2014年5月31日土曜日

成漢・李氏の来歴神話(続)

 前回の記事では李氏の来歴に廩君伝説が利用されていることを述べ、李氏の来歴神話に矛盾が見られることを指摘した。今回はその廩君説話について、他の史料を読みつつ検討してみたい。
 さて、廩君および李氏の神話に関連する説話は、『華陽国志』、『後漢書』、『水経注』、『十六国春秋』などの諸書に見えているが、まず最初に比較的記事が豊富で整っている范曄『後漢書』伝86南蛮西南夷列伝から読んでみよう(引用文中、ブラケット[ ]は李賢注、亀甲カッコ〔 〕は訳者注を示す)。
A(長沙武陵蛮の条)
秦の昭王は白起に楚を討たせ、(楚が支配していた)蛮夷を支配下に置き、黔中郡を設けた。漢が起こると、武陵郡に改称された。(その地の蛮夷は)毎年、大人は一人につき布一匹、小口〔子供という意味でしょう〕は一人につき二丈を納付させた。これを「賨布」と呼ぶ[李賢注:『説文』は「(賨とは)南蛮の賦税のことである」と記している](秦昭王使白起伐楚、略取蛮夷、始置黔中郡。漢興、改為武陵。歳令大人輸布一匹、小口二丈、是謂賨布。[『説文』曰、「南蛮賦也」。])

B(巴郡南郡蛮の条)
巴郡南郡蛮。もともとは巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏の五姓であった。みな武落の鍾離山が出自である[一]。その山には赤と黒の二つの色をしたほら穴があり、巴氏の子は赤穴で、ほかの四姓の子はみな黒穴で生まれていた。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相だけが当てることができたので、みなは(務相を)たたえた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かばせることができた者が君長になると決まりを立てて勝負した。ほかの四姓の者はすべて沈んだが、務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた[二]。塩水〔『水経注』によれば夷水の別名〕の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩陽の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回った。日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天地はようやく明るさをとりもどした[三]。廩君はこうして夷城の君主となり[四]、四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。秦の恵文王が巴中を併合すると、巴氏を(その地の)蛮夷の君長とし、代々秦の王族の娘を嫁がせた。蛮夷の一般人には不更と同等の爵を与え、罪を得ても爵で免罪することができるようにした。君長は、毎年2016銭の賦銭、三年に一回1800銭の義賦を納めた。一般の人民は一戸につき、幏布八丈二尺、にわとり三十鍭〔李賢によると149羽〕を納めた。漢が起こると、南郡太守の靳彊はすべて秦の時代のやりかたを踏襲するよう要請し(許可され)た。(巴郡南郡蛮、本有五姓、巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏。皆出於武落鍾離山。其山有赤黒二穴、巴氏之子生於赤穴、四姓之子皆生黒穴。未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣於石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃独中之、衆皆歎。又令各乗土船、約能浮者、当以為君。余姓悉沈、唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦即化為蟲、与諸蟲羣飛、掩蔽日光、天地晦冥。積十余日、廩君伺其便、因射殺之、天乃開明。廩君於是君乎夷城、四姓皆臣之。廩君死、魂魄世為白虎。巴氏以虎飲人血、遂以人祠焉。及秦恵王并巴中、以巴氏為蛮夷君長、世尚秦女、其民爵比不更、有罪得以爵除。其君長歳出賦二千一十六銭、三歳一出義賦千八百銭。其民戸出幏布八丈二尺、鶏羽三十鍭。漢興、南郡太守靳彊請一依秦時故事。)

[一]『世本』によれば、「廩君の祖先は、巫誕〔中華書局によると人名らしいが、詳細は不明〕の子孫である」。(『代本』曰、「廩君之先、故出巫誕」也。)
[二]『荊州図副』によれば、「夷陵県の西に温泉がある。古老の話によると、この温泉は元来、塩を産出していたとのことで、現在でも塩っ気があるそうだ。県の西にはほら穴がある山が一つある。穴のなかには二つの大きな石が、一丈ばかり離れて並んでおり、俗に陰陽石と呼ばれている。陰石のほうはいつも湿っていて、陽石のほうはいつも乾いている」。また盛弘之の『荊州記』によれば、「むかし、廩君が夷水を航行していたとき、塩神を陽石の上で射殺した。調べてみたところ、現在〔盛弘之は劉宋の人〕の施州清江県の河に塩水とも呼ばれている河がある。源流は清江県の西の都亭山にある」。『水経』に「夷水はは巴郡魚復から流れ出ている」とあり、酈道元の注に「水の色が澄んでいて、十丈にわたって照らすほどで、砂と石がきれいに分かれている。蜀の人はその澄んださまを見て、清江と名づけたのである」。(『荊州図副』曰、「夷陵県西有温泉。古老相伝、此泉元出塩、于今水有塩気。県西一独山有石穴、有二大石並立穴中、相去可一丈、俗名為陰陽石。陰石常湿、陽石常燥」。盛弘之『荊州記』曰、「昔廩君浮夷水、射塩神于陽石之上。案今施州清江県水一名塩水、源出清江県西都亭山」。『水経』云、「夷水巴郡魚復県」、注云、「水色清、照十丈、分沙石。蜀人見澄清、因名清江也」。)
[三]『世本』に「廩君は人をやって青い糸を塩神に贈り、『これを身に着けてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします』と伝えさせた。塩神は糸を受け取ると、それを身に着けた。廩君は陽石の上に立ち、青糸をねらって矢を放った。矢は塩神に命中し、塩神は絶命した。すると、天は明るくなった」とある。(『代本』曰、「廩君使人操青縷以遺塩神、曰、『嬰此即相宜、云与女俱生、弗宜将去』。塩神受縷而嬰之、廩君即立陽石上、応青縷而射之、中塩神、塩神死、天乃大開」也。)
[四]以上の文章はすべて『世本』にも見えている。(此已上並見『代本』也。)

C(板楯蛮の条)
板楯蛮。秦の昭襄王のとき、一匹の白虎が現われ、虎の群れを引き連れながら秦、蜀、巴、漢の領域をうろうろし、千余人を殺傷していた。昭襄王は虎を殺せる者を何度も募り、一万家の邑と百鎰の金を懸賞金にかけていた。当時、巴郡閬中の蛮夷で、白い竹製の弩をつくることができる者が、たかどのに登り、(その弩を使って)白虎を射殺した。昭襄王は彼をたたえたが、蛮夷であったために封建したくなかった。そこで石に盟約を刻み、(巴郡の蛮夷はみな)田地は一頃まで租税を課さないこと、妻は十人まで算賦税を課さないこと、人に傷害を加えた者は罪を減免し、人を殺害した者は倓銭[何承天の『纂文』によれば、「倓とは、蛮夷が贖罪するために使用する貨幣である」]によって罪をあがなうことができるようにした。盟約には、「秦人が夷人に対して罪を犯した場合、黄龍のつがいを送る。夷人が秦人に対して罪を犯した場合は、清酒ひとつぼを送る」とあった。蛮夷はこれに安堵した。高祖が漢王になると、蛮夷を徴発して関中を討った。関中が平定されると、巴中に帰らせた。渠帥の羅、朴、督、鄂、度、夕、龔の七姓は租と賦を免税した。ほかの夷人は、毎年、一人につき四十の賨銭を納めさせることとした。(彼らは)代々、板楯蛮夷と呼ばれていた。閬中には渝水が流れており、住民の多くはその河の側に住んでいた。元来、敏捷かつ勇猛で、漢軍の先鋒となり、何度も敵軍の陣営を陥落させていた。歌や舞踊を好む風俗で、高祖は彼らの歌や舞踊を見ると、「武王が紂王を討ったときの歌のようだ」と言った。そこで音楽を仕事とする楽人にその歌と舞を覚えさせた。それがいわゆる巴渝舞と呼ばれている舞である。こうしてついに、代々漢に服従することになったのである。(板楯蛮夷者、秦昭襄王時有一白虎、常従羣虎数遊秦、蜀、巴、漢之境、傷害千余人。昭王乃重募国中有能殺虎者、賞邑万家、金百鎰。時有巴郡閬中夷人、能作白竹之弩、乃登楼射殺白虎。昭王嘉之、而以其夷人、不欲加封、乃刻石盟要、復夷人頃田不租、十妻不筭、傷人者論、殺人者得以倓銭贖死。盟曰、「秦犯夷、輸黄龍一双。夷犯秦、輸清酒一鍾」。夷人安之。至高祖為漢王、発夷人還伐三秦。秦地既定、乃遣還巴中、復其渠帥羅、朴、督、鄂、度、夕、龔七姓、不輸租賦、余戸乃歳入賨銭、口四十。世号為板楯蛮夷。閬中有渝水、其人多居水左右。天性勁勇、初為漢前鋒、数陷陳。俗喜歌舞、高祖観之、曰、「此武王伐紂之歌 也」。乃命楽人習之、所謂巴渝舞也。遂世世服従。)
 かなりの部分で『晋書』李特載記と重なる。さしあたり、以下の点を挙げておこう。
①黔中郡と賨
 『晋書』李特載記によれば、廩君の子孫たちは秦の時代に黔中郡の統治下に編入され、毎年賨銭四十を納めていたという。しかし、『後漢書』の記述によると、黔中郡の蛮夷(武陵蛮)は銭ではなく布を納めているし、賨銭四十を納めていたのは巴郡に集住していた蛮夷(板楯蛮)である。しかも、武陵蛮も板楯蛮も、廩君の子孫とは記述されていない。
②漢の高祖との関係
 『晋書』李特載記においては、李特の先祖たちは漢の高祖に付き従い、関中の平定に功績があったという。同様の記述が『後漢書』板楯蛮の条に見えるが、彼らは廩君とはあまり関係がないようである。
③巴郡南郡蛮と板楯蛮
 そもそも、漢字文化圏の人間が記述した内容に従って、当時の蛮夷を厳密に区分けすることなどできるのか、という批判があるかもしれない。あるいは、これらの蛮夷たちは隣接地域に居住していたので、現実にも区分があいまいだし、あくまで行政的な区分にすぎない、あまりきっちりとした区切りを設けて蛮夷を考えるべきではないという意見もありそうだ。たしかにそれらは一理ある。だが、だとしても、巴郡南郡蛮にかんする説話と板楯蛮にかんする説話は全体的にあまりにも異なっていないだろうか。
 巴郡南郡蛮は夷水一帯、南郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しているらしいが、『晋書』でも『後漢書』でも彼らは元来五姓であり、白虎を尊んでいる。
 板楯蛮は巴郡を中心に集住していた蛮夷のことを指しており、『後漢書』によると彼らの親分は七姓、白虎を殺す者たちである[1]
 とりわけ、白虎に対する姿勢の違いは注目すべきだろう。廩君の話も含め、いったいどうやってこれらの話が漢字に翻訳されたのかというのは謎だが[2]、現状確認できる限り、これは両者の風俗の違いとして大事なポイントだと思う。

