2015年11月3日火曜日

「闕」ってなんのことだろうって前々からずっと気になってたけど雰囲気でなんとなくわかってるつもりになっててごめんなさい

西晋・崔豹『古今注』都邑篇より[1]

「闕」とは「観」〔物見台〕のことである。いにしえは一つの門につき二つの観を門の前に建て、宮門の目印とした。観の上は座ることができるだけのスペースがあり、登れば遠くまで眺めることができるので「観」と呼ぶ。人臣が朝廷に上るとき、ここまで来ると自分の闕(=欠)けているところを反省する。そのためここを「闕」と呼ぶ。上〔屋根?〕はすべて赤い粉末で塗装されており、下〔下部の外壁?〕には気や神仙、珍獣が描かれ、図柄によって四つの方角を示している。蒼龍闕には蒼龍、白虎闕には白虎、玄武闕には玄武、朱雀闕の上には二匹の朱雀が描かれている[2](闕、観也。古毎門樹両観於其前、所以標表宮門也。其上可居、登之則可遠観、故謂之観。人臣将朝、至此則思其所闕、故謂之闕。其上皆丹堊、其下皆画雲気仙霊、奇禽怪獣、以昭示四方焉。蒼龍闕画蒼龍、白虎闕画白虎、玄武闕画玄武、朱雀闕上有朱雀二枚。)

 またテキストの校注者は『釋名』釋宮室の一節を引用している。「闕とは闕のことである。門の両端にあり、真ん中は闕然(がらん)としていて道をつくっている(ので、門の両端にあるものを「闕」と呼ぶようになった)(闕、闕也。在門両傍、中央闕然為道也)」。

 いままでどういうものを「闕」って言ってるのかたいして理解しようとしてなかった・・・ごめんわかってあげられなくて。
 これからは「闕」って出てきたら、それは「宮門の両端にあるやつで、なんかマンガとかにもよく出てきそうな雰囲気のあるよくわかんねー長いやつ、転じてだいたい宮門のことらしい」って理解すれば良いのだな! 「闕」と呼ばれるゆえんも知ったからもう忘れてやんねー。

 『古今注』にはこのほかにもおもしろそうな豆知識満載なので、これからちょくちょく紹介するかも?



――注――

[1]テキストは牟華林校箋『《古今注》校箋』(線装書局、2015年)を使用した。底本は明嘉靖年間の『四部叢刊』(覆宋本)。校勘や語釈が充実しているテキストである。附録として佚文や明清ころ?の知識人の跋文やらなにやらがいくつか収録されている。
 撰者の崔豹については『世説新語』言語篇・劉孝標注に引く『晋百官名』に「崔豹字正熊、燕国人、恵帝時、官至太傅丞」とあるほか詳細不明。『古今注』はさまざまな事物の名称の由来を中心に雑学知識を集めたもの。古今の事物の注解を書きました、って感じだね。現存する本は全三巻八篇(輿服、都邑、音楽、鳥獣、魚虫、草木、雑注、問答釈義)。隋書経籍志は三巻、旧唐書経籍志は五巻、新唐書芸文志は一巻と伝世文献の目録では構成にバラつきがあるが、上記附録に収載されている南宋の『群斎読書志』関連記事は全三巻全八篇で上記の篇名を記録しているそうなので、まあ巻数にバラつきはあっても全体の構成は(少なくとも南宋ころから)あまり変わっていないのではなかろうか。佚文がそこそこあったり字句に混乱があったりと、現在の本にはちょこちょこ散佚やら錯簡があるようだ。
 崔豹の『古今注』は成立とか本のこととかあんまり詳しくないのだが、残念なことに上記の校注本には解題がない(この部分は本当に残念!)。附録にある前近代知識人の感想文やら考証やらを読んで察しろ、というスタンスなのかもしれない。
 ともかく、附録をおおまかに参照して私なりにまとめておくことにする。

 現在伝わっている崔豹『古今注』には偽書疑惑がかけられていた。代表的なものが『四庫全書総目提要』で、そこで問題点とされているのは二つある。まず一つに、現今の崔豹『古今注』は後唐の馬縞『中華古今注』(後述)と非常に酷似している、つまり両書の出所は同一ではないのか、ということ。もう一つに、崔豹の『古今注』は北宋から元にかけて失われている可能性がある、例えば『太平御覧』は崔豹の『古今注』を引用していて『中華古今注』を引用していないのに、『文献通考』はその逆であること。この二点から、崔豹の本は北宋~元に失われたのであり、現今の崔豹本は馬縞のものをもとにして作成されたものである、というのがどうやら提要の見解みたいである。

 これに反論を加えているのが余嘉錫。まず一点目の問題について。そもそも『中華古今注』ってのは何なのだねという話なのだが、撰者の馬縞の自序には「崔豹の本は博識だけど、ところどころいたらないところがあって残念だなあと思ったからオレが新たに注を加えたよ、書名も変えてみたよ」ってある(そうだ)。つまり『古今注』の注っていう位置づけになるのだろう。したがって余嘉錫は、『中華古今注』が崔豹の『古今注』と大部分同じであるのは『古今注』本文をほぼそのまま収録して一部加筆・改変したにすぎないからだ、と主張している。また彼によれば、明の覆宋本『古今注』と『百川学海』本『中華古今注』とを比較し、馬縞が独自に加筆したところを調べてみたところ、55条「も」加筆があったそうで、しかもその加筆は崔豹本文への追加の注は除いた合計数、つまり崔豹の本文ではもともと取りあげられていなかった題材・記事の加筆数をカウントしたもので、注の追加も数えたらもっとあるんだけど?と嫌味をたれ、「どーーーこがまったく同じなんだ」と息巻いている。コイツまじでやばくない?

 二点目の問題だが、まず余嘉錫も指摘していることで問題の核心にはあまり関係がないが、そもそも北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』を下敷きにしていると言われているもので、『修文殿』が後世の『中華古今注』を参照できるはずがないのだから、『太平』に『中華古今注』が引用されていないというのはありうることである。なので『太平御覧』のみを論拠にして、「この時期まではこの本はあったがあの本はなくて~」と論じるのは少々不適切ではないだろうか。
 だがこれは大して重要な論点ではない。『文献通考』にはどうして崔豹本が著録されていないのか、というのが重要である。そこで余嘉錫が『通考』の撰者・馬端臨の参照したという北宋~南宋期の3つの目録書を調べてみたところ、どの本にも崔豹本が記録されているじゃあないかと。これはたんに馬端臨がたまたま見落としてしまったにすぎないのであって、南宋にもちゃんと崔豹本はきっちり伝わっているしぃ、てかそもそも『文献通考』の経籍考ってその書物が現存しているかどうかに関係なく記録していたのだから、「『通考』にない=当時現存していなかった」なんて等式は成り立たないんですけど?、そんなことも知らねーーーの???、と完全に彼はエクスタシーしています。

 というわけで、提要の論拠をすべて論破した余嘉錫なわけだが、さらに彼は現今の崔豹本と隋唐宋代の書籍に引用されている『古今注』の文を比較検討してみたところ、やはり現本は引用文の「本体」といえる確かさがあり、宋人や明人が佚文やらを拾い集めてつくった偽書とは一線を画しているという。このあたりの感覚はわりかし信用してもいいんじゃなかろうか。

 以上、偽書疑惑について簡単にまとめてみた。私が詳しくないばっかりに現在ではどういう扱いになっているのかわからないが、提要の疑念は確かな根拠にもとづいているとは言えないし、そもそも宋史芸文志にも崔豹『古今注』って採録されているし。北魏・崔鴻『十六国春秋』のように、宋史芸文志には記録がないのに明代にぽっと本が出てくるようなものとは問題の質が違っている。「じつは一度散佚していていま残っているのは後世の偽書だ」と言われたら確かに「そうではない」証拠を出すことはできないのだけど、逆に「散佚している」証拠もないのであって、いちおう余嘉錫に従って、現今の『古今注』は崔豹の原本だと見ておいて良いのかな、たぶん。
 てかこの2015年のテキストもさー、研究助成?かなんかで出版したらしいのだけど、それってつまり長らく『古今注』テキストを研究した成果がコレ、ってことなんでしょ。だったらテキスト問題の解題くらい書いて、研究の結果どう結論が出せそうか表明しておこうよ・・・。購入してから解題がないことに気づいた私もアレですけど。[上に戻る]

 

[2]原文は「朱雀闕上有朱雀二枚」。校注者によれば『古今事文類聚続集』は「上有」を「画」に作っており、おそらくこちらが正しいだろうとしている。私もそう思うが、とりあえず訳文では原文を尊重しておいた。また「蒼龍闕」以降の文は別の本だと改行されている、すなわちその前の闕の文とは別扱いになっているそうだ。ここでは使用したテキストに従い、すべてをまとめて一条と見なすことにする。[上に戻る]

2015年10月4日日曜日

南朝の変人やヴぁすぎ




 劉宋の高祖・劉裕の知恵袋に劉穆之という人がいました。
 劉裕の幼馴染のような間柄で、東晋末年に劉裕が北のほうへ軍事行動を起こしたときは、彼が建康で留守を守って一手に政務を決していた。劉裕からの信頼もかなり厚かったらしいが、激務がたたったためか、劉裕が皇帝になるまえに病没してしまった。劉裕は即位後、その功績を称えて南康郡公に封じている。

 その爵と封国は子孫にも継承され・・・、孫の劉邕にいたる。今回はこの劉邕についてのお話。『宋書』巻42劉穆之伝に附伝されている彼の伝から。

これより以前、郡、県が封国になった場合は(その郡県の)内史や相は国主に対して臣と称し、任期が終わればそれをやめることになっていた。孝武帝の孝建年間になって、はじめてこの制度が改正され、卑称は(臣から)下官に変更され、贈物を贈るように定まった[1]。河東の王歆之はかつて(制度改正以前に)南康相に就いていたが、平素から(国主である)劉邕を軽蔑していた。のちに王歆之と劉邕が元会〔元日における朝廷での儀礼・宴会のようなもの〕に出席したとき、席が隣り合った。劉邕は酒好きだったので、王歆之に言った。「あなたは以前、(私の)臣であったが、現在では一杯の酒も(私に)注げないのかな?」王歆之は孫晧の歌をまねて応答した。「むかしはおまえの臣だったけれど、いまはおまえと肩を並べている。おまえに酒を勧めることはしないし、おまえの長寿を願うつもりもない」。(先是郡県為封国者、内史、相並於国主称臣、去任便止。至世祖孝建中、始革此制、為下官致敬。河東王歆之嘗為南康相、素軽邕。後歆之与邕俱豫元会、並坐。邕性嗜酒、謂歆之曰、「卿昔嘗見臣、今不能見勧一盃酒乎?」歆之因学孫晧歌答之曰、「昔為汝作臣、今与汝比肩。既不勧汝酒、亦不願汝年」。)

 ちょい悲しいお話だが、まあまあまあ。可能な範囲で掘り下げてみましょう。
 まず内史や相は国主に対して「臣」と称した、という点について。「称臣」については尾形勇氏の古典的研究があるが、氏は漢代の「称臣」のパターンを検証したさいに、呉王濞の郎中であった牧乗が「臣乗」と自称している例を挙げている(『漢書』巻51牧乗伝。氏は正確には「陪臣」と称したであろうと指摘している)。もっとも、封国の官吏が国主に臣を称した例はこの一例しか見られないようである。氏は、漢代の「称臣」は皇帝に限定されて用いられており、それは皇帝権力の確立と関係があると論じているが、この一例を例外ないし逸脱とは見なさず、これもまた皇帝権力構造のなかで機能したものであろうと肯定している(尾形『中国古代の「家」と国家』岩波書店、1979、pp. 118-120、156-160)
 最近はいわゆる「郡国制」の理解が深められており、漢初の王(王国)は漢朝(皇帝)からあるていど独立して王国内の行政を執っていたらしい、という側面が強調されている[2]。なので、陪臣が「臣」と自称していた可能性は十分あり、じゃないですかね。とはいっても、「郡国制」秩序が変化していった武帝期以後もそうであったと言えるのかはあんまり詳しくないからわからないが。
 魏晋以降については、徐冲氏により国主への「称臣」があったことが指摘されている[3]
 というわけで、おそらく漢代以来つづいていたと思われる慣習が孝武帝のときに突如改められたわけだけれども、これはいったいどうしてだろう。
 孝武帝といえば、とまずイメージでいうと、皇帝権力の確立に腐心した皇帝、かなと[4]。そんな彼のことだから、どうも「外」が権力をもつことに非常に警戒心を抱いていたらしい。『宋書』百官志の録尚書のところにも次のような記述が見える。

およそ重号将軍や刺史であれば、みな属官の任用を自分の裁量ででき、(皇帝直任官の)任命や(属官に)節を与えることができなかったのみで(それだけで権限が非常に大きく、これに録尚書事を加えると内外の要事を一手に握ることになるので)、宋の孝建年間、権力を朝廷の外〔地方に出鎮する将軍や刺史〕に与えたくなかった孝武帝は、録尚書事を廃した。(しかし)大明年間の末年に復置された。以後、置かれたり置かれなかったりした。訳注(9)

