2014年11月30日日曜日

西晋時代の軍隊に非漢族兵士はどのように組み込まれたのか?



 『晋書』巻48段灼伝より、西晋の段灼が晩年に武帝に奉じたという上表を取り上げます。
 時期はおそらく武帝の天下統一から間もないころだと思われれる。
 どうしても死ぬ前に、武帝にモノ申しておいてオレはできるやつなんだぜってアピールをしたかった統治術の心得を五つの方面から進言したというやつで、以下は「信頼はちゃんと固めようね」っていうポイントについて意見している箇所からの引用。
四つ目に、法令や賞罰は信頼が肝要でございます。・・・わたくしが以前に西郡太守であったころ、(涼)州に己未詔書が下されました。詔書には「(このたびの遠征は)羌胡にとって路程が遠く(嫌がる者が多いだろうから)、行きたいという者だけを募集せよ。強制してはならぬ」とございました。わたくしは詔書の命令を承ると、恩賞を明示したうえで公募し、応じて来た者の人名を箇条書きにして征西将軍に申告しました。そもそも晋人であれば、わたくしみずからが壮健な者を選抜して、法に則って徴発することができますが、羌胡についてはというと、恩賞が出なければ(ここから南の)金城や河西まで行こうとする者はおりません。(そのため)以前より、軍を起こして黄河を渡るたびに必ず(羌胡のあいだで)変事が起こったのです。(そこで)もとの涼州刺史の郭綏はなるべく正直な者を兵に加え、励ましをかけて(精神的距離を埋め)、必ず大きな褒賞を与えると約束したのでした。かくして募集に応じた者たちは、この恩に感激し、かつ褒賞を得ようとつとめたので、ついに天下第一の功績をあげたのです。現在の州郡の都督や将軍はすべて(このときに)封爵を与えられ、羌胡のつわものたちは王や侯になり、みなが叙勲を得たのでした。(其四曰、法令賞罰、莫大乎信。・・・臣前為西郡太守、被州所下己未詔書、「羌胡道遠、其但募取楽行、不楽勿強」。臣被詔書、輒宣恩広募、示以賞信、所得人名即條言征西。其晋人自可差簡丁強、如法調取、至於羌胡、非恩意告諭、則無欲度金城河西者也。自往毎興軍渡河、未曾有変、故刺史郭綏勧帥有方、深加奨励、要許重報。是以所募感恩利賞、遂立績効、功在第一。今州郡督将、並已受封、羌胡健児、或王或侯、不蒙論敘也。)
 さて、ここで述べられている経験談をもうちょい掘り下げてみよう。

 まず地理関係から。西郡は涼州の属郡。なので文中の「州」は涼州を指すだろう。
 わたしのもてるすべての技術を用いて表現すると・・・

     ・張掖
     
       ・西郡
       
         ・武威    【涼州】
     ・西平          ↑
   ―――――――――――――黄河
         ・金城      ↓
                 【秦州】

 すまん、こんな感じで許してくれ頼む
 だからその、西郡は涼州のうちでは東側で、金城は涼州の南の境界のそば、黄河のすぐ南にあるのです。

 つづいて人名。
 郭綏はほかの箇所に見えず。まあいいでしょう。
 見るからに征西将軍のほうが大事でしょ。こいつは誰を指しているのか。

 まず挙げたくなるのは鄧艾。というのも、この段灼、以前は鄧艾の部下で、けっこう彼に心酔しているらしいのである。引用した上表とは別の、彼の提出した上書には「故征西」として鄧艾のことも言及されているし、鄧艾の可能性を考えたくなるのだが・・・鄧艾ではないと思う。

 いやなんというか、魏の時代の話をしている感じではないと思うんだよね。冒頭で説明したけど、これ晋の武帝に奉じた文章だから。「己未詔書」ってのは、魏の時代に下された詔書ってのではなくて、「陛下はこういう詔書を下されましたよね」って意味なんじゃないか。なお「己未」の干支は詔書が下された日付を指しています、年月ではありません、というふうにわたしは教わっています。
 それと文中の「晋人」。原本ママの表現だとすれば、「一般人民だったらこうしたんですけど、非漢族はできませんでした」と言っているわけだから、己未詔書の指令が下されたのは一般人民が「晋人」と呼称される時代=晋の時代と考えるべきではないだろうか。

 というような諸々の理由につき、わたしは「征西」を鄧艾と解釈しません。晋の武帝治下における征西将軍だと思います。
 じゃあ該当者には誰がいるのか。一人おるわけです。そいつは司馬懿の息子のうちでも秀才と評判の司馬駿。武帝紀によると、彼は咸寧2年10月に鎮西大将軍から征西大将軍へと昇格している。
 もうちょい詳しい経歴を『晋書』巻38宣五王伝・扶風王駿伝から一瞥しておこう。
汝陰王の駿は鎮西大将軍、使持節、都督雍凉等州諸軍事に異動し、汝南王の亮と交代して関中に出鎮した。・・・咸寧年間のはじめ、羌の樹機能らが反乱を起こしたので、駿は征伐軍を派遣し、3000あまりの首級を挙げた。征西大将軍、開府儀同三司に昇進し、持節と都督は以前のままとされた。また、駿に詔が下り、7000人の軍隊を派遣し、涼州の屯田兵と交代させるよう命じられた。樹機能や侯弾勃らは交代以前に屯田兵を拉致しようと目論んだが、駿は(それを察したので)平虜護軍の文俶に涼州・秦州・雍州の軍を統率させ、各所の屯田地に進ませて樹機能らを威圧させた。すると樹機能は手勢の20部(の首長?)と侯弾勃を(文俶のもとへ)つかわし、(彼らに自分を)後ろ手で縛らせ、降服した。(首長らは)人質となる子弟を入れた。(遷鎮西大将軍、使持節、都督雍涼等州諸軍事、代汝南王亮鎮関中。・・・咸寧初、羌虜樹機能等叛、遣衆討之、斬三千余級。進位征西大将軍、開府辟召儀同三司、持節都督如故。又詔駿遣七千人代涼州守兵。樹機能、侯弾勃等欲先劫佃兵、駿命平虜護軍文俶督涼秦雍諸軍各進屯以威之。機能乃遣所領二十部及弾勃面縛軍門、各遣入質子。)
 ちょうどぴったりな感じのことが書いてあるね! すなわち、文鴦が司馬駿の命令を受け、涼州や秦州などの兵士を率いて樹機能を討ちにいったというのだ。
 ただし、駿伝では直接的戦闘があったとは記されていない。これでは「功績第一!」という段灼のアレをどう捉えたらよいのか。見栄? と言っても、相手は皇帝なわけで、世辞にしたってバレバレなウソをつくのもねー。
 ここの事柄について、武帝紀を見てみると、
咸寧3年3月、平虜護軍の文俶が樹機能らを征伐し、すべて撃破した。(三月、平虜護軍文淑討叛虜樹機能等、並破之。)
とあって、なんかいかにも「戦闘がありました」みたいな記述になっているので、本当には戦闘があったのかもしれない。といっても、これだけではちょっと苦しいね。

 とりあえず、征西将軍指揮下の軍事行動であることと涼州軍が参加していたことが明記されているので、有力な候補として留めておこう。

 別の軍事行動としては、これ以後におこなわれた二度のものが挙げられる。

 まず咸寧5年の軍事行動。
 この年の正月、涼州刺史の楊欣が禿髪樹機能に殺害されると、武帝は征伐隊として馬隆を中央から派遣、馬隆は12月に樹機能を斬っている。
 段灼が言っているのはこのときの戦闘のことではないか、とも思えるかもしれないが、史料的にそれを言うのはかなり難しい。
 一つに、さきに説明したように、このときは涼州刺史が亡くなっている。もっとも、没して間もなくに武帝が後任を任命したり、涼州の郡守が臨時代行(「守」)した可能性も考えられるので、刺史はそれほど大きな障害にはならない。
 むしろ問題はこのときの軍編成である。『晋書』巻57馬隆伝によると、このとき馬隆が率いたのは都で募集した3500人。そいつを率いて西行してゆき、樹機能を平定したという。馬隆伝にはそれだけしか書いておらず、このときに関西の都督の司馬駿がどの程度介入・援助したのかはまったく記述がない。それは駿伝にしたって同じ。
 それにこの戦闘の功績第一は馬隆および彼の直接指揮下の軍というのが当時の共通認識だろうから、そこで段灼が「涼州軍が一番!」ってやるのはさすがにいろいろとまずい。
 こんな大事な戦闘に駿が関与していないとは考えがたいのだが、記述がない以上、どうにも手の出しようがない。

 というわけなので、否定することもできないのだが、積極的な根拠もないので、有力候補とはいいがたい。

 次に挙げられるのは太康年間はじめになされた馬隆の征討なんだが・・・これは挙げてはみたけどかなり可能性は低い。
 馬隆伝によると、当時、西平太守であった馬隆が「南虜」を討ったというのだが・・・地理的に金城は関係なさそうだし、馬隆の郡守としての軍事行動だろうから、これに西郡太守の段灼が関わっていた可能性はかなり低い。とりあえず挙げるだけ挙げてみただけ・・・。

 これら以外にも記録に残っていない軍事行動があるだろうけども、残っている情報で考えるならば、司馬駿伝記載の咸寧2年のものが該当する可能性が高い、と言えるだろう。
 仮にそうだとすれば、なかなか興味深い事例じゃないですか。夷には夷をもって制すんでしょうか? それとも兵士が不足していたとか? 司馬駿伝の記事によれば、咸寧2年段階では涼州には守備兵=屯田兵が常駐していたみたいだけど、多くの人員はそれに充てられていて緊急編成軍には組み込めなかったとか?
 いずれにせよ、段灼の上表が樹機能のときのことを語っているのならば、当時の朝廷がどういう対策で臨もうとしていたかをうかがい知れる貴重な史料になりますね。

 ただ、私が一番気になっている問題はこの記事が指している事件のことじゃないんです。
 「羌胡」の語句なんです。これ、字義通りに受け取っていいんでしょうか?
 すなわち、羌と胡(匈奴)って言うけど、あのあたりは鮮卑もソグド人も・・・って、そんな細かいことはどうでもいいんです。
 そんなことではなくて、「羌胡」ってのは実は「無籍者」(籍に登録していない者)を指しているんじゃない?と解釈してみたいんだということ。

 段灼の「羌胡」に言及している箇所、どうも論点がおかしいように感じないだろうか?
 段灼は、晋人なら法に従って徴発できんだけど、羌胡は金城まで行きたがらないから面倒なんだよなー、と言っている。
 ちょっと待ってくれ。「行きたがらないから徴発できない」のならば、それは晋人にだって適用されるぞ。
 晋人は法の点から話をしていたのに、羌胡になると感情の点から問題が述べられている。論点がずらされていないか?
 いや、これはずれていないのだ、と解することも可能である。すなわち、「晋人の徴発は法的正当性があるので、有無を言わさず連れていけるが、羌胡については徴発に法的正当性がないので、無理に連れていこうとすると大きな反感を買ってしまう、だから詔書で合法性を確保しつつ、恩賞で釣るしかない」。こういうことを実は言っているんじゃないか。
 仮にこのように考えられるとして、さらにつっこんで考察していけば、晋人の兵役の合法性を保障しているのは、彼らが兵役・徭役負担者名簿に登録されていること(「傅籍」という)に存すると思われるのであり、だとすれば、兵役の合法/非法の境界は晋人/非漢族の区別というより、官庁保管の名簿に登録されているか/いないかの区分に合致しているのではないか。

 ということを思い立ち、非漢族の税役体系を調べつつ、一般編戸の税役徴収における理念的部分を勉強していましたが・・・
 断念しました・・・。
 まあ、、、無理くりに言おうとすれば言えなくはなさそうなんだけど、調べれば調べるほど、非漢族の税役はよくわからんのよね。

 私は当初、次のようなことを考えていました。
 一般的な兵役は一定年齢・身長に達した男子が登録される特定の名簿から選抜されるのであり、男子が一定年齢に達したかどうかを把握するためにはその男子があらかじめ官庁保管の名簿(「戸籍」あるいは「名籍」)に登録されている必要がある、また一つの戸から一人を徴兵する制度であったと考えられる、要するに兵役は彼が編戸であること(戸籍に登録されていること)を前提に構築されている、
 これに対し非漢族は、布やその他の貢納物の納付が地域ごと便宜的に定められており、兵役や徭役に相当するものはこれらの貢納の代替(「義従」)としておこなわれていた可能性がある、またこれらの納付に際し、一般的には首長が人数分をまとめて納付していたと思われる、官庁が名籍を作成・保管していた可能性は否定できないが、いわゆる「戸籍」は存在しなかったと考えるべきである、というのも、「戸」が形成されれば爵が賜与され、耕作地と家屋が支給され、里の責任者に自己申告して官庁に報告し、県の役人も数年に一度顔を確認しながら戸籍記録を改めたり等々、「戸」を形成するというのは思った以上に面倒な手続きやら何やらがついてくるのであり、それらを非漢族にまで一々やっていたとは思えないし、爵の賜与対象とも考えられない(段灼の上表にある「或王或侯」とは封地が実際的にも観念的にも存在しない称号としての意味あいしかない)、以上より、そもそも編戸ではない非漢族には編戸と同様の兵役負担が存在せず、非漢族と地方官庁があらかじめ合意を得ている場合を除いて、兵役を負担する義務はない、そのため臨時的に合法性を確保したり、代替の恩賞措置を取るなどの手続きが必要となる。

 以上のような仮説を立てていたんですが、まあこれがなかなか厄介というか面倒というか・・・
 編戸については山田勝芳氏や鷲尾祐子氏などを参照しているんで、私の誤読でない限りはそんなに外れていないと思うんですが、いかんせん、そもそもの知識が乏しいだけに、非漢族のケースをどう考えたらいいのかわからんのよね。
 調べれば調べるほどよくわからん事例があるし・・・。
 例えば、張家山漢簡の「奏讞書」に徴兵されたけども途中で逃亡した蛮の男子の案件が記されているけど、そのときの蛮夷の言い分「首長が特殊な待遇を受けており、毎年銭を納めることで租税と労役の税分を負担していたものだから、兵役に関しても免除されていると思っていた」、官吏の言い分「銭の納付で税と徭役を負担していることに定まっているけど、蛮夷律に徴兵するなって書いてないし、違反とは言えないね」、というその理屈は通じていいのかって感じなんだが(詳しくは『宋書』百官志訳注(6)の注[2]、それはともかくも、この事例は、非漢族はやっぱり税役の負担の仕方が特殊であり、それはそもそも非漢族が編戸ではない=戸を形成していないからなんだろうという上記の仮説を傍証しているかのように見えるが、だが一方、徴兵が可能であったということは兵役負担者を記録する特定名簿に記録されていたということでもあるのではないだろうか、そうなるとどういうことなんだ、非漢族も登録されていたのか? これ以上はもう考えたくありません。

 それに、魏晋だとあの「兵戸」っていう特殊な兵役制度もあるじゃん? いや兵戸があったとしても臨時兵役や徭役はあったと思うんだけど(もっとも、後漢は銭納での代替が一般的だったらしいが)、そもそも同時に税の徴収単位も変わったとかなんとか言うじゃない(戸調式ってやつ)、あんまり学んでこなかったとこだから詳しくは知らんのだけど。

 だからまあ、気づいちゃったよね、「あ、これ手に負えないな」って。

 この段灼の上表、樹機能の乱の知られざる裏側かもしれないという以上に、当時の徴兵の仕方をうかがわせてくれる史料としておもしろかったし、この簡単な記述には深い法的背景があるんじゃないかと予感させてくれたが、あまりにも深かったよ、闇が。

 でもやっぱり、「羌胡」っていうのは無籍っていうかゴロツキっていうか、そういう情景しかイメージできないんだよなあ・・・。
 もちろん非漢族にも告示はしたんだけうけどさ、ってかこの地域って後漢ころは「義従胡」がたくさんいたらしいからプロフェッショナルやつが多かったんだろうけどさ、そこらをぶらついてる、明らかに役所の登録から漏れているだろう流人に「おいそこの、ちょっとやってこうぜ」みたいな、そんなスカウトをやって集める――ってのはさすがに手間がかかって人件費がやばいことになるからやんないだろうけど、そういう人たちも全然応募して問題なかったと思うし、実際告示の板なんかにも「腕に自身のある羌胡求む」みたいな限定はしなかったっしょ、たぶん。    

2014年11月24日月曜日

で、尚書って何してたとこなの



 先日、『宋書』百官志の訳注で尚書の項目をアップしたところなのだが、よく考えたら尚書ってとこがそもそも何をするとこなのか/しているとこなのか、よく理解していないことに気づいた。
 それでまあ、主に漢代だけども、尚書関係の研究論文を取り寄せたりして、基礎的なところから勉強しようとしたんですね。

 しかし、結局全然わからなかった。
 と、そう言ってしまっては一向に身動きが取れずこの気持ちの悪さを中和することもできないので、とりあえずはつれづれに書きなぐってみることにする。


 尚書の基本的な業務は公務文書の伝達・取次であるらしい。
 それだけ。
 え・・・

 想像力を働かせて考えてみる。
 彼らが取次いでいた文書は皇帝と官庁の間を行き交う文書である。
 なんでその、要するに皇帝の書記官だよね。官庁から来た文書をそのたびごとにいちいち皇帝が受け取るのもめんどくさいし、官庁に渡すときもいちいち訪問しに行ったのでは皇帝の権威って何なんだろうね。
 だから書記官を置いておいて、彼を窓口にしておく。官庁から来た文書はとりあえず全部この窓口に集めておいて、一定程度集まったら皇帝に届けに行くとか、そんな感じなんじゃないの。逆もまた然り、だろうか。
 漢代は尚書が少府に所属していたってのも、やっぱり皇帝の書生というか小間使いというか、皇帝の業務や生活を補助する官であったことを暗に示しているよね。

 以上を踏まえてまず触れてみたいのは、「領尚書事」というやつ。
 周知のように、前漢の霍光に由来し、「尚書事」を「領」(代行)することによって、強大な権力を把握した。
 なんで強大な権力を握ったのだろう? 西嶋定生氏は次のように説明している。
当時の上奏文はかならず正副二通を必要とし、上奏がなされると、尚書はまずその副本を被見して、これを皇帝に取り次ぐべきかどうかを取捨選択した。当然、尚書の意にそわない上奏は、その段階で破棄されることになる。また詔書の下達を職務とすることによって、国家の枢機にふれるために、しだいに実質的な権限をもつこととなり、ついには政策の立案と事実上の決定とが尚書の手によって行われることとなった。このようにして、少府の一属官にすぎない尚書は重要な職責をもつ官職に転化した。(西嶋『秦漢帝国――中国古代帝国の興亡』講談社学術文庫、1997年、p. 288、原著は1974年)
 古いし概説書だが、手元に新しいものがないんで仕様がない[1]
 この記述、論理的に理解できない箇所がある。
 まず「政策の立案」という部分だが、仮に尚書が検閲の職務をなしていたとすれば、たしかに政策の「決定」に彼らが関与するようになるのは比較的自然のように思える。
 だが、検閲が仕事の官がどうして政策の企画立案まで行うようになるのだろう。検閲とはそもそも次元の異なる役割だと思うのだが。それともあれか、上奏される企画がことごとく皇帝や自分たちの意に沿わないから「もうオレたちでやってやんよ」ってなったわけか。ただの伝達係が?

 それから詔書の下達をやるから機密に触れるようになって~というやつ、これもよくわからん。結局その情報は官庁にも行くから尚書だけ特別とも言えないんじゃないの・・・。
 尚書はどの官庁の機密情報も握ってるから!っていうのならわかるが。でも、機密に触れるようになったから要職になったというロジックはわかるにしても、どうしてそれで「実質的な権限」をもつようになったのか。

 漢代の尚書研究は基本的に、魏晋南北朝や唐代に見られるような、執行権力組織としての尚書を念頭に置いていると思う。だからわざわざ、ここで尚書が行政権力を握りはじめた起源を説明しようと試みているようだが、残念ながら、私にはあまり合理的に見えない。逆に、論理が飛躍していることから見ても、前漢の尚書が魏晋・唐代の尚書になるためにはなんらかの飛躍が必要であったのだ、というのは言葉遊びがすぎるが、上述のようなロジックで安住してはいけないほど、かなり謎は深いと見るべきである。

 という疑問はじつは脇道で、ここで話題にしたかったのは「領尚書事」です。
 前述したように、これは「尚書事」を「領」=代行/兼任するという意味だと思われる。
 なるほど、そうなると霍光は幼少の昭帝の犬となって文書を運びまわっていたわけですね。

 そんなわけがありませんね。
 何が言いたいかというと、従来「尚書事」は「尚書の業務」を指していると解釈されてきたと思うが、それでは単に文書の取次を代行でやるようになったという意味だ。どうして霍光のような高官がそんなことをわざわざやらねばならんのかね。
 いやそんなことはない! 西嶋氏が言っているように、上奏の検閲権があって自由に上奏の取り下げまでできたんだ! だから「尚書の仕事」は莫大な権力を伴うんだ!
 という反論は容易に予想される。ではそこで、西嶋氏(および西嶋氏が拠ったと思われる先学)が根拠としてきた史料を見てみよう(『漢書』巻74魏相伝)
(魏相が河南太守になってから)数年後、宣帝が即位すると、魏相を中央に召して大司農に任じ、ついで御史大夫に移った。四年後、大将軍の霍光が没した。宣帝は霍光の功績と人徳をかんがみ、子の禹を右将軍に、兄の子の楽平侯山を領尚書事とした。平恩侯の許伯が封事を上奏した機会をとらえて、魏相は進言した、・・・。また漢の慣習では、上書するときは必ず二枚作成し、そのうち一つを控えとする。領尚書事は(上書を受け取ったら)まず控えの封を切って(内容をチェックし)、内容がよくなければ却下し、上書を皇帝に奏しなかった。魏相はこれまた許伯の上奏の機会を利用して進言し、控えの封を切る手続きを廃し、秘密を防ぐよう提案した。宣帝は良い進言とし、詔書を下して魏相を給事中とし、すべて魏相の意見に従った。(数年、宣帝即位、徴相入為大司農、遷御史大夫。四歳、大将軍霍光薨、上思其功徳、以其子禹為右将軍、兄子楽平侯山復領尚書事。相因平恩侯許伯奏封事、・・・。又故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、領尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏。相復因許伯白、去副封以防雍蔽。宣帝善之、詔相給事中、皆従其議。)
 関連して『漢書』巻68霍光伝も見ておこう。
霍光が没すると、宣帝はみずから朝政を執るようになり、御史大夫の魏相が給事中となった。・・・ちょうど魏相は丞相となると、しばしば宣帝のくつろぎのときに謁見し、政事の案件について言上した。平恩侯の許伯と侍中の金安上らも宮中に出入りして(進言して)いた。当時、霍山は依然として領尚書事であったが、宣帝は官吏と人民に封事で上奏させ、尚書を関与させずに(自分のところへ文章を運ばせたので)、朝臣は単独で謁見して言上することができるようになった。ゆえに霍氏はこの事態を苦々しく感じていた。(光薨、上始躬親朝政、御史大夫魏相給事中。会魏大夫為丞相、数燕見言事。平恩侯与侍中金安上等徑出入省中。時霍山自若領尚書、上令吏民得奏封事、不関尚書、群臣進見独往来、於是霍氏甚悪之。)
 これらの史料を見て「やっぱりそうじゃないか、尚書はとんでもないとこじゃないか!」と思うのは軽率である。
 よく見てみると、魏相伝で問題に挙げられているのは「尚書」じゃないか。・・・おかしくない?
 尚書が上書を自分の裁量で進めたり退いたり~って業務をやっているんだったら、「領」の字は明らかにいらないよね・・・。
 でまあ、『漢書』の用例から見ると、「領尚書」は領尚書事を指しているのだろうと。
 とすると、上の文章は、領尚書事はそういうことをやっているとは言えても、尚書がそういうことをやっているとは言えないじゃん。
 それにまあ、尚書が仮に上のようなことを職務として遂行していたとして、「領尚書事」って言い方はやっぱりおかしいと思わない?
 だってそうであるなら、尚書令か僕射か知らんけど、尚書の官に就任するか兼任するか、その官に就けばそれでいいやんね。どうして「領」の対象が尚書の官ではなく「尚書の事」なのだろう。
 つまり、尚書の官を「領」しても上のようなことはできんのだが、「尚書の事」を「領」すればできるという、そういう話なんじゃないの?

