2020年12月19日土曜日

唐修『晋書』職官志の「位従公」について

 『晋書』職官志に次のような記述がある。

驃騎・車騎・衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国等大将軍、左右光禄・光禄三大夫、開府者皆為位従公

驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国などの大将軍、左光禄大夫、右光禄大夫、光禄大夫で、開府辟召を授けられた場合はみな「位従公」となる。

 特定の官にある者が開府を加えられた場合、「従公」という位、つまり公よりワンランク低い位になるのだ、と読めそうである。
 が! ちょっとまってほしい。末尾をよく見ると、「為従公」、すなわち「従公と為る」とある。はたしてこれは「位が従公と為る」という意味なのだろうか。そのように読もうとするにはやや違和感のある語順である。

 そう思い調べてみると、たとえば『通典』に載せる晋官品の第一品に「諸位従公」と、やはり「位」の字が付いているし、『南斉書』の百官志でも特進などを「位従公」と言っている。ほかの用例を調べてみても、用例の多くが「位従公」である。
 いっぽう、公や卿は「諸公」「諸卿」であって、「諸位公」「諸位卿」ではない。

 言いたいことをうまく表現できないのだが、ようは「位従公」の「位」は不用意に外さないほうがいい文字なのではないだろうか。この三字を「従公という位」と読んだり、はたまた「位」を省略して「従公(となった)」と読むのは不適切なのではないだろうか。この三字はあくまで「位従公」ひとかたまりで読むべきではないだろうか。

 だとすればこれは何を意味するのかというと、「位は公に従う」=「朝位は諸公に準じる」ということではないかと考える。
 「位」=朝位は席次を言うが、ここで「公に従う」のはもちろん朝位のみを指すのではなく、朝位によって可視化されるところの礼的な場における序列のはずであろう。
 私が何を言いたいのかすでに察した方もいるかもしれない。私は「位従公」を「儀同三司」と同じ意味だと捉えたいのである。
 あくまで「朝位は公に準じる」という朝位が存在したのであり、それがのちに簡略に表現されてたんに「従公」と呼ばれるようになったとしても、はじめから「従公」なる朝位が設けられていたのではないように思われる。

 さて、このような解釈にもとづくと、職官志の「位従公」――職官志では「開府位従公」とも表記される――に関する規定も理解がしやすくなるはずである。
 たとえば次の文。

 太宰、太傅、太保、司徒、司空、左右光禄大夫・光禄大夫開府位従公者為文官公、冠進賢三梁、黒介幘。
 大司馬、大将軍、太尉、驃騎・車騎・衛将軍・諸大将軍開府位従公者為武官公、皆著武冠、平上黒幘。
 文武官公、皆仮金章紫綬、著五時服。……。
 諸公及開府位従公者、品秩第一、食奉日五斛。

 太宰、太傅、太保、司徒、司空、および開府位従公の左右光禄大夫と光禄大夫は文官公であり、進賢三梁冠をかぶり、黒介幘である。
 大司馬、大将軍、太尉、および開府位従公の驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍は武官公であり、みな武冠を着用し、平上黒幘である。
 文官公と武官公はみな金章紫綬を授けられ、五時服を着用する。……。
 諸公および開府位従公は、品秩第一、俸禄は一日につき五斛。

 朝服の詳しい形などは私もさっぱりわからないので説明はできないのだが、諸公(太宰などの上公や司徒などの三司)と「開府位従公」との間には朝服や官品などにまったく違いがない。
 厳密な朝位はもちろん諸公のほうが上であっただろうとは想像されるものの、礼遇は基本的に諸公に等しい、つまり「儀同三司」である。
 冒頭に引用した文の「開府を授けられたら「位従公」となる」というのは「開府を授けられたら儀同三司となる」という意味であり、「開府位従公」というのは「開府儀同三司」の意味である。

 しかし、私のこの解釈は、すでに「儀同三司」というのがあったのに、なぜ「位従公」という別の言い方をするのか、という疑問が生じてしまう。
 思うに、儀同三司はもともと「儀は三司に同じ」という特別待遇のことを言っていたのに、いつしかこの語で固定化して「儀同三司」という特別な称号ないし散官のようなものになってしまったため、かつては「儀同三司」の語で表現したかったことを「位は公に従う」と言うようになったのではないか。まあ、すごく苦しい理屈ですね。
 とりあえず、職官志の「位従公」は「儀同三司」の意で取ると文意が通じるように思われるので、さしあたりはこの解釈に従いたいと考えている。