 とりわけ孝武帝が警戒したのはおそらく皇族であった。劉宋は東晋と違い、中央の要職も地方の要衝も皇族を充てる人選をおこなっていた。文帝の元嘉27年の北伐でも、東西各前線への指示は将軍・刺史・都督であった皇族たちがおこなっていたくらいにこの方針は貫かれている。すると、皇族たちが政治的権力をにぎるようになったためか、皇族間のいさかいがぽちぽち起きはじめる。文帝と彭城王義康、文帝と劉劭(元凶)・・・かくいう孝武帝も、父・文帝を殺害して帝位についた兄の劉劭を殺害して即位している。
 孝武帝が皇族への疑心を広げて、封国をもち独自に官府を組織できる異姓諸侯王一般へも向けたであろうことは想像の範囲内であろう。ここで想起されるのは上述でも触れた尾形勇氏の研究である。氏は、元来「称臣」は皇帝や天子のみを対象としておこなわれていたわけではなく、目上の人や上司に対してもおこなわれていたが、漢になってから徐々に、その対象が皇帝へ限定されるようになったと述べているのだ。「「称臣」の限定集中化は、皇帝権力の確立ということと表裏していたのであり、・・・「称臣」という事柄が、皇帝を頂点とする一元的支配体制のもとに置かれていた」(p. 158)
 孝武帝はおそらく、この原理を徹底的に推し進めようとしたのではないだろうか。諸侯王とその部下とが皇帝を介在させずに強固な紐帯を結ぶのを阻止すること、その一環として「称臣」という形式的・心理的臣従をやめさせること。当然ながら、王歆之のように「称臣」していたからといって心まで売ってない場合があるわけで、「称臣」の心理的内面化の効果を過大視してもしょうがないが、まあ形的に臣を認めちゃってるしね。
 なお『隋書』巻26百官志・上の梁武帝・天監の改革前の記述のうちに、「諸王公侯国官、皆称臣、上於天朝、皆称陪臣」とある。彼の死後まもなく改められた可能性が高いのではないかな。

 それにしてもここまで話を展開できるとは予想外でした。最初はとくに深めるところはなさそうだなと思ってたけど、調べているうちにあれもこれもと、いやーつながっちゃったね。しかし本当に申しわけないんですが、上の称臣の話題は正直どうでもいいことでした。ゴメン。

***
 冒頭に引いた劉邕と王歆之のエピソード。おもしろいところというか盛りあがるところというか、話の見せ場は王歆之がやり返したって場面だね。この箇所、孫晧のまねをしたとある。これはいったいどういうことだろう。王歆之が言っているのは次の逸話に違いない。『世説新語』排調篇より。

武帝は孫晧にたずねた。「南人は「爾汝歌」〔爾も汝も「なんじ」の意〕をつくるのが得意と聞いたが、君はできるのか」。孫晧は杯を挙げて、武帝に酒を勧めて歌った。「むかしはおまえ〔原文「汝」、以下同〕と隣国だったが、いまはおまえの臣。おまえに一杯の酒を献じて、おまえの長寿を祝おう」。武帝は後悔した。(晋武帝問孫皓、「聞南人好作「爾汝歌」、頗能為不」。皓正飲酒、因挙觴勧帝而言曰、「昔与汝為隣、今与汝為臣。上汝一杯酒、今汝寿万春」。帝悔之。)

 「汝」は日本語で言うと「おまえ」みたいなそんな感じ。皇帝に使っていい言葉じゃないけど、使っていいよって武帝が言っちゃったばかりに・・・ってやつだね。
 そう、王歆之の歌も訳文で「おまえ」と訳したところはぜんぶ「汝」なんですよ。

〈孫晧〉
昔与汝為隣 むかしはおまえと隣国だったが
今与汝為臣 いまはおまえの臣
上汝一杯酒 おまえに一杯の酒を献じて
今汝寿万春 おまえの長寿を祝おう

〈王歆之〉
昔為汝作臣 むかしはおまえの臣だったけれど
今与汝比肩 いまはおまえと肩を並べている
既不勧汝酒 おまえに酒を勧めることはしないし
亦不願汝年 おまえの長寿を願うつもりもない

 こういうふうに意味をうまーく反転させたパロディなんですねー。ちなみに酒を勧めるときに「長寿を祝う」ってのは、皇帝に酒を献じるときに「万歳」「千万歳寿」って言うことですな。
 さらにちなみにの話ですが、劉邕は王歆之のことを「卿」と呼んでいるんだよね。丁寧語というか軽い敬称というか、「あなた」「君」みたいなニュアンスかな。いちおう丁重に呼んでいるんですよ。だから「汝」って突然言われちゃってすごくかわいそう。。。

***
 ところでこの劉邕、ちょっとした奇行があったらしいのだ。

劉邕はところかまわずかさぶたを食べるのが好きで、あわびのような味がすると言っていた。ある日、孟霊休のところへ遊びに行ったときのこと。孟霊休はちょっとまえにおきゅうで傷ができてしまっていたが、そのかさぶたがテーブルの上に落ちると、劉邕はそれを拾い取って食べてしまった。びっくりする孟霊休。「 好き なんだよなあ」と言う劉邕。孟霊休は残りのかさぶたを次々にはがし、ぜんぶ劉邕にあげた。劉邕が帰ると、孟霊休は何勗へ手紙をしたためた。「劉邕がかさぶたを食うのを向かい合って、しかとこの目で見たぜ。あいつそのうちかさぶたの食いすぎで全身から血が出んじゃねえか」。南康国の吏は約200人いたが、劉邕は罪の有無を問わず、(全員を)代わりばんこに鞭で打ち、そのかさぶたを食膳に加えていた。(邕所至嗜食瘡痂、以為味似鰒魚。嘗詣孟霊休、霊休先患灸瘡、瘡痂落牀上、因取食之。霊休大驚。答曰、「性之所嗜」。霊休瘡痂未落者、悉褫取以飴邕。邕既去、霊休与何勗書曰、「劉邕向顧見噉、遂挙体流血」。南康国吏二百許人、不問有罪無罪、逓互与鞭、鞭瘡痂常以給膳。)

 いやあ 驚いたね。
 かさぶたがあわびの味するってまじ? いや仮にしたとしてもあわび好きってわけでもないから食べないけどね。じゃあかさぶたがサッポロポテトバーベQ味したら食べるのかよって言われたらそりゃうーん、ちょっとやるかもしれないよ? でもそんなあなたさあ、人前で食べるぅ? それも友達の食べちゃう?
 この話のミソは孟霊休だよね。彼の鬼畜根性ときたら。そこはがしてまであげちゃうんかい。そこまでする必要あった? おもしろかったのかおまえ。それともおまえあれか、かさぶたは自然に落ちるまえの、あのギリギリのところでぴりぴりはがすのがたまんねえってやつか、はがしたついでにあげただけか。

 上の王歆之との関連で注目しておきたい箇所がひとつある。そう、いちばん最後の南康国の吏からかさぶたを強制徴収したっていうところ。王歆之は原文では「素軽(もとヨリかろンズ)」とあるが、おそらく彼は南康相の時代、この劉邕の行動を見て引いてしまったのではないだろうか。こいつようこんな効率的なシステムつくりやがったな、みたいな。

 なんか『宋書』っておもしろエピソードを積極的に、というかむしろそれだけを集めて収録している感がある。



――注――

[1]「贈物を贈る」の箇所の原文は「致敬」。『宋書』百官志の参軍の箇所にも用例がある訳注(2)の注[26]が付いている箇所)。百官志の箇所は当初、「敬礼する」くらいの意味で理解していたのだが、『続漢書』百官志二・謁者僕射の本注の劉昭注に引く『蔡質漢儀』に「謁者僕射が尚書令と会ったさいはたがいに拱手の礼をかわすが敬はない(見尚書令、対揖無敬)」と見え、たんに「敬礼」と訳すのは皮相的な解釈になる場合があるようだ。ということで、「敬」は具体的に「贈物」を指すと現在では考えている。本文のこの箇所も、違和感は残るものの、とりあえずその解釈に従って訳出した。
 またこのときの改革を『通典』巻31職官典13・歴代王侯封爵は「不得追敬、不得称臣、止宜云下官而已」と記述している。訳してみると、「餞別を贈ることと臣と称すことを禁じ、たんに下官とだけ言うようにした」。「敬」周辺の記述が本文と違いそうだ。[上に戻る]

[2]そうしたことを主眼とする研究ではないが、例えば阿部幸信「漢初「郡国制」再考」(『日本秦漢史学会会報』9、2008)。氏は「実態はともかくとして、建国当初の漢朝が諸侯王を自らの「内」のものとして観念して」おらず、諸侯王は「「外」の分子とみなされていた」ことを指摘し、「漢朝は、「内」に諸侯王を抱えこんでいたのではなく、「外」に置いた諸侯王と天下を「共同所有」していた」のであり、「「天下安定」下の支配階層が形成していた秩序は、いわば、構成員が共通の利害や目的において結ばれた社会すなわち「連合体」としての性質を帯びていた、といえる。このようにいうとき、現実に漢朝から諸侯王に対して加えられていた各種の制約も、それは他の利害から独立した支配―被支配関係にかかるものとして読まれるべきではなく、「共通の利害や目的」を維持し再生産するのに有益であるとみなされる限りにおいて受容されていたにすぎない」と論じている(pp. 53-65)[上に戻る]

[3]徐冲「漢唐間の君臣関係と「臣某」形式に関する一試論」(『歴史研究』44、2006)pp. 41-45。氏が根拠として挙げる史料のひとつが『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝「朝廷は、東宮属官は(太子に対して)陪臣と称するべきだとしたが、鄭黙は上言して、「・・・東宮の属官はみな朝廷から任命されたものですから、(辟召で任命される)藩国の場合と同様にするべきではありません」。(朝廷以太子官属宜称陪臣、黙上言、「・・・宮臣皆受命天朝、不得同之藩国」。)」。「藩国」は諸侯王のことを指すであろうから、諸侯王の場合は陪臣が「称臣」していたということですな。[上に戻る]

[4]川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大――魏晋南北朝』(講談社、2005年)。「孝武帝は自己に権力を集中し、中央集権を進めた皇帝として知られているが、そのような権力集中を行うとすれば、当然その手足となって働いてくれる人々が必要となる。こうした為政者の欲求と庶民層の台頭が一致したところに、・・・孝武帝以降の南朝において顕著に見られる恩倖政治が出現する」(p. 146)。余談にすぎないが、最近戸川貴行氏は、孝武帝の政治をたんなる自己顕示欲に発するものではなく、南朝政権そのものの正統性と伝統の創出という観点から理解されるべきものであることを論じている。戸川『東晋南朝における伝統の創造』(汲古書院、2015)。孝武帝って概説書だと兄弟とか殺しまくったやべーやつとしか言及されていないからいちおう。彼は彼なりに画期的なことやろうとしてたんだよって。[上に戻る]




2015年8月23日日曜日

『宋書』百官志訳注(11)――中書・秘書

 中書令は一人[1]。中書監[2]は一人。中書侍郎は四人。中書通事舎人は四人。漢の武帝が後宮で宴をしたとき、はじめて宦官に尚書事〔尚書の仕事=文書の皇帝への取次&文書作成?としてここでは解しておく。注[12]を参照〕を担当させた。(以後、)これを(この業務をおこなう部門を)中書謁者といい、令と僕射を置いた[3]。元帝のとき、中書謁者令の弘恭、中書謁者僕射の石顕が権勢を握り、その権力は内外を傾かせた[4]。成帝は中書謁者令を中謁者令と改称し、僕射を廃した。東漢は中謁者令を廃した。(東漢には)中官謁者令という官があったが、これは中謁者令とは職務が違う。魏武帝が魏王となると、秘書令を置き、尚書奏事〔上の「尚書事」と同義〕を担当させたが、すなわちこれが(本来の)中書の職務である。文帝の黄初年間の初め、(秘書令を)改称して中書令とし、また(中書に)監と通事郎を設け[5]、(通事郎の位は)黄門郎に次いだ[6]。黄門郎が(文書をチェックして認可の)署名をすると、文書は通事郎を通過する。そうして通事郎は(文書を)奉じて(禁中に)入り、皇帝のために読み上げ、(皇帝から裁可が得られたら)「可(よし)」と(文書に)記す[7]。晋では(通事郎を)中書侍郎に改称し、定員は四人とした[8]。江左の初め、中書侍郎を通事郎に改称したが、まもなく中書侍郎に戻った[9]。晋の初め、舎人一人、通事一人を置いた。江左の初め、舎人と通事を合わせて通事舎人とし[10]、上奏文書〔原文「呈奏」〕の草案作成を職務とした。のちに通事舎人は廃され 、中書省から侍郎一人を選んで西省に当直させ(て、その中書侍郎に通事舎人の仕事をおこなわせ)、また下達文書〔原文「詔命」〕の作成を担当した。宋の初め、ふたたび通事舎人を置いたので、侍郎の職務は軽くなった[11]。通事舎人は閤内に当直し、中書省に所属した。通事舎人の下には主事が置かれ、本来は武官を用いていたが、宋は改めて文吏を用いた。[12]

 秘書監は一人。秘書丞は一人。秘書郎は四人[13]。漢の桓帝の延熹二年、秘書監を置いた[14]。皇甫規の張奐宛ての書簡に「従兄の秘書の它の様子はどうだろうか」とあるが、これのことである。応劭『漢官』に「秘書監は一人、秩は六百石」とある。のちに廃された。魏の武帝が魏王となると、秘書令、秘書丞を置いた。(このときの)秘書は(それまでの中書のように)尚書奏事を担当した。文帝の黄初年間の初め、中書令を置き、(中書令に)尚書奏事をおこなわせ、(従来の)秘書令を秘書監に改めた[15]。のちに何楨を秘書丞にしようとしたが、秘書にすでに丞がいたので、何楨を秘書右丞とした。(丞は)のちに廃された[16]。(秘書は)書籍の管理を職掌とした[17]。『周官』では外史が地方志、三皇五帝の書を管理したとあるが、すなわちこの職務である。西漢では書籍が所蔵されていた場所は、天禄閣、石渠閣、蘭台、石室閣、延閣、広内閣である[18]。東漢では書籍は東観に所蔵されていた。晋の武帝は秘書を中書省に併合し、秘書監を廃し、秘書丞を中書秘書丞とした[19]。恵帝はさらに著作郎一人、佐郎[20]八人を置き、国史(の著述・管理)を担当させた。周のとき、左史は事件を、右史は言行を記録したが、すなわちこの職務である。東漢の書籍は東観に所蔵されていたため、名声のある儒者や研鑽を積んだ学者を著作東観とし、国史を執筆させた[21]。「著作」の名はこれに由来している。(著作郎は)魏のときは中書省に所属していた[22]。晋の武帝のとき、繆徴が中書著作郎となった。元康年間、秘書の所属に改め、のちに独立させられて著作省とされたが、なお秘書の所属とされた[23]。著作郎は大著作といい、もっぱら史官の職務をおこなった。晋の制度では、著作佐郎が最初に就任したとき、必ず一人分の名臣伝を撰述することとなっていた[24]。宋の初め、朝廷が建てられたばかりで、まだ撰述に適当な人物がいなかったため、この制度はとうとう廃れてしまった[25]