 それでも、霍光伝の記事を見ると、やっぱり領尚書ってのは尚書の業務を代行しているもので、それは文書の検閲って意味なんじゃないの? って思えてくるかもしれない。
 これについては、米田健志氏の「尚書事」解釈を参照し、考えてみよう[2]
 氏は、「尚書事」の「領」(代行)っていうのは、言い換えれば「皇帝の代行」でしょ、と解している。
 どういうことかというと、「尚書の業務」(取次)を代行ってのはいくらなんでもわりにあわない、「領尚書事」が意味しているのは、尚書から送られてくる文書を決裁すること、すなわち皇帝の文書業務を代行するってことなんじゃなかろうか、という具合だ。
 重要なのは、「尚書事」を「尚書の業務」ではなく「尚書から送られてくる文書の仕事」の意味に解したこと。ちょっと無理矢理に聞こえる気もするかもしれないが、『宋書』百官志などの史書に「尚書奏事」という用語が見え、文脈的に「尚書から上奏されてきた文書の案件」の意であるらしいことを踏まえると、米田氏の「尚書事」解釈はこじつけでも何でもなく、妥当であるとすら言えるだろう[3]
 こういうふうに「尚書事」を理解すれば、霍光伝の記事だって、尚書から文書が送られてこなければ領尚書は何もできんのも当然じゃん、ってうまく解釈できるね。

 以上、「領尚書事」について述べてきたが、私は米田氏の解釈が妥当なんじゃないかと思っている。
 だとするとですよ、じゃあなんで尚書は行政権を手中にするようになったの?
 上述までの解釈に基づけば、尚書には上奏して検閲し、それを決裁する裁量は有していなかったことになる。いやさすがにそれはちょい言い過ぎで、封を切って検閲くらいはやってたんじゃないかと思う。けど取り下げなどの裁量まではもってなかったんじゃないかぁ。
 それに前述したけど、そういう権限をもっていたからといって、魏晋以後のような行政府としての機能に一直線に進展しないよね。繰り返すけど、決定権があることと政策の企画を立てることは別の仕事だよやっぱり。

 私は、直感的なものにすぎないが、このヒントは尚書のもう一つの要務、公文書の起草にあるように思う。
 この職掌も先学で言及こそされてきたが、これまた米田氏が言うように、従来は文書伝達業務が権力の強化に寄与したのだろうと考えられ、過度に注目されてきた結果、ついつい視野から外れてしまってきた感がある。
 しかし、尚書の本質部分はむしろこっちの仕事なんじゃないかとすら私は思っている。
 『宋書』百官志を訳注してて感じたことなんだけど、要するに尚書台って作家集団みたいなところだと思うんだよね。作文技術で雇われてる。実際、尚書の下っ端である尚書郎は作文能力の試験に合格しないとダメだからね。
 ランサーズのようなフリーランスの求人サイトで作文の仕事を探してみたことがある人は感覚的にわかってくれると思うんだが、例えば皇帝が「こういう詔書下してぇー下してぇーわ」と思ったとするじゃない? そしたら尚書令だか僕射だか、まあそいつらに言うわけ。そんでその依頼がその分野を得意とする部署の尚書郎に発注され、彼は皇帝の要望をもとに、うまーく文飾とかを散りばめて「いかにもプロっぽい人が書いた文章」ないし「一般官僚が読んでも不自然に思わない文章」なんかを作成して納品、で、おそらくその部署のボス(列曹尚書、僕射)がそれをチェックし、晴れて下されるわけ。
 かなり妄想が入ってしまったが、作文の求人でもよく、「物件を紹介する文章を依頼します。以下の要領は守ったうえで、あなたの作文能力を振るってください!」とか、そんな感じの案件あるじゃない。あれと同じようなもんだと私は思ってるんです。自分で書くのはめんどいからその能がある人、時間がある人にやらせようっていうね。

 と、やや大書してしまったが・・・
 そもそも作文は尚書に当初から課せられていた職務だったのだろうか? という疑問も一方では抱いている。
 だって尚書の人員は成帝の建始四年まで一人で、そのときになってようやく五人に増やされた程度ですよ?
 それまで詔書の起草は尚書一人でやってたってことになるんですがそれは・・・ありえますよね、皇帝が自分ですべて書くとも思えないし。
 人員が増加されたのは、識字率の増加っていうか、文書による行政の新党具合なり緻密化なりと関連があるかもしれない。つまり発行する文書や届く上書が多くなりすぎて尚書令一人(もしくは皇帝)では担当できなくなったとか、そういう背景なのかもしれない。
 なんでまあ、作文がはじめから尚書の職掌だったかはわからんけど、皇帝の実務的に考えても、はやくに尚書に委託された職務だったんじゃないかなと思っています。

 そんでどうしてこれにフォーカスしたのかっていうと、そいつは尚書がどの範囲の公文書まで作成していたのかってところがポイントだと思うからですよ。
 まず「詔令」、すなわち皇帝が下達する文書は尚書の筆に成ったと考えられる。
 そこはいいんですよ、先行研究でも(いろいろややこしい経緯はあったらしいが)確認されているからね。
 問題は「章奏」、すなわち朝臣から皇帝へ進められる文書なわけです。
 さすがにそれらは尚書が作ってねーだろw
 と思われるでしょう。魏相伝を見る限りでも、上書をしたい朝臣は自分で二通作成して持参せねばならんようだから(もちろん、やっぱり自分で書く必要はなく、府に書記官がいればそいつに書かせればよかろう)。
 でも、唐代の成立ではあるけど、次の『通典』の記述はどうしても気になる。
(尚書郎は)文書の作成を職掌とする。五十歳未満の孝廉合格者から登用するが、(その際には)まず箋や奏などの上書文作成を試験に出し、出来の良い者を選抜する(主作文書起草、取孝廉年未五十、先試箋奏、選有吏能者為之)
   ここで上書文の作成を試験に出しているってことは、尚書郎はそういう文書を書く機会が多かったことを示しているんじゃ、ってどうしても自分は思っちまいます。

 これだけでは根拠があるとは言えないし、現実的でもないわけだが、仮に尚書がそういう上書の文書まで作成を担当していたらどうだろう。官庁から「こういう感じの政策考えてるんだけど~」って来たら、尚書は「じゃあオレたちで書いてみるわ」みたいなそんな感じ? なんか尚書、ずいぶん偉くなった感じだよね。
 そうなんです、ここで想定している尚書は魏晋以後の尚書です。
 魏晋以後の尚書は、官庁から上書が届いたら、それをいったんチェックし、問題がなかったら皇帝のところへいき、そこで読み上げるような、そういう政策企画の伝達係ではなく、自分たちで政策企画の上書を作成し、皇帝のところへ(中書を介して)届けた。
 いや当然っちゃ当然ですけど、「上書を作成するのはだれか」って視点から尚書のことを考えたことはいままでなかったんですわ。
 この転換が案外大事なんじゃないかと思ったのは、本ブログで訳出した李重伝を読みなおしたとき。西晋の李重は尚書吏部郎に就任すると、何人もの人材を見いだしつつ、不適切な人間は要職に就けなかったと褒められている。
 いや、おかしくない? 彼はたかが尚書郎ですよ。『宋書』百官志をご覧ください。そこで描かれているのは漢代、しかも少なくとも後漢中期以降だとは思うけど、その時期の尚書郎は五日間宿直して文書(詔書など?)を作成するとか、皇帝のとこへいって上書を読み上げるとか、読むときはフリスク噛んでなければならないとか、そんな仕事ですよ。
 それがどうして李重みたいなことできんの、どうしてここまで変わってんの、ってあらためて考えたわけだけど、いやでも、と思ったわけです。公文書を作成している点では変わらないんだろうなと。
 だからまあ、私的にはですね、尚書が行政権を握りはじめたのはどういう経緯で~って議論は次のように問題を絞るべきだと思う。
 「官庁(いわゆる外朝)が本来作成すべき文書まで尚書が担当しはじめるのようになったのはいつか」。
 尚書による案件の判断がよく重視されるけど、これまた繰り返すが、その権限じゃあ行政までいかないと思うんで。
 この件は皇帝がどういう経緯で尚書に詔令の作成を委ねるようになったのかという事柄と相通じていることかもしれないが、どうだろう。
 こう釘を刺しておくのは、尚書が作成するようになったからといって、それがただちに尚書の行政権掌握を意味するのではないからだ。最初は作成の手間を省くために尚書に委ねただけだったのかもしれない。結果的に行政権の把握までいたっただけかもしれん。

 と、こんなに長く書くつもりはなかったんだけども、ついこんなことに・・・。
 自分でも何に引っ掛かりを覚えているのか、いまいち整理できてないんですね。書いてるうちにある程度まとまるだろうかと期待していたのだが、そんなことはなかった。
 あと、あんまり挟めなかったけど、尚書の時代的変化というか、時間的要素はもっと考慮すべきかもしれない。尚書関連で比較的整っているのは、じつは『宋書』百官志の記述なんですよね。しかしあれは蔡質(蔡邕の叔父)の『漢官典儀』や応劭『漢官儀』あたりが元ネタっぽいので、後漢後期の尚書と考えた方がよさそうなんだ。だから、それ以前の尚書は用例を見ていきながら考えるしかなさそうだね。
 悔しく思うのは、この時期の宮城の風景というか、尚書をはじめとする官僚たちの仕事の場がイメージできないこと。つくづく、これが頭に浮かばないのがなあと。言うて現代の官僚も何してんのか知らんけどね。

 ついでに、後漢の尚書もちょい調べた限りで触れておく。
 わたしが目にした限りで、重要だと思われたのは『後漢書』伝36陳寵伝。
陳寵は三度官を異動して、章帝のはじめ、列曹尚書となった。当時、永平の故事を受け継いだ時代だったので、文吏による政治は依然として厳格で細かく、尚書の決裁も徐々に重要な仕事になりつつあった。(三遷、粛宗初、為尚書。是時承永平故事、吏政尚厳切、尚書決事率近於重。)
 「永平」は明帝の元号。光武帝と明帝は実務(法律とか文書業務に明るい官吏、このような吏を「文吏」と呼ぶ)を重視し、みずから積極的に関与した皇帝として知られている[4]。よっぽど厳しかったらしくて、後漢書を見るともう、明帝といったら苛酷って言葉が出るくらい。
 尚書といえば、やっぱり文書に関わるところだから、それと関連して重視されはじめたのだろうけども、「尚書の決裁」と訳した「尚書決事」とは一体何を指しているのか、もうちょい慎重に考えるべきだろうか・・・。
 合わせて関係ありそうなのが後漢末の仲長統『昌言』法誡篇(『後漢書』伝39仲長統伝引)
光武帝は数代の間(劉氏が)権力を失ったことを反省し、強大な臣が天命を強奪したことに憤っていた。そこで曲がったものを元に戻そうとするあまりに度がすぎてしまい、政治を臣下に委ねず、三公を設置したところで(彼らに政治をおこなわせず)、政治は尚書台に帰した。以後、三公はポストが存在するだけとなった。(光武皇帝愠数世之失権、忿彊臣之竊命、矯枉過直、政不任下、雖置三公、事帰台閣。自此以来、三公之職、備員而已。)
 文中、「尚書台」と訳した「台閣」は必ずしも尚書台を意味するのではないという指摘もあるのだが、ここは文脈的にも尚書台で構わんと思う、というかじゃないと通じないと思う。
 そんでこれに関連するのが、陳寵の子・忠の伝に見える記述。
当時〔安帝の時代〕、三公の職務は責任が軽く、重要な事柄はもっぱら尚書に任されていた。しかし災異が起こると、そのたびに三公が罷免されていた〔天人感応説〕。陳忠は、この有様は国家のかつての体制ではないと考え、上疏して諌めた、「・・・漢の故事では、丞相が要請した事柄は必ず採用されていました。ところが現在の三公は名ばかりで実質がなく、選挙や賞罰はすべて尚書に決定されています。尚書の現在の職責は三公より重く、陵遅〔ゆっくり徐々に衰えること、陳忠の別の上書の用例を参照すると和帝時代以降というニュアンスっぽい〕以来、このような傾向が徐々に進行して久しいものがございます。・・・」。(時三府任軽、機事専委尚書、而災眚変咎、輒切免公台。忠以為非国旧体、上疏諌曰、「・・・漢典旧事、丞相所請、靡有不聴。今之三公、雖当其名而無其実、選挙誅賞、一由尚書、尚書見任、重於三公、陵遅以来、其漸久矣。・・・」。)
 こっちだと「陵遅」以後、たぶん和帝以後?だけども、とりあえず章帝以後に尚書重視の傾向が顕著になったと言っているね。
 なんだ、前漢の尚書とはもう全然違うんだろうなってのは感じるよね。そのきっかけが「諸功臣・外戚への権力集中を抑制しながら、文吏的官僚を駆使して法による皇帝一元支配の樹立を図った」光武帝・明帝の「統治理念」(東氏前掲書、p. 49)なのか、章帝以後の幼帝即位なのか、それはちょっとわからないが。
 もう一つ後漢の尚書で大事なのが録尚書事。こいつについては伝66陳蕃伝が興味深いかも。
永康元年、桓帝が崩御した。竇皇后が臨朝し、詔を下した、「・・・陳蕃を太傅とし、録尚書事とする」。ときに、(国家は)皇帝の崩御という事態に直面しながら、後継者はまだ決まらない状態であった。尚書官は権勢を誇っていた官〔宦官?〕を恐れ、病気と称して出勤しなかった。陳蕃は書簡を送って彼らを批判した、「いにしえの人は主君が崩じても自身は生きて職務を全うし、節義を立てたのだ。現在、皇帝はまだ決まらず、政治は日増しに緊迫している。諸君らよ、父たる帝を失った苦しみから逃れ、ベッドで休んでいる場合かね。その程度の義で仁者たることはできぬぞ」。尚書らは恐々としながらも、みな出勤して政務を執った。(永康元年、帝崩。竇后臨朝、詔曰、「其以蕃為太傅、録尚書事」。時新遭大喪、国嗣未立、諸尚書畏懼権官、託病不朝。蕃以書責之曰、「古人立節、事亡如存。今帝祚未立、政事日蹙、諸君柰何委荼蓼之苦、息偃在牀。於義不足、焉得仁乎」。諸尚書惶怖、皆起視事。)
 この事例から判断すると、録尚書事は尚書たちの元締めみたいな立場だったんだろうな。
 領尚書事が前述したような理解で大過ないのであれば、じゃあ後漢の録尚書事は何なのって当然なるわけで。後漢の尚書は何をしていたのかを究明しつつ、調べなければいかんだろう。


 尚書について思ったことを思ったままに書きなぐってみました。


――注――

[1]さすがにこれだけでは不安なので、図書館で新しい概説書を確認してみた。以下の通り。

尚書とは少府の属官で官秩は低いが、詔書の下達や上奏の皇帝への取次ぎなど行政上最重要の文書を扱うことを職務としていた。したがって、幼帝を身近に輔佐するという実務を通して実質的には政策の立案権をも把握しうる地位にあったのである。(『世界歴史体系 中国史1 先秦―後漢』山川出版社、2003年、pp. 418-419、執筆:太田幸男氏)

尚書の職務を兼ねて国政に関与うるという独裁権力は、前漢昭帝のときの霍光に始まっていた。(鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産――秦漢帝国』講談社、2004年、p. 311)
 そんなに西嶋氏と違ってなかった。[上に戻る]

[2]米田健志「前漢後期における中朝と尚書――皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64-2、2005年)、なお『東洋史研究』なのでCiNiiからPDFで閲覧可能。[上に戻る]

[3]たしか米田氏も引用していたが、次の『漢書』巻74丙吉伝の記述もかかる「尚書事」解釈の根拠となりうるだろう。「霍氏が誅殺されると、宣帝はみずから政治を執り、尚書事をみた(及霍氏誅、上躬親政、省尚書事」。みずから政治を執ること(親政)と尚書事の遂行がセットになっていることから考えると、ここの「尚書事」は「尚書から送られてくる文書案件」の意で、それを「省(み)る」=処理するということなのだろう。霍山が領尚書事であった際は宣帝単独でおこなうことはできなかったが、領尚書事がいなくなったことで、誰も介さずに皇帝だけで決定することができるようになった、ということを記述しているんではなかろうか。[上に戻る]

[4]東晋次『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、1995年)第1章第1節参照。[上に戻る]

2014年11月16日日曜日

『宋書』百官志訳注(9)――尚書

 尚書はいにしえの官である。舜が(堯を代行して)帝位につくと、龍〔人名〕を納言に命じたが、すなわち納言が尚書の職務に相当する[1]。(また)『周礼』には司会なる官が記述されているが、鄭玄は、現在〔後漢〕の尚書にあたると注している。秦のとき、少府が所属の吏四人を派遣して殿中におらせ、文書の発布を担当させたので、(その任にあたった者を)尚書と呼んだ。(これが尚書の起源である。)「尚」は「主」〔つかさどる〕の意味である[2]
 漢のはじめ、尚冠、尚衣、尚食、尚浴、尚席、尚書が置かれたが、これを六尚と言った。(これらの官のもとをたどると、)戦国の時代、すでに尚冠、尚衣に相当する官は置かれている。(一方で)秦のときになって、(はじめて)尚書令、尚書僕射、尚書丞が置かれた。漢のはじめは(六尚は)みな少府に所属しており、東漢でもなお文官として(少府に)所属していた。いにしえは武官を重視し、射撃を得意とする者に(官僚の)仕事をさせたので、「僕射」が名称になったのである。僕射は射撃の仕事に従事する者という意味である[3]

 秦の時代、左右曹諸吏がいたが、この官に定まった職務はなく、将軍・大夫以下、みなに与えられる加官であった[4]。漢の武帝のとき、左右曹諸吏に尚書奏事〔尚書が奏上する事案〕を分担して検討〔原文「分平」〕させた〔尚書から上達されてきた奏文を検討し、皇帝の判断に資する意見を出す、あるいは皇帝に代行して決済する、ということか〕。昭帝が即位すると、霍光が領尚書事となった〔「領」は原文ママ。おそらく兼任とか代行の意〕。成帝のはじめ、王鳳が録尚書事となった〔「録」は原文ママ。おそらく統べるとかそんな意味〕。東漢では皇帝が即位するたび、太傅を置いて録尚書事としていたが、(その者が)薨じたら廃していた[5]。晋の康帝のとき、何充の「譲録表〔録尚書を固辞する上表〕」に、「(晋の)咸康年間、分割して三録〔原文ママ〕を置き、王導がそのうちの一つを録し、荀崧、陸曄がそれぞれ録六條事〔原文ママ〕でした」とある[6]。であれば、(この場合の「三録」とは合計で)二十四條あるようだ。(というのも、)十二條だけであれば、荀崧、陸曄でそれぞれ「録六條」なのであるから、王導が何を管轄することになるだろうか。(あるいは)もし王導が三録全体を統括する立場にいて、(その下に)荀崧、陸曄が分担していたと解釈したら、それはそれで「王導がそのうちの一つを録す(導録其一)」とは言えないはずである。その後、(晋では)つねに二録が置かれていたが、そのたびに「それぞれ六條事を掌らせた」と言っているから、(二録の場合は)十二條だけであろう。十二條が何であるかはわからない[7]。江右〔西晋〕では四録があったので、四人が参録であったことになる〔「参録」は原文ママ。「録尚書事に加わる」の意で「参録尚書事」とよく表現される〕。江右の張華、江左の庾亮はともに「経関尚書七條」〔原文ママ〕に就いているのだが、ともにどのようなものだったのかはわからない[8]。(そのほか)のちに何充は録を解任されたが、その後「参関尚書」というものになっている[9]
 録尚書事はあらゆる事柄を管轄した。『尚書』舜典「納于大麓」の王粛注に(「麓」を「録」と解したうえで、)「堯は舜を顕貴の官に登用し、天下の政治を大録させた」とある(が、まさに録尚書事にも当てはまる)[10]。およそ重号将軍[11]や刺史であれば、みな属官の任用を自分の裁量ででき、(皇帝直任官の)任命や(属官に)節を与えることができなかったのみで(それだけで権限が非常に大きく、これに録尚書事を加えると内外の要事を一手に握ることになるので)、宋の孝建年間、権力を朝廷の外〔地方に出鎮する将軍や刺史〕に与えたくなかった孝武帝は、録尚書事を廃した。(しかし)大明年間の末年に復置された。以後、置かれたり置かれなかったりした。

 漢の献帝の建安四年、執金吾の栄郃を尚書左僕射、衛臻を右僕射とした。僕射が二つに分けて置かれたのは、これが最初である[12][13]

 漢の成帝の建始四年、はじめて(列曹)尚書〔曹は部署のこと。当該、あるいは当該のものを含めた複数の曹を統べるのが列曹尚書〕を置き、定員は四人[14]、丞も増員して四人とした。(四つの)列曹尚書は、一つめを常侍曹と言い、公卿に関する文書を担当する。二つめを二千石曹と言い、郡国の二千石(守相)の文書を管轄する[15]。三つめを民曹と言い、吏民の上書をつかさどる。四つめを客曹と言い、外国の夷狄の文書を専門とする。(のちに)光武帝は二千石曹を二つに分け、また客曹を南主客曹と北主客曹に分け、常侍曹を吏曹に改称し[16]、合計で六曹尚書とした。丞(の定員)を二人減らし、左右丞だけを置いた[17]。(その後、後漢末の)応劭『漢官儀』に、「尚書令、左丞は綱紀を総括し〔原文「総領綱紀」。綱紀は秩序とかそんな意、ここのも直訳すれば「全体の秩序」ってところで、尚書のボスだということ〕、すべての事柄を管理する[18]。僕射、右丞は銭や穀物の給付に関する文書をつかさどる[19]。三公尚書は二人、年末の成績集計に関する文書が担当。吏曹尚書は選挙や斎戒祭祀。二千石曹尚書は水害、火災、盗賊、訴訟、罪罰。客曹尚書は羌や胡(匈奴?)の朝会、法駕〔天子の車、転じて天子のこと〕が外出した際の護駕。民曹尚書は公共施設の修復、土木工事、塩池、天子の猟囿。このうちでも吏曹尚書〔選挙など〕は重役なので、飛び級の昇進〔原文「超遷」〕を遂げることが多い」とある[20]。この記述からすると、漢末の列曹尚書の名称と職務は光武帝のときとは異なっている。
 魏の時代に吏部、左民、客曹、五兵、度支の五曹の列曹尚書があった。晋のはじめは吏部、三公、客曹、駕部、屯田、度支の六曹尚書があった。武帝の咸寧二年、駕部尚書を廃したが、四年に復置した。太康年間、吏部、殿中、五兵、田曹、度支、左民の六曹の列曹尚書が置かれている(のが確認できる)。恵帝の時代には、また右民尚書があった(ことが見えている)。(恵帝のときも)列曹尚書は六人だったので、右民尚書が置かれたときにどの列曹尚書が廃されたのかはわからない。江左では祠部[21]、吏部、左民、度支、五兵があり、合計で五曹尚書であった。宋の武帝のはじめ、(五曹に)都官尚書を増置し、(また)もし右僕射がおれば、祠部尚書を置かないこととした。孝武帝の大明二年、吏部尚書を二人置き、五兵尚書を廃したが、のちに吏部尚書は一つとされた。順帝の昇明元年、五兵尚書を復置した。

 尚書令は(国家の)枢要を統べ、僕射、列曹尚書は諸曹を分担して管轄する。(宋では?)左僕射は殿中と主客の二曹を統べる。吏部尚書は吏部・刪定・三公・比部の四曹を、祠部尚書は祠部・儀曹の二曹を、度支尚書は度支・金部・倉部・起部の四曹を、左民尚書は左民・駕部の二曹を、都官尚書は都官・水部・庫部・功論の四曹を、五兵尚書は中兵・外兵の二曹を統べる。以前は(中兵、外兵のほかに)騎兵、別兵、都兵があり、そのため「五兵」と言っていたのである。五尚書、二僕射、一令、これを総称して「八坐」と言う[22]。もし宗廟や宮殿を建造する必要が出たら起部尚書を置くが、仕事が終われば廃した。

