〕であった。永嘉の乱で朝廷が混乱すると、(荊州にいた)王敦を頼り、その戸曹参軍となった。安豊太守、新蔡太守、西陽太守を歴任した。王敦が使い古しでぼろぼろの毛皮の服を、高齢あるいは病気の外部都督にあげているのを見ると、摯瞻は諌めた、「使い古しとはいえ、高級な毛皮を下っ端にあげるのはいかがかと思います」。王敦、「どうして?」。摯瞻は酔いにかまけて言った、「高級な服をあげてよいことになるなら、貂蝉をあげてもよいことになりませんか〔貂蝉は侍官の冠につける装飾。暗に侍官を独断で任命する=野心をもつのはよしなさいと言っている。注[1]参照〕」。王敦、「下手な喩えだな。それではまるで、二千石では満足できないと言っているようなものだぞ〔侍官の筆頭侍中は比二千石で三品〕」、摯瞻、「西陽太守を離れることなぞ、わたしにとってはくつを脱ぐこととたいして変わりません〔おまえのとこを辞めるなんてよゆーだし!という意味だろう〕」。王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された。


[二]
瞻高亮有気節、故以此答敦。後知敦有異志。建興四年、与第五琦拠荊州以距敦、竟為所害。

摯瞻は高潔で気概盛んなため、王敦(の意地悪な言い方)に(強気に)答えたのである。のち、王敦が野心を抱いていることに気づいた。建興四年、摯瞻は第五猗とともに荊州を根城として王敦に背いたが、ついには殺害された。
 摯瞻は摯虞の親族であるらしい。摯虞といえば礼制のスペシャリストとして西晋政治史に欠かせない人物。最期は洛陽で餓死してしまうが・・・。
 摯瞻は『晋書』に列伝が立てられていない。なかなか気骨のある人物がこういうかたちでしか知れないとは。劉孝標および摯氏の家伝と思われる『摯氏世本』は本当にいい仕事をしてくれた。












で終わると思ったか?
終わってやらねーーー


 いやまあ、ともかく。この『摯氏世本』の記述、ちょい検討する必要がありそうなのである。
 徐震堮氏は次のような興味深い注を記している(『世説新語校箋』中華書局、1984年)
第五猗が荊州で王敦に反抗したことは、元帝紀で建武元年に記されている。この年は愍帝の建興四年である。王敦が反乱を起こしたのは永昌元年なので、王敦が反乱を起こす5、6年前の出来事になるのだが、どうやって王敦の野心を察知できたのだろう。また、摯瞻は第五猗と反乱を起こして最終的に殺害されたとあるのに、最初の注に引かれた『摯氏世本』の文章には「王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された」とある。同一の本の記述なのに矛盾している。
 なるほど。双方の佚文が『摯氏世本』のなかでどのような文脈のもとで配置されていたのかがわからないのだが、[一]の佚文は王敦のお気に召さなかったために、王敦の反乱後は遠くに飛ばされたって内容になっている。一方の[二]は、王敦の反乱を事前に察知し、第五猗と組んで反乱の芽を摘もうとしたけど失敗して殺された、という内容。うむ、たしかに。この[一]と[二]の佚文だけで比較してもつじつまが合わなくなっている。

 それに加えて徐氏の指摘で注目したいのが、摯瞻の反乱が王敦反乱の直前になされたものではなく、かなり前のものだという点だ。少し詳しく調べてみよう。まず元帝紀。
建武元年・・・八月・・・荊州刺史の第五猗が賊の頭領・杜曾から推戴され、とうとう杜曾と反乱を起こした。九月、戊寅の日、王敦は武昌太守の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻に第五猗を討伐させたが、杜曾らに敗北し、趙誘らはみな戦死した。・・・梁州刺史の周訪が杜曾を討ち、おおいに破った。・・・太興二年、・・・五月、・・・甲子の日、梁州刺史の周訪は杜曾と武当で戦い、杜曾を斬り、第五猗を捕えた。
 あれ、賊と組んでたの? っていうか賊から推戴されちゃってたの? さいわい、杜曾伝が『晋書』にあるので、それを参考にしてみると、杜曾は新野の人で、武官として活躍していた。永嘉の乱前後、荊州は徐々に混乱におちいり、胡亢、王沖、王如、杜弢など、様々な流民集団が自立・自衛し、晋朝の統制からはずれてしまっていた。賊乱立の無政府状態になってしまったんですね(もちろん、「賊」というのは晋朝側からの物言いである)。杜曾は当初、胡亢の部下として過ごしていたが、やがて胡亢を殺害し、胡亢集団を乗っ取ってしまった。要するに、杜曾は荊州に割拠していた群雄(?)の一人で、晋朝の支配下から抜けていた人物なのである。

