tag:blogger.com,1999:blog-84377295578137270942024-03-14T06:56:45.267+09:00晋陽秋伝 魏晋南北朝史を読んでみるhienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.comBlogger78125tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-55649218013418743312022-08-13T16:29:00.003+09:002022-08-13T16:29:17.950+09:00唐修『晋書』と『世説新語』<p class="mb5"></p>
今般、サイトに<a href="https://readingnotesofjinshu.com/translation/biographies/vol-43_1" target="_blank">山濤伝</a>、<a href="https://readingnotesofjinshu.com/translation/biographies/vol-43_4" target="_blank">王戎伝</a>、<a href="https://readingnotesofjinshu.com/translation/biographies/vol-43_8" target="_blank">楽広伝</a>の訳をアップしたが、これにちなんで改めて表題の件について簡単に確認しておこうと思う。<br/>
<br/>
ずいぶん前にずいぶん古い文章で「唐の晋書は世説新語を採用していてけしからん」という旨を読み、「そうなのかなあ」と長いあいだ思っていた。<br/>
そうではあるが、私はこの件にかんしてあまり業界の人と話したことがなかった。以前の専門が五胡十六国だったこともあって、十六国春秋とかの話はよくしていたのだが……。<br/>
すでに専門の分野では周知の問題なのかもしれないが、私は唐の史官が世説新語を参照して採用したという考えは疑わしいと思っている。<br/>
<br/>
幸い、今回訳出した上の三人(+王衍と王澄)は『世説新語』にたくさん登場するため、その分だけ調べる機会も多かった。そしてやはり、「この三伝にかんしては唐の史官は世説新語の記述を採用していない」と結論せざるをえなかった。<br/>
ただ、サイトの訳注にいちいち異同や出典を注記するのも煩瑣に思えたので(ただでさえ十分に煩瑣なのに……)、サイトの訳注ではこの件にかんしてあまり記載しなかった。<br/>
そこでこのブログ記事で、『晋書』と『世説新語』の違いがよくわかる事例を手短に列記しておこうと考えたわけである。<br/>
<br/>
<br/>
<b>(1)山濤</b><br/>
<blockquote>
呉平之後、帝詔天下罷軍役、示海内大安、州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。帝嘗講武于宣武場、濤時有疾、詔乗歩輦従。因与盧欽論用兵之本、以為不宜去州郡武備、其論甚精。于時咸以濤不学孫呉、而闇与之合。帝称之曰、「天下名言也」。而不能用。及永寧之後、屡有変難、寇賊猋起、郡国皆以無備不能制、天下遂以大乱、如濤言焉。<br/>
<br/>
呉が平定されたのち、武帝は天下に詔を下し、軍役<span class="sm">(戦時の労役)</span>を停止し、海内に平和を示し、すべての州郡から兵士を廃し、大郡には武吏百人、小郡には五十人を置くこととした。武帝が宣武場で軍事訓練を実施したとき、山濤はちょうど病気を患っていたが、詔を下し、歩輦<span class="sm">(持ち上げたりかついだりして運ぶみこし)</span>に乗せて随従させた。そして〔山濤は〕盧欽と用兵の本質について議論し、州郡から軍備を取り去るべきではなかったと主張し、その論はひじょうに精密であった。そのときに話を聞いていた面々はこう思った。山濤は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している、と。武帝は山濤の論を「天下の名言である」と称えたが、採用できなかった。〔恵帝の〕永寧年間以後になると、何度も事変が起き、寇賊が大量に沸き起こったが、どの郡国にも軍備がなかったために制圧できず、天下はとうとう大混乱に陥ってしまい、山濤の言ったとおりになったのである。<br/>
</blockquote>
<br/>
これに類した話は『世説新語』識鑑篇、第四章に収められている。<br/>
<blockquote>
晋武帝講武於宣武場、帝欲偃武修文、親自臨幸、悉召群臣。山公謂不宜爾、因与諸尚書言孫呉用兵本意、遂究論。挙坐無不咨嗟、皆曰、「山少傅乃天下名言」。後諸王驕汰、軽遘禍難。於是寇盜処処蟻合、郡国多以無備不能制服、遂漸熾盛。皆如公言。時人以謂山濤不学孫呉、而闇与之理会。王夷甫亦嘆云、「公闇与道合」。<br/>
<br/>
晋の武帝が宣武場で軍事訓練を実施したときのこと。武帝は武装を廃し、文化事業を整備しようと思い、みずから訓練場にお出ましになり、群臣を全員召集した。山公は〔武帝の考えは〕適切ではないと思い、そこで尚書たちと『孫子』や『呉子』における用兵の本質について議論し、つきつめるまで論じた。一同の人々は誰もが感嘆し、みな言った、「山少傅〔の言論〕こそ天下の名言だ」。のちに諸王がおごり高ぶり、軽々しく変難を起こした。かくして盗賊があちこちで群がり集まったが、郡国の多くは武装がないために制圧できず、しだいに賊の勢力は増していったのであった。すべて山公の言葉どおりだったのである。世の人々はこう評したという、「山公は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している」。王衍もこう感嘆したのであった、「公は図らずも道と合致している」。<br/>
</blockquote>
<br/>
違いは一目瞭然なので説明は不要であろう。<br/>
ひとこと加えれば、ここで山濤のことを「山少傅」と称しているところがあるが、山濤伝によれば咸寧のはじめに太子少傅に就いている。それゆえ、この話は咸寧はじめのときである可能性がある。しかしいっぽう、『隋書』経籍志、集部、別集に「晋少傅山濤集」という文集が著録されている。すなわち「山少傅」という呼称は王導を「王丞相」、郗鑑を「郗太尉」と呼ぶような類いとも考えられる。「少傅就任前の話に少傅という呼称を使うなんて道理があるか!」と思う向きもあるだろうが、私も『世説新語』のそのあたりを徹底的に調べたわけではないものの、そういう正論がはたして『世説新語』に通じるのか疑問である。<br/>
<br/>
ここの劉孝標注には「竹林七賢論」と「名士伝」という佚書が引用されている。これも合わせて引いておこう。<br/>
<br/>
「竹林七賢論」<br/>
<blockquote>
咸寧中、呉既平、上将為桃林華山之事、息役弭兵、示天下以大安。於是州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。時京師猶講武、山濤因論孫呉用兵本意。濤為人常簡黙、蓋以為国者不可以忘戦、故及之。<br/>
<br/>
永寧之後諸王構禍、狡虜欻起、皆如濤言。<br/>
</blockquote>
<br/>
「名士伝」<br/>
<blockquote>
山濤居魏晋之間、無所標明。嘗与尚書盧欽言及用兵本意、武帝聞之、曰、「山少傅名言也」。<br/>
</blockquote>
<br/>
『世説新語』本文は『晋書』本伝と違い、孫呉平定後だとは明言しておらず、盧欽と議論したとも書かれていなかったが、この二つの佚書にはそれぞれその旨が書かれていたらしい。<br/>
ただし「竹林七賢論」は孫呉平定後の逸話とするが、山濤が盧欽と議論したとまでは書いていない。「名士伝」は盧欽と議論したことは書いているが、時機がいつなのかはわからない。<br/>
<br/>
時期は意外と大事で、というのも盧欽は咸寧四年に死去しているからである(武帝紀、盧欽伝)。したがって、じつは『晋書』本伝のように孫呉平定後に盧欽と議論するのはもともと不可能なのである。<br/>
そうすると、「名士伝」は〈咸寧四年以前に山濤はたまたま盧欽と用兵について議論する機会があり、そのときの山濤の主張を耳にした武帝は「イイね」と言った〉と書かれているとも読め、孫呉平定とは関係がない話だと言えてしまうわけである。<br/>
しかしそれだと、では「竹林七賢論」や『晋書』に言うような孫呉平定後の武備撤廃との絡みはいったい何であるのか。咸寧に用兵について論じて武帝からイイねされ、孫呉平定後もあらためて論じてやっぱりみんなからイイねされたというのだろうか。<br/>
<br/>
どうも山濤が用兵について見事な論を張ったという逸話にはさまざまなバリエーションがあったようである。ただ『晋書』本伝は盧欽の没年と矛盾しているので、これはダメなバージョンである。<br/>
唐の史官がいろいろな史書からごちゃまぜに引っ張ってきたのか、依拠している晋史の記述をそのまま採用したのかはわからないが、少なくとも『世説新語』をそのまま採用した可能性はありえないだろう。<br/>
<br/>
<br/>
<b>(2)王衍(王戎伝附伝)</b><br/>
<blockquote>
衍嘗喪幼子、山簡弔之。衍悲不自勝、簡曰、「孩抱中物、何至於此」。衍曰、「聖人忘情、最下不及於情。然則情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。<br/>
<br/>
王衍が幼児を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王衍は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王衍は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。しからば、情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。<br/>
</blockquote>
<br/>
これに似た話は『世説新語』傷逝篇、第四章に収録されている。<br/>
<blockquote>
王戎喪児万子、山簡往省之、王悲不自勝。簡曰、「孩抱中物、何至於此」。王曰、「聖人忘情、最下不及情。情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。<br/>
<br/>
王戎が子供の万子を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王戎は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王戎は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。<br/>
</blockquote>
<br/>
字句はほとんど変わらない。王衍が王戎になり、幼児が王万子(王戎の子)になっている以外は。<br/>
ちなみに劉孝標の注に「一説にこの話は王衍が子を亡くして山簡が弔問したときのことという(一説是王夷甫喪子、山簡弔之)」とある。劉孝標の時代からすでに王戎の逸話か王衍の逸話かで分裂していたようだ。<br/>
<br/>
王戎の子の「万子」のプロフィールについて確認すると、同章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「戎子綏、……綏既蚤亡」とあり、劉孝標によれば「万子」というのは王綏という人物のことらしい。『世説新語』賞誉篇、第二九章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」には「王綏字万子、……年十九卒」とある。しかし『晋書』王戎伝には「子万、……年十九卒」とあり、名が万であったかのごとくである。このあたりはいろいろ混乱があるみたいだが、ともかく十九歳で早世した子供であるのは確かのようだ。<br/>
また引用時に記述を省いたが、『晋書』王戎伝によるとこの子はひじょうに太っていたという。<br/>
<br/>
さて、この子供のことをはたして「まだ抱きかかえる年ごろの子供」と呼ぶだろうか。私には少し難しいように思う。つまり王戎が王綏(あるいは王万)を亡くしたときの逸話だとするとかなり不自然だと感じる。<br/>
唐の史官も同様に思い、王衍説のほうを採用したのだろうか。言葉は悪いが、唐の史官がそのような細やかな配慮をするとはとても思えない。依拠した晋史の王衍伝に記載されていたからそのまま採用しただけのように思えてならない。<br/>
ともかくこの箇所にかんしても、『世説新語』を意識しているわけではないと言えると思う。<br/>
<br/>
<br/>
<b>(3)楽広</b><br/>
<blockquote>
成都王穎、広之壻也、及与長沙王乂遘難、而広既処朝望、群小讒謗之。乂以問広、広神色不変、徐答曰、「広豈以五男易一女」。乂猶以為疑、広竟以憂卒。<br/>
<br/>
成都王穎は楽広の婿であった。〔成都王が〕長沙王乂と仲たがいを起こしたため、楽広は朝廷の名士の地位にあったものの、小人たちが楽広のことを〔長沙王に〕讒言した。長沙王が楽広に事情を質問したところ、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「広(わたくし)、五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。長沙王はなおも疑念を抱いていたため、楽広はとうとう不安のあまりに卒してしまった。<br/>
</blockquote>
<br/>
『世説新語』言語篇、第二五章に同様の話が記されている。<br/>
<blockquote>
楽令女適大将軍成都王穎、王兄長沙王執権於洛、遂構兵相図。長沙王親近小人、遠外君子、凡在朝者、人懐危懼。楽令既允朝望、加有婚親、群小讒於長沙。長沙嘗問楽令、楽令神色自若、徐答曰、「豈以五男易一女」。由是釈然、無復疑慮。<br/>
<br/>
楽広の娘は成都王穎に嫁ぎ、成都王の兄の長沙王乂は洛陽で朝政を握っていたが、とうとう二王は戦争を起こしてたがいにたがいを滅ぼそうとした。長沙王は小人を近づけ、君子を遠ざけていたので、朝廷に身を置いている者はみな不安を感じていた。楽広は朝廷の人望を集め、さらに〔成都王と〕姻戚関係にあったため、小人たちが〔楽広のことを〕長沙王に告げ口した。長沙王はあるとき、楽広に〔成都王と通じていないかと〕質問したが、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。これによって疑いが晴れ、二度と疑惑を向けられることはなかった。<br/>
</blockquote>
<br/>
結末がまったく違うのがわかる。<br/>
劉孝標注に引く「晋陽秋」には、長沙王と楽広との同様のやりとりを記したあと、「乂猶疑之、遂以憂卒」とあり、『晋書』本伝とまったく変わらない結末になっている。<br/>
なお『資治通鑑考異』に引く「晋春秋」には「太安二年八月、楽広自裁」とあり、自殺と伝える史書もあったらしい。<br/>
<br/>
この箇所にかんしても『世説新語』を参照しているとは言いがたいように思われる。<br/>
<br/>
<br/>
***<br/>
三つの例だけを簡単に見てきた。『晋書』と『世説新語』の違いが激しいところを挙げただけと言われればそのとおりである。『世説新語』とほとんど変わらない記述も一定数存在するからである。<br/>
しかしながら、劉孝標注や『初学記』などの類書に引用された散佚晋史を見ると、先行晋史にも『世説新語』に類した話が確認できる。しかもその話が『世説新語』と微妙に異なっていることも決して珍しくはない。また『世説新語』に収められている話がすべて『晋書』に見えているわけでもない。<br/>
<br/>
ようするに、たとえ『晋書』と『世説新語』の記述が同じであったとしても、その取材源を『世説新語』だと考えるのは早計だと私は考える。『世説新語』以外の晋史にも同様の記述が存在する例がありふれているのに、どこに取材源として『世説新語』を挙げる必然性があるのか。『世説新語』から採った可能性はあるが、必然性はない。そのあたりはきちんとすべきである。<br/>
と、とありあえず現在は考えることにする。私は不真面目でひとの議論はきちんと読んでいないので、この程度の事柄であればすでに誰かが言っているかもしれない。そこは今後きちんとします……。<br/>
<br/>
前回記事(「<a href="https://sinyousyuden.blogspot.com/2022/04/blog-post.html" target="_blank">『魏書』僭晋司馬叡伝の史料的価値にかんする暫定的私見</a>」)から引き続き、歴史的事実としての妥当性云々は措いて記述の成り立ちについて考えてみた。<br/>
それはそれとして、『世説新語』を今回のような仕方で読んだりするのは何だか書物の意向に即していない気がするというかなんというか、ごめんなさいって気分になりますね。ごめん。。<br/>
<p class="mb3"></p>
hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-21736106390312677792022-04-03T21:00:00.003+09:002022-04-06T19:06:11.639+09:00『魏書』僭晋司馬叡伝の史料的価値にかんする暫定的私見<STYLE type="text/css">
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<p class="mb5"></p>
かつて周一良氏は、『魏書』僭晋司馬叡伝を晋史諸書と比較すると孫盛『晋陽秋』および檀道鸞『続晋陽秋』とのみ合致していると指摘し、同伝はこの二つの晋史をもとに編集されたと論じた。そして魏収がこの二つの晋史を選んだのは、紀伝体よりも編年体のほうが記述材料のピックアップが容易だったからだろうと推測している(周一良「魏収之史学」、同氏『魏晋南北朝史論集』北京大学出版社、1997年、271-274頁)。<br/>
<br/>
筆者もこの結論に異論はないが、周氏の考証はやや簡略化されており、またもう少し踏み込んで言える事柄もあるように思われる。<br/>
筆者は現段階で、同伝のなかの司馬叡(元帝)の箇所しか精査が終わっていないが、とりあえずこの段階でも言えそうなことを本記事でまとめおこうと考えたしだいである。<br/>
<br/>
***<br/>
<b>(1)『晋書』と主旨は同じだが微妙に記述がちがっているところ</b><br/>
<br/>
<b>(1-1)永昌元年の王敦挙兵</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>王敦先鎮武昌、乃表於叡曰、「劉隗前在門下、遂秉権寵。今趣進軍、指討姦孽、宜速斬隗首、以謝遠近。朝梟隗首、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之訓、殷道復昌、賢智故有先失後得者矣」。敦又移告州郡、以沈充為大都督、護東呉諸軍。叡乃下書曰、「王敦恃寵、敢肆狂逆、方朕於太甲、欲見囚于桐宮。是可忍也、孰不可忍也。今当親帥六軍、以誅大逆」。叡光禄勲王含率其子瑜以軽舟棄叡、帰于武昌。<br/>
<br/>
王敦はまず武昌に駐屯し、それから司馬叡に上表して言った、「劉隗は以前、門下に在任していましたため<span class="sm">(侍中に就任していたことを指す)</span>、とうとう権力と厚遇を得るにいたりました。いま、すみやかに軍を進め、悪人の討伐に向かう所存でありますが、どうかすみやかに劉隗の首を斬り、遠近に謝罪していただけませんか。朝に劉隗の首をさらせば、諸軍は夕にも退却します。むかし、太甲は湯王の典制を尊重することができず、だいなしにしてしまいましたが、幸いにも伊尹の訓戒を聴き入れましたため、殷の道はふたたび栄えたのでした。じつに、賢者や智者というものは、はじめに失敗しても、そのあとで成功するのです」。さらに王敦は州郡にも布告し、〔呉興で挙兵して王敦に呼応した〕沈充を大都督、護東呉諸軍とした。そこで司馬叡は書を下して言った、「王敦は寵遇を恃みに、あえて狂逆を起こし、朕を太甲になぞらえ、桐宮に幽閉しようとしている<span class="sm">(桐宮は伊尹から追放された太甲が三年間過ごした場所)</span>。これが見過ごせるものならば、見過ごせないことなどあろうか。いま、朕みずから六軍を率い、大逆人を誅罰しよう」。司馬叡の光禄勲で〔、王敦の兄で〕ある王含は子の王瑜を従え、軽舟<span class="sm">(軽快な小舟)</span>に乗って司馬叡を見捨て、武昌<span class="sm">(王敦)</span>に帰順した。<br/></blockquote>
<br/>
ここで引用されている王敦の上表文は、『晋書』王敦伝に掲載されている上疏と部分的に合致している。さしあたり『魏書』司馬叡伝の文言に相当している箇所のみを掲げておこう。<br/>
<blockquote>劉隗前在門下、……遂居権寵、……。今輒進軍、同討姦孽、願陛下深垂省察、速斬隗首、則衆望厭服、皇祚復隆。隗首朝懸、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之勲、殷道復昌。……。<br/></blockquote>
<br/>
『魏書』の「以謝遠近」と「賢智故有先失後得者矣」に相当する文言が見られない以外はだいたい同じである。<br/>
<br/>
次に沈充だが、『建康実録』中宗元皇帝に、<br/>
<blockquote>遣龍驤将軍沈充都督呉興等諸軍事。<br/></blockquote>
<br/>
とあり、内容としてはおおむね『魏書』と同じであろうが、表現にはかなりちがいがある。たほう、『晋書』には関連する記述を見いだせない。沈充の記述は『魏書』独自の情報とみなしてよさそうである。<br/>
<br/>
つづいて司馬叡の書(詔)は『晋書』王敦伝と『建康実録』中宗元皇帝にも掲載されている。<br/>
『晋書』王敦伝<br/>
<blockquote>帝大怒、下詔曰、「王敦憑恃寵霊、敢肆狂逆、方朕太甲、欲見幽囚。是可忍也、孰不可忍也。今親率六軍、以誅大逆。有殺敦者、封五千戸侯」。<br/></blockquote>
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年正月<br/>
<blockquote>帝大怒、下詔曰、「王敦憑恃寵霊、敢肆狂逆、方朕太甲、欲見幽囚。是可忍也、孰不可忍也。朕将親御六軍、以誅大逆」。<br/></blockquote>
<br/>
『建康実録』は『晋書』王敦伝にかなり近い。<br/>
『魏書』司馬叡伝ふくめ、どれも似たような記載ではあるが、しいて言えば太甲の故事に関して「桐宮」を出しているか否かでちがいがあろう。<br/>
<br/>
王含の件については以下のとおり。<br/>
『晋書』王敦伝<br/>
<blockquote>敦兄含時為光禄勲、叛奔於敦。<br/></blockquote>
『世説新語』言語篇、第三七章<br/>
<blockquote>王敦兄含、為光禄勲。敦既逆謀、屯拠南州、含委職奔姑孰。<br/></blockquote>
鄧粲『晋紀』(『世説新語』言語篇、第三七章、劉孝標注引)<br/>
<blockquote>敦以劉隗為間己、挙兵討之、故含南奔武昌、朝廷始警備也。<br/></blockquote>
<br/>
『魏書』司馬叡伝では、王含は子を連れて逃げたこと、そのさいに「軽舟」を用いたことが記されていたが、上の三つの引用文にはそのことまで記述されていない。<br/>
<br/>
さて、以上までに取りあげてきた事項を列記しよう。<br/>
<center>
<table>
<tr>
<td></td><th>司馬叡伝</th> <th>晋書王敦伝</th> <th>建康実録</th> <th>世説新語</th> <th>鄧粲晋紀</th>
</tr>
<tr>
<th>王敦の上表</th><td align="left">劉隗前在門下、遂秉権寵。今趣進軍、指討姦孽、宜速斬隗首、以謝遠近。朝梟隗首、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之訓、殷道復昌、賢智故有先失後得者矣</td> <td align="left">劉隗前在門下、……遂居権寵、……。今輒進軍、同討姦孽、願陛下深垂省察、速斬隗首、則衆望厭服、皇祚復隆。隗首朝懸、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顚覆厥度、幸納伊尹之勲、殷道復昌。……。</td> <td align="left">昔太甲初雖不能遵明湯典、幸伊尹之勲、……。</td> <td>―</td> <td>―</td>
</tr>
<tr>
<th>沈充</th><td align="left">以沈充為大都督、護東呉諸軍。</td> <td>―</td> <td align="left">遣龍驤将軍沈充都督呉興等諸軍事。</td> <td>―</td> <td>―</td>
</tr>
<tr>
<th>太甲の故事</th><td align="left">方朕於太甲、欲見囚于桐宮。</td> <td align="left">方朕太甲、欲見幽囚。</td> <td align="left">方朕太甲、欲見幽囚。</td> <td>―</td> <td>―</td>
</tr>
<tr>
<th>王含の逃亡</th> <td align="left">叡光禄勲王含率其子瑜以軽舟棄叡、帰于武昌。</td> <td align="left">敦兄含時為光禄勲、叛奔於敦。</td> <td>―</td> <td align="left">王敦兄含、為光禄勲。敦既逆謀、屯拠南州、含委職奔姑孰。</td> <td align="left">含南奔武昌。</td>
</tr>
</table>
</center><br/>
ところどころで『魏書』にのみ見られる記述が存在するが、『晋書』などではそれらの記述が省かれて引用されたと想定することも可能である。<br/>
あくまで個人的な感覚としては、これらの異同には引っかかりを覚えるものもある。だがこれらの材料のみでは、どれも引用・編集の過程で生じた異同にすぎない可能性を排除できない。<br/>
<br/>
<b>(1-2)謝鯤のエピソード</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>敦将還武昌、其長史謝鯤曰、「公不朝、懼天下私議」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近入覲、主上側席待公、遅得相見、宮省穆然、必無不虞之慮。公若入朝、鯤請侍従」。敦曰、「正復殺君等数百、何損朝廷」。遂不朝而去。<br/>
<br/>
王敦が武昌へ戻ろうとすると、王敦の長史の謝鯤が言った、「〔帰還にあたって、〕公が〔主上に〕朝見しなければ、天下に私議<span class="sm">(王敦を排除する秘密の謀議)</span>が起こってしまうのではないかと懸念します」。王敦、「君は〔入朝すれば〕事変が起きないことを保証できるというのか」。答えて言う、「鯤(わたし)は最近、入朝して〔主上に〕謁見いたしましたが、主上はかしこまりながら公をお待ちになっておられ、面会を希望しておられました。宮中は落ち着いた様子でしたし、きっと不慮の禍は起こらないでしょう。公が入朝なさるのでしたら、侍従いたしたく存じます」。王敦、「〔事変が起こったら〕もう一度君らを数百人殺せばいいだけだ。朝廷にへりくだる必要などあろうか」。けっきょく朝見せずに建康を離れた。<br/></blockquote>
<br/>
『晋書』謝鯤伝にこれと似た話が収録されている。<br/>
<blockquote>敦既誅害忠賢、而称疾不朝、将還武昌。鯤喩敦曰、「公大存社稷、建不世之勲、然天下之心、実有未達。若能朝天子、使君臣釈然、万物之心、於是乃服。杖衆望以順群情、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載矣」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近日入覲、主上側席、遅得見公、宮省穆然、必無虞矣。公若入朝、鯤請侍従」。敦勃然曰、「正復殺君等数百人、亦復何損於時」。竟不朝而去。<br/></blockquote>
<br/>
王敦の「君能保無変乎」という発言以降は字句もほぼ同じである。しかし、それ以前の記述には相違がある。とくに謝鯤の発言は、主旨としては同じだと言えようが、表現にはおおきなちがいがある。<br/>
また『世説新語』規箴篇、第一二章だと次のようにある。<br/>
<blockquote>敦又称疾不朝、鯤諭敦曰、「近者明公之挙、雖欲大存社稷、然四海之内、実懐未達。若能朝天子、使群臣釈然、万物之心、於是乃服。仗民望以従衆懐、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載」。時人以為名言。<br/></blockquote>
<br/>
こちらの謝鯤の発言は『晋書』にかなり近い。<br/>
さらにこの章の劉孝標注には「晋陽秋」が引かれている。<br/>
<blockquote>既克京邑、将旋武昌、鯤曰、「不就朝覲、鯤懼天下私議也」。敦曰、「君能保無変乎」。対曰、「鯤近日入覲、主上側席、遅得見公、宮省穆然、必無不虞之慮。公若入朝、鯤請侍従」。敦曰、「正復殺君等数百、何損於時」。遂不朝而去。<br/></blockquote>
<br/>
『晋陽秋』での謝鯤の発言には『魏書』と同じ「天下私議」という表現が用いられている。それに、『晋書』と『世説新語』は前置きとして〈王敦は病気と称して朝見していなかった〉と説明しているが、『魏書』ではこの文言がなかった。それはたんに『魏書』では省略されただけだとも考えられるが、この『晋陽秋』においてもそのような前振りが確認できない。『世説新語』本文では仮病に触れられているのだから、劉孝標がわざわざ『晋陽秋』からそのくだりを省いて引用したとは考えにくいはずである。だから『晋陽秋』にも仮病の記述はなかった可能性が高いと言えるだろう。<br/>
<center>
<table>
<tr>
<td></td><th>司馬叡伝</th> <th>晋書謝鯤伝</th> <th>建康実録</th><th>世説新語</th> <th>晋陽秋</th>
</tr>
<tr>
<th>王敦の仮病</th><td align="left">敦将還武昌。</td> <td align="left">敦既誅害忠賢、而称疾不朝、将還武昌。</td> <td align="left">敦将還屯武昌、不朝而去。</td> <td align="left">敦又称疾不朝。</td> <td align="left">既克京邑、将旋武昌。</td>
</tr> <tr>
<th>謝鯤の発言</th><td align="left">公不朝、懼天下私議。</td> <td align="left">公大存社稷、建不世之勲、然天下之心、実有未達。若能朝天子、使君臣釈然、万物之心、於是乃服。杖衆望以順群情、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載矣。</td> <td>―</td> <td align="left">近者明公之挙、雖欲大存社稷、然四海之内、実懐未達。若能朝天子、使群臣釈然、万物之心、於是乃服。仗民望以従衆懐、尽沖退以奉主上、如斯則勲侔一匡、名垂千載。</td> <td align="left">不就朝覲、鯤懼天下私議也。</td>
</tr>
</table>
</center><br/>
謝鯤の逸話については、たとえば『魏書』と『晋書』で同じ晋史を下敷きにしていたが、編集過程で文言に省略およびアレンジが加えられてこのような相違の結果になった、というわけではないように思われる。『魏書』は『晋陽秋』に依拠し、『晋書』は『晋陽秋』とは別の晋史に依拠した。その結果、謝鯤の発言や話のあらすじにも微妙なちがいが生じた。そのように想定するのがよいと考える。<br/>
<br/>
***<br/>
<b>(2)『晋書』では伝えられていない情報</b><br/>
<br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>初為王世子、又襲爵、拝散騎常侍、頻遷射声・越騎校尉、左・右軍将軍。<br/>
<br/>
〔司馬叡は〕最初は琅邪王世子となり、〔その後、〕さらに爵<span class="sm">(琅邪王)</span>を継ぎ、散騎常侍に任じられ、射声校尉、越騎校尉、左軍将軍、右軍将軍と昇進を重ねた。<br/></blockquote>
<br/>
『晋書』元帝紀でのこれに相当する記述は次のとおり。<br/>
<blockquote>年十五、嗣位琅邪王。……元康二年、拝員外散騎常侍。累遷左将軍。<br/></blockquote>
<br/>
ここの「累遷」とは「ポンポンと出世してゆき某官に昇進した」という意味で、某官にいたるまでに経た官歴を省いた書き方である。つまり『晋書』では員外散騎常侍から左将軍にいたるまでのキャリアが省略されており、詳細不明になってしまっている。<br/>
それに対して『魏書』では、散騎常侍以降の官歴が列挙されている。こちらのほうも「頻遷」とあるので、キャリアの完全な記録ではなく、いくつか省略されたものと考えたほうがよさそうではあるが、そうであるにしても『晋書』では省かれてしまった官歴がきちんと記録されていると考えられるわけである(なお『魏書』司馬叡伝と『晋書』元帝紀とで官名に異同があるが、どちらが妥当なのかは不明。今回は取りあげないが、官の異同もひじょうに多い)。<br/>
<br/>
このように『魏書』には独自の情報がしばしば見えている。今度はこのことについて考察する。<br/>
<br/>
<b>(2-1)王敦挙兵時の石頭での攻防戦</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>叡遣右将軍周札戍于石頭、札潛与敦書、許軍至為応。敦使司馬楊朗等入于石頭。札□見敦。朗等既拠石頭、叡征西将軍戴淵、鎮北将軍劉隗率衆攻之、戴淵親率士、鼓衆陵城。俄而鼓止息、朗等乗之、叡軍敗績。<br/>
<br/>
司馬叡は右将軍の周札を派遣し、石頭に駐屯させたが、周札は秘密裏に王敦に書簡を送り、王敦軍が到着したら内応することを約束した。王敦は〔石頭に到着すると、周札が呼応して石頭を開門したので、〕司馬の楊朗らを石頭に入れさせた。周札は……<span class="sm">(原文欠字)</span>王敦に面会した。楊朗らが石頭を占領すると、司馬叡の征西将軍である戴淵と鎮北将軍の劉隗が軍を率いてこれを攻め、戴淵はみずから兵士を指揮し、太鼓を打って兵士を励まし、城壁をよじのぼらせようとした。〔しかし〕にわかに太鼓が鳴りやみ、攻撃が停止すると、楊朗らはこの隙に乗じ〔て反撃したため〕、司馬叡軍は敗北した。<br/></blockquote>
<br/>
この引用文には『晋書』に見えない記録が含まれている。どこがそれに該当するかというと、すべてである。順を追って述べていこう。<br/>
<br/>
王敦が挙兵して建康に迫ったさい、石頭を守備していた周札が城門を開いて王敦軍を入れてしまったことは事実であり、『晋書』の諸紀伝にも記されている。<br/>
『晋書』元帝紀、永昌元年四月<br/>
<blockquote>敦前鋒攻石頭、周札開城門応之、奮威将軍侯礼死之。<br/></blockquote>
『晋書』周処伝附札伝<br/>
<blockquote>王敦挙兵石頭、札開門応敦、故王師敗績。<br/></blockquote>
『晋書』王敦伝<br/>
<blockquote>敦至石頭、欲攻劉隗、其将杜弘曰、「劉隗死士衆多、未易可克、不如攻石頭。周札少恩、兵不為用、攻之必敗。札敗、則隗自走」。敦従之。札果開城門納弘。諸将与敦戦、王師敗績。<br/></blockquote>
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年四月<br/>
<blockquote>敦先鋒攻石頭軍、周札開城納賊、王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。<br/></blockquote>
<br/>
このように周札が開門したことはあちこちに記されている。しかし、『魏書』のように周札が事前に王敦と通じていたとは書かれていない。むしろ王敦伝は〈王敦の将が「周札を攻めれば必ず破ることができるからまずはこちらを攻めるべきだ」と進言し、王敦がその策を採用したところ、周札は開城して王敦軍を入れた〉とあり、『魏書』の記載とは趣を異にしている。<br/>
<br/>
次に王敦の司馬の楊朗。この人物は『晋書』に見えない。『建康実録』にも記録はない。現在調べたところ、『世説新語』に三度登場を確認できるのみである(識鑑篇、第一三章、賞誉篇、第五八章、同、第六三章)。しかし劉孝標が引いている諸書を合わせて参照しても、このときの戦闘にかんする記述は残されていない。つまり彼が石頭戦でこのような活躍をしていたことは『魏書』司馬叡伝にのみ伝わっているのである。<br/>
<br/>
最後に石頭での攻防過程について。先に引用した文と一部重複するところもあるが、あらためて関連する記述を列挙しよう。<br/>
『晋書』元帝紀、永昌元年四月<br/>
<blockquote>敦拠石頭、戴若思、劉隗、帥衆攻之、王導、周顗、郭逸、虞潭等三道出戦、六軍敗績。<br/></blockquote>
『晋書』王敦伝<br/>
<blockquote>諸将与敦戦、王師敗績。<br/></blockquote>
『晋書』劉隗伝<br/>
<blockquote>及敦克石頭、隗攻之不抜。<br/></blockquote>
『晋書』戴若思伝<br/>
<blockquote>尋而石頭失守、若思与諸軍攻石頭、王師敗績。<br/></blockquote>
『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年四月<br/>
<blockquote>王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。<br/></blockquote>
<br/>
王師が敗北したことはあらゆる箇所に記されており、たとえばここには引用しなかった伝(周札伝、温嶠伝、刁協伝、周顗伝など)でも簡潔に〈王師は敗北した〉とのみ記されている。しかし、『魏書』が記しているような攻防の過程にかんしてはどこにもまったく描かれていない。石頭でこのような攻防があったことは『魏書』からのみ知れるのであり、貴重な記録である。<br/>
<br/>
ただし、貴重な情報であるのは確かなものの、信憑性はまた別問題である。というのも、さきほど軽く言及したように、周札の石頭開門をめぐっては『魏書』司馬叡伝と『晋書』王敦伝とで矛盾していると考えられるからである。<br/>
残念ながら妥当性を判断する材料は残されていない。しいて言えば〈『魏書』司馬叡伝はプロパガンダのために作成されたのだから事実としては怪しい〉として『魏書』を退けることもできるかもしれない。しかし私は、そのような考え方は論点先取だと思う。プロパガンダ性というのは、史料の検証の結果として導き出されなければならない結論であって、史料の真偽性を判断する論拠にあらかじめそれを持ち出してしまうのは証明の手続きとして誤っている。<br/>
そしてまた、魏収が石頭戦の経緯を改竄ないし捏造する必要性はあるのだろうか。プロパガンダを云々するのならば、この点が説明されなければならない。<br/>
<center>
<table>
<tr>
<td></td><th>司馬叡伝</th> <th>晋書元帝紀</th> <th>晋書王敦伝</th> <th>晋書周札伝</th> <th>晋書戴若思伝</th> <th>建康実録</th>
</tr>
<tr>
<th>周処の開城</th><td align="left">叡遣右将軍周札戍于石頭、札潛与敦書、許軍至為応。</td> <td align="left">敦前鋒攻石頭、周札開城門応之、奮威将軍侯礼死之。</td> <td align="left">敦至石頭、欲攻劉隗、其将杜弘曰、「劉隗死士衆多、未易可克、不如攻石頭。周札少恩、兵不為用、攻之必敗。札敗、則隗自走」。敦従之。札果開城門納弘。</td> <td align="left">王敦挙兵石頭、札開門応敦。</td> <td>―</td> <td align="left">敦先鋒攻石頭軍、周札開城納賊。</td>
</tr>
<tr>
<th>楊朗</th><td align="left">敦使司馬楊朗等入于石頭。</td> <td>―</td> <td>―</td> <td>―</td> <td>―</td> <td>―</td>
</tr>
<tr>
<th>石頭での攻防戦</th><td align="left">朗等既拠石頭、叡征西将軍戴淵、鎮北将軍劉隗率衆攻之、戴淵親率士、鼓衆陵城。俄而鼓止息、朗等乗之、叡軍敗績。</td> <td align="left">敦拠石頭、戴若思、劉隗、帥衆攻之、王導、周顗、郭逸、虞潭等三道出戦、六軍敗績。</td> <td align="left">諸将与敦戦、王師敗績。</td> <td align="left">王敦挙兵石頭、札開門応敦、故王師敗績。</td> <td align="left">尋而石頭失守、若思与諸軍攻石頭、王師敗績。</td> <td align="left">王導、郭逸、周顗、刁協、劉隗等三道出戦、六軍敗績。</td>
</tr>
</table>
</center><br/>
<br/>
<b>(2-2)譙王承と王敦軍の戦闘</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>敦遣従母弟南蛮校尉魏乂率江夏太守李恒攻承於臨湘、旬日城陷、執承送于武昌。敦従弟王廙使賊迎之、害于車中。<br/>
<br/>
王敦は従母弟で南蛮校尉の魏乂をつかわし、江夏太守の李恒を統率させ、臨湘で譙王承を攻めさせた。旬日<span class="sm">(約十日)</span>で城は陥落し、〔魏乂は〕譙王を捕えて武昌へ送った。王敦の従弟の王廙は盗賊に譙王を襲撃させ、車中で殺させた。<br/></blockquote>
<br/>
まず魏乂だが、彼は王敦の従母弟(母の姉妹の子で王敦より年少の関係)と続柄が記されている。<br/>
しかしこの情報は『晋書』には存在しない。『晋書』宗室伝、譙剛王遜伝附承伝。<br/>
<blockquote>敦遣南蛮校尉魏乂、将軍李恒、田嵩等甲卒二万以攻承。<br/></blockquote>
<br/>
このときの戦闘で譙王承に従った者が数人忠義伝に立伝されており、そのぶんだけ魏乂もよく登場しているが、やはり王敦との続柄までは記されていない。<br/>
ところが『晋陽秋』には記されていたようなのである。『世説新語』仇隙篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」。<br/>
<blockquote>敦遣従母弟魏乂攻丞<span class="sm">(「丞」は譙王承のこと)</span>。<br/></blockquote>
<br/>
このように『魏書』の情報は、唐修『晋書』に相当する記述がないとしても、好き勝手にデタラメを書いているわけでは必ずしもない。唐修『晋書』があまり依拠しなかった晋史にもとづいた結果、唐修『晋書』には記されていない独自情報を含むことになったのではないだろうか。<br/>
<br/>
引き続きみていこう。『魏書』司馬叡伝では魏乂と李恒の上下関係が記されているが、さきに引いた『晋書』譙王承伝はじめ、ほかの列伝や史書にはこのことは記されていない。<br/>
譙王軍と魏乂軍との攻防は「旬日」(約十日)と記されていた。しかし『晋書』譙王承伝には「相持百余日、城遂陥」とあり、「百余日」すなわち約三か月にも及んだという。『晋書』元帝紀によると譙王陥落は永昌元年四月であるから、『晋書』に従えば同年正月の王敦の挙兵前後から譙王と魏乂らは戦闘していたことになる。じっさい、『資治通鑑』はそのような繋年をしている。この齟齬にかんしては『晋書』が事実として妥当である可能性が高い。魏収が依拠した晋史に「旬日」と書かれていたか、魏収が晋史を誤読してしまったのではないかと想像している。<br/>
そして譙王の最期だが、『晋書』譙王承伝には次のようにある。<br/>
<blockquote>乂檻送承、荊州刺史王廙承敦旨於道中害之。<span class="sm">(中華書局は「乂檻送承荊州、刺史王廙……」と標点しているが、この読み方は妥当でないと思われるため、標点を改めて引用した。)</span><br/></blockquote>
<br/>
細かいところではあるが、『魏書』司馬叡伝に比べて簡略化した書き方になっている。これに対し、『世説新語』仇隙篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」には、<br/>
<blockquote>王廙使賊迎之、薨於車。<br/></blockquote>
<br/>
とあり、『魏書』司馬叡伝とほぼ同じ記述になっている。よってこの箇所にかんしても、魏収がデタラメに書いたわけではなく、晋史に依拠した記述内容だったのではないかと思われるのである。<br/>
<center>
<table>
<tr>
<td></td><th>司馬叡伝</th> <th>晋書譙王承伝</th> <th>晋陽秋</th> <th>建康実録</th>
</tr>
<tr>
<th>魏乂</th><td align="left">敦遣従母弟南蛮校尉魏乂率江夏太守李恒攻承於臨湘。</td> <td align="left">敦遣南蛮校尉魏乂、将軍李恒、田嵩等甲卒二万以攻承。</td> <td align="left">敦遣従母弟魏乂攻丞。</td> <td>―</td>
<tr>
<th>戦闘日数</th><td align="left">旬日城陷。</td> <td align="left">相持百余日、城遂陥。</td> <td>―</td> <td>―</td>
</tr>
<tr>
<th>譙王の最期</th><td align="left">〔魏乂〕執承送于武昌。敦従弟王廙使賊迎之、害于車中。</td> <td align="left">乂檻送承、荊州刺史王廙承敦旨於道中害之。</td> <td align="left">王廙使賊迎之、薨於車。</td> <td>―</td>
</tr>
</table>
</center><br/>
<br/>
***<br/>
<b>(3)『晋書』と矛盾している記述</b><br/>
これまでもしばしば取り上げてきたが、『魏書』司馬叡伝には唐修『晋書』と矛盾している記述もしばしばみられる。本節ではこのことを中心に述べてみよう。<br/>
<br/>
<b>(3-1)永嘉年間に司馬叡に追加された食邑</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>五年、進鎮東将軍、開府儀同三司、又以<b>会稽戸二万</b>増封、加督揚・江・湘・交・広五州諸軍事。<br/>
<br/>
永嘉五年、鎮東将軍、開府儀同三司に進められ、さらに<b>会稽の二万戸</b>を封国に加増され、督揚・江・湘・交・広五州諸軍事を加えられた。<br/></blockquote>
<br/>
『晋書』元帝紀にこれに相当する記述が残されている。<br/>
<blockquote>増封<b>宣城郡二万戸</b>、加鎮東大将軍、開府儀同三司。<br/></blockquote>
<br/>
<b>太字</b>で強調しておいたように、『魏書』では「会稽戸二万」とあるのに対し、『晋書』では「宣城郡二万戸」とある。<br/>
分量が大きくなるのでここでは詳しく考察しないが(拙訳サイトに<a href="https://readingnotesofjinshu.com/translation/appendix/bookofwei-vol96_1" target="_blank">訳注</a>をアップしてあるので興味のある方はそちらを参照してほしい)、いちおういずれであっても不自然ではない。宣城のほうがやや妥当性が高いかと思うが、決定的な根拠があるわけではない。<br/>
つまりここの「会稽戸二万」という記述はそう簡単に却下できるようなものではない。そして魏収がわざわざこの箇所を改竄ないし捏造するとも思えない。ということは、彼が依拠した晋史だとこのように書いてあったと想定するのが自然ではないだろうか。<br/>
<br/>
<b>(3-2)南郊を実施した年</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>叡以晋王而祀南郊。其年、叡僭即大位、改為大興元年。<br/>
<br/>
司馬叡は晋王の身分であるにもかかわらず、南郊の祭祀を実施した。その年、司馬叡は大位につき、大興元年と改めた。<br/></blockquote>
<br/>
司馬叡は帝位につく前に南郊をおこなったという。なお即位は太興元年三月丙辰(十日)である。<br/>
<center>
<table>
<tr>
<th>建興五年(建武元年、西暦317年)三月</th> <td align="left">司馬叡、晋王に即位。承制して建武に改元</td>
</tr>
<tr>
<th>建武二年(太興元年、西暦318年)三月</th> <td align="left">愍帝の訃報が届き、司馬叡、皇帝に即位。太興に改元</td>
</tr>
</table>
</center><br/>
やはり分量の関係もあって、ここでは細かく立ち入ることはしないが、軽く問題に触れておこう。<br/>
<br/>
司馬叡が南郊を実施した年を調べてみると、太興元年とするものと同二年とするものがある。<br/>
<center>
<table>
<tr>
<th>太興元年</th> <th>太興二年</th>
</tr>
<tr>