 『後漢書』との比較検討を通してなにが言いたかったかというと、『晋書』李特載記冒頭のあの来歴の神話は、漢字文化圏に伝わっていた廩君=巴郡南郡蛮と、武陵蛮[3]と、板楯蛮の話がそれぞれ混合してできあがったまがいものだということだ。色々な資料をつなぎ合わせて一見筋の通ったお話に見せかけているものの、文脈が共通しない各資料を特段の根拠もなく、しかも矛盾を隠しきれないままに一つの筋に並べた、非常にずさんな話だと断言できるでしょう。

 ここで本質的な問題に入ろう。この李氏の来歴のお話はいつ、どのようにして創られたのか。直前の記事で、『晋書』の載記は北魏・崔鴻『十六国春秋』に由来する可能性が高いことを述べておいた。今回の李特についてはどうなのであろうか。『十六国春秋』を見てみよう(『太平御覧』巻123引『崔鴻十六国春秋蜀録』)。
李特、字玄休、巴西宕渠人、其先廩君之苗裔。秦併天下、以為黔中郡、薄賦其人、口歳出銭四十。巴人謂賦為賨、遂因名焉。及高祖為漢王、始慕賨民、平定三秦。既而不願出関、求還郷里、高祖以其功、復同豊沛、更名其地為巴郡。土有塩漆之利、民用殷阜、俗性剽勇、又善歌舞、高祖愛其舞、詔楽府習之、今巴渝舞是也。其後繁昌、分為数十姓。及魏武剋漢中、特祖父虎帰魏、魏武嘉之、遷略陽、拝虎等為将軍。内徙者亦万余家、散居隴右諸郡及三輔・弘農、所在号為巴人。
 翻訳はいいですかね。ええ、『晋書』の李特載記とまったく同じです。廩君のお話が『十六国春秋』では詳しく記述されていないのが『晋書』との違いとして挙げられるけど、『御覧』への引用時に節略された可能性もあるので、その点を差異として言い切ることは難しい(というか、『十六国春秋』でも蜀録冒頭に廩君の神話を記述していた可能性は高いと思う)。

 以上、次のことが明らかになりましたね。すなわち、『晋書』李特載記に記されている李氏の来歴はかなりデタラメである可能性が高いけども、それは唐の史官がテキトーに諸資料をツギハギしてしまったからではなく、そもそも唐の史官がほぼ丸写ししたと思われる『十六国春秋』の時点からああいう整合性の取れない話になっていたということだ。
 じゃあ崔鴻はいったい何を参考にしてあんな話を記述したのだろう。注[2]で論じておいたように、范曄『後漢書』、酈道元『水経注』である可能性は低い。だとしたらなにを参考にしたのだろう? それに李氏は本当に廩君の子孫を名乗っていたのだろうか。仮にそうだとしたらどうして? 逆に崔鴻のウソだとしたらそれもまたどうして?
 また次回。



――注――

[1]板楯蛮が虎狩りを特徴とする蛮夷として認識されていたことは、次の『華陽国志』巻一巴志の記述からうかがい知れる。「秦の昭襄王のとき、白虎が危害を加えることが起こり、秦、蜀、巴、漢の地域がこれに悩んでいた。そこで秦王は国内に何度も懸賞をかけた。『虎を殺した者には封邑一万家、(もしくは?)それと同等の金と布帛を与える』。これを受けて、夷人の朐忍廖仲、薬何、射虎秦精らが白い竹から弩を製作し、たかどのの上から白虎を射撃した。(白虎の)頭に三本の矢が命中した。白虎はいつも虎の群れを従えていたが、群れの虎は(白虎が殺されたのを見て)大いに怒り狂った。(朐忍廖仲らは)群れの虎をすべて殴り殺し、虎たちはうなったあとに息絶えた。・・・〔秦王と夷人との盟約のくだりは省略。『後漢書』の記述とほぼ変わらないので〕・・・。漢が起こると、夷人は高祖に従って戦乱を平定し、功績を立てた。高祖は功績を考慮して税を免除し、虎を射ることだけを生業とさせた。一戸ごとに、一人につき賨銭四十を毎年納付させていた。そのため、『白虎復夷』と代々呼ばれることとなった〔「復」は税を免除することを意味する。虎狩りの功績で銭納以外の税の免除措置を得た夷人、ということだろう〕。あるいは「板楯蛮」とも呼ばれた。(彼らは)現在〔撰者・常璩が執筆した東晋時代ころのことか〕の『弜頭虎子』である〔虎のようにつえー、みたいな感じらしい〕(秦昭襄王時、白虎為害、自秦、蜀、巴、漢患之。秦王乃重募国中、『有能煞虎者邑万家、金帛称之』。於是夷朐忍廖仲、薬何、射虎秦精等乃作白竹弩、於高楼上、射虎。中頭三節。白虎常従群虎、瞋恚、尽搏煞群虎、大呴而死。・・・漢興、亦従高祖定乱、有功。高祖因復之、専以射虎為事。戸歳出賨銭口四十。故世号白虎復夷。一曰板楯蛮。今所謂弜頭虎子者也)」。なお『華陽国志』のテクストは任乃強氏の校注本(『華陽国志校補図注』上海古籍出版社、1987年)を用いた。[上に戻る]

[2]廩君の記述はこのほか、『水経注』巻37夷水にも見えており(後掲)、また李賢の注から推測するに、盛弘之『荊州記』にも記述されていた可能性が高いと思われる(現在は佚書で佚文にも明確に見当たらないが、廩君が塩神を殺した「陽石」についての記述が見えているので。また後掲の『水経注』も参照)。だが、より古くは、李賢が指摘している『世本』に見えているようである。たとえば『太平御覧』巻944に引く『世本』には断片的記述だが、『晋書』の李特載記とほとんど変わらない文言の文章が引用されている。
 では『世本』とはなんだねという話になるのだが、現在は佚書ということもあって、詳しくはよくわからない。先秦の帝王や諸侯・王の系譜などを細かに記述していたらしいということがわかるくらい。この本はじつは非常に古いもので、司馬遷が『史記』を編纂するさいにも参照した史書である。陳夢家氏は戦国趙の趙王遷の時代に趙で編纂された史書だと推測しているが(「世本考略」、『陳夢家著作集――西周年代考・六国紀念』中華書局、2005年)、妥当性はどうだろう。しかし、司馬遷以前にさかのぼるのは確かである。そんな古い時代から廩君の話が伝えられていたっていうのは興味深いね(ちなみに、『世本』は輯本が複数つくられており、代表的なものは西南書局や中華書局から発行されている『世本八種』に収められている)
《参考までに》『水経注』巻37夷水

 夷水は沙渠県から(佷山県に)入る。河の流れは浅く、かつ狭いので、かろうじて船が通れるほどである。夷水は東に流れて、難留城を過ぎてから南に向かう。難留城とは山のことである。山はぽつんとそびえていて、非常に険しい。西の斜面には一里ばかりのほら穴があり、火をともして百歩ばかり歩くと、二つの大きな石が一丈ばかりの離れて並んでいるのが見える。これを俗に「陰陽石」と呼んでいる。陰石はいつも湿っていて、陽石はいつも乾いている。水害もしくは干ばつが激しいときは、住民が服装を整えてほら穴に行き、干ばつのときは陰石をむちで叩く。すると、間もなく雨の日が多くなるという。水害のときは陽石をむちで叩く。するとたちまち晴れるという。聞くところでは、よく効き目があるそうだ。しかし、むちで叩く人が年寄りでなければ、住民たちはとても嫌がるので、(適当な年寄りがいない場合は)おこなわないそうだ。東北の斜面にもほら穴があり、数百人ばかりを入れることができる。戦乱が起こるたびに、住民はほら穴に入って賊から避難する。(このほら穴には)攻め入る隙がないので、難留城と呼ばれているのである。
 むかし、巴蛮には五姓あった。まだ君長が立てられていなかった時期、みながシャーマンであった。そこで、みなでほら穴に剣を投げ、穴に当てられた者を君長に奉ずることとした。すると、巴氏の子の務相が当てることができた。また、各自で(つくった)土の船に乗り、浮かんだ者が君長になると決まりを立てて勝負した。務相だけが浮いた。こうして、務相を君長に立てた。これが廩君である。(廩君は)土の船に乗り、夷水から塩陽に着いた。塩水の神女が廩君に、「ここは土地が広く、魚や塩も取れます。一緒に住みませんか」。廩君は断った。塩水の神女は夜に廩君のところへ来て一泊し、朝になるとたちまち虫に化け、ほかの虫たちと飛び回ったので日光が遮られ、天地が真っ暗になるほどであった。十数日経ち、廩君は隙を見て(塩水の神女を)射殺したので、天はようやく明るさをとりもどした。廩君は土の船に乗って河を下ってゆき、夷城に到着した。夷城の岸壁は険阻で曲がりくねっており、夷水も湾曲していた。廩君はこの光景を遠く見てとるとため息をついた。すると岸壁が崩落した。廩君がそれを登っていくと、上には四方が二丈五尺の平らな石があった。そこでそのそばに城を築き、居住することに決めた。四姓は彼に臣下として仕えた。廩君が死ぬと、その魂は白虎に変じた。そのため巴氏は、虎が人の血をすするため、(白虎のために)人を(犠牲に)まつることとした。塩水とは、夷水のことである。また、塩石というのがあるが、それは陽石のことである。盛弘之は、廩君が塩神を射撃した場所だと推測している。(夷水自沙渠県入、水流浅狭、裁得通船。東逕難留城南、城即山也。独立峻絶、西面上里余得石穴、把火行百許歩、得二大石磧、並立穴中、相去一丈、俗名陰陽石。陰石常湿、陽石常燥。毎水旱不調、居民作威儀服飾、往入穴中、旱則鞭陰石、応時雨多、雨則鞭陽石、俄而天晴。相承所説、往往有効。但捉鞭者不寿、人頗悪之、故不為也。東北面又有石室、可容数百人、毎乱、民入室避賊、無可攻理、因名難留城也。昔巴蛮有五姓、未有君長、俱事鬼神、乃共擲剣于石穴、約能中者、奉以為君。巴氏子務相乃中之、又令各乗土船、約浮者、当以為君。唯務相独浮。因共立之、是為廩君。乃乗土船、従夷水至塩陽。塩水有神女、謂廩君曰、「此地広大、魚塩所出、願留共居」。廩君不許。塩神暮輒来取宿、旦化為蟲、羣飛蔽日、天地晦暝、積十余日、廩君因伺便、射殺之、天乃開明。廩君乗土舟下及夷城、夷城石岸険曲、其水亦曲。廩君望之而嘆、山崖為崩。廩君登之、上有平石方二丈五尺、因立城其傍而居之。四姓臣之。死、精魂化而為白虎。故巴氏以虎飲人血、遂以人祀。塩水、即夷水也。又有塩石、即陽石也。盛弘之以是推是、疑即廩君所射塩神処也。)