 漢の成帝が四人の列曹尚書を置いたときに、尚書郎を置いたとの記述は見られない。『漢儀』によると、(後漢の?)尚書郎は四人である。一人は匈奴単于の営部(単于庭?)を、一人は羌夷と吏民を、一人は戸籍や田畑を、一人は財政や輸送を、それぞれ担当していたという[23]。匈奴単于は、宣帝の時代に帰順していたが、成帝のときに単于は北方に帰っていった。尚書郎一人が匈奴単于の営部に関する文書を管轄していたと言うが、この郎を置いたのはおそらく光武帝のときで、管轄していた匈奴とは、(漢の領域内に移住していた)南単于のことであろう。『漢官(儀?)』によると、(後漢末は)郎を三十六人置いたらしいが、どの皇帝のときに増員されたのかはわからない。しかし列曹尚書一つにつき六人の郎を率いていたのだろう。
 (尚書郎は)文書の起草を職務とする[24]。郎中となって一年経てば〔原文「歳満」〕、侍郎となった[25]。尚書寺は建礼門内にあった[26]。尚書郎が宮中に入って仕事をする際、官が青縑〔おそらく絹製の青い衣服のこと〕と白綾被〔模様入りの白い掛け布団〕を給付するが、別に綿製の肌着をその代わりとすることもあった。(ほかに)帷帳(とばり)、氈褥〔フェルト製の敷物〕、通中枕〔アレです、中が空洞みたいになってるあの枕〕を給付し、(さらに)太官が食事を、湯官が餅餌〔麦や米の粉を練ってつくった食物〕や熟した果実類〔原文「五敦果実之属」。『漢語大詞典』によると、「五敦(=熟)」には煮て味つけするという意味があり、本文のこの箇所を用例としているが、ここは単純に解してよいように思う〕を給付する[27]。(さらに)尚書伯使一人、女侍二人、みな容姿端麗な者を選んでつけさせ、(女侍には)香をたく器を持たせ、着衣を助けさせる[28]。(尚書郎は)明光殿〔場所不詳〕で奏上をおこなうが、(明光?)殿は胡粉〔白い粉〕で壁を塗装し、いにしえの賢人や烈士が描かれている。丹朱で床を彩色しているので、この場所を「丹墀(たんち)」とも呼ぶ。尚書郎は口に鶏舌香を含むが、これは皇帝に奏上して応対する際に、息に香りをつけさせるためである。奏上するときには黄門侍郎〔天子の左右に侍る官〕と互いに拱手の礼をおこなう[29]。黄門侍郎が奏上やめと宣言してから退出する〔原文「黄門侍郎称已聞、乃出」、読めません〕。天子は五時〔春、夏、季夏、秋、冬のこと〕の朝服を尚書令、僕射に下賜するが、それに対して丞、郎は毎月、赤い柄の大きな筆を一セット(二本)、隃麋〔漢代、右扶風の県名〕の墨一つを下賜した[30]
 魏の時代、殿中、吏部、駕部、金部、虞曹、比部、南主客、祠部、度支、庫部、農部、水部、儀部、三公、倉部、民曹、二千石、中兵、外兵、別兵、都兵、考功、定科の計二十三曹の郎があった。青龍二年、戦争があったので、尚書令の陳矯が都官、騎兵の二曹の郎の設置を上奏し、合計で二十五曹となった。
 西晋では直事、殿中、祠部、儀曹、吏部、三公、比部、金部、倉部、度支、都官、二千石、左民、右民、虞曹、屯田、起部、水部、左主客、右主客、駕部、車部、庫部、左中兵、右中兵、左外兵、右外兵、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、北主客、南主客の三十四曹の郎があった。のちに運曹が置かれ、合計で三十五曹となった。
 江左のはじめ、直事、右民、屯田、車部、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、運曹の十の曹に郎が置かれず、主客、中兵、外兵はそれぞれ郎を一人だけ置き(左右を併せたので)、残ったのは十七曹であった[31]。康帝、穆帝以降、虞曹、二千石の二曹にも郎が置かれなかったが、なお殿中、祠部、吏部、儀曹、三公、比部、金部、倉部、度支、都官[32]、左民、起部、水部、主客、駕部、庫部、中兵、外兵の十八曹に郎があった。のちにまた主客、起部、水部を廃し、(最終的に)残ったのは十五曹である[33]
 宋の武帝のはじめ、これに加えて騎兵、主客、起部、水部の四曹に郎を置き、合計で十九曹となった。文帝の元嘉十年、また儀曹、主客、比部、騎兵の四曹の郎を廃した。十一年、みな復置した。十八年、刪定曹郎を増し、位は左民曹郎の上としたが、(刪定曹郎とは)魏の時代の定科曹郎のようなものであろう。三十年、また功論曹郎を置き、位は都官の下、刪定の上とした。また文帝のとき、騎兵を廃した。現在(宋)では合計で二十曹郎である。
 三公、比部には法制文書を管轄させている。度支は会計文書を担当した。「支」は「派」〔つかわし出す、みたいな〕、「度」は「景」〔意味不詳〕のことである。都官は軍隊の刑罰の文書をつかさどる。そのほかの曹の担当は、それぞれその名称のとおりである。

 漢の制度では、公卿・御史中丞以下の官が尚書令、僕射、丞、郎と偶然すれ違いそうになったら、みな車を避けてあらかじめ直接出くわすことをせず、台官〔尚書台の官の意〕が通過すれば、ようやく動くことができた。現在の尚書官は、朝廷に上るときと朝廷から下るときには、通行人と会うことが禁止されているが、それはちょうどその漢の制度のようなものである。また、漢の制度では、丞、郎が列曹尚書に面会するときは列曹尚書を「明時」と呼び、郎が左右の丞に会うときは左右丞を「左君」、「右君」と呼んだ[34]

 郎以下の官には、都令史、令史、書令史、書吏幹がいる。東漢では尚書令史十八人、晋のはじめでは正令史百二十人、書令史百三十人。晋から現在(宋)まで、減ったり増えたりしており、記録を定めがたい[35]。『漢儀』によると丞相令史があったというから、おそらく令史は前漢の官なのであろう[36]。西晋に尚書都令史の朱誕がいるので、都令史は最初に置かれてから久しいようだ〔都令史はおそらく令史のボスを指す〕[37]。令史は尚書同様、担当の曹ごとに分かれる。

 西晋の八坐・丞・郎は、朝と日暮れに都座〔政事の会議場〕で会議していたが、江左では朝だけとなった。八坐・丞・郎が新たに任命された際は(全員が)都座に集まり、礼を交わす。転任したときには交際を解いた。これも漢の旧制である。現在では八坐が交際を解くだけで、丞・郎が交際を解くことはなくなった 。尚書令は千石、僕射と列曹尚書は六百石、丞・郎は四百石[38]

 武庫令は一人。兵器(の管理)を職掌とする。秦の官である。二漢のとき、執金吾に所属していた。晋のはじめ、執金吾を廃したので、現在にいたるまで尚書庫部の所属である[39]
 車府令は一人。丞は一人。秦の官である。二漢、魏、晋ではみな太僕に所属していた。(東晋の哀帝のときに)太僕が廃されると、尚書駕部に所属した。
 上林令は一人。丞は一人。西漢では上林に八の丞、十二の尉、十の池監がいた。丞・尉は水衡都尉に所属していた。池監は少府に所属していた。東漢では上林苑令、丞が各一人あり、少府に所属していた[40]。江左では置かれなかった。宋の孝武帝の大明三年に復置され、尚書の殿中曹と少府の両方に(?)所属していた。
 材官将軍は一人。司馬は一人。土木工事の職人を管轄する。漢の左右校令がこの職務であった。魏は右校(の代わりに?)材官校尉を置き、天下の材木(事業)を管轄させた。江左では材官校尉を改称して材官将軍とし、また左校令を廃した。現在(=宋)、材官将軍は尚書の起部曹と領軍将軍に所属している[41]



―――注―――

[1]『漢書』巻19百官公卿表・上・応劭注「龍とは舜の臣の名前である。納言は現在(後漢)の尚書に相当し、王のノドと舌をつかさどる(龍、臣名也。納言、如今尚書、管王之喉舌也」、『太平御覧』巻212引『漢官儀』「尚書は堯・舜の時代の官が起源である。『尚書』に『龍が納言となった』とあり、『詩』に『仲山甫は王のノドと舌だ』とあるが、ともにこの官のことを言っている。秦はこの官を尚書に改名したが、漢もこの官を重視した。機密を管理する(尚書、唐虞官也、書曰『龍作納言』、詩云『仲山甫王之喉舌』、秦政改称尚書、漢亦尊此官、典機密也)」、同書同巻引『漢官解詁』「(尚書は)堯・舜の時代は納言と呼ばれ、『周礼』では内史と記されている。機密を管理する官で、(天子や朝廷の)号令が発せられるところでもある(唐虞曰納言、周官為内史、機事所総、号令攸発)」。
 王のノドや舌である、という比喩は『漢官解詁』末尾の「号令が発せられるところ(号令攸発)」の一文から理解できよう。後文の注などで説明を加えていくように、尚書は詔書や上奏などの文書を伝送していた機関のみならず、文書の作成(詔書)をもおこなっていたところでもある。それはたんに下書きを清書するといったような事務ではなく、文章になっていないある政事内容・判断を文章化するのだから、当然それには比喩などをはじめとした高度な文飾表現の技法が求められるだろう。もちろん、実際の作成業務は下っ端(尚書郎)の担当だが、ともかく、尚書によって、天子の詔書は形をなし、公表されるわけなのだから、これなしではなにも言葉を発することができないというわけだ。上述の比喩はこうした役割を言っている。尚書は作文技術でメシを食っていたとも言えよう。[上に戻る]

[2]『太平御覧』巻212引『韋昭辯釈』「尚、上也、言最在上揔領之也、辯云、尚、猶奉也、百官言事当省案平処奉之、故曰尚書、尚食・尚方亦然」。[上に戻る]

[3]『太平御覧』巻211引『謝霊運晋書』「古者重武事、貴射御、取其捷御如僕、各置一人、尚書六人、謂之八座、参摂百揆、出納王命、古元凱之任也」。[上に戻る]

[4]「左右曹諸吏」は原文ママ。『漢書』百官公卿表・上に「侍中左右曹諸吏散騎中常侍、皆加官。・・・侍中、中常侍得入禁中、諸曹受尚書事、諸吏得挙法」とあり、「左右曹諸吏」で一つの官名のようにも読めるが、後文で加官を説明する際に、尚書の奏事を担当する「諸曹」と弾劾をつかさどる「諸吏」とに分割して説明されており、「左右曹諸吏」は「左右曹と諸吏」と読むべきであるようだ。諸吏も尚書の奏事を評議する職掌をになっていたことについては、米田健志「前漢後期における中朝と尚書――皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64-2、2005年)を参照。[上に戻る]

[5]『晋書』巻24職官志「録尚書、案漢武時、左右曹諸吏分平尚書奏事、知枢要者始領尚書事。張安世以車騎将軍、霍光以大将軍、王鳳以大司馬、師丹以左将軍並領尚書事。後漢章帝以太傅趙憙、太尉牟融並録尚書事。尚書有録名、蓋自憙・融始、亦西京領尚書之任、猶唐虞大麓之職也。和帝時、太尉鄧彪為太傅、録尚書事、位上公、在三公上、漢制遂以為常、毎少帝立則置太傅 録尚書事、猶古冢宰総己之義、薨輒罷之。自魏晋以後、亦公卿権重者為之」。
上で言及されている「尚書」の起源について、班固『漢書』ではたしかに王鳳を「尚書」と記述している。いわゆる二十四史の記述で検索するかぎり、『晋書』の指摘どおり、初出は後漢の趙憙と牟融である。『晋書』職官志は荀綽『晋百官表注』や傅暢『晋公卿礼秩』をもとに編纂されたと思われるが、沈約は何に拠って本文のような記述をしたのだろうか。これまでもたびたび指摘してきたつもりだが、沈約の百官志は何承天の『宋書』をベースにしている可能性が高いので何承天がこの記述を残した可能性も考えられるわけだが、いずれにしろ、荀綽『晋百官表注』や傅暢『晋公卿礼秩』が優先度の高い参考書であったわけではないのかもしれない。
 ついでなので、「領」と「録」はどう違うのかということについて。鎌田重雄氏は「領」は尚書の職務を全体統括すると捉え、後漢の「録」は前漢の「領」が法制化したものだと述べており、実質的な差異はないものと考えているようである。鎌田「漢代の尚書官――領尚書事と録尚書事を中心として」(『東洋史研究』26-4、1968年)参照。
 これに対し冨田健之氏は、「領」の事例を検討したうえで、「領」は皇帝がおこなう上奏の決裁など(=「尚書事」)を助けるだけで、尚書の組織や業務を掌握する身分ではなく、この点において、尚書組織の掌握者として行政を取り仕切る後漢の「録」とは異なると論じている。冨田健之「漢時代における尚書体制の形成とその意義」(『東洋史研究』45-2、1986年)。
 この「領」の理解は米田論文([4]前掲)もおそらくだいたい同じで、「尚書事」を「領(代行する)」とは、尚書の業務(文書の伝送・作成)を代行するのではなく、尚書から送られてきた文書を皇帝に代わって決裁する、と理解している。
 こうした領尚書事の姿の一端を示す史料としてしばしば引用されるのが、『漢書』巻74魏相伝「漢の慣習では、上書するときは必ず二枚作成し、そのうち一つを控えとする。尚書事は(上書を受け取ったら)まず控えの封を切って(内容をチェックし)、内容がよくなければ却下し、上書を皇帝に上奏しない(故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏)」。
 という具合に仮説が提出されている。とくに冨田説は氏の全体的な主張から理解する必要があるのだが、つまり「尚書事」の内容が「領」と「録」では異なっていると見ているのだ。「領」で代行するのは尚書の業務ではなく皇帝の尚書関連業務であり、「録」が管轄するのは尚書の業務になっているが、両者のやっていることに懸隔の差異があるのではない。こうした主張の基礎になっているのは、尚書の業務内容が時代を降るにつれて徐々に変化したということ、尚書が上書の内容を判断しはじめるようになった(から「録」すれば行政の中心になることができた)、ということである。近年ではこのような尚書像事態に疑問が向けられているが(後述)、それにともなって「録尚書」の新しい解釈が出てきたというわけでもない(管見の限り)。しいて言えば、後漢の「録」も冨田説の「領」と同じ意味なんじゃない?くらいは言えるかもしれん。[上に戻る]

[6]咸康ではなく咸和の誤りだろう。荀崧は咸和三年に、陸曄は咸和年間に没したことが各列伝に見えている。王導と陸曄は明帝の遺詔・顧命を受けたメンバーで、その際に録尚書事を与えられたことが確認できる(王導は成帝紀、陸曄は列伝)。荀崧は顧命こそ受けていないようだが、明帝崩御時に録尚書に任じられ、王導らとともに幼少の成帝を支えたという。というふうに、何充の言うとおりに確認はできたが、「六條事」の記述は確認ができなかった。[上に戻る]

[7]誰かわかる人がいたら、沈約がどういう計算で24にいたったのかを教えてくれないか・・・。
 まず沈約によれば、「三録」というのは條を均等に三等分したのではない。もしそうであれば3×6條で18條となるわけだが、それだったら王導だけ「録其一」と書くのは不自然である。「三録」は「三人の録尚書」をたんに意味しているだけだろう。沈約はこのように理解しているはずで、わたしもそれほど異論がない。
 で、沈約は当時の王導の立場も踏まえてのことだろうが、何充のあの表現は「荀崧と陸曄の録より王導の担当のほうが多い」と解釈しているようで、それがなぜか「王導の担当分は荀崧と陸曄の二人分に相当する」と計算したようだ。どうしてそうなった。
 なお、東晋は「二録」で、置くたびに「六條事」と言っているから全部で十二條だ、という話は、かなり怪しいにもかかわらず、ありうる。中央研究院で検索してみればわかるように、東晋穆帝以後は「録尚書六條事」がかなり目立つし、きっちり確認はしていないが、二人の録尚書を常任させている(一人が亡くなったら一人を追加で任命する)。なのでまあ、ありうる。
 でもそんなことはどうでもよくて、本当に24なのかが気になって仕方がない。なぜなの?
 ところでこの疑問とは別に、そもそも「六條」は何を指しているのかという問題も出てくる。矢野主税氏は「六條」は「六曹」のことと解し、要するに尚書のなかの六つの部署(「六曹」)を管轄するとしている。また、「録尚書事」は「録尚書○條事」と「総録」の二種があり、後者は全体統括者としてランクが高いが、東晋時代の尚書の曹は総数6(=列曹4~5+僕射1~2)だったので(したがって、矢野氏は沈約の12條解釈を退け、二人で六曹を担当したのだと解釈している)、「六條事」も実質的には全体の統括をおこなっていたと、かなり曖昧な結論を出している。どうしてそうなったかというと、史料の表記の仕方が混乱気味で、同一人物について、あっちでは「録尚書」、こっちには「総録」、そっちには「録六條」となってしまっている場合があり、よくわからんのである。なお、「録尚書六條事」は東晋時代には官名の一つとして定着しているフシがある。実際に「六條」を担当していかは別として。矢野主税「録尚書事と吏部尚書」(『史学研究』100、1967年)。
 すっきりしない部分が残るとはいえ、「條」の解釈についてはおおむね矢野氏の線で理解するほうがよさそうである。となると、二人いるから全体で十二條というのは軽率な計算になるだろう。[上に戻る]

[8]張華については、『太平御覧』巻210引『傅暢故事』「何劭、王戎、張華、裴楷、楊済、和嶠為愍懐太傅、通省尚書事。張華為光録大夫、尚書七條事、皆諮而後行」とある。庾亮は唐修『晋書』列伝に「録尚書事」になったと記されている。[上に戻る]

[9]唐修『晋書』列伝によると、二度「録尚書」になっている。[上に戻る]

[10]『太平御覧』巻210引『沈約宋書』「公で尚書事を録すのはいにしえの制度である。王粛は『尚書』舜典の『納于大麓』を解釈し、『堯は舜を顕貴の官に登用し、天下の政治を大録させた』と読んでいる(のがその証左である)。考えるに、漢は(当初)諸吏に尚書奏事を担当させていたが、のちに霍光を大司馬大将軍の位につかせたまま尚書奏事をおこなわせた。(以降、公の身分でもって尚書事をつかさどるのが通常となった。)諸公録尚書事、古制也、王粛解尚書『納于大麓』曰、『堯納舜於尊顕之官、使大録万機之政』。案漢氏諸吏平尚書奏事、後霍光以大司馬・大将軍平尚書事」。赤字は佚文?[上に戻る]

[11]時代は降るが、梁・天監七年の令では、いわゆる「四征将軍」あたりまでの上位の将軍号が「重号将軍」に分類されている。晋制でいうと四平将軍あたり以上に当たる。だいたい「三品将軍」や「金紫将軍」のことを指すと考えても良いかもしれない。[上に戻る]

[12]『続漢書』百官志3・本注「(尚書僕射は)尚書全般の業務を担当し、尚書令が不在の場合は章奏の上奏や詔令の下達などあらゆる仕事をおこなう(署尚書事、令不在則奏下衆事)」、同劉昭注引『蔡質漢儀』「僕射は(もともと)門を閉じることを職掌としていたが、(のちに)食糧や貨幣の支給関連の業務を担当するようになった(僕射主封門、掌授廩仮銭穀」、同劉昭注「臣昭案、献帝分置左右僕射、建安四年以栄邵為尚書左僕射、是也」。
 職掌に挙げられている「食糧や貨幣の支給関連の業務を担当する掌授廩仮銭穀」は本文でのちに引く『漢官儀』にも記されている。また曹魏以降は選部(吏部)尚書を兼任することもあったらしい。『太平御覧』巻211引『斉職儀』「魏朝以尚書僕射毛玠領選部曹。晋武以僕射領吏曹。後依擬至今或領焉」。
 左右の関係については、『晋書』職官志「尚書僕射の服飾、秩石、印綬は尚書令と同じである。調べてみるに、漢はもともと尚書僕射を一人置いていただけだが、漢の献帝の建安四年に執金吾の栄郃を尚書左僕射を置いた。尚書僕射が左右に分かれて置かれたのが、これが最初である。魏、西晋、東晋まで、(尚書僕射は)廃されたり置かれたり一定しなかったが、二人置く場合は左右を置き、一人だけ置く場合はたんに尚書僕射と呼んだ。(左右の僕射はいるけども)尚書令が不在の場合は左僕射が尚書省の主任となり、もし(尚書令が不在でさらに)左右の僕射も不在の場合は、尚書僕射を置き、左僕射の仕事を担当させる(服秩印綬与令同。案漢本置一人、至漢献帝建安四年、以執金吾栄郃為尚書左僕射、僕射分置左右、蓋自此始。経魏至晋、迄於江左、省置無恒、置二、則為左右僕射、或不両置、但曰尚書僕射。令闕、則左為省主、若左右並闕、則置尚書僕射以主左事」。これによると左僕射のがえらかったらしい。
 ただ宋代では事情が違ったようで、『通典』に「宋の尚書僕射は右が優越して左が下位であり、右僕射は尚書令と左僕射の中間に位置した。僕射は法令を護持するのが仕事で、二人置かれた場合は左右とも法令の護持をなした。また列曹尚書と同様、曹の管轄もおこない、不法の摘発も職務とした(宋尚書僕射勝右減左、右居二者之間。僕射職為執法、置二則為左右執法。又与尚書分領諸曹、兼掌弾挙)」。[上に戻る]

[13]尚書令については特別に言及がないが、要するに尚書のボス以外に書くことが特にないのだろうと思われる。尚書令は漢代以来、千石、銅印墨綬、魏以降はその秩石印綬に似合わず三品、この官位は劉宋でも同様。なお『続漢書』百官志3・本注には「武帝は宦官を(尚書に)登用し、(尚書令を)中書謁者令に改称した。(しかし)成帝は士大夫を(尚書令に)登用し、名称を旧来のもの(=尚書)に戻した。(尚書令)は官吏の任命や上奏、(天子の)令の下達などの文書業務全般を職掌とした(武帝用宦者、更為中書謁者令、成帝用士人、復故。掌凡選署及奏下尚書曹文書衆事)」ともあり、武帝のときは宦官を就けていたらしい。
 魏晋のころの尚書令に関する佚文に、『太平御覧』巻210引『晋公卿礼秩』「尚書令、拝受命、皆策命、薨則於朝堂発哀、古之冢宰、以在端右故也」がある。
 よく知られているように、尚書は後漢ころから権力が目立つようになり、魏晋になると尚書省が九卿に代わって実質的な行政機関となったとされている。『通典』は「後漢の政務はすべて尚書に集まり、三公はたんに決まった仕事を受けるだけであった(後漢衆務、悉帰尚書、三公但受成事而已)」、「魏晋以降、尚書の職務は枢要を担うようになり、大小あらゆる業務が尚書令と尚書僕射に帰した(魏晋以下、任総機衡、事無大小、咸帰令僕)」と記述している。この尚書省も中書省が出てくると、これまた権力が剥落していったようで、『通典』に「魏は中書省を設け、中書監と中書令を置くと、中書が枢要の職務を遂行するようになり、尚書の権力は徐々に失われていった(魏置中書省、有監・令、遂掌機衡之任、而尚書之権漸減矣)」。
 研究上においても、これまでは上述の理解に沿って尚書の研究がおこなわれてきており、例えば冨田健之氏は漢代にかけて徐々に尚書を中心とした国政運営が形成されたことを論じているが(「後漢前半期における皇帝支配と尚書体制」〔『東洋学報』81-4、2000年〕など。氏は尚書中心の行政運営を「尚書体制」と呼んでいる)、近年では尚書の役割を必要以上に強調し過ぎているとの批判が出てきており、例えば渡邉将智氏は、尚書の業務はあくまで文書の伝達であって政策形成に直接関与するものではなく、政策形成をおこなう公・卿などの官衙、それに可否をくだす皇帝とのあいだを動くのであって、それぞれが連携して動くことで政策が実現されるのだという、全体的な観点から尚書の位置づけを試みており、尚書一極支配の視点を相対化している。かかる視点は宮崎市定氏の「連合艦隊」という比喩を想起させるもので、傾聴すべき見解であると同時に、妥当な意見であると思われる。渡邉「後漢洛陽城における皇帝・諸官の政治空間」(『史学雑誌』119-12、2010年)など、また米田論文([4]前掲)も参照。
 しかし、魏晋から東晋にかけて、その肝心の公卿の仕事がほとんどなくなっていくというのも事実らしいので、後代になってどうして尚書が台頭して卿は相対的に低くなったのか、高望みではあるが、そのあたりの展望も聞きたいところである。[上に戻る]

[14]『漢書』では、成帝ははじめ五人を設けたとの記述があり、その五人は常侍曹、二千石曹、戸曹、主客曹、三公曹としている。『漢書』巻10成帝紀・建始四年「四年春、罷中書宦官、初置尚書員五人」、同師古注「漢旧儀云、『尚書四人為四曹、常侍尚書主丞相御史事、二千石尚書主刺史二千石事、戸曹尚書主庶人上書事、主客尚書主外国事。成帝置五人、有三公曹、主断獄事』」。
 同様の記述をするのが『続漢書』百官志3・劉昭注引蔡質『漢儀』「(四曹のうちの一つは?)毎年の成績集計を管理する。三公尚書は二人で、三公の文書を担当する。吏曹尚書は選挙や祭祀を担当し、三公曹に所属する。霊帝の末年、(吏曹は選部に改められ、)梁鵠が選部尚書となった(典天下歳尽集課事。三公尚書二人、典三公文書。吏曹尚書典選挙齋祀、属三公曹。霊帝末、梁鵠為選部尚書)」。
 対して『晋書』職官志では、五人=僕射一人+列曹四人とし、のちに三公曹が加わって五曹になったと記している。「至成帝建始四年、罷中書宦者、又置尚書五人、一人為僕射、而四人分為四曹。・・・後成帝又置三公曹、主断獄、是為五曹」。鎌田氏や冨田氏をはじめ、先行研究ではこの『晋書』の記述を妥当と見ている。とすれば、本文の記述も妥当なんだね。なお三公曹の職掌については史料間で異同が生じているが、ようわからん。[上に戻る]

[15]『続漢書』百官志3・劉昭注引『漢旧儀』「亦云主刺史」。[上に戻る]

[16]『続漢書』百官志3・劉昭注引『蔡質漢儀』「常侍曹は常侍、黄門、御史関連の文書を担当する。光武帝は常侍曹を吏曹に改称した(主常侍黄門御史事、世祖改曰吏曹)」。常侍曹の記述は本文および『漢旧儀』([14]前引)と異なっている。整理すると、
 『宋書』『漢旧儀』→常侍曹:公卿  三公曹:断獄
 『漢儀』→常侍曹:侍官 三公曹:三公関連
 どうなんでしょう。[上に戻る]

[17]四曹から光武帝の改革にいたるまでの記述は『続漢書』本注の記述とほぼ同じ。[上に戻る]

[18]『続漢書』百官志3・本注「尚書左丞は吏と民からの上奏と騶伯史〔詳細不明〕を担当した(左丞主吏民章報及騶伯史)」。また晋代の左丞については、『太平御覧』巻213引『晋書百官表志注』「尚書左丞が担当するのは、尚書台内の禁令管理、宗廟や祭祀、朝廷の礼制、弾劾(?)、官吏の任命、近侍的案件に関する文書の検討、官吏の休暇についてである(左丞主台内禁令、宗廟祠祀、朝儀射制、弾案、選用署吏、稽近道、文書給仮)」。この記述は『晋書』職官志と多少の字の違いはあるものの、ほぼ同じ文章なのだが(というか『晋書』が『百官表注』を引用している)、『御覧』に引く『百官表注』のほうがより節略が少なく、正確に文意を読み取ることができるので、ここでは『百官表注』のほうを引用した。[上に戻る]

