2013年9月29日日曜日

『建康実録』の東晋巻について

 この記事では『建康実録』について書こうと思う。なお簡単な書誌情報については別途、記事(「『建康実録』概要」)を作成したので、そちらを参照されたい。
 さてこの『建康実録』、成立が唐中期とやや古いためもあってか、歴史学的にはそれほど参照されることがないものなのだが、史学史的に見ると、注目すべき価値を持っているものなのだ。
 例えば、劉宋の巻。『建康実録』の劉宋の巻は、簡単に通読しただけでも沈約『宋書』とはかなり雰囲気が異なっていることが明らかなのである。具体的に言うと、地の文に「裴子野曰」と裴子野なる人物の論が挿入されていたり、劉宋の巻末にはその裴子野の総論・自序があったりする。で、この裴子野という人は何ものかというと、かの裴松之を曾祖父に、裴駰(『史記集解』)を祖父にもつ史学の申し子なのだ(生没年=宋・泰始5年(西暦469年)―梁・中大通2年(530年))。やばいっすね。裴子野には『宋略』という著作があったことが知られている。
 『宋略』は沈約『宋書』をベースにしつつ、コンパクト、かつ簡潔にまとめ直したものらしいが、裴子野の独自色も強く表れていたらしく、沈約は『宋略』を見て「こりゃかなわん」と言ったとか[1]、劉知幾も「裴子野のが沈約のより断然良い」なんて言ったりしている[2]。現在は散佚してしまい、諸書に佚文があるのみで、輯本も作られてない[3]
 その裴子野の「論」「総論」「自序」もしくは佚文が『建康実録』の劉宋巻に引用されてるんですよ! まじ!
 そういうこともあってか、劉宋巻は裴子野『宋略』が底本と使用されて編集されたのだと古くから言われており、史料的価値が注目されてきたのです[4]。すでに史学史では『宋略』=底本説が通説っぽくなっているのだけども[5]、まあ昨年色々あって巻11武帝紀を徐爰『宋書』(佚文)、沈約『宋書』、李延寿『南史』と比較検討しながら読んだのだが、やはり『建康実録』の物語のプロットは独自なものがあって、『宋略』をベースにして編集をしているという説も、巻11に限って言えばその通りなんじゃないかと思う。

 と、長くなってしまったが、今回はこんなことを言いたかったのではない。あくまで東晋巻について書くつもりなのだ。
 わたしが注目したいのはつぎの記事。
是歳、散騎常侍領著作孫綽卒。
綽字興公、太原郡人也。馮翊太守楚之子。永嘉喪乱、幼与兄統相携渡江。・・・卒、時年五十八。
 この記事は巻8簡文帝紀の咸安元年(371年)の条にある。以前に六朝期の編年体史書は、紀年(「経」)の間に「伝」を挿入する形式であったことを指摘したが(「六朝期における編年体史書」)、この記事もその例に漏れず、孫綽死没の記事のあとに孫綽の簡潔な列伝が記されている。この『建康実録』の記事によると、孫綽は咸安元年に享年58で没したということになる。すると生年は建興2年(314年)になろう。
 それがいったい何だねと思われようが、じつは唐修『晋書』には孫綽の没年が記されていないのである。なので、孫綽の生年なぞわかりようがなかったのだが、『建康実録』によって判明したのだ。お手柄だね!
 それだけじゃない、孫綽の生年が判明したことでもう一つわかりそうなのが、孫盛の生没年だ。上掲の孫綽の略歴にもあるように、彼は「永嘉の乱」の際に兄の孫統と長江を渡った。「永嘉の乱」というと、なんとなく洛陽が陥落した永嘉5年(311年)のことであろうと考えてしまう。が、「永嘉の乱」というのは非常にあいまいな用語で、建興4年の長安陥落までを含めて「永嘉の乱」と言うこともある。まあそこら辺は機会があったら記事にしましょう。
 だが、孫綽の生年が上述したとおりであるとすれば、かれが永嘉5年に長江を渡ることは不可能であり、孫氏兄弟の渡江は建興2年以降となりそうだ。さらに重要なことに、この孫氏兄弟の渡江には従弟の孫盛が同行していた。孫盛はそのとき10歳であったという(『晋書』巻82孫盛伝)。もし孫子兄弟の渡江が永嘉5年であるとすれば、孫盛の生没年は太安元年(302年)―寧康元年(373年)と簡単に計算できるのだが・・・現に先行研究ではそのように推測されてきた[6]。だが孫綽の生年が上述の通りであるとすると、孫盛のそのような生没年推測は成り立たないことになるのだ。! なんとまあ、孫綽の生没年がわかるだけで色々わかること!
 しかし問題は、『建康実録』の記事は信頼できるのか、ということだ。なにしろ成立は唐代なのだ、この記事は信頼できんのだと一蹴しようと思えばできんこともなさそうである(というかされた)。
 が、どうであろう。冒頭でわざわざ、『建康実録』の劉宋巻は沈約『宋書』や李延寿『南史』とは別系統の史書・裴子野『宋略』をベースにしている可能性が高いと言ったのは、他の巻でもその可能性が考えられるのではないかと言いたかったからだ。安田二郎氏が『建康実録』独自の文を全く信頼ならないものではなく、佚書『宋略』に基づく貴重な史料だと見なしたように、上の孫綽の記事も信頼に足らぬ記事ではなく、何らかの佚書からの文章であると考えるべきでないだろうか。例えばそう、東晋・徐広『晋紀』だとか劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』だとか。わたしはそういう可能性で考えるべきだし、少なくとも、『建康実録』の文が全くデタラメであるという根拠がない限り、『建康実録』の独自情報は無視すべきでないと思う。

 そういうわけで、わたしは劉宋巻にはもう飽きてしまったのだけど、逆に東晋巻にはたいへん興味を持っていて、いつか唐修『晋書』だとかと色々比較して、『建康実録』をしっかり分析してみたいなあと考えたりしてます。おわり

――注――

[1]『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒、子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其敘事評論多善、約見而歎曰、『吾弗逮也』。蘭陵蕭琛・北地傅昭・汝南周捨咸称重之」。[上に戻る]