<td>魏書司馬叡伝<br/>宋書礼志三</td> <td>晋書礼志上<br/>建康実録<br/>資治通鑑<br/>金子修一『中国古代皇帝祭祀の研究』</td>
</tr>
</table>
</center><br/>
歴史的事実としては太興二年、すなわち即位の翌年とするのが正しいと私も考えている。<br/>
いちおう『魏書』司馬叡伝と同じ年とする史書もある点をどう考えるか、といったところだろう。<br/>
<br/>
次に月日の記載を確認してみると、『建康実録』が記述を欠いている以外、すべての史書が三月辛卯の日で一致している。<br/>
しかし、じつはこれには問題があり、太興元年であろうと二年であろうと、三月に辛卯の日は存在しない。そこで『晋書』中華書局校勘記は佚書の記述を参照し、「三月」は「二月」の誤りである可能性を指摘している。二月ならば太興元年・二年ともに辛卯の日が存在する。<br/>
この可能性は実際にはかなり低いと思うが、かりにこの説のとおりに三月ではなく二月が正しく、かつ年についても『宋書』のとおり太興元年が正しいとすれば……わかるだろうか。太興元年二月。司馬叡が皇帝位につくひと月前の時期に当たる。もしこのときに南郊を実施していたのなら、『魏書』司馬叡伝が記していることと符合してしまうわけである。これは逆に、『魏書』の記述を根拠に挙げ、〈年は『宋書』が正しく、月は中華書局校勘記の説が正しい〉と主張することが可能である、ということをも意味する。<br/>
<br/>
やや大仰に書いてきたが、そもそも私は太興元年説に反対なので、『魏書』の記述が歴史的事実として正しいとはまったく考えていない。だがここで問題なのは、歴史的事実としては何が正しいのかということではなく、魏収は何を参考にこのように記したのかというところにある。言い換えれば、魏収は事実をでっち上げて難癖をつけているわけではなく、魏収が依拠した晋史には太興元年二月と記されてあり、その記述を見て非難的論調の記述に書き換えたという可能性は想定しうるだろうか、ということだ。<br/>
<br/>
だからこの問題はとても重大なものと言えるのだが、やはり残念ながら現在は考える手だてがない。<br/>
<br/>
***<br/>
<b>中間整理</b><br/>
これまでの検討をふまえ、いったん私の考えをまとめてみる。<br/>
<br/>
<b>◆孫盛『晋陽秋』との関係</b><br/>
これまで、『魏書』司馬叡伝の記述を唐修『晋書』などの他書と比較し、独自の記述を多く含んでいることを示してきた。<br/>
ここで取りあげてきたのは司馬叡伝のなかの一部でしかないが、(あくまで司馬叡の段落のみに限定すると)独自の記述は全体の大半を占めると言っても過言ではない。唐修『晋書』はもちろん、『世説新語』『建康実録』などとも似ていないのである。<br/>
しかしそうしたなかにあって、孫盛『晋陽秋』の佚文とだけは異常な確率で一致している。これはかなり異様な事態だと感じる。周一良氏の指摘もふまえれば、『魏書』司馬叡伝(の司馬叡の箇所)は孫盛『晋陽秋』に依拠して作成されたと断定してよいと考える。<br/>
<br/>
<b>◆唐修『晋書』との関係</b><br/>
司馬叡伝が孫盛『晋陽秋』に依拠しているということから、いろいろと言えることが増えてくる。<br/>
重ねて確認するが、司馬叡伝は唐修『晋書』と似ていない。これが意味するのは、唐修『晋書』または唐修『晋書』が依拠した晋史には『晋陽秋』が反映されていない、ということだ。<br/>
唐修『晋書』を読むうえで、これはひじょうに大事な情報になるだろう。<br/>
<br/>
<b>◆『建康実録』との関係</b><br/>
私は以前、『建康実録』の東晋巻は『晋陽秋』などの編年体晋史をベースにしているのではないかと想像していた。<br/>
しかし今回あらためて検討してみて、『建康実録』は司馬叡伝と似ていなかった。つまり『晋陽秋』にもとづいているわけではなさそうだった。<br/>
かえって唐修『晋書』の帝紀や列伝と類似している箇所が多かったと感じた。そのいっぽうで独自の記述もしばしば見えるし、自注で何法盛『晋中興書』を引いていることもある(永昌元年に挿入の周顗伝)。<br/>
思うに、許嵩は唐修『晋書』を下敷きに据え、紀伝体を編年体に整理しなおす作業をしつつ、さまざまな書物から情報を引いて付加し、独自の歴史叙述へ仕上げていったのではないか。許嵩はそれなりの労力をかけているし、それ相応のオリジナリティも出ているようだと思っている。<br/>
<br/>
<b>◆『資治通鑑』との関係</b><br/>
今回はあまり『資治通鑑』を取りあげなかった。<br/>
およそ確認したところでは、司馬光は一部で司馬叡伝の記述を採用しているものの、基本的には採択していないようであった。唐修『晋書』と異同がある箇所でも、とくにコメントをしないままに『晋書』を採用している。司馬叡伝の情報の価値を認めていないか、あるいは見落としてしまっていたのではないかと疑われる。<br/>
<br/>
***<br/>
<b>(4)魏収の加筆と修正</b><br/>
司馬叡伝が『晋陽秋』に依拠しているとはいっても、しかしすべて『晋陽秋』からの抜粋で構成されているとはとうてい考えられないだろう。魏収の加筆や修正があってしかるべきである。加筆修正はどの程度にまで及ぶものだったのか。最後にこの問題について考えてみたい。<br/>
<br/>
<b>(4-1)表現の変更</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>六月、王弥、劉曜寇洛陽、懐帝幸平陽、晋司空荀蕃、司隸校尉荀組推叡為盟主。<b>於是輒改易郡県、仮置名号。</b>江州刺史華軼、北中郎将裴憲並不従之。<br/>
<br/>
永嘉五年六月、王弥と劉曜が洛陽を侵略し〔て落とし〕、懐帝が〔拉致されて〕平陽に行幸すると、晋の司空の荀藩と司隷校尉の荀組は司馬叡を盟主に推戴した。<b>かくして、〔司馬叡は〕独断で郡県の官吏を改任し、かってに称号を授与したのである。</b>江州刺史の華軼と北中郎将の裴憲はどちらも司馬叡に従わなかった。<br/></blockquote>
<br/>
<b>太字</b>の箇所はたいへんな非難となっており、かえってうさんくささを感じさせる。<br/>
しかし冷静になって客観的に考えてみると、ここで言われているのは「承制」(皇帝から委任を受けて統治を代行すること)なのではなかろうか。<br/>
現に『晋書』華軼伝には、<br/>
<blockquote>尋洛都不守、司空荀藩移檄、而以帝為盟主。既而<b>帝承制改易長吏</b>、軼又不従命。<br/></blockquote>
<br/>
と、洛陽陥落後に司馬叡が「承制」したと明記されている。<br/>
当然だが、司馬叡の承制は自称であろう。洛陽陥落後は司馬叡のほかにも、南陽王保、王浚、苟晞、劉琨が承制して地方官や将軍号の授与を裁量でおこなっているが、(きちんと調べてはいないけれど)みな承制は自称である。<br/>
承制を自称する、すなわち皇帝から地方統治を委任されたと自称する。これはもちろん、みずからの命令が正当なものであることをアピールするためである。逆に言えば、承制でなければ正当性を欠いてしまうわけである。<br/>
そしてまさに、司馬叡の承制に従わなかった者が上の引用文に見えている華軼である。<br/>
<blockquote>時天子孤危、四方瓦解、軼有匡天下之志、毎遣貢献入洛、不失臣節。謂使者曰、「若洛都道断、可輸之琅邪王、以明吾之為司馬氏也」。軼自以受洛京所遣、而為寿春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡県多諫之、軼不納、曰、「吾欲見詔書耳」。<br/></blockquote>
<br/>
洛陽陥落前に「洛陽への道路が途絶すれば、洛陽への献賦を琅邪王へ転送しよう」と言っておきながら、陥落後も司馬叡には承服しなかったという華軼の本心は不可解だが、ともあれ、洛陽陥落前に彼が堅持していた主張は〈洛陽朝廷が健在なのにどうして琅邪王の命令に服従しなければならないのか〉というものだったと思われる。そして陥落後は〈琅邪王が晋朝の臨時のトップだと誰が決めたのか〉と固持し、司馬叡の命令を突っぱねていたのではなかろうか。<br/>
このように、①司馬叡の承制はしょせん自称にすぎないこと、②実際に司馬叡の承制に正当性を認めなかった者が存在したことをふまえると、魏収が「輒」(独断で)とか「仮」(デタラメに)とか表現しているのも、あながち間違いとも言えないように思われる。むしろ西晋末における承制の一側面を的確に捉えている、いやもっと踏み込んで言えば本質を言い当てているようにさえ私には感じられる。<br/>
実際のところ、司馬叡陣営からしてもこのときの承制の正当性を突かれるのは痛いにちがいない。魏収はその点を見逃さず、表現を改めたのだと考えられる。<br/>
<br/>
一見すると嘘らしい表現に思えた魏収の記述ではあったが、司馬叡の承制自称という歴史的事実を、それなりに妥当性をもつ一視点から表現しなおしたものであると私は考える。魏収は捏造したわけではなく、〈司馬叡が承制を自称した〉という晋史の記述にきちんともとづいていたのであろう。<br/>
<br/>
<b>(4-2)原作の編集</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>僭晋司馬叡、字景文、晋将牛金子也。初晋宣帝生大将軍、琅邪武王伷、伷生冗従僕射、琅邪恭王覲。覲妃譙国夏侯氏、字銅環、与金姦通、遂生叡、因冒姓司馬、仍為覲子。由是自言河内温人。<br/>
<br/>
僭晋の司馬叡は字を景文といい、晋の将の牛金の子である。もともと、晋の宣帝は大将軍の琅邪武王伷を生み、伷は冗従僕射の琅邪恭王覲を生んだのであった。覲の妃であった譙国の夏侯氏は字を銅環というが、牛金と姦通し、そのはてに叡を生んだ。そこで司馬氏になりすませ、覲の子としてしまったのである。かくして河内温県の出身だと自称しているわけである。<br/></blockquote>
<br/>
よく知られたこのエピソードも魏収が創作したものではない。もっとも古く確認できるのは孫盛『晋陽秋』(『太平御覧』巻九八、東晋元皇帝)である。<br/>
<blockquote>又初、玄石図有牛継馬後。故宣帝深忌牛氏遂為二榼、共一口、以貯酒、帝先飲佳者、以毒者酖其将牛金。而恭王妃夏氏、通小吏牛欽而生元帝。亦有符云。<br/></blockquote>
<br/>
沈約『宋書』符瑞志上にも同じあらすじでこの逸話が掲載されているが、そちらは干宝の著作から引用したものかもしれない。<br/>
孫盛の上の引用文は、司馬叡が即位して晋を中興させる瑞祥や予言をたくさん列挙しているなかの一節である。つまり、孫盛はこのエピソードを司馬叡即位の予言・吉兆とみなしているのである。<br/>
話の構造はこうなっている。曹魏の時代に玄石図という奇異な巨石が発見されたが、そこには動物の図像が描かれており、その動物配置が「牛継馬後(馬のうしろに牛がつづく)」というものであった。司馬懿はこれを司馬氏にとって不吉な予言と受け取り、牛金を謀殺することによってこの予言の実現を防いだ。しかしのち、琅邪王妃が牛氏と不倫し、とうとう司馬叡を生み、そして司馬叡は即位して晋を再興させた。まさしく玄石図の予言どおりである。と。(玄石図は津田資久「符瑞「張掖郡玄石図」の出現と司馬懿の政治的立場」(『九州大学東洋史論集』35、2007年)が詳しい。)<br/>
<br/>
いろいろと不可解に思うだろうが、ともかくこの話の意図は、司馬叡の即位は天の意志なのだと示すところに置かれている。東晋南朝においては、そのような文脈のエピソードとして意味をもち、流通していたと考えられる。<br/>
ひるがえって魏収の記述を確認してみると、話のプロットがまったく異なっていることに気づく。玄石図と司馬懿のくだりが消失しているのである。<br/>
魏収が依拠した晋史には玄石図と司馬懿のくだりが存在せず、それをそのまま魏収が引き写したのだ、という想定は可能であろうか。そもそも魏収が依拠した晋史は『晋陽秋』だと思われるのでかなり可能性の低い仮説だが、それとは別の観点からでも問題点を指摘できる。上で述べたように、少なくとも晋史においては、この逸話は司馬叡が即位する吉兆として意味づけられていた。そうした語りのなかでは、玄石図は不可欠な要素であり、これを省いてしまうと司馬叡の即位を予言する物語にならない。したがって、魏収が依拠した晋史がたとえ『晋陽秋』でなかったとしても、玄石図のくだりが存在しなかったとは考えられない。<br/>
<br/>
だが魏収から見れば、玄石図がどうこう、司馬懿が云々といった前振りはどうでもいい要素だろう。彼にとっては、この逸話がもつもうひとつの意味が重要なのであった。〈予言に合致しているとかそうなのかもしれないけど、ようするに司馬叡は実際は司馬氏ではなくて牛氏ってコトなんでしょ?〉――これこそ魏収が読み取ったこの逸話の意味である。彼は元来の文脈を意図的に無視して一部分だけを切り取って引用し、この逸話に原作とは別の意味をもたせて提示してみせたのだ。司馬叡は牛氏なのに司馬氏を騙ったヤツなのだ、だから彼が樹立した政権もしょせんは偽りの晋、すなわち「僭晋」にすぎない、と。<br/>
<br/>
魏収のやり方は元来の文脈を無視した切り取り引用であるのにちがいないが、しかし彼が逸話から読み取ったもうひとつの意味は、いちじるしい飛躍を必要とするような不当な物語解釈と言えるだろうか。とてもそういうふうには思えないだろう。確かに切り取ってはいるが、そもそも原作からして〈司馬叡はじつは牛氏である〉と言っているのだから、魏収の読み方は不正に当たらないはずである。原作に潜在的に存在していた意味を顕在化させたにすぎない。<br/>
<br/>
推測も多く交えたが、司馬叡が牛氏だとの逸話は魏収が創作した話ではない。元ネタは晋史にある。魏収は晋史に書かれてあるとおりには引用せず、元来の文脈を無視して切り取り、逸話に別の意味を付与した。しかしそうして提示された逸話の意味〈司馬叡は実際は牛氏である〉は、原作が潜在的にもっていた意味であって、いちじるしく不当なアレンジとも言いがたい。<br/>
<br/>
<b>(4-3)挿入・加筆の箇所</b><br/>
『魏書』司馬叡伝<br/>
<blockquote>遣使韓暢浮海来請通和。平文皇帝以其僭立江表、拒不納之。<br/>
<br/>
〔司馬叡は〕使者の韓暢をつかわし、海を渡って〔わが国(拓跋氏)に〕来訪し、通好を求めた。平文帝は、司馬叡が僭越して江南に自立しているのを理由に、拒絶して受けつけなかった。<br/></blockquote>
<br/>
司馬叡伝にはしばしばこの手の記録が記されている。ちなみにこの遣使は『魏書』序紀、平文帝五年に記録されている。<br/>
どういう意図があるのかはわからないが、おそらく北魏側の記録にもとづいて魏収が挿入した文章であろう。<br/>
また司馬叡伝には江南地方の風俗を悪しざまに記述した箇所があるが、おそらくそこも魏収が挿入した箇所だと思われる。<br/>
<br/>
<br/>
以上、一部の記述を材料に考察してみた。あくまで一部を対象にしたものなので、臆断しているところも含まれているとは思うが、さしあたり次のようにまとめておきたい。<br/>
依拠した晋史には含まれていなかった情報を、魏収がみずから挿入・加筆した部分は確かに存在する。ただ、そのような記述は分量的にはそれほど大きくないと思われる。<br/>
司馬叡を非難するような表現や正当性に疑念を抱かせるような逸話も、基本的には依拠する晋史に元ネタが記されており、魏収はそれに即していた。そして司馬叡の正当性を相対化する視点に立って、元ネタの表現やプロットを改変したが、元ネタの晋史から大幅に逸脱しているとは言えない程度であると思われる。<br/>
魏収の方針はあくまで晋史に依拠することに置かれており、ウソを捏造して混交するようなやり方は取っていなかったように思われる(言い換えればそれほどの手間ヒマをかけなかったのではないか)。そして晋史のなかに、ケチや難クセをつけられそうな記述や出来事があれば、その表現を改変して列伝に採用したのであろう。もし司馬叡伝に歴史的事実として妥当とは思えないような記述・情報があったとしても、それは依拠した晋史が誤っているか、魏収が誤読してしまったかのどちらかであって、魏収が故意にウソを書くことはなかったと思う。東晋にとって醜聞となるような出来事のみをピックアップし、いっぽうで東晋の国威が発揚したような出来事は一言も触れない。このような一貫した取捨判断にのっとって列伝を作成しているのであって、わざわざ虚偽情報をでっち上げる必要はなかったのではないかと思われる。<br/>
現在のところ、私はこのように考えている。<br/>
<br/>
***<br/>
<b>結 論</b><br/>
<br/>
<blockquote>
・『魏書』司馬叡伝(の元帝の部分)は孫盛『晋陽秋』に依拠して作成されている。<br/>
・魏収はウソを捏造して混交するようなやり方は取らず、あくまで晋史(『晋陽秋』)の記述に即している。そして司馬叡の正当性に疑義を呈せるような記述や出来事があれば、その表現を改変して列伝に採用した。<br/>
・『魏書』司馬叡伝に歴史的事実として誤りと思われる情報があったとしたら、それは『晋陽秋』がまちがっているか、魏収が『晋陽秋』の記述を誤読してしまったかのどちらかであると思われる。魏収は故意にウソ情報を書くつもりはなく、東晋にとっての醜聞ばかりをピックアップし、東晋の国威が発揚したような出来事はまったく書かないという取捨方針で一貫していたと考えられる。<br/>
・唐修『晋書』は『魏書』司馬叡伝と類似していない。すなわち唐修『晋書』または唐修『晋書』が依拠した晋史には、『晋陽秋』が反映されていないと言える。<br/>
・『建康実録』も『魏書』司馬叡伝とは類似していない。『資治通鑑』は『魏書』司馬叡伝を参照している形跡があまり見られなかった。<br/>
・『魏書』司馬叡伝は、魏収による取捨判断が強く作用している点に注意が必要だが、個々の情報自体は孫盛『晋陽秋』に由来するものと考えられるため、晋代史を研究するうえでの第一級史料と言える。<br/></blockquote>
<br/>
ここまでひとまずまとめたところで、私は武井彩佳『歴史修正主義』(中央公論新社、2021年)の一節を思い出した。<br/>
<blockquote>ホロコースト否定論には、事実も、矛盾のない筋の通る部分もある。むしろ五割は事実であり、三割は真偽のほどが明らかでなく、最後の二割が完全な嘘からなると言っても過言ではない。それゆえに、ホロコースト否定論者の主張を一〇〇%嘘であると言い切ることもできない。(91頁)<br/></blockquote>
<br/>
私は当初、司馬叡伝をファクトチェックしてやろうというくらいのつもりでいた。<br/>
いまから考えるとずいぶん驕った姿勢であったが、結果として魏収はウソを織り交ぜているとまでは言えなかった。私の力不足もあるかもしれない。魏収は比較的晋史に忠実で、捏造や改竄はしておらず、ただたんに悪意をもって難クセをつけているだけだし、実際のところ司馬叡陣営にとって痛いところを的確に突いているので不当な視点とも言いづらい。<br/>
しかし、司馬叡伝全体を読むと「この東晋像は歪曲されている」と感じずにはいられない。<br/>
個々の情報は虚偽ではないのに、全体で見ると歪曲されている。いわば、魏収はウソをつかずにウソをついている。事実以上に強力なプロパガンダは存在しないと言っているかのようだ。<br/>
これはじつに興味深い。事実に即しているというだけではある種の「正しさ」は獲得できないということなのだろうか。いったい、魏収のどこがおかしいのだろうか。私は何を基準に「正しさ」を測っているというのか。そもそも魏収をおかしいと感じる自分はまったく歪んでいないのか。<br/>
<br/>
どこかおかしなところがあるとすれば、魏収の取捨選択の基準が公正ではないといったあたりに求められるのだろう。だが、私はそのあたりを明快に、論理的に、説明することができない。それをもどかしく思う。<br/>
<br/>
<br/>
※『世説新語』を調べるにあたっては、独寡さん(<a href="https://twitter.com/Dokka_Satoru" target="_blank">@Dokka_Satoru</a>)「<a href="https://jinsung.chronicle.wiki/" target="_blank">デイリー晋宋春秋</a>」の世説新語索引をおおいに活用させていただきました。記して感謝申し上げます。<br/>
<p class="mb3"></p>
hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-7081490872305078892021-10-03T13:17:00.000+09:002021-10-03T13:17:10.999+09:00「任命された官職に父祖および本人の名が含まれていた場合は改選希望を申請できる」という晋代の慣例について<p class="mb5"></p>
タイトルの件について、晋代でよく知られている事例は王舒であろう。『晋書』巻76の本伝に次のようにある(以下、『晋書』を引用するときは書名省略)。<br/>
<br/>
<blockquote>時将徴蘇峻、司徒王導欲出舒為外援、乃授撫軍将軍、會稽内史、秩中二千石。<b>舒上疏辞以父名、朝議以字同音異、於礼無嫌。舒復陳音雖異而字同、求換他郡。於是改「會」字為「鄶」。</b>舒不得已而行。<br/>
<br/>
このころ(成帝はじめころ)、朝廷は蘇峻を中央に召そうとしていた。司徒の王導は王舒を地方に出して外援にしようとし、そこで王舒に撫軍将軍、會稽内史を授け、秩は中二千石とした。<b>王舒は上疏し、父の名が「會」であるのを理由に辞退した。朝議が開かれ、「文字は同じだが発音は違うので、礼において問題はない」と判断された。王舒はふたたび陳述し、発音は違うが文字は同じなので、ほかの郡に変更してほしいと要望した。そこで朝廷は「會稽」の「會」の文字を「鄶」に変えた。</b>王舒はしぶしぶ赴任した。<br/></blockquote>
<br/>
蘇峻が乱を起こす二年前のことであったという。<br/>
<br/>
同様の問題は王舒の子の王允之のときにも発生したらしい。『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議に、<br/>
<br/>
<blockquote>康帝咸康八年、詔以王允之為衛将軍、會稽内史。<b>允之表郡与祖會同名、乞改授。</b>詔曰、「祖諱孰若君命之重邪。下八座詳之」。給事黄門侍郎譙王無忌議以為、「春秋之義、不以家事辞王事、是上之行乎下也。夫君命之重、固不得崇其私。又国之典憲、亦無以祖名辞命之制也」。<br/>
<br/>
康帝の咸康八年、詔が下り、王允之を衛将軍、會稽内史とした。<b>王允之は上表し、郡と祖父の會が同名なので、改選を希望した。</b>詔が下った、「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか。尚書八座にこの案件を下すので、議論して明らかにせよ」。給事黄門侍郎の譙王無忌の議、「春秋の義に、『私家の事情を理由に国家の仕事を辞退してはならない。これは、上位者が下位者に命じていることだからである』(公羊伝・哀公三年)とあります。そもそも君命の重大さと比べれば、私家の事情を重んじることなどできません。また、国家の法制にも、祖父の名を理由に君命を辞退してよいとの決まりはありません」。<br/></blockquote>
<br/>
とある。王舒伝附伝の允之伝によると、王允之は會稽内史に任命されたが、任地に到着する前に逝去したという。つまり、最終的に王允之は會稽内史を受け入れたということである。<br/>
<br/>
***<br/>
これだけを見ると王舒父子がワガママを言っているように思えるが、実際は王舒や王允之が改選を希望しているのは正当な権利であったらしい。巻56、江統伝に次のような記事がある。<br/>
<br/>
<blockquote>選司以統叔父春為宜春令、統因上疏曰、「<b>故事、父祖与官職同名、皆得改選</b>、而未有身与官職同名、不在改選之例。臣以為父祖改選者、蓋為臣子開地、不為父祖之身也。而身名所加、亦施於臣子。佐吏係属、朝夕従事、官位之号、発言所称、若指実而語、則違経礼諱尊之義、若詭辞避迴、則為廃官擅犯憲制。今以四海之広、職位之衆、名号繁多、士人殷富、至使有受寵皇朝、出身宰牧、而令佐吏不得表其官称、子孫不得言其位号、所以上厳君父、下為臣子、体例不通。若易私名以避官職、則違春秋不奪人親之義。臣以為身名与官職同者、宜与触父祖名為比、体例既全、於義為弘」。朝廷従之。<br/>
<br/>
選司が江統の叔父の江春を宜春令とすると、江統は上疏して言った、「<b>故事では、父祖の名と官職の名が同じである場合は、すべて改選が許されます。</b>しかし、本人の名と官職の名が同じである場合〔に改選を許可したこと〕はこれまでなかったため、改選の事例に含まれていません。臣が考えますに、父祖と同名であるから改選するのは、臣子として土地を開拓するためであって、父祖のためではないと思われます。ところが、〔父祖の名を避けた官職を授けるさいに、〕自分の名が加わっている官職も臣子に授けています。佐吏や部下が終日のあいだ勤務するとき、〔府君の〕官職名は口に出してしまう言葉です。もし実際の官職名のとおりに言えば、尊貴をはばかるという礼典の義にもとってしまうことになりますし、言葉を変えて〔府君の名を〕避ければ、官を廃してほしいままに法制を犯してしまうことになります。いま、思いますに、四海は広大で、官職は数多く、名称は膨大におよび、士人は多数おります。〔士人のなかで〕恩恵を皇朝より授かり、宰牧(地方官の意)になった者がいたら、佐吏にその官名を呼ばせず、子孫にその官号を言わせないことになってしまいます。〔このように、本人と同名の官職を授けるというのは、〕上は君父を尊び、下は臣子であるという体例を通じなくさせているゆえんです。もし、私名を変えて官職名〔と同じになるの〕を避ければ、『人の親の名づけを奪わない』(穀梁伝・昭公七年)という春秋の義にそむいてしまいます。臣が考えますに、本人の名と官職の名が同じである場合は、〔官職名が〕父祖の名に抵触してしまっている場合と同例とするのがよいと存じます。そうすれば、体例が完全になり、義において広大となることでしょう」。朝廷はこれを聴き入れた。<br/></blockquote>
<br/>
読みにくい記事で、かなり解釈を施してある。近日中に拙訳サイトで江統伝をアップする予定なので、解釈の詳細はそちらで参照してほしい。<br/>
ここで確認しておきたいおおまかな文意は、「授けられた官職が父祖と同名であった場合、改選を許可されるという故事がある。しかし本人と同名であったケースについては故事のなかに含まれていない。本人と同名の場合も、父祖の場合と同様に扱い、改選を許可するのが理に適っている」というものである。
なおこの上疏は西晋の恵帝・元康七年ころのものである(『通典』巻104、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議)。<br/>
<br/>
この記述により、王舒や王允之の要望は故事に沿ったものであることがわかるだろう。彼らがとりわけ家礼にこだわっていたからモンスターなクレームを出していたわけではないのである。<br/>
もっとも、王舒父子に対する東晋朝廷の対応をみると、この「故事」が東晋でも継承されていたのかはやや疑わしくも思える。<br/>
また江統は「故事」と言及しているので、これは規定のようなものというより慣例としておこなわれていた措置と言うべきだろう。康帝がハッキリさせるように命じているのも、法として明文化されていたわけではなかったからだと思われる。<br/>
神矢法子氏によれば、漢魏の時代にはこのような措置は取られておらず、西晋になってからおこなわれるようになったのだという(神矢「晋時代における王法と家礼」、『東洋学報』60-1・2、1978年、24頁)。<br/>
<br/>
***<br/>
さて、この問題はおそらくいろいろな角度から掘り下げることが可能だと思われるが、ここでは晋代における銓衡プロセスにしぼって考察を進めてみたい。<br/>
まず参照したいのが巻106、石季龍載記上にみえる記述である。<br/>
<br/>
<blockquote>季龍僭位之後、有所調用、皆選司擬官、経令僕而後奏行。不得其人、案以為令僕之負、尚書及郎不坐。至是、吏部尚書劉真以為失銓考之体而言之、季龍責怒主者、加真光禄大夫、金章紫綬。<br/>
<br/>
石季龍が天王位を僭称して以後、調用する人材があるときには、すべて選司が擬官し、〔その案が〕尚書令と尚書僕射〔の承認〕を経てから〔石季龍に〕奏上し、施行された。〔しかし施行してみたところ、その官に〕適当な人物でなかった場合には、調べて(?)尚書令と尚書僕射の責任とし、吏部尚書と吏部曹の尚書郎は罪に問われなかった。このときになって、吏部尚書の劉真は、選挙の根本を失っていると考え、このことを上言した。石季龍は主者(選司=吏部曹)を叱責し、劉真に光禄大夫、金章紫綬をくわえた。<br/></blockquote>
<br/>
これは後趙の選挙制であるものの、石勒や石虎は魏晋期の選挙制に範を取って制度構築しており、ここで言われている銓衡プロセスも晋代で取られていたものである可能性が高いと思われる。<br/>
これによれば、吏部曹が銓衡案を作成し、その案が尚書令および僕射の承認を得られたら皇帝に奏上する、という手順をとる。<br/>
<a href="https://readingnotesofjinshu.com/translation/records/vol-106_2?hilite=%E6%93%AC%E5%AE%98" target="_blank">拙訳サイト</a>で「擬官」に付した注を引用してもう少し補足しておこう。<br/>
<br/>
<blockquote>「擬官」は原文のまま。用例(といっても唐書だが)をみるかぎり、「その人物に適当な官職を挙げる」というニュアンスらしく思われる。陳の「用官式」では、まず吏部が叙任したい数十人の名を白牒に列記し、吏部尚書の承認と勅可を得られたら、今度は各人に適当な官を選定してそれを黄紙に記し、八坐の承認と奏可を得られたら施行、という手はずになっているが、この後半の黄紙あたりに相当する作業になるだろうか。王坦之伝には「僕射江虨領選、将擬為尚書郎。……虨遂止」という記述がみえるが、これは起家の例である。また山濤伝には「濤再居選職十有余年、毎一官缼、輒啓擬数人、詔旨有所向、然後顕奏、随帝意所欲為先」という記述もある。両方のケース、すなわち人事を施す人材をまず選考し、それから適当な官を選定するという場合と、官の欠員をうめるにふさわしい人材を選考するという場合と、どちらも最終的には黄紙に人名とその「擬官」を記すことになるのであろう。<br/></blockquote>
<br/>
「用官式」については中村圭爾『六朝政治社会史研究』第六章が詳しい。<br/>
上の注をじゃっかん訂正すると、山濤の場合、欠員が出たら適任の人材を数人みつくろって武帝に「啓」した、つまり私的に進言したものである。ゆえに、欠員が出たら人材をみつくろうという銓衡プロセスが吏部で一般的であったかは定かではない。あるいは、皇帝が補欠候補者を吏部に諮問し、それに応じて吏部が人材案を作成して奏し、勅可を仰ぐ、という手順だったのかもしれない。このあたり、今回は細かく詰めてもしかたがないのでこれくらいにしておく。<br/>
<br/>
さて、人事対象者の官職候補を選定するにも、官職の補欠者を決定するにも、どちらにせよ人材のプロフィールは吏部で精査するはずである。そのさい、父祖のキャリアもチェックされていた(川合安『南朝貴族制研究』第十章)。<br/>
つまり、吏部は銓衡案を作成するにあたり、父祖の名を避けようと思えば避けれたはずである。現に川合氏は、吏部の銓衡時に姓譜が使用されていたと指摘し、その目的のひとつは父祖の諱を避けるためであったと述べている(同前、282頁)。避諱が強力なタブーとして機能していたのなら、銓衡時に父祖の諱を考慮するのは吏部の職務の一環とさえ言えるのだろう。<br/>
しかし、現実には避けていないのではないか。だからこそ「故事」というものが存在するのだし、王舒父子のような問題が発生しているのである。<br/>
避諱が銓衡時に考慮必須なタブーであったならば、こういう問題の発生は吏部の職務怠慢以外のなにものでもなく、叱責されねばならない過失に相当するはずだ。しかし、誰も吏部を責めていない。吏部の過失でこの問題が生じているとは誰も考えていないように思われるのである。<br/>
はたして吏部は本当に父祖の名を配慮していたのであろうか。<br/>
<br/>
***<br/>
いまいちど、江統伝の「故事」をよくみてほしい。「故事、父祖与官職同名、皆<b>得</b>改選」。このうち、「皆<b>得</b>改選」を私は「すべて改選が<b>許されます</b>」と訳した。<br/>
読み過ぎになるかもしれないが、あくまで「得」であって、「必」や「当」でないことに注意を払いたい。父祖と同名であれば「改選しなければならない」「必ず改選する」「改選するべきである」とは言われていないのだ。「得」とは、改選の可能性を保証するという意味ではなかろうか。絶対に改選するわけではないが、改選希望の正当な理由として要望を受け入れる――こういう含意だと思われる。<br/>
王舒のケースだと、朝廷の対応は明らかに小手先のもので、どうあっても改選するつもりがなかったようにみえる。ただ注意しなければならないのは、朝廷はいちおう、「父祖と同名になっている」という問題を解消するためにあれこれ処理しているところだ。「礼的に問題はない」との朝議や文字の改変などは、ようするに「王舒が嫌がっているような問題はこういうふうにすれば解決するよね?」と対応しているわけである。朝廷の姿勢はひじょうに不誠実にみえるものの、このことから考えれば、朝廷は官人の改選希望を無視することはできず、問題を解消するための努力義務を負っていたと言えよう。そして改選は、問題を解消するための手段(おそらく最終手段)のひとつにすぎなかったのではないだろうか。<br/>
王允之の場合も、朝廷は詳議を開いて希望を通すことはできないとの結論を下しているので、やはり希望を無下にしているというわけではないと思われる。<br/>
<br/>
くわえて、王舒と王允之は改選希望を自己申告している。おそらく江統もそうである。逆に言えば、官人が申告しなければ問題は発生しない。ここからうかがうかぎり、官人は「嫌だったら言おう」、吏部ないし朝廷は「嫌だったら言っていいよ」というスタンスであったと思われる。つまり、吏部は父祖の名を配慮しない。官人もそれを理解していて、どうしても嫌な場合は申告の権利が保証されていたから改選希望を申請した。だから吏部の仕事に過失があるとは責めなかった。<br/>
『梁書』巻25、徐勉伝にこのようにある(訳は川合氏前掲書、282頁)。<br/>
<br/>
<blockquote>勉居選官、彝倫有序、既閑尺牘、兼善辞令、雖文案塡積、坐客充満、応対如流、手不停筆。<b>又該綜百氏、皆為避諱。</b><br/>
<br/>
徐勉は吏部尚書となって、一定の規則のもとに人事を行い、文書作成に習熟し、弁舌もたくみであったので、書類が積み重なり、順番待ちの客が満ち溢れても、応対は流れるようで、手も筆をやすめなかった。<b>また百氏についての知識をそなえ、みなその父祖の諱を避けた。</b><br/></blockquote>
<br/>
おそらくだが、避諱に配慮して官を選定できる吏部は有能な吏部とみなされていたのであろう。すなわち、一般的にはできなくてもよかったのではなかろうか。<br/>
あるいは時代差もあるのかもしれない。東晋時代ではそれほど普及していたマナーではなかったが、時代が降るにつれ、常識のようなものになっていったという可能性も考慮できる。<br/>
<br/>
***<br/>
以上をまとめると、<br/>
<br/>
<blockquote>・吏部は銓衡時、父祖の名と官職の名が同じであるか否かには配慮しなかった。<br/>
・同名であるのが嫌な場合、官人は改選希望を自己申告することが許されていた。朝廷は、同名を理由とした官人の改選希望申請を官人の正当な権利として保証していた。<br/>
・しかし官人が申請したとしても、必ず改選されるとはかぎらなかった。朝廷はあくまで避諱の問題を解消すればよかったからであり、そのためならば改選でなくともよかったからである。<br/>
・朝廷は官人の申請を無下にできず、避諱問題を解消する努力義務を負っていた。<br/></blockquote>
<br/>
となる。やや強引な史料解釈もあるが、現状ではこういうふうに考えておきたい。<br/>
なお六朝から唐宋にいたるまでの避諱の事例は趙翼『陔余叢考』巻31、避諱にいくつか挙げられている。この問題をとりあげた論考には野田俊昭「東晋時代における孝と行政」(『九州大学東洋史論集』32、2004年)もある。<br/>
<br/>
***<br/>
ところで、この改選希望の故事をわかりやすく表現すると「改選の希望を申請してよい(改選するとは言っていない)」という構文になる。<br/>
われわれには馴染みのある言語の使い方である。「社員は自由に有休を申請できます(無条件で承認するとは言っていない)」。まさにこれである。<br/>
求人欄に「時給1100円」と書いてあったのに面接に行ったら「君は若いから1000円で大丈夫だ」と言われてしかたなくその条件で契約した。こういう経験は誰しももっているだろう。「時給1100円」という記載からは「(この条件で契約するとは言っていない)」という但し書きを読み取らねばならない。現代日本の労働者言語はハイコンテクストだと言われるゆえんであるが、晋代の官人、いや同志もなかなか大変だったようだ。<br/>
とくに王舒の事例は同情ものだ。「申請していい」って言うからしたのにめんどくさそうに表面的な対応だけして「これでいいでしょ?」と言ってくるこの嫌な感じ。しぶしぶ赴任した王舒の気持ちが私にはよくわかる。<br/>
<br/>
康帝も注意が必要だ。彼の詔をあらためて引用しよう。「祖諱孰若君命之重邪」。私はこの文を「祖父の諱よりも君命のほうが重要ではないだろうか」と、疑問調で訳出した。『漢辞海』や『古代漢語虚詞詞典』で解説されているように、「孰若(いずレゾ)」は前の語句を否定して後ろの語句を肯定する比較の慣用句(AよりもBがよい)である。じつはこの文、『通典』の中華書局標点本は「邪」を反語で読んでいる。私は後文との兼ね合いもあって疑問のニュアンスで取ったものの、反語ふうに訳出してみたらこうなるだろう。「祖父の諱と君命、どちらが重要だというのか! 君命に決まっているだろう!」なんということだ。厚労省が定める「職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるもの」に明らかに抵触している。パワハラだ。<br/>
しかもこの皇帝、康帝紀をみると礼を重んじた人物なのである。成帝崩御一周年を機に有司が喪の解除を要請すると「礼の軽減なんてとんでもない」と言っているのだ。そんなパーソナリティの皇帝でも「あれぇ~、家礼と君命、どっちが大事だったかなぁ~?」と言ってしまうのだから恐ろしい。さしづめ、社長は有休取りまくっているから自分だっていいだろうと思って申請してみたら露骨に嫌な顔をされてネチネチ言われる“例のアレ”といったところだ。<br/>
<br/>
まあ康帝には言いすぎたかもしれない。あまり真に受けないでください。<br/>
<br/>
<br/>
※有休だの時給だのの件はすべてフィクションです。現在勤務している会社で不利益な扱いを被ったことは一度もありません。<br/>
<p class="mb3"></p>
hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-36602013092377966052021-09-05T23:28:00.004+09:002021-09-05T23:29:15.723+09:00研究発表しました 表題のとおり、大会で報告しました。<br />
<br />
<b>三国志学会大会</b><br/>
<a href="http://sangokushi.gakkaisv.org/taikai.html">http://sangokushi.gakkaisv.org/taikai.html</a><br />
<br/>
「匈奴劉氏の歴史認識」と題して報告しました。報告資料は上記リンクから参照できます。長いレジュメでごめんなさい。<br/>
<br/>
今回発表する件について、ツイッターではたびたびつぶやいていました。RTやいいねをしてくださった皆さま、ありがとうございました。嬉しかったです。御礼申し上げます。<br/>
<br/>
ユーチューブライブでの配信をリアルタイムでチェックできなかったので、どういうコメントがあったのか等は把握できていません。ツイッターも然り。当分は恐いので検索しません。。<br/>
<br/>
<br/>
学術的な意義だとか他の人に理解しやすかったかとかの問題は措くとして、今回の発表は個人的にはすごく納得のいく史料解釈ができたかな、と。<br/>
じつは今回のテーマは学部卒業研究に立てたテーマでした。ただその当時は満足のいく解釈ができませんでした。学部以来のモヤモヤ感がさっぱりなくなったので、私としては満足しました。<br/>
さらに、後漢末の南匈奴の動向や五部分割の実態というのは史料の記述が零細で、諸説紛々していたのですが、これまた私個人としてはスッキリ統一的な解釈ができたかなと思います。<br/>
この機会を与えてくださった皆さまにただただ感謝いたします。ありがとうございました。<br/>
<br/>
活字化すればいいのではというお言葉もいただけてありがたいのですが、正直いまはそこまで考えられないというか、休みたい(笑)という気分で…。こうやってグダグダしてしまうのが自分のよくないところなんでしょうね。<br/>
<br/>
それにしても、他の方の発表は余裕がなくてあまり聞けず、レジュメをざっと見ただけなのですが、小野響さんのレジュメに王明珂氏が引用されていましたね。私も王氏を引用しました。とくに『游牧者的抉択』は遊牧民の研究する人は必読になるかもしれない。匈奴の政治史のような概説ではなく、あくまで匈奴における遊牧生活の概説って感じなんですけど、その記述がよくまとまっていて類書がなさそうに思われます。<br/>
とりあえずこの方はおさえておいたほうがよさそうです。<br/>
ただ、氏の議論はいろいろ文脈が豊富だったりするので、援用するさいには少し注意が必要な気もします。<br/>
<br/>
少し脱線してしまいましたが、何かご質問やご指摘あればツイッターでもここのコメント欄でも構いませんのでお気軽にどうぞ。<br/>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-29386248670322221682020-12-19T21:24:00.000+09:002020-12-19T21:28:23.292+09:00唐修『晋書』職官志の「位従公」について<p class="mb5"></p>
『晋書』職官志に次のような記述がある。<br/>
<br/>
<blockquote>驃騎・車騎・衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国等大将軍、左右光禄・光禄三大夫、開府者皆為<b>位従公</b>。<br/>
<br/>
驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国などの大将軍、左光禄大夫、右光禄大夫、光禄大夫で、開府辟召を授けられた場合はみな<b>「位従公」</b>となる。<br/></blockquote>
<br/>
特定の官にある者が開府を加えられた場合、「従公」という位、つまり公よりワンランク低い位になるのだ、と読めそうである。<br/>
が! ちょっとまってほしい。末尾をよく見ると、「為<b>位</b>従公」、すなわち「<b>位</b>従公と為る」とある。はたしてこれは「位が従公と為る」という意味なのだろうか。そのように読もうとするにはやや違和感のある語順である。<br/>
<br/>
そう思い調べてみると、たとえば『通典』に載せる晋官品の第一品に「諸位従公」と、やはり「位」の字が付いているし、『南斉書』の百官志でも特進などを「位従公」と言っている。ほかの用例を調べてみても、用例の多くが「位従公」である。<br/>
いっぽう、公や卿は「諸公」「諸卿」であって、「諸位公」「諸位卿」ではない。<br/>
<br/>
言いたいことをうまく表現できないのだが、ようは「位従公」の「位」は不用意に外さないほうがいい文字なのではないだろうか。この三字を「従公という位」と読んだり、はたまた「位」を省略して「従公(となった)」と読むのは不適切なのではないだろうか。この三字はあくまで「位従公」ひとかたまりで読むべきではないだろうか。<br/>
<br/>
だとすればこれは何を意味するのかというと、「位は公に従う」=「朝位は諸公に準じる」ということではないかと考える。<br/>
「位」=朝位は席次を言うが、ここで「公に従う」のはもちろん朝位のみを指すのではなく、朝位によって可視化されるところの礼的な場における序列のはずであろう。<br/>
私が何を言いたいのかすでに察した方もいるかもしれない。私は「位従公」を「儀同三司」と同じ意味だと捉えたいのである。<br/>
あくまで「朝位は公に準じる」という朝位が存在したのであり、それがのちに簡略に表現されてたんに「従公」と呼ばれるようになったとしても、はじめから「従公」なる朝位が設けられていたのではないように思われる。<br/>
<br/>
さて、このような解釈にもとづくと、職官志の「位従公」――職官志では「開府位従公」とも表記される――に関する規定も理解がしやすくなるはずである。<br/>
たとえば次の文。<br/>
<br/>
<blockquote> 太宰、太傅、太保、司徒、司空、左右光禄大夫・光禄大夫開府位従公者為文官公、冠進賢三梁、黒介幘。<br/>
大司馬、大将軍、太尉、驃騎・車騎・衛将軍・諸大将軍開府位従公者為武官公、皆著武冠、平上黒幘。<br/>
文武官公、皆仮金章紫綬、著五時服。……。<br/>
諸公及開府位従公者、品秩第一、食奉日五斛。<br/>
<br/>
太宰、太傅、太保、司徒、司空、および開府位従公の左右光禄大夫と光禄大夫は文官公であり、進賢三梁冠をかぶり、黒介幘である。<br/>
大司馬、大将軍、太尉、および開府位従公の驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍は武官公であり、みな武冠を着用し、平上黒幘である。<br/>
文官公と武官公はみな金章紫綬を授けられ、五時服を着用する。……。<br/>
諸公および開府位従公は、品秩第一、俸禄は一日につき五斛。<br/></blockquote>
<br/>
朝服の詳しい形などは私もさっぱりわからないので説明はできないのだが、諸公(太宰などの上公や司徒などの三司)と「開府位従公」との間には朝服や官品などにまったく違いがない。<br/>
厳密な朝位はもちろん諸公のほうが上であっただろうとは想像されるものの、礼遇は基本的に諸公に等しい、つまり「儀同三司」である。<br/>
冒頭に引用した文の「開府を授けられたら「位従公」となる」というのは「開府を授けられたら儀同三司となる」という意味であり、「開府位従公」というのは「開府儀同三司」の意味である。<br/>
<br/>
しかし、私のこの解釈は、すでに「儀同三司」というのがあったのに、なぜ「位従公」という別の言い方をするのか、という疑問が生じてしまう。<br/>
思うに、儀同三司はもともと「儀は三司に同じ」という特別待遇のことを言っていたのに、いつしかこの語で固定化して「儀同三司」という特別な称号ないし散官のようなものになってしまったため、かつては「儀同三司」の語で表現したかったことを「位は公に従う」と言うようになったのではないか。まあ、すごく苦しい理屈ですね。<br/>
とりあえず、職官志の「位従公」は「儀同三司」の意で取ると文意が通じるように思われるので、さしあたりはこの解釈に従いたいと考えている。<br/>
<br/>
***<br/>
ついでにもう少し。<br/>
職官志には次のような文もある。<br/>
<br/>
<blockquote>驃騎已下及諸大将軍<b>不開府</b>非持節都督者、品秩第二、其禄与特進同。置長史、司馬各一人、秩千石。……。<br/>
<br/>
驃騎将軍以下(驃騎・車騎・衛の三将軍)および諸大将軍で、<b>「不開府」</b>かつ持節都督でない場合、品秩第二、俸禄は特進と同じ。府に長史と司馬それぞれ一人を置く。長史と司馬は秩千石。……。<br/></blockquote>
<br/>
この文、変に思わないだろうか。「不開府」であるのに長史や司馬を置いている、つまり府はあるのである。<br/>
ここで、文のはじめに指定されている「驃騎已下及諸大将軍」が冒頭で引用した「位従公」の規定に見えている将軍号であるのに注意しよう。<br/>
これらの将軍が「不開府」だというのは、「位従公」とならなかった、ということである。そしてそれは、私の解釈にもとづけば、「儀同三司」とならなかったという意味である。<br/>
すると上に引いた文は、驃騎等の将軍や諸大将軍で(開府)儀同三司にならず、かつ持節都督でもない場合は、諸公および開府位従公よりも規模の小さい府を開く、という規定を記しているのではないだろうか。<br/>
<br/>
このような解釈が成り立つと、ここの「不開府」や冒頭の引用文の「開府者皆為位従公」という場合の「開府」というのは、じつは実質的な意味がない、ということになってしまう。<br/>
「開府」を加えられることによって、はじめて府を設けて属僚を辟召する権限が与えられるのではなく、「ふつうの驃騎将軍ではありませんよ」「ふつうの光禄大夫ではありませんよ」ということを示したいためだけに加えられるもの、あるいは儀同三司とするために加えられるものと考えなくてはならなくなってしまう。<br/>
さすがにそこまで考えるのはおかしいと感じており、調べなおしたいところなので、「開府」に関しては結論めいたものを出さないでおく。<br/>
<br/>
正直、いままで開府とか儀同三司とかたいして注意して見ておらず、どういう官位の者に開府が加えられているのかまったく考えてなかった……。すいません……。<br/>