[19]『続漢書』百官志3・本注「尚書右丞は印綬の授与、筆記用具などの道具類の在庫関係を担当する(右丞仮署印綬、及紙筆墨諸財用庫藏)」、同劉昭注引『蔡質漢儀』「尚書右丞は尚書僕射と食糧や貨幣の支給関連の業務を担当し、尚書左丞と合わせてあらゆる事柄を管轄する(右丞与僕射対掌授廩仮銭穀、与左丞無所不統)」。
 [18]の左丞もそうだが、『宋書』本文は蔡質『漢儀』や応劭『漢官儀』と親和的だが、司馬彪の本注とはかなり食い違っている、というより司馬彪だけなんか違う。珍しい・・・かも。
 晋代の右丞については、『太平御覧』巻213引『晋書百官表志注』「尚書右丞が担当するのは、尚書台内の倉庫や建物(の管理)、(各所に支給する)道具の在庫整理と民への食糧支給、徴税、刑罰、武器、長期的案件に関する文書の検討、章・表・奏の上奏文書である(右丞主台内庫蔵廨舍、量物用多少、及廩賜民戸、租布、刑獄兵器、稽遠道文書、章表奏事)」。『晋書』職官志との関係は[18]と同様。宋代については『通典』「宋の尚書右丞は晋の制度を継承しつつ、さらに貨幣と穀物も担当するようになった(宋因之、而右丞亦主銭穀)」。
 なお『太平御覧』巻213引『宋書百官志』に「晋宋の時代、尚書左丞は尚書台内の禁令、宗廟や祭祀、朝廷の礼制、官吏の任命関連の文書を担当し、(さらに)不法を摘発し、いみはばかることがなかった(晋宋之世、左丞主台内禁令、宗廟祠祀、朝儀礼制、選用署吏、糺諸不法、無所廻避)」、同引同書に「尚書右丞は尚書台内の倉庫、用具類、建物、刑罰、武器関連の文書を担当した(右丞掌台内庫蔵、凡諸器物、廨舎、刑獄兵器)」と、ほぼ『晋書』職官志の記述と重なる文章が引用されている(『初学記』巻11にも同じく引用)。佚文の可能性あり。[上に戻る]

[20]ここに引用された応劭『漢官儀』の記述は『続漢書』百官志3・劉昭注に引く蔡質『漢儀』と重なるものが多い。[上に戻る]

[21]『晋書』職官志「祠部尚書は右僕射と職務が重なっているので、つねに置かれるわけではなく、(置かれない場合は)右僕射に職務を担当させる。右僕射が不在の場合は、祠部尚書に右僕射の仕事をおこなわせる(祠部尚書常与右僕射通職、不恒置、以右僕射摂之、若右僕射闕、則以祠部尚書摂知右事)」。[上に戻る]

[22]『太平御覧』巻210引『斉職儀』「秦漢の時代、政治は公や卿が担い、尚書の仕事はといえば、(尚書令は)上奏や(天子の)令に封をしたり(?)、文書(作成)の補助といった業務で、僕射は門の開閉管理、尚書令が不在の場合は僕射が代わりにおこなった。(降って)魏は尚書八座の官を重視したので、尚書の仕事が秦漢の六卿に等しくなった。かつて舜は八元八凱の賢人を登用し、朝命を隆盛させたが、現在(南斉?)では尚書八座をその(八)元(八)凱になぞらえ、賢人や有能な者が(正しく)要務を担うこと、かつての舜の時代の再現であると言い合っている(秦漢之世、委政公卿、尚書之職、掌封奏令賛文書、僕射主開閉、令不在則僕射奏下其事。魏氏重内職八座、尚書任同六卿、舜挙八元八凱、以隆唐朝、今号八座為元凱、謂賢能用事義如昔也)」。[上に戻る]

[23]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎四人、一主匈奴単于営部、一主羌夷吏民、一主天下戸口・田墾作、一主銭帛・貢献・委輸」。ここに引用された『漢儀』の文章とほぼ同じ。[上に戻る]

[24]『通典』「(尚書郎は)文書の作成を職掌とする。五十歳未満の孝廉合格者から登用するが、(その際には)まず箋や奏などの上奏文作成を試験に出し、出来の良い者を選抜する(主作文書起草、取孝廉年未五十、先試箋奏、選有吏能者為之」。
 記憶が曖昧だが、漢代、郡国から孝廉に察挙された者は、光禄勲所属下の三署の郎中に任命され、そこでしばらく勤務したのち、県令などの官へ移っていき、出世街道を進んでいったはずである。三署郎中ではなくいきなり尚書郎に任命された者は、とびきり優秀か、文書の作成業務に優れていたか、どっちかだろうけど詳しくはわからない。なお、ここでは尚書郎の候補者に五十歳未満の孝廉しか書かれていないが、[25]で引用する『漢儀』にあるように、エリート官僚の卵として三署で育成された郎中もまた、尚書郎の候補者だった。
 ここで言われている文書の作成とは、あらかじめできあがっている文章の下書きを清書するとかそういうものではなく、内容は決まっているが表現は決まっていないもの、文章になっていないものを綺麗な文章に仕上げるのが彼らの仕事だったのではないかと想像される。文章の作成能力が試験されたのはそのためだろう。字が書ければそれで十分ではなかったのだ。彼らの作成する文章には詔や令、すなわち皇帝が下す文章がまず挙げられるが、そのほかの文章、例えば官僚から皇帝に奉ずる章・表・奏はさすがに彼らが作成したものではないだろう、それらに関しては官僚から提出された文章の伝送、校閲に限られていた・・・はずだと思うのだが、上引の『通典』には「箋」や「奏」の作成を試験に出してるんだよね・・・。勉強不足なのでそこまではわかりません。[上に戻る]

[25]『続漢書』百官志3・劉昭注引『蔡質漢儀』「尚書郎は三署〔五官中郎、左中郎、右中郎のこと〕の郎が尚書台の試験を受けて選抜される。就任当初は守尚書郎と呼ばれるが、一年経つと尚書郎、三年経つと侍郎と呼ばれるようになる(尚書郎初従三署詣台試、初上台称守尚書郎、中歳満称尚書郎、三年称侍郎」。『通典』はこの文章につづけて、「五年で大県の県令に異動する。県令となって任期が満了し、(つづけて?)県令を希望する者には(?)、(朝廷の)三万銭と三台〔尚書台、御史台、謁者台〕の保有している銭を天子から下賜したが、その他の官(を希望した者)の場合は下賜しなかった。吏部曹の郎は激務だったが、飛び級で昇進する者が多かった。鄭弘は僕射に就くと、尚書台の(郎の)職務は重要なのだが俸禄が低く、活き活きと働いている者がいない、(五年勤務した)尚書郎を二千石に就けて欲しい、と上奏した。これ以後、二千石に就けられるようになった五歳遷大県。其遷為県令、県令秩満自占県、詔書賜銭三万与三台租銭、余官則否。吏部典劇、多超遷者。鄭弘為僕射、奏以台職任尊而賞薄、人無楽者、請使郎補二千石、自此始也)」。
 引用文末尾のことにかんして、前引の『蔡質漢儀』に、尚書郎は「二千石や刺史に飛び級で昇進する(劇遷二千石或刺史)」とあるので、刺史になることもあったらしい。優秀なやつは守相か刺史、一般的には県令、ということなのだろう。[上に戻る]

[26]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎は文書の作成を職掌とする。仕事の際は建礼門内の尚書台に五日間宿直する(尚書郎、主作文書起草、夜更直五日於建礼門内)」、『通典』「尚書八座は(天子から?)決定した政務を知らされると、それを郎に下し、詔書を書かせ、それを発布する(八座受成事、決於郎、下筆為詔策、出言為詔命)」。
 渡邉氏の宮城図([13]前掲論文)によると、後漢の尚書台は洛陽宮城の南宮に復元されている。[上に戻る]

[27]『漢書』百官公卿表・上・師古注「太官主膳食、湯官主餅餌」。太官、湯官とも前後漢では少府の属官だが、魏晋では異動を重ね、劉宋期には太官が門下省の所属(『宋書』百官志・下に記述有)、湯官はわからん状態。[上に戻る]

[28]『後漢書』列伝31鍾離意伝李賢注引『蔡質漢儀』「尚書郎入直台中、官供新青縑白綾被、或錦被、昼夜更宿、帷帳画、通中枕。臥旃蓐、冬夏隨時改易。太官供食、五日一美食、下天子一等。尚書伯使一人、女侍二人、皆選端正者。伯使従至止車門還、女侍吏絜被服、執香鑪燒燻、従入台中、給使護衣服」。本文よりやや詳しくなった感じの記述。また本文では名前だけ出てた伯使についてもちゃんと書かれている。「止車門」は宮城と禁中の境になる門のことらしい。伯使は基本的に尚書郎にずっと侍っているが、尚書郎が皇帝に上奏する際、禁中に入ることは許されなかった、ということだろうか。後漢洛陽城の宮城図については、[13]前掲の渡邉論文を参照。[上に戻る]

[29]『初学記』巻11引応劭『漢官儀』「尚書郎含鶏舌香、伏奏事、黄門郎対揖跪受、故称尚書郎懐香握蘭、趨走丹墀」。[上に戻る]

[30]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎、給青縑・白綾被以錦被、帷帳・氈褥・通中枕、太官供食、湯官供〔麦+并〕餌・五熟果実、下天子一等級、尚書史二人、女侍史二人、選端正従直、女侍執香鑪焼薫、従入台護衣、奏事明光殿、省皆胡粉塗画古賢人・烈女、郎握蘭含香、趣走丹墀、奏事黄門郎、与対揖、天子五時賜服、若郎処曹二年、賜遷二千石・刺史」。本文のここの記述とほぼ同じ。どうやらこの箇所の本文は蔡質『漢儀』([28])や応劭『漢官儀』を引き写した内容であるらしい。[上に戻る]

[31]中華書局の校勘記も指摘しているが、ここの「十七曹」は計算としても数が合ってないし、後文の記述とも齟齬が生じる。[上に戻る]

[32]『通典』によれば、桓玄が即位した際に賊曹に改称された。[上に戻る]

[33]『通典』「魏の黄初年間以降、秘書が中書に改称され、中書に通事郎が置かれ、詔書(などの文書)の起草を担当するようにな(り、尚書の仕事が奪われた形にな)ったが、それでも尚書郎は依然、二十三人置かれていた。しかし漢代のような職務ではなかった。・・・(魏の時代は)尚書郎が一人欠員になるたび、孝廉で作文能力のある者五人を試験し、合格者の姓名を封をした上奏文で天子に報告し、欠員を埋める。晋の尚書郎は、爽快な美男子が選抜されたので、将来の大臣と呼ばれていた。・・・晋代は三十五の曹が置かれていたが、郎中は二十三人だったので、一人が複数の曹を担当していた。・・・東晋以後、尚書郎の官資(ランク?)は下がった(魏自黄初、改秘書為中書、置通事郎、掌詔草、而尚書郎有二十三人、非復漢時職任。・・・毎一郎缼、白試諸孝廉能結文案者五人、謹封奏其姓名以補之。晋尚書郎、選極清美、号為大臣之副。・・・為三十五曹、置郎中二十三人、更相統摂。・・・自過江之後、官資小減」。
 どう仕事が変化したのかはわからない。[上に戻る]

[34]『続漢書』百官志3・尚書僕射・劉昭注引『蔡質漢儀』「公、卿、将軍、大夫、校尉が(宮中の)複道〔二階建式の通路〕で尚書僕射・左右丞・郎、御史中丞・侍御史に偶然すれちがいそうになったときは、車をわきに避けて道を空ける。衛士が尚書台・御史台の官とすれ違わないように調整し、台官が通り過ぎてから進むことができる凡三公・列卿・将・大夫・五営校尉行復道中、遇尚書僕射・左右丞・郎・御史中丞・侍御史、皆避車豫相迴避。衛士伝不得迕台官、台官過後乃得去)」、同尚書郎・劉昭注引『蔡質漢儀』「御史中丞が尚書丞・郎と偶然すれちがいそうになったときは、車をわきに避けて、朝笏を手にしてその場に止まり、拱手の礼をとる。尚書丞・郎は車に座ったまま、手を挙げて返礼する。車が遠くに行ってから、ようやく進むことができる。列曹尚書が左右の丞に報告するときは(?)、『あえて詔書律令の通りに申し上げます』と必ず言う。尚書郎が左右の丞に会うときは、互いに拱手の礼をとるが、敬意の品物を贈る必要はなく、(丞のことを)左君、右君と呼んだ。丞と郎が列曹尚書に会うときは、朝笏を持って互いに拱手の礼をとり、(列曹尚書のことを)明時と呼ぶ。(丞と郎が?)尚書令と僕射に会うときは、朝笏を持って拝礼し、祝いのあいさつを述べ、互いに拱手の礼をかわす御史中丞遇尚書丞・郎、避車執板住揖、丞・郎坐車挙手礼之、車過遠乃去。尚書言左右丞、敢告知如詔書律令。郎見左右丞、対揖無敬、称曰左右君。丞・郎見尚書、執板対揖、称曰明時。見令・僕射、執板拜、朝賀対揖)」。
 『漢儀』の文章について、想定されているシチュエーションは複道での接触なわけだが、後漢洛陽宮城における複道は北宮と南宮を結ぶ通路であったらしい。尚書が禁中に入れることは注[28]で示唆したおいたし、渡邉将智氏もまたそのように指摘しているが、これに対して公卿などの官は皇帝からのお呼び出しがない限り、基本的には禁中に入ることができないものと考えられる。つまり、複道で出会うケースは稀であると想定される。
 また後漢の尚書台が南宮にあったらしいことは前述したが([26]および渡邉[13]前掲論文)、尚書が複道を恒常的に使用していたのだとすれば、尚書は複道を渡って南宮から北宮に行き、皇帝から上奏の決済判断、皇帝への上奏をおこなっていたと考えることもできよう。[上に戻る]

[35]『太平御覧』巻213引『斉職儀』「自魏晋宋斉、正令史・書令史、皆有品秩、朱衣執板、進賢一梁冠」。[上に戻る]

[36]『太平御覧』巻213引『漢官儀』「『蒼頡篇』〔漢代に広く流通した字の教科書〕を修得した者は蘭台令史に任命され、そこから一年で尚書令史に、さらに一年で尚書郎に昇進し、その後は尚書郎同様、県令になる。尚書郎と尚書令史は仕事を分担しておこなう。尚書令史が僕射と列曹に会うときは、朝笏を持って拝礼し、丞・郎に会うときは朝笏を持って拱手の礼をとる能通蒼頡史篇、補蘭台令史、満歳補尚書令史、満歳為尚書郎、出亦与郎同、宰百里、郎与令史分職受書、令史見僕射・尚書、執板拝、見丞・郎、執板揖)」、まあここで言われている『漢儀』の文章とは違うけど、関連があるってことで。『通典』「(尚書令史は)すべて蘭台や符節台で熟練した者を就けさせる。尚書郎は当初、尚書令史とともに文書業務を担当しており、同じ仕事をおこなっていた。尚書郎に欠員が出ると、長く務めている令史を郎に任ずる。光武帝が(令史には)孝廉を登用するように定めると、孝廉たちは(令史に就くことを)恥とした。漢代では、任期が来ると尚書郎は県令に任じられ、令史は県丞や県尉に任じられた。・・・(晋のときに)賈充が尚書令となると、彼は目の病気だったので、省事〔「事を省(み)る」の意〕の吏四人を設けたいと上表した。以後、尚書は省事を置くようになった。省事の官品と職掌は令史と同じである(皆選蘭台符節簡練有吏能者為之、其尚書郎初与令史皆主文簿、其職一也。郎缼、以令史久次者補之。光武始革用孝廉、孝廉耻焉。旧制、尚書郎限満補県長、令史補丞尉。・・・賈充為尚書令、以目疾、表置省事吏四人、尚書置省事、自此始也、其品職与諸曹令史同)」。[上に戻る]

[37]『通典』巻22・職官典4・歴代都事主事令史「晋には尚書都令史が八人置かれていた。秩は二百石、左右の丞とともに尚書台の業務全般を職掌とする。宋と斉では八人、梁では五人で、五都令史と言われた。職掌は晋代と変わらない(晋有尚書都令史八人、秩二百石、与左右丞総知都台事。宋斉八人、梁五人、謂之五都令史、職与晋同)」。都令史は令史のボスみたいな官だと思ってたけど、その理解でいいのかどうか、この記述では判断しにくいね。[上に戻る]

[38]『通典』「この組織を総称して尚書台と言う。あるいは中台とも呼ぶ。重要な案件は八座全員の連名で合意を取るが、もし合意が取れない場合、(賛成できない八座の者は)異議を申し立てることができる。・・・宋では尚書寺と言った。建礼門の内側に位置していた。尚書省、内台とも呼んだ。八座が尚書寺に出勤するときは、その門生も入ることができるのだが、制限人数は官によって違っている。ただし門生のなかに士〔貴族?みたいな?〕を含むことはできない。すべての尚書官は、重罪の場合は免官とし、小さな罪の場合は追放となる。追放されて百日の間、補充の人員が見つからなければ、復帰が許可される。尚書令と僕射は、御史中将と同様、分道制〔他の官僚とは違う道路を使用しなければならないことか、[34]参照〕を適用された。尚書令と僕射はそれぞれ威儀〔禁軍の兵士?〕十八人を支給した。晋以降、八座や尚書郎が上奏業務をおこなうことは少なくなった(総謂之尚書台、亦謂之中台。大事八座連名、而有不合、得建異議。・・・宋曰尚書寺、居建礼門内、亦曰尚書省、亦謂之内台。毎八座以下入寺、門生随入者各有差、不得雑以人士。凡尚書官、大罪則免、小罪遣出。遣出者百日無代人、聴還本職。其令及二僕射出行分道之制、与中丞同。令・僕各給威儀十八人。自晋以後、八座及郎中多不奏事)」。
 尚書寺があったとされる建礼門は建康宮城の東端にあったらしい。宮城図は渡辺信一郎『中国古代の王権と天下秩序――日中比較史の視点から』(校倉書房、2003年)p. 152などを参照。
 なお、上の『通典』の文章はやけに宋代の内容が詳しい。『太平御覧』巻212を見ると、「宋書曰、尚書官大罪則免、小罪則出、出者百日無代人、聴還本職」と、『通典』とほぼ同一の文章が見えており、上引の『通典』の文章は『宋書』百官志の佚文である可能性が高いと思われる。
 また『通典』にも記録されていない規定として、『太平御覧』巻212引『宋志』に、「尚書令(?)が三公に面会する際、および尚書丞と郎が尚書令・僕射・列曹に面会する際は、どちらも門の外で車から下り、くつをはいたまま門をまたぎ、そうしてからくつを脱いでしまう(令朝士詣三公、尚書丞郎詣令・僕射・尚書、並門外下車、履度門閫、乃納履)」というものがある(どの場所(門)での面会のことなのかはよくわからない)。こちらも百官志の佚文である可能性がある。[上に戻る]

[39]『通典』巻25職官典7・衛尉卿・武庫令「両漢曰武庫令、属執金吾。・・・魏晋因之、晋後属衛尉。宋斉武庫令丞、属尚書庫部」。本文の説明と若干異なる。[上に戻る]

[40]『続漢書』百官志三・少府卿・上林苑令「天子の苑囿に生息している動物を管理する。また、しばしば民の住居があるので、その場合は住居管理もおこなう。(官吏が?住民が?)動物を捕獲した場合は太官に送る(主苑中禽獣、頗有民居、皆主之、捕得其獣送太官)」。[上に戻る]

[41]ここの材官将軍は雑号将軍のそれとはおそらく別であろう。・・・おそらく。
『通典』巻27職官典9・将作監・左右校署に「魏は左校と右校を材官(校尉)に合併した。晋では左校、右校は少府に所属していた。宋以後は左校の令と丞が置かれていた(魏併左校・右校於材官、晋左右校属少府、宋以後並有左校令・丞)」とあり、本文の説明とはだいぶ異なっている。どちらが妥当か判断がつきにくい。[上に戻る]

2014年7月6日日曜日

家伝から見る家伝系史料の特徴と王敦の人望のなさ

『世説新語』言語篇
摯瞻曾作四郡太守、大将軍戸曹参軍、復出作内史[一]。年始二十九。嘗別王敦、敦謂瞻曰、「卿年未三十、已為万石、亦太蚤」、瞻曰、「方於将軍少為太蚤、比之甘羅已為太老」[二]

摯瞻はかつて四郡太守、大将軍(王敦)戸曹参軍を歴任していたが、今度は内史〔王国の長官。要するに太守〕に就任が決まった。そのとき、年齢はようやく29になったところ。王敦と別れるさい、王敦は摯瞻に言った、「君はまだ30にもなっていないというのに万石〔2000石×5=1万〕とは、ちょい早すぎるのではないかね」。摯瞻、「将軍と比べるといささか早すぎるようですが、(12歳で上卿になった)秦の甘羅と比べると遅すぎます」。

 ここで二ヶ所、劉孝標の注[一][二]が付され、『摯氏世本』が引用されている。見てみよう。
[一]
瞻字景游、京兆長安人、太常虞兄子也。父育、凉州刺史。瞻少善属文、起家著作郎。中朝乱、依王敦為戸曹参軍。歴安豊、新蔡、西陽太守。見敦以故壊裘賜老病外部都督、瞻諌曰、「尊裘雖故、不宜与小吏」、敦曰、「何為不可」、瞻時因醉、曰、「若上服皆可用賜、貂蟬亦可賜下乎」、敦曰、「非喩所引、如此不堪二千石」、瞻曰、「瞻視去西陽、如脱屣耳」。敦反、乃左遷随郡内史。

摯瞻は字を景游といい、京兆は長安の人である。太常であった摯虞の兄の子にあたる。父の育(の最高官)は涼州刺史であった。摯瞻は若いころから文章の作成に長けており、最初に就任した官は著作郎〔起居注の執筆など、言ってみればライター的な仕事〕であった。永嘉の乱で朝廷が混乱すると、(荊州にいた)王敦を頼り、その戸曹参軍となった。安豊太守、新蔡太守、西陽太守を歴任した。王敦が使い古しでぼろぼろの毛皮の服を、高齢あるいは病気の外部都督にあげているのを見ると、摯瞻は諌めた、「使い古しとはいえ、高級な毛皮を下っ端にあげるのはいかがかと思います」。王敦、「どうして?」。摯瞻は酔いにかまけて言った、「高級な服をあげてよいことになるなら、貂蝉をあげてもよいことになりませんか〔貂蝉は侍官の冠につける装飾。暗に侍官を独断で任命する=野心をもつのはよしなさいと言っている。注[1]参照〕」。王敦、「下手な喩えだな。それではまるで、二千石では満足できないと言っているようなものだぞ〔侍官の筆頭侍中は比二千石で三品〕」、摯瞻、「西陽太守を離れることなぞ、わたしにとってはくつを脱ぐこととたいして変わりません〔おまえのとこを辞めるなんてよゆーだし!という意味だろう〕」。王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された。


[二]
瞻高亮有気節、故以此答敦。後知敦有異志。建興四年、与第五琦拠荊州以距敦、竟為所害。

摯瞻は高潔で気概盛んなため、王敦(の意地悪な言い方)に(強気に)答えたのである。のち、王敦が野心を抱いていることに気づいた。建興四年、摯瞻は第五猗とともに荊州を根城として王敦に背いたが、ついには殺害された。
 摯瞻は摯虞の親族であるらしい。摯虞といえば礼制のスペシャリストとして西晋政治史に欠かせない人物。最期は洛陽で餓死してしまうが・・・。
 摯瞻は『晋書』に列伝が立てられていない。なかなか気骨のある人物がこういうかたちでしか知れないとは。劉孝標および摯氏の家伝と思われる『摯氏世本』は本当にいい仕事をしてくれた。












で終わると思ったか?
終わってやらねーーー


 いやまあ、ともかく。この『摯氏世本』の記述、ちょい検討する必要がありそうなのである。
 徐震堮氏は次のような興味深い注を記している(『世説新語校箋』中華書局、1984年)
第五猗が荊州で王敦に反抗したことは、元帝紀で建武元年に記されている。この年は愍帝の建興四年である。王敦が反乱を起こしたのは永昌元年なので、王敦が反乱を起こす5、6年前の出来事になるのだが、どうやって王敦の野心を察知できたのだろう。また、摯瞻は第五猗と反乱を起こして最終的に殺害されたとあるのに、最初の注に引かれた『摯氏世本』の文章には「王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された」とある。同一の本の記述なのに矛盾している。
 なるほど。双方の佚文が『摯氏世本』のなかでどのような文脈のもとで配置されていたのかがわからないのだが、[一]の佚文は王敦のお気に召さなかったために、王敦の反乱後は遠くに飛ばされたって内容になっている。一方の[二]は、王敦の反乱を事前に察知し、第五猗と組んで反乱の芽を摘もうとしたけど失敗して殺された、という内容。うむ、たしかに。この[一]と[二]の佚文だけで比較してもつじつまが合わなくなっている。