――注――

[1]『通典』巻21・職官典3・中書省「中書省の官は由来が古いが、中書省と呼ぶようになったのは魏晋からである(中書之官旧矣、謂之中書省、自魏晋始焉)」。[上に戻る]

[2]中華書局によると『宋書』の各種版本では「中書舎人」につくっているという。中華書局校勘記に従い、「中書監」として訳出する。[上に戻る]

[3]『太平御覧』巻220・職官18・中書令引『応劭漢官儀』「左右曹は尚書事を受け持っていた。前世(前漢)の文人は、中書が右(=西)省(?)に勤務(?)していたことから、中書のことを右曹とか西掖などと呼んだ(左右曹受尚書事、前世文人、以中書在右、因謂中書為右曹、又称西掖)」。[上に戻る]

[4]『通典』巻21・職官典3・中書令では以下の文章がつづいている。「蕭望之以為中書政本、宜以賢明之選、更置士人、自武帝故用宦者、掌出入奏事、非旧制也。・・・成帝建始四年、・・・更以士人為之、皆属少府」。[上に戻る]

[5]『三国志』巻14劉放伝「黄初初、改秘書為中書、以放為監、資為令」とあり、曹丕は曹操時代の秘書を中書に改称したらしい。要するに本書で中書の本来の職務とされている「尚書奏事」をふたたび職掌とするようになったということ。『通典』中書令「文帝黄初初、・・・以秘書左丞劉放為中書監、右丞孫資為中書令、並掌機密。中書監、令、始於此也。及明帝時、中書監、令、号為専任、其権重矣」。
 これ以降、中書令、中書監の記述がないので、『通典』より補足しておく。西晋でも曹魏同様、中書監と令は一人ずつ置かれていた。東晋では散騎省に併合されたこともあったらしいが、すぐに復置されたらしい。彼らの職務は詔などの文書の作成であった。尊崇される地位にあったので、「鳳凰池」と呼ばれることもあったらしい(荀勖がそういうふうに呼んだらしい)。『通典』中書令「晋因之、置監、令一人、始皆同車、後乃異焉」、「東晋嘗併其職入散騎省、尋復置之」、「魏晋以来、中書監、令掌賛詔命、記会時事、典作文書。以其地在枢近、多承寵任、是以人固其位、謂之鳳凰池焉」。また『太平御覧』巻220・職官18・中書令引『晋令』「中書為詔令、記会時事、典作文書也」。
 なお、中書監と令ではどっちがえらいのかというと、中書監のがえらいように見えそうですが、ちょっとよくわからんですね。前引の『通典』にあるように、西晋では当初、車に差別がなかったらしいから、それまでは礼的待遇に差異はなかったのかもしれない。それ以降はよくわからないが、本書では中書令→中書監の順番で記述されているものの、他書では「中書監令」といった書き方もよく散見するし、梁の天監改革では中書監=15班、中書令=13班とされているので、中書監のがえらかったのかもしれない。[上に戻る]

[6]『通典』巻21・職官典3・中書侍郎の原注に通事郎の職務について、「『魏志』によると、詔の起草を職務とし、漢の尚書郎に相当する(魏志曰、掌詔草、即漢尚書郎之位」とあるが、かかる一文を『三国志』から発見できていない。見つけた人は教えて欲しい。[上に戻る]

[7]原文「黄門郎已署事過通事乃奉以入為帝省読書可」。中華書局校点本の整理者は「黄門郎已署事過、通事乃奉以入、為帝省読書可」と読んでいるが、非常に読みにくい。一方、『晋書』の校点者は「黄門郎已署、事過通事乃署名。已署、奏以入、為帝省読、書可」(巻24職官志)と読んでおり、文章としてはこちらの校点のほうが読みやすいので、本書原文も「黄門郎已署、事過通事、乃奉以入、為帝省読、書可」と読むことにする。『晋書』の記述はとても丁寧で、黄門郎のチェック・署名→通事郎へ、通事が確認したら署名→皇帝のところへ行って読み上げ、裁可をもらう、と過程を説明してくれている。
 なお原文の「奉」は『晋書』『通典』では「奏」につくっている。言わんとするところはどちらでも変わらんとは思うが。[上に戻る]

[8]『晋書』職官志はこの中書侍郎改称に触れて、「中書侍郎蓋此始也」と記述している。[上に戻る]

[9]東晋の中書侍郎については、『通典』中書侍郎に「其職副掌王言、更入直省五日、従駕則正直従、次直守」とあり、文書の作成が職掌であること、交代で五日間西省に当直勤務すること、皇帝外出時には正直が車に同乗し(?)次直が護衛することが記述されている。「正直」「次直」については訳注(10)の注[1][29]を参照。[上に戻る]

[10]『通典』巻21・職官典3・中書舎人には「魏置中書通事舎人、或曰舎人通事、各為一職」とあり、曹魏のときにすでに通事舎人が置かれたことがあったらしい。[上に戻る]

[11]『通典』中書舎人「晋江左、・・・掌呈奏案章。後省之〔通事舎人〕。而以中書侍郎一人直西省、即侍郎兼其職、而掌其詔命。宋初、又置中書通事舎人四員、入直閣内、出宣詔命。凡有陳奏、皆舎人持入、参決於中、自是則中書侍郎之任軽矣」。また『通典』中書侍郎によれば、劉宋の中書侍郎は散騎常侍より登用していたらしい。「宋中書侍郎、・・・用散騎常侍為之」。
 東晋で通事舎人が廃されていた時期は中書侍郎が「西省」に出向して舎人の仕事を兼務していたという点について、『宋書』巻60王韶之伝に関連する記述が見える。「晋の皇帝は孝武帝以降、いつも宮殿にこもっていた。武官(禁軍?)の主書(本文後文の中書主事のことなのかもしれない)が宮中で文書の取次をおこない、中書省の官一人に下達文書の作成をおこなわせた。後者は西省で仕事をしていたので、西省郎と呼ばれた(晋帝自孝武以来、常居内殿、武官主書於中通呈、以省官一人管司詔誥、任在西省、因之西省郎」。ここで言及されている西省郎こそ中書侍郎のことを指すのであろう。[上に戻る]

[12]中書は当初より「尚書事」のために設置され、その機能が結局魏晋以降も継承された官であったらしい。前漢では少人員、後漢では置かれず、曹魏文帝から常設されるようになる、と。しかし、この「尚書事」がいつかブログで書いたように、「尚書から送られてくる文書を決裁する業務」を指すと考えてよいのかは自信がない。通事郎の仕事が本文中に出てくるが、文書を皇帝のところに持っていく取次業務などのことを指して「尚書事」と言っているんじゃないかという気がしてならない。散騎のところでも「尚書事をつかさどる」って記述があって、そのときはなんも思わずスルーしていたのだが、そもそもこの「尚書事」の代表的な役職は言うまでもなく録尚書なわけで、そんでその録尚書は後漢からほぼ常設に近い扱いなわけでしょ。そのうえに常設の中書を創設しちゃいますかね。皇帝へ文書を持っていくのは元来は尚書の仕事なのだが、それを中書にやらせることにした、ってことなのかな。実際、本文にはあまり記述されていないが、『晋書』職官志や『通典』では中書の職務を文書の作成としている。これはまさに漢代の尚書の仕事だったわけで。そういう意味では、たしかに中書は「尚書の事」を仕事にしているんですよね。かりにその解釈が通るのであれば、後漢時代に中書が置かれなかったのは、尚書がその仕事をちゃんとやっていたということだろうし、曹操が置いた秘書令もやっぱりそういう意味での「尚書事」をおこなっていたということでしょうね。[上に戻る]

[13]『太平御覧』巻233・職官部31・秘書郎に引く『沈約宋書』に「秘書郎は四人、後漢の校書郎に相当する(秘書郎四人、後漢校書郎也)」とある。百官志の佚文か。
 校書郎および秘書郎については本文に詳しい記述がないので、『通典』から補足しておく。
 後述するように、後漢末に王朝の蔵書を管理する秘書監が置かれたものの、それ以前の後漢初期から管理業務を担当する者は存在した。それが校書郎と呼ばれる者たちである。
 後漢の蔵書庫としては東観、蘭台が知られているが、これらは書庫であると同時に国史を執筆する場所でもあった。漢朝は郎や郎中のなかからメンバーを選抜して、蔵書(主に経書であろうと考えられる)の文字校正を研究する仕事や、国史編纂業務をおこなわせた。書物の校正がメインのお仕事、ということで、彼らは校書郎、校書郎中と呼ばれた。
 注意すべきなのが、校書郎は定員化されて官として設けられていたわけではないということだ。とくにやることがなくてヒマな郎のうち、ついでにそういうことをやっておけと命じられた郎がいたってことで、そんであだ名みたいに校書郎って呼ばれるようになったのだと。
 『通典』によると、魏では秘書校書郎が置かれたらしいが、晋、宋では設置の形跡がないという。晋の武帝は少なくとも秘書郎を四人置いたことがわかっているので、晋になって秘書郎に改名されたのではないだろうか。つまり晋以降の秘書郎は、系譜的には漢代の校書郎を継承するものであると考えられる。
 晋代の秘書郎は「中外三閣」に所蔵されてい書籍の校訂作業に従事していたという。また一方では、武帝期に蔵書が甲乙丙丁の四つに分類されたが、秘書郎中(秘書郎のボス)四人で一つずつ責任を負わせたとか。
 余談だが、井上進氏の推測によると、この武帝の四部分類で分類方針を定めたのは荀勖(『晋中経簿』)であったらしい。『隋書』巻32経籍志一によれば、甲部は「紀六芸及小学等書」、乙部「古諸子家、近世子家、兵書、兵家、術数」、丙部「史記、旧事、皇覧簿、雑事」、丁部「詩賦、図讃、汲冢書」で、のちの四部分類法でいえば経・子・史・集に相当する。井上進「四部分類の成立」(『名古屋大学文学部研究論集』史学45、1999年)参照。
 宋、斉の時期は、秘書郎の定員は四人になった。秘書郎は「美職」であったとのことで、「甲族」の起家官であったのだという。とはいって、それは仕事に人気があったわけではなく、キャリアから見たときに起家官だとおいしかったにすぎないようだ。たんに次の異動を待つだけの官で、就任10日くらいで次の官に移ったのだという。宮崎市定氏は「西晋時代には別にこれが起家の官だとは定まって居らず、単に貴族が就職を望む官であったらしい。・・・東晋以後の例で見ると、何か特別な理由がないと、容易には秘書郎では起家できなかったらしい。その稀少価値がいよいよ秘書郎の声価を高めたであろう。・・・郷品二品、起家六品ということが別に珍しくなくなると、いかなる六品官で起家するかということに競争の中心が移り、争って秘書郎起家を希望する。そこで秘書郎で起家する者が出るようになれば、その家が一流貴族であることの証明になる」と述べておられるが(『九品官人法の研究』中公文庫、1997年、pp. 250-251)、的を得ていると思う。
 なお、秘書郎のような官を、とくに実務に煩わされず、基本的にはヒマで責任が軽い文化的な官と人文学者が言ってしまうとわりかしひでー自虐というかなんというか。興味深いことに、後漢時代、校書郎は「学者」から羨望された地位であったらしく、東観のことを「老氏蔵室」「道家蓬莱山」と呼んだという。蔵書に優れた非常にレベルの高い環境で好きなだけ研究できるうえに、王朝から給料までもらえるという、そりゃあ天国だよね。ヒマなやつにはヒマなんだろうが、ヒマじゃない人にはぜんぜんヒマでなかろうて。まあ研究が進んじゃって、南朝では漢代ほどやることがなくなってしまった、というのはあるかもしれないけどね。学問的なものも金と地位だなあ。
 というわけで、王朝の蔵書を管理、校訂する官として秘書郎がいました、と。
 『通典』巻26・職官典8・秘書郎「後漢の馬融は秘書郎になると、東観に行って書物の校正をおこなった。魏武帝が魏王国を建てると秘書郎を設けた。・・・晋の秘書郎は中、外、三閣の書籍を管理し、校正に従事していた。・・・秘書郎中とも呼んだ。武帝は秘書の蔵書を甲乙丙丁の四つに分類し、四人の秘書郎中に一つずつ担当させた。宋、斉の秘書郎は定員四人で、とりわけ名誉的な官とみなされており、(定員は?)すべて甲族の起家官であった。(秘書郎は)次の任命を待つだけのつなぎで、おおよそ就任して10日で次の官に移った(後漢馬融、為秘書郎、詣東観典校書。及魏武建国、又置秘書郎。・・・晋秘書郎掌中外三閣経書、校閲脱誤。・・・亦謂之郎中。武帝分秘書図籍為甲乙丙丁四部、使秘書郎中四人各掌其一。宋、斉秘書郎皆四員、尤為美職、皆為甲族起家之選、待次入補、其居職、例十日便遷」。
 『通典』巻26・職官典8・秘書校書郎「漢の蘭台と後漢の東観はどちらも蔵書庫であり、同時に(国史を)執筆する場所でもあった。多くの当時の文人たちに、それらの書庫で書物の校正をおこなわせていた。そのため、(漢代には)校正の仕事があったのである。のち、蘭台には令史が18人置かれた(が、これらがその校正職である)。〔原注:蘭台令史は秩百石、御史中丞に所属した。〕また、(後漢では)ほかの官に就いている者を東観に行かせ、秘書の蔵書を校正させたり、歴史的な文書を書かせていた。このように、(漢代には)校正の仕事があったのではあるが、官として定まっていたわけではなく、郎にその仕事をさせていた。そのためそのような郎を校書郎と呼ぶようになった。郎中である場合は校書郎中と呼んだ。当時、校書郎は尊重されて、学者たちは東観を『老氏蔵室』『道家蓬莱山』と呼んだ。魏になってはじめて(官化されて)秘書校書郎が置かれた。晋、宋以降は設置の形跡がない(漢之蘭台及後漢東観、皆藏書之室、亦著述之所。多当時文学之士、使讐校於其中、故有校書之職。後於蘭台置令史十八人。〔秩百石、属御史中丞。〕又選他官入東観、皆令典校秘書、或撰述伝記。蓋有校書之任、而未為官也、故以郎居其任、則謂之校書郎。以郎中居其任、則謂之校書郎中。当時重其職、故学者称東観為老氏蔵室、道家蓬莱山焉。至魏、始置秘書校書郎。晋、宋以下無聞)」。
 『太平御覧』巻233・職官部31・秘書郎引『晋令』「秘書郎掌外三閣経書、覆省校閲、正定脱誤」、『太平御覧』巻224・職官部32・校書郎引『晋令』「秘書郎掌中外三閣経書、覆校闕遺、正定脱誤」。[上に戻る]