   この記述を見る限り、酈道元は『世本』ではなく、盛弘之の『荊州記』を手元に置いてここの部分を記した可能性が高いように思える。細かく見てもらえればわかるのだが、文言の重複具合や省略する箇所の一致など、ここの酈道元の注に記された廩君の記述は范曄『後漢書』の記述とほぼ重なっている。
 そこで気になってくるのが盛弘之『荊州記』と范曄『後漢書』との関係である。どっちが早く書かれたのであろうか。『隋書』経籍志によると、盛弘之は劉宋の時期の人で、「臨川王侍郎」であったという。臨川王義慶を指しているものと解しておこう。『荊州記』なんていう地理書を記すからには、彼は最低限のフィールドワークをやったはずだし、やんなかったらそもそもこんな書物を記そうとは思わないだろう、という推定で調べてみると、劉義慶は元嘉九年に荊州刺史に任命されている。劉義慶に従って荊州に赴任し、数年のあいだに『荊州記』をまとめたと見ておくのが妥当ではないだろうか。一方の范曄『後漢書』であるが、呉樹平氏によると元嘉九年~十六年のあいだに編纂されたらしい(「范曄《後漢書》的撰修年代」、同氏『秦漢文献研究』斉魯書社、1988年)。なんだかんだうまい具合に明解な答えが出るだろうと思ったら、見事に同年代でどっちがはやいとかそういうのわかんねー・・・。
 というわけなので、次の二つの場合を想定するほかなさそうだ。盛弘之『荊州記』が范曄と酈道元の資料源になったケース、范曄→盛弘之→酈道元というケース。
 ところで、その一方で『水経注』や『後漢書』を『晋書』李特載記と比べてみると、かなり異なっていることに気づく。つまり、まず李特載記は省略が少ない。少なくとも范曄や酈道元を見て記したのであれば、彼らが省略したところどころの文脈、たとえば廩君が塩神の願いを断ったさいのセリフや塩神を殺害したあとから夷城を築くまでのお話などといった箇所は、『後漢書』や『水経注』をいくら参考にしたって書けるわけがないのだ。では、盛弘之の『荊州記』はどうだったのだろうかというと、これはなんともいえない。范曄や酈道元と同様の記述だった可能性もあるし、地理書だからもっと豊富に記してあったかもしれない。ともかく、『晋書』の李特載記は『後漢書』や『水経注』を参照したのではなく、異なる書物を参考に廩君の話を記述した可能性が高く、候補としては盛弘之『荊州記』か『世本』が挙げられる、ということが言えるだろう。[上に戻る]

[3]余談だが、范曄『後漢書』や酈道元『水経注』などの漢文史料では、武陵蛮の起源のお話として、槃瓠の説話が記されている。槃瓠は帝嚳の飼っていた犬で、帝を悩ませていた犬戎のボスを討ち取ったことから帝の娘を妻として迎えることができ、山のなかで子をつくった、その子孫が「蛮夷」と呼ばれるようになり、武陵蛮がそれに相当するのだと。匈奴だとか、あと楚とか蜀にしても同じことが言えるけど、非漢族の起源は中華だってお話はやっぱり多いね。漢文史料だからそうなるのも仕方ないが、場合によっては、自分たち自身で「おれたちは中華が起源!」と言い出したりすることもある。楚の王族や劉淵たちはそうなんじゃないかね。そういう選択をしたのも構造的な問題から考察すべきではあろうが。[上に戻る]

2014年5月18日日曜日

『晋書』の載記について

 できたら近いうちに前回の李氏の話のつづきを書きたいと思っているのだけど、その前にやや史料のお話をしておいたほうがよさそうなので。
 といっても、今回の記事は李氏ではなく、匈奴劉氏の政権である漢・趙を中心に書きます。李氏はいずれ。長文&やや専門的なので、その点ご了承ください。

『晋書』載記
 特徴としては以下が挙げられる。
①載記冒頭に序文がついていること。
②十四国が項目に立てられていること(漢・前趙、後趙、前燕、前秦、後秦、成・漢、後涼、後燕、西秦、北燕、南涼、南燕、北涼、夏)。
③名臣などの伝が載記末尾に付記される場合があること。
④君主の即位には「僭」字を必ず使ったり、晋の軍隊を「王師」と表記したりすること。
 ②などは特に不思議に思わない人もいるだろうが、じつはとても重要である。念頭に置いてほしい。
 『晋書』はいろいろと問題が指摘されてはいるものの、五胡時代の史料で体系的にまとまったかたちで残存しているのはこの載記のみ。なので、これを基礎にせざるを得ないのが現状。その基本資料がどういうなりたちをもっているのか、推測がかなり交じってしまうけれども、そのあたりの考察は必要でしょう。


『魏書』
 巻95~99にかけて、五胡関連(および南朝)の列伝が並んでいる。項目は十四(後燕、南燕などは「徒何慕容廆伝」に一括され、赫連勃勃は「鉄弗劉虎伝」に記されてる)。巻95には五胡に関する序文もあるが、『晋書』の載記とはだいぶ違う。ただ、諸列伝の内容はおおよそ載記のダイジェスト版みたいなものになっている(少なくとも漢・前趙に関してはそう言える)。『魏書』は北斉の魏収によって編纂された史書で、唐の『晋書』よりも当然ながら成立が早いにもかかわらず、どうして『魏書』は『晋書』のコンパクト版になっているのか。ここは大事なポイント。
 史料的には載記よりも情報量は劣る。漢・前趙関連で言えば、それほど『魏書』に独自な記述はなかったと思う。しかし、他のところでは独自史料があったりするかもしれないんで、見逃さないほうがよろしい。


『十六国春秋』
 ところで、北魏の五行をみなさんはご存じだろうか。唐代の公式見解では、王朝の五行は次のように継承されていた。
漢(火)→曹魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)
 北魏は晋の金徳を承けて水徳、これを覚えておこう[1]

 以下では、川本芳昭「五胡十六国・北朝時代における「正統」王朝について」(『九州大学東洋史論集』25、1997年)、梶山智史「崔鴻『十六国春秋』の成立について」(『明大アジア史論集』10、2005年)を参照にして、『十六国春秋』のことについて簡単にまとめておこう。
 『十六国春秋』は北魏末に編纂された史書である。撰者は崔鴻(本貫は清河)。梶山氏によると、彼が執筆活動を開始したのは景明年間(500-503年)のはじめころ、崔鴻20代前半のころであった。完成は正光三年(522年)、45歳のとき。序と年表各1巻を加え、全102巻であったという。残念ながら現在では散佚してしまい、『太平御覧』などに引用された佚文が残るのみである。
 川本氏によると、もともとの書名はたんに「春秋」であった可能性もあるらしいが、そうであったにしても、「十六国」を対象に歴史叙述をしていると見て大過ない。崔鴻は十六国各国で編纂された国史(『隋書』経籍志では「覇史」に分類されている史書)などの資料を収拾し、それらを参考にして一書を著わしたとのこと。従来、この時代をひとつにまとめて記した史書が存在しなかったことが崔鴻の執筆動機であったとされる。

 構成は『三国志』をイメージしてもらえるとわかりやすいが、まず各国ごとに大きなブロックが設けられ、そのなかにさらに伝が立てられる、といった具合。前者の区切りには「録」字を使う(前趙録、後趙録、蜀録)。後者には「伝」を使う(苻堅伝)。たとえば前趙録には劉淵伝、劉和伝、劉聡伝、劉粲伝、劉曜伝あたりが立てられていたと思われる(劉和と劉粲はちょい微妙だが)。「春秋」という名称からしても、おそらく編年体に近い体裁だったと思われるので、各録は編年体の形式で記述されていたのではなかろうか。だとすれば、「伝」は基本的に君主のみ立てられ、臣下の「伝」は独立して立てられていなかったと考えられる。以前記事にしたが、この時期の編年体は臣下たちの列伝を編年の途中で挿入する形式を有していたので、臣下たちの列伝も各君主の「伝」のなかに組み込まれていたのではないだろうか。

 『十六国春秋』の特徴として、梶山氏が陳寿『三国志』と比較しているのはとても素晴らしい着眼点である。すなわち、周知の通り、『三国志』には「正統」王朝が存在している。魏が「正統」なので、魏書にのみ本紀が存在し、蜀書・呉書はすべて列伝になっているわけ。ところが、『十六国春秋』には正統王朝が存在しない。川本氏・梶山氏の検討によると、『十六国春秋』で叙述されている各国はすべて「僭」、つまり非正統王朝として記述されているのだ。しかもこの見方は、孝文帝以後の北魏において、公式に取られた見解とも一致するのだ。

