2014年1月18日土曜日

『宋書』百官志訳注(5)――卿(光禄勲・衛尉)

 光禄勲は一人。丞は一人[1]。「光」とは「明」、「禄」とは「爵」、「勲」とは「功」のことである[2]。秦では郎中令と言い、漢はこれを継承していたが、漢の武帝の太初元年、光禄勲に改称した[3]。三署郎〔五官中郎、左中郎、右中郎〕を管轄する。郎は戟を持って宮殿の門を警備する。光禄勲は宮中におりながら(宋の?)殿中御史のような仕事〔取締り、弾劾〕をし[4]、宮殿の門外に(光禄勲が管理する)獄があるが、これを光禄外部と言う[5]。光禄勲は郊祀の際には三献を担当する[6]。魏晋以来、光禄勲が宮中で勤務することはなくなり、また三署郎も廃されたので、ただ外朝の朝会のときだけ、(卿の)名分によって参列しているだけである[7]。二台〔尚書台と御史台?〕が(ある人物の)罪を奏上して弾劾すれば、朝廷に出入りするための身分証明の符に、光禄勲が禁止を加え、禁止を解くときも光禄勲が担当した。禁止とは、宮殿や役所に入れないことを言い[8]、(これを光禄勲が担当するのは)光禄勲は宮殿の門のことを管轄しているからである。宮殿門戸の仕事は、現在でも光禄勲の管轄下である[9]。晋の哀帝の興寧二年、光禄勲を廃し、司徒に併合した。孝武帝の寧康元年、復置された。東漢のとき、三署の郎に振舞いが四科[10]にかなっている者がおれば、(そのなかから)毎年茂才二人、四行二人を推挙させていた[11]。三署郎が廃されても、光禄勲は旧制同様、四行を(毎年)推挙し、高官の子弟をこれにあてていた。三署とは、五官署、左署、右署のことであり、それぞれに中郎将を置いて管轄させていた。郡が孝廉を推挙すると、(その者を)三署郎に配し、(もし)年齢五十以上の孝廉であれば五官署に配し、それより下の者は左・右署に分配した。およそ郎には中郎、議郎、侍郎、郎中の四ランクがあり、定員は無く[12]、多いときは一万人にも登った。
 左光禄大夫、右光禄大夫の二大夫は晋の初めに置かれた。光禄大夫は、秦のときは中大夫であったが、漢の武帝の太初元年に光禄大夫に改称されたのである。晋の初めに左・右光禄大夫を置いたが、光禄大夫はもとのまま置かれた。光禄大夫は銀章青綬、尊重されれば金章紫綬を加えられ、これを金紫光禄大夫と言う。旧制では秩比二千石である[13]
 中散大夫は、王莽が置いた官で、後漢はこれを継承した。前漢の大夫はみな定員が無く、議論することが職掌であった。後漢では光禄大夫は三人、(太)中大夫は二十人[14]、中散大夫は三十人であった。魏以来、再び定員が無くなった。左光禄大夫以下は、老人や病人を養うための官となり、定まった仕事は無かった[15]。中散大夫は六百石。

 衛尉は一人。丞は二人。宮(城の?)門に駐屯して護衛する兵を掌る[16]。秦の官である。漢の景帝の初め、中大夫令に改称された。後元年、衛尉に戻された。江右〔江北=西晋のこと〕では(衛士の統率ではなく)金属の鋳造を職掌とし、三十九の冶令を統括した。(鋳造を行なう)戸は五千三百五十で、冶金工房はすべて江北にあり、江南には梅根と冶塘の二つに工房があるだけで、(しかも)ともに揚州所属で、衛尉には所属していなかった。衛尉は江左(東晋)では置かれず 、宋の孝武帝の孝建元年に復置された。旧制では丞は一人だったが、孝武帝はもう一人増した[17]


――注――

[1]『通典』巻25職官典7光禄卿・丞「丞、漢二人、多以博士・議郎為之。魏晋因之、銅印黄綬」。また『通典』によると、主簿も置かれていた。「主簿、漢置。晋・宋・斉・梁・陳、並有之」。[上に戻る]