[2]『史通』内篇・叙事「夫識宝者稀、知音蓋寡。近有裴子野『宋略』・王劭『斉志』、此二家者、並長於叙事、無愧古人」、同書外篇・古今正史「世之言宋史者、以裴略為上、沈書次之」など。そもそも劉知幾さんは編年体が好きだし、沈約が嫌いだったようで所々で悪口言ってるし、まあそういうとこもあって、裴子野>沈約と評価している印象もある。[上に戻る]

[3]佚文に関してはつぎの通り。
「論」(「裴子野曰」)→『建康実録』(巻11・12・14に複数)、『資治通鑑』(巻128(二つ有)・132・133)、『通典』(巻14・16・141)、『文苑英華』(巻754)。『建康実録』以外は厳可均『全梁文』巻53に収録されている。これらはわたしが実見したものだけに限っているが、ほか『長短経』という唐代の書物にも裴子野の「論」が引用されているという。詳しくは、周斌「『長短経』所引『宋略』史論的文献価値」(『史学史研究』2003-4)を参照。また「総論」に関しては、蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)で詳細な校勘がなされている。
佚文→『建康実録』(巻13に4条)
 そもそも『宋略』に限った話ではないのだが、散佚した宋史に関しては全く輯本が無い(『古佚書輯本目録』および『六朝史学』「佚書輯本目録」を確認した限りでは。ただ実見はしていないのだけども、周斌氏によると、唐燮軍「也論裴子野的『宋略』」(『史学史研究』2002-3)が『宋略』の輯佚・校注を行なっているらしい)。『太平御覧』等には、徐爰『宋書』(孝武帝年間成立。沈約『宋書』のベースになったと言われている。『太平御覧』『芸文類聚』の皇帝略歴の項目には、沈約ではなくこれが引かれている。おそらく北斉『修文殿御覧』の影響だろう)、王琰『宋春秋』なんかが引用されているのだけどね。とはいっても、「旧晋史」と比べれば圧倒的に佚文は少ないし、いたしかたない。[上に戻る]

[4]王鳴盛『十七史商搉』巻64「建康実録」、『四庫全書総目』巻50など。安田二郎氏は『建康実録』にしか見られない文章に着目し、それが唐の許嵩が勝手に書き込んだものではなく、裴子野『宋略』独自の文だと解釈することで、土断の新解釈を示されている(安田二郎『六朝政治史の研究』第十章、京都大学学術出版会、2003年)。『建康実録』が『宋略』ベースであれば、いくら唐代成立の書物であるとはいっても、南朝史研究に棄ておけない史料となるのである。[上に戻る]

[5]唐燮軍氏は、原注もしくは地の文にしばしば沈約『宋書』がママ引用されていることを指摘し、完全に『宋略』ベースではないとする。唐燮軍「辨『建康実録』記宋史全据『宋略』為藍本」(『中国史研究』2005-2)参照。いやまあ、代々「藍本」(底本)とわざわざ言われてきたのは、あくまでベースって話では? そりゃ完全な丸写しをしているなんて誰も思ってないだろうし、許嵩なりのアレンジはあるでしょう。そこに沈約や李延寿の文章が混じっていたって、当然なんじゃないかな。
 しかしながら、わたしも少し慎重に考えた方が良いかもしれないと思っている。裴子野の引用状況にはばらつきがあるからだ。最初の武帝紀、文帝紀にはけっこう「論」が見られるのに、それ以降はぱったりしてしまう。いったいどういうことだろうか。まだちゃんと全面的に検討してないので、いずれちゃんと調べてみたいね。[上に戻る]

[6]蜂屋邦夫「孫盛の歴史評と老子批判」(『東洋文化研究所紀要』81、1980年)p. 22、松岡栄志「孫盛伝(晋書)――ある六朝人の軌跡」(伊藤漱平編『中国の古典文学――作品選説』東京大学出版会、1981年)p. 33、喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1989年)「前言」p. 6、長谷川滋成『孫綽の研究――理想の「道」に憧れる詩人』(汲古書院、1999年)pp. 16-19参照。長谷川氏は上掲の『建康実録』の記事を引いて、これだと孫盛が永嘉4年に渡江することは不可能になるとしつつも、『建康実録』の記事は信頼できないとして棄却している。
 対して、『建康実録』の情報を積極的に活用したのが王建国氏で、氏は孫氏の渡江を長安が陥落した建興4年(316年)にかけ、孫盛の生没年を永嘉元年(307年)―太元3年(378年)と推定している。王建国「孫盛若干生平事迹及著述考辨」(『洛陽師範学院学報』2006‐3)参照。まあ別に建興4年にかける必要もない気はするけど、『建康実録』を無視した説よりは支持できる。[上に戻る]