 第五猗はどうしてそんな杜曾と組むにいたったのだろうか。この事情もかなりややこしいが、諸列伝を参照すると次のように整理できる。

 荊州が晋の統制からはずれていたことは前述の通り。これに苦心して取り組んだのが琅邪王(のちの元帝)率いるグループであった。
 元帝は揚州刺史王敦と甘卓に江州(豫章)を鎮圧させたのち(後述)、王敦に当時暴れまわっていた杜弢集団を討伐するよう命じた。豫章に駐屯した王敦は、陶侃や周訪を派遣、とりわけ陶侃の活躍により杜弢集団を鎮圧することに成功した。陶侃は功績が認められ、荊州刺史に昇進していたが、長沙で余勢も討伐し終え、いよいよ帰還というとき、
王敦は陶侃の功績を妬んだ。(長沙から)江陵に帰還し、王敦に(荊州刺史赴任にあたっての)いとまごいを告げようとしていたが〔当時の荊州刺史の赴任地は襄陽かな、たぶん〕、皇甫方回や朱伺らは行ってはいけないと諌めた。陶侃は聴きいれずに江陵へ向かった。はたして、王敦は陶侃を江陵に留めて赴任地へ行かせず、かえって広州刺史、平越中郎将に左遷し、王廙を荊州刺史に命じた[2]。陶侃の部下たちは陶侃の留任を王敦に願い出たが、王敦は怒ってしまい、許さなかった。陶侃の部将の鄭攀、蘇温、馬儁らは南の広州に行きたくなかったので、とうとう西の杜曾を迎えて王廙に反抗した。(『晋書』巻66陶侃伝)
 王廙はもちろん琅邪王氏。さて、同じ事情を記した王廙伝を見てみよう。
はじめ、王敦が陶侃を左遷し、王廙を荊州刺史に命じた。陶侃の部下の馬俊(「俊」、原文ママ)、鄭攀らは王敦に陶侃の留任を要請したが、王敦は許可しなかった。すると、王廙は馬俊らの襲撃を受け、江安に敗走した。賊の杜曾は馬俊、鄭攀らと手を組み、北に進んで第五猗を迎え、王廙に反抗した。(『晋書』巻76王廙伝)
 ほほう、第五猗は王廙に反発した陶侃の部将たちによって迎えられたわけだね。杜曾伝によると、直後に陶侃の討伐軍が来るのだがこれを破ったとか。おまえらの望みは陶侃じゃねーのかよと言いたくなるのは措いとくとして、次に注意したいのが周訪伝だ。
当時、梁州刺史の張光が没したので、愍帝は侍中の第五猗を征南大将軍、監荊・梁・益・寧四州とし、武関から荊州に向かわせた。荊州の賊の頭領たち、杜曾、摯瞻、胡混らはみな第五猗を迎え、彼を推戴し、数万の兵を集めた。陶侃を石城で撃破すると、宛で平南将軍の荀崧を包囲したが、落とすことができず、兵を率いて江陵に向かった。王敦は従弟の王廙を荊州刺史にし、征虜将軍の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻を統率させて杜曾らを討伐させたが、女観湖で大敗し、趙誘、朱軌らはみな殺害された。杜曾はとうとう王廙を荊州から追い出した。・・・元帝は周訪に討伐を命じた。・・・杜曾の部将の蘇温が(敗走していた)杜曾を捕まえて周訪軍に出頭した。また周訪軍は第五猗、胡混、摯瞻らを捕えた。全員を王敦に送るにあたり、周訪は、第五猗は杜曾に脅されていただけだから殺すべきでないと伝言した。王敦は聴きいれずに斬った。(『晋書』巻58周訪伝)
 さきに引用した元帝紀と同様の記述が見えてきました。周訪伝によれば第五猗は愍帝によって派遣された荊州刺史であることがわかる。杜曾伝も愍帝から派遣された刺史だと明記しており、さらに襄陽で迎えたこと、杜曾と第五猗が婚姻関係を結んだことも記されている(「会愍帝遣第五猗為安南将軍、荊州刺史、曾迎猗於襄陽、為兄子娶猗女、遂分拠沔漢」)