***
 ついでにもう少し。
 職官志には次のような文もある。

驃騎已下及諸大将軍不開府非持節都督者、品秩第二、其禄与特進同。置長史、司馬各一人、秩千石。……。

驃騎将軍以下(驃騎・車騎・衛の三将軍)および諸大将軍で、「不開府」かつ持節都督でない場合、品秩第二、俸禄は特進と同じ。府に長史と司馬それぞれ一人を置く。長史と司馬は秩千石。……。

 この文、変に思わないだろうか。「不開府」であるのに長史や司馬を置いている、つまり府はあるのである。
 ここで、文のはじめに指定されている「驃騎已下及諸大将軍」が冒頭で引用した「位従公」の規定に見えている将軍号であるのに注意しよう。
 これらの将軍が「不開府」だというのは、「位従公」とならなかった、ということである。そしてそれは、私の解釈にもとづけば、「儀同三司」とならなかったという意味である。
 すると上に引いた文は、驃騎等の将軍や諸大将軍で(開府)儀同三司にならず、かつ持節都督でもない場合は、諸公および開府位従公よりも規模の小さい府を開く、という規定を記しているのではないだろうか。

 このような解釈が成り立つと、ここの「不開府」や冒頭の引用文の「開府者皆為位従公」という場合の「開府」というのは、じつは実質的な意味がない、ということになってしまう。
 「開府」を加えられることによって、はじめて府を設けて属僚を辟召する権限が与えられるのではなく、「ふつうの驃騎将軍ではありませんよ」「ふつうの光禄大夫ではありませんよ」ということを示したいためだけに加えられるもの、あるいは儀同三司とするために加えられるものと考えなくてはならなくなってしまう。
 さすがにそこまで考えるのはおかしいと感じており、調べなおしたいところなので、「開府」に関しては結論めいたものを出さないでおく。

 正直、いままで開府とか儀同三司とかたいして注意して見ておらず、どういう官位の者に開府が加えられているのかまったく考えてなかった……。すいません……。
 もしすでにこれらのことを論じている文章があればご教示いただけると助かります。

2020年11月28日土曜日

唐修『晋書』に見える「臺」について

 『晋書』で「臺」と見かけたとき、私は反射的に「尚書臺」といままで読んでいたのだが、どうもそれはまずいのかもしれないと最近になって気づいた。
 まず例を二つ挙げてみよう。(訳文は拙訳「晋書簡訳所」から引用。一部漢字表記を改めてある。)

及李流寇蜀、昌潜遁半年、聚党数千人、盜得幢麾、詐言遣其募人討流。(巻100、張昌伝)

李流が蜀を侵略すると、張昌は半年間潜伏して人目を避け、徒党を数千人集め、幢麾を盗み、「の使いだ。人を募集して李流を討伐せよとの命令である」と偽って言った。


朝廷遣使諷諭之、峻曰、「下云我欲反、豈得活邪。我寧山頭望廷尉、不能廷尉望山頭。往者国危累卵、非我不済、狡兔既死、猟犬理自応烹、但当死報造謀者耳」。(巻100、蘇峻伝)

朝廷は使者をつかわして説諭したが、蘇峻は言った、「下は、私がそむこうとしていると言っているそうじゃないか。〔そのようななかで中央に行ったら〕命を保つことができようか。廷尉から山の頂上を眺めるなんてもってのほかで、それなら山の頂上から廷尉を眺めるほうがましだ。かつて国家が累卵の危難に陥ったとき、私でなければ救済することはできなかった。〔だが〕狡猾な兎が死ぬと、猟犬は道理からしておのずと煮殺されるもの。それならば、死して謀反をでっちあげる者に報いるのみよ」。

 張昌伝の引用箇所は拙訳の訳注にも記したように解釈に自信がないものの、私はここに見える「臺」を「尚書臺」の意で取った。ここはそのように取って不都合はなさそうに見える。

 いっぽう、蘇峻伝のほうはどうであろうか。これまた訳注に記したことだが、この蘇峻の発言は『建康実録』顕宗成皇帝、咸和元年十月の条に「己巳、庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛、誅之」とあるのを受けてのもの、すなわち南頓王が蘇峻と結託して謀叛していると庾亮がそしったことを「臺下云我欲反」と言っているのだと考えられる。この当時、庾亮は中書監であったから、ここの「臺下」は中書臺の庾亮を指していると見れなくもなく、そうすると「臺」は必ずしも「尚書臺」の意ではないのかもしれないと思いたくなる。