『建康実録』概要

 『建康実録』という史書をご存知だろうか。コアな方なら知っておられようが、あまり一般での知名度は高くないはずだ。
 『建康実録』は「六朝」の事跡を叙述した史書のことである。具体的には、孫呉(巻1~4)、東晋(5~10)、劉宋(11~14)、南斉(15・16)、(17・18)、(19・20)。基本的には編年体だが、劉宋以降は列伝が附され、南斉・梁は完全に紀伝体となっている。孫呉や東晋の巻では、原注のような形で佚書が引用されることもしばしばある(特に建康に関する情報が豊富なことで有名)[1]。撰者は「序」で、
①「南朝六代」「東夏之事」を記載範囲とする
②「六朝君臣」の事跡については、必ずしも完備を追求しない
③「土地山川」「城池宮苑」については、その場所を明示する
④異聞は煩瑣にならない程度に注記しておく
などと述べている。
 撰者は唐の許嵩。その事跡は不明だが、『建康実録』巻10恭帝紀の末尾にある「案、東晋元帝即位太興元年、至唐至徳元年、合四百四十年」という記載から、玄宗・粛宗期の人だと考えられている。この許嵩、どうも建康に居住して、六朝時代の史跡を実見している可能性が高いようである。先も少し触れたように、建康関連の情報が豊富であることや、山川や宮城の場所を明記するという編纂方針からしても、そのことが推測されようし、『宋史』芸文志によると、許嵩は『六朝宮苑記』という書物も作っているようなので、地理関連に関してはなかなか豊かな知識を持っているようだ。
 しかし、そういう特徴=長所があるとはいえ、『建康実録』の評価は低い。後世での評価の主なものを箇条書きにしてみると、
・編年体なのか紀伝体なのか。体裁の不統一はちょっとなぁ・・・(群斉読書志、四庫総目)
・佚書を豊富に引いているのはよろしい(四庫総目)
・列伝の取捨選択のバランス悪い、李延寿にはるかに及ばない(王鳴盛)
・南斉・梁・陳の記述にやる気を感じられない
 一番最後は誰が言っていたか忘れてしまったが、まさしくその通り。はじめの孫呉、東晋まではかなり力の入った記述なんですよ、原注もたくさんつけているし。ところが、劉宋くらいから雲行きが怪しい。なんかテキトーに書いてんじゃねえのコイツ?みたいな雰囲気が漂い始め、南斉・梁・陳に関しては、(正確に検討はしていないけど)「正史」の本紀・列伝をコピペしただけ。なんともお粗末。全体を細かく検討したというわけではないので、根拠があまりない推測になってしまうが、『建康実録』は未完の書なんじゃないか、と思うことがある。本来は編年体で統一するつもりだったが、途中でやる気がなくなったかなんかで、結局紀伝体(=編集途中)のまま放置してしまった、みたいな。あるいは南斉・梁・陳に関しては、手本となる良質な編年体史書が無かったとか? いやそうだったら、自分で編集して編年体にまとめればいいじゃん、って結局そうなるのだけど[2]

 つぎに本について少しまとめておこう。じつは『建康実録』、上述したように一つの史書としては非常に中途半端であったためか、北宋の中ごろに伝えられていた本はすでにボロボロで、欠損や錯簡がひどく、読むのも困難であったらしい。そこで北宋の嘉祐3年(西暦1058年)に校訂が行なわれ、翌年に完了し[3]、一応の版本ができた。この北宋嘉祐本は現存こそしていないものの、このあとに成立した本の系統の祖本であるらしい。もちろん、この北宋本で欠損や錯簡が完全に復元されたわけではない。最新の本でも残欠が残っていたり、読みづらい箇所が多々あったりするのも、北宋本以来、もうどうしようもないところなのだろう。
 現存で最も古い本は「紹興十八年(1148年)」の記載がある南宋紹興本(刊刻本)である。北宋本を継承したと思われるが、かなり誤りが多いらしい。その他にも色々本はあるのだけど、とりあえず現在最も利便な本は、張忱石氏が校訂した『建康実録』上・下(中華書局、1986年)である。これは清の光緒28年(1902年)に刊行された清光緒甘氏本を底本とし、その他現存する刊刻本・鈔本(写本)をほぼ全て参照して校勘、さらに正史や『資治通鑑』などの関連史書も利用して校訂したという。[4]
 要するに本にまで触れておいて何が言いたかったのかというと、『建康実録』は祖本となる北宋本以来、残欠や錯簡があり、不完全な書物である、ということが言いたかった。


――注――

[1]佚文の蒐集家として著名な厳可均、湯球も『建康実録』の佚文だけは蒐集していない。なので、「全文」や「八家旧晋書」の輯本だけで満足しないように。ちなみに最近出版された『三十国春秋輯本』(湯球輯、呉振清校注、天津古籍出版社、2009年)は、湯球が集め損ねた『建康実録』原注引用の『三十国春秋』を集め直してある。[上に戻る]

[2]安田二郎氏も、「体例の不純一つ取っても、もしも許嵩が再度見直して余裕をもって対処したら、調整、補訂が十分できるミスや欠陥だったのではないでしょうか。・・・何らかの切迫した事情があり、慌ただしく書かざるを得なかった書物ではないかと考えられてくるのです。」「序文で『歴史的事実は正史に質し』などと大書しているのに、実際には基礎的、基本的知識のないまま、しかも正史をきちんと読みもせず、ノリとハサミで大急ぎで書き上げた体の書物であり、第一次的草稿としか言いようのないように思われます。」と述べている。安田二郎「許嵩と『建康実録』」(『六朝学術学会報』7、2006年)pp. 127, 129 参照(強調は筆者)。[上に戻る]

[3]『建康実録』最後の巻である巻20の末尾に「江甯府嘉祐三年十一月開造『建康実録』、並按三国志、東西晋書并南北史校勘、至嘉祐四年五月畢工、凡ニ十巻、揔二十五万七千五百七十七字、計一千策」とある。『三国志』だとか他の史書を参照しつつ、校訂を行なったらしい。なお原文の書き方として、ここで言及されている「晋書」や「南北史」は、唐修『晋書』や李延寿の「南北史」を指す固有名詞ではなく、「西晋と東晋の史書ならびに南朝・北朝の史書」のことを言っているのかもしれない(そのように解釈すれば、沈約『宋書』、蕭子顕『南斉書』も「南北史」に含まれることになる)。[上に戻る]

[4]以上、『建康実録』の基礎的内容や版本情報は、張氏テキストの上巻「点校説明」を主に参照した。[上に戻る]

2013年9月23日月曜日

太宰と太師が並置できるってまじ?

 昨日の太宰に関する記事を出したあと、ツイッターで次のような指摘を頂いた。


 さっそく見てみると、『晋書』巻111慕容暐載記に以下のような記事がある。
升平四年、僭即皇帝位、大赦境内、改元曰建熙、立其母可足渾氏為皇太后。以慕容恪 為太宰・録尚書、行周公事。慕容評為太傅、副賛朝政。慕輿根為太師。・・・

升平四年、(慕容暐は)僭越にも皇帝の位についた。支配領域内に大赦を下し、建煕と改元し、母の可足渾氏を皇太后に立てた。慕容恪を太宰・録尚書とし、行周公事[1]とした。慕容評を太傅とし、朝政を輔佐させた。慕輿根を太師とした。・・・
 確かに並置されている・・・!
 そしてこの指摘を受けて思い出したのだが、匈奴劉氏の漢も太宰と太師が並置されているのだ。
粲誅其太宰・上洛王劉景、太師・昌国公劉顗、大司馬・済南王劉驥、大司徒・斉王劉勱等。(『晋書』巻102劉聡載記)