[14]桓帝時代の秘書監は秘書(後述の注を参照)に所蔵されている書籍の校正業務を管轄していた。太常に所属していたという。『太平御覧』巻233・職官部31・秘書監引『東観漢記』「桓帝延嘉〔ママ〕二年、初置秘書監。掌典図書、古今文字、考合異同」。『通典』巻26・職官典8・秘書監「桓帝延熹二年、始置秘書監一人、掌典図書古今文字、考合同異、属太常」。[上に戻る]

[15]『通典』秘書監に曹魏時代のこととして、「初属少府、後乃不属」とある。はじめから秘書が独立していたわけではなかったようだ。[上に戻る]

[16]『通典』巻26・職官典8・秘書丞「其後遂有左右二丞、劉放為左丞、孫資為右丞、後省」。[上に戻る]

[17]『通典』巻26・職官典8・秘書正字に、魏以後の秘書は「掌図籍之紀、監述作之事、不復専文字之任矣」とあり、図書管理、執筆業務もおこなうようになり、漢代の文字校正業務だけではなくなったという。が、漢代より秘書に関係する業務には国史の執筆などもあったので、一概にそうも言えないだろう。魏晋以降の秘書は、たしかに魏晋時代を通して法整備された部署だが、後述するように、そのベースは漢代の伝統を継承しているものなので、実態的には時代間の差異はない。[上に戻る]

[18]後引する『宋書』百官志の佚文に「むかし、漢の武帝が蔵書のスペース(?)をつくり、筆写のための官を設けた。こうして天下の書物はすべて天録閣、石渠閣、延閣、広内閣、秘府に収録された。これらに所蔵された書物のことを秘書と呼ぶ(昔漢武帝建蔵書之冊、置写書之官、於是天下文籍、皆在天録、石渠、延閣、広内、秘府之室、謂之秘書」とある。
 また『通典』秘書監には「漢で書物が保管されていた場所には、石渠閣、石室、延閣、広内閣があり、外府(宮城の外)に所蔵しているものである。また御史中丞は殿中に勤務していたので、蘭台の秘書を管理しており、さらに麒麟閣、天録閣も、内禁(宮城の内)の蔵書庫であった。・・・(魏の)蘭台も書籍を収録しており、やはり御史が管理していた(漢氏図籍所在、有石渠、石室、延閣、広内、貯之於外府。又有御史中丞居殿中、掌蘭台秘書及麒麟、天録二閣、蔵之於内禁。・・・其蘭台亦蔵書籍、而御史掌之)」とある。
 注[13]で晋代の秘書郎は「中外三閣」の書籍を管理していたと言及し、あえて「中外三閣」を特定していなかった。井上進氏は『隋書』経籍志の「蔵在秘書中外三閣」を「蔵して秘書、中(中書)、外(蘭台)三閣に在り」と読んでいるが、この理解には疑問が残る。中書に行政文書は保管されていたと思うが、書物はどうであろうか。また『隋書』のこの箇所は「蔵して秘書の在るところ、中外三閣なり」とも読めるのではないか。そしてその場合、「中、外、三閣」と読むのではないだろうか。蘭台は変わらず宮城中にあったでろうから「中」。「外」は秘書省、というのも『通典』秘書監に晋代のこととして「掌三閣図書、自是秘書之府、始居於外」とあり、秘書省は「外」にあったことがわかるからである。「三閣」はよく知らないが、漢代の石渠閣やらのように、秘書を所蔵している某閣ってのがあったんでないか。というわけで、私は晋代の秘書郎の「中外三閣」を「蘭台、秘書省、三つの閣」の意で解しておきたい。再考中。秘書の府が外に出たのは恵帝のときで、武帝のときは秘書は中書に合わさっていたが、「中外三閣」を校正する秘書郎としての規定は武帝が定めている。「中外の三閣」と読むのが良いのだろうか。[上に戻る]

[19]『晋書』職官志に「秘書著作之局不廃」とあり、中書省に併合されたといっても、中書の所属下に置かれたと解しておくのがよいかもしれない。
 本文はこれ以降の秘書監については記述していないが、晋の恵帝の永平元年に中書から独立して置かれるようになったらしい。秘書省が「外」に設けられたのもこの時期のことであるようだ。『太平御覧』巻233・職官部31・秘書監『王隠晋書』「恵帝永平元年詔云、秘書監綜理経籍、考校古今、課試署吏、領有四百人、宜専其事」、『晋書』職官志「恵帝永平中、復置秘書監、其属官有丞、有郎、并統著作省」、『通典』秘書監「恵帝永平中、・・・掌三閣図書、自是秘書之府、始居於外」。[上に戻る]

[20]原文は「佐郎」。後文では「著作佐郎」と記されているが、『晋書』では「佐著作郎」と記述されている。『通典』巻26・職官典8・著作郎に「宋、斉以降、ついに『佐』の字を下に移し、著作佐郎と呼ぶようになった。国史の編纂、起居注の整理をおこなう(宋斉以来、遂遷「佐」於下、謂之著作佐郎、亦掌国史、集注起居)」とあるので、晋代では「佐著作郎」が正式な名称であったらしい。[上に戻る]

[21]『通典』著作郎に「名声のある儒者や研鑽を積んだ学者を東観に行かせ、国史を編纂させた。彼らを『著作東観』と呼び、みな本官を有しながらこの業務をこなしていた。著作の仕事はあったが、専門の官はまだ置かれていなかった(使名儒碩学入直東観、撰述国史、謂之著作東観、皆以他官領焉、蓋有著作之任、而未為官員也」とあるのに従い、本文を訳出した。
 「曹操が秘書令を置いた」からここの部分まで、本文にはかなりの脱落があるらしく、『太平御覧』の引く『沈約宋書百官志』には佚文が多く見られる。以下に引用する。
 「魏武帝が魏王国を建てると秘書令と左右丞が置かれた。黄初年間、秘書を分割して中書を独立させたが、秘書の部署がなくなったわけではない。むかし、漢の武帝が蔵書のスペース(?)をつくり、筆写のための官を設けた。こうして天下の書物はすべて天録閣、石渠閣、延閣、広内閣、秘府に収録された。これらに所蔵された書物のことを秘書と呼ぶ。成帝、哀帝の時代、劉向、劉歆の父子に本官から出向させて蔵書管理、校正の仕事をおこなわせた。後漢になると書籍は東観に保管され、校書郎が置かれた。また著作郎もあった。〔原注:傅毅、馬融のような人々は多く校書郎となった。また蔡邕は尚書から東観著作に選ばれている。蔡邕は尚書郎であったのに東観著作にゆき、また議郎にも任じられたから、これが著作郎を指していたことがわかる(?)〕また碩学の学者や高官は劉向父子の故事に倣い、よく蔵書の校正などをおこなっていた。ある者は東観で書物の校正をおこなうだけで、ある者はついでに『(東観)漢記』を執筆した(魏武建国有秘書令、左右丞。黄初中、分秘書立中書、而秘書之局不廃。昔漢武帝建蔵書之冊、置写書之官、於是天下文籍、皆在天録、石渠、延閣、広内、秘府之室、謂之秘書。至成哀世、使劉向父子以本官典其事、至于後則図籍在東観、有校書郎。又有著作郎。〔傅毅、馬融之徒、多為校書郎。又蔡邕従尚書選入東観著作。邕既已為尚書郎、而入東観著作、復拝議郎、知是著作郎也。〕又碩学達官、往往典校秘書、如向歆故事。或但校書東観、或有兼撰漢記也)」。[上に戻る]

[22]曹魏時代の著作郎は明帝の太和年間に置かれ、中書省に所属していたらしい。上の百官志佚文だと、漢代から著作郎が置かれていたかのごとくだがもちろん実際はそうではない。この明帝のときにはじめて著作郎が置かれたようだ。注[20]の『通典』にあるように、国史の執筆、その資料となる起居注の執筆整理を専門とする。『晋書』職官志「魏明帝太和中、詔置著作郎、於此始有其官、隷中書省」。[上に戻る]

[23]『晋書』職官志が詳しい。「元康二年、詔曰、著作旧属中書、而秘書既典文籍、今改中書著作為秘書著作。於是改隷秘書省。後別自置省而猶隷秘書」。ややこしいので整理しておく。【魏武帝】秘書(中書の仕事をおこなう)→【文帝】中書省設置、秘書監設置→【明帝】著作郎設置(中書省所属)→【晋武帝】秘書監を廃止、秘書の業務は中書省に統合→【恵帝、永平元年】秘書監設置、秘書を中書省から独立させる→【恵帝、元康2年】著作郎の所属を中書から秘書に改める→【時期不明】著作省を設置、ただし秘書の所属は変わらず。
 秘書が中書に統合されたり、著作が長いあいだ中書の所属下だったりしたのは、中書が文書作成業務を旨としていることと関係しているだろう。それに秘書もわざわざこれだけで独立させてもなあというような消極的要因も働いていたのかもしれない。[上に戻る]

[24]『史通』巻9・内篇・覈才の引く『晋令』「国史之任、委之著作、毎著作郎、初至、必撰名臣伝一人」。
 『世説新語』賞誉篇にはこのことにまつわる話も収録されている。「謝朗は著作郎になると、『王堪伝』をつくろうと思ったが、王堪がどんな人物であったか覚えていないので、謝安に訊いたところ、『王堪もひとかどの人物とみなされていた。彼は王烈の子、阮瞻と姨兄弟〔互いの妻が姉妹〕、潘岳といとこ〔王堪の父の姉妹が潘岳の母〕にあたる。潘岳の詩に「きみの母親はわたしのおば/わたしの父はきみのおじ」とある。許允の婿である』と答えた謝胡児作著作郎、嘗作王堪伝、不諳堪是何似人、咨謝公。謝公答曰、世冑亦被遇。堪、烈之子。阮千里姨兄弟、潘安仁中外、安仁詩所謂、子親伊姑、我父唯舅。是許允婿)」。
 私的な経験で恐縮だが、以前に新聞社へインターンに行った先輩が、「新人は最初高校野球の記事を書かされるらしい、そこで記事の書き方を覚えるんだって」と話していたのを思い出してしまう。その話の真偽は不明だが、就任直後の著作郎に「別伝」を書かせるというのも、史書の文体を覚えてもらうこと、どういうふうに情報を集め整理するのか体験してもらうこと、等々のねらいがあったのだろう。もちろんこれに加えて、こうした「別伝」は国史の資料に転用可能なのだから情報が新鮮なうちにまとめておく効果もあっただろう。
 【以下追記2017/10/25】『史通』外篇・史官建置「旧事、佐郎職知博採、正郎資以草伝、如正佐有失、則秘監職思其憂。其有才堪撰述、学綜文史、雖居他官、或兼領著作。亦有雖為秘書監、而仍領著作郎者」、同「案晋令、著作郎掌起居集注、撰録諸言行勲伐旧載史籍者」。[上に戻る]

[25]ここで言及されている「別伝」が『世説』注なんかでよく引用されている「別伝」と同一であったかはわからないが、著作郎の作成した「別伝」が含まれている可能性は高いだろう。実際、劉宋期の人物の別伝はあまり見た覚えがない。矢野主税氏は、「魏から晋にかけての頃に、自分の一門或は親しき人々の為に、その人の伝を作る風習が広く行われていた」と指摘し、「個人の伝記が作られた場合、それらの中に別伝と呼ばれたものと、そうでない場合とがあったこと明かである。・・・兄弟、或は母子の如き一家或は一門の如き関係の人々による伝記作製では、別伝と呼ばれることはあまりなかったのではないか、・・・別伝は、むしろ伝をつくられる人物とは直接的関係の少ない人々によって作られることが多かったのではあるまいか」と推測している。もっとも、著作郎による著述の可能性にまでは及んでいないが。矢野「別伝の研究」(『社会科学論叢』16、1967年)pp. 21、27。
 「別伝」がどれだけの情報価値を有するのかわからないが、記録はあればあるほど後世の整理者に役立つわけで。その意味で、その後の王朝に継承されなかったのは残念だなあ。宋、斉、梁、陳にも、もちろん正史以外の史書が存在していたわけで、決して正史のみというわけではなかったのだけど、別伝の制度が活きていれば、もう少し状況は変わっていたかもね。[上に戻る]



2015年7月5日日曜日

『芸文類聚』に見える人物優劣論――曹丕の「周成漢昭論」と張輔の「曹操劉備論」



 『芸文類聚』って、正史などの文献史料では見ることができないマニアックでおもしろい文章がたくさん収められているんですよ。
 今回はそのなかでも三国志関係のものを二つ紹介してみようかなって。『芸文類聚』は詳しく調べてみるとおもしろいよ!っていう布教的なのをしたくて。
 本記事においては(というか私は基本的に)『芸文類聚』は1980年に中文出版社から出版された活字本を使用する。この活字本は南宋の紹興年間に刊行されていた刻本を底本に、明代の数種類の刻本を利用して校訂したものである。