[2]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「応劭曰、『光者、明也。禄者、爵也。勲、功也』。如淳曰、『胡公曰勲之言閽也。閽者、古主門官也。光禄主宮門」。師古曰、『応説是也』」。『太平御覧』巻229引『応劭漢官儀』「光者、明也。禄者、爵也。勲、功也。言光禄典郎謁諸虎賁羽林、学不安得、賞不失労、故曰光禄勲」。[上に戻る]

[3]なお『通典』巻25職官典7光禄卿によると「建安末、復改光禄勲為郎中令。魏黄初元年、復為光禄勲」。[上に戻る]

[4]原文「光禄勲禁中如御史」。『通典』巻25職官典7光禄卿に「光禄勲居禁中〔如宋之殿中御史――原注〕」とあるのを考慮した。殿中御史については、『晋書』巻24職官志に「殿中侍御史、案魏蘭台遣二御史居殿中、伺察非法、即其始也。及晋、置四人、江左置二人」とある。[上に戻る]

[5]『宋書』には本文のほかに二例の用例が見える。『宋書』巻34五行志5「晋成帝咸康四年十一月辛丑、有何一人詣南止車門自列為聖人所使。録付光禄外部検問、是東海郯県呂暢、辞語落漠、髠鞭三百、遣」、同巻94恩倖伝・阮佃夫伝「帝乃收佃夫・幼・伯宗於光禄外部、賜死」。[上に戻る]

[6]三献については「訳注(1)」の注[8]を参照のこと。[上に戻る]

[7]漢代の光禄勲は、五官中郎、左中郎、右中郎、虎賁中郎、羽林中郎、羽林左監、羽林右監の七署を管轄していたほか(なお郎は議郎、中郎、侍郎、郎中の四クラスある。また郎中には戸将、車将、騎将という役職があったらしいが、光武帝のときに廃されたらしい)、奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉(いわゆる奉朝請)、光禄大夫、太中大夫、中散大夫、諫議大夫、謁者僕射の文官系統の官も管轄していたのであった。
 だが、本文にあるように、三署郎は魏のときに廃され、さらにほかの郎も光禄勲の手から離れていったらしい。というのも、おいおい「百官志・下」の訳注で触れることになると思うけれども、魏のときには領軍将軍・護軍将軍が確立し、いわゆる「禁軍」が整備されていった(はず)なのだが、虎賁中郎、羽林中郎、羽林左監、羽林右監はこのときに禁軍のほうへ移されたようなのである(あくまで推測に留まるのだが)。その後、西晋のときに羽林中郎、右監は廃され、哀帝の時期には左監も廃止となったが、宋の武帝のときに復置されたそうである(『宋書』百官志・下)。なお、「三署」という組織はたしかに解体されたが、「左右中郎将」という官自体は魏の時代にも存続しており、晋の武帝のときになって省かれている(『通典』巻29職官11中郎将)。『晋書』巻3武帝紀泰始九年の条に「罷五官左右中郎将」とあることからすると、五官中郎将にかんしても位だけは残っていたのかもしれない。
 と、やや単線的なストーリーを構築してみた。上記の記述はおおむね『宋書』百官志・下、『通典』に拠っているが、『晋書』職官志には、「光禄勲、統武賁中郎将、羽林郎将、冗従僕射、羽林左監、五官左右中郎将、東園匠、太官、御府、守宮、黄門、掖庭、清商、華林園、暴室等令」とあり、上記のわたしの羽林などにかんする推測は外れている可能性がある(五官左右がここに見えるのは、泰始九年以前のことを記述しているとみればとくに問題とはならないだろう)。あんまりここらへんは明確にはわからんで、すみません。
 文官系の属官にかんしてはというと、奉朝請はどうなったのかよくわからん。『宋書』百官志・下では散騎常侍などと並べられているし、前掲の『晋書』職官志にも見えていないので、移されたのかもしれない。謁者僕射も『宋書』百官志・下や『通典』に見えはするが、明確な記述はない、こちらもまた『晋書』職官志に見えないので、やはり移されたのだろうか。
 ということで、魏・晋・宋時期の光禄勲の属官で確実な官は光禄大夫、太中大夫、中散大夫などの閑職くらいしかなかったことになる(大夫については後文で詳述する)
 一方、さきの『晋書』職官志でお気づきになられた方もいるかもしれないが、西晋の時期はなぜか宮中関連の官職が光禄勲の統属に置かれている。「東園匠、太官、御府、守宮、黄門、掖庭、清商、華林園、暴室等令」とね。『通典』巻25職官典7光禄卿・太官署令によれば、太官令は後漢・魏までは少府所属だったが、西晋から光禄勲に移されたらしい(なお『通典』によれば、晋代の太官令の属官には餳官と果官が二人ずつ、酒丞が一人いたらしい、前者が珍味、後者が酒を管理する官のようだ)。宋になると、太官令は侍中府に移されている。ともかく、晋の時代になると、太官に限らず後宮とか華林園とか、宮中の施設を管理する役職まで光禄勲下に置かれており、なぜ急に少府から移されたのか気になるところである。光禄勲が元来、宮中において職務を執る官職であったことが関係あったにせよ、こういう改革は気になるところですね。晋の組織改革はそのまま南朝にも継承されたのかどうかは不明瞭で、前述したように、少なくとも太官令は侍中府に移されている。とすれば、他の官もやはり宋以降は光禄勲から離れていったのかもしれない。たとえば守宮令は、漢代は皇帝の使用する紙、筆、墨などを管理する官職で、少府の所属であったが、晋代に光禄勲所属に移り、梁・陳になると将作大匠へと移っている(『通典』巻25職官典7衛尉卿・守宮署)[上に戻る]