劉粲は太宰の上洛王劉景、太師の昌国公劉顗、大司馬の済南王劉驥、大司徒の斉王劉勱らを誅殺した。
 もうっ、匈奴ったらあほたむだなぁっ! くらいにしか思ってなかった。そりゃそうだろう、「太宰=太師の別称」説に立っていれば、こんなん無知にしか思えん。しかも非漢族政権ときたもんだから、まあ無知でもしょうがなかろうと考えてしまう。
 が、しかし先日の記事で指摘したように、『斉職儀』に記されている説=「太宰は単に『周礼』に従って置いただけで、諱を避けるために太師の代わりとして置いたわけではない」という話を信じれば、これら五胡政権の並置は何ら不思議なことではなくなるのだ。だって、そもそも太宰は太師の別称ではないし、太宰と太師とは全く別の独立した役職ということになるのだから。
 それに、つい五胡政権だから中国官制に無知だろうなんて思ってしまうけれど、こうした中国式制度の確立・整備をするためには、漢人知識人の力が必要だ。というか彼ら漢人ブレーンによってほとんど構築されているに違いなかろう。もし「太宰=太師」であるというのなら、彼ら漢人ブレーンがそんな単純なミスを犯すとも思えない。という風に考えると、「太宰=太師」説というのはかなり胡散臭く思えないだろうか。

 ということで、別に決定的な根拠があるわけではないが、わたしは「太宰とは、諱を避けるために太師の代わりとして置かれた官職である」という説を棄却し、「『周礼』に従って設けた官職であって、太師とは関係なく置かれた」説を採用しようと思う。沈約さん、あんたまちがってるで、あんたの採用した説が俗説なんや!(ドヤ


――注――

[1]周公のような権限あげますということ。周公は太宰であったと伝えられているから(『漢書』王莽伝・上、『宋書』百官志・上など)、その故事を意識して太宰と行周公事をセットで与えたのだろう。[上に戻る]

2013年9月22日日曜日

太宰ってさあ・・・

 Wikiより引用。
晋において再度太師、太傅、太保を置いたが、「師」が景帝司馬師の諱であることから避けて太師を太宰と称した。
 このWikiの記述は『宋書』百官志・上に基づいているようだ。本ブログの訳注より引用。
太宰は一人。周の武王のとき、周公旦が初めてこれに就任し、国の政治を掌り、六卿の第一位であった。秦、漢、魏は置かなかった。晋の初め、『周礼』に拠って三公を設置した。三公の官職では太師が第一位であったが、景帝の諱が「師」であったため、太宰を置いて太師の代わりとした。
 わたしもすっかりそうなんだろうと思っていた。けれど、訳注作成中に記事を整理していたところ、訳注でも紹介した『斉職儀』に次のようにあるじゃありませんか。
太宰品第一、金章紫綬、佩山玄玉。・・・秦漢魏無其職、晋武以従祖安平王孚為太宰。安平薨、省。咸寧四年又置。或謂、本太師之職、避景帝諱、改為大宰。〔或謂、太宰、周之卿位、〕晋武依周、置職以尊安平、非避諱也元興中、恭帝為太宰桓玄都督中外、博士徐豁議、太宰非武官、不応都督、遂従豁議。(『太平御覧』巻206引)

太宰の官品は一、金の章・紫色の綬で、山玄玉を佩く。・・・秦・漢・魏には置かれなかったが、晋の武帝は従祖の安平王孚を太宰とした。安平王孚が薨ずると、(太宰を)廃した。咸寧四年にまた置いた。一説に、元来は「太師」であったが、景帝の諱を避けて、「太宰」に改められたと言う。また別の一説に、太宰は周の卿であり、晋は周に倣って「太宰」を置き、安平王孚を(それに任じることで)尊重したのであって、諱を避けたわけではないと言う晋の元興年間、恭帝は太宰の桓玄を都督中外諸軍事にしようとしたが、博士の徐豁が議して、太宰は武官でないから都督中外諸軍事は相応しくないとしたため、ついに徐豁の議に従っ(て桓玄を都督中外にしなかっ)た
 諱を避けたわけでも何でもなく、単に西晋王朝の周回帰志向から太宰が置かれたという[1]まあたしかに、太(大)宰は『周礼』に出てくるが、太師は出てこない。(『周礼』にそのままの字句で登場こそしないが、春官に師氏があるのでこういうふうに言うのは問題ありであった。というわけで訂正する。――2016年8月9日)全くのデタラメとも言い難い。
 そもそもこの『斉職儀』とは何か。『隋書』経籍志二には二つの『斉職儀』が掲載されている。一つが南斉の王珪之の撰で五十巻、もう一つが撰者不明の五巻[2]。王珪之は琅邪王氏の一人で、『南斉書』巻52文学伝、『南史』巻24王准之伝に附伝が設けられており、それらに『斉職儀』編纂のことも明記してある。後者の撰者不明のやつは、五十巻本のダイジェスト版とかかもしれんね。
 内容については、次の『南斉書』の附伝の記述を参照いただきたい。
永明九年、其子中軍参軍顥上啓曰、「臣亡父故長水校尉珪之、藉素為基、依儒習性。以宋元徽二年、被敕使纂集古設官歴代分職、凡在墳策、必尽詳究。是以等級掌司、咸加編録、黜陟遷補、〔悉〕該研記、述章服之差、兼冠佩之飾。属値啓運、軌度惟新、故太宰臣淵奉宣敕旨、使速洗正、刊定未畢、臣私門凶禍。不揆庸微、謹冒啓上、凡五十巻、謂之斉職儀。仰希永升天閣、長銘祕府」。詔付祕閣。