 さて、最初に取り上げたいのは『芸文類聚』巻12・帝王部2・漢昭帝に引用されている曹魏・文帝の「周成漢昭論」。周の成王と漢の昭帝はどっちが優れているだろうっていう、そんなことを論じています。
 とても気になりませんか? 私はとても気になってしまって、とても興奮してしまいました。どうして彼はこんなしょーもなくてどーでもいいことを論じているんでしょう? どうして彼はこんなことに頭を使ってしまったのだろう? いったい何が彼をここまで衝き動かしてしまったのか・・・いや馬鹿にしているわけではないんですが(失礼)、多少知的に飾り立てて言ってみれば、彼がこのような言論を発した当時の言論状況・文脈みたいなものは何であったのでしょう。この二人を比較するということは、当時においてはそれほど重い意味を有していたことなのでしょうか。

 そうしたことを念頭に置きつつ、見てみましょう(「周成漢昭論」は『太平御覧』巻89・皇王部14・孝昭皇帝にも引用されているが、引用文にさしたる違いはないので、『芸文類聚』をもとに訳文を作成する)。

ある者たちは周の成王を漢の昭帝と比較しているが、みな成王が優れ、昭帝が劣っていると論じている。(しかし)私は以下のように考える。周の成王は前代の聖王〔原文「上聖」、後文とのつながりから勘案して、成王の父・武王を指していると考えられる〕のうるわしい気を(受け継いで)身に備え、賢母〔一説に成王の母は邑姜という、『史記集解』に引用された服虔の左伝注によると太公望の娘〕から妊娠中の教育をほどこされ[1]、周公が太傅、召公が太保、呂尚が太師となっ(て幼少で即位した成王を助け)た[2]。すでにしゃべれるようになったのに行人〔使者を職務とする官〕が代弁して話し、もう自分で靴がはけ(自分の意志で歩け)るのに相者〔帝王のお付役みたいな〕が付き添って歩くちやほやぶりで[3]、目は立派なものに慣れ、耳は美しい音を満足に聴くほど。奥深い流れに身をひたし、清らかな風で沐浴するとはこのことである。それでも(成王には)問題があった。管叔と蔡叔の讒言を聴きいれて周公を東に左遷したため、天は怒って(大風を起こして秋の稲をすべてなぎ倒し、王の過ちに対する)咎を示した。(周公が武王の病の快癒を祈って身代わりになろうとした儀式のさいの告文を入れた)金縢〔金属製の封緘〕の箱を開いて(告文を知り)、(はじめた知ったものなのでその詳細について)史官(?)に聴き、そうしてようやく(周公の真実の忠誠を)悟ったのである[4]。周公の聖徳を解さず、金縢の箱に入っていた告文を信頼する、なんと道理に暗いことか。一方、昭帝はというと、そもそも父は武王(のような人)でないし、母は邑姜(のような人)でもない。保育したのは蓋長公主〔武帝の娘で蓋侯の妻、のちに燕王や上官桀らと謀叛を企図した〕で、補佐役だったのは上官桀と霍光である。聖人の気を受け継いではいないし、胎児のときに教育を受けていないし、保育した者に仁や孝の性質が備わっていないし、補佐した者に国家を栄えさせる政治的手腕もない。つまり、宮中で生まれ、婦人の手で育てられたのだが、徳と性は完成され、振る舞いと身体はともに成熟したわけで、年齢27の若年にして聡明であり、霍光を批判する燕王の上書が嘘だと見ぬき、霍光の忠誠を解していた。金縢の箱を開き、史官を信じてからようやく理解したなどというようなことが昭帝にあっただろうか。昭帝も成帝も同じ年齢で即位し〔『漢書』によると昭帝は8歳で即位〕、代が改まっても教化が維持され、臣が一新しても政治はよくおさまり、音楽を改定しても唱和の調和が取れていたが、漢ばかりが劣っていたわけではなく、周ばかりが優れていたわけではない。(或方周成王於漢昭帝、僉高成而下昭、余以為周成王体上聖之休気、稟賢妣之貽誨、周召為保傅、呂尚為太師、口能言則行人称辞、足能履則相者導儀、目厭威容之美、耳飽仁義之声、所謂沈漬玄流、而沐浴清風者矣。猶有咎悔、聆二叔之謗、使周公東遷、皇天赫怒、顕明厥咎、猶啓諸金縢、稽諸国史、然後乃悟、不亮周公之聖徳、而信金縢之教言、豈不暗哉。夫孝昭父非武王、母非邑姜、養惟蓋主、相則桀光、体不承聖、化不胎育、保無仁孝之質、佐無隆平之治、所謂生於深宮之中、長於婦人之手、然而徳与性成、行与体并、年在二七、早智夙達、発燕書之詐、亮霍光之誠、豈将有啓金縢、信国史、而後乃寤哉。使夫昭成均年而立、易世而化、貿臣而治、換楽而歌、則漢不独少、周不独多也。)

 間接的に霍光と上官桀をディスるのやめろ! と思ったのは私だけではないはずだ。
 さて、曹丕はどうしてこの二人を比較したのだろう。彼の論述によると、彼以外にも二人を比較する風潮があったみたいだが。
 ということで探してみると、なんと早いことにすでに後漢初期の班固によって比較がなされているんですね。『漢書』巻7昭帝紀・賛曰、

むかし、周の成王は幼児にして王位を継いだが、(在位中に)管叔と蔡叔など四国による流言の事件があった。昭帝も幼年で帝位につき、やはり(在位中に)燕王、蓋長公主、上官桀の謀叛があった。(それでも)成王は周公を疑わず、昭帝は霍光に政治を任せた。成王も昭帝も時期に適した判断をしたので名声を立てたのである。なんと立派なことか。(昔周成以孺子継統、而有管、蔡四国流言之変。孝昭幼年即位、亦有燕、蓋、上官逆乱之謀。成王不疑周公、孝昭委任霍光、各因其時以成名、大矣哉。)

 もしかするとこれより早い漢代の記述もあるかもしれないが、まあ班固の時点ですでに見えているってことが確認できればいいでしょう。まして『漢書』なんだから、後漢・魏・晋の知識人ならみんな読んでいるだろう。
 で、注意してほしいのだが、班固においては確かに二人は比較されている。だが優劣を定めるための比較ではない。昭帝は成王に似ていると論じるために比較しているのだ。
 曹丕の論を読んだあとでは実感が湧かないだろうが、実際、周の成王は評判の高い君主である。周朝安定の基礎は彼が築いたんだみたいな、そんな感じの言説もどっかにあったような気もするくらいわりかし褒められている。昭帝を成王になぞらえるのは、昭帝に高い評価を与えているということなんですよ。漢の臣下だし漢の国史を書いているわけだから当然のことですが。

 ところで、『芸文類聚』(および『太平御覧』)には丁儀の「周成漢昭論」も引用されている。内容は大したことはなくて、曹丕と同じく昭帝の方がスゲェと言っている感じ。問題としている論点も曹丕と同じなんで、媚びているとまでは言えないかもしれんが、意識はしているでしょう、ともかく両者の「周成漢昭論」は時期を同じくして出されたものだろう。丁儀は文帝即位まもなく誅殺されているので、曹丕の論も即位前のものと見て良いのではないでしょうか。

 これらの点を確認したうえで曹丕の論をちょい掘り下げてみよう。曹丕の論は二つの点で「開かれている」ように思われる。
 まず漢の皇帝を遠慮なく論評している点。班固の場合、彼は昭帝を褒めたい前提で比較をしているに過ぎない、なので比較といってもあっさいよね。もちろん、漢の臣だからといって漢の皇帝を批判してはならん道理はなく、武帝なんか前漢のころからえらい評価の分かれる皇帝でよく知られている。しかし、わざわざ成王と第三者的観点から比較をおこない、「うん、昭帝陛下は大したことはありませんね!」なんて言い出す漢臣がいるとも思えない。
 それに比べ曹丕の場合、結論的には昭帝を高く買っているが、彼なりの基準を持ち出して比較的公平に評価を下そうとしている。というか、班固と比較する目的が明らかに異なっている。彼の場合は政治的目的があるように見えないのである。
 班固の時代においてはおそらく許されなかったであろう、こうした比較の議論も、後漢末の時代においてはそうした方向へと開かれていた。魏晋時代といえば、儒教から解放され比較的自由な学問的精神が芽生えていたと主張されることがある。この曹丕の論もそうした傾向の一端なのだ! ・・・なんてもちろん、無条件でそうは思いません。曹丕に政治的な意図がなかったとしても、それでもこの論が後漢末に語られたということは高度に政治的意味を有すると思う。いまだ漢の時代であるはずなのに、その漢の皇帝を政治的に扱うつもりがなく、自らの知的関心に基づいて議論の素材にしてしまう――私はとても政治的な意義を認めてしまうのですがどうでしょうか。

 もうひとつ興味深い点が、周を無条件に良いとしないところ。前述したが、成王は決して評判の低い王ではない。まして周ときたら理想視される王朝。そういう政治的に慎重に扱われるところを彼は平気で自分の議論の材料に使ってしまうんですね。
 こういったあたりに彼のしたたかさがあるような気がしてならんですが、ちょっと深読みしすぎだろうか。あまり深刻に考えんほうがいいかもしれん。


 さて、もうひとつ論を取りあげて終わりです。西晋の張輔という人の「名士優劣論」というやつで、曹操と劉備を比較したものです。『芸文類聚』巻22・人部6・品藻に引用されている。『太平御覧』巻447・人事部88・品藻下にも引用されており、双方での字句の異同が激しいが、『芸文類聚』のほうが情報量が多いので、『類聚』をベースにして部分的に『太平御覧』で補っておきたい。『御覧』から補った箇所は[ ]で示す。

世の人々はみな、魏武帝は中原を支配していたから劉備より優れていると言い合っている。(しかし)私は劉備のほうが優れていると思う。(なぜかを以下に述べよう。)そもそも戦乱を収める君主というのは、将を確保することに第一義を認めるものである。自分ひとりだけで奮戦してもどうにもならないからだ。世の人々は、劉備は呂布に奇襲されて武帝のもとへ逃亡し、また大軍を起こして長江を下ったのに陸孫にボロ負けしたと(強調)している。しかし、呂布に奇襲され(敗走し)たといっても、武帝が徐栄に大敗して、馬を失い身体に傷を負ったときの危機的状況と比べたらマシである。劉備は徐州に戻っても勢力を安定させることができないままで、荊州にいたときは、劉表親子が彼の作戦を採用せず、曹操に降ってしまった。彼の手勢の歩兵と騎兵は数千にも満たず、武帝の大軍によって敗走させられた。しかしこれも、武帝が呂布の騎兵に捕まり、(そこからなんとか逃れると)火を突っ切っ(て門から逃げ)た急場と比べてればマシである[5]。陸孫にボロカスにされたのだって、武帝が張繍に苦しめられ、単独で逃亡し、二人の子〔曹昂と曹安民?〕を失ったのと比べればマシである。[もし漢の高祖が彭城で(項羽に急襲されたときに)戦死していたら、世の人々は彼を項羽に遠く及ばないと評しただろう。(それと同様に)武帝が宛で戦死していたら、張繍に及ばない人物だと評されていたであろう。]しかも(武帝は)他人の才能を嫌い、残忍な振る舞いを平気でおこない、他人を親任することがない。董昭や賈詡はいつも愚かなフリを装うことで禍から逃れることができ、荀彧や楊脩のような者たちは多く殺されてしま[い、孔融や桓瞱らは恨みを買ってしまったので殺されてしま]った[6]。[有能な将軍に戦争を任せることができず、]30余年の軍事活動のあいだ、必ず自ら軍を統率し、功臣や参謀は諸侯に封じられることもなかった。仁愛は親族に加えられず、恩恵は人民に行き渡らなかった。劉備は威厳を備えながら配慮深さもあり、勇敢でありながら義を重んじ、度量は寛大で遠謀を抱いていたが、武帝がどうしてこれに匹敵しようか。諸葛亮は政治に精通し、機会に明るく、王佐の才と言える人材である。劉備は強大な勢力を張っていたわけではないが、この諸葛亮の忠誠を得ていたのである。張飛と関羽はどちらも傑物だが、服従させて自在に用いていた。いったい、その主君の明暗は人材を用いることができるかどうか、有能無能は部下を使うことができるかどうかにかかっている〔原文「明闇不相為用、能否不相為使」、よく読めないのだが、訳文のようなニュアンスだろうと思うので意訳した。音韻かなんかで、文末にくるはずの「不」を真ん中に移したのかな?〕。武帝は安定して強大な勢力を有していたにもかかわらず、人材を(十分に)用いることができなかった。まして、(劉備のような)不安定な情況で、弱小の勢力しか抱えていない土地であればなおさら(活用することができなかった)であろう。もし劉備が中原を支配していれば、周王朝の興隆にも匹敵する(繁栄を得た)であろうし、その場合、(彼のもとに参じた英傑は)諸葛亮、張飛、関羽の三傑にとどまらなかったであろう。(世人見魏武皇帝処有中土、莫不謂勝劉玄徳也。余以玄徳為勝。夫撥乱之主、先以能收相獲将為本、一身善戦、不足恃也。世人以玄徳為呂布所襲、為武帝所走、挙軍東下、而為陸遜所覆。雖曰為呂布所襲、未若武帝為徐栄所敗、失馬被創之危也。玄徳還拠徐州、形勢未合、在荊州、景叔父子不能用其計、挙州降魏、手下歩騎、不満数千、為武帝大衆所走、未若武帝為呂布北騎所禽、突火之急也。為陸遜所覆、未若武帝為張繍所困、挺身逃遁、以喪二子也。[若令高祖死於彭城、世人方之不及項羽遠矣。武帝死于宛下、将復謂不及張繍矣。]然其忌克、安忍無親、董公仁賈文和、恒以佯愚自免、荀文若楊徳祖之徒、多見賊害、[孔文挙桓文林等以宿恨見殺。良将不能任、]行兵三十余年、無不親征、功臣謀士、曾無列土之封、仁愛不加親戚、恵沢不流百姓、豈若玄徳威而有思、勇而有義、寬弘而大略乎。諸葛孔明、達治知変、殆王佐之才、玄徳無強盛之勢而令委質、張飛関羽、皆人傑也、服而使之。夫明闇不相為用、能否不相為使。武帝雖処安強、不為之用也、況在危急之間、勢弱之地乎。若令玄徳拠有中州、将与周室比隆、豈徒三傑而已哉。)