 諸史料で若干人名が違うとか、ほかにもいろいろ異同はあるのだが、荊州における王敦派と陶侃派との対立が起き始めたときにたまたま第五猗が北から来ちゃって、「コイツは使える」と思った陶侃派が王敦に対抗する意図で彼を反乱に巻き込んだ、ってことでしょうかね[3]。なにしろ愍帝からのお墨つきもらってるからなー。いくら王敦が元帝から自由に地方官を任命する権限を与えらえているとはいえ、愍帝はその元帝の上にいるわけだし、王敦の法的正当性/正統性なんぞ一瞬で吹き飛ぶわな。
 陶侃は杜弢の反乱を鎮圧しているうちに荊州の人々のハートをがっちりつかんでおり、「陶将軍がいなかったらいまの荊州はなかった」なんて言われてるくらい慕われていたようである。第五猗らの反乱が鎮圧されたあと、結局王廙が荊州刺史に留任するのだが、「陶侃が刺史だったときの官吏や処士の皇甫方回を殺害しつくし、荊州の人望を失った」(『晋書』王廙伝)ため、中央に召され、その後任には王敦が就いた(『晋書』王敦伝)。なんかヨゴレ役をぜんぶ王廙に押しつけたかっこうになってるね、王敦。

 別に王敦ディスってないし、王敦が陶侃を広州刺史に任命したのだってほかの意図があったかもしんないじゃん。めんどいから調べないけど。
 で、問題なのは冒頭に挙げた摯瞻。彼はいったいどういう経緯から杜曾&第五猗連合軍に加わったのだろう、捕まったあとどうなったのだろう、という肝心のところは推測する手がかりすらないので、ちょい度外に置いときましょう[4]。気になるのは『摯氏世本』の書き方だ。

 『摯氏世本』の言っていることは間違っちゃいない。しかしなにか違和感を感じないだろうか。違和感があるという人、それはこの時代の歴史を東晋の側からしか見ていない証です。
 摯瞻のやったことは、王敦や元帝などのちに東晋となる政治集団から見れば、まぎもない「反乱」。自分たちの言うことを聞かないし、杜曾と組むしで、いくら愍帝の任命した刺史とはいえ、反抗者に違いはない。王敦だって第五猗を斬ってるじゃないか。の割にはかなり書き方がマイルドになっていないだろうか。杜曾の名前は伏せ、摯瞻は反乱を起こしたのではなく、王敦を事前に潰そうとしたのだと、反乱を起こしたことを弁護し、行動を正当化しているように見えないだろうか。
 『摯氏世本』の執筆者は摯氏か、親しい関係者で、のちに王敦が武力で政府の実権を制圧したことを利用して、摯瞻の反乱はじつは反乱ではなく朝廷を守るための行為だったのだと記述し、名誉を回復しようとしたとかそんなねらいがあったように思われる。ものは言いようですね。

