2013年7月14日日曜日

『晋書』宣帝紀訳注

 宣帝紀の訳注は今年4月くらいからぼちぼちやってたんだけど、間もなく飽きてしまってずっと放置中だった。今週になって気が向いて、久々に更新。でまあ、せっかくだし、更新した分を公開してみるかあ、というわけである。版本等は最下段に記載。



 ちょうどそのとき、尾を長く引く星が現われた。色は白、尾の先はぼんやりしており、襄平城の西南から東北へ流れ、梁水に落ちた。襄平城の人びとは恐れおののいた。公孫淵は不安になり、そこでようやく、公孫淵が任じた相国の王建、御史大夫の柳甫を遣わして降伏を乞わせることとし、包囲の解除と投降を願い出た。(帝はこれを)許さず、王建らを捕えて、ともに斬った。檄を送って公孫淵に告げた、「むかし、楚と鄭は(ともに)諸侯国であったが、鄭伯はそれでも肌を脱いで羊を引き、楚を迎えたと言う。孤〔わたし〕は王人[1]であり、位は上公であるが、王建らは(何らへりくだることなく)孤に包囲を解いて引き下がれと言う。とても楚鄭の故事に似つかぬ話だ。二人は老人だったので、預かった言葉を言い洩らしてしまったに違いないから、(その過失を咎めて)すでに斬った。もし投降の意志がまだ変わらぬのであれば、年少で判断に明るい者を送ってよこすがよい」。公孫淵は侍中の衛演を遣わし、日にちを決めて人質を送ることを願い出た。帝は衛演に言った、「軍事にはかなめが五つある。戦えるときは戦うこと、戦えないときは守ること、守れないときは逃げること、(逃げることもできない場合の)残りの二つは投降と死だ。おまえは投降に納得していない。かくすれば、死を選ぶだけだろう。人質は不要だ」。公孫淵は南の包囲を攻め破ったが、帝は兵を送って攻め破り、梁水のほとりの星が落ちたところで公孫淵を斬った。襄平城に入ると、二つの標識を立てて新と旧に分けさせた。男子の十五歳以上七千余人は全て殺し、京観〔死体の山〕をつくりあげた。公孫淵の偽公卿以下は全て誅殺し、公孫淵の将軍の畢盛ら二千余人を殺した。四万戸、三十余万口を没収した。
 初め、公孫淵は叔父の公孫恭の位を奪って収監した。(公孫淵が魏に)叛逆しようとしたとき、将軍の綸直と賈範らは大いに諌めたが、公孫淵はともに殺してしまった。帝は公孫恭を釈放し、綸直らの墓に土を盛り、彼らの跡継ぎを表彰した。令を下して言うよう、「いにしえは国を討伐したとき、悪人の親玉を誅殺するのみであったと言う。公孫淵の巻き添えにされた者たちは、全て赦す。中国の人で故郷に還りたい者は、自由に許す」。
 ときに、寒さに凍えた兵士らが襦〔腰のあたりまでの上着〕を求めたが、帝は与えなかった。ある人が、「幸いにも襦はたくさんありますし、下賜してもよろしいのでは」と言ったが、帝、「襦は官物だ、人臣が勝手に与えて良いものではない」。そうして軍人で六十歳以上の者は軍務を止めさせ、その千余人を家に帰すこと、従軍した将吏で戦死した者は遺体を家に送り届けること、を奏上した。とうとう帰還することとなった。天子は使者を遣わして薊で軍を慰労させた。(帝の)封地に昆陽を加増し、前の二県と合わせた。
 当初、帝が襄平に到着したとき、天子が帝の膝をまくらにし、「わしの顔を見ろ」と言うので、かがんで見たところ、普段とは異なる顔色だった、という夢を見たが、心中気味悪がっていた。これより以前、即座に関中に向かい、出鎮せよ、という詔が帝に下っていた。(ところが、帝が)白屋に至ると、帝を(京師に)召す詔が下り、三日間で五回詔書が来た。手詔に、「このごろは不安で口で息をするのもままならず、到着を待ち望んでおる。着いたら即座に真っ直ぐ宮中に入り、わしの顔を見ろ」。帝は驚き、追鋒車[2]に乗って昼夜兼行で向かった。(京師は)白屋から四百余里あったが、一泊で到着した。(天子は帝を)嘉福殿の寝室に招き入れ、御牀に上げさせた。帝は涙を流して病気の様子をたずねたが、天子は帝の手を取って、斉王のほうを見やって言った、「後事を任せたぞ。死は抑えることができる。わしは死を抑え込んで君を待っていた。一目見ることができた以上、もう思い残すことはない」。(帝は)大将軍の曹爽と共に遺詔を受け、少主を輔佐することとなった。
 斉王が帝位につくと、侍中、持節、都督中外諸軍、録尚書事に移り、曹爽とともにそれぞれ兵三千人を統べ、共同で朝政を取り仕切り、(曹爽と)交替で殿中に当直し、車に乗って殿中に入った。曹爽は尚書の奏事を、まず自分を経由してから天子に言上させようと思い、帝を大司馬に移した。朝議では、最近の大司馬が相次いで在位中に没したことを思い(不吉に感じたため)、帝を太傅とし、入殿の際は小走りしなくともよく、謁見の際は名を呼ばれることなく、剣を佩びて靴をはいたままでの上殿を許され、漢の蕭何の故事に倣わせた。嫁入と嫁取り、喪や葬儀のときは官から(経済的に)支給し、世子の師を散騎常侍とし、子弟三人を列侯とし、四人を騎都尉とした。帝は子弟の官を固辞し、受けなかった。