 もう少し詳しく見ておこう。さきほど北魏の五行について確認をしておいた。唐代、北魏は晋の金徳を継承して水徳となっている。しかし、じつはこの考え方もまた、孝文帝時代に確立されたものなのである。
 かの拓跋珪(道武帝)が即位した当初は、北魏は土徳を称していた。どうしてかと言えば、拓跋氏は黄帝の子孫だから、ということであったらしい。他にも理由は色々あったかもしれないが、ともかく土徳を採用していたことは間違いない。これが改革されたのが孝文帝のときであった。
 『魏書』巻108・礼志一によると、太和14年(490年)、孝文帝は北魏の五行について議論するように詔をくだしている。いままでなんとなくで土徳にしていたけど、ホントにそれでいいのか考えようぜ、っていう感じの内容だ。
 この詔を受けた会議において、高閭は土徳のままにすべきで変えてはならないと意見を述べている。重要と思われる一節を以下に引用してみよう。
魏は漢を継承しておりますが、火は土を生じさせるので、魏は土徳でございます。晋は魏を継承しておりますが、土は金を生じさせるので、晋は金徳でございます。〔おそらく後趙を指す〕は(金徳の)晋を継承しておりますが、金は水を生じさせるので、趙は水徳でございます。(前)燕は趙を継承しておりますが、水は木を生じさせるので、燕は木徳でございます。(前)秦は燕を継承しておりますが、木は火を生じさせるので、秦は火徳でございます。秦がまだ滅んでいないとき、わが魏はまだ中原〔原文「神州」〕を領有していませんでした。秦が滅んでから、わが魏は北方〔原文「玄朔」〕で帝号を称したのです。・・・もし晋を継承するということにすれば、晋が滅んでかなり時間が経ってわが魏が帝号についたことになり(違和感がございますし)、もし秦を継承しないということにすれば、中原(を領有しているかどうか)は基準からはずれてしまいます〔原文「中原有寄」。川本氏に従い、「有」を「無」の誤字として読んでおく。中華書局の校勘記も参照〕。このように考えてみますと、秦を継承することの道理は明々白々、ゆえに魏は秦を継承して土徳とすべきなのです。・・・いま、もし三家〔趙、燕、秦〕を一挙に切り捨て、遠くさかのぼって晋を継承することにすれば、中原が王者としての中心〔原文「正次」、こう訳して良いかは自信無〕であったという事実をないがしろにすることになるでしょう。
 史料には詳細な記述はないが、高閭が発言する前に、北魏は土徳ではない、晋を継承して水徳とすべきだ、という意見が出され、それに対する反論として彼が発言したであろうことは容易に察せられよう。拓跋氏が黄帝の子孫だから土徳なのだ、というものではなく、彼は論理的・法則的に土徳なのだと証明しようとしているのだが、そのさいに五行継承の基準に置かれたのが「中原を支配したか否か」であった。彼から見れば、後趙・前燕・前秦がそれに該当し、ゆえに、この三国を継承の順序からはずすことはあってはならないことなのである。
 礼志を読む限り、北魏=土徳説の代表格がこの高閭であったらしい。注意しておきたいのは、高閭の考え方がかなり独特あるいは独創的なものであったとも必ずしも言えないことだ。川本氏が前燕時代の例をすでに指摘しているが、前燕がみずからの五行を定めたさいのことを記した史料に、「後趙の水徳を継承して木徳とする」(『晋書』巻111慕容暐載記)とか、「後趙は中原を領有したが、これは人事で成し遂げられることではなく、天が命じたことであったのだ(したがって後趙を継承すべきだ)」(『晋書』巻110慕容儁載記附韓恒伝)といった記述が見えており、高閭の論理は十六国諸国でも参照されていた基準に従っていた可能性が高いのだ。色々な意味で、高閭は五胡十六国の延長上に北魏を考えているのである。

 一方、北魏=水徳説の代表格が孝文帝のブレーンであった李彪、崔光らであった。分量がアレなのではしょりますが、

①北魏の来歴をさかのぼると、神元帝(拓跋力微)のときに帝業の基礎が築かれたが、神元帝は晋の武帝と友好関係を築いていた。その後も晋朝とは関係を保ち続けていた。つまり、時代が離れていたとは必ずしも言えず、むしろ同時代的であり、晋が中原で滅亡し、魏が北方で天命を受けたと言えるのだ。

②過去の事例を探してみると、漢は秦ではなく周の五行を継承している。周が滅んで漢が興るまで約60年、晋が滅んで道武帝が即位するまでも約60年。すなわち、仮に①は大した理由にならないとしても、さかのぼって晋を継承することはそれほど不自然なことではない。

③そもそも石氏とか慕容氏とか苻氏とかってさぁ、短命だったじゃん? 天下に秩序を立てたっていうほどのことでもないじゃん? そんなやつらどうでもよくね? わが魏と比較対象にすらならんでしょうが!

という感じ。この考え方にしても、必ずしも孝文帝期にこねくりだされたとは言えないかもしれないが、詳しくはわかりません。ちなみに崔鴻は崔光の孫にあたる。
 この議論は太和15年に結論がくだされ、水徳説が採用された。かくして十六国時代は、正統王朝が存在していなかった時代として、公式に見なされるようになった。この五行観が唐代における認識をも規定づけ、したがって唐修『晋書』においても同様の見解が取られているのと考えられるのである。
 長くなってしまったが、崔鴻もこの公式見解と同様の著述をおこなっているわけ。北魏の公式見解が崔鴻に内面化していたのか、あるいはその枠内で著述をおこなわざるをえなかったのか、そこらへんはよくわからない。梶山氏によると、崔鴻がこの書を私撰したことは時の皇帝・宣武帝に伝わり、献上を要求されたのだという。朝廷側としても、この時代をどう記述されたのかが気になったのであろう。崔鴻は上表文を作成したが、結局生前にその上表文を奏上することも、書物を献上することもなく、鴻の没後、子によって朝廷に献上されたという(『魏書』巻67崔光伝附鴻伝)。崔鴻伝によると、『十六国春秋』はかなり初歩的なミスが多かったという。それなりに毀誉褒貶もあったらしいが、禁止されるとかそのあたりにまではいたっていないので、大きな史観では抵触していなかったのではなかろうか。

 以上のほか、『十六国春秋』ではもう一つ重要なポイントがある。それは「十六国」という言葉である。十六国マニアならご存じのように、五胡十六国時代は「五胡」ではないし「十六国」ではない。丁零の翟氏がいたじゃないか! 漢人は含めないの? 仇池は? 冉魏は? 西燕は? 等々。これらはすべて排除され、五胡=匈奴・羯・氐・羌・鮮卑、十六国=前趙・後趙・成漢・前凉・前燕・前秦・後秦・後燕・後涼・西秦・南涼・北涼・西涼・南燕・北燕・夏、ということになっているのだ。どうしてそういう選別になってしまったのか?
 じつは「十六国」に関しては、崔鴻が『十六国春秋』で対象としている国、すなわち「録」を立てて叙述をおこなった国とぴったり一致するのである。
劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連勃勃、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋らをまとめて、・・・崔鴻は『十六国春秋』百巻を撰述した。(以劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連屈孑、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋等、・・・鴻乃撰為十六国春秋、勒成百巻。)

晋の永寧年間以後、あちこちで兵が起こり、みなが競ってみずからの尊厳を確立させようしていましたが、しっかりと国を立てて官職を設け、先進国となることができましたのは、十六国でした。(自晋永寧以後、雖所在称兵、競自尊樹、而能建邦命氏成為戦国者、十有六家。)

臣の亡父・鴻は、・・・趙・燕・秦・夏・涼・蜀などの事跡を叙述し、賛・序を立てて批評を加えました。先帝の御世、下書きはできていましたが、李雄の国史がまだ入手できておりませんでしたので、この国の記述のみできておらず、完成が遅れていました。正光三年、当該書を購入することができ、検討をおこなって叙述をちょうど終えたとき、鴻は世を去りました。全部で十六国、「春秋」と名づけ、全102巻となっています。(乃刊著趙、燕、秦、夏、涼、蜀等遺載、為之贊序、褒貶評論。先朝之日、草構悉了、唯有李雄蜀書、搜索未獲、闕茲一国、遅留未成。去正光三年、購訪始得、討論適訖、而先臣棄世。凡十六国、名為春秋、一百二巻。)
 以上はすべて崔鴻伝からの引用。三崎良章氏によると、現在確認し得る「十六国」の初出はこの崔鴻伝であるらしい(『五胡十六国』東方書店)。崔鴻以前にもこのような「十六国」認識はあったかもしれない。崔鴻前後の時代に「十六国」という考え方が一般的だったかは微妙なところで、三崎氏は魏収『魏書』の伝の構造が崔鴻のものと相違していることなどを挙げ、共通した「十六国」理解が存在していなかったとしている。共通した理解がないことはたしかだが、まあでもおおよその枠組みでは共通しているようにも見えますけどもね。たとえば仇池や翟魏は排したり、とか。ともかく、崔鴻が当該時代を「十六国」時代と明確に打ち出したことは、相応のインパクトがあったはずである[2]

 冗長になってしまったが、『十六国春秋』は、
①晋以後北魏以前の華北時代を「十六国」時代として歴史把握したこと。
②「十六国」はすべて非正統と見なしていたこと。それは北魏の公式見解に抵触しなかったこと。
という特徴があった。現在でもこの時代を「十六国時代」と通称し、正統王朝の不在時代と見なすのが一般的であるから、孝文帝改革および『十六国春秋』の影響は非常に大きい。