もしすでにこれらのことを論じている文章があればご教示いただけると助かります。<br/>
<p class="mb3"></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-58769939432388428642020-11-28T19:43:00.000+09:002020-11-28T19:43:52.691+09:00唐修『晋書』に見える「臺」について<p class="mb5"></p>
『晋書』で「臺」と見かけたとき、私は反射的に「尚書臺」といままで読んでいたのだが、どうもそれはまずいのかもしれないと最近になって気づいた。<br/>
まず例を二つ挙げてみよう。(訳文は拙訳「<a href="https://readingnotesofjinshu.com/translation/biographies/vol-100_1">晋書簡訳所</a>」から引用。一部漢字表記を改めてある。)<br/>
<br/>
<blockquote>及李流寇蜀、昌潜遁半年、聚党数千人、盜得幢麾、詐言<font color="red">臺</font>遣其募人討流。(巻100、張昌伝)<br/>
<br/>
李流が蜀を侵略すると、張昌は半年間潜伏して人目を避け、徒党を数千人集め、幢麾を盗み、「<font color="red">臺</font>の使いだ。人を募集して李流を討伐せよとの命令である」と偽って言った。<br/>
<br/>
<br/>
朝廷遣使諷諭之、峻曰、「<font color="red">臺</font>下云我欲反、豈得活邪。我寧山頭望廷尉、不能廷尉望山頭。往者国危累卵、非我不済、狡兔既死、猟犬理自応烹、但当死報造謀者耳」。(巻100、蘇峻伝)<br/>
<br/>
朝廷は使者をつかわして説諭したが、蘇峻は言った、「<font color="red">臺</font>下は、私がそむこうとしていると言っているそうじゃないか。〔そのようななかで中央に行ったら〕命を保つことができようか。廷尉から山の頂上を眺めるなんてもってのほかで、それなら山の頂上から廷尉を眺めるほうがましだ。かつて国家が累卵の危難に陥ったとき、私でなければ救済することはできなかった。〔だが〕狡猾な兎が死ぬと、猟犬は道理からしておのずと煮殺されるもの。それならば、死して謀反をでっちあげる者に報いるのみよ」。</blockquote>
<br/>
張昌伝の引用箇所は拙訳の訳注にも記したように解釈に自信がないものの、私はここに見える「臺」を「尚書臺」の意で取った。ここはそのように取って不都合はなさそうに見える。<br/>
<br/>
いっぽう、蘇峻伝のほうはどうであろうか。これまた訳注に記したことだが、この蘇峻の発言は『建康実録』顕宗成皇帝、咸和元年十月の条に「己巳、庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛、誅之」とあるのを受けてのもの、すなわち南頓王が蘇峻と結託して謀叛していると庾亮がそしったことを「臺下云我欲反」と言っているのだと考えられる。この当時、庾亮は中書監であったから、ここの「臺下」は中書臺の庾亮を指していると見れなくもなく、そうすると「臺」は必ずしも「尚書臺」の意ではないのかもしれないと思いたくなる。<br/>
<br/>
しかし、ではこの「臺下」を「尚書臺」と読んで支障が生じるのかと言われると、とくに問題はないようにも思われる。というより、「尚書臺」と取ってもよいし、そこから意を拡張して「中央政府」とか「天子」とまで読んでしまってもいいのかもしれない。つまり、語が表現しているのは「尚書臺」なのだけれども、その語が指示しているのは、尚書が中心となって運用されている「中央の政府」であり、だから日本語に訳すときは、「尚書臺」と訳せば少なくともまちがいではないが、文脈によっては「中央」のような意で訳出したほうが適した表現になるのかもしれない。蘇峻の「臺下」に関して言えば、「中央(の政府)」と訳したほうが適当であろうと感じる。<br/>
<br/>
そしてあらためて張昌伝を見なおしてみると、「臺遣」も「中央からつかわされた使者」という意味で読めるし、というよりそう訳したほうがむしろしっくり来るかもしれない。<br/>
<br/>
***<br/>
ついでだが、『晋書』には「行臺」「留臺」という語も頻出する。<br/>
一般的には、「行臺」は「都の外に置かれた尚書臺」、「留臺」は「天子が都を離れて以降も都に留まっている尚書臺」を言う。<br/>
つまり、これらの「臺」は「尚書臺」を意味すると考えるのが通常である。<br/>
<br/>
だが、『晋書』巻81、蔡豹伝に「於是遣治書御史郝嘏為<font color="red">行臺</font>、催摂令進討」とあり、読んだときに「なんで侍御史を行臺にするんだ、しかも戦闘の催促に尚書が必要なのかな」と違和感を覚えなかったわけではなかったが、上記のような意味以外に「行臺」を読もうとまでは考えず、拙稿にもそのつもりで引用してしまっていた。<br/>
いま考えると、ここの「行臺」の「臺」は御史臺であったのかもしれない。「臺」といえば「尚書臺」、まして「行臺」であればなおさら、という先入見があまりに強かったゆえに他の可能性を考えられなかったのである。<br/>
<br/>
***<br/>
ところで、「臺」を含む成語に「三臺」というものがある。漢代、この語は尚書臺、謁者臺、御史臺を指して用いられることがあったようで、尚書臺に関連する成語と見なすことができる。魏晋以降は尚書、中書、御史の三つを「三臺」と呼んだらしいが、かかる意味での使用例は少ないように思われる。<br/>
<br/>
似た成語に「三台」というものもあり、こちらは星座の名称で、三公を比喩する。これまでいちいち「臺」字を使ってきたのは、この(現代の日本語から見れば)ややこしい成語が存在するためである。<br/>
<br/>
しかし「三臺」の用例をチェックしていくと、数はわずかながら、どうも尚書を含まないケースがあるらしい。<br/>
たとえば『宋書』や『南斉書』に「<font color="red">三臺</font>五省」という語が見える。この場合、尚書は「五省」のほうに含まれていると考えるのが妥当だと思われる(尚書省、中書省、秘書省、門下省、残りひとつは散騎の省?)。<br/>
そうだとすれば、「三臺」は御史臺、謁者臺、あとひとつはよくわからないが(『隋書』巻27、百官志中に載せる北斉の制にはこの二つのほかに都水臺(都水使者)がみえている)、ともかく尚書臺ではないはずである。<br/>
<br/>
これとは別に、数はぐっと減る、というかいまのところ応詹伝しか見つかっていないのだけど、「<font color="red">三臺九府</font>、中外諸軍、有可減損、皆令附農」という語もある。<br/>
「九府」は「九卿」の意であることからすると、この場合の「三臺」は「三台」すなわち「三公」の意であろうと思われる。<br/>
だが、本当にここの「三臺」を「三公」で取ってよいのだろうか。『晋書』巻67、温嶠伝に「<font color="red">三省</font>軍校無兵者、<font color="red">九府</font>寺署可有并相領者、可有省半者、粗計閑劇、随事減之」とあり、この文の「三省」は「三臺」と同義であるかのごとくであり、かつ「三省」といえば尚書、中書、門下もしくは秘書を指すはずであろうから、「三臺」もそれら尚書などを指すと考えるべきとも思えてくる。<br/>
しかし、かの温嶠伝の記述は、「三省」で「無兵」のところがあれば「減」ずべし、という温嶠の提言であるのだが、そもそも尚書などは兵を有するのだろうか、また場合によっては省いてもよい官署なのだろうか。ありえないはずである。<br/>
温嶠伝の「三省」が何を指すのかはけっきょくわからないのだが(「軍校」は「四軍五校尉」を指すと思う)、「三臺」とはあまり関連がないか、あったとしても「三台」(三公)のほうだと思う。<br/>
<br/>
話が本筋から逸れてしまったが、「三臺」が「三台」(三公)をも意味するかもしれない例としては、『晋書』巻59、斉王冏伝に「司徒王戎、司空東海王越説冏委権崇譲。冏従事中郎葛旟怒曰、『(中略)<font color="red">三臺</font>納言不恤王事、(中略)』」というのもおそらく「三公」の意で「三臺」と言っている可能性が高い。<br/>
そんなに多く見られるわけではないのだが、「臺」のつもりで「台」を使っているらしい用例はほかにもあるにはあったので、字のちがいはあるていど柔軟に考えてもよさそうである。<br/>
<br/>
さらに、どうもそれらよりもずっと広い範囲の官署を「三臺」と読んでいるのではないかとおぼしき例もある。『晋書』巻45、劉毅伝附暾伝の「恵帝復阼、暾為左丞、正色立朝、<font color="red">三臺</font>清粛」である。劉暾が尚書左丞に就いて「三臺清粛」というのだから、この「三臺」は端的に「尚書臺」を指しているかのようだが、直前の文に「正色立朝」とあることからすると、「清粛」したのは中央政界全体であったのではないだろうか。そう考えてよいのならば、ここの「三臺」は「中央の政府」くらいの意味になってしまうだろう。<br/>
<br/>
以上を整理すると、<br/>
<br/>
<blockquote>(1)「三臺」には尚書を含んだ臺を指す場合と、尚書を含まない臺を指す場合がある。体感的には、魏晋代は後者のケースが多い。<br/>
(2)「三臺」で「三台」すなわち「三公」を指す場合がある。<br/>
(3)「三臺」で「中央の政府」を指す場合がある。<br/></blockquote>
<br/>
これ何かの間違いなのでは・・・? と思っているので、詳しい方がいらしたらご教示いただきたい。<br/>
<br/>
***<br/>
もうひとつめんどくさい成語に「臺府」がある。<br/>
斉王冏伝に、冏が「符勅<font color="red">三臺</font>」したという記述が見えるのだが、これが『宋書』巻30、五行志一だと「符勅<font color="red">臺府</font>」に書き換えられている。<br/>
じゃあ「三臺」と「臺府」は同義なのだろうか。<br/>
<br/>
「臺府」の用例を見るかぎり、たいていは「中央の各官署」を指しているように見受けられる。『晋書』巻105、石勒載記下は「台府」の用例ではあるが、「命郡国立学官、毎郡置博士祭酒二人、弟子百五十人、三考修成、顕升<font color="red">台府</font>」とあり、この「台府」は尚書臺か中央官署の府を指すのではないかと考えらえる。あるいは「三臺九府」を略した書き方が「臺府」なのかもしれない。<br/>
『漢語大詞典』は、いま述べた「中央の官署機構」の意味以外に「御史臺」の意味を挙示している。もっとも、その根拠はよくわからないというか、これ以上調べる元気が出ないのでもう終わりにしよう。<br/>
<br/>
ともかく、いちおう「三臺」と「臺府」には共通する語用があるようである。とはいえ、その共通の語用で斉王冏伝の「符勅三臺」が読めるのかどうかはわからないのだが。<br/>
<br/>
史料も思考もぐちゃぐちゃになっていて整理できていない気がするので、後日きちんと再考します。とりあえずメモがてら。<br/>
<p class="mb3"></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-13630505133639540552020-09-29T18:15:00.001+09:002020-09-29T18:15:15.703+09:00【お知らせ】本ブログに掲載の「宋書百官志訳注」について このブログを開設した当初くらいから連載投稿していた「宋書百官志訳注」ですが(最近はぜんぜん投稿していませんが:)、今年に開いた別サイト(<a href="https://readingnotesofjinshu.com/">https://readingnotesofjinshu.com/</a>)のほうに移そうと思います。<div><br /></div><div> それで実際のところ、こちらで公開している「訳注」(と称させていただいているもの)については即時すべてを非公開にしたいところなのですが、読みなおし作業の効率上、しばらくは公開したままにしておきます。</div><div> 作業がひと段落つくごとに、<b>順次非公開にしていく予定です。</b></div><div> さしあたりこの投稿を作成している現段階で、(1)は非公開にしてあります。</div><div><br /></div><div> そういうことになりますので、どうぞご了解願います。</div><div><br /></div><div><br /></div>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-30298858141836463582020-03-05T22:48:00.003+09:002020-03-05T22:49:54.619+09:00論文を書きました 拙論が公刊されました。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
「東晋元帝期の北伐の理解をめぐって」、『史滴』第41号、2019年12月、pp. 47-70</blockquote>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhHJv_9y0zW1GLe1rZDXl6LJtJbWAYq2XLunZPXqABAqwWdni4k2-doSmfJhiJPdbRuR8-4MOhPDpyrtdB8dbdekHX-DvoAV3qqarxIOP64tZnsVhXtEvvLxLKxXzkgHKN0ybtB_NboFl1D/s1600/P_20200305_185349.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1200" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhHJv_9y0zW1GLe1rZDXl6LJtJbWAYq2XLunZPXqABAqwWdni4k2-doSmfJhiJPdbRuR8-4MOhPDpyrtdB8dbdekHX-DvoAV3qqarxIOP64tZnsVhXtEvvLxLKxXzkgHKN0ybtB_NboFl1D/s640/P_20200305_185349.jpg" width="480" /></a></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<br /></div>
<br />
すでにいくつか反省点があり、銭大昕の引用がやや恣意的だとか、外征の事例をいろいろ挙げているけど司馬勲を挙げ忘れているとか、いろいろと自分に甘かったのが原因です……。<br />
<br />
企業に勤めながら書きましたが、やはり時間の確保が課題だなあと。<br />
といっても、職場に急な事件が起きないかぎりはほぼ毎日18時前には退勤できるし、まずい事態になっても月の時間外労働は30時間を超えるかな?程度なので、環境的にはめぐまれているでしょうが、それでも時間が足りないような気がして、つねにせわしなさを覚えていました。<br />
<br />
ようは、朝と夜は決まった時間になったら作業を中断しなければならないんですよね。「この作業キリがいいとこまでやりたい……!」というのができない。これはだいぶストレスでした。そして、限られた時間でなるべく先まで進めなきゃという焦りをいつも感じてしまう。<br />
<br />
給与があって作業できているわけだし、仕事をおろそかにしてまで作業に没頭するのは明確におかしい。有休とって作業あてるのはぜんぜん良いと思うんですけど、その結果同僚に負担かけまくるというのもちがうでしょう。連日定時ダッシュだったので、「いまこういう事情あります」的なことは言っておいたかな。ただそれでどう思われるかは自分の日ごろの振る舞いにも左右されるだろうから、一概に同僚に伝えておくのが良いとは言えないと思います。私は職場でまあまあ良いヤツキャラしているので、(表立って)反発されることはありませんでした。<br />
仕事でやることはきちんとやって、そのうえで執筆の作業を進めることに意味があると私は思っていました。時間を長くかけてコツコツやるしかないですね。<br />
<br />
もうひとつキツかったのが資料でした。母校の図書館をおおいに利用させていただきました。<br />
母校の図書館は、ジャーナルや書籍はだいぶそろっています。OBでも手続きをとれば書庫に自由に入れるようになるので、論文の複写は困りませんでした(そもそも図書館に寄るのがめんどくさかったというのは措いといて)。<br />
中国語の文献もだいぶ収蔵されていますが、やはりないものもあります。そういうもののなかで、どうしても参照しないとまずそうだと思ったものは、東方書店でCNKIカードを購入し、CNKIからPDFをダウンロードしました。このカード、だいぶいい値段しますので、最終手段的な感じがいいかと思います。<br />
<br />
ただ、OB生に書籍の貸し出しをしていないことには少し参りました。そこそこ厚い研究書とか借りることができないので、関係の深そうな章を複写していくしかなく。索引である程度のあたりをつけ、必要そうな章を複写、という感じで私はやりました。一日図書館にこもってもよかったかもしれないですが……。<br />
1冊まるごとぜんぶ読まないといけないかも、みたいなそういう感じの書籍は、めんどうだったのですべて買ってしまうことにしました。古本、新本、セールやら何やら、とにかく集めました。学生時代とちがって多少はお金あるんで。中国語の本は天猫で購入してしまいました。<br />
<br />
大学図書館のOB生への利用規定は大学ごとにちがうらしいので、上記のような環境ばかりではないでしょう。なお私は、国会図書館とかそういうとこには行きませんでした。<br />
<br />
今後どうするのかはあんまり考えていないですね。晋書の個人訳を掲載するサイト(<a href="https://readingnotesofjinshu.com/">https://readingnotesofjinshu.com/</a>)を開設したのでよければそっちも見ていただければ嬉しいです。<br />
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<br />hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-83388048395573845032020-02-29T16:20:00.000+09:002020-02-29T16:20:06.415+09:00サイトを開設しました ツイッターではすでに告知したのですが、『晋書』の個人訳を掲載するサイトを開設しました。<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
<b>晋書簡訳所</b> <a href="https://readingnotesofjinshu.com/">https://readingnotesofjinshu.com</a></blockquote>
<br />
現段階では宣景文三帝以外の帝紀をアップしてあります。今後は月に一回程度の更新を目標に列伝や載記を上げていこうと思います。西晋末から東晋初のものが中心になるかと。<br />
<br />
サイトの開設に伴い、こちらのブログは研究ノート的なところにしようかなと考えています。<br />
消去してもいいんですが、無料ブログだから料金かかっていないし、コンテンツの移行とかちょっと気が起きないなというもありますし、たまに何かを書きたくなることもあるので残そうと思います。<br />
<br />
『宋書』百官志の訳が途中になってしまっているのですが、これはまあ……。あれは通典、太平御覧、晋書職官志、続漢書百官志で関連する記述をチェックし、注釈にまとめるということを律義にやっていたんですが、途中でそれがすごく苦痛になりました。気が起きないときは手を抜きたいんですよね。<br />
今回の晋書サイトはそのことを反省し、注釈とか出典とかは気が向いたらつける程度にしてあります。継続できるといいんですけど……。サーバーを一年契約でレンタルしてしまったので最低でも一年はやりますが。<br />
<br />
「きみはいったい何をしたいの」と思う人もいると思いますが、なんとなくです……。計画性はとくにありません。hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-78957498224173190972019-01-20T16:45:00.000+09:002019-01-20T16:45:13.042+09:00晋南朝期の「素論」について<p class="mb5"></p>
『晋書』巻70応詹伝に載っている、応詹が江州都督赴任時に上した疏は、当時の官人への引き締めを訴えるもので、具体的な制度改修案を列挙したものである。そのうちのひとつに次のようにある。<br/>
<br/>
<blockquote>漢の宣帝のとき、二千石のうちで、職務をきっちりこなし、善良の成績を上げた者は、中央に入朝させて公卿としました。職務に不適格で官を免ぜられた者は、みな平民に戻されました。懲罰と褒賞が必ず実行されたために、(漢は?)長期の歴運を得たのです。(ところが)近年以来、昇進措置は競争心を高めることができず、免官措置は不安を抱かせることができません。昇進して失望する者もいれば、降格して満足する者もいます。官に就いて成績を上げたとしても、<b>「素論」</b>を理由に降格させられてしまいますし、職務においては事実上、劣等成績であっても、たんに「旧望」を理由に抜擢されます。(これは)交際や談論で比較をおこない、優劣をつけているのであって、実際の仕事(の成果)によって優劣をつけていないということです。この基準に拠りながら成果を要求しておりますが、臣は成果のきざしを確認できていません。いま、左遷の旧制を厳しくするべきです。二千石は免官されたら、三年経ってようやく(官に?)就任できるようにし、長吏<a name="201901201b"><a href="#201901201">[1]</a></a>は期間を六年とし、どちらも(再任時の郡県の)戸口は(前任時の)半分、都からの距離は倍のところとするのが適当だと考えます。この法がしっかりおこなわれれば、官は得がたいが失いやすいことを天下に知らしめられましょうし、必ずや人々は職務に注意して当たるようになり、朝廷からは怠惰な官がいなくなることでしょう。<span class="sm">(漢宣帝時、二千石有居職修明者、則入為公卿、其不称職免官者、皆還為平人。懲勧必行、故歴世長久。中間以来、遷不足競、免不足懼。或有進而失意、退而得分。莅官雖美、当以<b>素論</b>降替、在職実劣、直以旧望登叙。校游談為多少、不以実事為先後。以此責成、臣未見其兆也。今宜峻左降旧制、可二千石免官、三年乃得叙用、長史六年、戸口折半、道里倍之。此法必明、使天下知官難得而易失、必人慎其職、朝無惰官矣。)</span><br/></blockquote>
<br/>
ここに見える「素論」とは何であるのか。「旧望」と対になっているので、それに類似した意味なのだろうとまずは推測されるものの、「素」の「論」とは具体的にどういうことなのだろう。「素論」や「旧望」に基づく評価は、「游談」を基準にしたものだとも表現されているので、これとの関連性も考えねばならない。<br/>
中央研究院の電子文献で晋南朝の正史での用例を検索してみると、晋書:3、宋書:2、南斉書:1、梁書:1である。北斉書、隋書、北史にもそれぞれひとつ検索される。その他の時代の正史ではまずかかっていないので、晋南北朝期に特有の用語とみてよさそうだが、それにしても用例が少ない。<br/>
<br/>
辞書を確認してみよう。『漢語大詞典』には、(1)「猶高論」(用例に『宋書』蔡廓伝、『文選』任昉「百辟勧進今上箋」)、(2)「猶与論」(用例に『北斉書』廬文偉伝、『隋書』廬思道伝)、の二つの義が掲載されている<span class="sm">(縮刷版、p. 5617)</span>。<br/>
応詹の上疏は(2)の意味で取るのが良さそうに思えるが、辞書らしくざっくりとしたニュアンスでしか書かれていないので、以下、この辞書の記述を手がかりにして具体的なイメージを固めてみたい。<br/>
<br/>
***<br/>
最初に漢語大が(1)の用例に挙げる『宋書』巻57蔡廓伝の「史臣曰」条。<br/>
<br/>
<blockquote>世重清談、士推<b>素論</b>、蔡廓雖業力弘正、而年位未高、一世名臣、風格皆出其下。</blockquote>
<br/>
蔡廓は「年位未高」とはいえ、「世」や「士」が重んじる「清談」「素論」のもとでは高く評されたため、「一世名臣、風格皆出其下」であった、ということだろう。「素論」は「世」や「士」によって形成される言論活動とひとまずは素描できるだろうか。<br/>
注目されるのは「素論」が「清談」と対になっていることであり、おそらくこの点が「猶高論」とされる根拠なのだろう。<br/>
ただ、ここでは「清談」との対偶関係はいったん措いて、蔡廓のどういう点が評価されているのか、本伝から確かめてみようではないか。<br/>
<br/>
ということで本伝を見ると、伝の末尾に次ような記述がある。<br/>
<br/>
<blockquote>廓年位並軽、而為時流所推重、毎至歳時、皆束帯到門。奉兄軌如父、家事小大、皆諮而後行、公禄賞賜、一皆入軌、有所資須、悉就典者請焉。</blockquote>
<br/>
史臣曰が、ここの「時流にモテモテでした」という箇所を承けているのは明白だろう。だが、なぜモテたのか。本伝には、彼が清談ないし老荘的な言論を好んでいたとは書かれていない。むしろ上の引用に見られるように、彼は兄によく奉仕した模範的な知識人と言えるのであって、儒教的なものからの逸脱が見られるのでもない。<br/>
本伝から高評価につながりそうなポイントを探してみると、「剛直」「不容邪枉」という彼の性格がそれに該当するのではないかと思われる。劉裕はこの性格を買って蔡廓を御史中丞に就けたし、また蔡廓は時の権力者である傅亮らに迎合もせず、徐羨之からは疎んじられるほどであった。蔡廓の子の蔡興宗もまた剛直な人間であったが、父・蔡廓の風格を受け継いでいると評されていた<a name="201901202b"><a href="#201901202">[2]</a></a>。つまり、蔡廓は剛直をもって評判を得たと言いうるのであり、これをこそ「時流」は評価したのだろう。そしてその「時流」が重んじた「清談」や「素論」は、蔡廓のこうした性格や振る舞いに注意を向けるようなものなのだろう<a name="201901203b"><a href="#201901203">[3]</a></a>。<br/>
こういうふうに考えていくと、史臣曰の「清談」は老荘的言論ではなく、いわゆる「清議」を指しているのではとも思われてくる。そうであるならば、ここの「清談」も「猶与論」とみなしてよいのかもしれない。<br/>
<br/>
以上をまとめると、
<blockquote>
・「素論」は「世」「士」「時流」が重んじるものであり、かつ「世」や「士」によって形成されるものだと思われる。<br/>
・「素論」は「清談」と対の関係に立ちうる。<br/>
・老荘的言論に親しんでいない可能性の高い蔡廓であっても、「素論」によって評価されている。<br/></blockquote>
<br/>
***<br/>
つづいて『晋書』より、老荘的な清談とは関わりの薄い用例を二つ検討してみよう。<br/>
<br/>
『晋書』巻40楊駿伝附珧伝<br/>
<blockquote>
珧初以退譲称、晚乃合朋党、搆出斉王攸。中護軍羊琇与北軍中候成粲謀欲因見珧而手刃之、珧知而辞疾不出、諷有司奏琇、転為太僕。自是挙朝莫敢枝梧、而<b>素論</b>尽矣。<br/>
<br/>
楊珧は最初のうちこそ謙遜ぶりを称賛されていたが、晩年になると徒党を集めるようになり、斉王攸を陥れて中央から出るように仕向けてしまった。中護軍の羊琇と北軍中候の成粲は、楊珧に会う機会を得たらみずから斬る算段を立てていたが、楊珧はそれに気づいて病気と称して朝廷に出勤しなくなった。そして有司に、羊琇を異動させるよう言い含めたので、羊琇は太僕に移ってしまった。これ以後、朝廷で楊珧に逆らおうとする者は誰もいなくなったが、しかし<b>「素論」</b>は失われてしまった。
</blockquote>
<br/>
『晋書』巻50郭象伝<br/>
<blockquote>
郭象字子玄、少有才理、好老荘、能清言。・・・後辟司徒掾、稍至黄門侍郎。東海王越引為太傅主簿、甚見親委、遂任職当権、熏灼内外、由是<b>素論</b>去之。<br/>
<br/>
郭象は字を子玄といい、若くして聡明で、老荘を好み、清談が得意であった。・・・のちに司徒掾に召され、ついで黄門侍郎に就いた。東海王越が太傅主簿に召すと、多大な信頼を寄せられ、とうとう権力のある職務を委ねられるようになり、内外(天下?)を圧倒するような権勢を得たが、このことで<b>「素論」</b>は郭象のもとから離れてしまった。
</blockquote>
<br/>
けっきょく清談とバリバリ関係ある郭象を引いて申しわけない。とはいえ、郭象伝の用例自体はあんまり清談と関係なさそうだからセーフですね。<br/>
さて、これは見てすぐに直感できると思うのだが、漢語大の掲げる(2)「猶与論」ドンピシャであろう。さきに少し触れた「清議」にぐっと近い用法だと思われる。<br/>
さらに興味深いのは、「素論」が離れていったそのキッカケもまた共通していることである。すなわち、権力にベッタリであること、あるいは私的に濫用していること。謙譲や清談で評判を得た二人は、権力との適切な距離を保てず、その評判を落としてしまった、つまり「素論」が離れてしまったわけである。ここでついでに蔡廓も想い起してほしい。彼の剛直ぶりは、権力者にも狎れあわないこと、迎合しないことに端的に示されていたのであった。<br/>
そもそも「素論」自体の用例が少ないので、この三例をもって特徴づけるのは慎むべきとはいえ、これらの用例における「素論」が権力との距離を問題にしている点で共通しているのは興味を惹かれる。権力に酔うことへのこの批判的姿勢においては、清議はもちろん、清談と共有部分があると言えなくもないだろう。<br/>
<br/>
清談との関係でもう少し付け加えておく。郭象がどうして「素論」を得ていたかというと、彼が清談で名を馳せたからだろう。家格とか孝、礼の実践とかではたぶんない。そんな郭象が権力ズブズブになっちゃったから、なんだあいつ、口では資本主義廃絶とか言っておいてやっていること金まみれじゃねえかよってなったわけですよね。つまり、彼の清談を評価する層と、「素論」を形成する層とはいっしょってことだよね。「素論」自体が清談を好む層によって形成されているならば、双方の基底に横たわる価値判断も共通していて当然だろう。<br/>
応詹の上疏も思い出してほしい。そこでは、「素論」や「世望」による評価が、「游談」基準の評価とも言い換えられていた。「游談」という並びは浮華的な活動を連想させるのだが、はたして応詹は老荘や放達の流行こそ永嘉の乱を招いたとの考えを保持しているのであって<a name="201901204b"><a href="#201901204">[4]</a></a>、その姿勢がこの疏でも貫かれているとみなすべきだろう、近年流行の人物評価指標で政治を回してもなんにもいいことないですよ、みたいな。こうして考えていくと、応詹の疏に見える「素論」は「游談」すなわち浮華の活動のひとつとなるだろう。<br/>
応詹の疏に留まるかぎり、この連関は応詹の主観である可能性を排去できない。しかし、上の郭象の事例が加わると、応詹の言葉の使い方はあながち正当性を欠いたものだと言えないようである。<br/>
<br/>
***<br/>
これまで、「素論」は与論すなわち清議との距離が近いこと、老荘的な言論活動とはなんらかの関係性をもつことを確認してきた。<br/>
これで応詹の疏がすっかり解決するかと言えばそんなことはない。最初にさらっと触れたが、応詹の疏では「素論」が「旧望」と対になっているのである。これをどう考えたらよいだろうか。<br/>
<br/>
そこで次に取り上げたいのが、漢語大が(1)の用例に挙げる『文選』巻40所収の任昉「百辟勧進今上箋」である。該文には「道風素論、坐鎮雅俗」とあり、確かにこれは「猶高論」で良さそうだ。だが、これはわりとどうでもいい。注目したいのは李善注である。<br/>
<br/>
<blockquote>王隠晋書、「劉琨表曰、『李術以<b>素論門望</b>、不可与樵采同日也』」。</blockquote>
<br/>
任昉の文と、李善の注引する文とが同一の語用であるように見えないのが少し不安なのだが、そこは気にしないでおきましょう。<br/>
見られるように、劉琨の表(勧進表かな?)では「素論」と「門望」がセットで用いられている。応詹伝の用例とピッタリではないか!<br/>
李術の素性が不明なのと、「同日」がどういうことなのかわからないので、劉琨の表現を精確に日本語で置き換えられないのだが、おおよそ「李術は『素論』と『門望』があるので、そこらの薪拾いさんといっしょにしないでください」というカンジでしょう。<br/>
そもそもこれまで、「素」というのがいったい何を指しているのか、明確な言及を避けてしまっていた。「素論」が「清談」と対であるかぎりでは、「素」は「清」とほぼ同義と見なしてさしつかえないだろう。しかし一方で、「世」や「門」と対になるということは、「もともとの」というニュアンスなのだろうか。だがこれはこれで「もともとの論」って何なんすか。<br/>
よくわからないですけど、「素」を「旧」や「門」とひもづけて理解しなくてもいいんじゃないかという気がします。「清議」とか言うじゃん、あれとおんなじ感覚でいいんじゃないすか。<br/>
<br/>
***<br/>
まあこういういろいろな問題はやる気をはじめとする複雑な事情ゆえに放棄せざるをえないんですが、それにしてもこれまでの用例ほぼすべてで共通している点がある。それは「素論」が「自分に対して向けられる言論活動」であるという点だ。郭象伝にあるように、清談については「するのが得意」とか「好き」とか、その人物の「スルコト」としての用例が目立つ。対して「素論」はと言うと、「素論が得意」なんて例は見つからず、「素論を失った/によって評判を落とした」みたいなのばかりである。まあ用例が少ないので、あまり厳密な主張をするつもりはないが、用例の傾向性からみて、やはり「素論」は「与論」の意で取って大過ないし、字義を踏まえると「清議」と同義くらいに考えていいんじゃないですかね。で、その与論はどこから出てくるかというと清談をしている連中からって感じなんでしょうか。<br/>
<br/>
応詹の疏はどう読んだらいいかというと、官僚の成績いかんに関わりなく、「世」や「士」の言論活動が官人の位の進退を左右している、と言っているんじゃないかな。「官に就いて成績を上げたとしても、『素論』を理由に降格させられてしまいます」とは、「『素論』を得なければ/で評価されなければ、成績を上げたとしても降格となる」。え? そんなもんふつうに読めばわかるだろ? またまたそういうのやめてくださいよお。<br/>
ちなみにだが、この応詹の認識ないし主張の扱い方は注意を要するだろう。応詹の言うことに従えば、人事は不公平におこなわれているように思えるが、実際は応詹の認識が一方的なだけかもしれない。またかりに応詹の認識したとおりが実態であったとしても、そういう運用がされているということと、そういうふうに定められていたこととは混同しないようにしなければならない。それに吏部の銓衡は家格のみで決定されていたわけではなく、「その人物の才能、血筋、年齢、官爵などが考慮され」<span class="sm">(川合安『南朝貴族制研究』、p. 235)</span>、「人物の統合的評価」<span class="sm">(中村圭爾『六朝貴族制研究』風間書房、1987年、p. 346)</span>が重視されたという。そうであるならば、「素論」を踏まえた官人の評価は通常の銓衡と言えるのであって、応詹の主張――実績だけを問うべきだ――は不正の糾弾というより、現行の人事方法では現在の政治的・社会的問題に対処できないとの認識から発した、根本的な改革要求だとみなせるだろう。<br/>
<br/>
こういうわけで、「なんとなくわかった気もするけど、よくわからん気もする」というのが本記事の結論です。最後にお伝えしなければならないのは、先行研究はまったく確認していませんということです。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
――注――<br/>
<p><a name="201901201">[1]</a>原文は「長史」だがどうしてここで唐突に長史なのか、そもそも何の長史なのか、長史一般なのか、いろいろとよくわからないので、ここは「長吏」(県令長)の誤字だろうと独断して読みました。<SPAN class="sm"><a href="#201901201b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201901202">[2]</a>『宋書』蔡廓伝附興宗伝「時上方盛淫宴、虐侮群臣、自江夏王義恭以下、咸加穢辱、唯興宗以方直見憚、不被侵媟。尚書僕射顏師伯謂議曹郎王耽之曰、『蔡尚書常免昵戯、去人実遠』。耽之曰、『蔡予章昔在相府、亦以方厳不狎、武帝宴私之日、未嘗相召、毎至官賭、常在勝朋。蔡尚書今日可謂能負荷矣』。」<SPAN class="sm"><a href="#201901202b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201901203">[3]</a>川合安氏は、東晋末年の謝方明が劉裕・劉毅双方の派と距離を置いていたことを「権力闘争に際して傍観者的態度を採る姿勢」と指摘し、この姿勢は「蔡廓やその他の名族出身者官僚にも共通していた」とする<span class="sm">(同氏『南朝貴族制研究』汲古書院、2015年、p. 81)</span>。川合氏が引用する『宋書』巻53謝方明伝には、劉穆之との付き合いを避けていた謝方明と蔡廓が、劉毅派粛清後に訪問したことが記されている。そういう計算高さもあるようなので、蔡廓伝の蔡郭像のみでまじめに判断しないほうがよさそうですね。また、蔡廓の起家官は著作佐郎で、年齢は22歳ごろという上級コースの起家だが、これは彼の学問が加味されての措置らしい<span class="sm">(川合安『南朝貴族制研究』pp. 235, 251)</span>。彼が「時流」から重んじられたのもこうした背景があってのことなのだろう。<br/>
いちおう本記事の立場を説明しておくと、蔡郭が実際としてどういうヤツだったかはそれほど大事ではなくて、あくまで列伝の語りの構成を見ているのみであって、列伝のどの事跡の記述が後文の評価の部分につながるのか、後文の評価は列伝のどの語りの部分を指示しているのか、ただそれだけがわかれば十分ですので、実際上の蔡廓は不問とします。<SPAN class="sm"><a href="#201901203b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201901204">[4]</a>応詹が後軍将軍に任じられて中央に召されたさいの上疏に、「魏正始之間、蔚為文林。元康以来、賤経尚道、以玄虚宏放為夷達、以儒術清倹為鄙俗。永嘉之弊、未必不由此也」とある。<SPAN class="sm"><a href="#201901204b">[上に戻る]</span></a></p>
<br/>
<p class="mb3"></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-48680658085828569352018-09-14T21:19:00.001+09:002018-09-14T21:20:30.633+09:00晋時代の「自随」と「送故」<p class="mb5"></p>
以下の話はひどい勘違いにもとづく妄想である可能性が否めないのだが、気が向いたのでメモも兼ねてまとめておく。<br/>
<br/>
***<br/>
『晋書』巻66陶侃伝附陶称伝<br/>
<br/>
<blockquote>称東中郎将、南平太守、南蛮校尉、仮節。・・・咸康五年、庾亮以称為監江夏・随・義陽三郡軍事、南中郎将、江夏相、以本所領二千人<b>自随</b>。<br/>
<br/>
陶称は東中郎将、南平太守、南蛮校尉、仮節であった。・・・咸康5年、庾亮は陶称を監江夏・随・義陽三郡軍事、南中郎将、江夏相とし、陶称がもともと統率していた二千人を<b>「自随」</b>とさせた。<br/>
</blockquote>
<br/>
『晋書』巻81桓宣伝附桓伊伝<br/>
<br/>
<blockquote>桓沖卒、遷都督江州・荊州十郡・豫州四郡軍事、江州刺史、将軍如故、仮節。・・・在任累年、徴拝護軍将軍、以右軍府千人<b>自随</b>、配護軍府。<br/>
<br/>
桓沖が没すると、桓伊は都督江州・荊州十郡・豫州四郡軍事、江州刺史に転任し、右軍将軍はもとのとおりそのまま帯び、仮節を与えられた。・・・数年在任すると、都に召喚されて護軍将軍に任命された。右軍府の千人を<b>「自随」</b>とし、護軍府に編入した。<br/></blockquote>
<br/>
上のように訳してよいのか心もとないが、ともかく引用したふたつの文には「自随」という語が見えている。<br/>
これはおそらく、字義どおりに読めば「自発的に付き従う」こと、つまり「ボスが異動になったからオレたちも異動するんだ」ということだろう。「以兵自随」とある場合、「兵を率いてみずから従軍する(のを願い出た)」と読むのがふつうだと思うが、上記のふたつ、とくに後者はそのように読めない。そこで先に述べたとおりに解してみる次第。<br/>
<br/>
この語はタームのように用いられていたようにも見えるのだが、確証はないのでその点は措く。<br/>
かりに、前述したとおりの意で読めるのだとしたら、これは前任者の徳を表現しているのであろう。もちろん実際には「オレたちファミリーだろ?」(威圧)、とまではいかなくとも、自発的というほどでも強制的というわけでもなく、といったところでないか。<br/>
<br/>
こういうふうに「自随」を想像していくと、晋代のある慣習が想起される。「送故迎新」というやつである。この慣習にかんする史料としてよく知られている、范寧の議論を見てみよう<span class="sm">(『晋書』巻75范汪伝附寧伝)</span><a name="201809141b"><a href="#201809141">[1]</a></a>。<br/>
<br/>
<blockquote>
地方の鎮が離任するさいは、みな精兵や武器を割譲して送故にしています。(送故される)米や布のたぐいは数えきれません。監察官は容認しており、いままで糾弾したことがありません。なかには(送故を受け取らずに)潔白な者もいますが、そのゆえに(受け取らなかったために)顕彰されたこともありません。兵を送る場合は、多いときは千余家にものぼり、少ないときでも数十戸におよびます。兵力は(?)個人の一門に編入され、さらに官の食糧や布を(個人の)資産にしてしまっているのです。兵役が終わっているのに、法を曲げて良民を服役させ、際限なく引き連れていって(兵員を?)補充しています。もしこの者が功績を挙げた臣であるのならば、すでに封国を授けられているにもかかわらず、どうして封国の外にさらに吏や兵を置いているのでしょうか。考えますに、送故の規則に抑制をかけ、三年を限度にするのがよいでしょう。<span class="sm">(方鎮去官、皆割精兵器仗以為送故、米布之属不可称計。監司相容、初無弾糾。其中或有清白、亦復不見甄異。送兵多者至有千余家、少者数十戸。既力入私門、復資官廩布。兵役既竭、枉服良人、牽引無端、以相充補。若是功勲之臣、則已享裂土之祚、豈応封外復置吏兵乎。謂、送故之格宜為節制、以三年為断。)</span><br/>
</blockquote>
<br/>
文中の「送故之格」という表現は「送故」が法制化されていたことをにおわせてはいるが、「送故」が取り締まられていない状況を范寧が好ましく思っていないことからして、慣習的なものと見なしておくのが穏当だと思う。<br/>
説明されているように、「送故」では兵が送られる、というより兵をそのまま連れて行ってしまう場合もあったようである。<br/>
<br/>
ここで挙げたいのが劉毅である。東晋末、豫州刺史、江州都督であった彼は、義煕8年、劉道規に代わって荊州刺史に転任した<span class="sm">(『宋書』巻2武帝紀中)</span>。なんと劉毅は、江陵への出鎮にあたり、豫州と江州の兵や吏を連れて行ったのだという。『文館詞林』巻662宋・傅亮「東晋安帝征劉毅詔一首」に次のようにある。<br/>
<br/>
<blockquote>すでに(荊州刺史に赴任し)江州都督の職務を解かれ、江州は管轄下でないというのに、(江州の)軍を(荊州の府に)移し、租税の運搬を強奪し、旧来の兵を追い出し、自分の徒党を厚遇している。(江州と豫州の)ふたつの西方の府の、一万に満ちるほどの文武の吏は、みなもとの任地から移して(荊州府に入れ、)留めたままでいるのに、まったく申し出がない。<span class="sm">(既解督任、江州非復所統、撥徙兵衆、略取租運、駆斥旧戍、厚樹親党。西府二局、文武盈万、悉皆割留、曾無片言)</span><a name="201809142b"><a href="#201809142">[2]</a></a><br/></blockquote>
<br/>
さらに『宋書』武帝紀中では次のように記されている。<br/>
<br/>
<blockquote>及西鎮江陵、豫州旧府、多割以<b>自随</b>。<br/>
<br/>
劉毅が西に行き、江陵に駐屯すると、前職の豫州の府から多くの人員を割譲して<b>「自随」</b>とした。<br/></blockquote>
<br/>
兵らの割譲は「自随」であったようだ。<br/>
<br/>
史料中に明言がないため、劉毅のこの行動が「送故」であったとは断言できない。<br/>
<br/>
が、関係あるってことにしておこう。そうしないと話が進まないからね。<br/>
<br/>
つまり、「送故」の名目で「送兵」といっても、それは一方で「自随」でもあったと考えられるのである。そうだとすれば、「送故」は慣習といっても、それは前任者の徳を表現するために、「自発的に」なされたものという名分を有していることになろう。西晋末から東晋初ころの状況を述べたと思われる虞預の議論に次のようにある<span class="sm">(『晋書』巻82虞預伝)</span>。<br/>
<br/>
<blockquote>
このごろの長吏(地方の行政長官)の多くは出入りが激しく、送故と迎新が道路で交錯するありさまです(?)。迎えを受ける者は船や馬が少ないことだけを心配し、送り出される者は吏や卒がいつも少ないことだけを不満に思っています。贅沢をきわめて費用をかけることを忠義と言い、煩瑣なことを省いて簡潔に従うのを薄俗と呼び、ますますたがいにまねしあい、(そうした風習に)移り変わって(もとに)戻ろうとしません(?)。恒久の対策があるとはいえ、遵守されることはありません。<span class="sm">(自頃長吏軽多去来、送故迎新、交錯道路。受迎者惟恐船馬之不多、見送者惟恨吏卒之常少。窮奢竭費謂之忠義、省煩従簡呼為薄俗、転相放效、流而不反、雖有常防、莫肯遵修。)</span><br/>
</blockquote>
<br/>
「吏卒之常少」は、「送故」として送られる吏や卒を指すのだろうと読んでみた。いまいち自信がないが。<br/>
「見送者」がそれの少ないのを「恨」むのは、みずからに徳がそなわっていないのを外に示してしまうようなものだからであろう。<br/>
<br/>
***<br/>
さて、ここで話はまた冒頭に戻るというか一転するのだが、桓伊について気になることがある。<br/>
護軍将軍への転任にあたって、前職の右軍府の兵士らが「自随」したというのだが、その右軍府の兵士らはいったいどこにいたのだろうか。<br/>
いうまでもなく、右軍将軍は内号将軍、宿衛の将軍であって、その営兵はもちろん宿衛の士である。<br/>
江州刺史でもあった桓伊はマジで州に赴任しているっぽいのだが、右軍の兵士も江州に駐留していたのだろうか。それとも右軍府だけはそのまま都に留め置かれていたのだろうか。そもそも内号将軍が同時に方伯に出るというのはなんなのだろうか。<br/>
<br/>
気が向いたらちゃんと調べてみようと思うが、とりあえず中央研究院の漢籍電子文献を使って「右軍」で検索をかけてみた。すると、王羲之は会稽内史、右軍将軍であったそうだ。ふつうにあることだったのかな。<br/>
だがもちろん、右軍は宿衛の軍である。『晋書』巻63郭黙伝。<br/>
<br/>
<blockquote>(郭黙は)召されて右軍将軍に任命された。郭黙は辺境の将軍になるのを望んでおり、宿衛は希望していなかった。(右軍への)召喚に応ずるにあたって、平南将軍の劉胤に言った、「私は胡の防衛に適しているのに(その任に)用いられない。右軍将軍は禁兵を統率する職であるが、辺境で事件が起こったときは出征にかりだされ、そのときになってはじめて(兵士が)与えられるのであって、将軍と兵士のあいだに基盤がないのだから、(たがいへの)信頼がなく、このさまで敵にあたろうものなら、敗北を逃れるのは難しいだろう。・・・」<span class="sm">(徴為右軍将軍。黙楽為辺将、不願宿衛。及赴召、謂平南将軍劉胤曰、「我能御胡而不見用。右軍主禁兵、若疆埸有虞、被使出征、方始配給、将卒無素、恩信不著、以此臨敵、少有不敗矣。・・・」)</span><br/>
</blockquote>
<br/>
郭黙の言葉を上のように読めるのかひじょうに自信がないが、右軍将軍が都において宿衛を務める職であったのは確かであろうし、右軍の営兵も基本的には中央にいたのだろう。両者の関係については郭黙の言葉をヨリ厳密に読んでみなければならないが。<br/>