 正始元年春正月、東倭が通訳を重ねて朝貢した。焉耆、危須の諸国、弱水以南(の?)鮮卑の名王が、みな使者を派遣して朝貢した。天子はその(朝貢を招いた)美徳を宰相によるものとし、再度帝の封地を加増した。
 初め、魏の明帝は宮殿の整備を好み、規模は必ず壮麗であったため、人民は苦しんだ。帝が遼東から帰ったとき、労役に就いている者は依然として一万余人おり、飾り立てられた観賞物は常に千ばかりを数えた。このときになって、みなが奏上してこれらを止めるよう言い、節約して農業に務めるよう願い出たので、天下はこれを喜んだ。

 二年夏五月、呉の武将の全琮が芍陂を攻め、朱然、孫倫が樊城を包囲し、諸葛瑾、歩騭が柤中を掠奪したので、帝はみずから討伐することを願い出た。議者はみな、「賊は遠方から来て樊城を包囲しているので、急に落とすことはできないだろう。(賊が)堅固な城で敗北を喫せば、勢い自然と瓦解していくだろうから、長期的な計画でおさえてゆけばよろしい」と言った。帝、「辺境の城が敵を迎えているのに、ゆったりと廟堂に座ったまま(とは何たることだ)。境界が騒がしく、人々は動揺しているのだぞ、この事態は社稷の大きな憂いなのだ」。
 六月、(帝は)ようやく(命じられ、)諸軍を統率して南方征伐に進発し、天子は津陽門まで送り出した。帝は南方が暑く、湿気があり、持久戦は適さないと判断し、軽騎兵で(呉軍を)誘わせたが、朱然は動かなかった。そのため、戦士に休息を取らせ、精鋭を選抜し、先頭部隊を募集し、号令を示し合わせて、決死攻撃の姿勢を見せた。呉軍は夜に遁走したので、(帝は)三州口まで追撃し、一万余人を斬首、捕獲し、舟や軍需物資を鹵獲して帰還した。天子は侍中常侍を遣わし、宛で軍を慰労した。
 秋七月、郾、臨潁を食封に加増され、前の四県と合わせ、食邑一万戸とした。子弟十一人を全て列侯とした。帝の勲功と徳は日々高まり、しかも謙遜はいよいよ極まった。太常の常林は郷里の年輩であったので、会うたびに拝礼していた。いつも子弟に、「満ちて一杯になることは、道家の嫌うことだ。(それは)四季に移り変わりがあるようなもの、どのような徳であっても維持はできぬ。損なえば損なわれる、どうして免れ得ようか」。

 三年春、天子は皇考〔帝の父〕の京兆尹の防を追封し、舞陽成侯と諡号した。
 三月、(帝は)広漕渠を開鑿し、黄河を汴水に引き入れ、東南地方の陂に水を流し込むよう上奏した。こうしてようやく、淮北で耕作が行われるようになった。
 これ以前、呉は武将の諸葛恪を派遣して皖に駐屯させた。辺境の人々はこれに苦しんだので、帝は自ら(軍を率いて)諸葛恪を討とうとした。議者の多くは、「賊は堅城を拠りどころにし、食糧をたくわえているから、魏の官軍を引き寄せようと考えているだろう。(だというのに)いま遠征軍が皖を攻めれば、(呉の)援軍が必ず来るであろうから、(そうなってしまうと)進退もままならなくなる。(したがって、遠征する)利点がない」と考えた。帝、「賊が得意とするのは水軍である。いま呉軍の(占拠する)城を攻めたら、その対応を観察すればよい。もし得意とする水軍を活用しようとすれば、(賊は)城を棄てて逃げ去(り、こちらを誘い出そうとす)るだろうから、こうなれば(皖を取り戻したことになるので、)成功である。もしあえて皖を固守すれば、湖や川は冬に水位が低くなり、船が進めなくなるのだから、かかる情勢上、(賊は)必ず水軍を使わずに(陸軍で)救援を送ってこよう。不得手とする(陸上な)のだから、この場合であっても我が軍に有利である」。




[1]①周王室之微官(『春秋』荘公六年、杜預注「王人、王之微官也。雖官卑而見授以大事」)。②君王的臣見民。③国君(以上「漢典」)。ここでは③か(司馬懿は舞陽侯であり、封国を所有)[上に戻る]

[2]古代一種軽便的駅車、因車行疾速、故名。(「漢典」)[上に戻る]

☆底本には中華書局標点本(1974年11月)の2008年9月北京第9刷を使用。
☆他の版本(百衲本など)は所有していないので、参照してません。
☆工具書類
・『漢辞海』(第三版)・・・ハンディ辞書としてはかなり優秀
・『漢語大詞典』(縮印版)・・・中国語

・「漢典」(http://www.zdic.net/)・・・確認したわけではないが、たぶん『漢語大詞典』のデータを流用している。『説文』や『康煕字典』も合わせて引けるので、わりと便利。


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