 しかし、ではこの「臺下」を「尚書臺」と読んで支障が生じるのかと言われると、とくに問題はないようにも思われる。というより、「尚書臺」と取ってもよいし、そこから意を拡張して「中央政府」とか「天子」とまで読んでしまってもいいのかもしれない。つまり、語が表現しているのは「尚書臺」なのだけれども、その語が指示しているのは、尚書が中心となって運用されている「中央の政府」であり、だから日本語に訳すときは、「尚書臺」と訳せば少なくともまちがいではないが、文脈によっては「中央」のような意で訳出したほうが適した表現になるのかもしれない。蘇峻の「臺下」に関して言えば、「中央(の政府)」と訳したほうが適当であろうと感じる。

 そしてあらためて張昌伝を見なおしてみると、「臺遣」も「中央からつかわされた使者」という意味で読めるし、というよりそう訳したほうがむしろしっくり来るかもしれない。

***
 ついでだが、『晋書』には「行臺」「留臺」という語も頻出する。
 一般的には、「行臺」は「都の外に置かれた尚書臺」、「留臺」は「天子が都を離れて以降も都に留まっている尚書臺」を言う。
 つまり、これらの「臺」は「尚書臺」を意味すると考えるのが通常である。

 だが、『晋書』巻81、蔡豹伝に「於是遣治書御史郝嘏為行臺、催摂令進討」とあり、読んだときに「なんで侍御史を行臺にするんだ、しかも戦闘の催促に尚書が必要なのかな」と違和感を覚えなかったわけではなかったが、上記のような意味以外に「行臺」を読もうとまでは考えず、拙稿にもそのつもりで引用してしまっていた。
 いま考えると、ここの「行臺」の「臺」は御史臺であったのかもしれない。「臺」といえば「尚書臺」、まして「行臺」であればなおさら、という先入見があまりに強かったゆえに他の可能性を考えられなかったのである。

***
 ところで、「臺」を含む成語に「三臺」というものがある。漢代、この語は尚書臺、謁者臺、御史臺を指して用いられることがあったようで、尚書臺に関連する成語と見なすことができる。魏晋以降は尚書、中書、御史の三つを「三臺」と呼んだらしいが、かかる意味での使用例は少ないように思われる。

 似た成語に「三台」というものもあり、こちらは星座の名称で、三公を比喩する。これまでいちいち「臺」字を使ってきたのは、この(現代の日本語から見れば)ややこしい成語が存在するためである。

 しかし「三臺」の用例をチェックしていくと、数はわずかながら、どうも尚書を含まないケースがあるらしい。
 たとえば『宋書』や『南斉書』に「三臺五省」という語が見える。この場合、尚書は「五省」のほうに含まれていると考えるのが妥当だと思われる(尚書省、中書省、秘書省、門下省、残りひとつは散騎の省?)。
 そうだとすれば、「三臺」は御史臺、謁者臺、あとひとつはよくわからないが(『隋書』巻27、百官志中に載せる北斉の制にはこの二つのほかに都水臺(都水使者)がみえている)、ともかく尚書臺ではないはずである。

 これとは別に、数はぐっと減る、というかいまのところ応詹伝しか見つかっていないのだけど、「三臺九府、中外諸軍、有可減損、皆令附農」という語もある。
 「九府」は「九卿」の意であることからすると、この場合の「三臺」は「三台」すなわち「三公」の意であろうと思われる。
 だが、本当にここの「三臺」を「三公」で取ってよいのだろうか。『晋書』巻67、温嶠伝に「三省軍校無兵者、九府寺署可有并相領者、可有省半者、粗計閑劇、随事減之」とあり、この文の「三省」は「三臺」と同義であるかのごとくであり、かつ「三省」といえば尚書、中書、門下もしくは秘書を指すはずであろうから、「三臺」もそれら尚書などを指すと考えるべきとも思えてくる。
 しかし、かの温嶠伝の記述は、「三省」で「無兵」のところがあれば「減」ずべし、という温嶠の提言であるのだが、そもそも尚書などは兵を有するのだろうか、また場合によっては省いてもよい官署なのだろうか。ありえないはずである。
 温嶠伝の「三省」が何を指すのかはけっきょくわからないのだが(「軍校」は「四軍五校尉」を指すと思う)、「三臺」とはあまり関連がないか、あったとしても「三台」(三公)のほうだと思う。