永明九年(西暦491年)、王珪之の子である中軍参軍の顥が上申した、「臣の亡父である、もと長水校尉の珪之は、飾り立てずに本心のままに在り、儒学を拠りどころとして習慣にしていました。宋の元微二年(474年)、勅命を受け、過去に置かれた官職や歴代の職務(の変遷)をまとめること、古籍の記述にあるものはすべて、必ず網羅することを命じられました。こうして、(官職の)位の階級や職掌は、すべて記述され、(時代に伴う官の位の)上下の移動や変更、追加も万遍なく調査して記録し、(さらに官の)印章や服装の等級、冠と佩玉の装飾品(の差異)も記しましたちょうど革命の時期にあたり、車輪の幅と度量衡が改まり(天下が一新し)ましたので、もと太宰の褚淵が勅使を伝えて参りまして、急ぎ整理して校正するようにとのことでしたが、校正が終わらないうちに、臣の家に不幸が襲ってきたのでした。不才ではございますが、ここにつつしんで申し上げたく存じます。全てで五十巻、『斉職儀』と申します。永代まで朝廷の秘閣に所蔵されますことをお願い申し上げます」。詔が下り、秘閣に所蔵された。
 南斉の官職について述べたものではなく、南斉の時期に朝廷に収められたから『斉職儀』と名付けられたのだろう。内容や編纂方針としては『宋書』百官志とそれほど変わらないように思える。
 だとすれば不思議なのが、どうして沈約は先の太宰にまつわるエピソードを一つ採用、一つリジェクトしたのだろうか。沈約は建元四年(482年)に最初の『宋書』編纂の勅旨を下され、永明六年(488年)に本紀・列伝を完成させ、謹上した。志に関してはその後、梁の初めころに完成したと見られている(中華書局標点本の「出版説明」)。とすれば、沈約が『斉職儀』を見ていなかったということは考えにくい。むしろ、司馬彪『続漢書』の志の続編を目指して編纂された何承天『宋書』の志の、その後継たらんとする沈約であれば(『宋書』巻11志序)、宋一代に留まらない志の編纂を方針にしていたはずであって、歴代の沿革を概述したと言う『斉職儀』はまたとない手本に成り得たはずなのだから、参照しないというのは余計に考えにくいところがある。
 まあどこだったかは忘れてしまったが、博学の沈約さんは「俗説」と判断したものはわりと簡単に切ってしててしまったりしてるところがあるし、「太宰は諱を避けたわけではない」説もそういう感じで切り捨てられてしまったんだろうか。

 集めた史料を改めて見ていると、こういう発見がたまにあるもんだからなかなか。ブログのアクセス数的には『宋書』百官志訳注はオワ記事だけど、今回のこういう収穫があったので満足。


――注――

[1]小林聡先生、渡邉義浩先生などがそういった傾向を指摘・強調していたように思う。[上に戻る]

[2]『旧唐書』経籍志・上だと撰者が范曄になっているが、これはありえない、誤りだろう。范曄には『百官階次』という官職関連の著述がいちおうあるけどね。[上に戻る]

2013年9月15日日曜日

後漢の駅吏?(五一広場東漢簡より)

 最近、長沙から後漢時代の簡牘が出土したそうだ。あの走馬楼とかなり近い地点であるらしい。
 『文物』(2013・6)に掲載されている発掘簡報によると、2010年、地下鉄建設のため下水管移動工事をしてたら、穴倉(?)が出てきて、そこから簡牘が見つかったそうだ。まだ整理中とのことで、総枚数は不明とのことだが、一万枚前後はあるという。簡牘のほかにも磚や木器が出土しているとのこと。
 簡牘は様々な形状のものが出土しており、なかにはけっこう大型な木牘もある。掲載されている図版を見ると、いくつかに編綴痕も見えている(J1③:325-1-12A、J1③:201-30)。多くが木製で、保存状態が良く、文字が見やすいうえ、多くの簡牘に紀年が記されているから時期も判明したそうで、最も早い年号は後漢・章帝の章和四年(西暦90年)、下限は安帝の永初五年(112年)。おおよそこの時期の簡牘群であるらしい。その多くは官文書であり、だいたいどういう感じの内容が多いかまでまとめてくれているのだが、長くて読む気がせんので、興味のある方はご自分で買ってみてね☆

 わたしは簡牘が読めない人間なのだけど、とりあえず字面だけでも眺めてみると、少し興味深いものがあった。
案(?)都郷利里大男張雄、南郷匠里舒俊、逢門里朱循、東門里楽竟、中郷泉陽里熊趙皆坐。雄賊曹掾、俊・循吏、竟驂駕、趙駅曹史駅卒李崇当為屈甫証。二年十二月卅一日、被府都部書、逐召崇不得。雄・俊・循・竟典主者掾史、知崇当為甫要証、被書召崇、皆不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月壬辰朔十二日壬寅、直符戸曹史盛劾、敢言之。謹移獄、謁以律令従事、敢言之。(J1③:281-5A)
 訳は載せません(察してください)。簡報の解釈も参照すると、大意は次の通り。
 永初二年十二月三十一日、長沙太守府は駅卒の李崇を重要証人として呼び出す指令書を下した(何についての証人なのかは知らん[1])。しかし、李崇を連れてくる仕事を担当すべきであった、賊曹掾の張雄、吏の舒俊と朱循、驂駕の楽竟、駅曹史の熊趙は指令が下っていることを知っておきながら、仕事をしなかった。永初三年正月十二日、この件について、直符戸曹史の盛という人が彼らを弾劾し、罰するよう要請した。
 わたしが注目したのは駅に関する肩書が見えている点だ。従来、駅については体系的な史料がなく、どういう人たちが駅で働いていたのかとかそういったこともあまりわからなかったのである。まず駅の役人から考えてみよう。『続漢書』輿服志の劉昭注に、
臣昭案、東晋猶有郵駅共置、承受傍郡県文書。有郵有駅、行伝以相付。県置屋二区。有承駅吏、皆條所受書、毎月言上州郡。『風俗通』曰、「今吏郵書掾・府督郵、職掌此」。
と、東晋時代までは「駅吏」がいたような感じの記述が残されている。「駅吏」というのは「駅に勤務している役人」といった感じで、肩書でもなんでもないと思われるので、あまりロクな史料ではないようだが、まあとりあえず役人が管理しているようだということは確認できそうだ。
 さらに西北辺境の簡牘を見てみると、「駅小史」[2]とか「駅佐」(懸泉漢簡91DXF⑬C:34)が見えている。しかしこれらはあくまで西北辺境の話、特殊な話なのだから一般化が難しい。実際、前漢後期ころと考えられている尹湾漢簡では、亭や郵については記述があるのに、駅については何も書かれていない。そもそも駅なんていう組織[3]自体、辺境地域にしか存在しなかったんじゃないかと勘繰りたくなってくる。
 が、先に掲げた東漢簡には「駅曹史」とあるじゃありませんか。官制にあんま精通していないわたしには、この「駅曹史」が郡吏なのか県吏なのかはわかりませんが、駅で曹が設けられていたというのはじつに興味深い。やはり内郡にも駅は存在した。ちなみに時期は少し下るが、西晋・恵帝年間ころのものと思われる郴州晋簡は、長沙より南の桂陽郡における上計文書らしいと考えられているが、公表されている簡には(湖南省文物考古研究所・郴州市文物処「湖南郴州蘇仙橋遺址発掘簡報」、『湖南考古輯刊』8、岳麓書社、2009年)
都郵南到穀駅廿五里、吏黄明、士三人、主。(1-26)