 それに加えて徐氏の指摘で注目したいのが、摯瞻の反乱が王敦反乱の直前になされたものではなく、かなり前のものだという点だ。少し詳しく調べてみよう。まず元帝紀。
建武元年・・・八月・・・荊州刺史の第五猗が賊の頭領・杜曾から推戴され、とうとう杜曾と反乱を起こした。九月、戊寅の日、王敦は武昌太守の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻に第五猗を討伐させたが、杜曾らに敗北し、趙誘らはみな戦死した。・・・梁州刺史の周訪が杜曾を討ち、おおいに破った。・・・太興二年、・・・五月、・・・甲子の日、梁州刺史の周訪は杜曾と武当で戦い、杜曾を斬り、第五猗を捕えた。
 あれ、賊と組んでたの? っていうか賊から推戴されちゃってたの? さいわい、杜曾伝が『晋書』にあるので、それを参考にしてみると、杜曾は新野の人で、武官として活躍していた。永嘉の乱前後、荊州は徐々に混乱におちいり、胡亢、王沖、王如、杜弢など、様々な流民集団が自立・自衛し、晋朝の統制からはずれてしまっていた。賊乱立の無政府状態になってしまったんですね(もちろん、「賊」というのは晋朝側からの物言いである)。杜曾は当初、胡亢の部下として過ごしていたが、やがて胡亢を殺害し、胡亢集団を乗っ取ってしまった。要するに、杜曾は荊州に割拠していた群雄(?)の一人で、晋朝の支配下から抜けていた人物なのである。

 第五猗はどうしてそんな杜曾と組むにいたったのだろうか。この事情もかなりややこしいが、諸列伝を参照すると次のように整理できる。

 荊州が晋の統制からはずれていたことは前述の通り。これに苦心して取り組んだのが琅邪王(のちの元帝)率いるグループであった。
 元帝は揚州刺史王敦と甘卓に江州(豫章)を鎮圧させたのち(後述)、王敦に当時暴れまわっていた杜弢集団を討伐するよう命じた。豫章に駐屯した王敦は、陶侃や周訪を派遣、とりわけ陶侃の活躍により杜弢集団を鎮圧することに成功した。陶侃は功績が認められ、荊州刺史に昇進していたが、長沙で余勢も討伐し終え、いよいよ帰還というとき、
王敦は陶侃の功績を妬んだ。(長沙から)江陵に帰還し、王敦に(荊州刺史赴任にあたっての)いとまごいを告げようとしていたが〔当時の荊州刺史の赴任地は襄陽かな、たぶん〕、皇甫方回や朱伺らは行ってはいけないと諌めた。陶侃は聴きいれずに江陵へ向かった。はたして、王敦は陶侃を江陵に留めて赴任地へ行かせず、かえって広州刺史、平越中郎将に左遷し、王廙を荊州刺史に命じた[2]。陶侃の部下たちは陶侃の留任を王敦に願い出たが、王敦は怒ってしまい、許さなかった。陶侃の部将の鄭攀、蘇温、馬儁らは南の広州に行きたくなかったので、とうとう西の杜曾を迎えて王廙に反抗した。(『晋書』巻66陶侃伝)
 王廙はもちろん琅邪王氏。さて、同じ事情を記した王廙伝を見てみよう。
はじめ、王敦が陶侃を左遷し、王廙を荊州刺史に命じた。陶侃の部下の馬俊(「俊」、原文ママ)、鄭攀らは王敦に陶侃の留任を要請したが、王敦は許可しなかった。すると、王廙は馬俊らの襲撃を受け、江安に敗走した。賊の杜曾は馬俊、鄭攀らと手を組み、北に進んで第五猗を迎え、王廙に反抗した。(『晋書』巻76王廙伝)
 ほほう、第五猗は王廙に反発した陶侃の部将たちによって迎えられたわけだね。杜曾伝によると、直後に陶侃の討伐軍が来るのだがこれを破ったとか。おまえらの望みは陶侃じゃねーのかよと言いたくなるのは措いとくとして、次に注意したいのが周訪伝だ。
当時、梁州刺史の張光が没したので、愍帝は侍中の第五猗を征南大将軍、監荊・梁・益・寧四州とし、武関から荊州に向かわせた。荊州の賊の頭領たち、杜曾、摯瞻、胡混らはみな第五猗を迎え、彼を推戴し、数万の兵を集めた。陶侃を石城で撃破すると、宛で平南将軍の荀崧を包囲したが、落とすことができず、兵を率いて江陵に向かった。王敦は従弟の王廙を荊州刺史にし、征虜将軍の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻を統率させて杜曾らを討伐させたが、女観湖で大敗し、趙誘、朱軌らはみな殺害された。杜曾はとうとう王廙を荊州から追い出した。・・・元帝は周訪に討伐を命じた。・・・杜曾の部将の蘇温が(敗走していた)杜曾を捕まえて周訪軍に出頭した。また周訪軍は第五猗、胡混、摯瞻らを捕えた。全員を王敦に送るにあたり、周訪は、第五猗は杜曾に脅されていただけだから殺すべきでないと伝言した。王敦は聴きいれずに斬った。(『晋書』巻58周訪伝)
 さきに引用した元帝紀と同様の記述が見えてきました。周訪伝によれば第五猗は愍帝によって派遣された荊州刺史であることがわかる。杜曾伝も愍帝から派遣された刺史だと明記しており、さらに襄陽で迎えたこと、杜曾と第五猗が婚姻関係を結んだことも記されている(「会愍帝遣第五猗為安南将軍、荊州刺史、曾迎猗於襄陽、為兄子娶猗女、遂分拠沔漢」)

 諸史料で若干人名が違うとか、ほかにもいろいろ異同はあるのだが、荊州における王敦派と陶侃派との対立が起き始めたときにたまたま第五猗が北から来ちゃって、「コイツは使える」と思った陶侃派が王敦に対抗する意図で彼を反乱に巻き込んだ、ってことでしょうかね[3]。なにしろ愍帝からのお墨つきもらってるからなー。いくら王敦が元帝から自由に地方官を任命する権限を与えらえているとはいえ、愍帝はその元帝の上にいるわけだし、王敦の法的正当性/正統性なんぞ一瞬で吹き飛ぶわな。
 陶侃は杜弢の反乱を鎮圧しているうちに荊州の人々のハートをがっちりつかんでおり、「陶将軍がいなかったらいまの荊州はなかった」なんて言われてるくらい慕われていたようである。第五猗らの反乱が鎮圧されたあと、結局王廙が荊州刺史に留任するのだが、「陶侃が刺史だったときの官吏や処士の皇甫方回を殺害しつくし、荊州の人望を失った」(『晋書』王廙伝)ため、中央に召され、その後任には王敦が就いた(『晋書』王敦伝)。なんかヨゴレ役をぜんぶ王廙に押しつけたかっこうになってるね、王敦。

 別に王敦ディスってないし、王敦が陶侃を広州刺史に任命したのだってほかの意図があったかもしんないじゃん。めんどいから調べないけど。
 で、問題なのは冒頭に挙げた摯瞻。彼はいったいどういう経緯から杜曾&第五猗連合軍に加わったのだろう、捕まったあとどうなったのだろう、という肝心のところは推測する手がかりすらないので、ちょい度外に置いときましょう[4]。気になるのは『摯氏世本』の書き方だ。

 『摯氏世本』の言っていることは間違っちゃいない。しかしなにか違和感を感じないだろうか。違和感があるという人、それはこの時代の歴史を東晋の側からしか見ていない証です。
 摯瞻のやったことは、王敦や元帝などのちに東晋となる政治集団から見れば、まぎもない「反乱」。自分たちの言うことを聞かないし、杜曾と組むしで、いくら愍帝の任命した刺史とはいえ、反抗者に違いはない。王敦だって第五猗を斬ってるじゃないか。の割にはかなり書き方がマイルドになっていないだろうか。杜曾の名前は伏せ、摯瞻は反乱を起こしたのではなく、王敦を事前に潰そうとしたのだと、反乱を起こしたことを弁護し、行動を正当化しているように見えないだろうか。
 『摯氏世本』の執筆者は摯氏か、親しい関係者で、のちに王敦が武力で政府の実権を制圧したことを利用して、摯瞻の反乱はじつは反乱ではなく朝廷を守るための行為だったのだと記述し、名誉を回復しようとしたとかそんなねらいがあったように思われる。ものは言いようですね。

 『摯氏世本』の記述を簡単に調べてみる程度だったのだが、思った以上にいろいろ興味深かった。まず、王敦派と陶侃派との対立があんな出来事まで誘発していたこと。正直、この時期の荊州は複雑だなあという印象だけでちゃんと調べたことはなかったので、ああやっぱり複雑だなあと思いました。
 次に元帝グループと懐帝・愍帝グループとの軋轢。いちおう元帝は愍帝から権限を任命されている立場なので元帝グループは愍帝に逆らえないはずだが・・・第五猗の例から見ると、愍帝の権威なんぞなんとも思ってなさそう。『資治通鑑』によると、周訪は第五猗を王敦に送るさいに「中央政府が任命した刺史だから斬っちゃダメよ」って伝言してるのだけど見事に王敦は無視。このような傾向は王敦だけのものかと言うと、そうとも言えない節がある。例えば江州刺史華軼なんかがそうだ[5]。元帝からすれば、もう力の残っていない中原政府に一々おうかがいするより、自分たちで判断してテキパキやったほうが早いわけ。実際、「例外状態・異常事態」下である程度の権限を緊急に振るうことは禁じられているわけではないだろうし、元帝たちはそういう理由をもって自分たちの勢力を各地に浸透させていたわけだね。

 最後に家伝・家譜の記述の扱い方。魏晋南北朝では大量につくられたこれらの書物も、現在ではほとんどが散佚してしまい、どういう形態の書物だったのかはうかがいしれないのが大変残念(ちなみに魏収の『魏書』は家伝をたくさん集めたようなものと言われることがあるから、一種の家伝と言えるかもしれない)。
 家伝系の書物でよくわからないのは、①誰が書いていたのか、②どういう目的で書いたのか、③そもそも何が書かれていたのか。③がわからない限り①と②もわかりっこなさそうなのだが、種々の佚文を見る限り、名・字、官歴、長所、逸話がコンパクトに書かれている感じ。『摯氏世本』もそんな感じだった。史書の列伝に近い感じだろうな、と思われます。
 ①と②は書物ごとに違っている可能性もあるだろうし、一般的に言うことはできないけども、少なくとも『摯氏世本』に関しては、前述の通り親族か親しい関係者かが書いたでしょうな。目的は『摯氏世本』に限ってもわからないが、まあ悪いこともひっくるめていろいろ書くぜ、みたいな書物ではなさそうだ。そういえば吉川忠夫先生の『六朝精神史研究』だったか、沈約の祖先はかつて東晋に反乱を起こしたのだけど、沈約の自序ではそこらのことがぼかされているとかなんとか指摘されていたと思う。
 繰り返すが、『摯氏世本』の記述が間違っているとか言いたいのではない。後年の王敦の挙兵にこじつけるのはどうかと思うけど、王敦派への反発から生まれたこじれではあるし。ただ、ああいうぼかした書き方は、あきらかに東晋朝廷への弁護的な意味合いがあるだろうにしても、現代の研究者からすれば信用問題に関わってくるだろう。今回取り上げた件はそんなに問題視するほどでもなかったかもしれないが、他の家譜・家伝の記述はどうだろうか。史料として参照する場合、吟味しておいた方がよさそうだ。たんに信用問題だけでなく、ひょっとすると今回のように、東晋側の視点を相対化してこの時代をみるいいきっかけになるかもしれないからね。



――注――

[1]少なくとも西晋以降、侍中を含めた侍臣の官は、武冠を「貂蝉」で飾る規定であったらしい。『宋書』巻18礼志五に「侍中・散騎常侍及中常侍、給五時朝服、武冠。貂蝉、侍中左、常侍右。皆佩水蒼玉」とある(礼志五のかかる箇所が、西晋泰始年間の規定である可能性が高いことは、小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年を参照)。具体的には、蝉の羽で飾りつけた金製のバッジと、貂の毛を挿した金製の竿のことで、竿を侍中は左、散騎常侍は右に挿す。『晋書』職官志「侍中・常侍則加金璫、附蝉為飾、挿以貂毛、黄金為竿、侍中挿左、常侍挿右」。武冠は戦国趙が起源だというが、これに貂蝉を飾る習慣は秦漢以来あったようで、その由来について、後漢の胡広は「昔趙武霊王為胡服、以金貂飾首。秦滅趙、以其君冠賜侍臣」と言い、応劭『漢官儀』は金=剛健・百錬不耗、蝉=高潔(「居高食潔」)、貂=内剛外柔、を比喩しているとするなど諸説ある。[上に戻る]

[2]このとき王敦は。鎮東大将軍、開府儀同三司、都督江揚荊湘交広六州諸軍事、江州刺史で、都督下の州郡の長官を自分で任命する権限を与えられている(『晋書』巻98王敦伝)[上に戻る]

[3]ちょっと異なる経緯を記しているのが『晋書』巻81朱伺伝と、朱伺伝をベースにしている『資治通鑑』。これらによると、鄭攀らは杜曾と結託して王廙を拒絶しようとしたが、趙誘、朱軌らを差し向けられると、誅殺をビビッて投降、杜曾も罪をつぐなうため、襄陽の第五猗を討伐したいと願い出た。しかしこれは王廙らを油断させる罠で、杜曾は王廙らを急襲し、さらに趙誘らも破って戦死させる。その後の経緯は特に本文の説明と変わりなし。鄭攀は結局降ったママ?っぽいが、馬俊と蘇温はそのまま杜曾軍にいた感じになる。[上に戻る]

[4]ホントはここらをいろいろ妄想考察してみたいんだけど、残念ながらあまりにも材料不足。最初考えたのは、摯瞻は第五猗と一緒に荊州に来て、なりゆきで反乱に加わってしまい、捕まったあとは王敦に罪を許され、その後は王敦の爪牙として働いた、というもの。ただこれは永嘉の乱前に王敦を頼ったという『摯氏世本』の記述と乖離してしまうし、微妙。『世説新語』本文の記述から見ても、摯瞻は多少王敦に反感をもっていたのかもしれないが、王敦派の一人ではあろうし、わざわざ王敦に背くまでの理由がなんかあったのだろうか。なさそうだから上記のように考えてみたんですけどね、もう完全に謎ですね。[上に戻る]

[5]江州は荊州と揚州のあいだにある州とイメージしてもらえるとよい。華軼は琅邪王が江南に来る以前から江州刺史として政治を執っており、なかなか評価は高かった。華北で劉淵や石勒らが跋扈しはじめても、洛陽に皇帝がいる限り皇帝の詔書以外の命令は聴かないと言い、江南で秩序を回復させようと努める元帝たちの命令を受けつけなかった(『晋書』巻61華軼伝「軼自以受洛京所遣、而為寿春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡県多諌之、軼不納、曰、『吾欲見詔書耳』」)
 やがて洛陽が陥落し、荀藩が元帝を盟主にしようとの檄を飛ばしても元帝に従わなかったため、とうとう元帝から討伐部隊を差し向けられ、殺害されてしまった。華軼が辟召していた高悝という人物は、華軼の二人の子と妻を何年もかくまい、大赦が出てからかくまっていたことを出頭したというから、華軼は反乱者扱いにされていることがわかる。
 たしかに華軼は融通が利かないが、言い分が間違っているわけではない。懐帝はまだ存命中だし、元帝が後継者に指名されたわけでもない。荀藩が勝手に言っているだけだ。元帝に法的正当性がないことは元帝たちだって知っているだろう、だからこそはじめから武力を使用しなかったものと思われる。
 元帝も懐帝・愍帝ら中原政府から正当性を付与されているにすぎないのだが、懐帝・愍帝をタテにとって元帝の言うことを聞かないやつらが邪魔でしょうがなく、そうなると懐帝や愍帝すらも元帝にとっては邪魔だっただろう。そういった建前と本音がこれらの事例には垣間見えるよね。元帝の正当性/正統性の弱さゆえ、最終的には武力で無理矢理聞かせていき、人々も中原政府には期待できないからだと元帝に服従していったこの時期の政治的過程がよく想像できる。[上に戻る]

2014年6月7日土曜日

書道で死にかけた話

『晋書』巻80王羲之伝附献之伝
謝安甚欽愛之、請為長史。安進号衛将軍、復為長史。太元中、新起太極殿、安使欲献之題榜、以為万代宝、而難言之、試謂曰、「魏時陵雲殿榜未題、而匠者誤釘之、不可下、乃使韋仲将懸橙書之。比訖、鬚鬢尽白、裁余気息。還語子弟、宜絶此法」。献之揣知其旨、正色曰、「仲将、魏之大臣、寧有此事。使其若此、有以知魏徳之不長」。安遂不之逼。

謝安はとても王献之を気に入っていたので、自分の長史にしたいと願い出(て許可され)た。謝安が衛将軍になると、またも王献之は長史となった。太元年間、太極殿を新築したさい、謝安は王献之に扁額の題字を書かせようと思い、大量の財宝を報酬に出そうとしていたが、言い出せずにいた。そこで謝安はやる気をうかがってみるために、ためしに語ってみた、「魏の時代、陵雲殿の扁額に題字がまだ書かれていなかったのに、職人が間違って扁額を釘で打ちつけてしまい、下ろすことができなくなってしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて扁額に題字を書かせた。ほどなく終わったのだが、そのときには韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えの様子。帰宅すると年少の親族たちに、『書道なんてやらんほうがええで・・・死んでまうわ・・・』と語った、という話があったそうだ(ところで太極殿の扁額もまだ題字がないんだけど、もう打ちつけちゃったんだよねー、どうしようかなー、まじで困ったわー)」。王献之は謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「韋誕は魏の大臣ですよ、そんなバカなことをさせるわけないでしょう! もしそんなことをさせたのなら、魏が短命だったのも当然ですね!」こうして謝安は諦めたのだった
 そんな話を聞いて「おれもやるぅーー」って言うやついると思ってんの、謝安氏よ?
 え? ゴンドラの上で悲鳴をあげながら震えた字を書いてる韋誕を想像すると萌えるでしょ?キミがやってくれるともう・・・///って謝安は言ってんの? そこまでオレは察せられなかったわー、まじごめーーん。



 ところで、このお話は『世説新語』および同書劉孝標注引の佚書にも見えている。参考までに引いておきましょう。

『世説新語』方正篇
太極殿始成、王子敬時為謝公送版使王題之、王有不平色、語信云、「可擲著門外」。謝後見王、曰、「題之上殿何若、昔魏朝韋誕諸人亦自為也」。王曰、「魏祚所以不長」。謝以為名言。

太極殿が完成したとき、王献之は謝安の長史であった。謝安は王献之に扁額を送りつけ、題字を書かせようとしたが、王献之は不満な様子。扁額を持って来た謝安の使者に「門外に放っておけや」と言う始末。後日、謝安が王献之に会ったさいに、「扁額を打ちつけたあとならどうかな? かつて魏の韋誕はそうしたらしいぞ」と言うと、「へえ、だから魏は短命だったんですね」と王献之は答えた。名言ですねえ、と謝安は思ったのだった。

宋明帝『文章志』(同書同篇劉注引)
太元中、新宮起、議者欲屈王献之題榜、以為万代宝。謝安与王語次、因及魏時起陵雲閣、忘題榜、乃使韋仲将県橙上題之、比下、須髪尽白、裁余気息、還語子弟云、宜絶楷法。安欲以此風動其意、王解其旨、正色曰、「此奇事、韋仲将魏朝大臣、寧可有使其若此、有以知魏徳之不長」。安知其心、迺不復逼之。

太元年間、新しく宮殿が完成したさい、財宝を報酬にして王献之に扁額の題字を依頼しようと会議で決まった。謝安と王献之が雑談しているさいにこの話題におよび、そこから魏の韋誕の話に話題が移った。(その話は次の通り。)魏の時代、陵雲閣を建てたさいに扁額に題字を書くのを忘れてしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて題字を書かせた。ほどなく(終わって)下ろされると、韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えな様子。帰宅して年少の親族に、「書道なんてやめとけや・・・」と語った。謝安はこの話で王献之をやる気にさせようとしたのだが、王献之はその謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「おかしな話ですね。韋誕は魏の大臣なのにそんなことをさせるんですか。それじゃあ魏も短命に終わりますよね」。謝安は王献之の心中を知ったので、無理強いしなかった。

『世説新語』巧芸篇
韋仲将能書。魏明帝起殿、欲安榜、使仲将登梯題之。既下、頭鬢皓然。因勅児孫勿復学書。

韋誕は書道に長けていた。魏の明帝が宮殿を新築したさい、扁額を設けようと思い、(打ちつけたあとで)韋誕をはしごに登らせて題字を書かせた。はしごから下ろされると、頭髪は真っ白になっていた。韋誕は子や孫に、書道なんて習うんじゃないと命じたそうだ。

衛恒『四体書勢』(同書同篇劉注引)〔晋の衛瓘の子〕
誕善楷書、魏宮観多誕所題。明帝立陵霄閣、誤先釘榜、乃籠盛誕、轆轤長絙引上、使就題之、去地二十五丈、誕甚危懼、乃戒子孫絶此楷法、著之家令。

韋誕は楷書の達人で、魏の宮殿や台観の題字はほぼ韋誕が書いたものだった。明帝が陵霄閣を建てたさい、間違って扁額を先に打ちつけてしまったので、韋誕をかごに乗せ、滑車と長めの綱を使って吊るし上げて題字を書かせた。その高さ、地面から二十五丈(約60メートル)。韋誕は恐ろしくたまらなかった。そこで子や孫には書道なんて習うもんじゃないと戒め、家令にも記したのである。
 けっこう書物によって記述が違う。『晋書』はいいとこどりしてきれいにまとめた感じ。たいてい、いいとこだけ混ぜ合わせると駄作ができるもんなんですが。そもそも佚文には残っていない先行晋史から唐の史官が引っ張ってきた可能性もかなり高いけどね。

 てか60メートルも吊るされたのかよ・・・! 家令に記録して戒めたという『四体書勢』の記述はなまなましいね・・・

2014年5月31日土曜日

成漢・李氏の来歴神話(続)

 前回の記事では李氏の来歴に廩君伝説が利用されていることを述べ、李氏の来歴神話に矛盾が見られることを指摘した。今回はその廩君説話について、他の史料を読みつつ検討してみたい。
 さて、廩君および李氏の神話に関連する説話は、『華陽国志』、『後漢書』、『水経注』、『十六国春秋』などの諸書に見えているが、まず最初に比較的記事が豊富で整っている范曄『後漢書』伝86南蛮西南夷列伝から読んでみよう(引用文中、ブラケット[ ]は李賢注、亀甲カッコ〔 〕は訳者注を示す)。
A(長沙武陵蛮の条)
秦の昭王は白起に楚を討たせ、(楚が支配していた)蛮夷を支配下に置き、黔中郡を設けた。漢が起こると、武陵郡に改称された。(その地の蛮夷は)毎年、大人は一人につき布一匹、小口〔子供という意味でしょう〕は一人につき二丈を納付させた。これを「賨布」と呼ぶ[李賢注:『説文』は「(賨とは)南蛮の賦税のことである」と記している](秦昭王使白起伐楚、略取蛮夷、始置黔中郡。漢興、改為武陵。歳令大人輸布一匹、小口二丈、是謂賨布。[『説文』曰、「南蛮賦也」。])

B(巴郡南郡蛮の条)
巴郡南郡蛮。もともとは巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏の五姓であった。みな武落の鍾離山が出自である[一]。その山には赤と黒の二つの色をしたほら穴があり、巴氏の子は赤穴で、ほかの四姓の子はみな黒穴で生まれていた。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相だけが当てることができたので、みなは(務相を)たたえた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かばせることができた者が君長になると決まりを立てて勝負した。ほかの四姓の者はすべて沈んだが、務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた[二]。塩水〔『水経注』によれば夷水の別名〕の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩陽の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回った。日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天地はようやく明るさをとりもどした[三]。廩君はこうして夷城の君主となり[四]、四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。秦の恵文王が巴中を併合すると、巴氏を(その地の)蛮夷の君長とし、代々秦の王族の娘を嫁がせた。蛮夷の一般人には不更と同等の爵を与え、罪を得ても爵で免罪することができるようにした。君長は、毎年2016銭の賦銭、三年に一回1800銭の義賦を納めた。一般の人民は一戸につき、幏布八丈二尺、にわとり三十鍭〔李賢によると149羽〕を納めた。漢が起こると、南郡太守の靳彊はすべて秦の時代のやりかたを踏襲するよう要請し(許可され)た。(巴郡南郡蛮、本有五姓、巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏。皆出於武落鍾離山。其山有赤黒二穴、巴氏之子生於赤穴、四姓之子皆生黒穴。未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣於石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃独中之、衆皆歎。又令各乗土船、約能浮者、当以為君。余姓悉沈、唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦即化為蟲、与諸蟲羣飛、掩蔽日光、天地晦冥。積十余日、廩君伺其便、因射殺之、天乃開明。廩君於是君乎夷城、四姓皆臣之。廩君死、魂魄世為白虎。巴氏以虎飲人血、遂以人祠焉。及秦恵王并巴中、以巴氏為蛮夷君長、世尚秦女、其民爵比不更、有罪得以爵除。其君長歳出賦二千一十六銭、三歳一出義賦千八百銭。其民戸出幏布八丈二尺、鶏羽三十鍭。漢興、南郡太守靳彊請一依秦時故事。)