 話が本筋から逸れてしまったが、「三臺」が「三台」(三公)をも意味するかもしれない例としては、『晋書』巻59、斉王冏伝に「司徒王戎、司空東海王越説冏委権崇譲。冏従事中郎葛旟怒曰、『(中略)三臺納言不恤王事、(中略)』」というのもおそらく「三公」の意で「三臺」と言っている可能性が高い。
 そんなに多く見られるわけではないのだが、「臺」のつもりで「台」を使っているらしい用例はほかにもあるにはあったので、字のちがいはあるていど柔軟に考えてもよさそうである。

 さらに、どうもそれらよりもずっと広い範囲の官署を「三臺」と読んでいるのではないかとおぼしき例もある。『晋書』巻45、劉毅伝附暾伝の「恵帝復阼、暾為左丞、正色立朝、三臺清粛」である。劉暾が尚書左丞に就いて「三臺清粛」というのだから、この「三臺」は端的に「尚書臺」を指しているかのようだが、直前の文に「正色立朝」とあることからすると、「清粛」したのは中央政界全体であったのではないだろうか。そう考えてよいのならば、ここの「三臺」は「中央の政府」くらいの意味になってしまうだろう。

 以上を整理すると、

(1)「三臺」には尚書を含んだ臺を指す場合と、尚書を含まない臺を指す場合がある。体感的には、魏晋代は後者のケースが多い。
(2)「三臺」で「三台」すなわち「三公」を指す場合がある。
(3)「三臺」で「中央の政府」を指す場合がある。

 これ何かの間違いなのでは・・・? と思っているので、詳しい方がいらしたらご教示いただきたい。

***
 もうひとつめんどくさい成語に「臺府」がある。
 斉王冏伝に、冏が「符勅三臺」したという記述が見えるのだが、これが『宋書』巻30、五行志一だと「符勅臺府」に書き換えられている。
 じゃあ「三臺」と「臺府」は同義なのだろうか。

 「臺府」の用例を見るかぎり、たいていは「中央の各官署」を指しているように見受けられる。『晋書』巻105、石勒載記下は「台府」の用例ではあるが、「命郡国立学官、毎郡置博士祭酒二人、弟子百五十人、三考修成、顕升台府」とあり、この「台府」は尚書臺か中央官署の府を指すのではないかと考えらえる。あるいは「三臺九府」を略した書き方が「臺府」なのかもしれない。
 『漢語大詞典』は、いま述べた「中央の官署機構」の意味以外に「御史臺」の意味を挙示している。もっとも、その根拠はよくわからないというか、これ以上調べる元気が出ないのでもう終わりにしよう。

 ともかく、いちおう「三臺」と「臺府」には共通する語用があるようである。とはいえ、その共通の語用で斉王冏伝の「符勅三臺」が読めるのかどうかはわからないのだが。

 史料も思考もぐちゃぐちゃになっていて整理できていない気がするので、後日きちんと再考します。とりあえずメモがてら。

2020年9月29日火曜日

【お知らせ】本ブログに掲載の「宋書百官志訳注」について

 このブログを開設した当初くらいから連載投稿していた「宋書百官志訳注」ですが(最近はぜんぜん投稿していませんが:)、今年に開いた別サイト(https://readingnotesofjinshu.com/)のほうに移そうと思います。

 それで実際のところ、こちらで公開している「訳注」(と称させていただいているもの)については即時すべてを非公開にしたいところなのですが、読みなおし作業の効率上、しばらくは公開したままにしておきます。
 作業がひと段落つくごとに、順次非公開にしていく予定です。
 さしあたりこの投稿を作成している現段階で、(1)は非公開にしてあります。

 そういうことになりますので、どうぞご了解願います。


2020年3月5日木曜日

論文を書きました

 拙論が公刊されました。

「東晋元帝期の北伐の理解をめぐって」、『史滴』第41号、2019年12月、pp. 47-70



 すでにいくつか反省点があり、銭大昕の引用がやや恣意的だとか、外征の事例をいろいろ挙げているけど司馬勲を挙げ忘れているとか、いろいろと自分に甘かったのが原因です……。