和郵到両橋駅一百廿里、吏李頻、士四人、主。(2-384)
というものがある。わたしはこれらを以下のように読んでいる。
都郵の南のほう二十五里で穀駅に行き着く。(穀駅は)吏の黄明と三人の士によって管理されている。

和郵から百二十里で両橋駅に行き着く。(両橋駅は)吏の李頻と四人の士によって管理されている。
 さらに郴州晋簡には次のような簡もある。
松泊郵南到徳陽亭廿五里、吏区浦、民二人、主。(2-166)

松泊郵の南のほう二十五里で徳陽亭に行き着く。(徳陽亭は)吏の区浦と二人の民によって管理されている。
 駅には「士」が、亭には「民」が配置されていることになっているのだが、どうやらこれは偶然ではなく、そのように規則化されていたらしいふしがある。というのも、
卅六尉健民・郵亭津民。(1-56)
とあるように、郵や亭には民があったことは書かれているが、ここに駅が含まれていないからである。すなわち、駅の「士」とは「民」の言い換え表現とかそんなんではなく、意図的に「士」と書いている可能性が高い。当該時代の「士」と言えば、いわゆる「兵戸」や兵士を意味する用例が多いことを考えると、駅で働く人間が「士」であるのは当然と言われれば当然かもしれない。「二年律令」などを参照するに、郵人(民)の業務は文書の伝達とか、宿泊する官吏の接待とか、雑務であるのに対し、駅の役割は不明瞭な点が多いとはいえ、馬を使用した伝達業務を主としたことは確かであると思われる。つまり、馬に乗れないと話にならんのだ。そんじょそこらの民を連れてきて訓練するより、もともと乗れるやつ、乗れる資質(期待値)が高そうなやつを引っ張ってきた方が効率良いに決まっている。郴州晋簡で、郵や亭には民が勤務しているのに対し、駅では士である事情は、このように考えることができるのではないだろうか。

 わたしは郴州晋簡の「駅士」の前身にあたる人はいるだろうか、と気になり、漢簡を多少調べたことがある。管見の限り、「駅士」は見つからなかった。が、おそらく「駅士」と同様の働きをしているんじゃないかと思われる「駅騎」という人たちを、懸泉漢簡から多数見つけることができた。一例挙げると、懸泉漢簡Ⅴ1612④:11A(胡平生・張徳芳編『敦煌懸泉漢簡釈粹』上海古籍出版社、2001年)
皇帝橐書一封、賜敦煌太守。元平元年十一月癸丑夜幾少半時、県(懸)泉駅騎伝受万年駅騎広宗、到夜少半時付平望駅騎
 また、居延漢簡には次のような記録も見えている。居延漢簡EPT49‐29(『居延新簡』中華書局、1994年)
〼□分、万年駅卒徐訟行封橐一封、詣大将軍、合檄一封、付武彊駅卒 無印
 なんと、ここには「駅卒」が見えているのだ。そう、すでに遠い昔の話になってしまったが、今回ピックアップした東漢簡にも「駅卒」が見えているのである。なのでちょっとテンション上がったのだ。

 しかし、駅騎と駅卒は何が違うのだろう? 両者は同一だとする理解が一般的なように見受けられるが[4]、わたしにはそう言い切るのには少し抵抗がある。特に根拠という根拠はないんですが・・・。じつは、いちおうわたしが見た限りでは、「駅卒」の事例は上の居延漢簡以外に見つからなかったのです。事例が少ないから、もう少し慎重に考えておきたいという程度のことです。そう思ってた時に、東漢簡に「駅卒」が出てきたもんだから、おお!となりましたわ。まあ何をやってたのかはわからんが[5]

 ということでね、ほんの少しだけですが、東漢簡を見た感想を述べてみた次第です。ちなみに、先の東漢簡の話の後日談を伝える簡も公表されています。
臨湘耐罪大男都郷利里張雄、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷匠里舒俊、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷逢門里朱循、年卅歳。
臨湘耐罪大男南郷東門里楽竟、年卅歳。
臨湘耐罪大男中郷泉陽里熊趙、年廿六歳。
皆坐吏不以徴逮為意、不承用詔書。発覚得。
永初三年正月十二月系。(J1③:201-30)
 臨湘は長沙郡の属県。耐は、ひげを剃り落として髪は残す二年以上の強制労働刑を言う(濱口重國「漢代に於ける強制労働刑その他」、同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、東大出版会、1966年、注27〔pp. 654-656〕)[6]。あんまりここら辺は知識もあやふやなんですが、まあ臨湘で強制労働に就いたということでしょう。弾劾された正月十二日の日付があるところをみると、弾劾即判決ということなのだろうか。そうか、かわいそう、でもないけど・・・。


――注――

[1]発掘簡報によると、どうもこの文書は前半部分が欠けているようなので、どういう事情があったのかは詳しくわからんみたいだ。[上に戻る]

[2]懸泉漢簡ⅡT0214③:57(張経久・張俊民「敦煌漢代懸泉置遺址出土的“騎置”簡」、『敦煌学輯刊』2008-2)