<br/>
という、そういう覚書でした。なんか感覚やら言語力やら思考力やら集中力やら、さまざまなものの衰えをすごく感じる。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
――注――<br/>
<p><a name="201809141">[1]</a>陳先生か周先生か唐先生か、どなたかに関連する研究があったはずなのだが思い出せないし、いますぐがんばって探そうという気にならないので先行研究は引用できなくてすいません。。<SPAN class="sm"><a href="#201809141b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201809142">[2]</a>なお『晋書』巻85劉毅伝に「毅至江陵、乃輒取江州兵及豫州西府文武万余、留而不遣」とあり、表現が類似していることから、この列伝の文は詔をふまえて練られた可能性がある。したがって、『晋書』で江州のほうだけ「兵」がついている点や、「豫州西府」と記されている点について、詔を雑に圧縮したために生じた表現と見なし、重視しない。『文館詞林』所収の詔を引用するゆえんである。<SPAN class="sm"><a href="#201809142b">[上に戻る]</span></a></p>
<br/>
<p class="mb3"></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-70095440021877323192018-06-17T22:18:00.001+09:002018-06-17T22:18:10.025+09:00王敦と劉隗の応酬<p class="mb5"></p> 晋書・劉隗伝に記されているエピソード。<br />
王敦が劉隗に「君や周生(顗)と協力してがんばりたい」(大意)って書簡を送ったら、劉隗から<br />
<br />
<blockquote>魚相忘於江湖、人相忘於道術。竭股肱之力、効之以忠貞、吾之志也。</blockquote><br />
って返答がきて王敦がキレたというのだが、どうして王敦がキレたのかわからなくてこっちがキレそうになっていた。<br />
で、多少はまとまりがついたので、せっかくだし久々にブログにしてみた。<br />
<br />
胡三省によると、「魚相忘於江湖、人相忘於道術」は荘子・大宗師篇にもとづいた表現であるらしい。「湖が枯れて陸に上がった魚はたがいに水分をかけあったりするが、それよりも湖でたがいの存在を忘れて気遣わずにいるのがよい。人は天子を褒めたり批判したりするが、それよりも善悪を忘れて道と一体化しているのがよい」というのが該当箇所の文意だが、郭象は「魚は不足があるとたがいを思いやるが、余裕があれば気遣わない。褒めたり批判したりするのも不足に起因しているので、充足したら善悪など忘れる」と注している。<br />
めんどくさいので原文は引用しないが、たしかに胡三省の言うとおり、ここを意識した言葉であろう。さらに郭注で示される解釈はポイントっぽい気がするので、これを踏まえるのがよさそう。<br />
また、江湖の魚も道の人も、どちらも自分(あるいは東晋)を指すと思われる(とくに前者はぴったりの比喩だ)。<br />
<br />
うしろの「竭股肱之力、効之以忠貞」にかんしては、胡三省は晋の荀息という大夫の言葉だと言っている。左伝・僖公九年にたしかに見え、さらに荀息は「忠とは云々、貞とは云々」ということも語っているので、これにもとづけば「之を効すに忠と貞を以てす」と読むのがよいのだろう。<br />
ただ、同様の言葉は諸葛亮が劉備臨終時にも言っており、そっちを意識したのかもね(ちなみに文言上では左伝ではなく蜀書と一致している)。<br />
問題は、どっちにしてもそれらの歴史的な文脈を有した典故表現なのかがわからないこと。<br />
現段階ではわかんないので、典故とはみなさなかった。胡三省が典故と言っているから言及した。<br />
<br />
で、以上をまとめてみた試案は以下のとおり。<br />
<br />
<blockquote>江湖の魚は他の魚を気にしていませんし(足りているのであなたのお気遣いやご協力は不要です)、<br />
道のうちにある人は善悪を気にしません(不満はないので誰それが嫌いとかくだらない話ですね)。<br />
全力で忠と貞を尽くすことが私の志です(あなたが嫌いだから行動しているのではなく、ただ忠誠を尽くしているだけです、そしてあなたは険悪な二人とも協力して力を尽くしたいと言っているのですが、私ははじめから力を尽くすことしか考えておらず、険悪とか和解とかどうでもいいです)。<br />
</blockquote><br />
こういう意味なら王敦はキレるよね、というのを意識して考えてみた。<br />
つまり、王敦は劉隗に「和解しようよ」って言ったんじゃないかって読み方になる。<br />
頭の中で整理してこんな感じで多少は納得したけど、あまりにうがった読み方な気もするし、けどこいつら知識人だしなあ・・・。別案あったら教えてください。<br />
<p class="mb3"></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-24253824852797144782017-12-31T01:10:00.000+09:002018-01-07T00:13:09.840+09:00書物消尽の歴史――隋書牛弘伝「請開献書之路」<p class="mb5"></p>
さいきん史学史について整理してみようと思い立って、その一環で目録を学んでいる。<br/>
で、その基礎史料となると隋書経籍志(以下、たんに隋志)や班固の芸文志、さらに梁の阮孝緒が編纂した目録『七録』の序文(広弘明集巻3引)、そして牛弘が「開献書之路」を請うた表文が主なもの、というかこれくらいしかたぶんなく、それでこれら史料に目を通しつつ、『隋書経籍志詳攷』(興膳宏・川合康三、汲古書院、1995年)のような専門書も読み進めるみたいな感じでやってる。個人の近況とかどうでもいいですね、ごめんなさい。<br/>
本記事では牛弘の表文を訳出し、若干のコメントを加えた。訳文は多く意訳し、また注は細かくつけなかった、というか気が向いたらつけた。<br/>
<br/>
***<br/>
開皇のはじめ、散騎常侍、秘書監に移った。牛弘は書籍が失われるのを憂慮し、上表して書物献上の道筋を開くよう要望した。<br/>
<br/>
<blockquote> 書籍には古い由来があります。爻の記号は庖羲に発明され、文字は蒼頡に考案されました。記号や文字は、聖人が教えを広め、古今のことに通じる方法であり、また「政治の決定を王庭で公然と示」したり<a name="201801071b"><a href="#201801071">[1]</a></a>、「(優秀な人を求めて)中華に語りかける」<a name="201801072b"><a href="#201801072">[2]</a></a>手段でありました。堯は至聖と称えられましたが、それでも古道を調べてそれを遵守しておりましたし<a name="201801073b"><a href="#201801073">[3]</a></a>、舜は大智と評されておりますが、それでもいにしえの服制における服の図像を明らかにしようとしました<a name="201801074b"><a href="#201801074">[4]</a></a>。周礼によれば、外史は三皇五帝(三墳五典)の書物と諸侯の記録を管轄しています<span class="sm">(春官。訳は鄭玄注に拠っている)</span>。武王が黄帝や顓頊の道を尋ねると、太公は「丹書に書いてあります」と答えました<span class="sm">(『大戴礼』武王踐阼)</span>。これらからわかりますように、符を授ける権限を有し<span class="sm">(原文「握符」)</span>、暦を支配し<span class="sm">(原文「御暦」)</span>、国家を統治する者は、必ず詩や尚書で教化をおこない、礼楽を拠りどころにして偉業を打ち立てたのです。<br/>
むかし、周の徳が衰えると、ふるい書物は乱され、棄てられました。このようなとき、孔子は大聖の才能を発揮して素王の事業を創始しました。文王、武王にのっとり、堯、舜の道を伝え述べ<a name="201801075b"><a href="#201801075">[5]</a></a>、礼を整理し、詩を取捨し、五つの始まり<a name="201801076b"><a href="#201801076">[6]</a></a>を正して春秋を編集し、十翼を著して易を明らかにしました。国を治め、自らの身を立てるにあたって、模範となるものをつくり伝えたのです。しかし、始皇帝が天下を統べ、諸侯を併合するにいたって、軍事力に頼るのみで、政治はいにしえを手本とせず、かくして焚書の令を下し、偶語<span class="sm">〔詩や書などについて語りあうこと〕</span>の刑が実施されたのです。そうして先王の書籍は一掃されてしまいました。このように根本部分が先に失われていたため、秦は転覆したのであります。予言めいた言い方をいたしますが、書籍の興廃はその国家の行方を示しています。この秦の焚書が、書物の災禍の一つめです。<br/>
漢は秦の弊害を改め、儒を重んじ、書物を所蔵する台閣(?)を建て<a name="201801077b"><a href="#201801077">[7]</a></a>、書物を研究する官を設けました。すると、山の洞穴や旧宅の壁など、あちこちから隠されていた書物が現れてきました。書物を保管する場所としては、宮城外に太常、太史の書庫、宮城内に延閣、秘書がありました。ですが、成帝の時代になっても、失われた書物がいまだに多いため、謁者の陳農を天下に派遣して捜索させ、劉向父子に書籍を校訂させました。このとき、漢の書籍はもっとも充実していました。王莽の末年になって、長安で戦争が起こると、宮室の蔵書は焼き尽くされました。これが書物の災禍の二つめです。<br/>
光武帝が漢を中興すると、とりわけ儒の経典<span class="sm">〔原文「経誥」。用例から経書を指すと思われる〕</span>を尊重し、まだ戦争が終わらないうちから作文の巧みな者たち<span class="sm">〔原文「文雅」。自信なし〕</span>を探し求めました。こうして、大勢の優れた儒学者があいついで集まったのであり、書物を抱きかかえたり背負ったりして、距離を省みずにやってきました。粛宗(章帝)はみずから講義に出席し<span class="sm">〔出典捜索中〕</span>、和帝はしばしば書庫を訪問していました<span class="sm">〔出典捜索中〕</span>。蘭台、石室、鴻都、東観には蔵書がいっぱいに積まれており、前代の倍の量になっていました。ところが、献帝が長安に遷都するさい、朝廷も民衆も混乱し、書籍の材質であった絹は帳やふくろに使われてしまいました。それでも、残ったものを集めれば車70余乗ほどで、それを長安に運びましたが、そこでも戦乱が起こると、たちまちに焼尽してしまいました。これが書物の災禍の三つめです。<br/>
魏の文帝が漢から禅譲を受けると、書籍の収集につとめ、すべて秘書府と宮城内外の三つの台閣に所蔵し<a name="201801078b"><a href="#201801078">[8]</a></a>、秘書郎の鄭黙に前代までの書籍を吟味させました。当時の世論は、彼の仕事によって書籍に朱と紫の区別がつけられた<span class="sm">〔似たものにハッキリ区別がつけられた〕</span><a name="201801079b"><a href="#201801079">[9]</a></a>ことを称えました。晋氏が魏を継ぐと、書籍はいよいよ増大しました。晋の秘書監の荀勗は魏の『内経』(『中経』)を整理し、さらに『新簿』を作成しました。ふるめの書物は<span class="sm"><del>失われて減っていたようですが</del></span>欠損本もあったようですが、新しめの書籍は非常に多く収集されており、正道を広め、当世を導くには十分でした。ですが、ちょうどそのようなときに劉氏と石氏が跋扈して、中華が壊滅したため、国家が所蔵していた書籍は失われてしまいました。これが書物の災禍の四つめです。<br/>
永嘉の乱ののち、賊がつぎつぎと出てきて、中原を占拠したり、関中や河北に跋扈したりしました。賊の国家を調べてみるに、その僭号こそ記録に残っていますが、法制<span class="sm">〔原文「憲章」〕</span>や礼楽の整理事業となるとまったく記述がありません。劉裕が姚氏を平定したさい、その蔵書を接収しましたが、五経、諸子、史記(歴史)の書物は4000巻ほどしかなく、すべて赤い軸木に青い紙であって、書体は古風で味気なく、つたないものでした。賊のうちでも前秦、後秦がもっとも栄えましたが、このことからその様子がわかりましょう。<span class="sm"><del>ともかくこうして、</del></span>ここからわかりますように、礼物、図像、記録の類い<span class="sm"><del>で</del></span>は、<span class="sm"><del>賊のうちを流浪していたものはすべて江南に収められたわけです</del></span>晋が移ったさいに、すべて江南へ収まったわけです(なので、長安には図書が少なかったのです)<span class="sm">〔余嘉錫『目録学発微』邦訳p. 227を承け、修正する――2018/01/06〕</span>。晋宋の時期は学術が拡大し、斉梁の時代になると経学と史学がますます盛んになりました。宋の秘書丞の王倹は劉氏の『七略』に倣って『七志』を編纂し、梁の阮孝緒も『七録』をまとめましたが、『七録』に記録されている書籍の総数は3万余巻にものぼります。侯景が長江を渡って梁を転覆させるや、それら秘書省の蔵書は戦火に巻き込まれてしまいましたが、文徳殿の蔵書は免れ、そのまま残っていました。元帝は江陵に拠っていましたが、将軍を派遣して侯景を平定させると、文徳殿の蔵書と公私に保管されていた書物や貴重な本<a name="2018010711b"><a href="#2018010711">[追記1]</a></a>、合計で7万余巻を集め、荊州に送らせました。江南の書籍はことごとく元帝のもとに集められたのです。ところが、周の軍<span class="sm">〔原文「周師」〕</span>が江陵に入城するに及ぶと、元帝は外城で書籍をすべて焼いてしまい、残存したのはわずか一、二割ほどでした。これが書物の災禍の五つめです。<br/>
北魏は遠い北方<span class="sm">〔原文「幽方」〕</span>から中原に移ってきましたが、収集に力を割けず、蔵書は少ない状態でした。関西で創業した周は戦争が続いていました。保定<span class="sm">〔武帝の元号〕</span>のはじめ、書籍は8000巻ほどでしたが、徐々に収集してゆき、1万巻にまでいたりました。山東を領有していた斉も、当初は収集をしていましたが、そこで編纂された目録を調べてみると、<span class="sm"><del>収集の不足が多いようです</del></span>残欠の記録が多く目につきます。周が関東を平定すると、斉の蔵書を接収しましたが、四部で重複する書籍が多く、総数こそ3万余巻ありましたが、周の蔵書は5000しか増えませんでした。<br/>
いま、わが朝の書籍は総数1万5000余巻ございますが、<span class="sm"><del>書物の数には依然として不足があり</del></span>蔵書には残欠が依然あり、また書物の数を梁の目録と比較してみると、わずか半分しかございません。陰陽・河洛<span class="sm">〔河図のこと。総じて讖緯類を指す〕</span>や、医方・図譜<span class="sm">〔おそらく図表類〕</span>の書籍にかんしては、いっそう量が減っています。臣が書籍について考えますに、孔子から現在にいたるまで千年が経ち、その間に五度の災厄に遭ってきましたが、それを乗り越え、集まっていく時期は聖人の世にあたっています。思いますに、陛下は天命を受け、天下に君臨しており、功は比類なく、徳は上古にまさっています。中華が分裂し、道理が崩壊して以来、覇王がかわるがわる現れたものの、世の混乱はおさまらず、そうした時期にあっては儒を尊重しようと思ってもできるわけではありません。ですがいま、領域は三王よりも広く、人口は漢よりも多く、人が足りていて時も来ているとはまさに当今のことなのです。ゆえに、教化を押し広めて、民を太平に導くべき時なのですが、書籍に収集漏れがあるままとしておくのは、下々が御心を仰いてひとつに合わせ、訓戒を後世に伝えていくに適切な状態ではありません。臣は記録や書籍を管理しておりますため、寝ても覚めても不安でなりません。むかし、陸賈が高祖に「馬上から天下は治められません」と言いましたが、国家を切り盛りし、政治をしっかりさせるのは書籍にかかっているわけです。これ以上の国家の根本はございません。いまの蔵書はひととおりそろってはいますが、現代に存在している書籍はすべて備えておくべきです。朝廷にはないが民間にはある――そのようであってはなりません。とはいえ、民の数は多く、蔵書の捜索は困難でしょうし、かりにわかったとしても、多くの民はしぶることでしょう。ですので、朝威で強制したり、褒美で誘ったりする必要があります。もし詔を多く発し、加えて賞金もかければ、珍しい書籍が必ず届いて台閣に積まれましょう。かくして、道を尊ぶ風潮はこれまでになかったような篤さをもつでしょう。なんと良いことでありませんか。どうかわずかばかりのご配慮を下してくださいますよう、陛下にお願い申し上げます。<br/></blockquote>
<br/>
文帝はこれを聴き入れ、詔を下し、書物一巻の献上につき絹一匹を与えることとした。すると、一、二年のあいだに蔵書はおおいに整った。<br/>
<br/>
***<br/>
書物が散佚の憂き目に遭いつつ、他方で収集整理に傾けた人々の努力で生き延びてきた過程が、ひとつの歴史として構想され、物語られている。<br/>
<br/>
魏晋南朝(元帝以前)は『七録』序を参考に叙述が構成されているが、それ以外の箇所、すなわち五胡、梁元帝、北朝については牛弘以前にさかのぼる史料を得られない。隋志・史部簿禄類を見ても、北朝が作成した目録は非常に少なく、当然『七録』レベルの総括的なものは存在しなかったはずである。牛弘以前には五胡北朝、また元帝以後を概括するような文章ないし情報整理はされていなかったのではなかろうか。隋志・総序でも先ほど挙げた時期は牛弘の表文に大きく拠っているので、希少な情報がここで提供されていると見なしてよいと思われる。<br/>
<br/>
それでは、牛弘は当該時期の情報をどのように知りえたのだろうか。<br/>
まず元帝。帝が焼いた書物の総数については異同があり、『南史』元帝紀には「聚図書<b>十余万巻</b>尽焼之」、隋志には「元帝克平侯景、収文徳之書及公私経籍、帰于江陵、大凡<b>七万余卷</b>」とあり、双方について資治通鑑考異は「隋経籍志云焚七万巻、南史云十余万巻。<b>按周<span class="sm">〔王〕</span>僧弁所送建康書已八万巻、并江陵旧書、豈止七万巻乎</b>、今従典略」と、「十四万巻」と記す『三国典略』が妥当と論じる。なお牛弘の表文は「遣将破平侯景、収文徳之書及公私典籍重本七万余巻、悉送荊州」とあり、隋志の記述に近い、というか隋志が牛弘にもとづいて記述を構成していることがわかる。<br/>
司馬光が言うように、『南史』侯景伝に王僧弁が8万巻の書籍を建康で収集して江陵に送ったことが記されているし、『隋書経籍志詳攷』は『金楼子』を引いて元帝が害される前年の蔵書数が8万巻であったことを指摘していて<span class="sm">(pp. 25-26、注18)</span>、やはり『三国典略』の記述が妥当のようである。<br/>
しかし、隋志にしても牛弘にしても、非常にややこしい書き方になってはいるものの、よく読めばそこに書いてあるのは「建康に送った書物の総数」であって、元帝が焼いた数ではない。で、伝送された書物の数については『南史』侯景伝と大幅な違いはない。つまり、他書と異同があることを記しているわけではないし、焚書の総数を考察するに論難するべき対象でもない。司馬光が誤読してナンセンスな批判を広げていただけである。<br/>
とはいえ、これは牛弘にも問題がある。彼は「いかに多くの書物が存在したか、あるいは失われたか」を数字を挙げることによって強調する戦略を採っているわけだが、元帝の箇所については、建康で集めた書籍の総数のみを言い(つまりいかに多かったかを叙述し)、焚書の数に言及していない。牛弘の叙述戦略を踏まえていれば、「建康の7万巻が当時の南朝の書籍総数であり、元帝の蔵書もこの数で、これをすべて焼いたのだ」と読むのがむしろ自然かもしれないし、実際、牛弘自身はそのつもりで書いているのかもしれない。<br/>
とまあ、そんな感じのことに気がついたから言いたかっただけで、とくにまとまりはないですごめんなさい。『隋書経籍志詳攷』<span class="sm">(p. 25)</span>によれば、元帝焚書に言及するもっとも早い史料は顔之推「観我生賦」だが、とくだん牛弘に影響を与えているように見受けられないので、牛弘は独自に収集した情報にもとづいているのかもね。<br/>
<br/>
次に五胡北朝の記述。五胡、というか後秦のくだりだが、あれは南朝でつくられた目録が情報源だと思う。広弘明集に引かれている『七録』の序が節略なのかどうかよく知らないけど、そこに記述されていてもおかしくない話ではある。<br/>
興味を惹くのは北朝の話題で、北朝ではあまり目録学が栄えなかったそうだから話すこともとくにないようで、なので簡素な記述になってはいるものの、だからこそこうした統括的な叙述が貴重になる。牛弘は北周の蔵書の増加具合を詳しく書いていてくれているし(北斉平定時の増加数とか)、北斉の目録も実見したそうだから、なかなか信頼が置けそうである。<br/>
そもそもどうして牛弘がこんなに具体的に書けているのかというと、彼の経歴に関係があるように思われる。彼は北周で起家し、中外記室府、内史上士に就き、その後、「専掌文翰」という納言に転じ、威烈将軍、員外散騎侍郎を加えられ、「修起居注」という。どの職が何に相当するのかさっぱりわからんが、起居注の整理に関わっていたりするので、著作や秘書に相当する職に従事していたのではないか。というか、そういうことにしておこう。<br/>
ようするに、「周の蔵書は武帝以降、だんだんと増えてきたんよ」とか「斉の目録を見たら最初はがんばっていたようなんだけどねえ」とか「でも斉の蔵書は周の蔵書とかぶりが多くてあんまり増加に益しなかったわ」とか言っているのは、牛弘自身が北周の秘書管理や北斉の図書整理に携わっていたからではないだろうか。隋が建って秘書監に任じられたのも、そうした経験を買われてのことでないだろうか。となれば、先ほどの元帝の話も、そうした経験が活かされているのかもしれない。起家は早くて武帝のはじめころだと思われるので、焚書は実見できていないはずだが、当時の記録があればそれを閲覧できただろうし、北方に連れられていった南朝人士ら――顔之推がまさにそうだが――から取材をすることだって可能だろう。<br/>
ちなみに、隋志だと北朝、とくに北魏の記述は牛弘の表文よりも詳しく、なので別に牛弘をそんなに高く買う必要なくないかとか思われるかもしれないが、史書の一般的な体例からして、列伝に掲載されている章奏が節略である可能性を排除できないので、一概にそうは言えない。隋志はやっぱりぜんぶ牛弘の表文の丸写しかもしれない。同じ隋書なのにそんなことあるのかと思われそうだが、隋書の志は隋書の志というより五代史の志として別途編集されているので、そんなことがあってもおかしくないように思います。<br/>
<br/>
そういう具合に牛弘の経験が活かされている文章だと思うよ!って報告したかっただけでした。<br/>
<br/>
***<br/>
さすがにそれで終わるわけにはいかないのでもうちょい気になったことを書いてみる。牛弘が「すっげえ数が減ってる」と言っている書物のこと。<br/>
牛弘が挙げている分野のうち、陰陽、河洛、医方は従来まで術技・術数に分類されてきた書籍で、図譜は分類に試行錯誤を重ねられていたジャンルである(王倹『七志』は独立して一分類としたが、阮孝緒はそうするべきでないとし、図譜が対象としている分野に配した)。<br/>
ここで注意したいのは術技類のほう。隋志というと、史部・集部の創設・体系整理といったところについ目がいってしまうのだが、『隋書経籍志詳攷』は術技書の動向にも注意を促している。同書によれば、隋志の子部全体で術技が占める割合は、実数で部数の約79%、巻数で61%を占め、「実質上は『七録』の術技録に属していた書が圧倒的な優位を占めているのである。・・・先秦以来の諸子の学は、・・・実は術技系の書に乗っ取られていたというのが正しいかも知れない」<span class="sm">(p. 39)</span>とまで述べる。またこれら術技系の特徴として、似通った内容をもつ書物が大量につくられたと想像され、そのことが目録の記述に混乱をもたらしていると考えられること<span class="sm">(pp. 39-42)</span>、宋史芸文志においても術技は一貫して増大していること<span class="sm">(pp. 42-43)</span>、新陳代謝が激しいため、後世に伝わるものが非常に少ないこと<span class="sm">(pp. 39-43)</span>、を挙げている。<br/>
ここからはあくまで私の想像だが、術技系というのは全部が全部そうとは言い切れないだろうが、ようするにハウツー的なもの、実用書的なもの、そういう類いでないだろうか。技術の発展やニーズに応じて著されるが、細かいものが多く、数年でその役割を終えてしまうけれどそのころにはもう新しいバージョンが出ていて、保管には意を向けられない。<br/>
梁は従来までの四部分類から術数を独立させて五部の分類をおこなっており、また阮孝緒は民間所蔵の書籍も記録したというから、きっとそれらの目録では術技系統が多く列記されていたのだろう。牛弘が隋の蔵書を梁代作成の目録と比べたとき、学問や政治には基礎的な書籍こそだいたいは大丈夫だが、実用的な技術書にかんしてはまったくそろっておらず、技術書への無関心こそが蔵書数のいちじるしい減少の根本原因であると映じたのでないか。<br/>
牛弘は政治的なところから書籍の由来を説いており、その点では常套的な観点に立っている。だが、彼自身は政治や学問や作文に有用という価値づけを前提とせず、あらゆる書物への関心をここで披露しているように見える。書物であればなんでもいいのだ。ここに彼の実直さ、偉さを感じました。<br/>
もちろん、彼とて制約はある。たとえば、『七録』が記録する巻数を3万と表文で述べているが、この数は『七録』の内篇のみに相当しており、外篇すなわち道教と仏教の書籍は除外されている。道仏は王倹『七志』もオマケ扱いだし、隋志では序文のみだから、そうして考えると牛弘の除外も時代の産物であったと言えよう。<br/>
<br/>
牛弘が術技系の書籍が少ないんだよねえと述べているくだりは、それなりの背景があったわけである。ただ、それは『隋書経籍志詳攷』の分析と指摘を俟ってようやくうかがえるような、見えにくいものだった。<br/>
この時期の目録学というか書物の歴史は、もっと広い視点でみないといけないなあとか思いました。<br/>
<br/>
***<br/>
最後に梁元帝。帝が書籍を燃やした場面は、『三国典略』に拠っている『資治通鑑』に詳しく描かれている。<br/>
<br/>
<blockquote>帝は東閤の竹殿(?)に入ると、舎人の高善宝に古今の図書十四万巻を焼かせ、自らも火に飛び込もうとしたが、宮人や左右の者に止められた。また宝剣で柱を斬らせて(わざと)折らせると、「今夜、文武の道はすべて失われた」と嘆息した<span class="sm">[胡注:書を焼いたこと、剣を折ったことを「文武の道が失われた」と言うのである]</span>。・・・ある人が「どうして書籍を焼いたのですか」と尋ねると、帝は「万巻を読んでもこのような有様だ。だから焼いた」と答えた。<span class="sm">(帝入東閤竹殿、命舍人高善宝焚古今図書十四万巻、将自赴火、宮人左右共止之。又以宝剣斫柱令折、嘆曰、「文武之道、今夜尽矣」[焚書、折剣、以為文武道尽]。・・・或問、「何意焚書」、帝曰、「読書万巻、猶有今日、故焚之」。)</span></blockquote>
<br/>
時、西魏軍はすでに江陵の城門を破り、帝は金城を保持するのみであったという。<br/>
<br/>
元帝の悲哀がよく伝わるエピソードなので、ついそっちに注意がいってしまうが、よくよく考えると元帝の焚書はひどい。<br/>
牛弘が言う5つの災厄のうち、3つは戦乱で、混乱のうちにわちゃわちゃしちゃったなあっていう話なのだけど、残り2つ、始皇帝と元帝は、一個人の「書籍を廃棄する」という強い意志のもとなされた焚書であって、ちょっとどうかなあ。<br/>
元帝の行動自体はおそらくだいたいの人が理解しうる、その点で普遍的な感情の表出と言えなくもない。追いつめられて深い絶望に陥ると、それまで救いとなっていたもの、夢を見させてくれていたものに距離を置こうとしたり、あるいは意図的にキライになってみたり、という心の機微は個人的にはわかる気がする。だからつい元帝に感情移入してしまって、一連の出来事を彼の悲劇のように捉えてしまいがちだが、牛弘のように、これは書籍の災難なのだと認識するべきでもある。<br/>
牛弘が歴史を描いてみせたように、書籍はいくつかの戦乱を経ても、収集整理を重んじた人々の尽力により、連綿と伝承されてきた。元帝が愛した書籍はそうして伝えられてきた。元帝はプライベートなコレクションを廃棄した程度に考えていたのかもしれないが、その蔵書群は当代一で、文化的価値は測り知れない。万巻を読破しておきながら、書籍を愛好する一人としてどのような行動を取るべきか思慮を巡らせることができなかったのだとすれば、それは残念だ。元帝にもまた、伝えていく側としての責務があったのではないか。<br/>
<br/>
胡三省もこの焚書を冷ややかに見ているようだ。元帝が書籍を焼いた理由を答えた場面での注、というか感想は簡潔である。<br/>
<br/>
<blockquote>帝の敗亡は読書に原因があるのではない。<span class="sm">(帝之亡国、固不由読書也。)</span></blockquote>
<br/>
絶望に駆られた心意はわかるが、書籍には何の責任もなく、廃棄したのはただただナンセンスで、大きな損害しか生み出していない。胡三省もやはりそう見なしていたのでないかな。<br/>
この簡潔な文に込められた意図を汲み取るのはなかなか容易でない。胡三省の注には、彼の生きた時代や社会への認識が踏まえられており、その現代認識から発した共感や批判が込められている、という指摘がある<a name="2018010710b"><a href="#2018010710">[10]</a></a>。ここの部分もその1つにカウントできるだろう。動きの激しい世情下で資治通鑑に沈潜して生きた胡三省が、元帝の焚書を多少でも擁護するどころか、いっさいの共感すら示そうとしないのは、まあわからんでもない。<br/>
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<br/>
――注――<br/>
<p><a name="201801071">[1]</a>原文「揚於王庭」。『易』夬の卦辞。『漢書』芸文志・六芸略小学類に「易曰、「上古結縄以治、後世聖人易之以書契、百官以治、万民以察、蓋取諸夬」、「夬、揚於王庭」、言其宣揚於王者朝廷、其用最大也」と、文字(小学)の効用を説くに易を引用しているが、後者が卦辞、前者が繋辞下伝。繋辞伝の韓康伯注に「夬、決也。書契所以決断万事也」とあり、本文はこれを踏まえて訳出してみた。夬の卦辞は文字の役割を述べるさいに常用される句であったようだ。<SPAN class="sm"><a href="#201801071b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801072">[2]</a>原文「肆於時夏」。『毛詩』周頌・時邁「我求懿徳、肆于時夏」。鄭箋に「懿、美。肆、陳也。我武王求有美徳之士而任用之、故陳其功於是夏而歌之」。『後漢書』伝52荀悦伝に引く漢紀の序文に「昔在上聖、惟建皇極、経緯天地。観象立法、乃作書契、以通宇宙、揚于王庭、厥用大焉。先王光演大業、肆于時夏。亦惟厥後、永世作典」と、「揚于王庭」とのセットで用例がある。<SPAN class="sm"><a href="#201801072b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801073">[3]</a>原文「考古道而言」。『尚書』堯典「曰若稽古帝堯」の孔伝に「若、順。稽、考也。能順考古道而行之者、帝堯」とある。ちなみに『三国志』魏書4高貴郷公紀・甘露元年条に尚書の講義の記述が見え、高貴郷公が「鄭玄曰、「稽古同天、言堯同於天也」。王粛云、「堯順考古道而行之」。二義不同、何者為是」と問うている。鄭玄は孔伝とまったくちがう読みをしているが、王粛は孔伝と同じ読み方をしているようだ。<SPAN class="sm"><a href="#201801073b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801074">[4]</a>原文「観古人之象」。『尚書』益稷「予欲観古人之象」、孔伝に「欲観示法象之服制」とある。『魏書』巻91江式伝に載せる江式の上表に、この句を含むいくつかの語が引かれたうえで「皆言遵修旧史而不敢穿鑿也」と述べられている。牛弘もかかる文脈でこの語を引いてきたのであろう。<SPAN class="sm"><a href="#201801074b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801075">[5]</a>原文「憲章祖述」。『礼記』中庸「仲尼祖述堯舜、憲章文武」。同句を引く『漢書』芸文志・諸子略儒家類の顔師古注に「祖、始也。述、修也。憲、法也。章、明也。宗、尊也。言以堯舜為本始而遵修之、以文王武王為明法、又師尊仲尼之道」とあるのに従って訳出した。「憲章」はたんに法制を言う例があり、この箇所もそう取れなくないが、「祖述」とセットとなるとやはり礼記の文脈に沿うのが妥当と思う。この上表の後段、後秦のくだりでもこの句が使われているが、そちらは「法制」を指すと思われたのでそう訳出した。<SPAN class="sm"><a href="#201801075b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801076">[6]</a>原文「五始」。字のとおり「五つの始まり」であり、端的には「元年春王正月」と表現される。『漢書』巻64下・王褒伝の顔師古注に「元者気之始、春者四時之始、王者受命之始、正月者政教之始、公即位者一国之始、是為五始」。<SPAN class="sm"><a href="#201801076b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801077">[7]</a>原文「建蔵書之策」。『漢書』芸文志・総序からの引用だが、「策」が不詳。ちくま訳は「竹簡(竹の札)に同じ。ここでは書籍の目録をさす」<span class="sm">(文庫第3冊p. 584、注7)</span>とするが、師古の引く如淳注は「劉歆七略曰、外則有太常、太史、博士之蔵、内則有延閣、広内、秘室之府」と説いており、どう考えても「書庫を建設した」と読んでいる。そして師古はまったくツッコミを入れていないので、おおむね賛同ということなのだろう。「策」をスペースのような義で読むのは難しいような気もするのだが、かといってちくま訳のような理解だと全体がうまく読めないし、ということで今回はいろいろ目をつぶって本文のように訳出した。<SPAN class="sm"><a href="#201801077b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801078">[8]</a>原文「皆蔵在秘書中外三閣」。同様の記述は『七録』序にも見えている。『隋書経籍志詳攷』は「秘書省・中閣・外閣の三ヵ所に収蔵した」と訳出し、注に「「中」は、中書。「外」は、蘭台」と記す<span class="sm">(p. 18)</span>。「外」を蘭台とするのは、『三国志』王粛伝の裴注引『魏略』に「蘭台為外台、秘書為内閣」とあるのにもとづいている。<br/>
だが、この推論過程には疑問も残る。「中外」は「内外」のこと、すなわち中=内で外の対称の意で解すべきであり、晋の中軍が内軍と呼ばれることも念頭に置かねばならない。中=中書という結論を出すのならば、中閣=内閣が中書を指している例を論拠に据えるべきである。これでは、中の字から中書と解しているように見えてしまう。が、いま述べたように、ここの中は内の意と取るのが適当なので、その読み方はできない。<br/>
また、たしかに『七録』でも「在秘書中外三閣」とあるものの、書庫としての「三閣」については阮孝緒以前にさかのぼる記述も存在する。『太平御覧』巻224職官部32校書郎に引く「晋令」がそれで、「<b>秘書郎掌中外三閣経書</b>、覆校闕遺、正定脱誤」とある。おそらくこの晋令に拠っているからなのであろうが、通典でも「三閣」「中外三閣」としか記していない。『隋書経籍志詳攷』は秘書・中(中書)・外(蘭台)が「三閣」だと解したのだが、晋令の記述の仕方を見るに、そのような理解を採るのは難しいように思う。晋令の記述に従うのならば、「中外の三閣」と読むのがよく、そして「中外」とは前述したように「(宮城の)内外」の意であり、その「三閣」とは注 [7] に掲げた如淳注に引く「七略」に「外則・・・、内則・・・」とあった如く、内外全体で書庫となる台閣が三つあったことを言うのだろう。<br/>
すると本文の「秘書」が今度は問題になるが、これは『隋書経籍志詳攷』のように秘書の官府の意でよいと思われる。以上、「在秘書中外三閣」は「秘書省と内外の三つの台閣に所蔵されていた」と読むのがよいと考えたので、そのように訳出した。<SPAN class="sm"><a href="#201801078b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201801079">[9]</a>原文「朱紫有別」。程千帆・徐有富『中国古典学への招待』<span class="sm">(向島成美・大橋賢一・樋口泰裕・渡邉大訳、研文出版、2016年)</span>が『論語』陽貨篇「悪紫之奪朱也」を典拠とするのに従った<span class="sm">(p. 138)</span>。<SPAN class="sm"><a href="#201801079b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2018010710">[10]</a>増淵龍夫「歴史のいわゆる内面的理解について」<span class="sm">(同氏『歴史家の同時代史的考察について』所収、岩波書店、1983年)</span>参照。少し長いが引用してみる。「陳垣は、日本軍占領下の暗い世情の下で、ひとり門をとざして『資治通鑑』を読み、それに附せられている胡三省の注釈を読んで行くうちに、胡三省の注釈は単なる史実の考証というようなものではない、ということに陳垣は気付いたのです。南宋末の政治の腐敗のもとに生きて、宋朝の滅亡と蒙古人の侵入、占領支配の下に生涯を送った胡三省は、蒙古人の占領支配下においては、山中にかくれて、一切の官職には辞してつかず、亡国の暗い世情の下にあって、元朝の残酷な統治と、それに阿附し、或はそれに抵抗するさまざまな人の動きを、その目で見、きびしい現実批判の心を内にこめて、『資治通鑑』を読み、その全精神を、『通鑑』の注釈という仕事に託したのであった」<span class="sm">(pp. 90-91)</span>。元朝ファンには承服しがたい表象が使われていると思うが、胡三省の目に映った世相を代弁した記述、と見なしてもらえれば。<SPAN class="sm"><a href="#2018010710b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2018010711">[追記1]</a>原文「収文徳之書及公私典籍、重本七万余巻」。「重本」を「貴重な本」と訳出しているが、『北斉書』巻45文苑伝・顔之推伝の「観我生賦」自注に「王司徒表送秘閣旧事八万巻、乃詔比校、分為正御、副御、<b>重雑</b>三本」とあり、「重本」は本来「重雑本」=重複している書籍の意だと思われる。牛弘の原文がこうであったのか、引用者が一部省略したのか不明だが、ともかく原文には脱落があると思われ、「重本」を顔之推をふまえて「重複本」と訳出しても文意が通じないように思われる。そこで、訳文はとりあえず文意が通る「貴重本」のままとしておく。(2018/01/07追記)<SPAN class="sm"><a href="#2018010711b">[上に戻る]</span></a></p>
<br/>
<p class="mb3"></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-38376100575289544372017-10-29T19:04:00.001+09:002018-01-05T20:29:10.469+09:00沈約『宋書』の系譜とその周辺<p class="mb5"></p>
沈約『宋書』はじめ、宋史のお話。<br/>
なお本記事ではあくまで便宜的に、宋朝の国史編纂事業において成り立った宋史を<b>国史</b>、それ以外の宋史を<b>野史</b>と呼び、区別する。<br/>
<br/>
***<br/>
<span class="lr"><font color="#4169e1"><b>国史</b></font></span><br/>
<b>沈約</b><br/>
『宋書』巻100自序の末尾。<br/>
<br/>
<blockquote> 史臣は十三のときに父を亡くし、早くから学問に打ち込んできた。時ばかり重ねて何も成し遂げてはいないが、やめるつもりはまったくなかった。そうした日々で気にかかっていたのが、晋氏の史書で起こりから亡びまで叙述したものがないことだった。そこで二十のころ、自分で書いてやろうという目標を立てたのである。泰始<span class="sm">(西暦465-471年)</span>のはじめ、征西将軍の蔡興宗が史臣のために明帝にそのことを申し上げてくれ、すると勅が下って編纂の許可を賜った。以来二十年、晋史は120巻まで書きあがり、筋道<span class="sm">〔原文「条流」。常套表現のようだが、よくわからん。秩序だった流れ?〕</span>は立ったのだが、記録の収集がまだ不満足であった。そうしたところ、永明<span class="sm">(483-493年)</span>のはじめ、盗人に出くわしてしまい、五つめの帙<span class="sm">(41-50巻?)</span>を失ってしまった。<br/>
ところで、建元4年<span class="sm">(482年)</span>のまだ年が明けないころ、勅を受けて宋の国史の編纂をすることになった。永明2年<span class="sm">(484年)</span>、過分にも著作郎の兼任を命じられ、起居注の執筆整理に当たった。以後は戦争があったため<a name="201710221b"><a href="#201710221">[1]</a></a>、資料の収集や記述に割く時間がなかったのだが、5年<span class="sm">(487年)</span>の春にふたたび宋書編纂の勅が下った。そうして6年の2月、とうとう完成し、献上したのである。その上表文でこう申し上げた。<br/>
<br/>
「・・・(前略)・・・<br/>
宋の著作郎、故何承天が最初に宋書を編纂し、紀と伝をつくりましたが、武帝の功臣までしか叙述しておらず、全体の分量が薄い出来でした。何承天が撰述した志は天文と律暦のみで、それ以外は奉朝請の山謙之に任されたものでした。<br/>
山謙之は孝建<span class="sm">(454-456年)</span>のはじめにも編纂の詔を下されたのですが、まもなく病没してしまったため、南台(御史台)の侍御史、蘇宝生に伝の編纂が命じられました。元嘉の名臣伝は彼の撰述です。<br/>
蘇宝生が誅殺されてしまうと、大明<span class="sm">(457-464年)</span>のなかば、著作郎の徐爰にこれまでの編纂の引継ぎが命じられました。徐爰は何承天と蘇宝生が撰述した伝を受け継ぎ、一つにまとめあわせました。その叙述範囲は晋の義煕<span class="sm">(405-418年)</span>はじめから大明の終わりころまでに及びます。また、臧質、魯爽、王僧達の伝は孝武帝の御撰です。<br/>
しかし以後、永光<span class="sm">(465年)</span>から禅譲<span class="sm">(479年)</span>までの十数年ほどは編纂の担当者がおらず、事業は停滞し、帝一代の記録ですら、始めから終わりまで完備しておりません。加えて、記録する事跡は自分たちの時代だったのですから、事実とは異なる記録も多くあります。立伝の基準にかんしましても、取捨の選択は公正でなく、進んでは当時の帝の意向に阿り、退いては世論に追従するありさまです。宋の国史を後世<span class="sm">〔原文「方来」。『文選』巻49の范曄皇后紀論「貽厥方来」、李善注「毛詩曰、詒厥孫謀」に拠った〕</span>に伝えていくにあたり、このような状態では信頼に欠けます。<br/>
そこで臣は、伝を見直して設け、新たに国史を作成いたしました。義煕改元から昇明3年<span class="sm">(479年)</span>までを範囲としております。(具体的に、これまで立伝されてきた以下の者たちを見直しました。)桓玄、譙縱、盧循、司馬休之と魯宗之<a name="201710222b"><a href="#201710222">[2]</a></a>らは晋朝の賊であって、後世の宋とは関係がありません。呉隠、謝混、郗僧施<a name="201710223b"><a href="#201710223">[3]</a></a>ですが、彼らの義は前代の晋でのことですから、宋の史書にむやみに入れるべきでありません。劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民ですが、彼らの志は晋の復興であって、宋を建立するつもりはありませんでした。これらの伝はすべて取り除き、晋の史書に委ねます<a name="201710224b"><a href="#201710224">[4]</a></a>。<br/>
遠くは南史氏、董孤<span class="sm">〔ともに直筆で知られる春秋時代の史官〕</span>に劣ることを恥じ、近くは司馬遷、班固に及ばず、そのような凡才が宋一代の史書を叙述いたしました。言葉をつむいで事跡を列記するに、いにしえの良史と比べると恥じ入るばかり、かしこまって身を小さくしても、冷や汗が止まらず、落ち着く場所もないほどです。本紀と列伝は清書が終わり、合計で七帙七十巻となります。いま、つつしんでこれを献上いたします。志は完成次第、献上いたします。内容目次を添えて省に行き、表を奉じてこの書物を献じましたことをここに申し上げます。臣約、まことに恐れおののくばかりです。頓首頓首死罪死罪」。<br/>
<span class="sm">(史臣年十三而孤、少頗好学、雖棄日無功、而伏膺不改。常以晋氏一代、竟無全書、年二十許、便有撰述之意。泰始初、征西将軍蔡興宗為啓明帝、有勅賜許、自此迄今、年逾二十、所撰之書、凡一百二十巻。条流雖挙、而採掇未周、永明初、遇盜失第五帙。建元四年未終、被勅撰国史。永明二年、又忝兼著作郎、撰次起居注。自茲王役、無暇搜撰。五年春、又被勅撰宋書。六年二月畢功、表上之。曰、<br/>
「・・・宋故著作郎何承天始撰宋書、草立紀伝、止於武帝功臣、篇牘未広。其所撰志、唯天文、律歴、自此外、悉委奉朝請山謙之。<br/>
謙之、孝建初、又被詔撰述、尋値病亡、仍使南台侍御史蘇宝生続造諸伝、元嘉名臣、皆其所撰。<br/>
宝生被誅、大明中、又命著作郎徐爰踵成前作。爰因何蘇所述、勒為一史、起自義熙之初、訖于大明之末。至於臧質、魯爽、王僧達諸伝、又皆孝武所造。<br/>
自永光以来、至於禅譲、十余年内、闕而不続、一代典文、始末未挙。且事属当時、多非実録、又立伝之方、取捨乖衷、進由時旨、退傍世情、垂之方来、難以取信。<br/>
臣今謹更創立、製成新史、始自義熙肇号、終於昇明三年。桓玄、譙縱、盧循、馬魯之徒、身為晋賊、非関後代。呉隠、謝混、郗僧施、義止前朝、不宜濫入宋典。劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民、志在興復、情非造宋。今並刊除、帰之晋籍。<br/>
臣遠愧南董、近謝遷固、以閭閻小才、述一代盛典、属辞比事、望古慚良、鞠躬跼蹐、靦汗亡厝。本紀列伝、繕写已畢、合七帙七十巻、臣今謹奏呈。所撰諸志、須成続上。謹條目録、詣省拜表奉書以聞。臣約誠惶誠恐、頓首頓首、死罪死罪」。)</span></blockquote>
<br/>
いきなりの長文になってしまったが、沈約がどういう経緯で宋書をまとめたのか等、よくまとめられている。<br/>
彼が宋朝における国史編纂事業の歴史から自分の仕事の意義を説いていることに察せられるように、「製成新史」とはいっても、まったくのゼロベースからつくるわけでなく、何承天以来の事業でまとめられた宋書を点検しつつ加筆し、そうしてできあがったのが沈約の宋書、というふうに見ておくのがよいように思われる。<br/>