 ここでようやく本題になるのですが、どうしてこの『十六国春秋』がそんなに大事なのかというと、じつは唐修『晋書』の載記は『十六国春秋』をコピペないし簡略に引用したものだと考えられるからだ。構造としても、載記は前述したように、項目は十四だが、前凉と西涼が列伝に移されているのを含めればぴったり十六、しかも崔鴻が「録」に立てた諸国と一致している。
 『太平御覧』偏覇部の十六国関連の項目では、『十六国春秋』が長文で引用されている[3]。わたしが詳しく検討したことがあるのは漢・前趙のみだが、たしかに両者の内容はとてもよく似ている。『十六国春秋』は節略した引用文のため、載記と比べるとどうしても情報量は劣るが、それでも載記の文言とかなり似ている。『十六国春秋』の佚文にはたまに載記ではすっ飛ばされている記述があったりするので、細かく見ることはけっこう価値がある。
 そもそも考えてみれば、崔鴻がこの書を執筆した動機が、十六国時代の史書が国別にバラバラで、全体をまとめて記した史書が存在しないからであった。唐修『晋書』の時代においても、『十六国春秋』を除けば依然として同じ状況。唐の史官としても、国別の国史を参照してイチから編集をはじめるより、すでにその作業をやってくれた『十六国春秋』を利用した方が手っ取り早いに決まっている。太宗の晩年に急いで編纂された『晋書』であれば、なおさらそんなめんどい作業をすることも考えにくい。
 とはいえ、唐の史官の手がまったく入らないまま転載されているとまでは言えない。引用にも取捨選択があった、というレベルではなくいろいろと。たとえば避諱。あるいは序。序はもしかしたら崔鴻のものを転載している可能性もありうるが、その可能性が高いのはどちらかといえば『魏書』のほうで『晋書』載記のものは違うと思う。雑伝の序も唐の史官が書いているっぽいので、たぶん序文は唐の史官が書き下ろしたのではないだろうか[4]。それと、前述したように、『十六国春秋』は君主の「伝」のなかに臣下の伝を挿入していたと考えられるが、唐の史官はそれをすべて削除したようである。ただ、削除に惜しい人物は、載記の末尾に附記したり、孝友伝や忠義伝などの雑伝に組み込んだらしい[5]。だからアレだね、編集者みたいに最低限の校正と編集だけやって『十六国春秋』から載記を作りだしたのではないかな。おそらく魏収も『十六国春秋』を基礎に叙述をしたと思う。また、載記からは削除された『十六国春秋』の文章がときどき『資治通鑑』に引用されていたりします。

 かなり推測交じりになっているが、唐修『晋書』は史観も記述もかなりの部分で『十六国春秋』に負っていると考えられる。そういうことを念頭に置いて載記は扱ったほうが良い。


覇史(『漢趙記』)
 『隋書』経籍志では、五胡諸国で編纂された史書のことを「覇史」と呼んでいる。わたしも便宜的に「覇史」と呼んでおく。
 さて、『十六国春秋』がどういうものか、これまで力説したつもりである。ただし、諸所で触れてきたように、崔鴻は覇史を基礎にして『十六国春秋』を編集している。しかも、成漢の国史が入手できないことをもって成漢の記述(「蜀録」)をしなかったということは、覇史をかなり重視していたらしいことがわかるだろう。そこでこうした覇史にかんしても考慮の外に置くことはできないのである。
 といっても覇史の種類はさまざま、そのうえ現在では佚文もわずかしか残っていないくらいに痕跡がない。なので、かなりの部分を推測に頼ることになるが、決して無駄な作業にはならないだろう。ここでは前趙の国史『漢趙記』について述べておく。
 覇史については、唐初に残存していた覇史は隋書経籍志に書名が記述されているほか、唐の劉知幾『史通』巻12外篇・古今正史に詳しい記述がある。前趙に関連する部分を引用してみよう。
前趙は、劉聡の時代に領左国史の公師彧が高祖〔劉淵の廟号〕本紀、功臣伝二十人を著述したが、きちんとした史書の体裁であった。しかし、凌修が先帝を誹謗していると讒言したので、劉聡は怒って公師彧を誅殺した。劉曜の時代、平輿子〔平輿県に封ぜられた子爵〕の和苞が『漢趙記』10巻を編纂したが、記録は盛時のものに留まり、劉曜が死んだところまで記されていない。(前趙劉聡時、領左国史公師彧撰高祖本紀及功臣伝二十人、甚得良史之体。凌修譛其訕謗先帝、聡怒而誅之。劉曜之時、平輿子和苞撰漢趙記十篇、事止当年、不終曜滅。)
 公師彧や和苞は載記にも見える。凌修も、「陵修」という人物と同一かもしれない。
 そんなことはまあ良いのだ。ここで言及されている『漢趙記』こそ、崔鴻が前趙録編纂時に参照したと思われる覇史なのだ[6]
 『漢趙記』のポイントは劉曜時代に編纂されたということ。劉曜が即位して間もなくおこなったことは、国号と太祖の変更である。 
光初二年六月、劉曜は宗廟と社稷、長安の南郊・北郊を修繕すると、令をくだして言った、「王者がおこるときというのは、必ず始祖を祀るものである。わが一族の祖先は禹の子孫で、北方の夷狄として生活し、代々北方地帯で勢力を誇ってきた。光文帝〔劉淵〕は、漢が久しく天下を領有し、その恩徳が庶民に行き渡っていたため、(便宜的に)漢の皇帝たちの廟を立て、民の支持を得ようとしたのである。(しかし)昭武帝〔劉聡〕はそのまま継承し、とうとう改革を加えなかった。いま、漢帝の宗廟を取り除き、国号を改め、また〔原文は「御」だが意味が通じない。仮に「復」と見なして読んでみる〕大単于〔冒頓単于〕を太祖に定めたいと考えている。この件について議論し、意見を述べよ」。太保の呼延晏らの議、「いま思いますに、(漢を称するのは魏や晋を継承しないことを意味していますが、)晋を継承すべきであり、母から子へと受け継がれるように、国号も考えるべきであります。光文帝はもともと(晋から)盧奴に封建されていましたが、盧奴は中山の領域に相当します。また、陛下のわが国家における功績は洛陽平帝をはじめ、偉大なものでございまして、ついには中山王に封建されました。(かくして中山という点で、陛下と光文帝は共通点がございますが、)中山の分野は梁・趙に属します。ですので、大趙を国号とし、(晋の金徳を継承して)水徳とするのがよろしいと存じます」。劉曜はこれに従った。かくして、冒頓単于を天に配し、劉淵を上帝に配することとした。(六月、繕宗廟社稷、南北郊于長安、令曰、「蓋王者之興、必褅始祖。我皇家之先、出自夏后、居于北夷、世跨燕朔。光文以漢有天下歳久、恩徳結於民庶、故立漢祖宗之廟、以懐民望。昭武因循、遂未悛革。今欲除宗廟、改国号、御以大単于為太祖。其連議以聞」。於是太保呼延晏等議曰、「今宜承晋、母子伝号。以光文本封盧奴、中之属城。陛下勲功懋於平洛、終於中山。中山分野属大梁・趙也。宜革称大趙、遵以水行」。曜従之。於是以冒頓配天、淵配上帝。)
 以上は『太平御覧』巻119に引く『十六国春秋前趙録』の文章である。劉曜載記ではこの詳しい経緯は省略されてしまっている。
 趙を結論に出す論理はよくわからんが、大事なことは劉淵による漢帝の祭祀・宗廟を否定したことである。劉淵は即位時、はっきりと「太祖高皇帝」と述べていたが、劉曜は完全にそれを拒絶し、太祖(王朝の始祖的存在者)を漢の高祖から冒頓単于に変更し、あわせて国号も変更してしまった。冒頓単于を持ち出すあたり、「漢なんかクソくらえ!」という彼の認識がうかがえるね。たかが国号、されど国号、この変更には重大なイデオロギーの変更があったわけで、軽視すべきではないのだ。
 しかし、かといって劉曜は劉淵時代を否定するわけではない。むしろ、彼は劉淵を継承することに自身の正統性を見いだしている。「漢趙記」という国史の名前もそうだろう。趙は漢を否定して成り立った国号にも関わらず、漢を名乗っていた時代をなかったことにはできない、一概に否定的評価をくだすわけにもいかない。複雑でゆがんだ歴史観がここに現前することは、容易に想像できるだろう。
 ①劉淵は臨時に漢を国号としたこと、②劉曜にいたって本来の姿=趙になったこと、大まかにこの二つを視点を基礎に、『漢趙記』が編纂されたと思われる。もちろん、崔鴻も載記も同様の視点。前趙録、劉淵・劉聡・劉曜載記を根本から枠づけているのは『漢趙記』なのである[7]。このこともやはり忘れてはならない。

 ところで、劉曜が言うように、劉淵は便宜的に漢を称したのであろうか。わり本気で漢を称していたんじゃないだろうか。
 劉淵の即位直前、劉淵に即位を勧めていた劉宣は「呼韓邪単于の業績を復興する」べきだと説いていた。劉淵は「その通りだ」と返答しておきながら、漢帝こそわが先祖と宣言しちゃって即位してしまった。即位までの詳しい経緯はよくわからないが、この政治的変更は劉淵の個人的判断に基づくところが大きいと思う。劉宣が冒頓でなく呼韓邪を持ち出したのはとても不思議だが、漢と友好を築いた単于なのだし、たぶん漢にそんなに悪い印象はもっていなかったとは思う。
 が、劉淵の即位宣言を読めばわかるように、呼韓邪か漢帝かという問題は自分たちの来歴の物語にとても重大な変更をもたらすものである。劉曜が冒頓に変更したのだって、自分たちの来歴を確認しながらなされている。要するに、自分たちの歴史をどう語るかという問題。そのとき、劉淵は自分たちの物語の由来を漢皇帝に求めて歴史を語り直したのでは・・・? このあたりの記述も『漢趙記』の観点から編集し直されているんだ!と言われるともう何も言えなくなるんですけどね。
 ともかく、政治的視点もさることながら、移住民はどのように歴史を語り継いでいくのか、という視点からも考える必要があるように思います。



 全体的に長くなってしまったし、専門的な話が多くなってしまった。ただ、史書がいつ、誰が主導して、どのように成り立ったかというところは本当にとても大事なこと。それを調べるのは容易でない。日本語では概説書がないから、研究論文を読んだり、電子文献にない史書をめくったりし、あるいは史書の「書きグセ」を実感するために何度も通読したり・・・。わたしだって、『十六国春秋』や覇史全般に精通しているわけではない。漢・趙関連を多少知っている程度にすぎない。
 そういうこともあるので、なるべく自分が知っている情報は開示してみようと思った次第です。役立つかは知りません。なんというか、うまく言えないんだけど、間違い探しじゃないんですよ、史書を読むっていうのは。キーワードを検索して、ヒットした記述をもってきて自分の意見を正当化するだけで、その文章がどのような史料のどのようなところに書かれてあるのか、ってことは軽視してはいけないんですよ、本来は。それはとても高い要求のようだけど、でも「事実」を語るっていうのはそういうことなんじゃないかな。