 『摯氏世本』の記述を簡単に調べてみる程度だったのだが、思った以上にいろいろ興味深かった。まず、王敦派と陶侃派との対立があんな出来事まで誘発していたこと。正直、この時期の荊州は複雑だなあという印象だけでちゃんと調べたことはなかったので、ああやっぱり複雑だなあと思いました。
 次に元帝グループと懐帝・愍帝グループとの軋轢。いちおう元帝は愍帝から権限を任命されている立場なので元帝グループは愍帝に逆らえないはずだが・・・第五猗の例から見ると、愍帝の権威なんぞなんとも思ってなさそう。『資治通鑑』によると、周訪は第五猗を王敦に送るさいに「中央政府が任命した刺史だから斬っちゃダメよ」って伝言してるのだけど見事に王敦は無視。このような傾向は王敦だけのものかと言うと、そうとも言えない節がある。例えば江州刺史華軼なんかがそうだ[5]。元帝からすれば、もう力の残っていない中原政府に一々おうかがいするより、自分たちで判断してテキパキやったほうが早いわけ。実際、「例外状態・異常事態」下である程度の権限を緊急に振るうことは禁じられているわけではないだろうし、元帝たちはそういう理由をもって自分たちの勢力を各地に浸透させていたわけだね。

 最後に家伝・家譜の記述の扱い方。魏晋南北朝では大量につくられたこれらの書物も、現在ではほとんどが散佚してしまい、どういう形態の書物だったのかはうかがいしれないのが大変残念(ちなみに魏収の『魏書』は家伝をたくさん集めたようなものと言われることがあるから、一種の家伝と言えるかもしれない)。
 家伝系の書物でよくわからないのは、①誰が書いていたのか、②どういう目的で書いたのか、③そもそも何が書かれていたのか。③がわからない限り①と②もわかりっこなさそうなのだが、種々の佚文を見る限り、名・字、官歴、長所、逸話がコンパクトに書かれている感じ。『摯氏世本』もそんな感じだった。史書の列伝に近い感じだろうな、と思われます。
 ①と②は書物ごとに違っている可能性もあるだろうし、一般的に言うことはできないけども、少なくとも『摯氏世本』に関しては、前述の通り親族か親しい関係者かが書いたでしょうな。目的は『摯氏世本』に限ってもわからないが、まあ悪いこともひっくるめていろいろ書くぜ、みたいな書物ではなさそうだ。そういえば吉川忠夫先生の『六朝精神史研究』だったか、沈約の祖先はかつて東晋に反乱を起こしたのだけど、沈約の自序ではそこらのことがぼかされているとかなんとか指摘されていたと思う。
 繰り返すが、『摯氏世本』の記述が間違っているとか言いたいのではない。後年の王敦の挙兵にこじつけるのはどうかと思うけど、王敦派への反発から生まれたこじれではあるし。ただ、ああいうぼかした書き方は、あきらかに東晋朝廷への弁護的な意味合いがあるだろうにしても、現代の研究者からすれば信用問題に関わってくるだろう。今回取り上げた件はそんなに問題視するほどでもなかったかもしれないが、他の家譜・家伝の記述はどうだろうか。史料として参照する場合、吟味しておいた方がよさそうだ。たんに信用問題だけでなく、ひょっとすると今回のように、東晋側の視点を相対化してこの時代をみるいいきっかけになるかもしれないからね。



――注――

[1]少なくとも西晋以降、侍中を含めた侍臣の官は、武冠を「貂蝉」で飾る規定であったらしい。『宋書』巻18礼志五に「侍中・散騎常侍及中常侍、給五時朝服、武冠。貂蝉、侍中左、常侍右。皆佩水蒼玉」とある(礼志五のかかる箇所が、西晋泰始年間の規定である可能性が高いことは、小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年を参照)。具体的には、蝉の羽で飾りつけた金製のバッジと、貂の毛を挿した金製の竿のことで、竿を侍中は左、散騎常侍は右に挿す。『晋書』職官志「侍中・常侍則加金璫、附蝉為飾、挿以貂毛、黄金為竿、侍中挿左、常侍挿右」。武冠は戦国趙が起源だというが、これに貂蝉を飾る習慣は秦漢以来あったようで、その由来について、後漢の胡広は「昔趙武霊王為胡服、以金貂飾首。秦滅趙、以其君冠賜侍臣」と言い、応劭『漢官儀』は金=剛健・百錬不耗、蝉=高潔(「居高食潔」)、貂=内剛外柔、を比喩しているとするなど諸説ある。[上に戻る]