したがって、沈約宋書の記述を分析するにあたっては、宋朝の編纂事業で生み出された史書をつねに念頭に置いておかねばならない。以下、何承天から順にこの歴史をまとめてみる。<br/>
<br/>
<b>何承天</b><br/>
『宋書』巻64何承天伝<br/>
<br/>
<blockquote>元嘉16年<span class="sm">(439年)</span>、著作佐郎に任じられ、国史を編纂した。何承天は老年だったが、ほかの著作佐郎はみな名家の若者だった。<span class="sm">(十六年、除著作佐郎、撰国史、承天年已老、而諸佐郎並名家年少。)</span>
</blockquote>
<br/>
16年当時、何承天は70歳です。著作佐郎は起家官としてランクの高い職であった<span class="sm">(宮崎市定『九品官人法の研究』中公文庫、1997年、pp. 252-253。著作そのものについては<a href="https://sinyousyuden.blogspot.jp/2015/08/11.html">拙訳注</a>参照)</span>。<br/>
若い著作の一人が山謙之だったのだろうか。それは措くにしても、彼はなかなか優秀な史官だったようなので記憶に留めてよい。<br/>
<br/>
何承天版は隋書経籍志(以下、たんに隋志と呼ぶ)にも記録がないし、いままで類書での引用も見たことがない。沈約は何承天版を直接参観できていたようなので、どこかの段階で消失してしまったようだ(徐爰版・沈約版に吸収されたとみてよいのかもしれない)。<br/>
沈約の自序によれば紀伝の下限は武帝時代までのようだから、同時代にあたる文帝時代は範囲外だったようだ。ただし志の下限はどうであろう。沈約の律暦志には元嘉暦の記述があるが、元嘉暦制定の張本人である何承天であれば、彼自身がここまで執筆したと考えて差し支えないと思われるが。<br/>
ほかの手がかりは沈約宋書の志序である。<br/>
<br/>
<blockquote>元嘉年間、東海の何承天は詔を下されて宋書を編纂した。<b>その志は15篇(15巻)<span class="sm">〔篇と巻は厳密にはちがうが、巻子本が主流であったこの時代においてはおそらくほぼ同義であったと思われ、また沈約が8志30巻であることからみても、「巻」の意でとってよいと考える〕</span>あり、司馬彪『続漢書』のあとを承けた記述内容だった。</b>諸書からの引用が広範であるのはこのような事情に拠っているのであり、司馬遷、班固のごとく、一家の書となっている。<b>遺漏や何承天以後の事跡は、記録を収集して適宜に補った。</b><span class="sm">(元嘉中、東海何承天受詔纂宋書、<b>其志十五篇、以続馬彪漢志</b>、其証引該博者、即而因之、亦由班固、馬遷共為一家者也。<b>其有漏闕、及何氏後事、備加捜采、随就補綴焉。</b>)</span>
</blockquote>
<br/>
<b>太字</b>箇所に注目したい。<br/>
まず「十五篇」だが、詳しい構成は当然不明。沈約の自序、志序からは、何承天版には天文志、律暦志、五行志があったこと、沈約版の符瑞志は沈約が新たに立てた項目であること、これらは確からしい。また沈約が州郡志の序文で参考書籍に「何<span class="sm">〔承天〕</span>徐<span class="sm">〔爰〕</span>州郡」を挙げており、実際に文中で「何志」に頻繁に言及することから、州郡志もあっただろう。蕭子顕『南斉書』百官志でも何承天の志に触れており<span class="sm">(州牧刺史の条に「何徐志云起魏武遣諸州将督軍」)</span>、百官志の類も設けられていたと思われる。<br/>
分量を比較してみると、沈約の志は30巻ある。うしろの太字箇所を言葉どおりに受け取れば、沈約は何承天版に補筆しただけのようだが、分量が増したのか、何承天版を分割したのか。符瑞志のように沈約の新設した志が他にあったのかもしれない。<br/>
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次に「続馬彪漢志」について。訳文で取ってみたように、「司馬彪を継承する」というのは「後漢以後の三国から叙述を起こし、魏晋を含めた内容とする」意味だと解しておきたい。何承天のこの方針は沈約志序の次の一節からもうかがえる。<br/>
<br/>
<blockquote>天文志、五行志は司馬彪以後、記録がない。何承天の志は黄初のはじめから、徐爰の志は義煕のはじめから記述がはじまっている。魏を漢に接続させるにあたり、何承天に従うこととする。<span class="sm">(天文、五行、自馬彪以後、無復記録。何書自黄初之始、徐志肇義煕之元。今以魏接漢、式遵何氏。)</span></blockquote>
<br/>
何承天がこういう方針を採ったのは、沈約が言うように司馬彪以降はまとまった志がないからかもしれないし、彼なりにポリシーがあったのかもしれないし、また、そもそも文帝の時点では宋のことだけで書くとたいした分量にならないからいっそ魏晋まで含めて内容をふくらませたのかもしれない。<br/>
沈約の志を見ると、天文五行だけでなく、すべての志で魏晋が範囲になっているので、「以魏接漢式遵何書」というのは、沈約の志全体の編纂方針でもあったようだ。<br/>
<br/>
と、わからないことが多いのだが、沈約があえて徐爰版でなく何承天版を採っていることからも、沈約の志は何承天版に強い影響を受けている。それに、根拠なしだが、徐爰版もおおよその記述内容は何承天版を継承しているんじゃないか。ようするに、何承天版の両版への影響力はとてつもなく大きいと思う。記述内容の比較もしようがないが、沈約版のいくつかは何承天版を継承しただけのものがあるかもしれない。<br/>
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<b>何承天と徐爰の間</b><br/>
沈約は自序で触れていないが、文帝期に何承天のあとを継いだ者がいる。裴松之である。曽孫にあたる裴子野の『宋略』総論に次のようにある<a name="201710225b"><a href="#201710225">[5]</a></a>。<br/>
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<BLOCKQUOTE>私の曽祖父で、宋の中大夫、西郷侯<span class="sm">〔裴松之のこと〕</span>は、文帝の元嘉13年に詔を受けて起居注を編集した。同16年、また詔を受けて何承天の宋書を引き継いで編集することになったが、その年に在官のまま没したため、著述できなかった<a name="201710226b"><a href="#201710226">[6]</a></a>。<span class="sm">(子野曽祖、宋中大夫、西郷侯、以文帝十三年受詔撰起居注。十六年、重被詔続成何承天宋書、其年終于位、書則未遑述作。)</span></BLOCKQUOTE>
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沈約の自序に裴松之への言及がないのは、彼自身の文章がないからであろうか。<br/>
<br/>
山謙之は沈約『宋書』に「史学生」「学士」とも出てくる人物だが、他の詳細は不明。蘇宝生は沈約『宋書』の王僧達伝に附伝があるが、宋書編纂のことについては触れられていない<a name="201710227b"><a href="#201710227">[7]</a></a>。<br/>
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さて、『宋略』総論には裴松之が「続成何承天宋書」を命じられたとあり、このあと見ていく『宋書』徐爰伝にも何承天以来の国史編纂を「踵成」させたという表現が見えている。<br/>
つまり、これまで挙げた人物たちは、その都度に国史の宋書を編纂しているのではなく、前任者がまとめたもの(何承天版)に継ぎ足ししていくような方式で国史を整理していったのではないかと思われる。何承天や蘇宝生が個別の志や伝の撰述者として伝えられているのは、このような編纂形式に起因しているのだろう。こうしたやりかたは後漢の『東観漢記』にも似ている<span class="sm">(呉樹平『東観漢記校注』中華書局、2008年、序pp. 1-3)</span>。<br/>
<br/>
ここからしばらく脇道。<br/>
沈約の自序に蘇宝生は「元嘉名臣<b>伝</b>」を作成したとあった。『史通』古今正史だと「勅南台侍御史蘇宝生<b>続造諸伝</b>、元嘉名臣皆其所撰」とあり、彼は「諸伝」作成の引継ぎを命じられたと記されている。<br/>
彼の仕事はあくまで伝であって、紀(文帝紀)にはなかったのだろうか。<br/>
振り返ってみると、沈約の自序にも何承天は「武帝功臣」まで叙述したと記されている。「紀伝」を立てたともあるので、武帝紀ももちろんつくったのだろうが、やはりここでも何承天の仕事の力点が伝のほうに置かれているような表現となっている。<br/>
これは当時の著作の仕事と関係があっての表現だと思われる。<br/>
まず、どうして紀への言及がないのかというと、すでにタネとなる記録がすでに作成されているからでないか。そう、起居注である。起居注がそのまま紀になることはないだろうが、だいたいの記録も形式も整えられている。<br/>
それに対し、伝はゼロから文書を集めたり聞き取りしたりして、記録を整理していかねばならなかったであろう。伝を作成するとはこうした作業をこなすことに違いない。そして文書の散逸や証言の埋没を防ぐためにも、この作業は一定期間ごとに継続的に続けていくことが求められる<a name="201710228b"><a href="#201710228">[8]</a></a>。<br/>
<br/>
宋のこのやり方は、晋とはやや違っていたようである。<br/>
晋の国史編纂といえば、唐修『晋書』賈謐伝に記されている上限の議論<a name="201710229b"><a href="#201710229">[9]</a></a>が比較的知られていようが、それ以外だと干宝や徐広が国史編纂を担当したとか(両者の『晋紀』はその成果である)<a name="2017102210b"><a href="#2017102210">[10]</a></a>、そういう感じの話が伝わっているくらいで、いまいちつかみにくい。<br/>
しかし、まさに干宝や徐広の話から伝わってくるように、晋における国史の編纂は一定期間の記録をその都度に集成するものであって、以前の国史担当が作成した国史に継ぎ足すわけではなかったようである。その結果、複数の国史(晋紀)が存在するままで、一つにまとまった晋史がないという沈約が自序で述べたような事態を招いてしまったようだ。<br/>
さらに、晋の国史編纂者には伝のタネもすでに提供されていた可能性が高い。沈約『宋書』百官志によれば、晋の佐著作郎は就任時に名臣伝を作成することが課せられていたという<span class="sm">(<a href="https://sinyousyuden.blogspot.jp/2015/08/11.html">拙訳注</a>参照、注 [24] のあたり)</span>。徐広らはこれらを利用できたはずだ。起居注と名臣伝を整理・総合して数代の帝紀を(編年体で)まとめるのが晋の国史担当者の仕事だったのでないか。こうした事情から、干宝や徐広はそれぞれが作成した国史(晋紀)の編纂者として名が伝わることになったと思われる。<br/>
百官志によれば、著作の名臣伝の慣習は劉宋以降、廃れてしまったという。劉宋の国史担当者の仕事が伝の作成に置かれてしまったのは、タネとなる伝がなかったことに由っているのでないだろうか。<br/>
<br/>
また、宋と晋では叙述の形式も違っていた。宋は紀伝体で、晋は――西晋の国史は不明だが――編年体である。東晋の国史が編年体なのは最初の編纂者・干宝がそれを採ったのが受け継がれているからだろうか(なお、この当時の編年体は紀に伝を挿入する形式であったと思われるので、編年体だからといって伝を作成する作業が不要なわけではない)。<br/>
<br/>
晋、とりわけ東晋の国史は関連する記録こそあまり残っていないが、宋の国史と比較することでさまざまな特徴が見えてくるかもしれない。そういったことはまたの機会に。<br/>
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<b>徐爰</b><br/>
『宋書』巻94恩倖伝・徐爰伝<br/>
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<blockquote>これ以前の元嘉年間、著作郎の何承天に国史をはじめてつくらせた。孝武帝のはじめ、また奉朝請の山謙之、南台侍御史の蘇宝生に引き継がせた。大明6年、徐爰に著作郎を兼任させ、国史の事業を完成させるよう命じた。徐爰はそれまでにできあがったものを受け継ぎつつも、独自に一家の書物をつくりあげた。<span class="sm">(先是元嘉中、使著作郎何承天草創国史。世祖初、又使奉朝請山謙之、南台御史蘇宝生踵成之。六年、又以爰領著作郎、使終其業。爰雖因前作、而専為一家之書。)</span></blockquote>
<br/>
徐爰の宋書は沈約本の藍本であるとの指摘がなされている<span class="sm">(趙翼『廿二史箚記』巻9「宋書多徐爰旧本」。また邱敏『六朝史学』南京出版社、2003年、pp. 88-89も参照)</span>。<br/>
散逸した宋史のなかでも比較的佚文が残っているほうで、『芸文類聚』『太平御覧』にいくつか見えている。両書はともに『修文殿御覧』が資料源であるらしいので<a name="2017102211b"><a href="#2017102211">[11]</a></a>、北斉当時によく流通していたのだろう。<br/>
沈約の自序にあったように、臧質、魯爽、王僧達の伝は孝武帝の御撰だが、これらは劉知幾に言わせると「序事多虚、難以取信」<span class="sm">(『史通』古今正史)</span>だったそうだ。<br/>
ほか、多少の特徴をここでまとめてみたい。<br/>
<br/>
隋志によると全65巻。詳しい構成はわからないが、基本的には何承天版以来の宋書を継いでいるであろう。まあ、その何承天版がさっぱりわからないんですけどね。<br/>
徐爰は編纂にあたり、上表して三つの議題を提起している。(1)義煕を王業の始まりとし、ここを功臣の区切りとしたい<span class="sm">(起元義熙、為王業之始、載序宣力、為功臣之断)</span>、(2)桓玄伝を削除したい<span class="sm">(其偽玄篡竊、同於新莽、雖霊武克殄、自詳之晋録)</span>、(3)禅譲前に劉裕に逆らうなどして滅んだ者たちも国史に収めたい<span class="sm">(及犯命干紀、受戮覇朝、雖揖禅之前、皆著之宋策)</span>。<br/>
結論から言うと(1)と(3)は認可され、(2)は孝武帝に却下された。(3)から順に考察を加えてみよう。<br/>
<br/>
(3)についての議論は徐爰伝に記録されていないので、何承天版ではどうだったのか等々、詳細は知りえない。ただ、ここで思い出されるのは沈約が自序で、削除した列伝に劉毅らを挙げていたことである。自序で挙げられていた人物だと、劉毅、諸葛長民、謝混、郗僧施が(3)に該当するだろうか。捉え方によっては、沈約に「晋賊」と判断された魯宗之らも含まれるかもしれない。徐爰が入れたいと要望したこれらの者たちは、この時点では公認されたものの、最終的に沈約に除外されてしまったことになる。<br/>
<br/>
次に(2)。徐爰は、桓玄は王莽と同じようなもんだから晋の史書に書けばよくね、と理由を述べている。対して孝武帝は「項羽も更始帝も漢の史書に入っているから平気やろ」と返し、「桓玄伝は入れるべきだ」と判断を示した。論点がたがいに噛み合ってない気がするが、孝武帝は(3)も認可しているので、劉裕がぶっ倒したやつは全員宋史にぶち込んでしまえという考えだったのかもしれない。まあ、結局沈約が外してしまうんですけどね。<br/>
<br/>
唯一、関連記述が残っているのが(1)である。徐爰伝より引用。<br/>
<br/>
<blockquote>太宰の江夏王義恭ら三十五人は徐爰の議に賛同し、義煕元年を区切りにするのが良いとした。散騎常侍の巴陵王休若、尚書金部郎の檀道鸞は元興3年を主張し、太学博士の虞龢は開国を宋公元年にするのが適当だと論じた。<span class="sm">(太宰江夏王義恭等三十五人同爰議、宣以義煕元年為断。散騎常侍巴陵王休若、尚書金部郎檀道鸞二人謂宜以元興三年為始。太学博士虞龢謂宜以開国為宋公元年。)</span></blockquote>
<br/>
断限の話は何を言っているのかよくわかんないのだが、想像をまじえつつ事情を考えてみる。<br/>
<br/>
元興3年は桓玄打倒の起義の年<span class="sm">(404年)</span>、義煕元年は東晋の天子が建康に戻り、劉裕が朝廷の実権を握った年<span class="sm">(405年)</span>、「開国」はおそらく義煕12年に劉裕が宋公に封じられた年<span class="sm">(416年)</span>を指しているのだろうか。これ以前だと義煕2年に豫章郡公に封じられているが、たぶんこれじゃないだろう。<br/>
西晋での争点も踏まえて考えてみると、断限の議論で問題とされているのは「どこからの人物を自朝の人間に数えるか/数えないか」だと思われる。創業の紀の記述がはじまる年ではないはず。宋公元年や義煕元年をはじまりとするからといって、武帝紀に起義をまったく記さないなんてことは現実的でない。元興3年であっても、それ以前の劉牢之時代を記述しないのはやはりおかしいだろう。<br/>
そう仮定してみると、虞龢の主張はわかりやすい。ようするに、元興3年の起義に参加しただけでは宋の人間にカウントしないというのだろう。なので、何無忌のような人物も外されることになろう。そりゃあ、まったく賛同者はいないでしょうね。劉裕の片腕で禅譲前に没した劉穆之という者がいたけれど、劉穆之伝によれば劉裕は即位後、「佐命元勲」を思い、その一人として穆之を追贈したと記されている。『晋書』の何無忌伝や魏詠之伝にもやはり追贈の詔が載っているので、彼らも劉裕から「佐命元勲」に数えられていた可能性が高いはずだ。そういう人物たちを外すのは宋朝として抵抗があるんでないか。そういうふうに想像していってみると、何無忌伝とかは何承天版からすでにあったはずで、彼らの伝を設けること自体は徐爰版当時でもまったく疑問視されていなかっただろう。<br/>
しかし、虞龢の主張に近い基準をもっている人物が一人いる。沈約だ。もちろん、沈約は義煕元年を起点にしていると自序で述べているが、一方で彼は何無忌ら宋公封建以前に没した人物たちを伝から外してしまっているし、沈約版で生き残った武帝功臣たちはおおむね義煕12年の宋建国まで存命している。こういう文脈からすると、虞龢は時代を先取りしすぎてしまっていたようだ。<br/>
<br/>
つづいて義煕元年と元興3年であるが、両者の違いが私には正直よくわからない。いや、シンボル的な意味がぜんぜん違うのはわかるのだが、どっちを採っても実際の作業上で何らか変化は起こらないのでは・・・? どちらの基準でもはじきだされるのは劉牢之だが、どちらかでしかカウントされない人物はたぶんいないのでは?<br/>
で、実際の作業でどういう変化がありうるかをしいて考えてみるに、沈約の志序に「徐爰の志は義煕のはじめから記述がはじまっている<span class="sm">(徐志肇義煕之元)</span>」とあったのに着目してみよう。義煕元年を宋のはじまりとすることで、徐爰は何承天版から魏晋時代の記述を削った。義煕元年の劉裕執権以降が宋の歴史だからである。人物の紀伝と違い、志であれば思い切って区切れるだろう。元興3年と義煕元年の差異は、志であればハッキリするのではないか。もちろん、両主張は志をどこからはじめるかを争っているのでないが。<br/>
<br/>
両者のシンボル性としては、志も含めた国史全体の統一性の点では義煕元年がわかりやすく思うし、「物語のはじまり」にふさわしいと感じる。元興3年は「チュートリアル」って感じですね。義煕元年のが賛同者圧倒的だし、やっぱりみんなそう思ったんじゃないの? 知らんけど。<br/>
ともかく最終的には義煕元年が採用され、それに合わせて伝の基準が見直されたり、志の記述が削られていったのだろうと思われる。<br/>
<br/>
だがしかし! 沈約はここでも徐爰をそのまま継いだりしていない。前述したように、志は何承天版の方針に従っているし、伝は義煕元年はじまりを自称しているが、実際には虞龢に近い観点をもって編集している。何承天もどうして曹魏から志をはじめたのか知る由がないが、沈約はどういう意図とか統一性をもっていたのでしょうね。宋の国史に魏晋を記録した志を収録するって変だと思いますが・・・。宋では置かれなくなった、という官の記述すらあるからね。<br/>
<br/>
まとめてみると、徐爰は編纂に当たって3つの修正案を要請し、以下の裁可を得た。(1’)義煕元年をはじまりとする(2’)桓玄伝は削除せずに収録する(3’)劉裕即位前に劉裕に滅ぼされた者たちも収録する。<br/>
しかしこの三つの決定は、沈約によってほぼ覆されたことになる。<br/>
仮にだが、徐爰の(2)(3)の提案は何承天版ではそうではないから求めているのだとしたら――何承天版では桓玄伝が立てられていたし、劉毅らの伝がないのだとしたら。桓玄伝の有無こそあるが、だいたいの編集方針の点で、沈約版は徐爰版よりも何承天版に近いと言えないだろうか。<br/>
<br/>
<b>王智深</b><br/>
斉の王智深には『宋紀』という著作がある。隋志に記録はないが、『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志にそれぞれ30巻で記録がある。<br/>
『南斉書』巻52文学伝・王智深伝によると、彼は斉の武帝から勅命を受けて『宋紀』を著している。完成したので召されたが、武帝が崩じて献上できず、しばらく放置されたのちに秘書に入れられたそうだ<a name="2017102212b"><a href="#2017102212">[12]</a></a>。武帝は沈約にも宋書の編纂を命じていたが、王智深への勅命は沈約完成のあとだろうか。王智深のは編年体だから、武帝は宋史を紀伝体と編年体それぞれで作成させたのだね。マニアだなあ。<br/>
王智深『宋紀』は宋朝の国史編纂事業の延長上にあるものかは不明だが、あの武帝からの命令でまったく無関係ではなかったかもしれないし、とりあえず国史の側に分けておいた。<br/>
章宗源『隋書経籍志考証』で12条(『水経注』2条『初学記』6条『太平御覧』4条)、王仁俊『玉函山房輯佚書補編』に1条、佚文が挙げられている。章宗源の見逃しとしては、『初学記』巻27宝器部・芙蓉に引かれている1条があるが、これは他と違って「宋紀」と書名しか書かれておらず、王智深の名がないため、挙げなかったのかもしれない。『太平御覧』巻1000百卉部7苔に引く「王智深宋記」も挙げられていないが、この佚文は章宗源も挙げている『初学記』宝器部・苔に引く1条と同内容である。<br/>
<br/>
***<br/>
<span class="lr"><font color="#4169e1"><b>野史</b></font></span><br/>
<b>孫沖之</b><br/>
『史通』古今正史<br/>
<br/>
<blockquote>何承天ののち、文帝は裴松之に国史編纂の引継ぎを命じたが、松之はまもなく没してしまった。史佐の孫沖之が、国史とは別に自分で宋史をつくりたいと上表し、(許可を得て)一家の書を仕上げた。・・・大明6年、孝武帝は著作郎の徐爰に国史編纂の引継ぎを命じた。徐爰は何承天、孫沖之、山謙之、蘇宝生の著述を受け継ぎつつ、まとめあげて一家の書を完成させた。<span class="sm">(後又命裴松之続成国史、松之尋卒。史佐孫冲〔ママ〕之表求別自創立、為一家之言。・・・六年、又命著作郎徐爰踵成前作。爰因何孫山蘇所述、勒為一書。)</span></blockquote>
<br/>
孫沖之は沈約『宋書』にやや記述があり<a name="2017102213b"><a href="#2017102213">[13]</a></a>、かの孫盛の曽孫であるらしいが、史書編纂のことは触れられていない。<br/>
『史通』のこの書き方からすると、国史とは別個に個人的につくったものだろうと思われるので、野史に分類した。徐爰版にネタ提供しているというのに、沈約が自序で触れないのは国史でないからなのだろう(沈約は国史の歴史しか概述していない)。隋志にも記録がないので、徐爰版に吸収されてしまったのだろうか。<br/>
しかし、劉知幾はいったい孫沖之のことをどこから知ったのだろう。沈約は自序でも列伝でも言及していないし、現物も残っていなかった可能性が高いというのに。徐爰版の自序みたいのがあって、そこで述べられていたのだろうか。<br/>
<br/>
<b>その他いろいろ</b><br/>
ほかはロクな記録がないので、隋志、『旧唐書』経籍志(旧唐)、『新唐書』芸文志(新唐)から列記する。<br/>
<br/>
<br/>
<TABLE bordercolor="black" align="center" cellpadding="10" width="800" rules="rows" border="2">
<tr><TH align="center">撰者『書名』</th><TH align="center">隋志</th><TH align="center">旧唐</th><TH align="center">新唐</th><TH align="center">備考</th></tr>
<tr><td align="center">孫厳『宋書』</td><TD align="center">65巻</td><TD align="center">46巻</td><TD align="center">58巻</td><TD align="center">斉冠軍録事参軍<span class="sm">(隋志)</span></td></tr>
<tr><TD align="center">佚氏名『宋書』</td><TD align="center">61巻</td><TD align="center"></td><TD align="center"></td><TD align="center">宋大明年間撰。隋志時点で亡<span class="sm">(隋志沈約宋書条原注)</span></td></tr>
<tr><td align="center">王琰『宋春秋』</td><TD align="center">20巻</td><TD align="center"></td><TD align="center">20巻</td><TD align="center">梁呉興令<span class="sm">(隋志)</span></td></tr>
<tr><TD align="center">鮑衡卿『宋春秋』</td><TD align="center"></td><TD align="center">20巻</td><TD align="center">20巻</td><TD align="center"></td></tr>
</table>
<br/>
<br/>
新唐書には「王智深『宋書』三十巻」の記録があるが、これは同名著者の『宋紀』の誤りだろう。<br/>
孫厳は孫沖之と同一人物なんじゃないかと疑っていたことがあり、実際そういう学説があるそうだが<span class="sm">(邱敏『六朝史学』、pp. 89-90)</span>、そう性急に判断するのはやめておくのがよいだろう<span class="sm">(邱氏前掲書p. 90)</span>。<br/>
佚氏名『宋書』は徐爰とほぼ同時期のもので、巻数も似ているが、材料がないのでどうしようもない。<br/>
王琰『宋春秋』は『太平御覧』とかで佚文をちょくちょく見かける。鮑衡卿は梁の鮑行卿、鮑客卿兄弟<span class="sm">(『南史』巻62鮑泉伝)</span>との関係が推測されている<span class="sm">(邱氏前掲書pp. 139-140)</span>。<br/>
<br/>
以上の志には記録がないが、南斉の劉祥にも『宋書』があったらしい。『南斉書』巻36劉祥伝「撰宋書、譏斥禅代、尚書令王倹密以啓聞、上銜而不問」とある。邱氏は、劉祥が宋斉革命に批判的であったのは、彼が劉穆之の曽孫であったことと関係があるのだろうと推測している<span class="sm">(邱氏前掲書p. 90)</span>。<br/>
<br/>
<b>裴子野</b><br/>
『宋略』総論(『建康実録』引)<br/>
<br/>
<BLOCKQUOTE>私の曽祖父で、宋の中大夫、西郷侯は、文帝の元嘉13年に詔を受けて起居注を編集した。同16年、また詔を受けて何承天の宋書を引き継いで編集することになったが、その年に在官のまま没したため、著述できなかった。斉が起こってから十数年、宋の新しい史書<span class="sm">〔沈約の宋書だろう〕</span>がすでに流通している。私は泰始の末に生まれ、永明年間を過ごした。家には古い書物があり、見聞がたがいに結びつき、どんなことでも収集した(?)。宋の新しい史書に即しつつ、『宋略』20巻をつくった。<span class="sm">(子野曽祖、宋中大夫、西郷侯、以文帝十三年受詔撰起居注。十六年、重被詔続成何承天宋書、其年終于位、書則未遑述作。斉興後十余年、宋之新史、既行於世。子野生乎太始之季、長於永明之間、家有旧書、聞見交接、是以不量深浅、因宋之新史、以為宋略二十巻。)</span></BLOCKQUOTE>
<br/>
『梁書』裴子野伝<br/>
<br/>
<blockquote>はじめ、裴子野の曽祖父の松之は宋の元嘉年間に詔を受けて、何承天の宋史の引継ぎを命じられたが、遂げられずに没した。そこで子野はいつも松之の未完の仕事を受け継ぎ、完成させたいと思っていた。斉の永明の末、沈約の『宋書』はすでに世に出回っていたが、子野は内容をコンパクトにまとめ、『宋略』20巻を編纂した。優れた叙述や評論が多く、沈約がこれを見ると、「私には書けない書物だ」と嘆息した。<span class="sm">(初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒。子野常欲継成先業。及斉永明末、沈約所撰宋書既行、子野更刪撰為宋略二十巻。其叙事評論多善、約見而歎曰、吾弗逮也。)</span></blockquote>
<br/>
沈約以外でもっともよく知られている宋史かもしれない。詳しい話は別記事<span class="sm">(<a href="https://sinyousyuden.blogspot.jp/2013/09/blog-post_9484.html">『建康実録』の東晋巻について</a>)</span>でつづったつもりなので、そちらを参照。<br/>
「削った<span class="sm">(刪)</span>」とあるが、沈約のダイジェスト版ということなのか、沈約(紀伝で70巻)よりも短い分量でまとめたということなのか、判然としない。たぶん後者の意味あいだと思うが。<br/>
劉知幾は裴子野伝のエピソードをもって、沈約より裴子野のが上等と断ずるが、そもそも彼は沈約そのものを嫌っているので、そういう評価を真に受けるのはよくないと思います。<br/>
<br/>
***<br/>
以上、それぞれの宋史について簡単にまとめてみた。<br/>
沈約はだいたい現存しているが、ほかは断片的にもほとんど伝わっておらず、後漢史や晋史のような輯佚もほぼされていない(はず)。<br/>
というなかで宋史の歴史をまとめてみたのは、沈約『宋書』における時間的な堆積をちょっと強調してみたかったからである。<br/>
先行書物から記述材料を採ることは当たり前だろうが、沈約の場合、多く依っている資料が宋朝で編纂されていた国史だという点に注意しなければならない。沈約が全体に手を加えているであろうが、良くも悪くも同時代資料の集積と言える部分があるのでないか。沈約の認識というものを抽出するにはそこそこの手続きが必要になるし<a name="2017102214b"><a href="#2017102214">[14]</a></a>、何承天・徐爰以降アップデートされていないままの情報もあるかもしれない。<br/>
<br/>
例えば百官志を考えてみよう。百官志でもっとも不思議なところは、宋史の志であるはずなのに、宋の情報が意外に少ないことだ。劉宋の情報だけで構成しようとすれば、蕭子顕『南斉書』の百官志くらいの分量になるだろう。<br/>
また、沈約の同時代、『斉職儀』という官職の歴史を集成した書物があったが<a name="2017102215b"><a href="#2017102215">[15]</a></a>、沈約の百官志にはこれを参照した形跡があまりないように見受けられる。『斉職儀』は斉の永明9年に秘書に入れられているので、沈約が志を編纂している時期にあたる。参照できなかったとは思えないし、情報源としても価値はあったと思うが。それに『斉職儀』は官職の通史であったと考えられるので、魏晋以降の通史的叙述をめざす沈約にとってはちょうどよい手本だったはずだが。<br/>
ひょっとしてだが、百官志は何承天版に多少の情報を加えたのみで完成させたのではないか。『斉職儀』のような書物を参照して、何承天版を大幅に書き換えるなんて作業をしなかったのではないか。沈約の志が成ったのは梁初だとしても<span class="sm">(中華書局校点本p. 2参照)</span>、そこの情報はヨリ古いものと見なす必要がでてこないか。まあでも、この想像はちょっとやりすぎかもしれない<a name="2017102216b"><a href="#2017102216">[16]</a></a>。<br/>
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もう一つ気になるのが、唐修『晋書』職官志との関係である。唐修『晋書』の志は沈約の志と重複していて無用との見解もあるが<span class="sm">(内藤湖南『支那史学史』、全集11巻、p. 156)</span>、百官志・職官志だけに限ればそうとも言えない。<br/>
たしかに内容的な重複どころか、字句の重複まで見られるが、『晋書』のほうは晋の記録に細かいし、『晋書』と『宋書』で同じ資料から引用していると思われる箇所についても、『晋書』のほうが長く引用されている場合がある。唐の史官が沈約『宋書』を参考に可能性はあるだろうが、しかし比重は別の資料に置かれているように思われる。つまり、唐修『晋書』職官志と沈約『宋書』百官志とは直接的には異なる系譜をもっており、例えば前者は臧栄緒で後者は何承天が直接的な継承関係、といったところでないか。<br/>
ここでまた想定しなければならないのは、じゃあ臧栄緒はどのあたりの資料を参考に志をまとめたと考えうるか、ということだ。沈約の自序にあったように、晋史で江右と江左を統合した書物は晋滅亡後も書かれていなかった。宋末に成ったであろう臧栄緒の『晋書』が唐にいたっても重んじられたのは、東西の晋史をまとめたからである。なので、臧栄緒『晋書』は多くの部分で彼自身の編集が加わっていると思われる。<br/>
どうして臧栄緒の成り立ちなどを取り上げるかというと、ある想定を念頭に置く必要があると思うからである。仮に唐修『晋書』の職官志が臧栄緒『晋書』をだいたいの形で継承したものであったとすれば、唐職官志に多く見える傅暢『晋公卿礼秩』、荀綽『晋百官表注』を参照した形跡は、臧栄緒の編集によるものだったことになる。ここでさらに、臧栄緒の参考文献に何承天の百官志を加えることはできないか。<br/>
先に挙げた2書は西晋までを範囲としている。しかし唐職官志と沈約の百官志は東晋の記述においても重複が見られる。これは両志が東晋以降の資料を部分的に共有しているからだと思われるが、その共有部分こそ何承天であったりしないか。沈約が何承天の志を高く評価しているのは、志序で述べられていたように、魏晋をまとめて叙述した志がほかにないからだ。まして晋は東西を統合した歴史叙述すらない。そうした状況は臧栄緒においても変わらなかったはずである。何承天の志をベースとしつつ、『晋公卿礼秩』『晋百官表注』『晋令』などの資料で増補していったのでないか。<br/>
ここで逆の想定、沈約が臧栄緒を参照して百官志を編集した、と考えるのは難しいと思う。宋の国史でありかつ沈約の意向に沿う通史的な何承天と、晋一代の臧栄緒とでは、前者を優先するのが当然だろう。<br/>
すごくゴチャゴチャとしてしまったのは、まだ情報やら想定やらを整理できていないからなのですんません。<br/>
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まあ、以上のような想像は「こういうのを念頭に検討してみたいです」って表明みたいなもんです。前段階の作業として今回のまとめをしてみた。何承天、徐爰、唐修『晋書』、臧栄緒『晋書』、『斉職儀』、ここでは言及できなかった史部職官類の零細史籍等々、いろいろ洗ってみないといけないですね。しかし、こうして記述の起源をたどっていく的な作業ってどんだけ意味があるのかとも思うので、あんまり不毛にならない程度にしておきたいですね。<br/>
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――注――
<p><a name="201710221">[1]</a>原文は「王役」なので戦争関連のことだと思うが、南斉のことはよく知らないのでわからない。永明4年の唐宇之の乱?<SPAN class="sm"><a href="#201710221b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710222">[2]</a>原文「馬魯之徒」。義煕11年に結託して劉裕討伐の兵を挙げた荊州刺史・司馬休之と雍州刺史・魯宗之を指すと考えられる。二人は劉裕に敗れたあと、北に亡命。魯宗之の孫は魯爽といい、北朝育ちで、太武帝に仕えていた。のちに劉宋に奔り、劉宋孝武帝のとき、劉義宣、臧質と挙兵する計画を立てていたが、いろいろあって計画は失敗し、斬られた。<SPAN class="sm"><a href="#201710222b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710223">[3]</a>謝混、郗僧施は劉毅と仲が良かったらしい。建康にいた謝混は義煕8年に劉裕によって誅殺されたが、これは劉毅の挙兵を予測して事前に殺害したものと記述されている。郗僧施は劉毅とともに江陵で挙兵したが、劉裕が江陵を陥落させたさいに劉毅ともども誅殺したようである<span class="sm">(どちらも宋書武帝紀など参照)</span>。呉隠之は広州で盧循にボコボコにされたやつ以上のことをぶっちゃけ知らないのだけど、東晋末に清廉で鳴らした人物らしい<span class="sm">(『晋書』巻90良吏伝・呉隠之伝)</span>。劉裕とも多少やり取りがあったようだ。義煕9年没なので、彼の事跡はあくまで晋史に入れるべき、ということだろう。<SPAN class="sm"><a href="#201710223b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710224">[4]</a>ここに挙がっている人物は、前代までの宋書では立伝されていたとのことだが、「劉毅、何無忌、魏詠之、檀憑之、孟昶、諸葛長民」のグループは唐修『晋書』巻85にほぼそのままのメンツで固められており、もしかすると唐の史官が編纂時に徐爰版などからそのまま転載したのではないかと疑っているが、確証はない。他の人物は魯宗之を除き、唐修『晋書』に伝が立てられているが(郗僧施は郗超伝末尾に小さい附伝があるだけだが)、それらと沈約以前の宋書の伝との関係は検証していないので不明。魯宗之は沈約宋書の魯爽伝冒頭に記述がある(爽は宗之の孫)。<SPAN class="sm"><a href="#201710224b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710225">[5]</a>『宋略』については本ブログ別記事を参照<span class="sm">(<a href="https://sinyousyuden.blogspot.jp/2013/09/blog-post_9484.html">『建康実録』の東晋巻について</a>)</span>。総論は『建康実録』巻14末尾から引用した。『建康実録』は張忱石氏の校訂本<span class="sm">(中華書局、1986年)</span>を使用した。本来は、総論の引用は蒙文通「『宋略』存於『建康実録』考――附『宋略総論』校記」<span class="sm">(『蒙文通文集第三巻 経史抉原』巴蜀書社、1995年)</span>からのが望ましいのだが、自宅のどこかに埋もれてしまって発掘するのがめんどうなので、『建康実録』からで勘弁してほしい。ほか、裴松之の国史編纂にかんする記述を挙げておく。『宋書』巻64裴松之伝「続何承天国史、未及撰述、二十八年、卒」、『梁書』巻30裴子野伝「初、子野曽祖松之、宋元嘉中受詔続修何承天宋史、未及成而卒」、『史通』外篇・古今正史「後又命裴松之続成国史、松之尋卒」。<SPAN class="sm"><a href="#201710225b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710226">[6]</a>『宋書』裴松之伝によると、松之は元嘉28年に没している。それに元嘉16年といえば、何承天が編纂を命じられた年なのだが・・・。記憶違いか何かかな?<SPAN class="sm"><a href="#201710226b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710227">[7]</a>『宋書』王僧達伝「蘇宝者、名宝生、本寒門、有文義之美。元嘉中立国子学、為毛詩助教、為太祖所知、官至南台侍御史、江寧令。坐知高闍反不即啓聞、与闍共伏誅」。<SPAN class="sm"><a href="#201710227b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710228">[8]</a>『史通』外篇・史官建置には次のような記述も見える。「かつては、佐郎が広く収集し、著作郎が伝の文章を作成し、両者に誤りがあった場合は秘書監がその問題にあたっていた(?)<span class="sm">(旧事、佐郎職知博採、正郎資以草伝、如正佐有失、則秘監職思其憂)</span>」。<SPAN class="sm"><a href="#201710228b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710229">[9]</a>『晋書』巻40賈充伝附謐伝「賈謐は(喪のため官から去っていたが)家から起って秘書監に就き、国史を担当することとなった。以前より、朝廷では晋書の(はじまりの)区切りが議論されていた。中書監の荀勖は魏の正始を起年に主張し、著作郎の王瓚は嘉平年間以降の朝臣もみな晋の史書に入れたいと論じた。そのときはどちらかに決められなかった。恵帝が即位すると、再度議論されることとなった。賈謐は議を奏上し、泰始を区切りにしたいと要望した。議題は三府に下され、審議された。司徒の王戎、司空の張華、領軍将軍の王衍、侍中の楽広、黄門侍郎の嵇紹、国子博士の謝衡は賈謐の提案に賛同した。騎都尉、済北侯の荀畯、侍中の荀藩、黄門侍郎の華混は正始、博士の荀熙と刁協は嘉平を主張した。賈謐ははもう一度、王戎と張華の議を奏上した。こうして賈謐の議のとおり、泰始が採用された<span class="sm">(起為秘書監、掌国史。先是、朝廷議立晋書限断、中書監荀勖謂宜以魏正始起年、著作郎王瓚欲引嘉平已下朝臣尽入晋史、于時依違未有所決。恵帝立、更使議之。謐上議、請従泰始為断。於是事下三府、司徒王戎、司空張華、領軍将軍王衍、侍中楽広、黄門侍郎嵇紹、国子博士謝衡皆従謐議。騎都尉済北侯荀畯、侍中荀藩、黄門侍郎華混以為宜用正始開元。博士荀熙、刁協謂宜嘉平起年。謐重執奏戎華之議、事遂施行)</span>」。<SPAN class="sm"><a href="#201710229b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017102210">[10]</a>『晋書』巻82干宝伝「晋が中興したさい、まだ史官が置かれていなかった。そこで中書監の王導が上疏して述べた。『そもそも帝王の事跡は必ず書かれねばならず、記録して法典とし、これを無窮に伝えていくものです。宣皇帝は四海を平定し、武皇帝は魏から受禅しました。両帝の至高の徳、偉大な勲功は、上古の聖人に等しいですが、その紀伝は王府になく、両帝を称える徳音はまだ管弦で演奏されておりません。聖明なる陛下は、中興という隆盛の時期にあたっております。まさしく国史をつくり、帝紀を編集し、上は祖宗の功績を述べ伝え、下は功臣の勲功を記録すべきです。事実の記録に腐心することで、後世の手本となり、かつ天下の希望に従い、かつ人と神の心を満足させることとなり、これらこそ天下が落ち着くという非常な麗しさ、王者のおおいなる基盤と言えましょう。史官を設け、佐著作郎の干宝らに命じ、国史を漸次編纂させるのがよろしいかと存じます』。元帝は聞き入れた。干宝はこうしてはじめて国史を担当することになった。・・・『晋紀』を著し、宣帝から愍帝まで53年、全20巻、これを奏した<span class="sm">(中興草創、未置史官、中書監王導上疏曰、『夫帝王之迹、莫不必書、著為令典、垂之無窮。宣皇帝廓定四海、武皇帝受禅於魏、至徳大勳、等蹤上聖、而紀伝不存於王府、徳音未被乎管絃。陛下聖明、当中興之盛、宜建立国史、撰集帝紀、上敷祖宗之烈、下紀佐命之勲、務以実録、為後代之準、厭率土之望、悦人神之心、斯誠雍熙之至美、王者之弘基也。宜備史官、勅佐著作郎干宝等漸就撰集』。元帝納焉。宝於是始領国史。・・・著晋紀、自宣帝迄于愍帝五十三年、凡二十卷、奏之)</span>」。<br/>
『宋書』巻55徐広伝「義煕2年、尚書が上奏した。『左史は帝王の発言を記録し、右史は時事を記録する、と伝えられています。乗は晋で、志は鄭で編纂され、春秋は魯の歴史を記しました。わが朝が起こり、晋の祭祀を中興させて以来、道徳的な風流(?)や帝王の記録(?)は、国史に明らかとされております。ですが現在、太和から三朝(三代)を経ており、その玄妙なる風流と聖なる事跡は、たちまちに過去の出来事となってしまうものです(のに、まだ記録がされておりません)。臣らが考えますに、著作郎の徐広が国史の編纂に適当かと存じます』。 詔が下った。『先代の輝かしい徳はまだ記録されていない。遠い先までこの様子を伝え、後世に久しく継いでいくべきだろう』。こうして編纂を命じられた。・・・12年、『晋紀』全46巻が完成し、上表して献上した<span class="sm">(二年、尚書奏曰、『臣聞左史述言、右官書事、乗志顕於晋鄭、陽秋著乎魯史。自皇代有造、中興晋祀、道風帝典、煥乎史策。而太和以降、世歴三朝、玄風聖迹、倏為疇古。臣等参詳、宜勅著作郎徐広撰成国史』。詔曰、『先朝至徳光被、未著方策、宜流風緬代、永貽将来者也』。便勅撰集。・・・十二年、晋紀成、凡四十六巻、表上之)</span>」。<SPAN class="sm"><a href="#2017102210b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017102211">[11]</a>勝村哲也「修文殿御覧巻第三百一香部の復元――森鹿三氏「修文殿御覧について」を手掛りとして」(『日本仏教学会年報』38、1973年)、同氏「『修文殿御覧』新考」(『森鹿三博士頌寿記念論文集』同朋舎、1977年)。<SPAN class="sm"><a href="#2017102211b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017102212">[12]</a>『南斉書』王智深伝「勅智深撰宋紀、召見芙蓉堂、賜衣服、給宅。智深告貧於豫章王、王曰、『須卿書成、当相論以禄』。書成三十巻、世祖後召見智深於璿明殿、令拝表奏上。表未奏而世祖崩。隆昌元年、勅索其書、智深遷為竟陵王司徒参軍」。<SPAN class="sm"><a href="#2017102212b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017102213">[13]</a>『宋書』巻74臧質伝「沖之、太原中都人、晋秘書監盛曽孫也。官至右軍将軍、巴東太守。後事在鄧琬伝」。<SPAN class="sm"><a href="#2017102213b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017102214">[14]</a>思い返すと、川合安先生の議論はこういう問題に抵触しないよう構成されていたはずで(「史臣曰」条を核にするとか)、やっぱりスゲェって思いました。。。<SPAN class="sm"><a href="#2017102214b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017102215">[15]</a>『斉職儀』は歴代の官職の歴史を叙述した書物で、王珪之が宋・後廃帝から勅命を受けて編纂を開始し、斉の永明9年に秘書に入れられた。本ブログの記事<span class="sm">(<a href="https://sinyousyuden.blogspot.jp/2013/09/blog-post_22.html">「太宰ってさあ・・・」</a>)</span>も参照。<SPAN class="sm"><a href="#2017102215b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017102216">[16]</a>『南斉書』百官志・州牧刺史の条で、州都督の起源を記述するに、「何徐志云起魏武遣諸州将督軍」と何承天&徐爰の志での説明を紹介している。沈約の百官志ではどうなっているかというと、「持節都督・・・建安中、魏武帝為相、始遣大将軍督軍。・・・魏文帝黄初二年、始置都督諸州軍事、或領刺史」あたりが関連部分だろうか。これを見るかぎりでは、州都督の起源は魏文帝ということになっている。残念ながら蕭子顕は何承天&徐爰を引用しているわけではないので、確実な比較にはなりにくい。例えば、実際は沈約と同じ記述が何承天&徐爰の志にもあって、それを見た蕭子顕が「魏武が最初だ!」と読んだのかもしれない。なので、この部分からあーだこーだ言うのはやりにくい。とはいえ、何承天&徐爰と沈約のあいだには記録に相違があるようですね。<br/><SPAN class="sm"><a href="#2017102216b">[上に戻る]</span></a></p>