 それともう一つ。『十六国春秋』のところで、長々と北魏孝文帝時代の五行改革に言及しておいたが、アレから想像してもらえるように、現在では「五胡十六国時代」と呼んでいるあの時代は、そうでない可能性もありえた。というか、現にそういう見方があった。「もしかしたらこういうふうに語れるのでは・・・」という想像力は大事なことだ。
 わたしは、劉淵たちの歴史が「歴史をどう語るかという歴史」にしか見えなくなってしまい、それ以来、「歴史はどのように語られてきたのか」という観点からこの時代を眺めつつ、「歴史」自体にいかなる意味があるのだろうかと考えるようになりました。わたしにはそういう現れ方をした、そういうことですね。


――注――

[1]唐代の五行の継承に関する認識は、『旧唐書』巻190文苑伝上・王勃伝、『新唐書』巻201文芸伝上・王勃伝、『唐語林』巻5を参照。本記事から脱線するが、せっかくなので『新唐書』の記事を以下に紹介しておく。

武周のとき、李嗣真は周・漢を(直接継承したとしてこれらの王朝を)「二王後」 と見なし、北周・隋を(正しい継承関係から)はずすよう要請し(採用され)たが、(則天武后が退くと)中宗は再び北周・隋を「二王後」に採用した。玄宗の天宝年間、平和が長く続き、奏上される進言の多くは妖しげなものであった。崔昌という者がおり、王勃のかつての学説を採用して、『五行応運暦』を(著して)献上し、周・漢を継承することを説き、北周・隋を(継承することを)やめて閏とみなすよう請うた。右丞相の李林甫もこれに賛同した。・・・こうして玄宗は詔をくだし、唐は漢を直接継承していることにし、隋以前の(魏晋南北朝の)皇帝をしりぞけ、(「二王後」であった北周の後裔)介公・(隋の後裔)酅公を廃し、周・漢を尊んで「二王後」とし、(周・漢と)商を三恪とした。京師に周の武王と漢の高祖の廟を建て、崔昌を太子賛善大夫に任命した・・・。楊国忠が右丞相となると、自身が隋の子孫を称しているので、再び北魏(から北周・隋)を三恪とし、北周・隋を「二王後」とするよう建議した。そのため酅公・介公は以前の爵位を戻され、崔昌は烏雷尉に官を降格された。
 すなわち玄宗の天宝九載(750年)、崔昌『五行応運暦』の提案により、漢→唐の継承が正式に採用され 、漢(火)→魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)とされてきた五行継承も漢(火)→唐(土)に変更されたということである。
 崔昌『五行応運暦』の基となったと言われる王勃の旧説についてであるが、王勃は魏晋以降の王朝は「みな天下を一統していない(咸非一統)(『唐語林』)、「みな正統ではない(咸非正統)(『旧唐書』)、「北周・隋は短命である(周・隋短祚)(『新唐書』)とし、一方「黄帝から漢までが、五行の正しい継承王朝である」とし、唐は「真主」の王朝「周・漢」を継承するべきだと主張しているようである。かかる王勃の理論は「現実的でない(迂闊)」とされ、高宗の受け入れるところとはならなかった(『唐語林』)
 また、玄宗ころの文士に蕭穎士という者がいたが、こちらは梁の皇族の子孫のようで、梁陳革命を否定し、晋(金)→劉宋(水)→南斉(木)→梁(火)→唐(土)という案を提出したという(『新唐書』巻202文芸伝・中・蕭穎士伝)。唐の土徳を梁の火徳から正統化づけたかったわけだね。ただこの説が普及したかどうかはとくに言及がないので不明。さっきの漢→唐説もそうだけど、北朝をすっとばすのは唐にとってはきつかったんじゃないかな。[上に戻る]

[2]なお崔鴻は「五胡」という言葉によってこの時代を特徴づけてはいない。彼は「十六国」の戦国時代と見ているにすぎない。「五胡」の語については、三崎氏の前掲書に詳しいので、そちらを参照のこと。[上に戻る]

[3]梶山氏も指摘しているが、北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』をもとに成立したものであり、『太平御覧』偏覇部の当該項目で唐修『晋書』ではなく『十六国春秋』を引用しているのは、北斉『修文殿御覧』を継承しているからだと考えられる。[上に戻る]

[4]載記に設けられている「史臣曰」と「賛」は不明。[上に戻る]

[5]漢・趙関連で言えば、劉殷(孝友伝)、王延(同前)、王育(忠義伝)、劉敏元(同前)、喬智明(良吏伝)、崔遊(儒林伝)、范隆(同前)、董景道(同前)、卜珝(芸術伝)、台産(同前)、賈渾妻宗氏(列女伝)、劉聡妻劉氏(同前)、王広女(同前)、陝婦人(同前)、靳康女(同前)、劉宣(劉元海載記)、陳元達(劉聡載記)。すべて『十六国春秋』由来とも言いきれないが。『十六国春秋』の佚文にも、こうした臣下たちの伝が多く見えている。またも漢・趙関連になるが、「李景年字延祐、前部人也。長平之戦、劉聡馬中失、幾為晋軍所獲、景年以馬授聡、揮戈前戦。以功封梁鄒侯」(『太平御覧』巻351引)、「江都王延年、年十五喪二親、奉叔父孝聞。子良孫及弟従子、為噉人賊所掠。延年追而請之。賊以良孫帰延年、延年拝請曰、『我以少孤、為叔父所養。此叔父之孤孫也。願以子易之』。賊曰、『君義士也』。免之」(『太平御覧』巻421引)とか。[上に戻る]

[6]公師彧が編纂した国史の書名は伝わっていない。少なくとも唐初の時点で残存していなかったと見られるが、そもそも『漢趙記』編纂時点で吸収されたか、あるいは淘汰されたかどちらかであろう。[上に戻る]

[7]わたしは、劉聡へのあの徹底的にネガティヴな記述は、すべて『漢趙記』に由来するのではないかと疑っている。安田二郎氏か福原啓郎氏かが曹魏の明帝を取り上げたさいに「王朝滅亡の原因を提示するために、暗君の姿が描かれやすいものだ」みたいな言及をしていたが、劉聡への否定的評価も同様の理由でなされたものと感じている。「漢が滅んだのはこいつのせいです」みたいにね。ここらへんは感触に過ぎませんが。[上に戻る]

2014年5月5日月曜日

『宋書』百官志訳注(8)――卿(太后三卿・大長秋)

 太后三卿は、(少府、衛尉、太僕の)各一人ずつ。応劭の『漢官(儀)』に、「(太后)衛尉、少府は秦の官である。太僕は漢の成帝が置いた。みな太后宮に付き従っていたので、それ(太后)を名称とした。朝位は正卿〔通常の衛尉、少府、太僕〕の上とし、太后がいなければ欠員とした」とある。魏は漢の制度を改め、(朝位を)卿〔衛尉、少府、太僕〕の下とした。晋は旧制に戻し、卿の上とした。
 大長秋は、皇后の卿である。皇后がいれば置かれるが、いなければ廃される。秦のときは将行であったが、漢の景帝の中六年に大長秋に改称された[1]。韋曜が言うに、「長秋は皇后の陰官〔皇后に近侍する官のこと〕である。秋とは陰の始めであり、日が暮れてから(夜が)長いことから、(皇后が)長久であることを願って(皇后の官に)名づけられたのである[2]」。

 太常から長秋まで、みな功曹、主簿、五官を置いた。(五官とは)東漢の諸郡には五官掾がいたが、その名称を継承したのである[3]。漢の制度では卿・尹はみな秩中二千石、丞は一千石である。



――注――

[1]『続漢書』百官志四本注「承秦将行、宦者。景帝更為大長秋、或用士人。中興常用宦者、職掌奉宣中宮命」。後漢では常に宦官が務めていたらしい。魏晋以後もそうなんじゃないかな。[上に戻る]

[2]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「秋者收成之時、長者恆久之義、故以為皇后官名」。[上に戻る]

[3]『通典』職官典15・総論郡佐・五官掾「後漢有之、署功曹及諸曹事」。郡の功曹や列曹事の任命をつかさどっていた人事職だったらしい、けっこうえらいね。南朝正史にも用例が見えるので、南朝期にも置かれていたようだ。卿の五官も同様の職掌だったのかも。[上に戻る]






 さて、これでようやく卿は終わり!
 百官志・上もあと2、3割で終わる! ようやくあと一息まで来ました。
 しかし次は難解な尚書の条項。力尽きそう。

2014年5月4日日曜日

『宋書』百官志訳注(7)――卿(少府・将作大匠・大鴻臚・太僕+宗正)

 少府は一人。丞は一人[1]。皇帝の衣服や車馬などの物品在庫を調整するのが職務である。秦の官であり、漢はこれを継承している。「禁銭」によって皇帝個人の生活用具をそろえるので、少府と言うのである[2]。晋の哀帝の末年、廃して丹陽尹に併合した。孝武帝のときに復置された。
 左尚方令と丞は各一人ずつ。右尚方令と丞も各一人ずつ。ともに兵器の製造を担当する。秦の官であり、漢はこれを継承した。周では(この職掌をおこなっていた官を)玉府と言った。江右〔西晋〕では中尚方、左尚方、右尚方があったが[3]、江左以降、尚方は一つだけであった[4]。宋の高祖が帝位につくと、丞相府の作部[5]を役所として独立させ、左尚方と名づけた。一方で、本来の尚方を右尚方と呼ぶことにした。また丞相府の細作[6]を役所として独立させ、細作令一人、丞二人を置き、門下省の所属とした。世祖の大明年間、細作署を御府に改称し、令一人、丞一人を置いた[7]。御府とは、二漢のときに官婢を監督して(皇帝の)普段の衣服の製作・補修・洗濯をさせることを職務としていた官で、魏晋でも置かれていたのだが、江左のときに廃されていた官である。後廃帝の初め、御府を廃して中署を置き、右尚方に所属させた。東漢の太僕の属官に考工令という官がおり、兵器・弓弩・刀・鎧の類(の製造)を担当し、完成したら執金吾に渡して武庫に入庫させ、また綬を織る職人も監督していた[8]。(漢代の)尚方令は皇帝の刀・綬・剣や玩具の製作のみを職務とするだけであった[9]。つまり(漢代の)考工令は現在の尚方令のようなもので、(漢代の)尚方令は現在の中署のようなものである[10]
 東冶令は一人、丞は一人。南冶令は一人、丞は一人。漢代には鉄官がおり、晋は令を置いていた。職人の鋳鉄を監督し、(漢代は大司農に、晋代は)衛尉に所属していた。江左以降、衛尉を廃したので、少府の所属に移った。宋のときに衛尉が復置されたが、冶令は少府の所属のままであった[11]。江南諸郡県で鉄を産出する所は、冶令を置いたり丞を置いたりまちまちであったが、多くは孫呉が設けた場所に置かれた。
 平准令は一人、丞は一人。染織をつかさどる。秦の官であり、漢はこれを継承した。漢では大司農の所属であったが、いつの時代かに少府の所属となった[12]。宋の順帝が即位すると、帝の諱(=準)を避けて、染署と改称した。[13]