[2]このとき王敦は。鎮東大将軍、開府儀同三司、都督江揚荊湘交広六州諸軍事、江州刺史で、都督下の州郡の長官を自分で任命する権限を与えられている(『晋書』巻98王敦伝)[上に戻る]

[3]ちょっと異なる経緯を記しているのが『晋書』巻81朱伺伝と、朱伺伝をベースにしている『資治通鑑』。これらによると、鄭攀らは杜曾と結託して王廙を拒絶しようとしたが、趙誘、朱軌らを差し向けられると、誅殺をビビッて投降、杜曾も罪をつぐなうため、襄陽の第五猗を討伐したいと願い出た。しかしこれは王廙らを油断させる罠で、杜曾は王廙らを急襲し、さらに趙誘らも破って戦死させる。その後の経緯は特に本文の説明と変わりなし。鄭攀は結局降ったママ?っぽいが、馬俊と蘇温はそのまま杜曾軍にいた感じになる。[上に戻る]

[4]ホントはここらをいろいろ妄想考察してみたいんだけど、残念ながらあまりにも材料不足。最初考えたのは、摯瞻は第五猗と一緒に荊州に来て、なりゆきで反乱に加わってしまい、捕まったあとは王敦に罪を許され、その後は王敦の爪牙として働いた、というもの。ただこれは永嘉の乱前に王敦を頼ったという『摯氏世本』の記述と乖離してしまうし、微妙。『世説新語』本文の記述から見ても、摯瞻は多少王敦に反感をもっていたのかもしれないが、王敦派の一人ではあろうし、わざわざ王敦に背くまでの理由がなんかあったのだろうか。なさそうだから上記のように考えてみたんですけどね、もう完全に謎ですね。[上に戻る]

[5]江州は荊州と揚州のあいだにある州とイメージしてもらえるとよい。華軼は琅邪王が江南に来る以前から江州刺史として政治を執っており、なかなか評価は高かった。華北で劉淵や石勒らが跋扈しはじめても、洛陽に皇帝がいる限り皇帝の詔書以外の命令は聴かないと言い、江南で秩序を回復させようと努める元帝たちの命令を受けつけなかった(『晋書』巻61華軼伝「軼自以受洛京所遣、而為寿春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡県多諌之、軼不納、曰、『吾欲見詔書耳』」)
 やがて洛陽が陥落し、荀藩が元帝を盟主にしようとの檄を飛ばしても元帝に従わなかったため、とうとう元帝から討伐部隊を差し向けられ、殺害されてしまった。華軼が辟召していた高悝という人物は、華軼の二人の子と妻を何年もかくまい、大赦が出てからかくまっていたことを出頭したというから、華軼は反乱者扱いにされていることがわかる。
 たしかに華軼は融通が利かないが、言い分が間違っているわけではない。懐帝はまだ存命中だし、元帝が後継者に指名されたわけでもない。荀藩が勝手に言っているだけだ。元帝に法的正当性がないことは元帝たちだって知っているだろう、だからこそはじめから武力を使用しなかったものと思われる。
 元帝も懐帝・愍帝ら中原政府から正当性を付与されているにすぎないのだが、懐帝・愍帝をタテにとって元帝の言うことを聞かないやつらが邪魔でしょうがなく、そうなると懐帝や愍帝すらも元帝にとっては邪魔だっただろう。そういった建前と本音がこれらの事例には垣間見えるよね。元帝の正当性/正統性の弱さゆえ、最終的には武力で無理矢理聞かせていき、人々も中原政府には期待できないからだと元帝に服従していったこの時期の政治的過程がよく想像できる。[上に戻る]