 

[8]『後漢書』帝紀4和帝紀李賢注「禁中者、門戸有禁、非侍御者不得入、故謂禁中」。[上に戻る]

[9]原文「宮殿門戸、至今猶属」。『通典』光禄卿では「其宮殿門戸、至宋文猶属」となっている。もし『通典』を信ずれば、『宋書』の「今」とは宋の文帝のことを指すことになるが、文帝の時期というと、あの何承天が国史『宋書』を編纂した時期に重なる。とすると、沈約のこの箇所の記述は何承天『宋書』をそのまま引き写したものだといえるのかもしれない。何承天『宋書』については「訳注(3)」注[12]も参照。[上に戻る]

[10]『漢書』9元帝紀永光元年条「二月、詔丞相・御史挙質樸・敦厚・遜讓・有行者、光禄歳以此科第郎・従官」、師古注「始令丞相・御史挙此四科人以擢用之。而見在郎及従官、又令光禄毎歳依此科考校、定其第高下、用知其人賢否也」、『後漢書』列伝54呉祐伝「祐以光禄四行、遷膠東侯相」、李賢注引『漢官儀』「四行、敦厚・質樸・遜讓・節倹」。『漢書』元帝紀と李賢注とではわずかに異なっている(「有行」⇔「節倹」)。光禄勲が四科を基準に郎の成績をつけるんだと。
 あるいは「漢代、選挙のための四種の科目。徳行・学問・法令・決断」(『漢辞海』)をさすこともあり、『後漢書』紀4和帝紀・李賢注引『漢官儀』に「建初八年十二月己未、詔書辟士四科一曰徳行高妙、志節清白。二曰経明行脩、能任博士。三曰明曉法律、足以決疑、能案章覆問、文任御史。四曰剛毅多略、遭事不惑、明足照姦、勇足決断、才任三輔令。皆存孝悌清公之行。自今已後、審四科辟召、及刺史・二千石察挙茂才尤異孝廉吏、務実校試以職。有非其人、不習曹事、正挙者故不以實法」とある。ただ光禄勲の四科にかんしては前者のことをさすと考えてよかろう。[上に戻る]

[11]『後漢書』列伝51黄瓊伝「旧制、光禄挙三署郎、以高功久次才徳尤異者為茂才四行」。[上に戻る]

[12]『後漢書』紀4和帝紀・李賢注引『漢官儀』「三署謂五官署也、左・右署也。各置中郎将以司之。郡国挙孝廉以補三署郎、年五十以上属五官、其次分在左・右署、凡有中郎・議郎・侍郎・郎中四等、無員」。原文とほぼ同じ。[上に戻る]