 この張輔という人、『晋書』巻60にも立伝されていて、「管仲鮑叔論」など様々な比較論を著しているらしい。伝には「管仲鮑叔論」と「司馬遷班固論」の(おそらく)一部が引用されている。『太平御覧』の引用の仕方を見ると「名士優劣論」という題の文章のなかに「管仲鮑叔論」や「司馬遷班固論」が収録されている、すなわち「誰と誰との比較論」が集積されているのが「名士優劣論」で、『類聚』や『御覧』はそのうちの一部を引用しているようだ。『隋書』経籍志によると『張輔集』という書があったらしいので、そこに「名士優劣論」が収められていたのだろう。
 『晋書』張輔伝にも「曹操劉備論」について言及があるのだが、

魏の武帝は劉備に匹敵しないこと、楽毅は諸葛亮に劣ることを論じているが、文字が多いのでここに掲載しない。(論魏武帝不及劉備、楽毅減於諸葛亮、詞多不載。)

と、列伝では割愛されている。しかし上記のように、『芸文類聚』には全文ではないが長文で引用されているので、論の骨格も明瞭に見て取れるようになっている。ありがたいことです。ちなみに『芸文類聚』の同じ箇所には張輔の「司馬遷班固論」、「楽毅諸葛亮論」も引用されている。
 さて、私が曹丕の論で展開した推測を適用すればこの張輔も「したたかだ!」ということになるわけですが、時代の雰囲気はちょい違うよね、たぶんそうだよね。後漢末は400年つづいた漢朝がとうとう終わってしまうんじゃないかという、なんというかいろいろな意味で新鮮な時期であったと思う、曹丕の論はそうした時期に漢の神聖性を剥落させてしまうような効能があった(かもしれない)。西晋時代も新しい時代の到来を予感させるものではあったが、漢魏革命、魏晋革命と二度の王朝革命を経験したあとの時代となると、まあそこまで深い意義を読み出そうとしなくてかまわないんじゃなかろうか。
 しかし、論の当否はわりとどっちでもいいんですが、場合によってはこの論って危なくないか、政治的に。魏を貶めるのはかまわんのですよ、場合によっては「ダメな魏に代わって晋が天命を受けたのだ」って話にもつながるからね。そっちではなくて劉備側の評論。彼は、劉備はスゲェと言い、劉備のもとに集まった部下も有能なのがいたと言っているだけで、蜀漢の政治的正当性/正統性を認めているわけではない。でも、ifとはいえ、「劉備が中原を支配していたら周に匹敵したであろうに」なんてうっかり口に出していいもんでもないでしょう。
 彼は西晋恵帝期を中心に官として活動しており、晩年は河間王顒に仕えている。王朝に比較的近いところにいた人物と見てよいのではないか。そんな彼の論にしてはあまり穏やかじゃない気がするんだよなあ・・・。


 以上二つの論を見てきました。わかったことは、私はこの時代を「政治に憚って自由にモノが言えなかった時代」とすぐ想定してしまうことですね。あまり過度にそういう見方をしてはいけないのかもしれない。自戒。



――注――

[1]原文は「稟賢妣之貽誨」。「貽誨(おしエヲのこス)」は子孫のために残した教訓のような意味であり、また『春秋左伝』昭公十年の疏に「生母を母と言い、死母を妣と言う」ともあり、そのためここの文章は「産後まもなく死去した母が遺した教育マニュアルをほどこされて」、のように読むこともできるだろう。ただし、成王の母に関する逸話として『大戴礼記』保傅篇に「周后妃任成王於身、立而不跂、坐而不差、独処而不倨、雖怒而不詈、胎教之謂也」とあり、要約すると妊婦が行動をつつしみ、品行を良くすることによって、胎児に良い影響を与えるという教育術があり、それを「胎教」と呼ぶのだそうだが、成王の母はこの「胎教」を実行した代表的な人であったようだ。管見の限り、成王の母の死没状況は具体的に記されておらず、不明。成王の母の教育となるとこの「胎教」が知られているくらいである。「誨」は「教」と意味が通じるので特に気にしなくて良いが、原文の「貽」は「胎」の誤字なのかもしれない(もっとも、誤字といっても底本では「胎」かもしれないが。つまり校訂者の釈字ミスかもね)。ともかく、訳文では文帝の意に背く可能性もあるが、「胎教」の意で訳出をしてみた。[上に戻る]

[2]原文「周召為保傅、呂尚為太師」。「保傅」は具体的な官名ではなく、もりやく一般の意で取ることも可能だが、『漢書』巻48賈誼伝の賈誼の上疏に「昔者成王幼在繈抱之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師」とあるのを踏まえ、具体的官名として訳出した。[上に戻る]

[3]原文「口能言則行人称辞、足能履則相者導儀」。『淮南子』主術訓の「口能言而行人称辞、足能行而相者先導」が出典だろう。董仲舒の『春秋繁路』離合根篇にも「足不自動而相者導進、口不自言而擯者賛辞」と似たような表現があり、当該箇所の日本語訳を参照して訳出した。坂本具償・財木美樹「『春秋繁露』訳注稿正貫・愈序・離合根・立元神・保位権篇」(『高松工業高等専門学校研究紀要』38、2003年、CiNiiオープンアクセスPDF)pp. 85-88。[上に戻る]

[4]語られている周公の逸話に関しては、原話は『尚書』金縢篇に見える。「史官」のところで(?)をつけたのは、原文では「問諸国史」となっているが、『尚書』や『史記』魯周公世家では「諸史」すなわち史官に問うたと記されているからで、原文の「国史」は「諸史」と同一の意を有しているのか、それとも異なっているのか判別ができない。「国史」の文を尊重したとしても意味を取りにくいので、ここでは「史官」と訳出させてもらった。後文にもう一度出てくる「史官」も原文は「国史」。
 周公のこのときの話は様々なバージョンがあったらしく、史料間で細部の情報が異なることがある。武王が死んだとき成王は何歳であったか、周公はいつ東にいったのか、天の災異と金縢開封は周公没後か否か、等々。特に最後の点は訳出にも多少影響がありそうな問題で、『史記』魯周公世家では周公没後として語られているが、司馬貞は「『尚書』では没後として書かれていない!」と反対をぶつけており、『漢書』の顔師古注を見る限り、顔師古も金縢開封を周公没以前のものとして認識しているようである。しかし、『洪範五行伝』(『後漢書』伝51周挙伝・李賢注引)も『史記』と同様の記述をしているようだし、さらに肝心の『尚書』は司馬貞が主張しているほど明確な記述ではなく、没後でも没前でも解釈できるし、『漢書』『後漢書』等の故事の引用例もこれまたどちらでも解釈できる。要するに没後か没前はこの説話においてはそれほど重要な要素ではなく、「金縢を開いてからようやく周公を信じるようになった、そんで天の怒りもおさまった」、このプロットだけが重要だったみたいだ。なので、曹丕もそれほどこの点は気にしていないのではないかと思っています。訳文も没後没前は明言しておかずにしておきます。[上に戻る]

[5]私は調べないとわからなかったので注をつけておきます。これは張邈と結託して兗州を強襲し、濮陽にこもった呂布を曹操が攻囲したときの話である。詳しい話は武帝紀の裴松之注に引く『献帝春秋』に見える。ちくま訳から引用(p. 30)、「太祖が濮陽を包囲すると、濮陽の豪族田氏が内通して来たので、太祖は城に入ることができた。その〔侵入した〕東門に火を放ち、引き返す意志のないことを示した。戦闘になり、軍は敗れた。呂布の騎兵は太祖を捕えたが彼だと知らずに訊ねた、「曹操はどこにいる。」太祖、「黄色の馬に乗って逃げて行くのがそうです。」呂布の騎兵はそこで太祖を放置して黄色の馬に乗った者を追いかけた。門の火はなお盛んであったが、太祖は火を突いて城を出た」。[上に戻る]

[6]桓瞱、字は文林。『後漢書』伝27桓栄伝に附伝されている。本伝中には曹操との関係が特に記されていないのだが、あるブログ記事http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-56.htmlによると、『三国志』武帝紀・建安25年の条の裴注に引く『曹瞞伝』に見える桓邵なる人物と同一人物でないかとの指摘が研究者によってなされているらしい。桓邵は若年時代の曹操を侮蔑していたために曹操の恨みを買ってしまい、後年謝罪したが許してもらえず、誅殺されたという。その研究者の本を所有していないので、どういう根拠でそのような主張をしているかは不明だが、そうだったらまさにぴったりという感じ。[上に戻る]

2015年3月15日日曜日

『宋書』百官志訳注(10)――門下・散騎

 侍中は四人。奏上された事案(の検討)を職掌とし、(皇帝の)側近くに侍り、(皇帝から奏上された事案に関する質問があるとそれに)応答して進言する。皇帝が外出した際、正直侍中〔その日の宿直当番の侍中の意か、註[1]を参照〕一人が璽を持って車に同乗する[1]。宮殿内や門下に関するあらゆる仕事〔原文「殿内門下衆事」〕はすべて(侍中が)管轄した[2]。周公が成王を誡めた「立政」で言及されている「常伯」が侍中の職務に相当する。侍中は秦の丞相の史〔書記官?かな?〕を由来とする。(秦代は丞相の史のうち)五人を宮殿の東廂〔直訳すると「東の方の部屋」、固有名詞ではないかも?〕に行かせて奏上された事案の決済をさせた。そこで、東廂に派遣された史のことを侍中〔禁中に侍る、の意だろう〕と呼ぶようになった[3]。西漢では定員がなく、多いときは数十人いた[4]。宮中に入って侍り、天子の車や衣服、持ち物から、下は便器の類にいたるまで、担当を分けていた。武帝のとき、孔安国が侍中となると、彼が儒者であったことから、特別に天子の唾壺を担当させたので、朝廷はこれを光栄なことと見なした。(侍中を)長期のあいだ務めた者は侍中僕射になった[5]。東漢では少府に所属し、依然定員がなかった。(皇帝の)側に侍り、(皇帝の)もろもろの業務を補助し、天子から質問されたら応答することが職務であった。皇帝が外出した際、(侍中のうちでもとりわけ)博識の者一人が伝国璽を持ち、斬白蛇剣を手にして同乗した。ほかの侍中はみな馬に乗り、車の後ろについた[6]。光武帝のとき、侍中僕射を侍中祭酒に改称した。漢の時代は、宦官と同様、宮中に勤務していた。武帝のとき、侍中の莽何羅が刀をわきにはさみ持って暗殺を謀ったので、これをきっかけに侍中は宮中の外へ出され、仕事があれば宮中に入り、終われば出るようになった。王莽が漢の政権を掌握すると、侍中は再び宮中に入り、宦官とともに宮中で勤務した。章帝の元和年間、侍中の郭挙が後宮の側室と通じようとたくらみ、佩いていた刀を抜いて侍妃を驚かせたので、郭挙は誅に伏し、侍中はこうして宮殿の外に出ることとなった[7]。魏晋以降、侍中は四人置いた。この定員とは別に加官の侍中もあったが、その場合は定員がなかった[8]。秩は比二千石[9]

〔以上、巻39百官上、了〕

『宋書』巻四十志第三十百官下


 給事黄門侍郎は四人。侍中とともに門下の衆事を管轄する[10]。郊祀や宗廟(のときであれば、一人がかさを持ち)、臨軒(や朝会)のときであれば、一人が麾(はた)を持つ[11]。『漢百官表』によると、秦では給事黄門と言い、定員はなく、左右に侍従することを職務としており、漢はこれを継承したのだと述べている[12]。東漢では給事黄門侍郎と言い、やはり定員はなく、左右に侍ることを職務とし、宮殿と宮外を取り次いだ。諸王が朝見した際は王を引率して着席させた[13]。応劭が言うに、「毎日夕方に青瑣門に向かって拝礼するので、夕郎と呼ぶ」と[14]。史臣が按ずるに、劉向が子の歆に書簡を送って、「黄門郎は要職だ」と言っている[15]。したがって、前漢のときからすでに(給事黄門は)黄門侍郎になっていたのである[16]。董巴『漢書』〔隋書・新唐書に董巴の名で記録されている著作は、魏の董巴の『大漢輿服志』のみ。これを指す可能性高〕に「禁門を黄闥と言い、宦官がこの門を管理したので、(その官を)黄門令[17]と呼んだのである。とすれば、黄門郎も(黄門令と同様に)黄闥門の内側で仕事をした〔原文「給事」〕ので、黄門郎と呼んだのであろう」とある[18]。魏晋以降、定員は四人、秩は六百石[19]
 公車令は一人。章や奏などの文書を(官から)受け取る仕事を職務とする。秦には公車司馬令があり、衛尉に所属していた。漢はこれを継承した。(秦漢の公車司馬令は)宮殿の南の闕門を管轄していた。(漢代においては?)およそ、吏や民が文書を上奏した際や、地方が(中央に物資などを)貢献した際、(皇帝に)召されて公車令のところに(取り次ぎを願い出て)来た者は、すべて公車司馬令が取り次いでいた[20]。江左以来、たんに公車令と言った[21]
 太医令は一人。丞は一人。『周官』では医師と言い、秦では太医令であった。二漢のときは少府に所属していた[22]
 太官令は一人。丞は一人。『周官』では膳夫と言い、秦で太官令であった。漢のときは少府に所属していた[23]
 驊騮厩丞は一人。西漢では龍馬長、東漢では未央厩令、魏では驊騮令と言った[24]
 公車令から驊騮厩丞までは侍中の管轄下にある[25]