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hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-77175371486441982612017-10-09T12:20:00.000+09:002019-11-07T19:06:33.362+09:00『宋書』百官志訳注(13)――御史台(蘭台)<p class="mb5"></p>
御史中丞は一人。不法の弾劾を掌る<span class="sm"><a name="201710091b"><a href="#201710091">[1]</a></a></span>。秦のとき、御史大夫には丞が二つ置かれたが、一つを御史丞、もう一つを御史中丞と言った<span class="sm"><a name="201710092b"><a href="#201710092">[2]</a></a></span>。殿中の蘭台には秘書が所蔵されていたが、御史中丞はここに勤務し、外では部刺史を監督して、内では侍御史を統べた。(侍御史は)公卿の奏事<span class="sm">〔告発の奏文〕</span>を受けると、弾劾して法のとおりに処置した<span class="sm"><a name="201710093b"><a href="#201710093">[3]</a></a></span>。当時は御史中丞も奏事を受けていたので、(御史中丞と侍御史とで)職務を分担していたのであろう。成帝の綏和元年、御史大夫を大司空に改称し、長史を置いたが、御史中丞は従来のままとされた。哀帝の建平2年、(大司空は)御史大夫に戻された。元寿2年、大司空に戻された。(このとき)御史中丞は(勤務先を殿中から?)外に出され、(御史大夫に代わって)御史台の主任となり、御史長史と改名された<span class="sm"><a name="201710094b"><a href="#201710094">[4]</a></a></span>。光武帝のときに御史中丞に戻され、少府の所属となった<span class="sm"><a name="201710095b"><a href="#201710095">[5]</a></a></span>。献帝のとき、改革で御史大夫と長史一人が置かれたが、(御史大夫が)御史中丞を管轄することはなかった。東漢では、御史中丞が尚書の丞や郎に偶然会うと、御史中丞は車を止め、笏を手にして拱手の礼をおこなうが、尚書丞、郎は車に座ったまま手を挙げて返礼するのみであった。この決まりがいつ廃されたのかはわからない<span class="sm"><a name="201710096b"><a href="#201710096">[6]</a></a></span>。御史中丞は毎月25日に、行宮の城壁を視察して修繕していた<span class="sm">〔原文「繞行宮垣白壁」。「白」を「キレイにする」で取ってみたが・・・〕</span>。史臣が考えるに、漢志<span class="sm">〔続漢書〕</span>によると、執金吾は毎月三回、行宮の城壁を視察していたという。おそらく執金吾を廃したさい<span class="sm">〔=魏晋のころ〕</span>、この仕事が御史中丞に割り振られたのであろう。御史中丞は秩千石<span class="sm"><a name="201710097b"><a href="#201710097">[7]</a></a></span>。<br />
治書侍御史は、官品六品以上の弾劾を掌る。漢の宣帝が身体を洗って(宣室で)過ごしながら判決事務を執るとき、御史二人に(傍に控えさせて)文書を作成させた。(のちに)このことにちなんで(この役職を)治書侍御史と言うようになった<span class="sm"><a name="201710098b"><a href="#201710098">[8]</a></a></span>。東漢では法に明るい者をこの官に就かせ、地方から(中央に)疑事<span class="sm">〔判決に悩む案件〕</span>の裁定判断を仰がれたさいには、法を根拠に判決を示した<span class="sm"><a name="201710099b"><a href="#201710099">[9]</a></a></span>。魏晋以降、侍御史が配属されていた諸曹を分担して管轄することになり、尚書二丞のようになった<span class="sm"><a name="2017100910b"><a href="#2017100910">[10]</a></a></span>。<br />
侍御史は、周では柱下史と言う<span class="sm"><a name="2017100911b"><a href="#2017100911">[11]</a></a></span>。『周官』に御史が見え、治の法令のことを担当していたが<span class="sm"><a name="2017100912b"><a href="#2017100912">[12]</a></a></span>、侍御史もこの職務である。秦は侍御史を置き、漢はこれを継承した。二漢はともに定員十五人であった。不法の弾劾に従事する。公卿の奏事を受けたさいは、違反があったら告発する。五つの曹があった。一つめを令曹といい、律令を担当した。二つめを印曹といい、刻印を担当した。三つめを供曹といい、齋祠<span class="sm">〔厳密には「春にものいみしておこなう祭祀」の意っぽいが通じていないので不詳〕</span>を担当した。四つめを尉馬曹といい、官厩の馬を担当した。五つめを乗曹といい、護駕<span class="sm">〔天子の車の護衛隊列〕</span>を担当した。魏は御史を八人置いた。(列曹には)度支と運送を担当する治書曹、考課を担当する課第曹があったが、そのほかについてはわからない。西晋には全部で、吏曹、課第曹、直事曹、印曹、中都督曹、外都督曹、媒曹、符節曹、水曹、中塁曹、営軍曹、算曹、法曹の十三曹があったが、御史は九人であった<span class="sm"><a name="2017100913b"><a href="#2017100913">[13]</a></a></span>。江左の初め、課第曹を廃した。庫曹を置き、厩牧の牛馬や市税を担当した。のち、庫曹を外左庫曹、内左庫曹に分けた。宋の太祖の元嘉年間、外左庫曹を廃したので、内左庫曹をたんに左庫曹と言うようになった。世祖の大明年間、(外左庫曹を)復置した。廃帝の景和元年にまた廃された。順帝の初め、営軍曹を廃して水曹に、算曹を廃して法曹に、それぞれ統合し、吏曹には御史を置かず、全部で(曹が十なので?)御史を十人とした。<br/>
魏には殿中侍御史が二人いたが、おそらくこれは蘭台が御史二人を殿中に居らせて不法を挙げさせたものであろう。西晋では四人、江左では二人<span class="sm"><a name="2017100914b"><a href="#2017100914">[14]</a></a></span>。<br/>
秦、漢には符節令がおり、少府に所属し、符璽郎、符節令史を管轄していたが<span class="sm"><a name="2017100915b"><a href="#2017100915">[15]</a></a></span>、これらは『周礼』に見える典瑞、掌節の職務である<span class="sm"><a name="2017100916b"><a href="#2017100916">[16]</a></a></span>。漢から魏までは(御史台とは)別に台(符節台)を組織しており、位は御史中丞に<del>次いだ</del>に位置した<span class="sm"><a name="2017100917b"><a href="#2017100917">[17]</a></a></span>。節、銅虎符、竹使符の授与を職掌とした。晋の武帝の泰始9年、符節令を廃して蘭台に統合し、(蘭台に)符節御史を置いて、この職務を担当させた。<br/>
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――注――<br/>
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<p><a name="201710091">[1]</a>『通典』巻24職官志6御史台「所居之署、漢謂之御史府、亦謂之御史大夫寺、亦謂之憲台。…後漢以来、謂之御史台、亦謂之蘭台寺」。『太平御覧』巻226職官部24御史大夫下引『謝霊運晋書』「漢官、尚書為中台、御史為憲台、謁者為外台、是為三台。自漢罷御史大夫、而憲台猶置、以丞為台主、中丞是也」。<SPAN class="sm"><a href="#201710091b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710092">[2]</a>『通典』巻24中丞「亦謂中丞為御史中執法」。<SPAN class="sm"><a href="#201710092b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710093">[3]</a>『漢書』百官公卿表・御史大夫「有両丞、…一曰中丞、在殿中蘭台、掌図籍秘書、外督部刺史、内領侍御史、員十五人、受公卿奏事、挙劾按章」。本文とほぼ同じなので、本文は『漢書』を参考に作成された可能性が高いと思われる。とすると、本文の侍御史以下の記述「受公卿奏事…」は、『漢書』におけるように、侍御史の職掌についての記述と読むべきである。したがって、訳文のように区切って読んだ。とはいえ、百官志作成者がそのように『漢書』を読んで引用したのかは不明だが。<SPAN class="sm"><a href="#201710093b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710094">[4]</a>『続漢書』志26百官志五・小府・御史中丞には「及御史大夫転為司空、<b>因別留中</b>、為御史台率」とあり、御史台は変わらず宮中に留められたとされている。『三国志』巻13王朗伝附粛伝に「蘭台為外台、秘書為内閣」とあるのを見ると、蘭台は「外」であったとみるのがよいのだろうか。後文に魏の殿中侍御史の条文があるが、そこでわざわざ「蘭台から殿中に派遣させている侍御史」と説明しているのをみると、蘭台自体はやはり「外」にあったのかもね。<SPAN class="sm"><a href="#201710094b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710095">[5]</a>『太平御覧』巻225職官部23御史中丞上引『漢官解詁注』「建武以来、省御史大夫官属、入侍蘭台。蘭台有十五人、特置中丞一人、以惣之。此官得挙非法、其権次尚書」。<SPAN class="sm"><a href="#201710095b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710096">[6]</a>『南斉書』巻16百官志・御史中丞に「宋孝建二年制、中丞与尚書令分道、雖丞郎下朝相値、亦得断之、余内外衆官、皆受停駐」と、御史中丞と尚書令とで優先道路?のようなもの<span class="sm">(朝廷への/からの道の途中で他の官と出くわしたりしてもそのままスルーできたりするとかいうやつだろう)</span>が定められ?、御史中丞が尚書丞・郎と出くわしてもそのままスルーできた?っぽいから、漢のしきたりが廃されたのは孝武帝のこのときなんじゃね?とか思うのだけどよくワカラン(よく読めない)。<br/>
この件については、先立つ文帝の元嘉13年に御史中丞の劉式之の議<span class="sm">(『宋書』巻15礼志2引)</span>も関係している。長いのでまとめてみると、①法には「中丞は道を専らにする」とあるのみで、「他の官と分ける」とは定められていない、しかし分けたほうが良い。②揚州刺史、丹陽尹、建康令もこの土地の官で、迅速な対応が必要になるからやっぱり道を分けたほうが良いと思うけど、それらの官が行馬内の官に属するのかよくわかんないからそんな特別扱いしちゃって妥当かは自信がない。これに対する回答が、①要望通り中丞は分ける。②行馬内=六門内は州郡県に属さないし、門外の事情を持ち出すのは妥当じゃないんじゃないかな。③ついでだから、尚書令と尚書僕射にも中丞と同じように専道の定めがあったけど、中丞と同じ感じで分けておくね。という文脈で、孝武帝のときの改革があるのでした。<span class="sm">(宋書の原文:宋文帝元嘉十三年七月、有司奏、「御史中丞劉式之議、『毎至出行、未知制与何官分道、応有旧科。法唯称中丞専道、伝詔荷信、詔喚衆官、応詔者行、得制令無分別他官之文、既無画然定則、準承有疑。謂皇太子正議東儲、不宜与衆同例、中丞応与分道。揚州刺史、丹陽尹、建康令、並是京輦土地之主、或検校非違、或赴救水火、事応神速、不宜稽駐、亦合分道。又尋六門則為行馬之内、且禁衞非違、並由二衛及領軍、未詳京尹、建康令門内之徒及公事、亦得与中丞分道与不。其准參旧儀、告報參詳所宜分道』。聴如台所上。其六門内、既非州郡県部界、則不合依門外。其尚書令、二僕射所応分道、亦悉与中丞同」)</span>。<br/>
なお、揚州刺史なども分ければいいのに~という要望についてだが、『太平御覧』巻225御史大夫上引『魏氏春秋』に「故事、御史中丞与洛陽令、相遇、則分路而行。以土主多逐捕、不欲稽留也」と、劉式之が挙げたのと同じ理由で曹魏の洛陽令は優先されていたようである。<SPAN class="sm"><a href="#201710096b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710097">[7]</a>魏晋、劉宋期の消息について。『通典』中丞「魏のはじめ、中丞を宮正に改称し、鮑勛をこれに就けた。のちに中丞に戻った。晋も漢と同様に中丞を設けた。<b>中丞を蘭台のボスとし、司隷校尉と分担して百官を監督した。皇太子以下、糾弾できない官はいなかった。当初は尚書を弾劾できなかったのだが、のちに可能となった。中丞は行馬の内側での違反者を、司隷校尉は外側での違反者を担当していた。とはいえ、このように内外で区切られていても、どんな官でも告発していたので、実際にはその区別はないようなものである</b><span class="sm">(魏初、改中丞為宮正、挙鮑勛為之、百僚厳憚。後復為中丞。晋亦因漢、<b>以中丞為台主、与司隷分督百僚。自皇太子以下、無所不糾。初不得糾尚書、後亦糾之。中丞専糾行馬内、司隷専糾行馬外。雖制如是、然亦更奏衆官、実無其限</b>)</span>」とあり、司隷校尉と補完的な関係にあったらしい。「行馬内」というのは、殿中のことを言うのであろう。<br/>
『通典』のこの記述の参考資料であったと思われる一つが、『晋書』巻47傅玄伝附咸伝の上事である。長い文章なのだが、要点としては、①晋令には「御史中丞は百官を監督し、行馬内では皇太子以下誰でも弾劾でき、外だと弾劾はできないが、奏文は可能である」と定められていること、②といっても、行馬外のことでも拡大解釈的な感じでやっちゃっているが、令の解釈的には「百官を監督する」と定めながら内外の区別を導入しているのは、中丞は内だけ、司隷は外だけと分割させず、双方とも内外に対して一定の権限をもたせ、もって補完させているので、「(内外の)百官を監督する」と記しているのだ、とする<span class="sm">(原文はコチラ:按令、御史中丞督司百僚。皇太子以下、其在行馬内、有違法憲者、皆弾糾之。雖在行馬外、而監司不糾、亦得奏之。如令之文、行馬之内有違法憲、謂禁防之事耳。宮内禁防、外司不得而行、故専施中丞。今道路橋梁不修、闘訟屠沽不絶、如此之比、中丞推責州坐、即今所謂行馬内語施於禁防。既云中丞督司百僚矣、何復説行馬之内乎。既云百僚、而不得復説行馬之内者、内外衆官謂之百僚、則通内外矣。司隸所以不復説行馬内外者、禁防之事已於中丞説之故也。中丞、司隸俱糾皇太子以下、則共対司内外矣、不為中丞専司内百僚、司隸専司外百僚。自有中丞、司隸以来、更互奏内外衆官、惟所糾得無内外之限也。)</span>。<br/>
東晋だと御史中丞には優秀な名門が就いていたらしいが、しかし当の名門たちにとってはあまり喜べない職であったらしい。多忙だったからとかそんな理由かな? 『通典』中丞「自斉梁皆謂中丞為南司。江左中丞雖亦一時髦彦、然膏粱名士猶不楽」。<SPAN class="sm"><a href="#201710097b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710098">[8]</a>『続漢書』御史中丞・劉昭注に引く胡広「孝宣感路温舒言、秋季後請讞。時帝幸宣室、齋居而決事、令侍御史二人治書、御史起此。後因別置、冠法冠、秩千石、有印綬、与符節郎共平廷尉奏事、罪当軽重」。<SPAN class="sm"><a href="#201710098b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201710099">[9]</a>『続漢書』御史中丞・劉昭注引蔡質『漢儀』「選御史高第補之」。<SPAN class="sm"><a href="#201710099b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100910">[10]</a>魏晋期の治書侍御史については、『晋書』巻24職官志から補足しておきたい。まず曹魏では、治書侍御史と同格の官として治書執法が新設された<span class="sm">及魏、置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史、掌律令、二官俱置)</span>。だが晋ではすぐ廃されてしまったらしい。「晋のときになると、治書侍御史のみを設け、定員は四人であった。泰始4年、黄沙獄治書侍御史を一人設けた。秩は御史中丞と同じで、詔獄と廷尉が担当しない裁判を職務とした。のちに河南尹と統合され、とうとう黄沙獄治書侍御史は廃止された。太康年間になると、治書侍御史の定員を二人減らした<span class="sm">(及晋、唯置治書侍御史、員四人。泰始四年、又置黄沙獄治書侍御史一人、秩与中丞同、掌詔獄及廷尉不当者皆治之。後并河南、遂省黄沙治書侍御史。及太康中、又省治書侍御史二員)</span>」。これ以後、法のエキスパートという漢代の特質も剥落したようで、『続漢書』御史中丞・劉昭注に引く荀綽『晋百官表注』に「恵帝以後、無所平治、備位而已」とある<span class="sm">(なお『通典』はこの形骸化を漢桓帝以後としている)</span>。この傾向は劉宋以降も変わらなかったようで、『通典』中丞によれば、劉宋以降も侍御史の統御官という位置づけは有していたが、「自宋斉以来、此官不重、自郎官転持書者、謂之南奔」とある。<SPAN class="sm"><a href="#2017100910b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100911">[11]</a>老子が就いていたとされる周の職。<SPAN class="sm"><a href="#2017100911b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100912">[12]</a>『周礼』春官・御史「掌邦国都鄙及万民之治令、以賛冢宰。凡治者受灋令焉。掌賛書。凡数従政者」。<SPAN class="sm"><a href="#2017100912b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100913">[13]</a>『晋書』職官志に「品同治書」とある。<SPAN class="sm"><a href="#2017100913b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100914">[14]</a>このほかの蘭台の官として、『晋書』職官志に「案魏晋官品令又有<b>禁防御史</b>第七品、孝武太元中有<b>検校御史</b>呉琨、則此二職亦蘭台之職也」とある。検校御史については、『通典』巻24職官典6監察侍御史にも見えており、「至晋太元中、始置検校御史、以呉混之為之、<b>掌行馬外事</b>、亦蘭台之職」とあり、「掌行馬外事」の原注に「晋志云、古司隷知行馬外事、<b>晋過江、罷司隷官、故置検校御史、専掌行馬外事</b>」と、行馬外の監察をなしていた司隷校尉に代わって設けられた職であったらしい。ちなみに原注に引く「晋志」は唐修晋書ではないようである。<SPAN class="sm"><a href="#2017100914b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100915">[15]</a>『続漢書』百官志五・小府・符節令・本注「為符節台率、主符節事、凡遣使掌授節」。属官として尚符璽郎中(「主璽及虎符、竹符之半者」)、符節令史(「掌書」)が記されている。<SPAN class="sm"><a href="#2017100915b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100916">[16]</a>典瑞は春官、掌節は地官。『周礼』典瑞「掌玉瑞玉器之蔵。弁其名物与其用事、設其服飾」。形状等によって所持者や祭祀対象のランクを表したりするモノをつかさどる(という感じ)。同掌節「掌守邦節而弁其用、以輔王命」。使者など、それの所持者を保証するモノをつかさどる(みたいな感じ)。<SPAN class="sm"><a href="#2017100916b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2017100917">[17]</a>『晋書』職官志には「秦符璽令之職也。漢因之、位次御史中丞。<b>至魏、別為一台</b>、位次御史中丞」とあり、符節台の設置は曹魏とされていているが、注 [15] で引いた『続漢書』や史書の用例を参照するに、少なくとも後漢期には符節台は置かれていたとみるのが妥当のように思われる。<SPAN class="sm"><a href="#2017100917b">[上に戻る]</span></a></p>
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<p class="mb3"></p>
hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-28416072375619085332017-08-14T23:30:00.002+09:002018-01-02T17:13:00.381+09:00論語集解序<p class="mb5"></p>
◎『古注十三経』(明・永懐堂本)所収の論語集解の訳。<br/>
◎邢昺『論語注疏』を多く参照した。参照したらなるべくその旨を注記するが、しないこともあるかもしれない。<br/>
◎ほか、ネット上で公開されている皇侃『論語義疏』もそこそこに参照した。<br/>
<p class="mb5"></p>
<span class="lr"><b>論語序</B></span><br/>
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<br/>
<del>叙に述べる</del>劉向の録に言う<a name="201708141b"><a href="#201708141">[1]</a></a>、「漢の中塁校尉の向、申し上げます。魯論語、20篇。すべて孔子の弟子たちが師のすぐれた言葉を記録したものです。太子太傅の夏侯勝、前将軍の蕭望之、丞相の韋賢と子の玄成らはこれを授受していました」。「斉論語、22篇。(そのうちの)20篇については、(魯論と篇名は共通していますが)篇のなかの章(段落)と句(文言)は魯論よりも少し多くなっています。琅邪の王卿、膠東の庸生、昌邑中尉の王吉はみなこれを伝えていました」。つまり、(論語には)魯論語と斉論語があった。(また劉向の録によると?)漢の魯共王のとき、王が孔子の家屋を王宮にしようと思い、解体したところ、古文の論語を発見した。斉論語には問王篇、知道篇という篇があり、これが魯論語より多い2篇だが、古論語にもこの2篇はなかった。(古論語は)堯曰篇の「子張問」の章を独立させて1篇とし、子張篇が2つあった。そのため、全21篇となる。篇の順番は斉論語、魯論語と違っている。安昌侯の張禹はもともと魯論語を伝授されていたのだが、同時に斉論語の読み方も研究しており、すぐれている説があれば採用していた。(そうしてできあがった彼独自の論語を)「張侯論」と呼び、世で重んじられた。包氏と周氏の章句<span class="sm">〔読み方、文意の取り方。皇侃「章句者注解。因為分断之名也」〕</span>はこの張侯論にもとづいている。古論語には、博士の孔安国の注釈<span class="sm">〔「訓解」。皇侃「訓亦注也」〕</span>があるのみだが、広まらなかった。漢の順帝のとき、南郡太守の馬融が張侯論<span class="sm">〔皇侃に由る〕</span>の注釈<span class="sm">〔「訓説」。字義を説き明かすこと〕</span>を著した。漢末に大司農の鄭玄が、魯論での篇と章の区切りにもとづきつつ、斉論、古論と比べながら注を記した。近年ではもと司空の陳羣、太常の王粛、博士の周生烈が注釈<span class="sm">〔「義説」。疏に「注をつくって義を説き明かすので義説という」〕</span>を著している<span class="sm">〔皇侃によれば三人とも張論〕</span>。かつては、師の説を学んで、またそれを授けていくのであって、賛成しかねる箇所があってもその部分の(自分の)注釈を記すことはなかった。その後になって(包氏、周氏のように)注釈が書かれるようになり、現在ではその数も多くなってきた。目にする説で同じものはないし、各人の説にはそれぞれ長短がある。いま、学者たち<span class="sm">〔具体的には孔安国、包氏、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王粛、周生烈〕</span>のすぐれた説を収集し、(そのまま引用するときには)その姓名を記し、微妙なところがある説は多く手を加えて注とした<a name="201708142b"><a href="#201708142">[2]</a></a>。これを「論語集解」と名づける<a name="201708143b"><a href="#201708143">[3]</a></a>。<br/>
光録大夫、関内侯の臣、孫邕、光録大夫の臣、鄭沖、散騎常侍、中領軍、安郷亭侯の臣、曹羲、侍中の臣、荀顗、尚書、附馬都尉、関内侯の臣、何晏、献上いたします。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
―――注―――<br/>
<p><a name="201708141">[1]</a>原文「叙曰」。<del>邢昺の疏(以下、たんに「疏」)によると、「序と叙は音も意味も同じ。曰は発語の辞」。</del>邢昺はそう言っているが、ここの「叙」は劉向の録を指すのだろう。つまり劉向の引用は冒頭からはじまる。劉向の録は「目」(篇目)と「叙」(序)からなり、そのゆえにこの録を「叙録」等々と呼ぶこともあったらしい<span class="sm">(余嘉錫『目録学発微』古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹訳、平凡社・東洋文庫、2013年、pp. 41-43参照)</span>。録の冒頭が「――劉向言」ではじまることは、余氏前掲書や厳可均『全漢文』巻37収録の佚文を参照。どこまでが劉向からの引用なのかは最初に更新したときから悩んでおり、まえは「中尉王吉以教授」までとしていたのだが、<del>今回は篇目の次第を云々しているところ全部とした。変だけど</del>劉向の録は魯論と斉論で別個につくられていたであろうと思ったので本文のような感じでわけた(2018/01/02修正)。<SPAN class="sm"><a href="#201708141b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201708142">[2]</a>ここは集解の体例を述べた大事なところ。疏が具体的でわかりやすいので以下に引用。「学者たちのすぐれた説を収集して記録し、剽窃でないことを示す。そのため、それぞれで『その姓名を記す』のである。集解の注に『包曰』『馬曰』とあるのがこれである。本文の注では姓のみを書いているのに、序では『名』と言っているが、これは姓を記すことによってその人を名づける(示す)という意味であって、名前のほうの意味ではない。『微妙なところがある』というのは、学者たちの説に疑問があることである。『多く手を加えた』というのは、すぐれた説はそのまま記録して改変することをせず、疑問のある説は多く改変したということである。注の最初に『包曰』『馬曰』となかったり、学者の注の引用のあとにつづけて『一曰』とあるのは、どれも何氏のものであり、そこから下は先学の説を改変したものであることを示している」。<br/>
<br/>
ところで、邢昺のこの記述は歴史的にも興味深いものである。というのも、邢昺は「序だと姓名を記すと言っているのに実際には姓しか書いていないのはなぜか」という問いを提出して、序の字義を解説しているが、私の見ている永懐堂本も邢昺が例に引いているとおり、姓しか書いていない。<br/>
ところが邢昺に先立って論語集解の疏を著した梁の皇侃の『論語義疏』では、集解の注に「馬融曰」「王粛曰」とバッチリ名も書いて引用してある。皇侃の義疏は中国では佚してしまい、日本に伝存していたものが逆輸入されたそうなのだが(詳しいことは知らない・・・)、学而篇第1章の包氏注への皇侃の疏に「何氏の集解ではすべて人名で呼んでいるのに、包氏だけ『包氏』としている。包氏の名は咸である。何氏の(父の)諱なので避けているのだ」とあるとおり、元来の論語集解の体裁は、ちゃんと姓名を書いて引用していたのであろう(ちなみに包氏の名が咸であるという根拠はよくわからない。周氏のほうは、皇侃も「まったくわからない」らしいのに)。<br/>
いつ、どうして、論語集解で引用されている注が「姓のみ」になってしまったのかはちゃんと研究を読んでいないのでわからないけれど、少なくとも邢昺の時点では、集解の注は名を省略して姓のみにするタイプの本が広くおこなわれていて、邢昺もそれを参照したのであろう。上の引用文はそういう事情をうかがわせるのだ。いい加減な解説でゴメンナサイ<SPAN class="sm"><a href="#201708142b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201708143">[3]</a>疏「杜預の春秋左氏伝も『集解』と言っているが、あちらは『春秋の経と伝(注釈=左氏伝)とを集めまとめ、その解釈を著した』という意味である。こちらのほうは『学者たちの解釈を収集して論語を解き明かした』という意味である。ともに『集解』と言っていても、このように意味はちがう」。<SPAN class="sm"><a href="#201708143b">[上に戻る]</span></a></p>
<p class="mb5"></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-6253681324458070762017-02-08T23:45:00.000+09:002017-12-25T20:52:04.545+09:00馬融「周官伝」序、鄭玄「周礼注」序<p class="mb5"></p>
ともに賈公彦「序周礼廃興」の引用より。明・永懐堂本を使った。句読点は私がつけた。改行も私が勝手に加えた。途中に挿入されている賈氏の文(又云とか)は省略したか、ポイントを下げて文中に挿入した。<br/>
<br/>
<br/>
<span class="lr"><b>馬融「周官伝」</b></span><br/>
<br/>
秦は孝公以降、商君子の法を採用したため、その政治は苛烈となり、『周官』とは真逆の方針であった。そのため、始皇帝は挟書を禁じたさいに、とくに『周官』を嫌って消滅させようとはかり、捜索して焼いたのであった。ただこのためのだけに、百年間秘蔵されたのである。<br/>
孝武帝が挟書律をとりはらって、書籍を募集するようになるや、山の洞穴や旧宅の壁から取り出され、朝廷の秘書に入れられたのであった。しかし五家の儒者<span class="sm">(礼の五伝弟子の学派を指すか)</span>はこれを見ることができなかった<span class="sm">(理解することができなかった?)</span>。<br/>
孝成帝のときになって、達才通人と称すべき、劉向とその子の歆が朝廷の秘書を整理、校勘した。こうしてようやく『周官』は整えられ、劉向の『別録』および劉歆の『七略』に記録されたのである。だが、冬官の一篇は失われていたため、『考工記』を付け加えたのであった。<br/>
当時、多くの儒者が世に出ていたが、そろって『周官』を退けておかしいと批判した。ただ劉歆だけが(この書の意義を)見抜いていた。彼はまだ若いにもかかわらず<span class="sm">(原文「尚幼」。ちょっと年を増した感じで訳した)</span>、広く書物を読むことに力を注いでいたし、春秋末年のことに精通していた。それゆえ、周公が太平を招来した事跡はすべて『周官』に記録されていることを彼は理解していたのである。<br/>
ところが、天下は戦乱の世となり、戦争が各地で起こり、流行病と凶年が重なるようになってしま(い、このようななかで彼は亡くなってしま)った。弟子たちも死去してしまったが、河南緱氏の杜子春だけは生き延びた。永平のはじめころには、九十歳になろうかという高齢で、終南山に家を構えていた。『周官』の<span class="sm">(あるいは「劉歆の」?)</span>読み方に通じており、劉歆の<span class="sm">(?)</span>学説に詳しかった。鄭衆と賈逵は彼のもとに行って『周官』の学業を受けた。<br/>
鄭衆、賈逵は博識の秀才で、経、書、記はたがいに典拠となって文意を明らかにしているとみなし、注釈を著した。賈逵の注釈は広く読まれたが、鄭衆のものはあまり読まれなかった。二氏の説をいっしょに採用していけば、本文はよく読めるようになるが、それでも誤りやいたらない箇所が多い。<br/>
とはいえ、鄭衆の説のほうはしばしば妥当さを得ている。彼が誤っているのは、尚書の周官篇の序に「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」とあるのをみて、これこそ『周官』のことだと主張しているくらいのものである<span class="sm">(原文は「鄭衆はこの書物が尚書の周官篇だということを見逃していた」の意にも読めるが、馬国翰も訳文のように理解しているみたいだし、とりあえずこれで)</span>。<br/>
賈逵はというと、「六郷大夫は冢宰である」云々と言ったり、「六郷<span class="sm">(原文は「六遂」だが後文と通じないので改める)</span>は十五万家で、千里の地にわたっている」と論じているが、ひどいまちがいだ。このような例がひじょうに多い。慨嘆してやまぬものだ。六郷の住民は四同の地に居住しているのだから、「千里の地にわたっている」というのは誤りだ<span class="sm">(賈曰く、「『六郷大夫は冢宰である』以降の批判している箇所は省略する。また『ひじょうに多い』という箇所だが、馬融による賈逵説の紹介については多く省略したという意である」)</span>。<br/>
・・・<span class="sm">(省略あり?)</span>・・・私は六十歳になったときに武都の太守になったが、郡は小さくて仕事が少ないので、考えをまとめておこうと思い、易、尚書、詩、礼の伝<span class="sm">(注釈)</span>を書き記し、すべて完成させた。しかし『周官』のみ完成させれなかったことを気にしていた。そこで六十六のとき、目は悪くなり、集中力もつづかなくなってきたなかで、なんとかまとめることができた。かくてこれを「周官伝」と名づける。<br/>
<br/>
<br/>
秦、自孝公已下、用商君之法、其政酷烈、与周官相反。故始皇禁挟書、特疾悪、欲絶滅之、捜求焚焼之、独悉是以隠蔵百年。<br/>
孝武帝始除挟書之律、開献書之路、既出於山巌屋壁、復入于秘府。五家之儒莫得見焉。<br/>
至孝成皇帝、達才通人、劉向子歆、校理秘書、始得列序、著于録略。然亡其冬官一篇、以考工記足之。<br/>
時衆儒並出、共排以為非。是唯歆独識。其年尚幼、務在広覧博観、又多鋭精于春秋末年、乃知其周公致太平之迹、迹具在斯。<br/>
奈遭天下倉卒、兵革並起、疾疫喪荒、弟子死喪、徒有里人河南緱氏杜子春。尚在永平之初、年且九十、家于南山、能通其読、頗識其説。鄭衆、賈逵往受業焉。<br/>
衆、逵、洪雅博聞、又以経書記轉<span class="sm">(阮元は「傳」の誤りとするが、ママとしておいた)</span>相証明為解。逵解行於世、衆解不行。兼攬二家為備、多所遺闕。<br/>
然衆、時所解説、近得其実。独以書序言「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」、則此周官也、失之矣。<br/>
逵以為六郷大夫則冢宰以下、及六遂為十五万家、絙千里之地、甚謬焉。此比多多。吾甚閔之久矣。六郷之人、実居四同地、故云「絙千里之地」者、誤矣。<span class="sm">〔又六郷大夫冢宰以下所非者不著。又云「多多」者如此解不著者多。〕</span><br/>
至六十為武都守、郡小少事、乃述平生之志、著易尚書詩礼伝、皆訖。惟念前業未畢者、唯周官。年六十有六、目瞑意倦、自力補之、謂之周官伝也。<br/>
<p class="mb5"></p>
<p class="mb5"></p>
<span class="lr"><b>鄭玄「周礼注」序</b></span><br/>
<br/>
世祖<span class="sm">(後漢)</span>以降の通人達士といえば、大中大夫の鄭少贛、名は興、および子の大司農仲師、名は衆。もと議郎、衛次仲、侍中の賈君景伯。南郡太守の馬季長。みな周礼の注釈を著した。<br/>
・・・<span class="sm">(省略あり?)</span>・・・玄がみるところ、二、三の君子の注釈は原文の曖昧な文章によく注意をはらっているので、夜明けを見るかのように文意がはっきりするし、割符を一致させてまた切り離されたものであるかのように(注釈と本文が)ぴったりとした説である。優れた解釈が多く集められていると言えよう。<br/>
しかし、本文には依然として混乱している箇所が残っているし、<span class="sm">(本文が?諸子が?)</span>同じ事柄についてであっても記述が相違している場合がある。したがって、(まず)本文の文字の発音へとたちもどり、(そこから)読み方を考察し、(そのなかでも)とりわけよいものを採用する(べきである)。<br/>
思うに、二鄭は同族の大儒者であり、書籍に明るく、皇祖<span class="sm">(文王?周公?)</span>の道をあらまし知っていたため、『周官』の義は古文字にあることを理解し、疑わしい箇所を見抜いて読み方を正した。実際、優れた説が多いのである。だが、門徒が<span class="sm">(?)</span>少なく、(二子の文が)簡略であるゆえに、世に広まっていない。ここに二子を称えて議論にとりあげるが、これは鄭家の訓詁を完成させんと願ってのことである。<br/>
(鄭衆は?)<a name="1b"><a href="#1">[1]</a></a>『周礼』を『尚書』周官篇とみなし、周官篇は周の天子の官を述べたものだと言っている。これは『尚書』周官篇の序に「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」とあるのを根拠としている。しかし、これはおそらくまちがいである。『尚書』の盤庚、康誥、説命、泰誓などの篇は三篇で、序には「某篇を若干篇つくる」とあり、現存している篇は多くても三千言をこえない。また『尚書』に書かれているのは、時事の事柄か、君臣の訓戒である。(推測するに、)周官篇が作成されたころ、周公も『周礼』をつくり、それによって上下の別を正した。周官篇はただ一篇だが、『周礼』は六篇である。文章は数万字を数える。その言葉は全篇にわたって『尚書』の体裁と異なり、『尚書』の篇だとはとてもみなせない。そうだと考える余地はあるにしても、その見解に従うことはできない。<br/>
・・・<span class="sm">(省略あり?)</span>・・・(『周官』に示されている)この道たるや、文王、武王が周を秩序だて、天下に君臨した法である。周公は『周礼』を定めて、太平と龍鳳の瑞獣を到来させたのである。<br/>
<br/>
<br/>
世祖以来、通人達士、大中大夫鄭少贛、名興、及子大司農仲師、名衆、故議郎、衛次仲、侍中賈君景伯、南郡太守馬季長、皆作周礼解詁。<br/>
玄竊観二三君子之文章、顧省竹帛之浮辞、其所変易灼然、如晦之見明、其所弥縫奄然、如合符復析斯。可謂雅達広攬者也。<br/>
然猶有参錯、同事相違、則就其原文字之声類、考訓詁、捃秘逸。<br/>
謂、二鄭者同宗之大儒、明理于典籍、觕識皇祖大経、周官之義、存古字、発疑正読、亦信多善。徒寡且約、用不顕伝于世。今讃而辨之、庶成此家世所訓也。<br/>
其名周礼為尚書周官者周天子之官也。書序曰、「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」。是言、蓋失之矣。案尚書盤庚、康誥、説命、泰誓之属、三篇、序皆云「某作若干篇」、今多者不過三千言。又書之所作、拠時事為辞、君臣相誥命之語。作周官之時、周公又作、立政上下之別。正有一篇、周礼乃六篇。文異数万、終始辞句非書之類、難以属之。時有若茲、焉得従諸。<br/>
斯道也、文武所以綱紀周国、君臨天下。周公定之、致隆平龍鳳之瑞。<br/>
<br/>
<br/>
<p><a name="1">[1]</a>「庶成此家世所訓也」以下につづく、「其名」からはじまる段落には、篇章の区切りを示す記号が附されている。はじめの「其名」から「従諸」までの部分は鄭玄の序とみなすこともできるので、序の引用がまだつづいているものとして、とりあえずまとめてみた。が、阮元の校勘記に「盧文炤がここの段落は鄭玄の序ではないって言ってる」とあるものだから、だめかもしれない。<br/>
しかしだとしたら、(1)「是言、蓋失之矣」とあるが、周礼=周官篇と考えているのは誰のことなのか。賈公彦の時代にそんなことを考えていたやつおるんか? だって賈公彦の時代的には、周官篇と『周礼』が両方あったわけで。『周礼』こそ周官篇なのだ、という推測は、周官篇そのものを見ることができない、という条件下でなければならないはずである。(2)そこでやや譲歩して、「其名」から「作周官」までを鄭玄、「是言」以下の按語を賈公彦による鄭玄批判だと考えることもできるだろう。つまり、鄭玄が『周礼』と周官篇を同一に見なしていたという読み方である。しかし、これはいろいろとおかしくなる。天官・小宰における、天地四時の官のおおまかな体系を述べたくだりの鄭玄注に「前此者、成王作周官、其志有述天授位之義、故周公設官分職以法之」とあり、鄭玄は『周礼』と周官篇の関係をそれとなく示している。賈公彦はここの疏で次のような鄭玄の他書の注(?)を引用している。「周公摂政三年、践奄、与滅淮夷同時。又按、成王周官、成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官、則<b>成王作周官、在周公摂政三年時</b>。<b>周公制礼、在攝政六年時</b>」。すなわち、『周礼』は周公の摂六年に成ったが、それ以前の同三年に周官篇がつくられており、周官篇で述べられた義を周公が官に体系化して記録したのが『周礼』である、と彼は理解していたのではないかと思われる。したがって、もとの論点に戻るが、(2)鄭玄が周官篇と『周礼』を同一にみなしていた可能性はありえない。<br/>
ここの本文自体は偽古文を見ていなければ書けないわけではないはずだと思うし(序でいけるんじゃないか?)、鄭玄とみなしておいたほうがいい気がするんだが・・・。せっかく訳しちゃったんでこのままにしちゃいます。<br/>
余談だが、賈公彦はさきの小宰の鄭玄注を周官篇を参照しつつ解説し、「此鄭義<span class="sm">〔周官篇の志は「述天授位之義」のこと〕</span>不見古文尚書、故為此解」、鄭玄が言っている義というものが周官篇にまったく見られないので、この義というものは鄭玄の解釈なのであろう、とする。とはいっても、いまとなってはという話であるが、賈公彦の見ている、そして現存している周官篇は偽古文とされている。孫詒譲が言うように、鄭玄が偽古文の周官篇を見られるわけがないのだから合致していなくたってしょうがないだろう。孫氏は「ひょっとするとマジモンの周官篇を鄭玄は見ていて、それにもとづいて其志有述天授位之義と言っているんじゃね」と言うが、希望的である。<SPAN class="sm"><a href="#1b">[上に戻る]</span></a></p>
<p class="mb5"></p>
<p class="mb5"></p>
かなり補いまくって読んでみたので、思い込みで読んでいるところがけっこうある。スマニョ。<br/>
鄭玄が文字の正しい読み方に注の方針を置いていた、というところだけは読めた(と思う)ので、それだけで個人的には満足である。<br/>
<br/>
実際、鄭玄はテキトウに言っているのではなく、彼の注を読んでいけば「この字はこの字として読む」「この字は本来この字だろう、発音が似ているから誤写したんだ」とかすっごく言っている。<br/>
なんか鄭玄には勝手な偏見をもっていたのだが、「ああ、字をどう読むかが鄭玄の基本なんだな、思ったよりメタじゃないんだな」と思えたので、少し好きになったヨ。でもこのおっさんは変なひとですね。<br/>
<br/>
そしてまた、二鄭の注、とりわけ鄭衆(鄭司農)を重んじていることも、彼が頻繁に引用していることからわかる。杜子春の注もけっこうな頻度で引用されているが、引用されている杜注はやはり「この字はこう読む」「この字はこの字の誤り」のたぐい。<br/>
鄭衆はよく「春秋の伝にこう言っている」のようなことをよく言っているが、これが馬融の伝に言われていることであろう。鄭玄も同様の方法で周礼を読み解いている。<br/>
<br/>
しかし、周礼の鄭玄注でおもしろいのは、鄭玄と鄭司農の解釈がいちじるしくちがっているところである。<br/>
たとえば、秋官に野廬氏という、道路整備の官があるのだが、<br/>
<br/>
<blockquote>若有賓客、則令守涂地之人聚【柝<span class="sm">と通じる表現するのがムズイ字。以下「柝」</span>】之、有相翔者誅之。<br/>
</blockquote>
<br/>
という一節がある。ここの鄭玄注。<br/>
<br/>
<blockquote>守涂地之人、道所生廬宿旁民也。相翔、猶昌翔観伺者也。鄭司農云、聚柝之、聚撃柝、以宿衛之也。有姦人相翔於賓客之側、則誅之、不得令寇盜賓客。<br/>
<br/>
「守涂地之人」とは、道路上の休息・宿泊所そばの住民のことである。「相翔」とは、好き勝手に出歩いて周囲を見回ることである。鄭司農は次のように言う。「『聚柝之』とは、住民を集めて拍子木を打たせて警戒させ、賓客を夜通し護衛することである。悪者が賓客の付近に『相翔』、すなわちかけとんで近寄ったら、この者を誅殺し、賓客の拉致を阻止するのである」。<br/>
</blockquote>
<br/>
両説にしたがって本文を読むと、<br/>
<br/>
<blockquote><b>鄭玄</b><br/>
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。その者たちのなかで勝手に出歩く者がおれば、その者を誅殺する。<br/>
<br/>
<br/>
<b>鄭司農</b><br/>
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。悪者が賓客の近くにかけよるようなことがあれば、その者を誅殺する。<br/>
</blockquote>
<br/>
これは秋官だからたまたま記憶に新しいだけで、そこらにこんなんがある。だいたい鄭玄のほうが筋が通っている。<br/>
また訓詁の区切りがそもそもちがう、という箇所もある。これまた最近読んだのでまだ覚えているところになるが、考工記・輪人の蓋のくだり。〔 〕は鄭玄注。<br/>
<br/>
<blockquote>桯長倍之四尺者二<span class="sm">〔杠長八尺、謂達常以下也。加達常二尺、則葢高一丈立乗也〕</span>十分寸之一謂之枚<span class="sm">〔為下起数也。枚一分。<b>故書十与上二合為二十字、杜子春云、当為四尺者二十分寸之一</b>〕</span><br/>