元康二年四月戊申昼七時八分、県(懸)泉訳(駅)小史寿肩受平望訳(駅)小史奉世、到昼八時付万年訳(駅)小史識寛。
 居延漢簡413‐3(謝桂華・李均明・朱国炤『居延漢簡釈文合校』文物出版社、1987年)
●凡出粟三十三石 給卒・駅小史十人三月食。
 わたしが見つけられたのはこんなもん。[上に戻る]

[3]燧に駅馬が備わっていることを示す簡牘史料があるため、燧の外部に駅馬を備えた駅という建造物が存在したというより、駅馬管理や駅馬を利用した文書伝達業務を管轄した組織のことを駅と呼んでいたと、わたしは考えている。冨谷至「漢代の地方行政――漢簡に見える亭の分析」(同氏『文書行政の漢帝国』名古屋大学出版会、2010年)も参照。[上に戻る]

[4]前掲張経久・張俊民論文、鷹取祐司「秦漢時代の文書伝送方式――以郵行・以県次行・以亭行」(『立命館文学』619、2010年)[上に戻る]

[5]ついでながら駅騎について補足しておくと、張氏、鷹取氏によれば、駅騎は文書伝達業務、駅馬の飼育を行っていたようである。[上に戻る]

[6]完城旦(四年刑)、鬼薪(三年刑)、隷臣(三年刑)、司寇(二年刑)。以上の強制労働刑は耐=ひげを剃り落とす処分もあったということになる。なので、濱口氏によれば、こられの刑を「丁寧に記述」すれば、「耐為司寇」などとなる、とのことである。刑罰に関しては、その後の研究で修整された箇所もあるかもしれんが、わたしはあまり把握してないので申し訳ないが濱口氏の研究で良しとさせていただく。[上に戻る]

2013年9月8日日曜日

劉氏の系図への疑義――「匈奴」劉氏と屠各種(1)

 これまで、二回にわたって後漢末の匈奴・去卑について、記事を書いてきた。そのうちの二回目の記事の末尾で、屠各種について少し触れておいた。今回はその屠各種についてまとめようと思います。ほんとに学説史をまとめた程度のものですが、補足としての意味合いも兼ねて記事にしたんですわ。

 さて、わたしは、劉淵は於扶羅の孫ではないし、そもそも劉氏は南単于の血統に当たらないといったような話をしてきた。しかし、その点に関して、十分な根拠を示していなかったと思う。劉氏が南単于に反抗的な一族であることは論じたものの、だからといって劉氏は南単于の一族でないということが証明されたわけではない。今回は、わたしがある程度受け入れ、劉氏は南匈奴ではないと考えるようにいたった根拠の一つにあたる、「屠各種は南匈奴ではない」説を紹介しようと思う。

 まず『晋書』巻97四夷伝・北狄匈奴伝を引用しておこう。
北狄以部落為類、其入居塞者有屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黒狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀頼種・鍾跂種・大楼種・雍屈種・真樹種・力羯種、凡十九種、皆有部落、不相雑錯。屠各最豪貴、故得為単于、統領諸種。其国号有左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左於陸王・右於陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左独鹿王・右独鹿王・左顕禄王・右顕禄王・左安楽王・右安楽王、凡十六等、皆用単于親子弟也。其左賢王最貴、唯太子得居之。其四姓、有呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏。而呼延氏最貴、則有左日逐・右日逐、世為輔相。卜氏則有左沮渠・右沮渠。蘭氏則有左 当戸・右当戸。喬氏則有左都侯・右都侯。又有車陽・沮渠・余地諸雑号、猶中国百官也。其国人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐呉有功、遷赤沙都尉。

北狄は部落をもって類をなしている。(北狄の中で)中国に入居した類は、屠各種、鮮支種、寇頭種、烏譚種、赤勒種、捍蛭種、黒狼種、赤沙種、鬱鞞種、萎莎種 、禿童種、勃蔑種、羌渠種 、賀頼種、鍾跂種、大樓種、雍屈種、真樹種、力羯種 、以上十九種である。みな部落を有し、互いに入り乱れることはなかった。屠各種はもっとも権力をもった貴種であり、ゆえに単于となることができ、諸々の種族を統率していた。匈奴の国の称号には左賢王、右賢王、左奕蠡王、右奕蠡王、左於陸王、右於陸王、左漸尚王、右漸尚王、左朔方王、右朔方王、左独鹿王、右独鹿王、左顕禄王、右顕禄王、左安楽王、右安楽王、以上十六等級あり、みな単于の親族子弟を任用した。この中でも左賢王が最も貴く、唯一太子だけが就くことができた。匈奴の四姓に、呼延氏、卜氏 、蘭氏、喬氏がある。呼延氏が最も貴く、左日逐、右日逐の称号を有し、代々単于の補佐を務めている。卜氏は左沮渠、右沮渠を有し、蘭氏は左当戸、右当戸を有し、喬氏は左都侯、右都侯を有している。また、車陽、沮渠、余地といった雑号があり、それらはちょうど中国の百官と同様な称号である。匈奴の国人のなかに、綦毋氏、勒氏がいる。ともに勇敢で強く、よく反乱を起こした。武帝のとき、騎督の綦毋俔邪という者がいた。呉の討伐に功績があり、昇進して赤沙都尉となった。[1]
 うえの記事を素直に読めば、匈奴単于の一族は「屠各種」と呼ばれる部族に属していたことになる。だから劉氏=屠各種=南単于の一族、という理解が成り立っていた。しかし、本当にそう考えて良いのか。以下はこのような理解に異議を申し立てた学者たちの説を整理してみる。
 劉氏は南単于の一族ではない、という説は、近代歴史学においては戦前から唱えられていた。劉氏の系統に疑問を呈したのは岡崎文夫氏である。岡崎氏は、劉氏は元来の南単于の一族ではなく、後漢~魏晋のころに台頭した「屠各種」と種族に属する一族ではないか、と述べている[2]