 将作大匠は一人、丞は一人。土木仕事を統括する。秦のときに将作少府が置かれ、漢はこれを継承した。景帝の中六年、将作大匠に改称された。光武帝の建武中元二年に廃され、謁者に統括させた。章帝の建初元年に復置された。晋以降は、仕事があれば置かれたが、無ければ廃された[14]

 大鴻臚は、諸侯王の(入朝や祭祀の際の)先導と、封建のときの印綬の受け渡しを職掌とする[15]。秦のときは典客であったが、漢の景帝の中六年に大行令に改称され、武帝の太初元年に大鴻臚に改称された。「鴻」とは「大」、「臚」とは「陳」を意味する[16]。江左の初めは廃されていた。仕事があれば一時的に置かれるが、仕事が終われば廃された[17]

 太僕は、(皇帝の)馬車の馬を管理する。周の穆王が設置し、秦はこれを継承した。『周官』〔『周礼』〕によれば、(周は当初、)校人が馬を、巾車が車を管轄していたが[18]、(穆王が)太僕を置くと、(太僕が)その二つの職務を兼ねるようになった。江左では置いたり廃したりでまちまちであったが、宋以降は置かれなかった。郊祀のときは臨時に太僕を置いて(皇帝の)馬の轡を取り、祭祀が終われば廃された[19]

〔宗正〕[20]



――注――

[1]前漢までは六人であったが、後漢以降は一人。『通典』巻27職官典・少府監参照。
 ちなみに少府卿には主簿も置かれていた。『通典』に「晋置二人、自後歴代一人」とある。[上に戻る]

[2]国家財政には民からの毎年の田租と算賦(銭納の人頭税)を充てるのに対し、皇帝家の財政運営には皇帝家の領有地として所有されている山林・沼沢、いわば国立公園のようなところなんだけど(厳密にはそう言えないのだがそういうふうに理解してもらえるとわかりやすい)、その山林・沼沢や市場から得られる税収入などが充てられていた。このうち山林・沼沢からの税収入のことを「禁銭」と言うらしい。応劭らによると、皇帝家の財政はこの「禁銭」によってまかなわれていた。なお、山林・沼沢からの税収入とは具体的に想像しづらいが、増淵龍夫氏の考察によると、皇帝家が山林・沼沢を民間の商人・業者に貸し与え、貸借分を税として徴収していたらしい(増淵『新版 中国古代の社会と国家』岩波書店、1996年、第3篇第1章)。租と賦によって国家(「軍国」「公用」)の財政を管理するのが大司農であるが、皇帝家(「私養」「私用」)の財政は国家財政とは独立して運営される。そこでこの皇帝家の財政を国家財政と対照させ、皇帝家財政を担当する官のことを「少」=「小」府と呼ぶにいたったそうだ。次の各史料を参照のこと。『漢書』巻19百官公卿表・上「少府、秦官、掌山海池沢之税、以供共養」、同応劭注「名曰禁銭、以給私養、自別為蔵。少者、小也、故称少府」、同師古注「大司農供軍国之用、少府以養天子也」、『続漢書』百官志三・少府卿・李賢注引『漢官』「王者以租税為公用、山沢陂池之税以供王之私用」、同『漢官儀』「田租・芻稾以経用・凶年、山沢魚塩市税少府以供私用也」、『太平御覧』巻236『応劭漢官儀』「少府、掌山沢陂池之税、名曰禁銭、以給私養、自別為蔵。少者、小也。故称少府」。[上に戻る]

[3]『通典』巻27少府監・中尚署には「漢末分尚方為中・左・右三尚方。魏晋因之」とあり、三尚方は後漢末から存在していたらしい。[上に戻る]

[4]『通典』には「哀帝以隷丹陽〔ママ〕尹」とある。前文にあるように、少府自体が廃されて丹楊尹に併合されていた時期があるのだから、尚方も同様に丹楊尹に合わせられたのだろう。本文後文とのつながりを考えると、少府卿同様、孝武帝のときに尚方も復置されたと考えられる。[上に戻る]

[5]「作部」はイマイチわからんが、『晋書』巻9孝武帝紀・太元14年の条「詔淮南所獲俘虜付諸作部者一皆散遣、男女自相配匹、賜百日廩、其没為軍賞者悉贖出之、以襄陽・淮南饒沃地各立一県以居之」、『宋書』巻45劉粋伝「因誅殺謀等三十家、男丁一百三十七人、女弱一百六十二口、收付作部」のように、捕虜や罪人の一族を収容しており、おそらくは官奴婢になにか物を作らせる部署であると見てよいのではないだろうか。孝武帝紀の書き方だと、作部はたくさんあった、というより役所ごとに置かれていた可能性がある。現に州にも作部があったらしい(『宋書』巻54羊玄保伝)。丞相府の作部もそうした作部のうちの一つで、丞相府で使用する兵器などの管理をおこなっていたのかもしれないが詳しい記述はないのでなんとも。[上に戻る]

[6]「細作」については、『宋書』巻6孝武帝紀・元嘉30年7月の条「可省細作并尚方、雕文靡巧、金銀塗飾、事不関実、厳為之禁」、『南斉書』巻56呂文度伝「呂文度、会稽人。宋世為細作金銀庫吏、竹局匠」。詳しい記述は見られないが、孝武帝紀のように尚方などと並列されている例が多く、尚方と同様、なにかの製造をおこなう部署なのだろう。後文との関連から見るに、細作令は皇帝の衣服関連の管理をおこなっていたと見られる。丞相府の細作部がなにをしていたかは推測によるしかないが、もしかしたら府主の衣服関連の管理をしていたのかもしれないね。[上に戻る]

[7]『宋書』孝武帝紀・大明4年の条「十一月戊辰、改細作署令為左右御府令」とある。これによると、御府令には左右があったらしい。[上に戻る]

[8]『続漢書』百官志二・本注に「主作兵器弓弩刀鎧之属、成則伝執金吾入武庫、及主織綬諸雑工」。『宋書』本文とほぼ同じ。[上に戻る]

[9]『続漢書』百官志三・少府・尚方令・本注「掌上手工作御刀剣諸好器物」。『宋書』本文とだいたい同じ。[上に戻る]

[10]どうしてこのような逆転が起こってしまったのかというと、たぶん考工令が廃されてしまったことに関係があるのだと思う。というのも、考工令は魏晋以後にまったく見えなくなっているのだ。以下はすべてわたしの推測にしかすぎないが、考工令は後漢末に廃され、その職務は三尚方が担うようになったのではないだろうか。つまり尚方令が国家の兵器および皇帝の身辺道具の製造をおこなうようになった。あわせて皇帝の衣服は御府令が担当していたが、御府も東晋以後は廃されたのだから、この仕事も尚方がしていたのかもしれない。それが宋の武帝のとき、国家のもの=左右尚方、皇帝のもの=細作→御府→中署というように分化したのであろう。そんときにどうして漢代の名称をそのまま継承しなかったのかというとそれはけっきょくわかりません。[上に戻る]

[11]訳注(5)で冶令はずっと衛尉の所属でしたと述べてましたが、誤りでした。[上に戻る]

[12]『続漢書』百官志3・大司農・平準令・本注「掌知物賈、主練染、作采色」。染色だけじゃなくて、物価(の均衡?)も管理していたんだけどね。国家財政の仕事が大司農から(度支尚書あたりに?)移ってしまったことは訳注(6)で述べたが、たぶん同じ時期に平準令から物価の仕事もなくなったのだろう。で、残った染色の仕事って尚方に似てるやん?→少府に移しちまえ、みたいな感じになったんじゃねーの? 知らんけど。[上に戻る]

