2013年5月27日月曜日

補足

 思い出したので昨日の補足。
 「陽秋」の用例を探してみると、次の記事が検索される。


『晋書』巻20礼志・中
寧康二年七月、簡文帝再周而遇閏。博士謝攸・孔粲議、「魯襄二十八年十二月乙未、楚子卒、実閏月而言十二月者、附正於前月也。喪事先遠、則応用博士呉商之言、以閏月祥」。・・・尚書令王彪之・侍中王混・中丞譙王恬・右丞戴謐等議異。・・・於是啓曰、「或以閏月附七月、宜用閏月除者。或以閏名雖附七月、而実以三旬別為一月、故応以七月除者。・・・三年之喪、十三月而練、二十五月而畢、礼之明文也。陽秋之義、閏在年内、則略而不数。明閏在年外、則不応取之以越朞忌之重、礼制祥除必正朞月故也」。己酉晦、帝除縞即吉。徐広論曰、「凡弁義詳理、・・・」。

 孝武帝年間初期の寧康2(西暦374)年の「議」についての記事。「議」というのは、公務上及び礼制上の問題を議題として、官僚たちから意見をつのり、それらのなかから皇帝や高官、礼官たちが優れた意見を採決するというもの。
 この記事の議題は「簡文帝が崩じて三年(二十五ヶ月)経過するときに、ちょうど閏月が来るんだけど、これどうすんのが正しいの?」という感じ。
 簡文帝は咸安2(372)年7月末に崩御。その月から数えて、寧康2年7月は二十五ヶ月になる。ところがこの年は閏7月があるそうで、喪服を脱ぐのは閏7月を終えてから、すなわち8月になってからなのか、それとも7月が終わった時点で除服して良いかがわからんということなのだそうだ。(たぶん)

 案の一つが、閏7月が終わってからでよくね?というもの。なぜなら閏7月は7月のオマケのようなもので、実質7月と変わらん、実質ね。ほら、閏12月があったとすると、12月を終えた時点で「今年終わったアアアアア」ってなれる?なれないよね?だから閏7月を過ぎないと7月を過ごしたとはカウントされないのだよ、わからんかね?みたいなことを言っている。
 これに反対するのが、7月を終えた時点で服を脱ぐべきだというもの。なぜなら閏7月とはいえ、立派に一月分の日数あるじゃん?だとすれば?二十五ヶ月?越えちゃうじゃん?二十六ヶ月?なっちゃうじゃん?だからここは二十五ヶ月というのを重んじて閏7月も一月分にカウントし、上の案みたいに7月とセットで一ヶ月と見なすのは不適切だという。

 礼制というのは私も疎いもので、この記事をこのように読むことができるのかというと心許ない。
 が、内容の細かなところはどうでもよろしい。大事なことは「孝武帝年間初期の記事において、「陽秋」と避諱を行った表記がなされている」ということ。しかもそれが、王彪之の議に見えている。王彪之が議を作成した当時から避諱が行われていた蓋然性が高まるのだ。

 ところが、この議の落着部分を見ていただきたい。「徐広論曰」と、徐広なる人がこの一件について評論を下しているわけだ。いったい徐広とは?
 簡潔に言うと彼は東晋末~劉宋初の学者。『晋書』巻82、『宋書』巻55に立伝されている。『宋書』によると、義煕2(406)年、尚書が徐広を国史編纂の任に当てるよう上奏し、裁可された。その尚書の奏文に「太和以降、世歴三朝、玄風聖迹、倏為疇古」とあり、廃帝(海西公。この時期の年号が太和)、簡文帝、孝武帝の三代の時代を記述させるのが狙いであったらしい。その後義煕12(416)年、『晋紀』全46巻が完成したという。
 前掲した『晋書』の記事はこの『晋紀』からの引用ではないか?あるいは徐広には礼制に関する著述が色々あったらしいので、それらからの引用じゃないか?どちらにしても、東晋末に活動した徐広の著作で「春」が避けられているのは当然のことといえる。
 つまり、前掲記事は徐広の手が加わって「陽秋」と書き換えられている可能性を排除することができず、したがって孝武帝初期から避諱が行われていたと見なす根拠には成り得ない。
 それだけでした。

 それにしても『晋書』や『宋書』の志にはこうした具合で「干宝以為」「孫盛云」「魚豢曰」などのかたちで、散佚書の佚文を引用していることが多い。意外と掘り出しものがあったりするかもしれない。


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