 散騎常侍は四人。左右に侍するのが職掌である[26]。秦は散騎を置き、またこれとは別に中常侍を置いた。散騎は天子の車のうしろにつきしたがう[27]。中常侍は宮中に入ることができた。ともに定員はなく、(常設ではなく)加官であった。東漢のはじめ、散騎を廃し、中常侍には宦官を充てることにした。魏の文帝の黄初のはじめ、散騎を置き、中常侍と統合して散騎常侍とし、孟達を最初に任命した。長く就官した者は祭酒散騎常侍となった[28]。秩は比二千石。
 通直散騎常侍は四人。魏末、散騎常侍にも員外〔正規の定員メンバーではなく、非常勤メンバーみたいなやつ〕の者がいた。晋の武帝は(員外の)二人を(正員の)散騎常侍と同じように宿直をおこなわせた〔原文「通直」、注で指摘するが、本来の字句は「通員直」の可能性がある。どっちにしろわからんけど、「当直」を「正員」と「共通」させてやらせた、みたいに解した〕。これを通直散騎常侍と言うようになった。江左では五人置かれた[29]
 員外散騎常侍は魏末に置かれた。定員はなし。
 散騎侍郎は四人。魏の初めに散騎常侍と一緒に置かれた。魏晋の散騎常侍、散騎侍郎は侍中、黄門侍郎とともに尚書から送られてきた奏上文の決済に関わっていたが、江左になってこの仕事は職掌から外れた。
 通直散騎侍郎は四人。初め、晋の武帝が員外散騎侍郎を四人置き、元帝は(その内の)二人を散騎侍郎とともに通直させたので、これを通直散騎侍郎と言うようになった。のちに増員して四人となった。
 員外散騎侍郎は晋の武帝が置いた。定員はなし[30]
 給事中は定員なし。西漢が置いた。皇帝からの質問に応答する。官位は中常侍に次いだに位置した。東漢に廃されたが、魏のときに復置された[31]
 奉朝請は定員がないが、しかし官ではなかった。東漢が三公、外戚、宗室、諸侯を罷免したり廃するとき、(彼らを)多く奉朝請に命じた。奉朝請とは、春と秋の謁見儀礼を奉ずる(参加する)という意味である〔春の儀礼を「朝」、秋のものを「請」と呼ぶ〕[32]。晋の武帝は宗室・外戚を奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉とし、(これらを)奉朝請とした。元帝が晋王となると、参軍を奉車都尉、掾属を駙馬都尉、行参軍・舎人を騎都尉としたが、みな奉朝請である。のち、奉車都尉、騎都尉を廃し、駙馬都尉だけを奉朝請として残した。宋の高祖の永初以来、奉朝請の選任基準が混乱していたので、公主を娶った者だけを駙馬都尉に任ずることとした 。(もともとは)この三都尉はみな漢の武帝が置いた官である。宋の孝建の初め、奉朝請は廃された。駙馬都尉、また三都尉の秩は比二千石。



――注――

[1]原文は「正直一人負璽陪乗」。『晋書』巻24職官志によれば、この規定は魏晋以降のものである。本文後半に後漢時代の規定が記されているが、そこには「多識者一人」が同乗することになっており、そのためここの「正直」も人の性質を表した言葉だと解釈したくなるのだが、『晋書』職官志に「次直侍中」は車の護衛、「正直侍中」は同乗、その他は馬に乗る、と見え、『宋書』や『晋書』には「次直侍中」「正直侍中」が一種のタームとして使用されている用例がほかにも散見する。さらに『北史』巻49念賢伝に北魏が分裂しはじめたころのこととして、「(念賢は)広陵王欣、扶風王孚らと同時に正直侍中になった(与広陵王欣、扶風王孚等同為正直侍中)」とあり、北朝の用例であるとはいえ、「正直侍中」は何らかの官の正式な名称であると解釈した方が良さそうである。
 とはいえ、「次直」も「正直」も意味を示唆してくれるような用例が見つからず、はっきりしたことはわからない。「次直」は文字通りに読むと「宿直すること」で、「宮城宿直」が当番制で割り当てられていたかもしれず、だとすれば「次直」をこの意で押し通すことはできるかもしれない。
 しかしながら、だとすると「正直」はなんであるのかがいっそうわからなくなってしまう。「正直」と「次直」はまったく違う意味なのではなく、むしろかなり似た意味で捉える必要があるように思われるからだ。
 一方で、本文後半の通直散騎常侍のところの注[29]で言及するが、「直」という字は「宮殿に入って宿直すること」であるのはたしかなようである。
 要するに、「直」はどちらも「当直する」の意ととって良いが、「正」と「次」を対照の関係に解するべきではないだろうか。「正」であるか「次」であるかによって「直」の性質が変わるのだ、といった具合に。上のように「次」を「やどる」の意で読むのは避けるべきである。
 で、ここからは推測の域に入るが、まずシンプルに解せば、「正直」というのは「その日がちょうど宿直当番」のことで、「次直」はそのまま、「次の宿直当番」のことだと考えられるだろう。正直言うと、私はこの方向で解釈をしたいのだが、前引の『北史』の用例があるので、この解釈はむずかしいみたいである。
 次に考えられるのは、「正直」=定員枠の専任侍中、「次直」=加官の非常勤侍中、という解釈だ。しかし、この解釈もきびしい。加官扱いの侍中が宿直当番をしていたとは思えないこと、散騎常侍は定員内か定員外かの区別を「員外」であらわしており、「直」で区別はしていないこと、これらのことから、解釈としては魅力的なのだけど採用するのはむずかしいように思える。
 これ以上はうまい理解が考えつかないので、今回は『北史』の用例に目をつぶって、シンプルなほうの解釈で訳文を作成した。
 『晋書』職官志「皇帝が外出された際は、次直侍中(の一人)が車(の側で)護衛をし、正直侍中(の一人)が璽をもって同乗して剣を佩かない。他の侍中はみな馬に乗って(車のうしろから)つきしたがう。(皇帝が外出から戻って)宮殿にあがる際は、散騎常侍と一緒に皇帝がのぼるのをたすけ、侍中は左を、散騎常侍は右をはさみかかえる(大駕出則次直侍中護駕、正直侍中負璽陪乗、不帯剣、余皆騎従。御登殿、与散騎常侍対扶、侍中居左、常侍居右。)」。『太平御覧』巻219および『初学記』巻12侍中に引く『斉職儀』はこれとほぼ同じ。[上に戻る]

[2]注[10]に引く『通典』によれば、侍中を頂点とする官のグループが「門下省」と呼ばれたのは、侍中や黄門侍郎が「門下衆事」を職掌としていたからだという。って言ってみると、とってもトートロジーな感じなんだけど、そう書いてあるんだからしょうがない。『初学記』巻12侍中には「門下省、自晋以来名之」とあり、晋代からかたちを取りはじめたところであるらしい。実際、用例を見てみると、西晋時期から用例が多く見えている。
 じゃあ「門下衆事」ってのは何なのだねという問題が出てくるわけなんですが・・・ちょい考えてみましょう。
 まず魏晋宋の侍中や黄門侍郎は具体的にどのような職務をおこなうと規定されていたのか。『斉職儀』の佚文には、「(侍中)備切問近対、拾遺補闕也」(『御覧』巻219)、「(黄門侍郎)与侍中掌奏文案、賛相威儀、典署其事」(『御覧』巻221)、「(晋宋斉)侍中並与三公参国政、直侍左右、応対献替」(『初学記』巻12)とある。まとめてみると・・・

①(尚書事などの)政務の相談役
②尚書から送られてきた文書の取次
③儀礼での整列や行幸のときの行列などの補助役、あるいはそれらの事案の責任管理

  というわけでこれらが「門下衆事」に相当するようなんだが、どうして「門下」なのかはさっぱりわからんね。
 ここで参考になりそうなのが、州や郡の官組織。門下掾、門下督、門下書佐・・・「門下云々」って名称の役職がたくさんいるじゃない。
 この手の研究で古典的な厳耕望氏によれば、郡守の秘書、文書業務補佐、護衛、顧問役等々の役職が「門下」に分類できるらしい(『厳耕望史学著作集 中国地方行政制度史――秦漢地方行政制度』上海古籍出版社、2007年、pp. 124-29)。だからまあ、郡守個人に密接に関係する事柄や業務補佐が「門下」と言えるのだろう。
 郡守を皇帝に置き換えれば、侍中もそれに近いような感じの立ち位置にいるし、皇帝の日常生活・業務全般の補佐雑務を「門下衆事」と呼んでいたのではなかろうか。
 なおそれでも「門下」って何が由来なんだと気になるでしょうが、これはもうワカラン。『後漢書』伝3公孫述伝の「門下掾」の李賢注に「州郡有掾、皆自辟除之、常居門下、故以為号」とあるが、いや「いつも門下にいる」ってどういう意味なんだと・・・。主人の受付的な、あるいは取次的なそんな意味なのかな。[上に戻る]

[3]『晋書』職官志は侍中の由来について、「考えてみるに、黄帝のときに風后が侍中になっている。周では常伯に相当する職務であった。秦は古名を採用して侍中を設け、漢はそれを継承したのである(案黄帝時風后為侍中、於周為常伯之任、秦取古名置侍中、漢因之)」と記す。[上に戻る]

[4]漢の侍中はそもそも加官であった。『漢書』巻19百官公卿表・上「侍中・左右曹・諸吏・散騎中常侍、皆加官、所加或列侯・将軍・卿大夫・将・都尉・尚書・太医・太官令至郎中、亡員、多至数十人。侍中・中常侍得入禁中、諸曹受尚書事、諸吏得挙法、散騎騎並乗輿車給事中亦加官、所加或大夫・博士・議郎、掌顧問応対、位次中常侍。中黄門有給事黄門、位従将大夫。皆秦制」。本文で言及のある官は太字にしておいた。[上に戻る]

[5]侍中僕射については『通典』巻21職官典3侍中に「もともと侍中僕射が一人置かれていた。〔原注:秦漢時代は侍中で功(=勤続期間)が高い(長い)者一人を侍中僕射とした。〕後漢の光武帝は僕射を祭酒に改めた。(後漢時代は)置いたり置かなかったりで、常設ではなかった。また侍中祭酒は少府に所属した(本有僕射一人。〔秦漢以功高者一人為僕射。〕後漢光武帝改僕射為祭酒、或置或否、而又属少府)」とある。[上に戻る]

[6]秦の丞相史からここまでは『御覧』巻219引『漢官儀』にそのまま見える。また、侍中が色々な器物を分担担当していて、孔安国はとりわけ~のくだりと後漢の皇帝外出の記述は『初学記』巻12侍中に引く『斉職儀』にもそのまま見えるが、さらに次のように続けている。「初、漢侍中親省起居、故俗謂虎子、虎子、褻器也」。侍中は皇帝の日常生活のお世話をしていたから、俗に「おまる」(便器のことね)って呼ばれてたんだって。[上に戻る]

[7]「宦官と禁中に勤務していた」からここまでは『続漢書』百官志三・侍中の条・劉昭注引『蔡質漢儀』にそのまま見える。魏晋時代の侍中がどうであったのかはわからないが、ここに何も言及されていないままであることを踏まえると、依然として宮中から出されたままだったのかもね、用があるとき、許可されたときだけ入れるみたいな。普通やん・・・。[上に戻る]

[8]侍中に定員が設けられたはじまりは後漢献帝即位ころであったらしい。『通典』巻21侍中に「献帝即位、初置六人、賛法駕則正直一人負璽陪乗、殿内門下衆事皆掌之」、『続漢書』百官志三・黄門侍郎・劉昭注引『献帝起居注』に「帝初即位、初置侍中・給事黄門侍郎、員各六人、出入禁中、近侍帷幄、省尚書事」とある。
 『晋書』職官志には東晋時代のことが記されている。「東晋の哀帝の興寧四年、桓温は侍中の定員を二人削るようにと奏上し(採用され)た。のちに定員はもと(四人)に戻った(及江左哀帝興寧四年、桓温奏省二人、後復旧)」。桓温の改革が戻されたのは、他の官府同様、孝武帝時期のことであっただろう。[上に戻る]

[9]別のブログ記事でも触れたことがあるのだけど、侍中は冠の装飾が特殊(「貂蝉」)であったことでも著名。そのブログ記事からそのまま文章を以下に流用します。西晋以降、侍中を含めた侍臣の官は、武冠を「貂蝉」で飾る規定であったらしい。『宋書』巻18礼志五に「侍中・散騎常侍及中常侍、給五時朝服、武冠。貂蝉、侍中左、常侍右。皆佩水蒼玉」とある(礼志五のかかる箇所が、西晋泰始年間の規定である可能性が高いことは、小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年を参照)。具体的には、蝉の羽で飾りつけた金製のバッジと、貂の毛を挿した金製の竿のことで、竿を侍中は左、散騎常侍は右に挿す。『晋書』職官志「侍中・常侍則加金璫、附蝉為飾、挿以貂毛、黄金為竿、侍中挿左、常侍挿右」。武冠は戦国趙が起源だというが、これに貂蝉を飾る習慣は秦漢以来あったようで、その由来について、後漢の胡広は「昔趙武霊王為胡服、以金貂飾首。秦滅趙、以其君冠賜侍臣」と言い、応劭『漢官儀』は金=剛健・百錬不耗、蝉=高潔(「居高食潔」)、貂=内剛外柔、を比喩しているとするなど諸説ある。
 『通典』巻21侍中には「漢代では皇帝のお側つきの官職で(能力如何ではなく皇帝の好みに左右しての任命で)あったが、魏晋時代に(定員枠が設けられて)選挙によって登用されるようになると、社会的ステータス〔原文の「華重」をとりあえずこう訳しておく〕が高くなった。だからといって、役割や職務に大きな変化があったわけではない(漢代為親近之職、魏晋選用、稍増華重、而大意不異)」。つまり、侍中は漢代も魏晋も皇帝の諮問相手であったことに違いはなく、「尚書からの文書決裁をおこなった(省尚書事)」などの記述もその程度のイメージで軽く受け止めておくのが良いと私は思います。[上に戻る]