</blockquote>
<br/>
ちなみに何を言っているのかはさっぱりわからない。<br/>
唯一わかるところ(にして興味を覚えたところ)は、鄭玄は「四尺者二」と「十分寸」以下を分けて読んでいるのだが、従来のテキストでは「二」と「十」で分けずに読んでおり、たとえば杜子春は「四尺者二十分寸……」と読んでいる、というところ。<br/>
従来の読みにまったく束縛されない、というところに彼の天性があるんじゃないでしょうか。<br/>
<br/>
繰り返しになるけど、鄭玄はもっとこう、メタってるっていう偏見があったから、こういう姿を見れてよかった。安心した。<br/>
こういう感じのが経学、なんですかね。オレは好きだよ。<br/>
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hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-50224145695806323312016-08-08T01:15:00.002+09:002017-10-07T00:03:58.942+09:00成漢革命――李氏の来歴神話<P class="mb5"></p>
故あって先日、過去に投稿した成漢李氏についての記事(<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html">来歴神話</a>、<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2014/05/blog-post_31.html">来歴神話・続</a>)を見返していて、やっぱり素材はおもしろいんだよなあ。しかし、この素材をどう活かしたらよいものか、と悩みつつ投稿してみたのだけれども、結局「これでええんや!」みたいな自信を得られず、「次回つづく」としたまま次回をいっこうに投稿するモチベが出なくてぇ。<br/>
でも急にモチベが出てきたのでつづきっぽいことを書こうかなと思う次第なのだが、本来つづきとして何を書こうとしていたのかぜんぜん思い出せないので、過去記事以来の構想とはちょっとズレるかもしれない。<br/>
<br/>
***<br/>
<br/>
「成漢」は言うまでもなく、李氏の政権が当初は成を、のちに漢を称したことに因んだ通称なのだが、この出来事をたんに「国号の変更」で片づけてしまってはいけない。客観的には、あるいは外在的にはそのような理解でとくに問題ない。だが、この事件を政権の内側から取り組もうと思うのであれば、政権のイデオロギー、つまり内在的に通行していた政治の論理の観点から解さなければならない。ようするに、「国号の変更」で済ませてしまっても構わないのだが、じゃあどうして変更する必要があったのか、その変更はどのように正当化されていたのか、という問題は説明できないわけで、そうしてこれらの問題を措いたままで「国号を変更したんだ」との説明を採用するのもどうであろうか。<br/>
こういうわけで、本記事では李氏称漢の問題を追究してゆきたい。私の考えでは、この問題は李氏の来歴に関する語りとも関連しているはずである。<br/>
<br/>
まず称漢をめぐる記述を見てみよう。『晋書』巻121李寿載記。<br/>
<br/>
<blockquote> 李寿は龔壮の進言に従い、ひそかに長史の略陽の羅恒、巴西の解思明とともに、成都を占拠して(晋に)藩を称して帰順することを謀った。そこで文官武官と盟約して(同志を)数千人を得て、成都を襲撃して落とした。・・・。<br/>
羅恒と解思明、および李奕、王利らは李寿に、鎮西将軍、益州牧、成都王を称して、晋に藩を称することを勧めたが、任調、司馬の蔡興、侍中の李艶、張烈らは自立を勧めた。李寿はこのことを占うように命じると、占者は「数年のあいだは天子になれましょう」と告げた。任調は喜んで、「一日でさえも十分であるのに、まして数年ならば!」と言った。解思明、「数年の天子と、百世の諸侯、どちらがよいものか」。李寿、「孔子は『朝に道を知れば、夕べに死んでも良い』と言った。私もそう思う(から、占いの結果を道とすれば、わずかなあいだでも私は十分である)。任侯の進言が上策だろう」。そこでとうとう、晋の咸康四年に僭して偽位に即き、境内を大赦し、改元して漢興とした。・・・追尊して父の李驤を献帝、母の昝氏を太后とし、妻の閻氏を立てて皇后とし、世子の李勢を太子とした。<span class="sm">(寿従之、陰与長史略陽羅恒、巴西解思明共謀拠成都、称藩帰順。乃誓文武、得数千人、襲成都、克之。・・・。恒与思明及李奕、王利等勧寿称鎮西将軍、益州牧、成都王、称藩于晋、而任調与司馬蔡興、侍中李艷及張烈等勧寿自立。寿命筮之、占者曰、「可数年天子」。調喜曰、「一日尚為足、而況数年乎」。思明曰、「数年天子、孰与百世諸侯」。寿曰、「朝聞道、夕死可矣。任侯之言、策之上也」。遂以咸康四年僭即偽位、赦其境内、改元為漢興。・・・追尊父驤為献帝、母昝氏為太后、立妻閻氏為皇后、世子勢為太子。)</span><br/>
</blockquote>
<br/>
成を建てた李雄は、西晋末に益州に移動した流民グループのリーダー・李特の子であるが、特にはいっしょに益州に入った兄弟たちがいた。そのひとりが驤、すなわち寿の父である。驤は雄の叔父にあたるので、雄と寿とは従兄弟の関係になる。雄の死後、成の帝位は雄の兄の子・班に継承され、寿はいわば宗室扱いとして、王に封建されて輔政を遺嘱された。雄の子らは班が継いだことに不満で、即位して数ヶ月後、雄の子の越が班を殺害し、越は後継に弟の期を推薦した。期が立って約4年後、期と越は寿の謀殺を図り、身の危険を感じた寿は前引した史料にみられるごとく、成都襲撃のクーデターを実行し、政治的実権を得た。<br/>
<br/>
さて、引用文をあらためて眺めてみるが、ここには李寿が、漢を称することにした、という記述、表現がみられない。せいぜい、漢興という元号がそれを示唆させる程度である。<br/>
そこで同様の事態を記した『華陽国志』李特雄期寿勢志のほうを確認してみよう。<br/>
<br/>
<blockquote>寿亦生心、遂背思明所陳之計、<b>称漢皇帝</b>。・・・下赦、改元漢興。<br/>
</blockquote>
<br/>
また『魏書』巻96賨李雄伝附寿伝。<br/>
<br/>
<blockquote>改年為漢興、又<b>改号曰漢</b>。<br/></blockquote>
<br/>
これらによって、李寿が「漢の皇帝を称した」ことは明白であり、漢興の元号はそれにもとづくものであることがわかる。<br/>
<br/>
ところが、この成→漢、どうも穏やかな変更ではなかったようなのである。李寿載記の最後のほうの記述を引いてみよう。<br/>
<br/>
<blockquote>偽位に即いたのち、宗廟を立てなおし、父の李驤の廟を漢の始祖廟とし、李特、李雄の廟を大成廟とし、また書を下して李期、李越とは族を別にすると言い、すべての諸制度を改易した。公卿以下には、おおよそみずからの僚佐を登用し、李雄のときの旧臣や六郡<span class="sm">〔李特時代にいっしょに流入した流民らの出身地〕</span>の士人はみな罷免された。<span class="sm">(及即偽位之後、改立宗廟、以父驤為漢始祖廟、特、雄為大成廟、又下書与期、越別族、凡諸制度、皆有改易。公卿以下、率用己之僚佐、雄時旧臣及六郡士人、皆見廢黜。)</span><br/>
</blockquote>
<br/>
李寿の称した漢の始祖はあくまで父・驤であって、特や雄ではない。彼ら二人は大成の廟として、漢の廟とは別にされて祀られている。<br/>
寿が雄をどう考えていたかは微妙なところで、雄の子らと自分とは族がちがうと明言しているし、雄の子はすべて殺害したらしいのだが<span class="sm">(李期載記)</span>、載記には寿が雄の政治スタンスを継承しようとしていたとも記されており<span class="sm">(「寿承雄寬倹、新行簒奪、因循雄政、未逞其志欲」)</span>、容易には理解できない距離を置いていたのかもしれない。<br/>
とはいっても、漢の廟と別にすることからは、ある重大なスタンスが汲み取れるはずである。つまり寿は、漢は成とは異質の政治共同体だと主張しているのだ。寿からすれば、成はすでに過ぎ去った朝代であったはずである――それは漢にとっての秦、魏にとっての漢、晋にとっての魏のようなもので、「二王之後」的に、あるいはいちおうの先人扱いとして、廟を設けているのでないか。両者の継続的関係が全面に拒絶されているわけではないのだろうが、その継続性は〈切り離された〉両者を結ぶものであって、両者を同一化させるような意味での連続性ではない<a name="201608081b"><a href="#201608081">[1]</a></a>。<br/>
国号が変更されたのはたしかにそうである。しかし、たんに成の表面をちょっとした都合が生じたから変更したのではなくて、根本的なところが革まったがゆえに、国号が変わるという表面上の現象を引き起こしたと考えるべきなのである。したがって、私は成から漢へのこの事件を――便宜上から今後も「成漢」の通称は用いていくであろうが――「革命」と把握すべきだと考える。<br/>
<br/>
李寿が創出したイデオロギーは、彼の子・勢のときにある変更を余儀なくされる。<br/>
<br/>
<blockquote>太史令の韓皓が奏上し、熒惑が心宿にとどまって不吉な予兆を示しているが、これは宗廟の礼が廃絶されているからである、と具申した。李勢は群臣にこのことについて議論するよう命じた。相国の董皎、侍中の王嘏らの意見は、景帝(李特)と武帝(李雄)が帝業を盛りあげ、献帝(李驤)と昭文帝(李寿)がそれを継承したのだし、双方の家系は至親の近しい関係にあるのだから、(景帝、武帝の家を)ないがしろにして絶やすべきでない、というものであった。李勢はそれに従って李特と李雄を祀るように命じ、号を漢王に統一した。<span class="sm">(太史令韓皓奏熒惑守心、以宗廟礼廃、勢命群臣議之。其相国董皎、侍中王嘏等以為景武昌業、献文承基、至親不遠、無宜疏絶。勢更令祭特、雄、同号曰漢王。)</span><br/>
</blockquote>
<br/>
これがいつごろのことなのかハッキリはしないが、李勢載記のはじめに記されていることからして、李勢の即位からそれほど時を経ていないと思われる。李特、李雄復権の動きは李寿の時代から潜勢しており、寿の死によって噴出したのであろうと予想はつくが、ここではその運動自体に切り込んでいかない。<br/>
私が注意しておきたいのは、この変更によっていかなる政治論理の変動が起きたか、である。私は先ほど、李寿がやったことは実質的に革命であると述べた。ところが李勢時代の変更は、李寿が創りあげた公式見解の修正をともなっている――「革命はなかった」。李特も李雄も「漢王」に回収されていくことで、李氏の朝代は李特以来、連綿とつづく歴史を築くことができる<a name="201608082b"><a href="#201608082">[2]</a></a>。かかる変更後に、成を称していた時代をどう理屈づけたのか。これはいっさい不明であるけれども、比較例としては趙の劉曜を挙げることができる。彼は、劉淵が漢帝を称したのは一時的な措置である、と主張して趙に改めたのであった<a name="201608083b"><a href="#201608083">[3]</a></a>。<br/>
革命ではなくなった成から漢への移行は、まさしくたんなる「国号の変更」という出来事に語りなおされることであろう。「漢への変更を国号の変更と理解することは誤っていない」と私が述べたのは、その意味においてである。<br/>
<br/>
***<br/>
それにしても、なぜ李寿は「漢」を選んだのか。これはしばしば、三国の蜀漢と関連して語られることがある。私も以前はその可能性を捨てきれずにいたのだが・・・いまは断言したい。その可能性はない。<br/>
そもそも、李寿はみずから漢帝を称している。しかし、もし「あの」劉氏の漢の復興を掲げて「漢」を名乗るのならば、当然劉氏が天子でなければならない。張昌という、西晋末に長江中流域を中心に一勢力を築いた人物がいるが、彼はたまたま知り合った人間を劉氏に改名させ、漢の劉氏の後裔ということにして天子にまつりあげ、自身は相国に就いたそうだ<span class="sm">(『晋書』巻100張昌伝)</span>。劉淵だって同じである。高祖の子孫を名乗ったわけだから。劉氏漢の名を借りるのであれば、それが当然なのである。<br/>
ところが李氏に関しては、そのような痕跡がいっさいみられない。とてもだが、劉氏漢を考慮したとは思えないのだ。<br/>
<br/>
益州で漢といえば、当時の人びとにとってもあの劉備らを想起するであろう。李寿もまったく知らなかったなんて考えがたい。だが、そういう効果が結果的にあった可能性がある、ということと、李寿のイデオロギーのねらいがそこにあった、ということは別個である。漢を称することによって劉備たち劉氏漢の記憶を喚起すること、そこに李寿の目的、政治的正統の構築があったとはとても思えない。だって劉氏漢のことガン無視してるんだもの・・・。にもかからず蜀漢との関連を推測してしまうのは、ただの期待過多である。<br/>
イデオロギー的なものの意図を解釈するにあたり、受け取る側の目線に立つことからいったん離れることも必要である。李寿が劉氏とは関係ない仕方で漢を名乗ったのには、彼自身の生涯のうちに必然的な理由があったはずである。<br/>
と、仰々しく言ってみたのだが、実際、その理由とやらはかなり単純なものだったと思われる。李寿は、李期が即位したさい、期によって漢王に封じられていた。約4年後、漢王としてクーデターを実行した。――おそらく、それだけである。<br/>
いやいやいや。いくらなんでもあっさりすぎるというか、漢との結合が薄弱である。なのでもうちょい調べてみたところ、『資治通鑑』巻94咸和三年の条。<br/>
<br/>
<blockquote>是歳、成<b>漢献王驤</b>卒〔胡注:成封李驤為漢王〕。<br/></blockquote>
<br/>
なんとまあ、李驤は漢王に封じられていたらしいのだ。<br/>
李驤を漢王と呼称するのは他の史書にみられず、『資治通鑑』でもおそらくここだけである。司馬光は現在では散佚してしまった五胡関係史料を参考にしているので、他書に出てこない記述がよくみられる。そういう事情なので、これもそのひとつであろうとみなしておきたい。そうだとして、こう考えられるんじゃあないか。李驤は李雄のときに漢王に封じられた、やはり李雄のときに彼は没したのだが、諡号は「献」であった、一方の李寿は李雄時代にすでに父とは別に公・王に封じられていたが、のちに父の王位を継ぐことができた、李寿は漢王を、したがって漢を、みずからの家を象徴する記号とし、漢王から漢帝に即いた、それにともない、漢の献王・驤は献帝へと昇格した。・・・。<br/>
こんなシナリオでどうだろう。<br/>
<br/>
***<br/>
で、結局これが私が過去に投稿して問題にしてきた来歴神話とどう関係があんのって話だが・・・。あくまで私の関心では、ああいういびつな李氏の神話は誰によって語られたのか、にある。李氏みずからが廩君を自己の起源に据えたのかどうなのか。李氏のイデオロギーを検討することによって、その手がかりが得られるのではないかと私は期待したのである。<br/>
だが、それというヒントはとくにみつからなかった。強いて言うなら、李寿にとっては廩君をもちだす必要があったと思えない、程度か。<br/>
石勒なんかのように、建国したから家を神話化するパターンは一般的でなさそうだしなあ。だとすると、後世の崔鴻なんかが、「あの李氏ってのはそこらのよくわかんねえ蛮夷のようにみえるが、その由来を説明するとだなあ」みたいな感じで付け加えた説明だったりするのかな。<br/>
<br/>
本記事では、問題をひどく静態的に論じた。だが李寿の行動の背景には、よりワイドで、ダイナミックなエネルギーがあったはずである。そのような観点からも見直していく必要があるが、それはまあそのうちやる気が出たらというわけで、これにていったん。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
――注――<br/>
<p><a name="201608081">[1]</a>李雄は帝位に即くと、李特を始祖と追尊している。一方、寿の父・驤も始祖と追尊されていることは前述の史料に述べられているとおり。廟号が、それも始祖という超特別な号がかぶるなど、ありえないことである。成の始祖は李特、漢の始祖は李驤、と明確に切断されていることがわかる。<SPAN class="sm"><a href="#201608081b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201608082">[2]</a>材料があまりにも少ないなかでの、勇み足な推測になるが、李氏の国史『漢之書』(常璩撰、別名『蜀李書』)が李雄を「始祖第三子」と記していること<span class="sm">(『太平御覧』巻363引ほか)</span>は、李特が漢の起源に置かれた可能性を示すのではないか。『漢之書』、この書名からして李寿時代に編纂がはじまったものと私は考えるが、おそらく李特、李雄は当初から『漢之書』に立伝されていたと思われる。それが李勢以後、どのように変容し、修正されたのか、あるいはまったくされなかったのか、現在私たちが閲覧する五胡関係史料に影響を及ぼしたのか否か、深い闇なんだよなぁ・・・。<SPAN class="sm"><a href="#201608082b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201608083">[3]</a>これまたうがった勘ぐりの一種だが、『華陽国志』大同志に、李特らが当時の益州刺史・趙廞とまだ良好であったころのこととして、李特の弟・庠が趙廞に「称大号漢」=漢を称して自立することを勧めたという。このことは『華陽国志』にしかみえず、常璩がいかなる資料を参考にしたのか不明である。もっとも、彼は『漢之書』の撰者なのだから、現在私たちが目にすることができないものを多く知っていたにちがいないが。かりにこれが『漢之書』に記されていたことだとすれば――まるで李特らが益州に入った当初から「称漢して自立する」プランを抱いていたかのような歴史に、成はやむをえない事情で称したもので、本来の意志は漢であるかのような物語になるだろう! と思うのだけどこれは病気の考え方で、そこまで壮大な物語は構築していないような・・・。じゃあ庠はどうして漢を? となるとぜんぜん文脈がわかんないから見当がつかない。<br/>
なお、劉曜との比較の点で付言をさせてもらうと、劉曜は劉総をネガな存在として扱いこそすれ、劉淵に対しては決してそのような態度を取ることなく、趙の天命を下された者として上帝に配して祀り、自身を劉淵の継承者と位置づける仕方で正統を組み上げていった。それゆえ、彼は漢の時代を切り離すことができなかった。趙の国史が『漢趙記』という名であることは、かかる歴史観を反映しているものと考えられる。このように劉曜と李寿とは方法がいちじるしく異なっている。<SPAN class="sm"><a href="#201608083b">[上に戻る]</span></a></p>
<br/>
<p class="mb3"></p>
hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-43348969863252479802016-06-13T22:27:00.000+09:002017-02-08T23:46:03.940+09:00『宋書』百官志訳注(12)――中央軍<p class="mb5"></p>
領軍将軍は一人。内軍<span class="sm">〔注 [2] を参照〕</span>を管轄する。漢に南北軍がおり、京師を防衛していた。武帝は中塁都尉を置き、北軍営を管轄させた。光武帝は中塁校尉を廃して北軍中候を置き、五校尉<span class="sm">〔屯騎校尉、歩兵校尉、越騎校尉、長水校尉、射声校尉〕</span>の営を監督させた。魏武帝が丞相となると、武帝は丞相府に領軍将軍を設けたが、これは漢の制度の官ではない。文帝が魏王につくと、魏ははじめて領軍将軍を置き<span class="sm">〔曹操の設けた領軍将軍はあくまで丞相府内の役職名にすぎなかったが、文帝はこれを朝臣の職として設置した、ということであろう〕</span>、五校尉、中塁校尉、武衛将軍の三営を管轄させた。晋の武帝のはじめに廃され、中軍将軍の羊祜に二衛<span class="sm">〔左衛将軍、右衛将軍〕</span>・前後左右軍・驍騎の七軍の営兵を管轄させたが、すなわちこれは領軍将軍の職務である(中軍将軍の羊祜に領軍将軍の職務をおこなわせたのである)。羊祜が(中軍将軍から)転任すると、(中軍将軍に領軍将軍の役目も果たさせる)この方式をやめ、北軍中候が復置され(領軍将軍の職務を担うようになっ)た。北軍中候は丞を一人置いた。懐帝の永嘉年間、中領軍に改称された。元帝の永昌元年、北軍中候に戻された。まもなく領軍将軍に戻された。成帝のとき、またも北軍中候とされ、陶回をこれに任じた。まもなく領軍将軍とされた。領軍将軍は現在の南軍都督<span class="sm">〔不詳、他に用例もわからず。唐の南衙に相当する組織のボスとか?〕</span>のようなものである<span class="sm"><a name="201606131b"><a href="#201606131">[1]</a></a></span>。<br/>
護軍将軍は一人。外軍<span class="sm"><a name="201606132b"><a href="#201606132">[2]</a></a></span>を管轄する。秦のとき、護軍都尉がおり、漢はこれを継承した。陳平が護軍中尉となり。すべての諸将を統括した。したがって、(漢のときは)都尉を中尉としたのであろう。武帝の元狩4年には、護軍都尉を大司馬に所属させているので、このときには都尉に戻ったということだろう。『漢書』李広伝によると、李広は驍騎将軍となり、護軍将軍に所属していた。「護軍」とは諸将軍を護する(=統括する)ということなのだろう。哀帝の元寿元年、護軍都尉を司寇に改称した。平帝の元始元年、護軍都尉に改称された。東漢は(護軍を)廃した。後漢の班固は大将軍<span class="sm">〔竇憲〕</span>の中護軍となり、大将軍の幕府に所属していたが、(この中護軍は)漢朝の常職ではない。魏武帝が丞相となると、韓浩を護軍将軍とし、史渙を領軍将軍としたが、(いずれも)漢の制度の官職ではない。建安12年、護軍を中護軍に、領軍を中領軍に改称し、長史、司馬を置いた。魏のはじめ、中護軍を継承して護軍将軍が置かれ、武官の選挙を職務とし<span class="sm"><a name="201606133b"><a href="#201606133">[3]</a></a></span>、領軍将軍に所属していたが、晋のときは所属しなくなった。晋の元帝の永昌元年、護軍将軍を廃して領軍将軍に統合した。明帝の太寧2年、復置された。魏、江右では領軍将軍と護軍将軍はそれぞれ営兵を有していたが、江左以降では、領軍将軍に独自の営が置かれることはなく、二衛・驍騎・材官(将軍)の営を統率し、(一方で)護軍将軍は依然として独自の営を有していた。領軍、護軍の職は、「資」<span class="sm"><a name="201606134b"><a href="#201606134">[4]</a></a></span>が重い者は領軍将軍、護軍将軍となり、「資」が軽い者は中領軍、中護軍となった。属官には長史、司馬、功曹、主簿、五官がある<span class="sm"><a name="201606135b"><a href="#201606135">[5]</a></a></span>。詔命を受けて出征するさいは、(府に)参軍を置く。<br/>
左衛将軍は一人。右衛将軍は一人。二衛将軍は宿衛する営兵を統率する。二漢と魏は設けていない。晋の文帝が相国となると、相国府に中衛将軍を置いた。武帝のはじめ、中衛を分割して左右衛将軍を置き、羊琇を左衛将軍に、趙序を右衛将軍にした<span class="sm"><a name="201606136b"><a href="#201606136">[6]</a></a></span>。江右のときは、長史、司馬、功曹、主簿が置かれていたが、江左では長史が廃された<span class="sm"><a name="201606137b"><a href="#201606137">[7]</a></a></span>。<br/>
驍騎将軍。漢の武帝の元光6年、李広が驍騎将軍となっている。魏のとき、驍騎将軍は内軍とされ、営兵が置かれた。功績が高い者がこの任に就いた<span class="sm"><a name="201606138b"><a href="#201606138">[8]</a></a></span>。以前では司馬、功曹、主簿がいたが、のちに(すべて)廃された。<br/>
游撃将軍。漢の武帝のとき、韓説が游撃将軍となっている。<br/>
これら(領軍・護軍・左衛・右衛・驍騎・游撃)が六軍である。<br/>
左軍将軍、右軍将軍、前軍将軍、後軍将軍。魏の明帝のとき、左軍将軍が(記録に)見えているので、左軍将軍は魏の(設けた)職であろう。晋の武帝のはじめ、前軍将軍、右軍将軍を置き、泰始8年には後軍将軍を置いている<span class="sm"><a name="201606139b"><a href="#201606139">[9]</a></a></span>。<br/>
これら(左軍・右軍・前軍・後軍)が四軍である。<br/>
左中郎将、右中郎将。秦の官である。漢は秦を継承して設け、五官中郎将とともに三署の郎を統括していた。魏では三署郎が置かれなかったが、この職はそのまま置かれていた。晋の武帝は廃した。宋の世祖(孝武帝)の大明年間に復置された<span class="sm"><a name="2016061310b"><a href="#2016061310">[10]</a></a></span>。<br/>
屯騎校尉、歩兵校尉、越騎校尉、長水校尉、射声校尉。この五校尉はみな漢の武帝が置いた<span class="sm"><a name="2016061311b"><a href="#2016061311">[11]</a></a></span>。屯騎校尉、歩兵校尉は上林苑の門の駐屯兵を統率した<span class="sm"><a name="2016061312b"><a href="#2016061312">[12]</a></a></span>。越騎校尉は来降して騎兵とされた越人を統率した。(また)一説によると、「体力が超越している」の意から(越騎の名前が)採られたという<span class="sm"><a name="2016061313b"><a href="#2016061313">[13]</a></a></span>。長水校尉は長水宣曲胡騎を統率した。長水は胡の部落名で、胡騎は宣曲観の下に駐屯していたのである。韋曜は「長水校尉は胡騎を統率する。厩が長水に近かったため、名称に取られたのである。長水とは関中の小河川の名前であろう」と言っている<span class="sm"><a name="2016061314b"><a href="#2016061314">[14]</a></a></span>。射声校尉は射声士を統率する。声(号令)を聞けば射撃したので、名称とされたのである<span class="sm"><a name="2016061315b"><a href="#2016061315">[15]</a></a></span>。漢の光武帝のはじめ、屯騎を驍騎、越騎を青巾に改称した。建武15年、旧称に戻した<span class="sm"><a name="2016061316b"><a href="#2016061316">[16]</a></a></span>。東漢の五校尉は(洛陽の)宿衛兵を統率した<span class="sm"><a name="2016061317b"><a href="#2016061317">[17]</a></a></span>。<br/>
游撃将軍から五校尉までの将は、魏晋より江左のあいだ、当初は(すべて前代以来)依然として営兵を有しており、みな司馬、功曹、主簿を置いていたが、のちに(官自体が?)廃された<span class="sm"><a name="2016061318b"><a href="#2016061318">[18]</a></a></span>。左右の中郎将はもともと営兵を有していなかった。五校尉は秩二千石。<br/>
虎賁中郎将。『周礼』には虎賁氏が見えている<span class="sm"><a name="2016061319b"><a href="#2016061319">[19]</a></a></span>。漢の武帝の建元3年、(武帝が)はじめて忍びの外出をしようとして、体力のある兵士を選び、武器を持たせて警護させようとした。そのとき(兵士と)門で集合をしたので、(彼らを)期門と呼ぶようになった。(期門郎に)定員はなく、多いときは千人にいたった。平帝の元始元年、虎賁郎に改称され、中郎将を置いて統率させた。虎賁は当初、「虎奔」と表記されていたが、それは虎の奔走するさまを言っていたのである。王莽が輔政すると、いにしえには勇士の孟賁がいたので、(彼にちなんで)「奔」を「賁」とした<span class="sm"><a name="2016061320b"><a href="#2016061320">[20]</a></a></span>。秩は比二千石。<br/>
宂従僕射。東漢に中黄門宂従僕射が置かれていたが、この官とは関係がない。魏のときにその名称(だけ)を継承して宂従僕射が置かれた<span class="sm"><a name="2016061321b"><a href="#2016061321">[21]</a></a></span>。<br/>
羽林監。漢の武帝の太初元年、建章営騎を設けた。護衛をさせ、期門に次ぐ兵士であった<span class="sm"><a name="2016061322b"><a href="#2016061322">[22]</a></a></span>。のちに羽林騎に改称し、令、丞を置いた。宣帝は中郎将<span class="sm">〔羽林監督のために中郎から一人選んで中郎将にしたって意じゃないかしら〕</span>と騎都尉に羽林を監督させた。これを羽林中郎将と呼ぶ。東漢ではまた、羽林左監、羽林右監を置き、魏の時代までそのままであった。晋は羽林中郎将を廃し、また監をひとつ廃して、ひとつだけ置いた。<br/>
虎賁から羽林までは三将である。哀帝は(三将をすべて)廃した。宋の高祖の永初のはじめ、復置された。(三将は)江右では営兵を有していたが、江左では率いることはなかった。羽林監は秩六百石。<br/>
積射将軍、強弩将軍。漢の武帝が路博徳を強弩校尉とし、李沮を強弩将軍とした。宣帝は許延寿を強弩将軍とした。強弩将軍は東漢のときに雑号将軍とされた。前漢から魏までは積射将軍は見えていない。晋の太康10年、射営、弩営を設立し、積射将軍、強弩将軍を設けて各営を統率させた<span class="sm"><a name="2016061323b"><a href="#2016061323">[23]</a></a></span>。<br/>
驍騎将軍から強弩将軍まで、以前はみなそれぞれ一人置かれていた。宋の太宗の泰始年間以降、多くは軍功をもってこれらの官職を得るようになり、現在ではみな定員はない。<br/>
殿中将軍、殿中司馬督。晋の武帝のとき、殿内の宿衛兵は「三部司馬」と呼ばれた。(武帝は殿内の宿衛軍として三部司馬とは別に?)殿中将軍、殿中司馬督のふたつの官を創設し、(殿中将軍・司馬督を?)左右の二衛に分けて所属させた<span class="sm"><a name="2016061324b"><a href="#2016061324">[24]</a></a></span>。江右のはじめ、定員は十人であった。朝会や饗宴のさいは、殿中将軍は戎服(軍服)を着て、左右に直侍し、夜に門を開くときには、白虎幡を手にして監督した。晋の孝武帝の太元年間、選考規定を改め、門閥の者を充てることとした<span class="sm"><a name="2016061325b"><a href="#2016061325">[25]</a></a></span>。宋の高祖の永初のはじめ、二十人に増員した。その後、定員を超過して任命された者を殿中員外将軍、員外司馬督と呼ぶようになった。その後、どれも定員はなくなった。<br/>
武衛将軍は定員なし。当初、魏王がはじめて武衛中郎将を置いたのだが、文帝が即位すると、(武衛中郎将を)(武)衛将軍<span class="sm">〔原文「衛将軍」。「武」字が脱落したのだろうと判断し、補う〕</span>に改称し、禁軍を統率させた。その職務は現在の左右二衛将軍と同じもので、(現在の武衛将軍の)職務とは異なっていた。晋氏は常設しなかった。宋の世祖(孝武帝)の大明年間、復置し、殿中将軍に代わってその職務を担当し、(位は?)員外散騎侍郎に比した。<br/>
武騎常侍は定員なし。西漢の官である。天子が游猟したさい、つねに随従して猛獣を射た。後漢、魏、晋では置かれなかった。宋の世祖(孝武帝)の大明年間、復置された。奉朝請に比した。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
――注――<br/>
<br/>
<p><a name="201606131">[1]</a>なお西晋時代の領軍将軍は閑職であったらしい。『北堂書鈔』巻64領軍将軍「伯従容養病」に引く『晋起居注』に「武帝太始四年、詔曰、尚書韓伯、陳疾解職、<b>領軍閑、無上直之労、可得従容養病</b>、更以伯為領軍、進丹陽尹」。まあ正確には「閑職」という表現では強すぎる?感じになってしまうのだが、この起居注では「上直」(宮殿?での宿直)の肉体労働がないから「閑」だと言っているにすぎず、別に権力がまったくないとか、やることがなんにもないとか、そういう意味での閑職ではない。<SPAN class="sm"><a href="#201606131b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606132">[2]</a>内軍と外軍については不詳。何茲全「魏晋的中軍」<span class="sm">(『何茲全文集』第2巻、中華書局、2006年所収、初出はもっとずっと古いけど正確には調べていない)</span>、越智重明「領軍将軍と護軍将軍」<span class="sm">(『東洋学報』44-1、1961年)</span>のでの解釈をごくおおざっぱにまとめると以下の表のとおり。<br/>
<br/>
<TABLE bordercolor="black" align="center" cellpadding="8" cellspacing="5" width="700" frame="void" rules="all" border="2">
<tr><td></td><TH align="center">内 軍</th><TH align="center">外 軍</th></tr>
<tr><td>何 氏</td><TD align="center">洛陽城内外に宿衛・駐留する軍</td><TD align="center">地方に出鎮する都督が率いる軍</td></tr>
<tr><td>越智氏</td><TD align="center">洛陽城内に宿衛する軍</td><TD align="center">洛陽城外の近辺に駐留する軍</td></tr>
</table>
<br/>
<br/>
<p> 越智氏にとっての内・外軍は何氏からすればぜんぶ内軍になる次第。また内軍は「中軍」とも呼ばれていたことは越智氏が明確に指摘しているが、両氏とも内・外軍と都督中外諸軍事を結びつけて理解している。<br/>
で、私も少し調べたりしたのだが、情報が少なすぎてなんともわからない。強いて言うと、注 [17] で説明するように、漢の中央軍は宮城の内側・外側でおおざっぱに区別されているっぽいし、それは唐でも同じだったようだし、魏晋の内・外軍にかんしてもじつは同様なんじゃないかと思ったりはしている。<br/>
そのように考えた場合に問題になるのが、『宋書』巻57蔡廓伝の蔡廓の書簡中にある「<b>今護軍総方伯</b>、而位次故在持節都督下」という記述。「外軍は洛陽城近辺の軍団である」と主張した越智氏はこの記述を「宋になって護軍将軍の性質に変化が起こり、地方軍(方伯=州刺史=都督)にも支配力を及ぼすようになった」(大意)としている。あんまり具合が良い解釈にもみえる。<br/>
こうなってくると何氏のように、外軍はもともと地方の都督諸軍事の軍であると考えたほうがすっきりしないだろうか(何氏は『宋書』のこの記述に言及していないが、念頭には置いていたのかもしれない)。<br/>
しかしこれはこれで難点がある。『晋書』巻34武十三王伝・淮南王允伝「会趙王倫廃賈后、詔遂以允為驃騎将軍、開府儀同三司、侍中、都督<span class="sm">〔揚江二州諸軍事〕</span>如故、領中護軍。允性沈毅、<b>宿衛将士</b>皆敬服之」というものだ。なぜ淮南王が「宿衛将士」に「敬服」されたのか。それは彼が「領中護軍」であるから以外に考えがたいのではないだろうか。やはり護軍将軍は中央の宿衛軍を統べる将軍と考えるのが妥当ではないのだろうか。<br/>
また楚王瑋の騒動のときのこと。『晋書』巻36張華伝「楚王瑋受密詔殺太宰汝南王亮、太保衛瓘等、内外兵擾、朝廷大恐、計無所出。華白帝以、瑋矯詔擅害二公、将士倉卒、謂是国家意、故従之耳。今可遣騶虞幡使<b>外軍</b>解厳、理必風靡。上従之、瑋兵果敗」とあり、楚王の動員している内・外軍に対して騶虞幡を使って矯詔を伝えれば外軍は解散できるぞ、と張華が献策している。しかしなぜ内軍はその対象に入らないのだろう。巻59楚王瑋伝によると、このとき楚王は「勒本軍、復矯詔召三十六軍」という。当時の楚王は領北軍中候、ようするに領軍将軍相当であるから、「本軍」とは「内軍」を指すのだろうと思われる。そして矯詔で召集した「三十六軍」こそ、張華が騶虞幡で解散できるとした「外軍」のはずである。内軍は自分の権限で動員できるが、外軍にかんしては部外なのでそうもいかない、そこで矯詔を使って召集した、というか矯詔でなければ集められなかった。張華はこの弱みを突き、少なくとも外軍は解散できる策を建てた、結果的には内軍も解散したけど。という内実なんじゃないか。<br/>
こう考えていくと、何氏説に従ってここの「外軍」を理解するのは難しくないだろうか。楚王がすぐに呼べる「三十六軍」なんてどう考えたって洛陽ないし洛陽周辺に駐留していると考えるほかないと思うのだが・・・。<br/>
何氏説の立場から反論しようと思えば、「淮南王允伝の記述は護軍将軍の率いる営が宿衛軍であるというだけで、外軍が宿衛軍であるとまでは言えない、護軍営が外軍であることを示せ」ってできるだろう。無理だわな。外軍と護軍営が別であることも示せないけどな。そんな意地悪な理屈を言い出さずとも、そもそも『宋書』蔡廓伝を突きつけられたら抵抗できないがな。でも蔡廓伝で言わんとしている文意って軍団の統率関係の話ではなくて(以下略)<br/>
こういう感じにとくに根拠もないまま巡っていくのでわからないままとしておきます。<SPAN class="sm"><a href="#201606132b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606133">[3]</a>武官の選挙のことについて。『通典』巻34職官典16勲官の原注に長々と考察がおこなわれている。大意は「領軍将軍が選挙したって記述も一部にあるけど、護軍が領軍に統合されていたときのことだから」っていうもの。「歴代史籍皆云、護軍将軍主武官選、則領軍無主選之文。唯陶藻職官要録云、『領軍将軍主武官選挙』、而護軍不言主選。又引曹昭叔述孝詩叙曰、『余年三十、遷中領軍、総六軍之要、秉選挙之機』。以此為証。今按、漢高帝初、以陳平為護軍中尉、令已主武官選矣。故平有受金之讒。又魏略云、『護軍之官、総統諸将、主武官選、前後当此官者、不能止貨賂。故蒋済為護軍、時有謡曰、「欲求牙門、当得千匹。五百人督、得五百匹」。司馬宣王与済善、聞此声以問済、済無以解之。及夏侯玄代済、故不能止絶人事。及晋景帝代玄為中護軍、整頓法分、人莫敢犯者』。又王隠晋書曰、『景帝為中護軍、作選用之法、挙不越功、吏無私焉』。又晋起居注云、『武帝詔曰、「中護軍職典戎選、宜得幹才」。遂以羊琇為之」。宋志又云主武官選。按此、則護軍主選、明矣。而陶藻所言領軍主選、及昭叔之叙者、当因省併之際、為一之権宜、非歴代之恒制」。<SPAN class="sm"><a href="#201606133b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606134">[4]</a>「資」については<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2013/10/blog-post_26.html">過去記事</a>の注 [1] をさしあたり。<SPAN class="sm"><a href="#201606134b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606135">[5]</a>『南斉書』巻16百官志「諸為将軍官、皆敬領、護。諸王為将軍、道相逢、則領、護譲道」。<SPAN class="sm"><a href="#201606135b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606136">[6]</a>中華書局版『晋書』巻24職官志「左右衛将軍、案文帝初置<b>中衛及衛</b>、武帝受命、分為左右衛、以羊琇為左、趙序為右」。「文帝が中衛と衛を設けた」なんて変な文だが、中華書局によると、宋本だけが「及」の下に「衛」字があり、ほかはないのだという。んで、文帝のときにはたしかに中衛将軍と衛将軍が並立していたからこれは宋本が正しいとしているのだが、それはいかがなものか・・・。それだと後ろの「分為左右」って何を分けたんですかね・・・。<br/>
興味深いことに、銭大昕『廿二史考異』巻20でちょうどこの文が取り上げられているのだが、まず本文が「案文帝初置中衛、及<b>魏</b>武帝受命、分為左右衛」と引用されている。問題の箇所は「衛」字ではなく「魏」になっている。そんで銭氏は「此晋武帝事、非魏武帝也、魏字衍、文帝亦謂晋文帝、非魏文帝」と、「魏」はまちがいだし、衍字だ、とコメントしている。そういわれると、先の『晋書』の文も「衛」を消して「及」を「武帝受命」にくっつければすごく読みやすいわな。<br/>
私の手元には、『晋書』は中華書局本と宋本しかないので、銭氏の閲覧したように作る本があるのか確認できないが、読みとしては銭氏のほうが納得できるものがある。『宋書』の記述とも対応するしね。<SPAN class="sm"><a href="#201606136b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606137">[7]</a>注 [24] でちょい触れるが、左衛の率いる軍(営兵)は熊渠虎賁、右衛は佽飛虎賁という名称であった?らしい。『晋書』職官志「左衛、熊渠武賁、右衛、佽飛武賁」。どっちも漢代から使われていたらしい強い意味のネーミング。唐でも南衙に衛士を送り出す折衝府の名称として使用されている。<SPAN class="sm"><a href="#201606137b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606138">[8]</a>『通典』巻28職官典10左右驍騎「晋領営兵、兼統宿衛」。<SPAN class="sm"><a href="#201606138b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201606139">[9]</a>『太平御覧』職官部36後将軍引『晋起居注』「太始八年、置後軍将軍、掌宿衛」。<SPAN class="sm"><a href="#201606139b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061310">[10]</a>『通典』巻29職官典11中郎将「斉左右中郎将属西省」。西省は『宋書』百官志にも言及があり、中書侍郎が西省に勤務し、文書の作成を担ったという(<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2015/08/11.html">訳注(11)</a>、主に注の [11] あたりを参照)。そのときは言及しなかった(気づかなかった)のだが、『南斉書』百官志に「<b>自二衛、四軍、五校已下、謂之西省</b>、而散騎為東省」とあり、おそらく宿衛軍(四軍、五校尉らをそれに含めていいのか確証はないが)の勤務先?駐留地?宿泊場所?であったらしい。左右中郎将の「属西省」というのも、二衛らと同じく、ってことだろう。<SPAN class="sm"><a href="#2016061310b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061311">[11]</a>『漢書』巻19百官公卿表・上によれば、武帝はこの五校尉のほかに三の校尉を設けている。<br/>
中塁校尉。「掌北軍塁門内、外掌西域」。この記述は濱口重國氏によれば、北軍内の監査を職務とする、という意味である<span class="sm">(「前漢の南北軍に就いて」、同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、東京大学出版会、1966年、pp. 259-260、初出は1939年)</span>。『続漢書』百官志四・北軍中候によれば、光武帝のときに廃止。中塁校尉の職務は北軍中候が担うようになった。<br/>
胡騎校尉。「掌池陽胡騎、不常置」。『続漢書』百官志四によると、後漢では置かれず、長水校尉に統合された。<br/>
虎賁校尉。「掌軽車」。後漢では射声校尉に統合された。<SPAN class="sm"><a href="#2016061311b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061312">[12]</a>屯騎校尉。「掌騎士」<span class="sm">(『漢書』)</span>、「掌宿衛兵」<span class="sm">(『続漢書』)</span>。<br/>
歩兵校尉。「掌上林苑門屯兵」<span class="sm">(『漢書』)</span>、「掌宿衛兵」<span class="sm">(『続漢書』)</span>。<SPAN class="sm"><a href="#2016061312b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061313">[13]</a>『漢書』百官公卿表「掌越騎」、『続漢書』百官志四「掌宿衛兵」。百官志本文に記載されている二説は、前者が如淳(の『漢書』注)、後者が晋灼(の『漢書』注)。『続漢書』百官志四の劉昭注「如淳曰、越人内附以為騎也。晋灼曰、取其材力超越也」。劉昭は「案紀、光武改青巾左校尉為越騎校尉。臣昭曰、越人非善騎所出、晋灼為允」。「越人が乗馬得意なワケねーだろ」という理屈をもちだして晋灼説を是とする。<br/>
これに対し顔師古は「宣紀言、(応募)佽飛射士、胡越騎。又此有胡騎校尉。如説是」。宣帝紀には「胡と越の騎」とちゃんと記されているし、このうち「胡騎」は胡騎校尉が統べたであろうから、残る越騎は越騎校尉が率いたにちがいない、だから如淳が正しい、という感じのことを述べている。しかしその「越騎」が「越人の騎」であるとは限らないだろうから、決定打とは言えないような。<br/>
感覚的には劉昭のほうが理に適っている気がするが、顔師古が前人の劉昭の解釈をまったく知らないなんて考えづらいし、師古がそれを採らなかったのにはなにか理由があるのだろう。確たる記述がないのでこれ以上考えようがない。<SPAN class="sm"><a href="#2016061313b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061314">[14]</a>『漢書』百官公卿表「掌長水宣曲胡騎」、『続漢書』百官志四「掌宿衛」、また同司馬・胡騎司馬の本注に「掌宿衛、主烏桓騎」。匈奴であろうと烏桓であろうと、北方非漢族系で組織された騎兵部隊を率いたのであろう。なお『後漢書』紀1光武帝紀・下によれば、建武7年に射声校尉とともに廃され、建武15年に復置されている。<br/>
百官志本文における名称の解説については、『続漢書』劉昭注「如淳曰、長水、胡名也。韋昭曰、長水校尉典胡騎、厩近長水、故以為名、長水蓋関中小水名」、『漢書』顔師古注「長水、胡名也。宣曲、観名也、胡騎之屯於宣曲者」を参照。<br/>
如淳や韋昭は断片的にしかわからないが、『宋書』百官志と顔師古は「長水宣曲胡騎」でひとつの語とみなしているらしい様子だ。長水という胡で編成された騎馬部隊が宣曲に駐屯していたからだ、と。長水を胡名とするのは、『漢書』巻54李広伝「衛律者、父本長水胡人」などの記述を根拠にしているのだろう。<br/>
対して韋昭は、長水を地名と考えている。濱口重國氏の紹介によると、長水は長安城の東を流れていた河川として実際に記録にあるらしい。ただ韋昭が宣曲をどう解していたかは不明で、長水と宣曲の関係をどう理解していたのかがわからないのが残念。なお濱口氏は、長水をめぐる二説を紹介したあとで「断定は避けて置き度い」と述べている<span class="sm">(「前漢の南北軍に就いて」、pp. 264-265、注の31)</span>。長水が実際にあったと確認できても、そんなんで解決にいたらないほど深い闇があることを詳述されているので興味がある方は参照ください。<br/>