 この岡崎氏の疑問は、あくまで疑問に留められており、真剣に考証した内容ではない。ただこの岡崎氏の疑問に触発され、劉氏の正体を突き止めようとしたのが唐長孺氏である。[3]
 唐氏の議論は多岐に渡るが、ここでは二点に渡って整理しておく。まず一点目に、唐氏は系図がおかしいと指摘する。『晋書』劉元海載記の次の記述をご覧いただきたい。
於扶羅死、弟呼廚泉立、以於扶羅子豹為左賢王、即元海之父也。・・・豹妻呼延氏、魏嘉平中祈子於龍門、・・・自是十三月而生元海、左手文有其名、遂以名焉。・・・後秦涼覆没、・・・会豹卒、以元海代為左部帥。太康末、拝北部都尉。

(中平5年=西暦188年に)於扶羅が死ぬと、弟の呼廚泉が立ち、於扶羅の子の豹を左賢王とした。 劉豹がすなわち劉淵の父である。・・・劉豹の妻は呼延氏で、魏の嘉平年間(249-253年)に龍門で子を(妊娠することを)天に祈ると、・・・これより十三ヵ月後に元海が生まれ 、左手に(あった)文字にその名が記されていたため、そのまま(淵と)名づけた。・・・のちに秦州、涼州で(起こった反乱により)軍隊が壊滅状態となったとき〔禿髪樹機能の反乱のこと。咸寧5年=279年ころか〕、・・・たまたま(父の)劉豹が卒し、(晋は)劉淵を(劉豹の)代わりとして左部帥とした。太康年間(280-289年)の末、北部都尉を拝命した。
 年号=西暦年に注目して欲しい。単純に数えただけでも、劉豹は100歳を越えてそうであることにお気づきだろうか。劉豹が没したのは禿髪樹機能の反乱後のこと、とりあえず280年ころとしておこうか。一方、劉豹は188年に左賢王になったことになっているが、そういう地位に就くためにはいっぱしの年齢である必要があろう。仮に若く見積もって、これを15歳のこととする。とすると、彼の生年は数え年でさかのぼって、174年となる。かなりギリギリのラインで生没年を見積もってみても100歳を越えてしまった。なんというジジイ。
 それだけではない。このジジイが劉淵を得たのが、249-253年のころなのだ。つまり、さきの年齢で仮定してみれば、70歳を越えてようやく劉淵を子に得たことになる。なんというクソジジイ。ちなみに劉淵には、兄に劉延年、弟に劉雄という人物がいることがわかっている[4]。劉淵のあとにも子を産んだのか、お盛んなやつめ。
 わたしはこの唐氏の指摘を読むまで、こんな系譜上の違和感に全く気付かなかった。もう驚いたのなんの。
 また、唐氏は言及していないが、もう一人怪しい人物がいる。
 こういう場合、図にしてみる、というのは本当に価値があることである。漢字の羅列では見えづらかったものが見やすくなってくるからだ。ということで、先日の記事を見返していただきたい。どう見てもおかしい人物がいないだろうか。そう、劉宣である。劉宣は劉淵の「従祖」とある。劉淵の祖父の兄弟という意味である。劉淵の祖父は於扶羅たちであるが・・・こんな後漢末のやつらと同世代だと!? おいおいよお、劉宣が他界したのは永嘉二年=308年だぜ!?[5] 劉豹が没しておよそ20年して没しているということは、どういうことなんだ、もう算数とかめんどくさいからやんないけどけっこう長生きしてるってことじゃん? けっこうというか異常と言うべきだろうか?
 いやー、すごいすなあ、劉氏は。こんだけ長生きな一族だとは恐るべし。なんていうことを言いたいのではもちろんない。いくらなんでもこの系図には無理があるんじゃないの、というより改竄されてるんじゃないの、ということが言いたいのである。『三国志』にすでに劉豹が登場することからして、曹魏後期ころに劉豹が存在したのは確実だ。その劉豹の子が劉淵、劉豹のおじが劉宣であるという続柄も確実であると仮定して特に問題ない。劉豹と劉宣の活動年代が後漢末まで引き延ばされてしまうから問題が起きてしまうのである。そこら辺で系図の改竄がなされている可能性が高いのではなかろうか。

 と、まあ自分の意見や感想も混じり混じりになってしまったが、唐氏は劉豹の活動年代が不自然であることを指摘し、劉豹が無理矢理後漢末にまで引き延ばされている形跡を指摘したのである。

 もう一つの唐氏の重要な論点は、「屠各種」についての議論である。

 が、なんかもう書くの疲れし、けっこう長くなったから「屠各種」についてはまた気が向いたら。


――注――

[1]ちなみに、後述する唐長孺氏は、この『晋書』北狄匈奴伝の記述は、劉宋・何法盛『晋中興書』からコピペした記事であると指摘している。というのも、『晋中興書』の佚文に「胡俗、其入居塞者、有屠各種最豪貴、故得為単于、統領諸種」と、類似したものが見られるからである(『文選』巻44所収陳琳「為袁紹檄予州」の李善注引)[上に戻る]

[2]岡崎文夫『魏晋南北朝通史』(弘文堂、1932年)内篇第二章第二節pp. 139-140. 内篇なので、東洋文庫版にも記述があるはず。[上に戻る]

[3]唐長孺「魏晋雑胡考」(同氏『魏晋南北朝史論叢』生活・読書・新知三聯書店、1955年)[上に戻る]

[4]劉延年については『元和郡県図志』巻13「大干城在文水県西南十一里、本劉元海築令兄延年鎮之、胡語長兄為大干、因以為名」。
劉雄については『金石録』巻20「偽漢司徒劉雄碑」に「偽漢劉雄碑其額題『漢故使持節・侍中・太宰・司徒公・右部魏成献王之碑』。碑云、『公諱雄、字元英、高皇帝之胄。孝宣皇帝玄孫、値王莽簒竊、遠遁辺朔、為外国所推、遂号単于。累葉相承家雲中、因以為桑梓焉。』雄、劉元海弟也」。[上に戻る]

[5]『資治通鑑』巻86・永嘉2年10月の条「丙午、漢都督中外諸軍事・領丞相・右賢王宣卒」。この記事は『資治通鑑』にしか見えない。日付まである詳細な記事であることからすると、北魏・崔鴻『十六国春秋』あたりから取ってきたものと思われる。[上に戻る]