[13]西晋時代の少府の属官については、『晋書』巻24職官志に「材官校尉、中左右三尚方、中黄左右藏、左校、甄官、平準、奚官等令、左校坊、鄴中黄左右藏、油官等丞」と豊富に見えている。わかる限りで補足しておこう。
 材官校尉、左校令 土木職人を監督する官。後漢のときは右校令、左校令がいた。魏晋ころの情報が錯綜していていまいちわからないが、曹魏のときに右校令に代わって(?)材官校尉が置かれたらしい。曹魏までは将作大匠に所属していたが、西晋から少府に所属。東晋になると材官校尉は材官将軍に改称され、左校令は廃されたという。『宋書』百官志・上によると、哀帝の時期に少府が廃されると、尚書および領軍将軍に移されたらしい。詳しくはいずれ触れるでしょう。『通典』巻27職官典9・将作監・左右校署参照。
 中黄蔵令、左蔵令、右蔵令 帝室の貨幣を管理する官。後述。鄴の中黄蔵丞、左蔵丞、右蔵丞は鄴に置かれていたというだけでしょう。武官でもそうだけど、鄴にはこんな具合に特殊に官が置かれることってしばしばなので、珍しくはない。
 甄官令 れんがの製造。後漢のときは前・後・中の三官おり、将作大匠に属していた。いつごろ少府に移ったのは不明。また東晋、劉宋ではどうだったのかも不明。唯一、『通典』によれば劉宋でも官自体は置かれていたらしい。『通典』将作監・甄官署を参照。
 奚官令 宮中で働く人(おそらく官奴婢)たちの監督者。漢代には見られず。いつごろ置かれたのか不明。『通典』巻27職官典9・内侍省・奚官局を参照。
 左校坊丞 わからん。
 油官丞 史料は見つからないけど想像できるからいいでしょ。
 少府はおもに皇帝のプライベートなことがらを職務としていた。後漢のときには、太官(皇帝の食事)、太医、守宮(紙とか墨とか)、上林苑令(苑に生息している動物の管理)、掖庭令(後宮の女性の監督者)のような日常生活や施設のサポート官、侍中、黄門令のような顧問官・宦官、尚書令のような秘書、そして尚方のような皇帝専門物品の製造官が少府に所属していた。しかし魏晋以後、侍中や黄門令は門下省(侍中府)として、尚書令は尚書省として少府から独立し、太官、守宮、掖庭令などは西晋代に光禄勲へ、太医は宗正へそれぞれ移ったあと、東晋~宋代に門下省へと移動している(訳注(5)注[7]参照)。また『晋書』巻24職官志・光禄勲に「光禄勲、統武賁中郎将、羽林郎将、冗従僕射、羽林左監、五官左右中郎将、東園匠、太官、御府、守宮、黄門、掖庭、清商、華林園、暴室等令」、同宗正に「統太医令史、・・・及渡江、哀帝省并太常、太医以給門下省」とあるのも参照。太字にしてある官は後漢時代だとすべて少府所属であった(東園匠は東園秘器をはじめ、皇帝陵に使用する木製物を製作する。「清商令」というのは曹魏・洛陽の清商殿という殿の管理者なんでしょう、詳しくはわからん。華林園は曹魏・洛陽城北に設けられた苑。暴室は病気になった後宮の夫人や罪を得た皇后・貴人を収容する施設)。
 細々書いてしまいましたが、要するに魏晋以後の少府は物品の製造に特化しただけの官になっているといえるのだ。皇帝家御用達の製品が中心だとは思うが、尚方に代表されているように、必ずしも御用達の物だけに限らなかったようでもある。後漢と較べ、少府は大幅に役割が減ってしまった。
 またもう一つ重要なのが中蔵府令である。この官は後漢のときは少府に所属し、貨幣(金・帛・銭)を管理していた、まさに帝室財政を運営するうえでの要となる官職である(『続漢書』百官志三)。この官は西晋までは少府所属として存続していたのだが、東晋になると御史中丞府に移され、新たに庫曹御史が置かれた。庫曹御史はのちに外左庫、内左庫に分かれたが、宋代に外左庫が廃され、内左庫はたんに左庫と呼ばれるようになった(『通典』巻26職官典8・太府卿・左右蔵署)。庫曹御史の設置はおそらく哀帝の時期に少府が廃されたのと同時期であろう。で、そのまま左庫は少府に戻ることがなかったようなので、帝室財政への関与にしても少府の役割はかなり狭くなったようだ。なんとねえ。
 太官や太医などの官が西晋時期に少府から離れた理由は不明である。それらが最終的(宋代)に門下省へと集結していったのは、門下の官が少府由来であったこともあるであろうが、大司農・光禄勲・宗正といった移譲先の卿官がすべて哀帝の時期に廃されてしまったことが一番大きな原因だと思う。哀帝の時期に廃された卿は少府も含め、孝武帝の時期に(宗正以外は)復置されているが、門下省に移譲した官が戻ることはなかった。大司農や光禄勲と較べれば、尚方や冶令、平准は少府に戻っているのだし、だいぶ充実している方だとは思うけどね。[上に戻る]

[14]原文だと「晋氏以来」と書いてあるが、『通典』将作監によると、置かれたり置かれなかったり体制になったのは東晋以後のことらしい。[上に戻る]

[15]『漢書』百官公卿表・上「典客、秦官、掌諸帰義蛮夷」、『続漢書』百官志二・本注「掌諸侯及四方帰義蛮夷。其郊廟行礼、贊導、請行事、既可、以命羣司。諸王入朝、當郊迎、典其礼儀。及郡国上計、匡四方來、亦属焉。皇子拝王、贊授印綬。及拝諸侯・諸侯嗣子及四方夷狄封者、台下鴻臚召拝之。 王薨則使弔之、及拝王嗣」。おわかりのとおり、大鴻臚は漢代、外交的な仕事にあたっていた。すなわち、諸国の代表を出迎えたり、封建のときに印綬を授けたり、王が亡くなった際には見舞ったり、等々。なので、夷狄もその仕事の範囲内に入っていたのである。が、『宋書』本文を読む限り、そのあたりはどうなっているのだろう、曖昧にぼかされている気もするし(夷狄だって封建されれば「諸王」だし)、すっぽり抜け落ちているのかもしれない。南朝の正史での大鴻臚の用例を確認すると、大鴻臚は夷狄ではない諸王(つまり帝室の諸侯王)に対して派遣されているのが多く、夷狄の迎えたなどといった記述は見られない。だからといって大鴻臚の仕事でなくなったとは言えないけど。[上に戻る]

[16]『太平御覧』巻232『韋昭辯釈』「腹の肉が出ていることを『臚』という。京師を心腹、王侯や外国を四肢と見なし、心服で諸外国を養うということを意味する。弁じるに、大鴻臚はもともと典客であり、賓客への礼を担当としていた。『鴻』とは『大』のこと、『臚』とは『陳序』のことを意味し、大いなる賓礼をつかさどって賓客を整然と並べることをいうのである」、同『漢官解詁』「『鴻』は『声』を、『臚』は『伝』を意味する。声を響かせて賓客を誘導するからである」。[上に戻る]

[17]『晋書』職官志によれば、晋代だと属官には「大行、典客、園池、華林園、鈎盾等令、又有青宮列丞、鄴玄武苑丞」がいた。以下補足。
 大行令、典客令 郎(下働き)のボス。後漢のときは大行令と呼ばれ、大鴻臚の属官であった。『通典』によると、魏のときに客館令に、晋のときに典客令に改称された。ここの『晋書』の記述はいまいちよくわからない感じだね。晋代の大行令には理礼郎(四人)という属官がいる(『通典』巻25職官典7太常卿・奉礼郎)。宋のときには南客館令と北客館令に分かれた。
 園池令、華林園令、鈎盾令 鈎盾令は苑や池などの遊閑地を管理する官で、後漢のときは少府に属していた。知らんけど園池令も似たようなものなんじゃない? 鄴玄武苑丞は鄴の玄武池関連の管理者でしょうね。華林園令は前注[13]で見たように、『晋書』職官志では光禄勲の属官として記されているのだが、流れ的には大鴻臚の属官であったほうがふさわさしいね。東晋以後、この官がどこにいったのか不明。門下省かな? 
 青宮列丞 わからん。[上に戻る]

[18]『太平御覧』巻230厩令『斉職儀』「諸厩有圉師・牧人、養馬之官、校人掌王之馬正也」、同車府令『斉職儀』「車府署、周有巾車、典輅之職、辨五輅之制」。[上に戻る]

[19]『晋書』職官志によると、晋代には属官に「典農・典虞都尉、 典虞丞、左・右・中典牧都尉、車府、典牧、乗黄廐、驊騮廐、龍馬廐等令。典牧又別置羊牧丞」がいた。
 典農・典虞都尉 典農都尉はいわゆる屯田の官だが、大司農所属だったはず・・・。典虞都尉は不明。
 典牧都尉 全国には厩舎が設置されている。それら厩舎のボスのボスのこと。『通典』では「牧官都尉」と記されている。
 車府令 車の管理。漢魏晋では太僕に所属していたが、宋以後は尚書の駕部に所属した。
 典牧令 全国の厩舎への馬の配分をつかさどる。漢魏晋と置かれていたが、それ以後の詳細は不明。
 乗黄廐、驊騮廐、龍馬廐 帝室や禁軍で使う馬を飼育するエリート牧場の名称。乗黄廐令は劉宋では太常に所属していた(訳注(1)参照)。驊騮廐は曹魏のときに、龍馬厩は西晋のときに置かれた。本文にあるように、東晋以後の太僕は置かれたり置かれなかったりという不安定な卿だったので、この二つの厩令は門下省の所属へ移ったらしい(『通典』巻25職官典7・太僕卿)。乗黄厩令が太常に移ったのも同様の理由だろうね、どうして乗黄だけ太常なのかは知らんけど。まあともかく、牧場の管理は欠かせないから常設ではない太僕の下に置くわけにはいかなくなったのだ。[上に戻る]

[20]漢以来の卿である宗正は、『宋書』百官志に記されていない。もちろんうっかりミスではない。宗正は皇族の綱紀を取り締まる官で、魏、西晋では置かれていた。漢魏では皇族が就いていたが、西晋では皇族でなくとも就任するようになった。だが東晋の哀帝期、宗正は廃され、その職務は太常に移ったという。そして劉宋では置かれることがなかった。『宋書』百官志に記述されないのはかかる理由によるのだろう。
 晋では属官に「太医令史、又有司牧掾員」がいたらしいが、前述したように、太医令は宗正の廃止とともに門下省へ移った。後者の官は不明。
 余談ですが、西晋の咸寧三年に宗正とは別に宗という官も置いたらしいよ。『晋書』にもいくつか用例が見えるね。普通に「師」を使ってるね。[上に戻る]





 いまさらながら、哀帝の時期に廃止された卿ってすごく多いんですね、てか卿の廃止ってすべて哀帝の時期におこなわれているはず。で、ほぼぜんぶ孝武帝のときに復活。
 『通典』を見てたら、どうもこうした組織改革をやったのは桓温であるらしい。そういえば! かれは「省官併職」という官制改革をおこなっている。その一環か! 川合安先生が論文を執筆しているが内容は忘れてしまったけど。
 孝武帝の初年に卿が復活、要するに桓温死後に復活しているあたりに、孝武帝は桓温のやり方が少し気に食わなかったのかもしれんね。
 形骸化するくらいならいっそなくしてしまい、必要な職務は他の官に移してしまえばいいというのが桓温だったのかもしれないが、だとすると、形骸化が進む卿をわざわざ復活させた孝武帝の意図はなんだったのだろう。ともかく、こうして廃したり復活させたり一貫しなかったために、官がごちゃごちゃしてしまったんじゃなかろうか。要するに調べんのめんどくさかったって言ってんの。