 企業に勤めながら書きましたが、やはり時間の確保が課題だなあと。
 といっても、職場に急な事件が起きないかぎりはほぼ毎日18時前には退勤できるし、まずい事態になっても月の時間外労働は30時間を超えるかな?程度なので、環境的にはめぐまれているでしょうが、それでも時間が足りないような気がして、つねにせわしなさを覚えていました。

 ようは、朝と夜は決まった時間になったら作業を中断しなければならないんですよね。「この作業キリがいいとこまでやりたい……!」というのができない。これはだいぶストレスでした。そして、限られた時間でなるべく先まで進めなきゃという焦りをいつも感じてしまう。

 給与があって作業できているわけだし、仕事をおろそかにしてまで作業に没頭するのは明確におかしい。有休とって作業あてるのはぜんぜん良いと思うんですけど、その結果同僚に負担かけまくるというのもちがうでしょう。連日定時ダッシュだったので、「いまこういう事情あります」的なことは言っておいたかな。ただそれでどう思われるかは自分の日ごろの振る舞いにも左右されるだろうから、一概に同僚に伝えておくのが良いとは言えないと思います。私は職場でまあまあ良いヤツキャラしているので、(表立って)反発されることはありませんでした。
 仕事でやることはきちんとやって、そのうえで執筆の作業を進めることに意味があると私は思っていました。時間を長くかけてコツコツやるしかないですね。

 もうひとつキツかったのが資料でした。母校の図書館をおおいに利用させていただきました。
 母校の図書館は、ジャーナルや書籍はだいぶそろっています。OBでも手続きをとれば書庫に自由に入れるようになるので、論文の複写は困りませんでした(そもそも図書館に寄るのがめんどくさかったというのは措いといて)。
 中国語の文献もだいぶ収蔵されていますが、やはりないものもあります。そういうもののなかで、どうしても参照しないとまずそうだと思ったものは、東方書店でCNKIカードを購入し、CNKIからPDFをダウンロードしました。このカード、だいぶいい値段しますので、最終手段的な感じがいいかと思います。

 ただ、OB生に書籍の貸し出しをしていないことには少し参りました。そこそこ厚い研究書とか借りることができないので、関係の深そうな章を複写していくしかなく。索引である程度のあたりをつけ、必要そうな章を複写、という感じで私はやりました。一日図書館にこもってもよかったかもしれないですが……。
 1冊まるごとぜんぶ読まないといけないかも、みたいなそういう感じの書籍は、めんどうだったのですべて買ってしまうことにしました。古本、新本、セールやら何やら、とにかく集めました。学生時代とちがって多少はお金あるんで。中国語の本は天猫で購入してしまいました。

 大学図書館のOB生への利用規定は大学ごとにちがうらしいので、上記のような環境ばかりではないでしょう。なお私は、国会図書館とかそういうとこには行きませんでした。

 今後どうするのかはあんまり考えていないですね。晋書の個人訳を掲載するサイト(https://readingnotesofjinshu.com/)を開設したのでよければそっちも見ていただければ嬉しいです。


2020年2月29日土曜日

サイトを開設しました

 ツイッターではすでに告知したのですが、『晋書』の個人訳を掲載するサイトを開設しました。

晋書簡訳所 https://readingnotesofjinshu.com

 現段階では宣景文三帝以外の帝紀をアップしてあります。今後は月に一回程度の更新を目標に列伝や載記を上げていこうと思います。西晋末から東晋初のものが中心になるかと。

 サイトの開設に伴い、こちらのブログは研究ノート的なところにしようかなと考えています。
 消去してもいいんですが、無料ブログだから料金かかっていないし、コンテンツの移行とかちょっと気が起きないなというもありますし、たまに何かを書きたくなることもあるので残そうと思います。

 『宋書』百官志の訳が途中になってしまっているのですが、これはまあ……。あれは通典、太平御覧、晋書職官志、続漢書百官志で関連する記述をチェックし、注釈にまとめるということを律義にやっていたんですが、途中でそれがすごく苦痛になりました。気が起きないときは手を抜きたいんですよね。
 今回の晋書サイトはそのことを反省し、注釈とか出典とかは気が向いたらつける程度にしてあります。継続できるといいんですけど……。サーバーを一年契約でレンタルしてしまったので最低でも一年はやりますが。

 「きみはいったい何をしたいの」と思う人もいると思いますが、なんとなくです……。計画性はとくにありません。