[一]『世本』によれば、「廩君の祖先は、巫誕〔中華書局によると人名らしいが、詳細は不明〕の子孫である」。(『代本』曰、「廩君之先、故出巫誕」也。)
[二]『荊州図副』によれば、「夷陵県の西に温泉がある。古老の話によると、この温泉は元来、塩を産出していたとのことで、現在でも塩っ気があるそうだ。県の西にはほら穴がある山が一つある。穴のなかには二つの大きな石が、一丈ばかり離れて並んでおり、俗に陰陽石と呼ばれている。陰石のほうはいつも湿っていて、陽石のほうはいつも乾いている」。また盛弘之の『荊州記』によれば、「むかし、廩君が夷水を航行していたとき、塩神を陽石の上で射殺した。調べてみたところ、現在〔盛弘之は劉宋の人〕の施州清江県の河に塩水とも呼ばれている河がある。源流は清江県の西の都亭山にある」。『水経』に「夷水はは巴郡魚復から流れ出ている」とあり、酈道元の注に「水の色が澄んでいて、十丈にわたって照らすほどで、砂と石がきれいに分かれている。蜀の人はその澄んださまを見て、清江と名づけたのである」。(『荊州図副』曰、「夷陵県西有温泉。古老相伝、此泉元出塩、于今水有塩気。県西一独山有石穴、有二大石並立穴中、相去可一丈、俗名為陰陽石。陰石常湿、陽石常燥」。盛弘之『荊州記』曰、「昔廩君浮夷水、射塩神于陽石之上。案今施州清江県水一名塩水、源出清江県西都亭山」。『水経』云、「夷水巴郡魚復県」、注云、「水色清、照十丈、分沙石。蜀人見澄清、因名清江也」。)
[三]『世本』に「廩君は人をやって青い糸を塩神に贈り、『これを身に着けてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします』と伝えさせた。塩神は糸を受け取ると、それを身に着けた。廩君は陽石の上に立ち、青糸をねらって矢を放った。矢は塩神に命中し、塩神は絶命した。すると、天は明るくなった」とある。(『代本』曰、「廩君使人操青縷以遺塩神、曰、『嬰此即相宜、云与女俱生、弗宜将去』。塩神受縷而嬰之、廩君即立陽石上、応青縷而射之、中塩神、塩神死、天乃大開」也。)
[四]以上の文章はすべて『世本』にも見えている。(此已上並見『代本』也。)

C(板楯蛮の条)
板楯蛮。秦の昭襄王のとき、一匹の白虎が現われ、虎の群れを引き連れながら秦、蜀、巴、漢の領域をうろうろし、千余人を殺傷していた。昭襄王は虎を殺せる者を何度も募り、一万家の邑と百鎰の金を懸賞金にかけていた。当時、巴郡閬中の蛮夷で、白い竹製の弩をつくることができる者が、たかどのに登り、(その弩を使って)白虎を射殺した。昭襄王は彼をたたえたが、蛮夷であったために封建したくなかった。そこで石に盟約を刻み、(巴郡の蛮夷はみな)田地は一頃まで租税を課さないこと、妻は十人まで算賦税を課さないこと、人に傷害を加えた者は罪を減免し、人を殺害した者は倓銭[何承天の『纂文』によれば、「倓とは、蛮夷が贖罪するために使用する貨幣である」]によって罪をあがなうことができるようにした。盟約には、「秦人が夷人に対して罪を犯した場合、黄龍のつがいを送る。夷人が秦人に対して罪を犯した場合は、清酒ひとつぼを送る」とあった。蛮夷はこれに安堵した。高祖が漢王になると、蛮夷を徴発して関中を討った。関中が平定されると、巴中に帰らせた。渠帥の羅、朴、督、鄂、度、夕、龔の七姓は租と賦を免税した。ほかの夷人は、毎年、一人につき四十の賨銭を納めさせることとした。(彼らは)代々、板楯蛮夷と呼ばれていた。閬中には渝水が流れており、住民の多くはその河の側に住んでいた。元来、敏捷かつ勇猛で、漢軍の先鋒となり、何度も敵軍の陣営を陥落させていた。歌や舞踊を好む風俗で、高祖は彼らの歌や舞踊を見ると、「武王が紂王を討ったときの歌のようだ」と言った。そこで音楽を仕事とする楽人にその歌と舞を覚えさせた。それがいわゆる巴渝舞と呼ばれている舞である。こうしてついに、代々漢に服従することになったのである。(板楯蛮夷者、秦昭襄王時有一白虎、常従羣虎数遊秦、蜀、巴、漢之境、傷害千余人。昭王乃重募国中有能殺虎者、賞邑万家、金百鎰。時有巴郡閬中夷人、能作白竹之弩、乃登楼射殺白虎。昭王嘉之、而以其夷人、不欲加封、乃刻石盟要、復夷人頃田不租、十妻不筭、傷人者論、殺人者得以倓銭贖死。盟曰、「秦犯夷、輸黄龍一双。夷犯秦、輸清酒一鍾」。夷人安之。至高祖為漢王、発夷人還伐三秦。秦地既定、乃遣還巴中、復其渠帥羅、朴、督、鄂、度、夕、龔七姓、不輸租賦、余戸乃歳入賨銭、口四十。世号為板楯蛮夷。閬中有渝水、其人多居水左右。天性勁勇、初為漢前鋒、数陷陳。俗喜歌舞、高祖観之、曰、「此武王伐紂之歌 也」。乃命楽人習之、所謂巴渝舞也。遂世世服従。)
 かなりの部分で『晋書』李特載記と重なる。さしあたり、以下の点を挙げておこう。
①黔中郡と賨
 『晋書』李特載記によれば、廩君の子孫たちは秦の時代に黔中郡の統治下に編入され、毎年賨銭四十を納めていたという。しかし、『後漢書』の記述によると、黔中郡の蛮夷(武陵蛮)は銭ではなく布を納めているし、賨銭四十を納めていたのは巴郡に集住していた蛮夷(板楯蛮)である。しかも、武陵蛮も板楯蛮も、廩君の子孫とは記述されていない。
②漢の高祖との関係
 『晋書』李特載記においては、李特の先祖たちは漢の高祖に付き従い、関中の平定に功績があったという。同様の記述が『後漢書』板楯蛮の条に見えるが、彼らは廩君とはあまり関係がないようである。
③巴郡南郡蛮と板楯蛮
 そもそも、漢字文化圏の人間が記述した内容に従って、当時の蛮夷を厳密に区分けすることなどできるのか、という批判があるかもしれない。あるいは、これらの蛮夷たちは隣接地域に居住していたので、現実にも区分があいまいだし、あくまで行政的な区分にすぎない、あまりきっちりとした区切りを設けて蛮夷を考えるべきではないという意見もありそうだ。たしかにそれらは一理ある。だが、だとしても、巴郡南郡蛮にかんする説話と板楯蛮にかんする説話は全体的にあまりにも異なっていないだろうか。
 巴郡南郡蛮は夷水一帯、南郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しているらしいが、『晋書』でも『後漢書』でも彼らは元来五姓であり、白虎を尊んでいる。
 板楯蛮は巴郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しており、『後漢書』によると彼らの親分は七姓、白虎を殺す者たちである[1]
 とりわけ、白虎に対する姿勢の違いは注目すべきだろう。廩君の話も含め、いったいどうやってこれらの話が漢字に翻訳されたのかというのは謎だが[2]、現状確認できる限り、これは両者の風俗の違いとして大事なポイントだと思う。

 『後漢書』との比較検討を通してなにが言いたかったかというと、『晋書』李特載記冒頭のあの来歴の神話は、漢字文化圏に伝わっていた廩君=巴郡南郡蛮と、武陵蛮[3]と、板楯蛮の話がそれぞれ混合してできあがったまがいものだということだ。色々な資料をつなぎ合わせて一見筋の通ったお話に見せかけているものの、文脈が共通しない各資料を特段の根拠もなく、しかも矛盾を隠しきれないままに一つの筋に並べた、非常にずさんな話だと断言できるでしょう。

 ここで本質的な問題に入ろう。この李氏の来歴のお話はいつ、どのようにして創られたのか。直前の記事で、『晋書』の載記は北魏・崔鴻『十六国春秋』に由来する可能性が高いことを述べておいた。今回の李特についてはどうなのであろうか。『十六国春秋』を見てみよう(『太平御覧』巻123引『崔鴻十六国春秋蜀録』)。
李特、字玄休、巴西宕渠人、其先廩君之苗裔。秦併天下、以為黔中郡、薄賦其人、口歳出銭四十。巴人謂賦為賨、遂因名焉。及高祖為漢王、始慕賨民、平定三秦。既而不願出関、求還郷里、高祖以其功、復同豊沛、更名其地為巴郡。土有塩漆之利、民用殷阜、俗性剽勇、又善歌舞、高祖愛其舞、詔楽府習之、今巴渝舞是也。其後繁昌、分為数十姓。及魏武剋漢中、特祖父虎帰魏、魏武嘉之、遷略陽、拝虎等為将軍。内徙者亦万余家、散居隴右諸郡及三輔・弘農、所在号為巴人。
 翻訳はいいですかね。ええ、『晋書』の李特載記とまったく同じです。廩君のお話が『十六国春秋』では詳しく記述されていないのが『晋書』との違いとして挙げられるけど、『御覧』への引用時に節略された可能性もあるので、その点を差異として言い切ることは難しい(というか、『十六国春秋』でも蜀録冒頭に廩君の神話を記述していた可能性は高いと思う)。

 以上、次のことが明らかになりましたね。すなわち、『晋書』李特載記に記されている李氏の来歴はかなりデタラメである可能性が高いけども、それは唐の史官がテキトーに諸資料をツギハギしてしまったからではなく、そもそも唐の史官がほぼ丸写ししたと思われる『十六国春秋』の時点からああいう整合性の取れない話になっていたということだ。
 じゃあ崔鴻はいったい何を参考にしてあんな話を記述したのだろう。注[2]で論じておいたように、范曄『後漢書』、酈道元『水経注』である可能性は低い。だとしたらなにを参考にしたのだろう? それに李氏は本当に廩君の子孫を名乗っていたのだろうか。仮にそうだとしたらどうして? 逆に崔鴻のウソだとしたらそれもまたどうして?
 また次回。



――注――

[1]板楯蛮が虎狩りを特徴とする蛮夷として認識されていたことは、次の『華陽国志』巻一巴志の記述からうかがい知れる。「秦の昭襄王のとき、白虎が危害を加えることが起こり、秦、蜀、巴、漢の地域がこれに悩んでいた。そこで秦王は国内に何度も懸賞をかけた。『虎を殺した者には封邑一万家、(もしくは?)それと同等の金と布帛を与える』。これを受けて、夷人の朐忍廖仲、薬何、射虎秦精らが白い竹から弩を製作し、たかどのの上から白虎を射撃した。(白虎の)頭に三本の矢が命中した。白虎はいつも虎の群れを従えていたが、群れの虎は(白虎が殺されたのを見て)大いに怒り狂った。(朐忍廖仲らは)群れの虎をすべて殴り殺し、虎たちはうなったあとに息絶えた。・・・〔秦王と夷人との盟約のくだりは省略。『後漢書』の記述とほぼ変わらないので〕・・・。漢が起こると、夷人は高祖に従って戦乱を平定し、功績を立てた。高祖は功績を考慮して税を免除し、虎を射ることだけを生業とさせた。一戸ごとに、一人につき賨銭四十を毎年納付させていた。そのため、『白虎復夷』と代々呼ばれることとなった〔「復」は税を免除することを意味する。虎狩りの功績で銭納以外の税の免除措置を得た夷人、ということだろう〕。あるいは「板楯蛮」とも呼ばれた。(彼らは)現在〔撰者・常璩が執筆した東晋時代ころのことか〕の『弜頭虎子』である〔虎のようにつえー、みたいな感じらしい〕(秦昭襄王時、白虎為害、自秦、蜀、巴、漢患之。秦王乃重募国中、『有能煞虎者邑万家、金帛称之』。於是夷朐忍廖仲、薬何、射虎秦精等乃作白竹弩、於高楼上、射虎。中頭三節。白虎常従群虎、瞋恚、尽搏煞群虎、大呴而死。・・・漢興、亦従高祖定乱、有功。高祖因復之、専以射虎為事。戸歳出賨銭口四十。故世号白虎復夷。一曰板楯蛮。今所謂弜頭虎子者也)」。なお『華陽国志』のテクストは任乃強氏の校注本(『華陽国志校補図注』上海古籍出版社、1987年)を用いた。[上に戻る]

[2]廩君の記述はこのほか、『水経注』巻37夷水にも見えており(後掲)、また李賢の注から推測するに、盛弘之『荊州記』にも記述されていた可能性が高いと思われる(現在は佚書で佚文にも明確に見当たらないが、廩君が塩神を殺した「陽石」についての記述が見えているので。また後掲の『水経注』も参照)。だが、より古くは、李賢が指摘している『世本』に見えているようである。たとえば『太平御覧』巻944に引く『世本』には断片的記述だが、『晋書』の李特載記とほとんど変わらない文言の文章が引用されている。
 では『世本』とはなんだねという話になるのだが、現在は佚書ということもあって、詳しくはよくわからない。先秦の帝王や諸侯・王の系譜などを細かに記述していたらしいということがわかるくらい。この本はじつは非常に古いもので、司馬遷が『史記』を編纂するさいにも参照した史書である。陳夢家氏は戦国趙の趙王遷の時代に趙で編纂された史書だと推測しているが(「世本考略」、『陳夢家著作集――西周年代考・六国紀念』中華書局、2005年)、妥当性はどうだろう。しかし、司馬遷以前にさかのぼるのは確かである。そんな古い時代から廩君の話が伝えられていたっていうのは興味深いね(ちなみに、『世本』は輯本が複数つくられており、代表的なものは西南書局や中華書局から発行されている『世本八種』に収められている)
《参考までに》『水経注』巻37夷水

 夷水は沙渠県から(佷山県に)入る。河の流れは浅く、かつ狭いので、かろうじて船が通れるほどである。夷水は東に流れて、難留城を過ぎてから南に向かう。難留城とは山のことである。山はぽつんとそびえていて、非常に険しい。西の斜面には一里ばかりのほら穴があり、火をともして百歩ばかり歩くと、二つの大きな石が一丈ばかりの離れて並んでいるのが見える。これを俗に「陰陽石」と呼んでいる。陰石はいつも湿っていて、陽石はいつも乾いている。水害もしくは干ばつが激しいときは、住民が服装を整えてほら穴に行き、干ばつのときは陰石をむちで叩く。すると、間もなく雨の日が多くなるという。水害のときは陽石をむちで叩く。するとたちまち晴れるという。聞くところでは、よく効き目があるそうだ。しかし、むちで叩く人が年寄りでなければ、住民たちはとても嫌がるので、(適当な年寄りがいない場合は)おこなわないそうだ。東北の斜面にもほら穴があり、数百人ばかりを入れることができる。戦乱が起こるたびに、住民はほら穴に入って賊から避難する。(このほら穴には)攻め入る隙がないので、難留城と呼ばれているのである。
 むかし、巴蛮には五姓あった。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相が当てることができた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かんだ者が君長になると決まりを立てて勝負した。務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた。塩水の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩水の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回ったので日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天はようやく明るさをとりもどした。廩君は土の船に乗って河を下ってゆき、夷城に到着した。夷城の岸壁は険阻で曲がりくねっており、夷水も湾曲していた。廩君はこの光景を遠く見てとるとため息をついた。すると岸壁が崩落した。廩君がそれを登っていくと、上には四方が二丈五尺の平らな石があった。そこでそのそばに城を築き、居住することに決めた。四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。そのため巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。塩水とは、夷水のことである。また、塩石というのがあるが、それは陽石のことである。盛弘之は、廩君が塩神を射撃した場所だと推測している。(夷水自沙渠県入、水流浅狭、裁得通船。東逕難留城南、城即山也。独立峻絶、西面上里余得石穴、把火行百許歩、得二大石磧、並立穴中、相去一丈、俗名陰陽石。陰石常湿、陽石常燥。毎水旱不調、居民作威儀服飾、往入穴中、旱則鞭陰石、応時雨多、雨則鞭陽石、俄而天晴。相承所説、往往有効。但捉鞭者不寿、人頗悪之、故不為也。東北面又有石室、可容数百人、毎乱、民入室避賊、無可攻理、因名難留城也。昔巴蛮有五姓、未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣于石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃中之、又令各乗土船、約浮者、当以為君。唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦化為蟲、羣飛蔽日、天地晦暝、積十余日、廩君因伺便、射殺之、天乃開明。廩君乗土舟下及夷城、夷城石岸険曲、其水亦曲。廩君望之而嘆、山崖為崩。廩君登之、上有平石方二丈五尺、因立城其傍而居之。四姓臣之。死、精魂化而為白虎。故巴氏以虎飲人血、遂以人祀。塩水、即夷水也。又有塩石、即陽石也。盛弘之以是推是、疑即廩君所射塩神処也。)

   この記述を見る限り、酈道元は『世本』ではなく、盛弘之の『荊州記』を手元に置いてここの部分を記した可能性が高いように思える。細かく見てもらえればわかるのだが、文言の重複具合や省略する箇所の一致など、ここの酈道元の注に記された廩君の記述は范曄『後漢書』の記述とほぼ重なっている。
 そこで気になってくるのが盛弘之『荊州記』と范曄『後漢書』との関係である。どっちが早く書かれたのであろうか。『隋書』経籍志によると、盛弘之は劉宋の時期の人で、「臨川王侍郎」であったという。臨川王義慶を指しているものと解しておこう。『荊州記』なんていう地理書を記すからには、彼は最低限のフィールドワークをやったはずだし、やんなかったらそもそもこんな書物を記そうとは思わないだろう、という推定で調べてみると、劉義慶は元嘉九年に荊州刺史に任命されている。劉義慶に従って荊州に赴任し、数年のあいだに『荊州記』をまとめたと見ておくのが妥当ではないだろうか。一方の范曄『後漢書』であるが、呉樹平氏によると元嘉九年~十六年のあいだに編纂されたらしい(「范曄《後漢書》的撰修年代」、同氏『秦漢文献研究』斉魯書社、1988年)。なんだかんだうまい具合に明解な答えが出るだろうと思ったら、見事に同年代でどっちがはやいとかそういうのわかんねー・・・。
 というわけなので、次の二つの場合を想定するほかなさそうだ。盛弘之『荊州記』が范曄と酈道元の資料源になったケース、范曄→盛弘之→酈道元というケース。
 ところで、その一方で『水経注』や『後漢書』を『晋書』李特載記と比べてみると、かなり異なっていることに気づく。つまり、まず李特載記は省略が少ない。少なくとも范曄や酈道元を見て記したのであれば、彼らが省略したところどころの文脈、たとえば廩君が塩神の願いを断ったさいのセリフや塩神を殺害したあとから夷城を築くまでのお話などといった箇所は、『後漢書』や『水経注』をいくら参考にしたって書けるわけがないのだ。では、盛弘之の『荊州記』はどうだったのだろうかというと、これはなんともいえない。范曄や酈道元と同様の記述だった可能性もあるし、地理書だからもっと豊富に記してあったかもしれない。ともかく、『晋書』の李特載記は『後漢書』や『水経注』を参照したのではなく、異なる書物を参考に廩君の話を記述した可能性が高く、候補としては盛弘之『荊州記』か『世本』が挙げられる、ということが言えるだろう。[上に戻る]

[3]余談だが、范曄『後漢書』や酈道元『水経注』などの漢文史料では、武陵蛮の起源のお話として、槃瓠の説話が記されている。槃瓠は帝嚳の飼っていた犬で、帝を悩ませていた犬戎のボスを討ち取ったことから帝の娘を妻として迎えることができ、山のなかで子をつくった、その子孫が「蛮夷」と呼ばれるようになり、武陵蛮がそれに相当するのだと。匈奴だとか、あと楚とか蜀にしても同じことが言えるけど、非漢族の起源は中華だってお話はやっぱり多いね。漢文史料だからそうなるのも仕方ないが、場合によっては、自分たち自身で「おれたちは中華が起源!」と言い出したりすることもある。楚の王族や劉淵たちはそうなんじゃないかね。そういう選択をしたのも構造的な問題から考察すべきではあろうが。[上に戻る]

2014年5月18日日曜日

『晋書』の載記について

 できたら近いうちに前回の李氏の話のつづきを書きたいと思っているのだけど、その前にやや史料のお話をしておいたほうがよさそうなので。
 といっても、今回の記事は李氏ではなく、匈奴劉氏の政権である漢・趙を中心に書きます。李氏はいずれ。長文&やや専門的なので、その点ご了承ください。

『晋書』載記
 特徴としては以下が挙げられる。
①載記冒頭に序文がついていること。
②十四国が項目に立てられていること(漢・前趙、後趙、前燕、前秦、後秦、成・漢、後涼、後燕、西秦、北燕、南涼、南燕、北涼、夏)。
③名臣などの伝が載記末尾に付記される場合があること。
④君主の即位には「僭」字を必ず使ったり、晋の軍隊を「王師」と表記したりすること。
 ②などは特に不思議に思わない人もいるだろうが、じつはとても重要である。念頭に置いてほしい。
 『晋書』はいろいろと問題が指摘されてはいるものの、五胡時代の史料で体系的にまとまったかたちで残存しているのはこの載記のみ。なので、これを基礎にせざるを得ないのが現状。その基本資料がどういうなりたちをもっているのか、推測がかなり交じってしまうけれども、そのあたりの考察は必要でしょう。


『魏書』
 巻95~99にかけて、五胡関連(および南朝)の列伝が並んでいる。項目は十四(後燕、南燕などは「徒何慕容廆伝」に一括され、赫連勃勃は「鉄弗劉虎伝」に記されてる)。巻95には五胡に関する序文もあるが、『晋書』の載記とはだいぶ違う。ただ、諸列伝の内容はおおよそ載記のダイジェスト版みたいなものになっている(少なくとも漢・前趙に関してはそう言える)。『魏書』は北斉の魏収によって編纂された史書で、唐の『晋書』よりも当然ながら成立が早いにもかかわらず、どうして『魏書』は『晋書』のコンパクト版になっているのか。ここは大事なポイント。
 史料的には載記よりも情報量は劣る。漢・前趙関連で言えば、それほど『魏書』に独自な記述はなかったと思う。しかし、他のところでは独自史料があったりするかもしれないんで、見逃さないほうがよろしい。


『十六国春秋』
 ところで、北魏の五行をみなさんはご存じだろうか。唐代の公式見解では、王朝の五行は次のように継承されていた。
漢(火)→曹魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)
 北魏は晋の金徳を承けて水徳、これを覚えておこう[1]

 以下では、川本芳昭「五胡十六国・北朝時代における「正統」王朝について」(『九州大学東洋史論集』25、1997年)、梶山智史「崔鴻『十六国春秋』の成立について」(『明大アジア史論集』10、2005年)を参照にして、『十六国春秋』のことについて簡単にまとめておこう。
 『十六国春秋』は北魏末に編纂された史書である。撰者は崔鴻(本貫は清河)。梶山氏によると、彼が執筆活動を開始したのは景明年間(500-503年)のはじめころ、崔鴻20代前半のころであった。完成は正光三年(522年)、45歳のとき。序と年表各1巻を加え、全102巻であったという。残念ながら現在では散佚してしまい、『太平御覧』などに引用された佚文が残るのみである。
 川本氏によると、もともとの書名はたんに「春秋」であった可能性もあるらしいが、そうであったにしても、「十六国」を対象に歴史叙述をしていると見て大過ない。崔鴻は十六国各国で編纂された国史(『隋書』経籍志では「覇史」に分類されている史書)などの資料を収拾し、それらを参考にして一書を著わしたとのこと。従来、この時代をひとつにまとめて記した史書が存在しなかったことが崔鴻の執筆動機であったとされる。

 構成は『三国志』をイメージしてもらえるとわかりやすいが、まず各国ごとに大きなブロックが設けられ、そのなかにさらに伝が立てられる、といった具合。前者の区切りには「録」字を使う(前趙録、後趙録、蜀録)。後者には「伝」を使う(苻堅伝)。たとえば前趙録には劉淵伝、劉和伝、劉聡伝、劉粲伝、劉曜伝あたりが立てられていたと思われる(劉和と劉粲はちょい微妙だが)。「春秋」という名称からしても、おそらく編年体に近い体裁だったと思われるので、各録は編年体の形式で記述されていたのではなかろうか。だとすれば、「伝」は基本的に君主のみ立てられ、臣下の「伝」は独立して立てられていなかったと考えられる。以前記事にしたが、この時期の編年体は臣下たちの列伝を編年の途中で挿入する形式を有していたので、臣下たちの列伝も各君主の「伝」のなかに組み込まれていたのではないだろうか。

 『十六国春秋』の特徴として、梶山氏が陳寿『三国志』と比較しているのはとても素晴らしい着眼点である。すなわち、周知の通り、『三国志』には「正統」王朝が存在している。魏が「正統」なので、魏書にのみ本紀が存在し、蜀書・呉書はすべて列伝になっているわけ。ところが、『十六国春秋』には正統王朝が存在しない。川本氏・梶山氏の検討によると、『十六国春秋』で叙述されている各国はすべて「僭」、つまり非正統王朝として記述されているのだ。しかもこの見方は、孝文帝以後の北魏において、公式に取られた見解とも一致するのだ。