[10]『通典』21「門下省、後漢謂之侍中寺。晋志曰、給事黄門侍郎与侍中、倶管門下衆事、或謂之門下省」。ここで引用されている「晋志」の文章は唐修『晋書』のなかには見えない。[上に戻る]

[11]原文「郊廟臨軒、則一人執麾」。『通典』巻21門下侍郎に「郊廟則一人執蓋、臨軒朝会則一人執麾」とあり、中華書局はこれをもって宋書本文に脱文があるのではないかと推測している。いちおうこの指摘に従って本文を補った。[上に戻る]

[12]現行の班固『漢書』百官公卿表(注[4]引用)には「給事黄門」の名がわずかに見え、侍中らと同じく無員であり、秦官であることは記述から読み取れるが、「左右に侍従すること」については明記されていない。ここに言及されている『漢百官表』は班固のものとは違うのかもしれないが、しかしこの名を有する著作は隋書などに記録されておらず、詳細は不明。[上に戻る]

[13]「東漢では給事黄門侍郎と言い・・・」からここまで、『続漢書』百官志三・黄門侍郎の本注とほぼ同じ。なので、宮中と外との取次とかうんたらは後漢時代の職掌として受け止めておいた方が良い。魏晋時期の黄門侍郎はあくまで「門下衆事」が職務なのだ。[上に戻る]

[14]『続漢書』百官志三・黄門侍郎・劉昭注引『漢旧儀』「黄門郎属黄門令、日暮入対青瑣門拝、名曰夕郎」。青瑣門は劉昭の引く『宮閣簿』によれば、洛陽南宮の門なんだって。[上に戻る]

[15]劉向の書簡は『御覧』巻221に『劉向集書誡子歆』として詳しく引用されている。「今若年少得黄門侍郎、顕処也。新拝、皆謝貴人、叩頭謹戦戦慄慄、乃可必免」。[上に戻る]

[16]「史臣」がここで問題としたいのは、ある史書(『漢百官表』)によると秦・前漢では給事黄門だったのに、後漢の史料(『続漢書』)になると給事黄門侍郎と名称が変わっていることであり、このことに補足を試みようとしているのだ。で、彼の結論は、「給事黄門はすでに前漢時代には侍郎の名称を加えられていた」である。
 ところが、『初学記』巻12黄門侍郎引『斉職儀』をみると、「当初、秦には(黄門侍郎とは別に)給事黄門を置いており、漢はこれを継承した。後漢のはじめ、黄門侍郎と給事黄門を統合して給事黄門侍郎を置いた。のちに侍中侍郎に改称されたが、まもなく給事黄門侍郎に戻された。魏と晋では給事黄門侍郎が四人置かれ、侍中とともに門下衆事を管轄した。侍中と給事黄門侍郎とは、散騎常侍とあわせて清官であったので、(合わせて)黄散と呼ばれてきた。宋と斉も給事黄門侍郎を四人置いた(初、秦又有給事黄門之職、漢因之、至東漢初、并二官曰給事黄門侍郎。後又改為侍中侍郎、尋復旧。自魏及晋、置給事黄門侍郎四人、与侍中俱管門下衆事、与散騎常侍並清華、代謂之黄散焉。宋斉置四人)」とあって、『斉職儀』が何にもとづいているかは知らんが、史臣の理解とは食い違っている、ってか史臣は『斉職儀』も『斉職儀』が参考にした史料もたぶん見てないよね。
 なお『斉職儀』で言及されている侍中侍郎への改称は後漢・献帝の時期のことであったようだ。『続漢書』百官志三・劉昭注引『献帝起居注』「献帝が即位した当初、はじめて(定員枠のある)侍中と給事黄門侍郎を置いた。定員はともに六人。・・・給事黄門侍郎を侍中侍郎と改称し、給事黄門の名称を除いたが、まもなくもとに戻された。かつて、侍中と黄門侍郎は宮中で勤務していたため、政治から距離を置かせていた。(その後、事件が相次いだので侍官は宮外で仕事をするようになったが、後漢末に)宦官を誅殺したのち、侍中と黄門侍郎は(ふたたび)宮中に出入りできるようになり、機密情報が漏洩するようになってしまった。そこで王允は尚書と同様の措置を取るように奏上した。これ以降、侍官は宮中に出入りできず、客人との交際も禁止された(帝初即位、初置侍中・給事黄門侍郎、員各六人・・・。改給事黄門侍郎為侍中侍郎、去給事黄門之号、旋復復故。旧侍中・黄門侍郎以在中宮者、不与近密交政。誅黄門後、侍中・侍郎出入禁闈、機事頗露、由是王允乃奏比尚書、不得出入、不通賓客、自此始也)」。[上に戻る]

[17]後漢時代、宦官のボスだった。『続漢書』百官志三・黄門令を参照。[上に戻る]

[18]『御覧』巻221引『輿服志』「禁門曰黄闥、以中人主之、故号曰黄(門)令、然則黄門郎給事黄闥之内、故曰黄門郎、本既無員、於此各置六人也」。本文とほぼ同じ。この文章は『通典』にも引用されている。『御覧』では『続漢書』の「輿服志」として引用されているが、司馬彪の『続漢書』輿服志には見えず、『後漢書』李賢注などもあわせて調べるかぎり、董巴『大漢輿服志』からの引用であるらしい。
 なお、中華書局は「黄門令と呼んだのである」までが董巴の著作からの引用で、つづく「とすれば(然則)・・・黄門郎と呼んだのであろう(故曰黄門郎也)」を百官志執筆者(史臣)の文章と解釈して校点しているが、『御覧』の引用を信ずれば、「然則・・・故曰黄門郎也」も董巴の引用に含まれる。本文ではその方向で訳文を作成している。[上に戻る]

[19]魏晋宋については、注[16]引用の『斉職儀』のほか、『通典』巻21門下侍郎「魏晋以来、給事黄門侍郎並為侍衛之官、員四人。宋制、武冠、絳朝服、多以中書侍郎為之」。[上に戻る]

[20]『漢書』百官公卿表・上・師古注「漢官儀云、公車司馬掌殿司馬門、夜徼宮中、天下上事及闕下凡所召皆総領之、令秩六百石」。『続漢書』百官志二・衛尉・公車司馬によれば、後漢時代は丞と尉も一人ずつ置かれていた。本訳注(5)の注[17]を参照。[上に戻る]

[21]『通典』巻25職官典7衛尉卿・公車司馬令に「宋以後属侍中」とある。[上に戻る]

[22]皇帝専属のお医者さん。所属の変遷が激しい。秦漢魏:少府→西晋:宗正→東晋:門下省(宗正廃止のため)→宋:門下省。『通典』巻25職官典7太常卿・太医署を参照。[上に戻る]

[23]皇帝の食事の責任者。飲食物、食器、酒、果物とか。太医同様、所属の変遷が激しい。秦漢魏:少府→晋:光禄勲→宋:門下省。『続漢書』百官志三・少府・太官、『通典』巻25職官典7光禄勲・太官署を参照。[上に戻る]

[24]皇帝や宮中で使う専用馬を育てる牧場の管理者。それぞれ各王朝における牧場の名前を冠している。漢は太僕の所属だったが、宋以後は門下省の所属。魏晋時代も太僕所属だった可能性が考えられるが、東晋以後は太僕は常設官ではなくなったため、それにともなって太常か門下かに異動したと思われる。『通典』巻25職官典7太僕卿・典厩署「漢西京太僕有龍馬長、東京有未央厩令、掌乗輿及宮中之馬。魏為驊騮厩、晋有驊騮・龍馬二殿。自宋以後、驊騮厩属門下」。[上に戻る]

[25]侍中を頂点としたこのグループを門下省と呼ぶことは前に見たとおり。ここに挙がっている官はすべて、漢代では少府の所属であった。それがどういうわけか、魏晋ころから少府の役割は縮小しはじめ、少府は物品の製造をおこなう官府になってゆき、様々な異動を経て、宋のはじめころには、旧少府所属で皇帝の日常生活のお世話をする官職は門下省に集まるようになった。けっこう共通性が高いわりには、太医や太官はすぐにこのグループに入ったわけじゃないんだよね。前述したように、「門下」という考え方は西晋時期にできあがったものと考えられるので、門下省が「門下衆事」を仕事とする「皇帝の日常生活を輔佐する官職グループ」の意で構想され、侍中らが中心に置かれていたのであれば、当然すぐにでも太官やらをここに移していいはずである。それを宗正とか光禄勲に移していったのはどうしてなんだろうね。この時期の門下省ってのはかなり特殊なもので、一種の官府のようなものとして捉えるべきではないんだろうか。[上に戻る]

[26]『御覧』巻224散騎常侍引『魏略』「出入侍従、与上談議、不典事」。皇帝につきしたがって、相談役にはなるけど、直接政治(「事」)を執ることはない、ってことかな。また『初学記』巻12散騎常侍に引く『斉職儀』には「典章表詔命手筆之事」とあり、『通典』巻21職官典3散騎常侍に東晋以降のこととして「以中書職入散騎省、故散騎亦掌表詔焉」とあり、東晋以降は詔や上表などの公文書の起草をおこなっていたらしいです。[上に戻る]

[27]注[4]で引用した『漢書』百官公卿表・上に「散騎騎並乗輿車」とあり、その師古注に「騎而散従、無常職也」とある。[上に戻る]

[28]『初学記』巻12散騎常侍引『斉職儀』「魏文帝置散騎之職、以中常侍合為一官、除中字、直曰散騎常侍、置四人。典章表詔命手筆之事。晋置四人、隷門下。晋初此官、選望甚重、与侍中不異。自宋以来、其任閑散、用人益軽、別置集書省領之」。[上に戻る]

[29]『晋書』職官志は「泰始十年、武帝使二人与散騎常侍通員直、故謂之通直散騎常侍。江左置四人」と記し、本文と若干の相違がある。しかし、『御覧』巻224通直散騎常侍に引く『宋書』には本文と同じ文章が引用されているが、「通直」は「通員直」、「五人」は「四人」になっている。『宋書』の本来の字句はそうなっていたのかもしれない。
 また『御覧』同巻引『陶氏職官要録』に「晋太始十年、詔東平王楙為員外常侍、通直殿中、与散騎常侍通直。通直之号、蓋自此始也」とあり、同引『朱鳳晋書』に「陳与・・・以父老、求去職、宿衛不宜曠、詔以為通直常侍」とある。これらから判断すれば、「通直」は「殿中」においてなされるものであるのだから、「宿直当番」のようなものと解するのが良いようである。また陳与が「宿衛が長期間にわたるのは不都合である(宿衛不宜曠)」ことから通直散騎常侍に任命されていることを考えると、いちおうやっぱり宿直はするみたいね。長期間にならないってことは、当番制で回転が速いか、少日数出勤で許されていたか、どっちかだろう。仮にこのように解釈できるのならば、当直をおこなうのは通常は定員のある散騎常侍のみの仕事で、員外は関係なかった、ってことなのだろう。[上に戻る]

[30]散騎省の成立史に関しては下倉渉「散騎省の成立――曹魏・西晋における外戚について」(東北史学会『歴史』86、1996年)がある。下倉氏によれば、曹魏文帝は自分=皇帝個人との関係が深い人間にとりあえず位を与えておくための、一種の人材プールとしての目的から散騎省を設立した。しかしその運営は徐々に外戚や宗室が多くを占めるようになり、それでも「皇帝個人との関係を重視する」という方針自体は保たれてこそいるが、彼らの就任官としての性格を濃くしていった。またこれに伴ない、もともと定員枠のあった散騎省は拡大=無員化が進んでいった。
 氏がこの散騎省の動向と対比させて理解しているのが侍中系統のいわゆる門下省。下倉氏によれば侍中は外戚・宗室の就任官であったが(氏の「後漢末における侍中・黄門侍郎の制度改革をめぐって」、『集刊東洋学』72、1994年で論じられているようだが、未見)、また注[8]や[16]で言及してきたように、侍中は後漢末に定員化され、外戚らの任命に抑制がかけられていた。しかし結局散騎省があんな感じになっちゃったから、この後漢末の改革の方向はどっかに行っちゃったね、って。
 氏の結論も要約しておくと、後漢から魏にかけては外戚や宗室の過度の政治参与を防止する方向に力が注がれていたが、明帝ころを境にまず外戚、そして晋ころから宗室の政治参与が重視されるようになったことが、散騎省の変化と拡大に影響した。これは魏晋の政治が、漢代とは異なる秩序原理を模索する一方で、旧来の漢代的原理からは完全に脱却することができなかったことの一例である、と。
 散騎省の専論は珍しいので、幅を割いて紹介しておきました。[上に戻る]

[31]『御覧』巻221給事中引『漢儀注』、『晋書』職官志、『初学記』巻12引『斉職儀』にそれぞれ詳しい記述が見えているが、ここではそれらをすべてまとめてくれている『通典』巻21職官典7門下省・給事中の記述を引用しておく。「諸給事中、日上朝謁、平尚書奏事、分為左右曹、以有事殿中、故曰給事中。漢東京省。魏代復置、或為加官、或為正員。晋無加官、亦無常員、在散騎常侍下、給事黄門侍郎上、・・・宋斉隷集書省」。[上に戻る]

[32]要は臣から官僚としての役割が剥落した状態。官僚ではないけど臣である、みたいな。儀礼の場での朝位(席次)が確保されていたということは、儀礼の場に立ちあうのは皇帝の官僚としてではなく、純粋に皇帝の臣として参列しなければならない、ということだろうか。[上に戻る]