[13]後漢期においても、定まった仕事はないとされてはいたが、観念的には「顧問」などの仕事があるとされていた。『続漢書』百官志2光禄勲・光禄大夫・本注「凡大夫議郎、皆掌顧問応対、無常事、唯詔令所使。凡諸国嗣之喪、則光禄大夫掌弔」、『晋書』職官志「漢時所置無定員、多以為拝仮賵贈之使及監護喪事」。また本注および『晋書』には「無員」とあるが、劉昭の引く『漢官』によると定員は「三人」である(『通典』巻34職官典16文散官・光禄大夫以下も同じ)
 これが魏になると、定員なしとなり、唯一の仕事らしい仕事であった喪の代行責任者という職務もなくなり、高齢で引退する者や優遇を加えたい者に与える名誉職へと位置づけされた。晋もこれを継承したが、『晋書』、『通典』には少し詳しい記述が残っているので、以下、紹介しておこう。
 本文にあるように、晋代は光禄大夫、左光禄大夫、右光禄大夫の三大夫が置かれていたが、光禄大夫は三品、秩中二千石(=卿と同等)、銀章青綬で、班位は金紫将軍(=二品将軍)より下、卿より上。皇帝のお気に入り具合では金章紫綬に格上げされることもあるので、ノーマルの場合を「銀青光禄大夫」、金章の場合を「金紫光禄大夫」と呼ぶ。左・右光禄大夫は、『晋書』によると二品、金章紫綬だが、『通典』は光禄大夫と同じ銀章青綬とする。『晋書』巻38宣五王伝・平原王榦伝に「太康年間の末、光禄大夫に任じられ、侍中を加えられた。特別に金章紫綬を仮され、班位は三司の次とされた。恵帝が即位すると、左光禄大夫に進められ、侍中はもとのとおりとされた(太康末、拝光禄大夫、加侍中、特仮金章紫綬、班次三司。恵帝即位、進左光禄大夫、侍中如故)」とあるのを見ると、左右のが格上と見なしてよい。光禄大夫は、晋以後、多く兼官であった(つまり、大半が加官として与えられたということ)。加官を一度辞退すると、「いやいやそう言わずに」なんて引き止められることはないそうである。加官であった場合は、特進同様、章綬、俸禄、班位が与えられるだけで、光禄大夫本来の馬車や冠服、吏卒は支給されない。本官が卿であった場合は加官しない。兵が与えられる場合は、三品将軍と同様の規定に従った。光禄大夫、左右光禄大夫は「文官公」なので、開府の規定も有している(はず)。没後の贈官として与えられる場合もあった。劉宋も基本的にこの晋の制度に従ったという(『通典』)
 『晋書』職官志「左右光禄大夫、仮金章紫綬。光禄大夫加金章紫綬者、品秩第二、禄賜、班位、冠幘、車服、佩玉、置吏卒羽林及卒、諸所賜給皆与特進同。其以為加官者、唯仮章綬、禄賜班位而已、不別給車服吏卒也。又卒贈此位、本已有卿官者、不復重給吏卒、其余皆給。光禄大夫仮銀章青綬者、品秩第三、位在金紫将軍下、諸卿上。漢時所置無定員、多以為拝仮賵贈之使、及監護喪事。魏氏已来、転復優重、不復以為使命之官。其諸公告老者、皆家拝此位、及在朝顕職、復用加之。及晋受命、仍旧不改、復以為優崇之制、而諸公遜位、不復加之。或更拝上公、或以本封食公禄。其諸卿尹中朝大官年老致仕者、及内外之職加此者、前後甚衆。由是或因得開府、或進加金章紫綬、又復以為礼贈之位。泰始中、唯太子詹事楊珧加給事中光禄大夫。加兵之制、諸所供給依三品将軍。其余自如旧制、終武恵孝懐三世。光禄大夫与卿同秩中二千石、著進賢両梁冠、黒介幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉日三斛。太康二年、始給春賜絹五十匹、秋絹百匹、綿百斤。恵帝元康元年、始給菜田六頃、田騶六人、置主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人」。[上に戻る]

[14]原文「中大夫二十人」。前文にあるように、中大夫とは光禄大夫の旧名である。『続漢書』百官志2光禄勲・太中大夫の劉昭注引『漢官』によると、太中大夫の定員は二十人であり、おそらく原文のこの箇所は「太」字が誤脱したものと思われる。訳注で補っておいた。『通典』巻34職官典・文散官・光禄大夫以下「太中大夫、・・・後漢置二十人。魏以来無員。晋視中丞、吏部、絳朝服、進賢一梁冠、介幘」、『太平御覧』巻243太中大夫『韋昭辨釈』「太中大夫、大夫之中最高大也」。[上に戻る]