 もう少し詳しく見ておこう。さきほど北魏の五行について確認をしておいた。唐代、北魏は晋の金徳を継承して水徳となっている。しかし、じつはこの考え方もまた、孝文帝時代に確立されたものなのである。
 かの拓跋珪(道武帝)が即位した当初は、北魏は土徳を称していた。どうしてかと言えば、拓跋氏は黄帝の子孫だから、ということであったらしい。他にも理由は色々あったかもしれないが、ともかく土徳を採用していたことは間違いない。これが改革されたのが孝文帝のときであった。
 『魏書』巻108・礼志一によると、太和14年(490年)、孝文帝は北魏の五行について議論するように詔をくだしている。いままでなんとなくで土徳にしていたけど、ホントにそれでいいのか考えようぜ、っていう感じの内容だ。
 この詔を受けた会議において、高閭は土徳のままにすべきで変えてはならないと意見を述べている。重要と思われる一節を以下に引用してみよう。
魏は漢を継承しておりますが、火は土を生じさせるので、魏は土徳でございます。晋は魏を継承しておりますが、土は金を生じさせるので、晋は金徳でございます。〔おそらく後趙を指す〕は(金徳の)晋を継承しておりますが、金は水を生じさせるので、趙は水徳でございます。(前)燕は趙を継承しておりますが、水は木を生じさせるので、燕は木徳でございます。(前)秦は燕を継承しておりますが、木は火を生じさせるので、秦は火徳でございます。秦がまだ滅んでいないとき、わが魏はまだ中原〔原文「神州」〕を領有していませんでした。秦が滅んでから、わが魏は北方〔原文「玄朔」〕で帝号を称したのです。・・・もし晋を継承するということにすれば、晋が滅んでかなり時間が経ってわが魏が帝号についたことになり(違和感がございますし)、もし秦を継承しないということにすれば、中原(を領有しているかどうか)は基準からはずれてしまいます〔原文「中原有寄」。川本氏に従い、「有」を「無」の誤字として読んでおく。中華書局の校勘記も参照〕。このように考えてみますと、秦を継承することの道理は明々白々、ゆえに魏は秦を継承して土徳とすべきなのです。・・・いま、もし三家〔趙、燕、秦〕を一挙に切り捨て、遠くさかのぼって晋を継承することにすれば、中原が王者としての中心〔原文「正次」、こう訳して良いかは自信無〕であったという事実をないがしろにすることになるでしょう。
 史料には詳細な記述はないが、高閭が発言する前に、北魏は土徳ではない、晋を継承して水徳とすべきだ、という意見が出され、それに対する反論として彼が発言したであろうことは容易に察せられよう。拓跋氏が黄帝の子孫だから土徳なのだ、というものではなく、彼は論理的・法則的に土徳なのだと証明しようとしているのだが、そのさいに五行継承の基準に置かれたのが「中原を支配したか否か」であった。彼から見れば、後趙・前燕・前秦がそれに該当し、ゆえに、この三国を継承の順序からはずすことはあってはならないことなのである。
 礼志を読む限り、北魏=土徳説の代表格がこの高閭であったらしい。注意しておきたいのは、高閭の考え方がかなり独特あるいは独創的なものであったとも必ずしも言えないことだ。川本氏が前燕時代の例をすでに指摘しているが、前燕がみずからの五行を定めたさいのことを記した史料に、「後趙の水徳を継承して木徳とする」(『晋書』巻111慕容暐載記)とか、「後趙は中原を領有したが、これは人事で成し遂げられることではなく、天が命じたことであったのだ(したがって後趙を継承すべきだ)」(『晋書』巻110慕容儁載記附韓恒伝)といった記述が見えており、高閭の論理は十六国諸国でも参照されていた基準に従っていた可能性が高いのだ。色々な意味で、高閭は五胡十六国の延長上に北魏を考えているのである。

 一方、北魏=水徳説の代表格が孝文帝のブレーンであった李彪、崔光らであった。分量がアレなのではしょりますが、

①北魏の来歴をさかのぼると、神元帝(拓跋力微)のときに帝業の基礎が築かれたが、神元帝は晋の武帝と友好関係を築いていた。その後も晋朝とは関係を保ち続けていた。つまり、時代が離れていたとは必ずしも言えず、むしろ同時代的であり、晋が中原で滅亡し、魏が北方で天命を受けたと言えるのだ。

②過去の事例を探してみると、漢は秦ではなく周の五行を継承している。周が滅んで漢が興るまで約60年、晋が滅んで道武帝が即位するまでも約60年。すなわち、仮に①は大した理由にならないとしても、さかのぼって晋を継承することはそれほど不自然なことではない。

③そもそも石氏とか慕容氏とか苻氏とかってさぁ、短命だったじゃん? 天下に秩序を立てたっていうほどのことでもないじゃん? そんなやつらどうでもよくね? わが魏と比較対象にすらならんでしょうが!

という感じ。この考え方にしても、必ずしも孝文帝期にこねくりだされたとは言えないかもしれないが、詳しくはわかりません。ちなみに崔鴻は崔光の孫にあたる。
 この議論は太和15年に結論がくだされ、水徳説が採用された。かくして十六国時代は、正統王朝が存在していなかった時代として、公式に見なされるようになった。この五行観が唐代における認識をも規定づけ、したがって唐修『晋書』においても同様の見解が取られているのと考えられるのである。
 長くなってしまったが、崔鴻もこの公式見解と同様の著述をおこなっているわけ。北魏の公式見解が崔鴻に内面化していたのか、あるいはその枠内で著述をおこなわざるをえなかったのか、そこらへんはよくわからない。梶山氏によると、崔鴻がこの書を私撰したことは時の皇帝・宣武帝に伝わり、献上を要求されたのだという。朝廷側としても、この時代をどう記述されたのかが気になったのであろう。崔鴻は上表文を作成したが、結局生前にその上表文を奏上することも、書物を献上することもなく、鴻の没後、子によって朝廷に献上されたという(『魏書』巻67崔光伝附鴻伝)。崔鴻伝によると、『十六国春秋』はかなり初歩的なミスが多かったという。それなりに毀誉褒貶もあったらしいが、禁止されるとかそのあたりにまではいたっていないので、大きな史観では抵触していなかったのではなかろうか。

 以上のほか、『十六国春秋』ではもう一つ重要なポイントがある。それは「十六国」という言葉である。十六国マニアならご存じのように、五胡十六国時代は「五胡」ではないし「十六国」ではない。丁零の翟氏がいたじゃないか! 漢人は含めないの? 仇池は? 冉魏は? 西燕は? 等々。これらはすべて排除され、五胡=匈奴・羯・氐・羌・鮮卑、十六国=前趙・後趙・成漢・前凉・前燕・前秦・後秦・後燕・後涼・西秦・南涼・北涼・西涼・南燕・北燕・夏、ということになっているのだ。どうしてそういう選別になってしまったのか?
 じつは「十六国」に関しては、崔鴻が『十六国春秋』で対象としている国、すなわち「録」を立てて叙述をおこなった国とぴったり一致するのである。
劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連勃勃、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋らをまとめて、・・・崔鴻は『十六国春秋』百巻を撰述した。(以劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連屈孑、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋等、・・・鴻乃撰為十六国春秋、勒成百巻。)

晋の永寧年間以後、あちこちで兵が起こり、みなが競ってみずからの尊厳を確立させようしていましたが、しっかりと国を立てて官職を設け、先進国となることができましたのは、十六国でした。(自晋永寧以後、雖所在称兵、競自尊樹、而能建邦命氏成為戦国者、十有六家。)

臣の亡父・鴻は、・・・趙・燕・秦・夏・涼・蜀などの事跡を叙述し、賛・序を立てて批評を加えました。先帝の御世、下書きはできていましたが、李雄の国史がまだ入手できておりませんでしたので、この国の記述のみできておらず、完成が遅れていました。正光三年、当該書を購入することができ、検討をおこなって叙述をちょうど終えたとき、鴻は世を去りました。全部で十六国、「春秋」と名づけ、全102巻となっています。(乃刊著趙、燕、秦、夏、涼、蜀等遺載、為之贊序、褒貶評論。先朝之日、草構悉了、唯有李雄蜀書、搜索未獲、闕茲一国、遅留未成。去正光三年、購訪始得、討論適訖、而先臣棄世。凡十六国、名為春秋、一百二巻。)
 以上はすべて崔鴻伝からの引用。三崎良章氏によると、現在確認し得る「十六国」の初出はこの崔鴻伝であるらしい(『五胡十六国』東方書店)。崔鴻以前にもこのような「十六国」認識はあったかもしれない。崔鴻前後の時代に「十六国」という考え方が一般的だったかは微妙なところで、三崎氏は魏収『魏書』の伝の構造が崔鴻のものと相違していることなどを挙げ、共通した「十六国」理解が存在していなかったとしている。共通した理解がないことはたしかだが、まあでもおおよその枠組みでは共通しているようにも見えますけどもね。たとえば仇池や翟魏は排したり、とか。ともかく、崔鴻が当該時代を「十六国」時代と明確に打ち出したことは、相応のインパクトがあったはずである[2]

 冗長になってしまったが、『十六国春秋』は、
①晋以後北魏以前の華北時代を「十六国」時代として歴史把握したこと。
②「十六国」はすべて非正統と見なしていたこと。それは北魏の公式見解に抵触しなかったこと。
という特徴があった。現在でもこの時代を「十六国時代」と通称し、正統王朝の不在時代と見なすのが一般的であるから、孝文帝改革および『十六国春秋』の影響は非常に大きい。

 ここでようやく本題になるのですが、どうしてこの『十六国春秋』がそんなに大事なのかというと、じつは唐修『晋書』の載記は『十六国春秋』をコピペないし簡略に引用したものだと考えられるからだ。構造としても、載記は前述したように、項目は十四だが、前凉と西涼が列伝に移されているのを含めればぴったり十六、しかも崔鴻が「録」に立てた諸国と一致している。
 『太平御覧』偏覇部の十六国関連の項目では、『十六国春秋』が長文で引用されている[3]。わたしが詳しく検討したことがあるのは漢・前趙のみだが、たしかに両者の内容はとてもよく似ている。『十六国春秋』は節略した引用文のため、載記と比べるとどうしても情報量は劣るが、それでも載記の文言とかなり似ている。『十六国春秋』の佚文にはたまに載記ではすっ飛ばされている記述があったりするので、細かく見ることはけっこう価値がある。
 そもそも考えてみれば、崔鴻がこの書を執筆した動機が、十六国時代の史書が国別にバラバラで、全体をまとめて記した史書が存在しないからであった。唐修『晋書』の時代においても、『十六国春秋』を除けば依然として同じ状況。唐の史官としても、国別の国史を参照してイチから編集をはじめるより、すでにその作業をやってくれた『十六国春秋』を利用した方が手っ取り早いに決まっている。太宗の晩年に急いで編纂された『晋書』であれば、なおさらそんなめんどい作業をすることも考えにくい。
 とはいえ、唐の史官の手がまったく入らないまま転載されているとまでは言えない。引用にも取捨選択があった、というレベルではなくいろいろと。たとえば避諱。あるいは序。序はもしかしたら崔鴻のものを転載している可能性もありうるが、その可能性が高いのはどちらかといえば『魏書』のほうで『晋書』載記のものは違うと思う。雑伝の序も唐の史官が書いているっぽいので、たぶん序文は唐の史官が書き下ろしたのではないだろうか[4]。それと、前述したように、『十六国春秋』は君主の「伝」のなかに臣下の伝を挿入していたと考えられるが、唐の史官はそれをすべて削除したようである。ただ、削除に惜しい人物は、載記の末尾に附記したり、孝友伝や忠義伝などの雑伝に組み込んだらしい[5]。だからアレだね、編集者みたいに最低限の校正と編集だけやって『十六国春秋』から載記を作りだしたのではないかな。おそらく魏収も『十六国春秋』を基礎に叙述をしたと思う。また、載記からは削除された『十六国春秋』の文章がときどき『資治通鑑』に引用されていたりします。

 かなり推測交じりになっているが、唐修『晋書』は史観も記述もかなりの部分で『十六国春秋』に負っていると考えられる。そういうことを念頭に置いて載記は扱ったほうが良い。


覇史(『漢趙記』)
 『隋書』経籍志では、五胡諸国で編纂された史書のことを「覇史」と呼んでいる。わたしも便宜的に「覇史」と呼んでおく。
 さて、『十六国春秋』がどういうものか、これまで力説したつもりである。ただし、諸所で触れてきたように、崔鴻は覇史を基礎にして『十六国春秋』を編集している。しかも、成漢の国史が入手できないことをもって成漢の記述(「蜀録」)をしなかったということは、覇史をかなり重視していたらしいことがわかるだろう。そこでこうした覇史にかんしても考慮の外に置くことはできないのである。
 といっても覇史の種類はさまざま、そのうえ現在では佚文もわずかしか残っていないくらいに痕跡がない。なので、かなりの部分を推測に頼ることになるが、決して無駄な作業にはならないだろう。ここでは前趙の国史『漢趙記』について述べておく。
 覇史については、唐初に残存していた覇史は隋書経籍志に書名が記述されているほか、唐の劉知幾『史通』巻12外篇・古今正史に詳しい記述がある。前趙に関連する部分を引用してみよう。
前趙は、劉聡の時代に領左国史の公師彧が高祖〔劉淵の廟号〕本紀、功臣伝二十人を著述したが、きちんとした史書の体裁であった。しかし、凌修が先帝を誹謗していると讒言したので、劉聡は怒って公師彧を誅殺した。劉曜の時代、平輿子〔平輿県に封ぜられた子爵〕の和苞が『漢趙記』10巻を編纂したが、記録は盛時のものに留まり、劉曜が死んだところまで記されていない。(前趙劉聡時、領左国史公師彧撰高祖本紀及功臣伝二十人、甚得良史之体。凌修譛其訕謗先帝、聡怒而誅之。劉曜之時、平輿子和苞撰漢趙記十篇、事止当年、不終曜滅。)
 公師彧や和苞は載記にも見える。凌修も、「陵修」という人物と同一かもしれない。
 そんなことはまあ良いのだ。ここで言及されている『漢趙記』こそ、崔鴻が前趙録編纂時に参照したと思われる覇史なのだ[6]
 『漢趙記』のポイントは劉曜時代に編纂されたということ。劉曜が即位して間もなくおこなったことは、国号と太祖の変更である。 
光初二年六月、劉曜は宗廟と社稷、長安の南郊・北郊を修繕すると、令をくだして言った、「王者がおこるときというのは、必ず始祖を祀るものである。わが一族の祖先は禹の子孫で、北方の夷狄として生活し、代々北方地帯で勢力を誇ってきた。光文帝〔劉淵〕は、漢が久しく天下を領有し、その恩徳が庶民に行き渡っていたため、(便宜的に)漢の皇帝たちの廟を立て、民の支持を得ようとしたのである。(しかし)昭武帝〔劉聡〕はそのまま継承し、とうとう改革を加えなかった。いま、漢帝の宗廟を取り除き、国号を改め、また〔原文は「御」だが意味が通じない。仮に「復」と見なして読んでみる〕大単于〔冒頓単于〕を太祖に定めたいと考えている。この件について議論し、意見を述べよ」。太保の呼延晏らの議、「いま思いますに、(漢を称するのは魏や晋を継承しないことを意味していますが、)晋を継承すべきであり、母から子へと受け継がれるように、国号も考えるべきであります。光文帝はもともと(晋から)盧奴に封建されていましたが、盧奴は中山の領域に相当します。また、陛下のわが国家における功績は洛陽平帝をはじめ、偉大なものでございまして、ついには中山王に封建されました。(かくして中山という点で、陛下と光文帝は共通点がございますが、)中山の分野は梁・趙に属します。ですので、大趙を国号とし、(晋の金徳を継承して)水徳とするのがよろしいと存じます」。劉曜はこれに従った。かくして、冒頓単于を天に配し、劉淵を上帝に配することとした。(六月、繕宗廟社稷、南北郊于長安、令曰、「蓋王者之興、必褅始祖。我皇家之先、出自夏后、居于北夷、世跨燕朔。光文以漢有天下歳久、恩徳結於民庶、故立漢祖宗之廟、以懐民望。昭武因循、遂未悛革。今欲除宗廟、改国号、御以大単于為太祖。其連議以聞」。於是太保呼延晏等議曰、「今宜承晋、母子伝号。以光文本封盧奴、中之属城。陛下勲功懋於平洛、終於中山。中山分野属大梁・趙也。宜革称大趙、遵以水行」。曜従之。於是以冒頓配天、淵配上帝。)
 以上は『太平御覧』巻119に引く『十六国春秋前趙録』の文章である。劉曜載記ではこの詳しい経緯は省略されてしまっている。
 趙を結論に出す論理はよくわからんが、大事なことは劉淵による漢帝の祭祀・宗廟を否定したことである。劉淵は即位時、はっきりと「太祖高皇帝」と述べていたが、劉曜は完全にそれを拒絶し、太祖(王朝の始祖的存在者)を漢の高祖から冒頓単于に変更し、あわせて国号も変更してしまった。冒頓単于を持ち出すあたり、「漢なんかクソくらえ!」という彼の認識がうかがえるね。たかが国号、されど国号、この変更には重大なイデオロギーの変更があったわけで、軽視すべきではないのだ。
 しかし、かといって劉曜は劉淵時代を否定するわけではない。むしろ、彼は劉淵を継承することに自身の正統性を見いだしている。「漢趙記」という国史の名前もそうだろう。趙は漢を否定して成り立った国号にも関わらず、漢を名乗っていた時代をなかったことにはできない、一概に否定的評価をくだすわけにもいかない。複雑でゆがんだ歴史観がここに現前することは、容易に想像できるだろう。
 ①劉淵は臨時に漢を国号としたこと、②劉曜にいたって本来の姿=趙になったこと、大まかにこの二つを視点を基礎に、『漢趙記』が編纂されたと思われる。もちろん、崔鴻も載記も同様の視点。前趙録、劉淵・劉聡・劉曜載記を根本から枠づけているのは『漢趙記』なのである[7]。このこともやはり忘れてはならない。

 ところで、劉曜が言うように、劉淵は便宜的に漢を称したのであろうか。わり本気で漢を称していたんじゃないだろうか。
 劉淵の即位直前、劉淵に即位を勧めていた劉宣は「呼韓邪単于の業績を復興する」べきだと説いていた。劉淵は「その通りだ」と返答しておきながら、漢帝こそわが先祖と宣言しちゃって即位してしまった。即位までの詳しい経緯はよくわからないが、この政治的変更は劉淵の個人的判断に基づくところが大きいと思う。劉宣が冒頓でなく呼韓邪を持ち出したのはとても不思議だが、漢と友好を築いた単于なのだし、たぶん漢にそんなに悪い印象はもっていなかったとは思う。
 が、劉淵の即位宣言を読めばわかるように、呼韓邪か漢帝かという問題は自分たちの来歴の物語にとても重大な変更をもたらすものである。劉曜が冒頓に変更したのだって、自分たちの来歴を確認しながらなされている。要するに、自分たちの歴史をどう語るかという問題。そのとき、劉淵は自分たちの物語の由来を漢皇帝に求めて歴史を語り直したのでは・・・? このあたりの記述も『漢趙記』の観点から編集し直されているんだ!と言われるともう何も言えなくなるんですけどね。
 ともかく、政治的視点もさることながら、移住民はどのように歴史を語り継いでいくのか、という視点からも考える必要があるように思います。



 全体的に長くなってしまったし、専門的な話が多くなってしまった。ただ、史書がいつ、誰が主導して、どのように成り立ったかというところは本当にとても大事なこと。それを調べるのは容易でない。日本語では概説書がないから、研究論文を読んだり、電子文献にない史書をめくったりし、あるいは史書の「書きグセ」を実感するために何度も通読したり・・・。わたしだって、『十六国春秋』や覇史全般に精通しているわけではない。漢・趙関連を多少知っている程度にすぎない。
 そういうこともあるので、なるべく自分が知っている情報は開示してみようと思った次第です。役立つかは知りません。なんというか、うまく言えないんだけど、間違い探しじゃないんですよ、史書を読むっていうのは。キーワードを検索して、ヒットした記述をもってきて自分の意見を正当化するだけで、その文章がどのような史料のどのようなところに書かれてあるのか、ってことは軽視してはいけないんですよ、本来は。それはとても高い要求のようだけど、でも「事実」を語るっていうのはそういうことなんじゃないかな。

 それともう一つ。『十六国春秋』のところで、長々と北魏孝文帝時代の五行改革に言及しておいたが、アレから想像してもらえるように、現在では「五胡十六国時代」と呼んでいるあの時代は、そうでない可能性もありえた。というか、現にそういう見方があった。「もしかしたらこういうふうに語れるのでは・・・」という想像力は大事なことだ。
 わたしは、劉淵たちの歴史が「歴史をどう語るかという歴史」にしか見えなくなってしまい、それ以来、「歴史はどのように語られてきたのか」という観点からこの時代を眺めつつ、「歴史」自体にいかなる意味があるのだろうかと考えるようになりました。わたしにはそういう現れ方をした、そういうことですね。


――注――

[1]唐代の五行の継承に関する認識は、『旧唐書』巻190文苑伝上・王勃伝、『新唐書』巻201文芸伝上・王勃伝、『唐語林』巻5を参照。本記事から脱線するが、せっかくなので『新唐書』の記事を以下に紹介しておく。

武周のとき、李嗣真は周・漢を(直接継承したとしてこれらの王朝を)「二王後」 と見なし、北周・隋を(正しい継承関係から)はずすよう要請し(採用され)たが、(則天武后が退くと)中宗は再び北周・隋を「二王後」に採用した。玄宗の天宝年間、平和が長く続き、奏上される進言の多くは妖しげなものであった。崔昌という者がおり、王勃のかつての学説を採用して、『五行応運暦』を(著して)献上し、周・漢を継承することを説き、北周・隋を(継承することを)やめて閏とみなすよう請うた。右丞相の李林甫もこれに賛同した。・・・こうして玄宗は詔をくだし、唐は漢を直接継承していることにし、隋以前の(魏晋南北朝の)皇帝をしりぞけ、(「二王後」であった北周の後裔)介公・(隋の後裔)酅公を廃し、周・漢を尊んで「二王後」とし、(周・漢と)商を三恪とした。京師に周の武王と漢の高祖の廟を建て、崔昌を太子賛善大夫に任命した・・・。楊国忠が右丞相となると、自身が隋の子孫を称しているので、再び北魏(から北周・隋)を三恪とし、北周・隋を「二王後」とするよう建議した。そのため酅公・介公は以前の爵位を戻され、崔昌は烏雷尉に官を降格された。
 すなわち玄宗の天宝九載(750年)、崔昌『五行応運暦』の提案により、漢→唐の継承が正式に採用され 、漢(火)→魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)とされてきた五行継承も漢(火)→唐(土)に変更されたということである。
 崔昌『五行応運暦』の基となったと言われる王勃の旧説についてであるが、王勃は魏晋以降の王朝は「みな天下を一統していない(咸非一統)(『唐語林』)、「みな正統ではない(咸非正統)(『旧唐書』)、「北周・隋は短命である(周・隋短祚)(『新唐書』)とし、一方「黄帝から漢までが、五行の正しい継承王朝である」とし、唐は「真主」の王朝「周・漢」を継承するべきだと主張しているようである。かかる王勃の理論は「現実的でない(迂闊)」とされ、高宗の受け入れるところとはならなかった(『唐語林』)
 また、玄宗ころの文士に蕭穎士という者がいたが、こちらは梁の皇族の子孫のようで、梁陳革命を否定し、晋(金)→劉宋(水)→南斉(木)→梁(火)→唐(土)という案を提出したという(『新唐書』巻202文芸伝・中・蕭穎士伝)。唐の土徳を梁の火徳から正統化づけたかったわけだね。ただこの説が普及したかどうかはとくに言及がないので不明。さっきの漢→唐説もそうだけど、北朝をすっとばすのは唐にとってはきつかったんじゃないかな。[上に戻る]

[2]なお崔鴻は「五胡」という言葉によってこの時代を特徴づけてはいない。彼は「十六国」の戦国時代と見ているにすぎない。「五胡」の語については、三崎氏の前掲書に詳しいので、そちらを参照のこと。[上に戻る]

[3]梶山氏も指摘しているが、北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』をもとに成立したものであり、『太平御覧』偏覇部の当該項目で唐修『晋書』ではなく『十六国春秋』を引用しているのは、北斉『修文殿御覧』を継承しているからだと考えられる。[上に戻る]

[4]載記に設けられている「史臣曰」と「賛」は不明。[上に戻る]

