少有大度、不事家人生業、軽財好施、以交結賢士大夫。
(宇文泰は)若くして度量が広く、家族の生業にいそしんだりしなかった。財産に執着せず、人に施しをすることを好み、そうして賢人や高位に就いている人[1]と交際した。おや、こんな話はどこかで聞いたような・・・
高祖為人、・・・常有大度、不事家人生産作業。(『漢書』巻1高帝紀・上[2])高祖劉邦その人である。劉邦にはこんな逸話も伝わっている(『漢書』巻1高帝紀・下・高祖9年10月)。
上奉玉卮為太上皇寿、曰、「始大人常以臣亡頼、不能治産業、不如仲力。今某之業所就孰与仲多」。殿上群臣皆称万歳、大笑為楽。
高祖は玉製のさかずきを奉じて、太上皇〔高祖の父〕の長寿を祝福し、「当初、お父上はいつも、わたくしが無頼のやからで、家の仕事をこなすことができず、(兄の)仲の勤勉さに及ばないやつだと思っておいででした。(しかし)いま、わたくしが成し遂げた業績と、仲のそれとでは、どちらが勝っておられると思いますか?」と言った。殿上の群臣はみな万歳をとなえ、おおいに笑って楽しんだ。天子になって天下を統一したとほざくこの男、なんと30代までニートだったと言うのだ[3]。それに比べて兄の仲は、家がちゃんと食べていけるよう、よく働いていたらしい。まあしかし、英雄になるべき男は、そんな凡人がやるようなことで一生を終えるつもりなどない、という意気込みを持っておらねばならないのかもしれにょ
だがしかし、本当にそうだろうか、ニート諸君。次の話もよく考えて欲しい。
世祖光武皇帝諱秀、・・・性勤於稼穡、而兄伯升好侠養士、常非笑光武事田業、比之高祖兄仲。(『後漢書』紀1光武帝紀・上)
世祖光武帝は諱を秀と言う、・・・(帝は)農業に精を出す性格であったのに対し、兄の伯升は義侠の士を好んで、彼らを養っていた。(伯升は)いつも、帝が農業に努めていることをあざ笑い、高祖の兄の仲になぞらえていた。
斉武王縯、字伯升、光武之長兄也。性剛毅、慷慨有大節。自王莽簒漢、常憤憤、懐復社稷之意、不事家人居業、傾身破産、交結天下雄俊。(『後漢書』列伝4宗室四王三侯列伝)
斉武王の縯は字を伯升と言い、光武帝の一番上の兄である。剛胆な性格で、血気盛んに大志を抱いていた。王莽が漢を簒奪して以降、つねに不満を抱き、漢の朝廷を復興しようと考えていた。家族の生業は全くかえりみず、我が身を忘れて財産を散じ、天下の豪傑たちと交際した。光武帝は農業にいそしんでいたが、そんな様子を見て、その兄の劉縯は「おまえは高祖の兄の仲みたいやな笑」と言ったらしい。そうして自身は全く農業なんかしないくせに、家の財産は好き勝手に使って、豪傑(笑)と交際したそうだ。
結果はすでに明らかなように、光武帝が漢の皇帝となった。とすると、家の生業にいそしんでいるからと言って、英雄の素質が無いとも言えないのかもしれない[4]。
というわけでね、人生どうなるかわからんねというだけです。
ところで、冒頭の宇文泰はどうなったのだろう?彼の母は妊娠中、次のような夢を見たと言う。
母曰王氏、孕五月、夜夢抱子昇天、纔不至而止。寤而告徳皇帝、徳皇帝喜曰、「雖不至天、貴亦極矣」。
母は王氏と言う。妊娠五ヶ月のとき、夜に、子をかかえて天に登り、あと少しというところで届かなかった、という夢を見た。目が覚めて徳皇帝〔王氏の夫=宇文泰の父。名は肱〕に夢のことを話すと、嬉しがって言った、「天には届かずとも、高貴を極めるに違いない」。この夢の通り、彼は西魏の高貴を極めるにまで至ったが、天子にはなれなかった。もちろん、そこに至るまででも、ものすごい出世話であるが。
――【注】――
[1]原文「賢士大夫」だが、ここでは「賢士・大夫」で読んだ。「賢たる士大夫」のように読むこともできるが、ここでは語数やリズム等を勘案してこのように読んでおいた。[上に戻る]
[2]『史記』は所有していないので、『漢書』から引用させてもらった。[上に戻る]
[4]
といっても、新末後漢初の動向に詳しい方なら周知のことではあろうが、南陽における漢朝復興の反乱の狼煙は、劉縯によって挙げられた。劉縯こそがボスで、光武帝はその指揮下で戦っていたのである。引用した帝紀や列伝の記述にふさわしく、劉縯には相応のカリスマ性、リーダーシップおよび人望が備わっていたらしい。しかし、その溢れる才気があだなしたらしく、新市兵などとの合流を機に醸造された集団内部の権力闘争の前に、彼は殺されてしまった。要するに劉縯もひとかどの人物であったようである。[上に戻る]
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