[15]注[7]で触れておいたが、後漢の光禄勲は諫議大夫という大夫も属官に置いていた。『続漢書』百官志2光禄勲・諫議大夫の劉昭注引「胡広曰」によると、漢の武帝期に置かれた諫大夫を、光武帝が諫議大夫に改称したとのこと。同じく劉昭注に引く『漢官』によれば定員は三十人。中散大夫とほぼ同格といったところか。胡広によれば、光禄大夫、太中大夫、中散大夫、諫議大夫の四大夫は「於古皆為天下之大夫、視列国之上卿」。曹魏までは置かれていた形跡が見えるのだが、西晋では二例のみ(『晋書』巻59趙王倫伝、同巻95芸術伝・陳訓伝)、趙王倫伝は西晋初、陳訓伝は西晋末の事例。西晋初めに廃され、西晋末に一時的に復活とか、そういったところなのだろうか。ともかく、東晋・南朝期には事例がなく、この時期には廃止されていたのだろう。『宋書』百官志に記述がないのもそのような事情によるものと思われる。[上に戻る]

[16]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「漢旧儀云、衛尉寺在宮内。胡広云、主宮闕之門内衛士、於周垣下為区廬。区廬者、若今之仗宿屋矣」。[上に戻る]

[17]見られるように、晋代になってまったく違う職務に変化している。おそらく、光禄勲同様、禁軍の独立とともにこれまでの職務がなくなってしまったのだろう。冶金の責任者なんて、漢代だったら大司農か少府の仕事のはずだが(あんまり詳しくないから自信ないけど)、まあ漢代以来の伝統ある衛尉を廃止するわけにもいかんし適当な仕事やらせとけみたいな感じになったんだろうか。ちなみに南斉、梁では漢代と同じ仕事に戻ったそうだ(『通典』巻25職官典7衛尉卿)
 と、これまたいかにもな解説をしておいたが、『晋書』職官志には「衛尉、統武庫、公車、衛士、諸冶等令、左右都候、南北東西督冶掾。及渡江、省衛尉」とあるので、上のようなわたしの考えでよいのかは疑問も残る。まあでも、『宋書』や『通典』の記述の仕方や、属官の具合から見ても、魏晋南朝の衛尉のメイン職務は「衛士の統率」ではなく「モノ(金属類)の製造」にあったと思いますが。
 さて、『通典』を主な史料として、衛尉の属官を簡単に見ておこう。
 主簿。晋代以降、二人。
 冶令。『宋書』百官志・上の少府の項目に記述があるので、そんときに述べます。
 武庫令。一人? 武器(武器庫)の管理。前漢・後漢・曹魏では執金吾の所属で、晋も当初はそれを継承していたが、のちに衛尉に移した。劉宋・南斉では尚書庫部、梁・陳では衛尉に所属。『宋書』百官志・上の尚書の項目に記述有。
 公車令、一人。秦官。秦漢代は公車司馬令、東晋以降は公車令。宮城南門の警備。皇帝への謁見の取次を門でおこなう感じらしい。後漢では丞と尉を一人ずつ。丞は諱に通暁している者を任命し、マナーを担当、尉は、ほらよくあるじゃん、門のまえとかで戟とか槍を左右から斜めに交錯させて入れさせない人たち、アレ。公車令は劉宋期に侍中府に移されているので、『宋書』百官志でも侍中府に連なっている(百官志・下に見える)。
 左右都候。後漢では一人ずつ、丞も一人ずつ。宮城の巡回警備。前掲の『晋書』によると、西晋時期にもいたらしいが、『通典』によれば後漢以降「無聞」。『宋書』百官志にも見えない。
 衛士令。後漢だと南宮と北宮で一人ずつ、丞も一人ずつ。前掲『晋書』に見えているが、『宋書』百官志、『通典』には記載がないのでわからない。
 というわけで、魏・晋・宋期の衛尉の属官は冶令(三朝)、武庫令(晋・宋)、公車令(魏・晋)が確実でしょう。こりゃあたしかに東晋になって廃されるわなあ・・・。[上に戻る]

0 件のコメント:

コメントを投稿