[5]漢・趙関連で言えば、劉殷(孝友伝)、王延(同前)、王育(忠義伝)、劉敏元(同前)、喬智明(良吏伝)、崔遊(儒林伝)、范隆(同前)、董景道(同前)、卜珝(芸術伝)、台産(同前)、賈渾妻宗氏(列女伝)、劉聡妻劉氏(同前)、王広女(同前)、陝婦人(同前)、靳康女(同前)、劉宣(劉元海載記)、陳元達(劉聡載記)。すべて『十六国春秋』由来とも言いきれないが。『十六国春秋』の佚文にも、こうした臣下たちの伝が多く見えている。またも漢・趙関連になるが、「李景年字延祐、前部人也。長平之戦、劉聡馬中失、幾為晋軍所獲、景年以馬授聡、揮戈前戦。以功封梁鄒侯」(『太平御覧』巻351引)、「江都王延年、年十五喪二親、奉叔父孝聞。子良孫及弟従子、為噉人賊所掠。延年追而請之。賊以良孫帰延年、延年拝請曰、『我以少孤、為叔父所養。此叔父之孤孫也。願以子易之』。賊曰、『君義士也』。免之」(『太平御覧』巻421引)とか。[上に戻る]

[6]公師彧が編纂した国史の書名は伝わっていない。少なくとも唐初の時点で残存していなかったと見られるが、そもそも『漢趙記』編纂時点で吸収されたか、あるいは淘汰されたかどちらかであろう。[上に戻る]

[7]わたしは、劉聡へのあの徹底的にネガティヴな記述は、すべて『漢趙記』に由来するのではないかと疑っている。安田二郎氏か福原啓郎氏かが曹魏の明帝を取り上げたさいに「王朝滅亡の原因を提示するために、暗君の姿が描かれやすいものだ」みたいな言及をしていたが、劉聡への否定的評価も同様の理由でなされたものと感じている。「漢が滅んだのはこいつのせいです」みたいにね。ここらへんは感触に過ぎませんが。[上に戻る]

2014年5月5日月曜日

『宋書』百官志訳注(8)――卿(太后三卿・大長秋)

 太后三卿は、(少府、衛尉、太僕の)各一人ずつ。応劭の『漢官(儀)』に、「(太后)衛尉、少府は秦の官である。太僕は漢の成帝が置いた。みな太后宮に付き従っていたので、それ(太后)を名称とした。朝位は正卿〔通常の衛尉、少府、太僕〕の上とし、太后がいなければ欠員とした」とある。魏は漢の制度を改め、(朝位を)卿〔衛尉、少府、太僕〕の下とした。晋は旧制に戻し、卿の上とした。
 大長秋は、皇后の卿である。皇后がいれば置かれるが、いなければ廃される。秦のときは将行であったが、漢の景帝の中六年に大長秋に改称された[1]。韋曜が言うに、「長秋は皇后の陰官〔皇后に近侍する官のこと〕である。秋とは陰の始めであり、日が暮れてから(夜が)長いことから、(皇后が)長久であることを願って(皇后の官に)名づけられたのである[2]」。

 太常から長秋まで、みな功曹、主簿、五官を置いた。(五官とは)東漢の諸郡には五官掾がいたが、その名称を継承したのである[3]。漢の制度では卿・尹はみな秩中二千石、丞は一千石である。



――注――

[1]『続漢書』百官志四本注「承秦将行、宦者。景帝更為大長秋、或用士人。中興常用宦者、職掌奉宣中宮命」。後漢では常に宦官が務めていたらしい。魏晋以後もそうなんじゃないかな。[上に戻る]

[2]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「秋者收成之時、長者恆久之義、故以為皇后官名」。[上に戻る]

[3]『通典』職官典15・総論郡佐・五官掾「後漢有之、署功曹及諸曹事」。郡の功曹や列曹事の任命をつかさどっていた人事職だったらしい、けっこうえらいね。南朝正史にも用例が見えるので、南朝期にも置かれていたようだ。卿の五官も同様の職掌だったのかも。[上に戻る]






 さて、これでようやく卿は終わり!
 百官志・上もあと2、3割で終わる! ようやくあと一息まで来ました。
 しかし次は難解な尚書の条項。力尽きそう。

2014年5月4日日曜日

『宋書』百官志訳注(7)――卿(少府・将作大匠・大鴻臚・太僕+宗正)

 少府は一人。丞は一人[1]。皇帝の衣服や車馬などの物品在庫を調整するのが職務である。秦の官であり、漢はこれを継承している。「禁銭」によって皇帝個人の生活用具をそろえるので、少府と言うのである[2]。晋の哀帝の末年、廃して丹陽尹に併合した。孝武帝のときに復置された。
 左尚方令と丞は各一人ずつ。右尚方令と丞も各一人ずつ。ともに兵器の製造を担当する。秦の官であり、漢はこれを継承した。周では(この職掌をおこなっていた官を)玉府と言った。江右〔西晋〕では中尚方、左尚方、右尚方があったが[3]、江左以降、尚方は一つだけであった[4]。宋の高祖が帝位につくと、丞相府の作部[5]を役所として独立させ、左尚方と名づけた。一方で、本来の尚方を右尚方と呼ぶことにした。また丞相府の細作[6]を役所として独立させ、細作令一人、丞二人を置き、門下省の所属とした。世祖の大明年間、細作署を御府に改称し、令一人、丞一人を置いた[7]。御府とは、二漢のときに官婢を監督して(皇帝の)普段の衣服の製作・補修・洗濯をさせることを職務としていた官で、魏晋でも置かれていたのだが、江左のときに廃されていた官である。後廃帝の初め、御府を廃して中署を置き、右尚方に所属させた。東漢の太僕の属官に考工令という官がおり、兵器・弓弩・刀・鎧の類(の製造)を担当し、完成したら執金吾に渡して武庫に入庫させ、また綬を織る職人も監督していた[8]。(漢代の)尚方令は皇帝の刀・綬・剣や玩具の製作のみを職務とするだけであった[9]。つまり(漢代の)考工令は現在の尚方令のようなもので、(漢代の)尚方令は現在の中署のようなものである[10]
 東冶令は一人、丞は一人。南冶令は一人、丞は一人。漢代には鉄官がおり、晋は令を置いていた。職人の鋳鉄を監督し、(漢代は大司農に、晋代は)衛尉に所属していた。江左以降、衛尉を廃したので、少府の所属に移った。宋のときに衛尉が復置されたが、冶令は少府の所属のままであった[11]。江南諸郡県で鉄を産出する所は、冶令を置いたり丞を置いたりまちまちであったが、多くは孫呉が設けた場所に置かれた。
 平准令は一人、丞は一人。染織をつかさどる。秦の官であり、漢はこれを継承した。漢では大司農の所属であったが、いつの時代かに少府の所属となった[12]。宋の順帝が即位すると、帝の諱(=準)を避けて、染署と改称した。[13]

 将作大匠は一人、丞は一人。土木仕事を統括する。秦のときに将作少府が置かれ、漢はこれを継承した。景帝の中六年、将作大匠に改称された。光武帝の建武中元二年に廃され、謁者に統括させた。章帝の建初元年に復置された。晋以降は、仕事があれば置かれたが、無ければ廃された[14]

 大鴻臚は、諸侯王の(入朝や祭祀の際の)先導と、封建のときの印綬の受け渡しを職掌とする[15]。秦のときは典客であったが、漢の景帝の中六年に大行令に改称され、武帝の太初元年に大鴻臚に改称された。「鴻」とは「大」、「臚」とは「陳」を意味する[16]。江左の初めは廃されていた。仕事があれば一時的に置かれるが、仕事が終われば廃された[17]

 太僕は、(皇帝の)馬車の馬を管理する。周の穆王が設置し、秦はこれを継承した。『周官』〔『周礼』〕によれば、(周は当初、)校人が馬を、巾車が車を管轄していたが[18]、(穆王が)太僕を置くと、(太僕が)その二つの職務を兼ねるようになった。江左では置いたり廃したりでまちまちであったが、宋以降は置かれなかった。郊祀のときは臨時に太僕を置いて(皇帝の)馬の轡を取り、祭祀が終われば廃された[19]

〔宗正〕[20]



――注――

[1]前漢までは六人であったが、後漢以降は一人。『通典』巻27職官典・少府監参照。
 ちなみに少府卿には主簿も置かれていた。『通典』に「晋置二人、自後歴代一人」とある。[上に戻る]

[2]国家財政には民からの毎年の田租と算賦(銭納の人頭税)を充てるのに対し、皇帝家の財政運営には皇帝家の領有地として所有されている山林・沼沢、いわば国立公園のようなところなんだけど(厳密にはそう言えないのだがそういうふうに理解してもらえるとわかりやすい)、その山林・沼沢や市場から得られる税収入などが充てられていた。このうち山林・沼沢からの税収入のことを「禁銭」と言うらしい。応劭らによると、皇帝家の財政はこの「禁銭」によってまかなわれていた。なお、山林・沼沢からの税収入とは具体的に想像しづらいが、増淵龍夫氏の考察によると、皇帝家が山林・沼沢を民間の商人・業者に貸し与え、貸借分を税として徴収していたらしい(増淵『新版 中国古代の社会と国家』岩波書店、1996年、第3篇第1章)。租と賦によって国家(「軍国」「公用」)の財政を管理するのが大司農であるが、皇帝家(「私養」「私用」)の財政は国家財政とは独立して運営される。そこでこの皇帝家の財政を国家財政と対照させ、皇帝家財政を担当する官のことを「少」=「小」府と呼ぶにいたったそうだ。次の各史料を参照のこと。『漢書』巻19百官公卿表・上「少府、秦官、掌山海池沢之税、以供共養」、同応劭注「名曰禁銭、以給私養、自別為蔵。少者、小也、故称少府」、同師古注「大司農供軍国之用、少府以養天子也」、『続漢書』百官志三・少府卿・李賢注引『漢官』「王者以租税為公用、山沢陂池之税以供王之私用」、同『漢官儀』「田租・芻稾以経用・凶年、山沢魚塩市税少府以供私用也」、『太平御覧』巻236『応劭漢官儀』「少府、掌山沢陂池之税、名曰禁銭、以給私養、自別為蔵。少者、小也。故称少府」。[上に戻る]

[3]『通典』巻27少府監・中尚署には「漢末分尚方為中・左・右三尚方。魏晋因之」とあり、三尚方は後漢末から存在していたらしい。[上に戻る]

[4]『通典』には「哀帝以隷丹陽〔ママ〕尹」とある。前文にあるように、少府自体が廃されて丹楊尹に併合されていた時期があるのだから、尚方も同様に丹楊尹に合わせられたのだろう。本文後文とのつながりを考えると、少府卿同様、孝武帝のときに尚方も復置されたと考えられる。[上に戻る]

[5]「作部」はイマイチわからんが、『晋書』巻9孝武帝紀・太元14年の条「詔淮南所獲俘虜付諸作部者一皆散遣、男女自相配匹、賜百日廩、其没為軍賞者悉贖出之、以襄陽・淮南饒沃地各立一県以居之」、『宋書』巻45劉粋伝「因誅殺謀等三十家、男丁一百三十七人、女弱一百六十二口、收付作部」のように、捕虜や罪人の一族を収容しており、おそらくは官奴婢になにか物を作らせる部署であると見てよいのではないだろうか。孝武帝紀の書き方だと、作部はたくさんあった、というより役所ごとに置かれていた可能性がある。現に州にも作部があったらしい(『宋書』巻54羊玄保伝)。丞相府の作部もそうした作部のうちの一つで、丞相府で使用する兵器などの管理をおこなっていたのかもしれないが詳しい記述はないのでなんとも。[上に戻る]

[6]「細作」については、『宋書』巻6孝武帝紀・元嘉30年7月の条「可省細作并尚方、雕文靡巧、金銀塗飾、事不関実、厳為之禁」、『南斉書』巻56呂文度伝「呂文度、会稽人。宋世為細作金銀庫吏、竹局匠」。詳しい記述は見られないが、孝武帝紀のように尚方などと並列されている例が多く、尚方と同様、なにかの製造をおこなう部署なのだろう。後文との関連から見るに、細作令は皇帝の衣服関連の管理をおこなっていたと見られる。丞相府の細作部がなにをしていたかは推測によるしかないが、もしかしたら府主の衣服関連の管理をしていたのかもしれないね。[上に戻る]

[7]『宋書』孝武帝紀・大明4年の条「十一月戊辰、改細作署令為左右御府令」とある。これによると、御府令には左右があったらしい。[上に戻る]

[8]『続漢書』百官志二・本注に「主作兵器弓弩刀鎧之属、成則伝執金吾入武庫、及主織綬諸雑工」。『宋書』本文とほぼ同じ。[上に戻る]

[9]『続漢書』百官志三・少府・尚方令・本注「掌上手工作御刀剣諸好器物」。『宋書』本文とだいたい同じ。[上に戻る]

[10]どうしてこのような逆転が起こってしまったのかというと、たぶん考工令が廃されてしまったことに関係があるのだと思う。というのも、考工令は魏晋以後にまったく見えなくなっているのだ。以下はすべてわたしの推測にしかすぎないが、考工令は後漢末に廃され、その職務は三尚方が担うようになったのではないだろうか。つまり尚方令が国家の兵器および皇帝の身辺道具の製造をおこなうようになった。あわせて皇帝の衣服は御府令が担当していたが、御府も東晋以後は廃されたのだから、この仕事も尚方がしていたのかもしれない。それが宋の武帝のとき、国家のもの=左右尚方、皇帝のもの=細作→御府→中署というように分化したのであろう。そんときにどうして漢代の名称をそのまま継承しなかったのかというとそれはけっきょくわかりません。[上に戻る]

[11]訳注(5)で冶令はずっと衛尉の所属でしたと述べてましたが、誤りでした。[上に戻る]

[12]『続漢書』百官志3・大司農・平準令・本注「掌知物賈、主練染、作采色」。染色だけじゃなくて、物価(の均衡?)も管理していたんだけどね。国家財政の仕事が大司農から(度支尚書あたりに?)移ってしまったことは訳注(6)で述べたが、たぶん同じ時期に平準令から物価の仕事もなくなったのだろう。で、残った染色の仕事って尚方に似てるやん?→少府に移しちまえ、みたいな感じになったんじゃねーの? 知らんけど。[上に戻る]

[13]西晋時代の少府の属官については、『晋書』巻24職官志に「材官校尉、中左右三尚方、中黄左右藏、左校、甄官、平準、奚官等令、左校坊、鄴中黄左右藏、油官等丞」と豊富に見えている。わかる限りで補足しておこう。
 材官校尉、左校令 土木職人を監督する官。後漢のときは右校令、左校令がいた。魏晋ころの情報が錯綜していていまいちわからないが、曹魏のときに右校令に代わって(?)材官校尉が置かれたらしい。曹魏までは将作大匠に所属していたが、西晋から少府に所属。東晋になると材官校尉は材官将軍に改称され、左校令は廃されたという。『宋書』百官志・上によると、哀帝の時期に少府が廃されると、尚書および領軍将軍に移されたらしい。詳しくはいずれ触れるでしょう。『通典』巻27職官典9・将作監・左右校署参照。
 中黄蔵令、左蔵令、右蔵令 帝室の貨幣を管理する官。後述。鄴の中黄蔵丞、左蔵丞、右蔵丞は鄴に置かれていたというだけでしょう。武官でもそうだけど、鄴にはこんな具合に特殊に官が置かれることってしばしばなので、珍しくはない。
 甄官令 れんがの製造。後漢のときは前・後・中の三官おり、将作大匠に属していた。いつごろ少府に移ったのは不明。また東晋、劉宋ではどうだったのかも不明。唯一、『通典』によれば劉宋でも官自体は置かれていたらしい。『通典』将作監・甄官署を参照。
 奚官令 宮中で働く人(おそらく官奴婢)たちの監督者。漢代には見られず。いつごろ置かれたのか不明。『通典』巻27職官典9・内侍省・奚官局を参照。
 左校坊丞 わからん。
 油官丞 史料は見つからないけど想像できるからいいでしょ。
 少府はおもに皇帝のプライベートなことがらを職務としていた。後漢のときには、太官(皇帝の食事)、太医、守宮(紙とか墨とか)、上林苑令(苑に生息している動物の管理)、掖庭令(後宮の女性の監督者)のような日常生活や施設のサポート官、侍中、黄門令のような顧問官・宦官、尚書令のような秘書、そして尚方のような皇帝専門物品の製造官が少府に所属していた。しかし魏晋以後、侍中や黄門令は門下省(侍中府)として、尚書令は尚書省として少府から独立し、太官、守宮、掖庭令などは西晋代に光禄勲へ、太医は宗正へそれぞれ移ったあと、東晋~宋代に門下省へと移動している(訳注(5)注[7]参照)。また『晋書』巻24職官志・光禄勲に「光禄勲、統武賁中郎将、羽林郎将、冗従僕射、羽林左監、五官左右中郎将、東園匠、太官、御府、守宮、黄門、掖庭、清商、華林園、暴室等令」、同宗正に「統太医令史、・・・及渡江、哀帝省并太常、太医以給門下省」とあるのも参照。太字にしてある官は後漢時代だとすべて少府所属であった(東園匠は東園秘器をはじめ、皇帝陵に使用する木製物を製作する。「清商令」というのは曹魏・洛陽の清商殿という殿の管理者なんでしょう、詳しくはわからん。華林園は曹魏・洛陽城北に設けられた苑。暴室は病気になった後宮の夫人や罪を得た皇后・貴人を収容する施設)。
 細々書いてしまいましたが、要するに魏晋以後の少府は物品の製造に特化しただけの官になっているといえるのだ。皇帝家御用達の製品が中心だとは思うが、尚方に代表されているように、必ずしも御用達の物だけに限らなかったようでもある。後漢と較べ、少府は大幅に役割が減ってしまった。
 またもう一つ重要なのが中蔵府令である。この官は後漢のときは少府に所属し、貨幣(金・帛・銭)を管理していた、まさに帝室財政を運営するうえでの要となる官職である(『続漢書』百官志三)。この官は西晋までは少府所属として存続していたのだが、東晋になると御史中丞府に移され、新たに庫曹御史が置かれた。庫曹御史はのちに外左庫、内左庫に分かれたが、宋代に外左庫が廃され、内左庫はたんに左庫と呼ばれるようになった(『通典』巻26職官典8・太府卿・左右蔵署)。庫曹御史の設置はおそらく哀帝の時期に少府が廃されたのと同時期であろう。で、そのまま左庫は少府に戻ることがなかったようなので、帝室財政への関与にしても少府の役割はかなり狭くなったようだ。なんとねえ。
 太官や太医などの官が西晋時期に少府から離れた理由は不明である。それらが最終的(宋代)に門下省へと集結していったのは、門下の官が少府由来であったこともあるであろうが、大司農・光禄勲・宗正といった移譲先の卿官がすべて哀帝の時期に廃されてしまったことが一番大きな原因だと思う。哀帝の時期に廃された卿は少府も含め、孝武帝の時期に(宗正以外は)復置されているが、門下省に移譲した官が戻ることはなかった。大司農や光禄勲と較べれば、尚方や冶令、平准は少府に戻っているのだし、だいぶ充実している方だとは思うけどね。[上に戻る]

[14]原文だと「晋氏以来」と書いてあるが、『通典』将作監によると、置かれたり置かれなかったり体制になったのは東晋以後のことらしい。[上に戻る]

[15]『漢書』百官公卿表・上「典客、秦官、掌諸帰義蛮夷」、『続漢書』百官志二・本注「掌諸侯及四方帰義蛮夷。其郊廟行礼、贊導、請行事、既可、以命羣司。諸王入朝、當郊迎、典其礼儀。及郡国上計、匡四方來、亦属焉。皇子拝王、贊授印綬。及拝諸侯・諸侯嗣子及四方夷狄封者、台下鴻臚召拝之。 王薨則使弔之、及拝王嗣」。おわかりのとおり、大鴻臚は漢代、外交的な仕事にあたっていた。すなわち、諸国の代表を出迎えたり、封建のときに印綬を授けたり、王が亡くなった際には見舞ったり、等々。なので、夷狄もその仕事の範囲内に入っていたのである。が、『宋書』本文を読む限り、そのあたりはどうなっているのだろう、曖昧にぼかされている気もするし(夷狄だって封建されれば「諸王」だし)、すっぽり抜け落ちているのかもしれない。南朝の正史での大鴻臚の用例を確認すると、大鴻臚は夷狄ではない諸王(つまり帝室の諸侯王)に対して派遣されているのが多く、夷狄の迎えたなどといった記述は見られない。だからといって大鴻臚の仕事でなくなったとは言えないけど。[上に戻る]

[16]『太平御覧』巻232『韋昭辯釈』「腹の肉が出ていることを『臚』という。京師を心腹、王侯や外国を四肢と見なし、心服で諸外国を養うということを意味する。弁じるに、大鴻臚はもともと典客であり、賓客への礼を担当としていた。『鴻』とは『大』のこと、『臚』とは『陳序』のことを意味し、大いなる賓礼をつかさどって賓客を整然と並べることをいうのである」、同『漢官解詁』「『鴻』は『声』を、『臚』は『伝』を意味する。声を響かせて賓客を誘導するからである」。[上に戻る]

[17]『晋書』職官志によれば、晋代だと属官には「大行、典客、園池、華林園、鈎盾等令、又有青宮列丞、鄴玄武苑丞」がいた。以下補足。
 大行令、典客令 郎(下働き)のボス。後漢のときは大行令と呼ばれ、大鴻臚の属官であった。『通典』によると、魏のときに客館令に、晋のときに典客令に改称された。ここの『晋書』の記述はいまいちよくわからない感じだね。晋代の大行令には理礼郎(四人)という属官がいる(『通典』巻25職官典7太常卿・奉礼郎)。宋のときには南客館令と北客館令に分かれた。
 園池令、華林園令、鈎盾令 鈎盾令は苑や池などの遊閑地を管理する官で、後漢のときは少府に属していた。知らんけど園池令も似たようなものなんじゃない? 鄴玄武苑丞は鄴の玄武池関連の管理者でしょうね。華林園令は前注[13]で見たように、『晋書』職官志では光禄勲の属官として記されているのだが、流れ的には大鴻臚の属官であったほうがふさわさしいね。東晋以後、この官がどこにいったのか不明。門下省かな? 
 青宮列丞 わからん。[上に戻る]

[18]『太平御覧』巻230厩令『斉職儀』「諸厩有圉師・牧人、養馬之官、校人掌王之馬正也」、同車府令『斉職儀』「車府署、周有巾車、典輅之職、辨五輅之制」。[上に戻る]

[19]『晋書』職官志によると、晋代には属官に「典農・典虞都尉、 典虞丞、左・右・中典牧都尉、車府、典牧、乗黄廐、驊騮廐、龍馬廐等令。典牧又別置羊牧丞」がいた。
 典農・典虞都尉 典農都尉はいわゆる屯田の官だが、大司農所属だったはず・・・。典虞都尉は不明。
 典牧都尉 全国には厩舎が設置されている。それら厩舎のボスのボスのこと。『通典』では「牧官都尉」と記されている。
 車府令 車の管理。漢魏晋では太僕に所属していたが、宋以後は尚書の駕部に所属した。
 典牧令 全国の厩舎への馬の配分をつかさどる。漢魏晋と置かれていたが、それ以後の詳細は不明。
 乗黄廐、驊騮廐、龍馬廐 帝室や禁軍で使う馬を飼育するエリート牧場の名称。乗黄廐令は劉宋では太常に所属していた(訳注(1)参照)。驊騮廐は曹魏のときに、龍馬厩は西晋のときに置かれた。本文にあるように、東晋以後の太僕は置かれたり置かれなかったりという不安定な卿だったので、この二つの厩令は門下省の所属へ移ったらしい(『通典』巻25職官典7・太僕卿)。乗黄厩令が太常に移ったのも同様の理由だろうね、どうして乗黄だけ太常なのかは知らんけど。まあともかく、牧場の管理は欠かせないから常設ではない太僕の下に置くわけにはいかなくなったのだ。[上に戻る]

[20]漢以来の卿である宗正は、『宋書』百官志に記されていない。もちろんうっかりミスではない。宗正は皇族の綱紀を取り締まる官で、魏、西晋では置かれていた。漢魏では皇族が就いていたが、西晋では皇族でなくとも就任するようになった。だが東晋の哀帝期、宗正は廃され、その職務は太常に移ったという。そして劉宋では置かれることがなかった。『宋書』百官志に記述されないのはかかる理由によるのだろう。
 晋では属官に「太医令史、又有司牧掾員」がいたらしいが、前述したように、太医令は宗正の廃止とともに門下省へ移った。後者の官は不明。
 余談ですが、西晋の咸寧三年に宗正とは別に宗という官も置いたらしいよ。『晋書』にもいくつか用例が見えるね。普通に「師」を使ってるね。[上に戻る]





 いまさらながら、哀帝の時期に廃止された卿ってすごく多いんですね、てか卿の廃止ってすべて哀帝の時期におこなわれているはず。で、ほぼぜんぶ孝武帝のときに復活。
 『通典』を見てたら、どうもこうした組織改革をやったのは桓温であるらしい。そういえば! かれは「省官併職」という官制改革をおこなっている。その一環か! 川合安先生が論文を執筆しているが内容は忘れてしまったけど。
 孝武帝の初年に卿が復活、要するに桓温死後に復活しているあたりに、孝武帝は桓温のやり方が少し気に食わなかったのかもしれんね。
 形骸化するくらいならいっそなくしてしまい、必要な職務は他の官に移してしまえばいいというのが桓温だったのかもしれないが、だとすると、形骸化が進む卿をわざわざ復活させた孝武帝の意図はなんだったのだろう。ともかく、こうして廃したり復活させたり一貫しなかったために、官がごちゃごちゃしてしまったんじゃなかろうか。要するに調べんのめんどくさかったって言ってんの。