しかしそもそも、『宋書』百官志や顔師古の解釈は根本的なところで誤っているらしい。『漢書』の「長水宣曲胡騎」というのは「長水胡騎と宣曲胡騎」と読むのが正確なようである。詳しくは濱口氏「前漢の南北軍に就いて」、p. 255を参照のこと。<SPAN class="sm"><a href="#2016061314b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061315">[15]</a>『漢書』百官公卿表「掌待詔射声士」。同顔師古注引服虔注「工射者也。冥冥中聞声則中之、因以名也」、同引応劭注「須詔所命而射、故曰待詔射也」。『続漢書』百官志四「掌宿衛兵」。長水校尉のところで述べたように、建武7年に配され、同15年に復置。<SPAN class="sm"><a href="#2016061315b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061316">[16]</a>『後漢書』紀1光武帝紀・下によれば、建武9年3月「初置青巾左校尉官」、建武15年6月「復置屯騎、長水、射声三校尉官、改青巾左校尉為越騎校尉」。屯騎校尉が驍騎校尉に改称されたとの記事は検索するかぎり見つからないが、李賢は長水校尉らと同じく建武7年のことだと注している。<SPAN class="sm"><a href="#2016061316b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061317">[17]</a>領軍将軍のところで、「漢代では京師を守る軍を南北軍と呼んだ」との記述があったが、ほかでもなくこの五校尉こそ、後漢時代における北軍であった。この注では漢代の南北軍を濱口重國「前漢の南北軍に就いて」および「両漢の中央諸軍に就いて」<span class="sm">(同氏『秦漢隋唐史の研究』上巻、初出は1939年)</span>に従って簡単にまとめておきたい。<br/>
前漢では、衛尉の軍が<b>南軍</b>、中尉(のちに執金吾)の軍が<b>北軍</b>と呼ばれていた。この通称は、南軍の屯所が長安城西南にある宮城内に、北軍の屯所が長安城北部に設けられていたことによっているという。衛尉は宮城の門およびその内側を、中尉は宮城門外および長安城内を、それぞれ警護していた。この南北軍とは別に、宮殿の門およびその内側の警衛には郎中令(のちに光録勲)があたっている。また武帝はこのほかにもさまざまな特殊部隊を創設している。期門(のちに虎賁)、建章営騎(のちに羽林)はおもに外出時などにおける侍従部隊で、光録勲に属した。屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁・中塁の八校尉も武帝の創設である。これらを北軍に数える説もあるが、諸校尉の屯所はバラバラで、職務も統一されておらず(上林苑の門の警備や、池陽、宣曲など離宮の警備・・・)、諸校尉は「天子の私的な用に供した・・・天子の私的な部隊」とみなしておくのが穏当のようである<span class="sm">(「両漢の中央諸軍に就いて」、p. 272)</span>。<br/>
後漢では屯騎・歩兵・越騎・長水・射声の五校尉が<b>北軍</b>と呼ばれるようになり、北軍中候が北軍を監督した(ほかの三校尉については注 [10] 参照)。五校尉はこれまでの諸注でいちいち引用した『続漢書』にあるように、後漢では「宿衛兵」を率いており、前漢のような個別特殊部隊というわけではなさそうであるものの、具体的にどのあたりの警備を担当していたのはよくわからず、濱口氏は宮城外周の警衛を職務としていたのではないかと推測している。ほかにかんしては前漢と変わらず、執金吾が宮城外~洛陽城内、衛尉が宮城門~宮城内、光録勲が宮殿内の宿衛や外での侍従を管轄した。<br/>
個人的には、宮殿周辺、宮城内、宮城外できれいに宿衛担当が分かれていることがポイント。魏晋時代の中央軍(要するに内軍と外軍)も同様の状況だった可能性があるかもしれないので。<br/>
なお、すっかり忘れていたが<b>後漢以後の五校尉</b>の様子について(私の関心はほとんど晋にしか向かないので晋しか調べていません、悪しからず)。『太平御覧』巻242職官部40屯騎校尉に引く『司馬無忌譲屯騎校尉表』に「屯騎之任、<b>職典禁旅、御衛事重</b>、必宜其人、豈以微弱所可克堪」とあり、『晋書』巻37譙剛王遜伝附無忌伝によると、無忌は東晋・成帝の咸和年間に屯騎校尉に就任している。この表を奏するも認められずに結局就任したのであろうか。ともかく東晋のこの時期においても、屯騎校尉が「禁旅」を率いて「御衛」をおこなう官に位置づけられていることは確認できる。根拠があるわけではないが、それは西晋以来変わらずそうだったのではないか。また同『太平御覧』の引く『陶氏職官要録』に「屯騎、越騎、歩兵、長水、射声五校尉。案晋官、<b>晋承漢置、以為宿衛官、各領千兵</b>。<b>興寧三年、桓温奏省五校尉、永初元年、復置</b>、以叙勲旧」とある。『晋書』巻8哀帝紀を調べてみると、「改左軍将軍為遊撃将軍、罷右軍、前軍、後軍将軍五校三将官」という記述が興寧2年2月の条に見えており、『職官要録』とは年代がじゃっかん違っているが、おそらく同一の出来事のことだろう。桓温の改革の一環で四軍三将といっしょに廃されたようだ。<SPAN class="sm"><a href="#2016061317b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061318">[18]</a>原文「自游撃至五校魏晋逮于江左初猶領営兵並置司馬功曹主簿後省」。中華書局は「自游撃至五校、魏晋逮于江左、初猶領営兵、並置司馬、功曹、主簿、後省」と読み、私もその解釈に従っている。「後省」は直前の司馬などではなく、「自游撃至五校」を対象とする文として解した。<br/>
この文の読解にあたって、参考にもなるし厄介にもなるのが『晋書』職官志の次の記述である。「屯騎歩兵越騎長水射声等校尉是為五校並漢官也魏晋逮于江左猶領営兵並置司馬功曹主簿後省左軍右軍前軍後軍為鎮衛軍其左右営校尉自如旧皆中領軍統之」。中華書局の読みは以下のとおり。「屯騎、歩兵、越騎、長水、射声等校尉、是為五校、並漢官也。<b>魏晋逮于江左、猶領営兵、並置司馬、功曹、主簿。後省左軍、右軍、前軍、後軍為鎮衛軍</b>、其左右営校尉自如旧、皆中領軍統之」。太字にした部分のうち、「魏晋」から「後省」までは『宋書』百官志とほぼ同じ文言である。つまり両者は同一の資料を参考にして記事を作成している可能性が高いと思われる。だが『晋書』は『宋書』と違って「後省」以後も文が続いており、『晋書』中華書局班は「後省」を五校尉ではなく四軍にかかるものであるととらえている。<br/>
この中華書局『晋書』の読みが正しいのだとすれば、『宋書』百官志は本来「後省」以後に続けるべき文を省略してしまうという不完全な引用ないし誤読をしていることになる。逆に中華書局『宋書』からすれば、中華書局『晋書』の読み方こそ誤っていることになろう。<br/>
先に触れたように、両者は同一の資料を参考にしていると思われるので、読み方がここまで違ってしまうのはおかしい。同一の資料を参考にしていても、『宋書』と『晋書』それぞれの記事作成者の資料の解釈が異なっていて、それが記事上に反映されているのかもしれないし、また『宋書』にかんしては伝承の過程で脱落が生じた可能性も排除できない。<br/>
と風呂敷を広げてみたけれど、これはたためないです。いろいろと資料が足りなくてどちらの読み方を妥当とすべきかわからないです。なので本文は『宋書』だけで読むことにして、『晋書』から文を補ったり、というようなことはしないことにしました。長々と申しわけない・・・。ただ『晋書』の文は独自な情報でもあるため、いちおう『宋書』+『晋書』案(願望)を下に掲載。<br/>
<blockquote>游撃将軍から五校尉までの将は、魏晋より江左のあいだ、当初は(すべて前代以来)依然として営兵を有しており、みな司馬、功曹、主簿を置いていたが、のちに(官自体が?)廃された。左右の中郎将はもともと営兵を有していなかった。左軍、右軍、前軍、後軍は鎮衛軍と言い、左営と右営の校尉は旧来どおり設けられた<span class="sm">〔鎮衛軍の営は左と右の二つ?があって、左右の営には部校尉が一人ずつ置かれた?ってことだろうか〕</span>。すべて中領軍が統べた。五校尉は秩二千石。</blockquote></p>
<p> なお、越智氏は「左軍、右軍、前軍、後軍為鎮衛軍」の箇所について、「左軍」は衍であり、「興寧二年・・・に・・・右軍、前軍、後軍が(改めて)鎮衛軍となり依然として領軍将軍の支配下にあったとすべきだろう」<span class="sm">(注 [2] 前掲越智論文、p. 19)</span>と、前注で触れた桓温 = 哀帝時代の改革のことと読んでいるが、私は「鎮衛」を四軍の別称?のようなものと考えているので、従わない。<SPAN class="sm"><a href="#2016061318b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061319">[19]</a>『周礼』夏官・虎賁氏「掌先後王而趨以卒伍<span class="sm">〔鄭玄注:王出、将虎賁士、居前後。群行亦有局分〕</span>。軍旅、会同、亦如之、舎則守王閑<span class="sm">〔舎、王出、所止宿処。閑、梐枑〕</span>。王在国則守王宮<span class="sm">〔為周衛〕</span>」。皇帝が出かけるときも出かけないときも護衛につくやつ。<SPAN class="sm"><a href="#2016061319b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061320">[20]</a>『太平御覧』巻241職官部39虎賁中郎将引『応劭漢官儀』「虎賁中郎将、古官也。書称武王伐紂、戎車三百両、虎賁三百人、擒紂於牧之野。言其猛怒如虎之奔赴。平帝元始元年、更名虎賁郎。古有勇者孟賁、改奔為賁。中郎将、冠両鶡尾。鶡、鷙鳥中之異勁者也。毎所攫取、応爪摧碎。鶡尾、上党所貢」。<SPAN class="sm"><a href="#2016061320b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061321">[21]</a>『続漢書』百官志三・少府・中黄門宂従僕射・本注「宦者。主中黄門宂従。居則宿衛、直守門戸、出則騎従、夾乗輿車」。職掌だけ見ると、ばっちり宿衛の官。「関係がない」というのは直接の継承関係にはない、宦官の官ではない、職務の類似関係から名前を拝借しただけ、ってことなのかな。<SPAN class="sm"><a href="#2016061321b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061322">[22]</a>『続漢書』百官志二・光録勲・羽林中郎将・本注「常選漢陽、隴西、安定、北地、上郡、西河凡六郡良家補。本武帝以便馬従猟、還宿殿陛巌下室中、故号巌郎」、同劉昭注引『荀綽晋百官表注』「言其巌厲整鋭也」。<SPAN class="sm"><a href="#2016061322b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061323">[23]</a>『太平御覧』職官部37積弩将軍引(無書名)「晋太康十年、立積弩、積射営各二千五百人、並以将軍領之」、同強弩将軍引『傅暢晋讃』「晋文王、晋台置強弩将軍、掌宿衛」。<SPAN class="sm"><a href="#2016061323b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061324">[24]</a>三部司馬については、『晋書』職官志に「二衛始制、前駆、由基、強弩為三部司馬、各置督史」とあり、前駆司馬、由基司馬、強弩司馬を指す。『晋書』の文の読み方はイマイチわからないのだけど、左右衛が設けられたさいに、ほぼ同時に三部司馬が定められた、ということだろうか。『宋書』本文にあるように晋の殿中の宿衛軍であること、また『太平御覧』巻386人事部27健に引く『晋令』に「選三部司馬、皆限力挙千二百斤以上。前駆司馬、取便大戟。由基司馬、取能挽一石七斗以上弓」とあり、特殊な選抜で編成された軍であること、いずれにおいても漢代の虎賁や羽林に類似した部隊であるとみなしてよいと思われる。<br/>
三部司馬の立場はやや特殊であったようだ。『晋書』巻40揚駿殿の武帝遺詔に「若止宿殿中、宜有翼衛、其差<b>左右衛三部司馬</b>各二十人、殿中都尉司馬十人、給駿」とあり、三部司馬が左右衛に所属しているっぽいように記されている。だが、彼らの立ち位置はそれほど単純でない。巻59趙王倫伝にはしばしば三部司馬が見えているが、たとえば趙王が賈后を廃する計画では、趙王は事前に殿中や左右衛の将校たちの協力を内密に得ている。宮中での行動には彼らの助けが不可欠であったのだろう。これはこれで興味深いことではあるが、しかし左右衛の部督の内応を得ているにもかかわらず、「至期、乃矯詔勅三部司馬曰、・・・於是衆皆従之」と、矯詔で三部司馬を動かしている。その後、趙王倫が帝に即くときには、「左衛王輿与前軍司馬雅等、率甲士入殿、譬喩三部司馬、示以威賞、皆莫敢違」と、趙王の即位に不満を抱かせぬよう、左衛将軍らが三部司馬を説得している。三部司馬は内軍となんらかの関係はあったのだろうが、こうした事例等を見ると皇帝の私兵的な側面があった集団だったのかもしれない。なお趙王のクーデター時には、「倫又矯詔開門夜入、陳兵道南、遣翊軍校尉、斉王冏将三部司馬百人、排閤而入」とあることから、三部司馬の駐留地は宮城外北であった可能性がある。<br/>
<br/>
百官志本文は、私が複雑に考えすぎているだけなのかもしれないが、意味が汲み取りづらく、訳文のような補足を加えつつ解釈しておいた。南朝の史書にしばしば右衛殿中将軍、左衛殿中将軍が登場しているので、殿中将軍が二衛に所属しているのは確かなのであろうが、本文で言っているのはそのことであるのかどうかは自信がない。<br/>
なお『晋書』の前引の文にはさらに以下のような記述が続いている。「左衛、熊渠武賁、右衛、佽飛武賁。二衛各五部督。其命中武賁、驍騎、遊撃各領之。又置武賁、羽林、上騎、異力四部、并命中為五督。其衛鎮四軍如五校、各置千人。更制殿中将軍、中郎、校尉、司馬、比驍騎。持椎斧武賁、分属二衛。尉中武賁、持鈒冗従、羽林司馬、常従、人数各有差。武帝甚重兵官、故軍校多選朝廷清望之士居之」。不詳のところも多いので直訳気味に読んでみる。「左衛は熊渠虎賁、右衛は佽飛虎賁を率いる。左右衛はそれぞれ部督は五人。命中虎賁は驍騎将軍、游撃将軍が率いる。ほかに虎賁、羽林、上騎、異力の四部を置き、これらと命中部を合わせて五督という。衛鎮の四軍は五校尉と同様に各千人。また殿中将軍、殿中中郎将、殿中校尉、殿中司馬を設け、(殿中将軍の位は?)驍騎将軍に相当した。持椎斧虎賁は左右衛に分かれて所属した。殿中虎賁、持鈒冗従、羽林司馬、常従(虎賁?)の人員はそれぞれ等差が定められていた。武帝は兵官を非常に重視していたため、禁軍将校には朝廷の名声ある人士を抜擢して就けていた」。<br/>
多くの固有名詞はよくわからないやつばかりなので措くが、問題になりそうなのが「二衛各五部督」の箇所。この「五部督」を、後文の虎賁+羽林+上騎+異力+命中=「五督」と同一とみなすべきか否か。同じと考えたいところだが、五督の一つである命中部が驍騎と游撃に率いられると記されているのに、さらに二衛にも統属するのかと思うとやや違和がなかろうか。あるいはこの五部を三部司馬+αと解釈することも可能だとは思うが、特に根拠なくそこまで踏み込むのは気が引ける。ということで、私は「二衛には部が五つある」の意味で解釈することにしました。<br/>
なお、命中虎賁のような「――虎賁」というのは、虎賁中郎の営の虎賁というより、禁軍兵の一般的通称のように?使われているっぽい。『周礼』の影響だろうか。『晋書』巻26食貨志の戸調式にはいろいろな虎賁がみえているので引用だけしておく。「第九品及挙輦、跡禽、前駆、由基、強弩司馬<span class="sm">〔三部司馬と同じような挙輦部、跡禽部というのもあったようだが他に用例はなし〕</span>、羽林郎、殿中冗従武賁、殿中武賁、持椎斧武騎武賁、持鈒冗従武賁、命中武賁武騎、<span class="sm">〔得衣食客〕</span>一人」。<SPAN class="sm"><a href="#2016061324b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2016061325">[25]</a>『北堂書鈔』巻64驍騎将軍「遷名家以参顧問」引『晋起居注』「殿中将軍、武帝太元中、募選名家、以参顧問、始用琅琊王茂之奏也」、『宋書』巻64裴松之伝「年二十、拝殿中将軍。此官直衛左右、晋孝武太元中、革選名家以参顧問、始用琅邪王茂之、会稽謝輶、皆南北之望」。裴松之伝から察するに、殿中軍は皇帝のボディーガード的なものだったのだろうか。三部司馬とは差別化されているはずだと思うから、三部司馬はこれとはまた別のかたちで帝に身近な警護を担当したのではないかなと。<SPAN class="sm"><a href="#2016061325b">[上に戻る]</span></a></p>
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hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-38982863465730364272016-02-08T23:30:00.001+09:002016-02-21T03:22:27.489+09:002015年未読アンケート特集<p class="mb5"></p>
人文書の老舗・みすず書房さんから月刊で『みすず』というPR誌が発行されているが、この1・2月合併号は毎年、百数十名の各界の専門家らに「昨年読んだ本のなかで印象に残った本を5冊以内で挙げてください」というアンケート特集を組んでいる。<br/>
そしてつい先日、2016年1・2月号が発刊されたのだが、私のところには何のアンケートも届かなかった。<br/>
なので私は一人でアンケートに答えようと思う。ただしみすずと同じ内容のアンケではありきたりなので、「2015年に買ったはいいけど読めなかった本」のうちで、とくに悔しさが強いものを挙げてみた。「2015年に買った本」であって「2015年に出た本」ではない。数字も順位じゃないよ。<br/>
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<br/>
<b>1 高橋智=著『書誌学のすすめ――中国の愛書文化に学ぶ』(東方書店、2010年)</b><br/>
学生のとき、書誌学のテキストとして陳国慶『漢籍版本入門』(沢谷昭次訳、研文出版、1984年)というのを買わされたのだが、正直それほど興味をそそられなかったため、授業で読む以外にはまったく開かなかった。<br/>
しかし授業のときに何気なく先生がぼそっと、「書誌学の重要さはオレもあとで気づいたんだ・・・」とつぶやいたのをまだよく覚えている。<br/>
ちょうど私もそれを最近感じていて、ちゃんとまじめに学んでいればよかったとつくづく思っている。<br/>
版本関係の用語とかでわからなくなったら上記の『漢籍版本入門』によくお世話になっているのだが、しかしこの本、良書なのは確かなのだが、あまりにもテキストすぎるというか、用語集チックなところがあるというか、味気ない?(と言ったらたいへん失礼だが!)感じがしてしまって、通読しようという気がなかなか起きない。<br/>
そんなときに書店の棚で見つけたのが本書だったというわけ。中をちらっと読んでみたら、わりと読みやすく説いてくれているみたいだったので、楽しんで読めそうかなと思い購入した。<br/>
が、読めなかった。<br/>
必要だから買ったのは間違いないのだが、いま私が書誌学に抱いている関心は純学術的好奇心であるというよりも、たんに技術的・知識的な不足を補おうとする欲求にもとづいている。なので、テクニカルに相当まずい問題が私に生じないかぎり、急いでこれを読んじまおうってならない(みたいだ)。<br/>
不足している知識はさっさと補っておくに越したことはないのに、ちょっとですよ、ちょっとあとでもいいかと思って脇に置いておいたら、そのうちにいまは別に平気だし緊急で読む必要はないかなー、と先延ばしてしまったのがこの有様ですよ。<br/>
<br/>
<br/>
<b>2 今野真二=著『常用漢字の歴史――教育、国家、日本語』(中公新書、2015年)</b><br/>
字体の歴史とかにも興味があってですね・・・。<br/>
しかし、まったくの専門外であるため、どういう本から読むとよいのだろうとかそういうあたりのことがあんまりよくわからない。<br/>
そんなときにちょうど本書が発売されたので、幸いとばかりにすぐ購入した。<br/>
が、積んだままでした。<br/>
なんというか、この本自体に原因があって開かなかったのではなく、どうしてか私は新書というスタイルに親しみをもてないのです。あんまり読む気が起きない。<br/>
そんな自分の癖を知っているので、新書はむやみに買わないようにしているのだが、テーマを絞って買ってみたところでやっぱり新書は後回しにしてしまう。新書を読むなら積んでいる文庫を優先させてしまう。<br/>
軽くサクッと読めるはずだからさっさと消化できるはずなのだけれど・・・。<br/>
<br/>
<br/>
<b>3 入不二基義=著『あるようにあり、なるようになる――運命論の運命』(講談社、2015年)</b><br/>
こういうテーマがここ数年大好き。だからすぐ買っちゃった。でも時間取れなくて・・・。<br/>
また山本芳久『トマス・アクィナス――肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会、2014年)はまだ買えていない本だが、上記とあわせて読んでみたいなと思っている。<br/>
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※番外(そもそもまだ買っていない本)<br/>
<b>4 ティモシー・スナイダー=著『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(上・下巻、布施由紀子=訳、筑摩書房、2015年)</b><br/>
地味にすごくよく売れている本じゃないですか、これ。発売から数ヶ月しても新刊台に平積みされているし。アマゾンレビューや『みすず』アンケートでの評価も良好。<br/>
なので買いたいと思いつつも、上下巻で7000円くらいはきついな、でもまあいつでも買えるだろうし、余裕ができたら買おう、としているうちに・・・上巻だけアマゾンで在庫切れになってしまった。入荷予定もなさそう? 表示がない。<br/>
書店でもあらためて探してみると、下巻すら置いていない。ある書店での検索機では、下巻が僅少、上巻が在庫なしだった。上巻が切れてしまったので下巻も店頭から下げてしまったみたいだ。<br/>
ということは、上巻の初刷?がすべて売れてしまって、版元が上巻を出荷できない状態にあるようだ(版元HPで「在庫×」になっている)。<br/>
さすがに増刷するだろうと思っているのだが、本当にしてくれるのだろうか。なにしろ不景気といわれている業界だから、初版がすべてさばけたらそれで良し!としないともかぎらない。<br/>
ああ、さっさと買っておけばよかった、と思わずにはいられない。という意味で悔いが残る。<br/>
歴史家の著書の翻訳ということで、ほかにやはり財布と相談して買えないでいるのがマーク・マゾワー。昨年は『国際協調の先駆者たち』(NTT出版)、『国連と帝国』(慶應義塾大学出版会)、『暗黒の大陸』(未來社)が刊行されたが・・・『ブラッドランド』ほど速い動きはしていなさそうなんで、マゾワーはあとでも平気そうかなということで保留中。<br/>
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<b>5 余嘉錫=著『古書通例――中国文献学入門』(古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹=訳、平凡社・東洋文庫、2008年)</b><br/>
余嘉錫の翻訳があることを去年はじめて知った。すごいねえ。<br/>
でも東洋文庫って・・・いやらしく高くない? 即決で買えないのだけど。サイズと値段が見合ってない気がしちゃうお・・・。ばいにーだお・・・。<br/>
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ここに挙がっていたり言及していたりするもので、今年いったいどれだけ消化できるだろう。<br/>
来年のこの時期が<del>恐ろしい</del>楽しみですね!<br/>
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hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-44438702420174935782015-11-03T16:40:00.000+09:002015-11-03T16:41:48.542+09:00「闕」ってなんのことだろうって前々からずっと気になってたけど雰囲気でなんとなくわかってるつもりになっててごめんなさい<p class="mb5"></p>
西晋・崔豹『古今注』都邑篇より<a name="201511031b"><a href="#201511031">[1]</a></a>。<br/>
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<blockquote>「闕」とは「観」<span class="sm">〔物見台〕</span>のことである。いにしえは一つの門につき二つの観を門の前に建て、宮門の目印とした。観の上は座ることができるだけのスペースがあり、登れば遠くまで眺めることができるので「観」と呼ぶ。人臣が朝廷に上るとき、ここまで来ると自分の闕(=欠)けているところを反省する。そのためここを「闕」と呼ぶ。上<span class="sm">〔屋根?〕</span>はすべて赤い粉末で塗装されており、下<span class="sm">〔下部の外壁?〕</span>には気や神仙、珍獣が描かれ、図柄によって四つの方角を示している。蒼龍闕には蒼龍、白虎闕には白虎、玄武闕には玄武、朱雀闕の上には二匹の朱雀が描かれている<a name="201511032b"><a href="#201511032">[2]</a></a>。<span class="sm">(闕、観也。古毎門樹両観於其前、所以標表宮門也。其上可居、登之則可遠観、故謂之観。人臣将朝、至此則思其所闕、故謂之闕。其上皆丹堊、其下皆画雲気仙霊、奇禽怪獣、以昭示四方焉。蒼龍闕画蒼龍、白虎闕画白虎、玄武闕画玄武、朱雀闕上有朱雀二枚。)</span><br/></blockquote>
<br/>
またテキストの校注者は『釋名』釋宮室の一節を引用している。「闕とは闕のことである。門の両端にあり、真ん中は闕然(がらん)としていて道をつくっている(ので、門の両端にあるものを「闕」と呼ぶようになった)<span class="sm">(闕、闕也。在門両傍、中央闕然為道也)</span>」。<br/>
<br/>
いままでどういうものを「闕」って言ってるのかたいして理解しようとしてなかった・・・ごめんわかってあげられなくて。<br/>
これからは「闕」って出てきたら、それは「宮門の両端にあるやつで、なんかマンガとかにもよく出てきそうな雰囲気のあるよくわかんねー長いやつ、転じてだいたい宮門のことらしい」って理解すれば良いのだな! 「闕」と呼ばれるゆえんも知ったからもう忘れてやんねー。<br/>
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『古今注』にはこのほかにもおもしろそうな豆知識満載なので、これからちょくちょく紹介するかも?<br/>
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――注――<br/>
<p><a name="201511031">[1]</a>テキストは牟華林校箋『《古今注》校箋』(線装書局、2015年)を使用した。底本は明嘉靖年間の『四部叢刊』(覆宋本)。校勘や語釈が充実しているテキストである。附録として佚文や明清ころ?の知識人の跋文やらなにやらがいくつか収録されている。<br/>
撰者の崔豹については『世説新語』言語篇・劉孝標注に引く『晋百官名』に「崔豹字正熊、燕国人、恵帝時、官至太傅丞」とあるほか詳細不明。『古今注』はさまざまな事物の名称の由来を中心に雑学知識を集めたもの。古今の事物の注解を書きました、って感じだね。現存する本は全三巻八篇(輿服、都邑、音楽、鳥獣、魚虫、草木、雑注、問答釈義)。隋書経籍志は三巻、旧唐書経籍志は五巻、新唐書芸文志は一巻と伝世文献の目録では構成にバラつきがあるが、上記附録に収載されている南宋の『群斎読書志』関連記事は全三巻全八篇で上記の篇名を記録しているそうなので、まあ巻数にバラつきはあっても全体の構成は(少なくとも南宋ころから)あまり変わっていないのではなかろうか。佚文がそこそこあったり字句に混乱があったりと、現在の本にはちょこちょこ散佚やら錯簡があるようだ。<br/>
崔豹の『古今注』は成立とか本のこととかあんまり詳しくないのだが、残念なことに上記の校注本には解題がない(この部分は本当に残念!)。附録にある前近代知識人の感想文やら考証やらを読んで察しろ、というスタンスなのかもしれない。<br/>
ともかく、附録をおおまかに参照して私なりにまとめておくことにする。<br/>
<br/>
現在伝わっている崔豹『古今注』には偽書疑惑がかけられていた。代表的なものが『四庫全書総目提要』で、そこで問題点とされているのは二つある。まず一つに、現今の崔豹『古今注』は後唐の馬縞『中華古今注』(後述)と非常に酷似している、つまり両書の出所は同一ではないのか、ということ。もう一つに、崔豹の『古今注』は北宋から元にかけて失われている可能性がある、例えば『太平御覧』は崔豹の『古今注』を引用していて『中華古今注』を引用していないのに、『文献通考』はその逆であること。この二点から、崔豹の本は北宋~元に失われたのであり、現今の崔豹本は馬縞のものをもとにして作成されたものである、というのがどうやら提要の見解みたいである。<br/>
<br/>
これに反論を加えているのが余嘉錫。まず一点目の問題について。そもそも『中華古今注』ってのは何なのだねという話なのだが、撰者の馬縞の自序には「崔豹の本は博識だけど、ところどころいたらないところがあって残念だなあと思ったからオレが新たに注を加えたよ、書名も変えてみたよ」ってある(そうだ)。つまり『古今注』の注っていう位置づけになるのだろう。したがって余嘉錫は、『中華古今注』が崔豹の『古今注』と大部分同じであるのは『古今注』本文をほぼそのまま収録して一部加筆・改変したにすぎないからだ、と主張している。また彼によれば、明の覆宋本『古今注』と『百川学海』本『中華古今注』とを比較し、馬縞が独自に加筆したところを調べてみたところ、55条「も」加筆があったそうで、しかもその加筆は崔豹本文への追加の注は除いた合計数、つまり崔豹の本文ではもともと取りあげられていなかった題材・記事の加筆数をカウントしたもので、注の追加も数えたらもっとあるんだけど?と嫌味をたれ、「どーーーこがまったく同じなんだ」と息巻いている。コイツまじでやばくない?<br/>
<br/>
二点目の問題だが、まず余嘉錫も指摘していることで問題の核心にはあまり関係がないが、そもそも北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』を下敷きにしていると言われているもので、『修文殿』が後世の『中華古今注』を参照できるはずがないのだから、『太平』に『中華古今注』が引用されていないというのはありうることである。なので『太平御覧』のみを論拠にして、「この時期まではこの本はあったがあの本はなくて~」と論じるのは少々不適切ではないだろうか。<br/>
だがこれは大して重要な論点ではない。『文献通考』にはどうして崔豹本が著録されていないのか、というのが重要である。そこで余嘉錫が『通考』の撰者・馬端臨の参照したという北宋~南宋期の3つの目録書を調べてみたところ、どの本にも崔豹本が記録されているじゃあないかと。これはたんに馬端臨がたまたま見落としてしまったにすぎないのであって、南宋にもちゃんと崔豹本はきっちり伝わっているしぃ、てかそもそも『文献通考』の経籍考ってその書物が現存しているかどうかに関係なく記録していたのだから、「『通考』にない=当時現存していなかった」なんて等式は成り立たないんですけど?、そんなことも知らねーーーの???、と完全に彼はエクスタシーしています。<br/>
<br/>
というわけで、提要の論拠をすべて論破した余嘉錫なわけだが、さらに彼は現今の崔豹本と隋唐宋代の書籍に引用されている『古今注』の文を比較検討してみたところ、やはり現本は引用文の「本体」といえる確かさがあり、宋人や明人が佚文やらを拾い集めてつくった偽書とは一線を画しているという。このあたりの感覚はわりかし信用してもいいんじゃなかろうか。<br/>
<br/>
以上、偽書疑惑について簡単にまとめてみた。私が詳しくないばっかりに現在ではどういう扱いになっているのかわからないが、提要の疑念は確かな根拠にもとづいているとは言えないし、そもそも宋史芸文志にも崔豹『古今注』って採録されているし。北魏・崔鴻『十六国春秋』のように、宋史芸文志には記録がないのに明代にぽっと本が出てくるようなものとは問題の質が違っている。「じつは一度散佚していていま残っているのは後世の偽書だ」と言われたら確かに「そうではない」証拠を出すことはできないのだけど、逆に「散佚している」証拠もないのであって、いちおう余嘉錫に従って、現今の『古今注』は崔豹の原本だと見ておいて良いのかな、たぶん。<br/>
てかこの2015年のテキストもさー、研究助成?かなんかで出版したらしいのだけど、それってつまり長らく『古今注』テキストを研究した成果がコレ、ってことなんでしょ。だったらテキスト問題の解題くらい書いて、研究の結果どう結論が出せそうか表明しておこうよ・・・。購入してから解題がないことに気づいた私もアレですけど。<SPAN class="sm"><a href="#201511031b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201511032">[2]</a>原文は「朱雀闕上有朱雀二枚」。校注者によれば『古今事文類聚続集』は「上有」を「画」に作っており、おそらくこちらが正しいだろうとしている。私もそう思うが、とりあえず訳文では原文を尊重しておいた。また「蒼龍闕」以降の文は別の本だと改行されている、すなわちその前の闕の文とは別扱いになっているそうだ。ここでは使用したテキストに従い、すべてをまとめて一条と見なすことにする。<SPAN class="sm"><a href="#201511032b">[上に戻る]</span></a></p>
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hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-66414088960472587122015-10-04T13:27:00.001+09:002015-10-14T23:11:02.490+09:00南朝の変人やヴぁすぎ
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劉宋の高祖・劉裕の知恵袋に劉穆之という人がいました。<br/>
劉裕の幼馴染のような間柄で、東晋末年に劉裕が北のほうへ軍事行動を起こしたときは、彼が建康で留守を守って一手に政務を決していた。劉裕からの信頼もかなり厚かったらしいが、激務がたたったためか、劉裕が皇帝になるまえに病没してしまった。劉裕は即位後、その功績を称えて南康郡公に封じている。<br/>
<br/>
その爵と封国は子孫にも継承され・・・、孫の劉邕にいたる。今回はこの劉邕についてのお話。『宋書』巻42劉穆之伝に附伝されている彼の伝から。<br/>
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<BLOCKQUOTE>
これより以前、郡、県が封国になった場合は(その郡県の)内史や相は国主に対して臣と称し、任期が終わればそれをやめることになっていた。孝武帝の孝建年間になって、はじめてこの制度が改正され、卑称は(臣から)下官に変更され、贈物を贈るように定まった<a name="201510041b"><a href="#201510041">[1]</a></a>。河東の王歆之はかつて(制度改正以前に)南康相に就いていたが、平素から(国主である)劉邕を軽蔑していた。のちに王歆之と劉邕が元会<span class="sm">〔元日における朝廷での儀礼・宴会のようなもの〕</span>に出席したとき、席が隣り合った。劉邕は酒好きだったので、王歆之に言った。「あなたは以前、(私の)臣であったが、現在では一杯の酒も(私に)注げないのかな?」王歆之は孫晧の歌をまねて応答した。「むかしはおまえの臣だったけれど、いまはおまえと肩を並べている。おまえに酒を勧めることはしないし、おまえの長寿を願うつもりもない」。<span class="sm">(先是郡県為封国者、内史、相並於国主称臣、去任便止。至世祖孝建中、始革此制、為下官致敬。河東王歆之嘗為南康相、素軽邕。後歆之与邕俱豫元会、並坐。邕性嗜酒、謂歆之曰、「卿昔嘗見臣、今不能見勧一盃酒乎?」歆之因学孫晧歌答之曰、「昔為汝作臣、今与汝比肩。既不勧汝酒、亦不願汝年」。)</span>
</BLOCKQUOTE>
<br/>
ちょい悲しいお話だが、まあまあまあ。可能な範囲で掘り下げてみましょう。<br/>
まず内史や相は国主に対して「臣」と称した、という点について。「称臣」については尾形勇氏の古典的研究があるが、氏は漢代の「称臣」のパターンを検証したさいに、呉王濞の郎中であった牧乗が「臣乗」と自称している例を挙げている<span class="sm">(『漢書』巻51牧乗伝。氏は正確には「陪臣」と称したであろうと指摘している)</span>。もっとも、封国の官吏が国主に臣を称した例はこの一例しか見られないようである。氏は、漢代の「称臣」は皇帝に限定されて用いられており、それは皇帝権力の確立と関係があると論じているが、この一例を例外ないし逸脱とは見なさず、これもまた皇帝権力構造のなかで機能したものであろうと肯定している<span class="sm">(尾形『中国古代の「家」と国家』岩波書店、1979、pp. 118-120、156-160)</span>。<br/>
最近はいわゆる「郡国制」の理解が深められており、漢初の王(王国)は漢朝(皇帝)からあるていど独立して王国内の行政を執っていたらしい、という側面が強調されている<a name="201510042b"><a href="#201510042">[2]</a></a>。なので、陪臣が「臣」と自称していた可能性は十分あり、じゃないですかね。とはいっても、「郡国制」秩序が変化していった武帝期以後もそうであったと言えるのかはあんまり詳しくないからわからないが。<br/>
魏晋以降については、徐冲氏により国主への「称臣」があったことが指摘されている<a name="201510043b"><a href="#201510043">[3]</a></a>。<br/>
というわけで、おそらく漢代以来つづいていたと思われる慣習が孝武帝のときに突如改められたわけだけれども、これはいったいどうしてだろう。<br/>
孝武帝といえば、とまずイメージでいうと、皇帝権力の確立に腐心した皇帝、かなと<a name="201510044b"><a href="#201510044">[4]</a></a>。そんな彼のことだから、どうも「外」が権力をもつことに非常に警戒心を抱いていたらしい。『宋書』百官志の録尚書のところにも次のような記述が見える。<br/>
<br/>
<blockquote>およそ重号将軍や刺史であれば、みな属官の任用を自分の裁量ででき、(皇帝直任官の)任命や(属官に)節を与えることができなかったのみで(それだけで権限が非常に大きく、これに録尚書事を加えると内外の要事を一手に握ることになるので)、宋の孝建年間、権力を朝廷の外<span class="sm">〔地方に出鎮する将軍や刺史〕</span>に与えたくなかった孝武帝は、録尚書事を廃した。(しかし)大明年間の末年に復置された。以後、置かれたり置かれなかったりした。<span class="sm">(<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2014/11/9.html#11b">訳注(9)</a>)</span></blockquote>
<br/>
とりわけ孝武帝が警戒したのはおそらく皇族であった。劉宋は東晋と違い、中央の要職も地方の要衝も皇族を充てる人選をおこなっていた。文帝の元嘉27年の北伐でも、東西各前線への指示は将軍・刺史・都督であった皇族たちがおこなっていたくらいにこの方針は貫かれている。すると、皇族たちが政治的権力をにぎるようになったためか、皇族間のいさかいがぽちぽち起きはじめる。文帝と彭城王義康、文帝と劉劭(元凶)・・・かくいう孝武帝も、父・文帝を殺害して帝位についた兄の劉劭を殺害して即位している。<br/>
孝武帝が皇族への疑心を広げて、封国をもち独自に官府を組織できる異姓諸侯王一般へも向けたであろうことは想像の範囲内であろう。ここで想起されるのは上述でも触れた尾形勇氏の研究である。氏は、元来「称臣」は皇帝や天子のみを対象としておこなわれていたわけではなく、目上の人や上司に対してもおこなわれていたが、漢になってから徐々に、その対象が皇帝へ限定されるようになったと述べているのだ。「「称臣」の限定集中化は、皇帝権力の確立ということと表裏していたのであり、・・・「称臣」という事柄が、皇帝を頂点とする一元的支配体制のもとに置かれていた」<span class="sm">(p. 158)</span>。<br/>
孝武帝はおそらく、この原理を徹底的に推し進めようとしたのではないだろうか。諸侯王とその部下とが皇帝を介在させずに強固な紐帯を結ぶのを阻止すること、その一環として「称臣」という形式的・心理的臣従をやめさせること。当然ながら、王歆之のように「称臣」していたからといって心まで売ってない場合があるわけで、「称臣」の心理的内面化の効果を過大視してもしょうがないが、まあ形的に臣を認めちゃってるしね。<br/>
なお『隋書』巻26百官志・上の梁武帝・天監の改革前の記述のうちに、「諸王公侯国官、皆称臣、上於天朝、皆称陪臣」とある。彼の死後まもなく改められた可能性が高いのではないかな。<br/>
<br/>
それにしてもここまで話を展開できるとは予想外でした。最初はとくに深めるところはなさそうだなと思ってたけど、調べているうちにあれもこれもと、いやーつながっちゃったね。しかし本当に申しわけないんですが、上の称臣の話題は正直どうでもいいことでした。ゴメン。<br/>
<br/>
***<br/>
冒頭に引いた劉邕と王歆之のエピソード。おもしろいところというか盛りあがるところというか、話の見せ場は王歆之がやり返したって場面だね。この箇所、孫晧のまねをしたとある。これはいったいどういうことだろう。王歆之が言っているのは次の逸話に違いない。『世説新語』排調篇より。<br/>
<br/>
<blockquote>武帝は孫晧にたずねた。「南人は「爾汝歌」<span class="sm">〔爾も汝も「なんじ」の意〕</span>をつくるのが得意と聞いたが、君はできるのか」。孫晧は杯を挙げて、武帝に酒を勧めて歌った。「むかしはおまえ<span class="sm">〔原文「汝」、以下同〕</span>と隣国だったが、いまはおまえの臣。おまえに一杯の酒を献じて、おまえの長寿を祝おう」。武帝は後悔した。<span class="sm">(晋武帝問孫皓、「聞南人好作「爾汝歌」、頗能為不」。皓正飲酒、因挙觴勧帝而言曰、「昔与汝為隣、今与汝為臣。上汝一杯酒、今汝寿万春」。帝悔之。)</span></blockquote>
<br/>
「汝」は日本語で言うと「おまえ」みたいなそんな感じ。皇帝に使っていい言葉じゃないけど、使っていいよって武帝が言っちゃったばかりに・・・ってやつだね。<br/>
そう、王歆之の歌も訳文で「おまえ」と訳したところはぜんぶ「汝」なんですよ。<br/>
<br/>
<blockquote>
〈孫晧〉<br/>
昔与汝為隣 むかしはおまえと隣国だったが<br/>
今与汝為臣 いまはおまえの臣<br/>
上汝一杯酒 おまえに一杯の酒を献じて<br/>
今汝寿万春 おまえの長寿を祝おう<br/>
<br/>
〈王歆之〉<br/>
昔為汝作臣 むかしはおまえの臣だったけれど<br/>
今与汝比肩 いまはおまえと肩を並べている<br/>
既不勧汝酒 おまえに酒を勧めることはしないし<br/>
亦不願汝年 おまえの長寿を願うつもりもない<br/>
</blockquote>
<br/>
こういうふうに意味をうまーく反転させたパロディなんですねー。ちなみに酒を勧めるときに「長寿を祝う」ってのは、皇帝に酒を献じるときに「万歳」「千万歳寿」って言うことですな。<br/>
さらにちなみにの話ですが、劉邕は王歆之のことを「卿」と呼んでいるんだよね。丁寧語というか軽い敬称というか、「あなた」「君」みたいなニュアンスかな。いちおう丁重に呼んでいるんですよ。だから「汝」って突然言われちゃってすごくかわいそう。。。<br/>
<br/>
***<br/>
ところでこの劉邕、ちょっとした奇行があったらしいのだ。<br/>
<br/>
<blockquote>劉邕はところかまわずかさぶたを食べるのが好きで、あわびのような味がすると言っていた。ある日、孟霊休のところへ遊びに行ったときのこと。孟霊休はちょっとまえにおきゅうで傷ができてしまっていたが、そのかさぶたがテーブルの上に落ちると、劉邕はそれを拾い取って食べてしまった。びっくりする孟霊休。「 好き なんだよなあ」と言う劉邕。孟霊休は残りのかさぶたを次々にはがし、ぜんぶ劉邕にあげた。劉邕が帰ると、孟霊休は何勗へ手紙をしたためた。「劉邕がかさぶたを食うのを向かい合って、しかとこの目で見たぜ。あいつそのうちかさぶたの食いすぎで全身から血が出んじゃねえか」。南康国の吏は約200人いたが、劉邕は罪の有無を問わず、(全員を)代わりばんこに鞭で打ち、そのかさぶたを食膳に加えていた。<span class="sm">(邕所至嗜食瘡痂、以為味似鰒魚。嘗詣孟霊休、霊休先患灸瘡、瘡痂落牀上、因取食之。霊休大驚。答曰、「性之所嗜」。霊休瘡痂未落者、悉褫取以飴邕。邕既去、霊休与何勗書曰、「劉邕向顧見噉、遂挙体流血」。南康国吏二百許人、不問有罪無罪、逓互与鞭、鞭瘡痂常以給膳。)</span></blockquote>
<br/>
いやあ 驚いたね。<br/>
かさぶたがあわびの味するってまじ? いや仮にしたとしてもあわび好きってわけでもないから食べないけどね。じゃあかさぶたがサッポロポテトバーベQ味したら食べるのかよって言われたらそりゃうーん、ちょっとやるかもしれないよ? でもそんなあなたさあ、人前で食べるぅ? それも友達の食べちゃう?<br/>
この話のミソは孟霊休だよね。彼の鬼畜根性ときたら。そこはがしてまであげちゃうんかい。そこまでする必要あった? おもしろかったのかおまえ。それともおまえあれか、かさぶたは自然に落ちるまえの、あのギリギリのところでぴりぴりはがすのがたまんねえってやつか、はがしたついでにあげただけか。<br/>
<br/>
上の王歆之との関連で注目しておきたい箇所がひとつある。そう、いちばん最後の南康国の吏からかさぶたを強制徴収したっていうところ。王歆之は原文では「素軽(もとヨリかろンズ)」とあるが、おそらく彼は南康相の時代、この劉邕の行動を見て引いてしまったのではないだろうか。こいつようこんな効率的なシステムつくりやがったな、みたいな。<br/>
<br/>
なんか『宋書』っておもしろエピソードを積極的に、というかむしろそれだけを集めて収録している感がある。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
――注――<br/>
<p><a name="201510041">[1]</a>「贈物を贈る」の箇所の原文は「致敬」。『宋書』百官志の参軍の箇所にも用例がある<span class="sm">(<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2013/10/2.html#25b">訳注(2)</a>の注[26]が付いている箇所)</span>。百官志の箇所は当初、「敬礼する」くらいの意味で理解していたのだが、『続漢書』百官志二・謁者僕射の本注の劉昭注に引く『蔡質漢儀』に「謁者僕射が尚書令と会ったさいはたがいに拱手の礼をかわすが敬はない<span class="sm">(見尚書令、対揖無敬)</span>」と見え、たんに「敬礼」と訳すのは皮相的な解釈になる場合があるようだ。ということで、「敬」は具体的に「贈物」を指すと現在では考えている。本文のこの箇所も、違和感は残るものの、とりあえずその解釈に従って訳出した。<br/>
またこのときの改革を『通典』巻31職官典13・歴代王侯封爵は「不得追敬、不得称臣、止宜云下官而已」と記述している。訳してみると、「餞別を贈ることと臣と称すことを禁じ、たんに下官とだけ言うようにした」。「敬」周辺の記述が本文と違いそうだ。<SPAN class="sm"><a href="#201510041b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201510042">[2]</a>そうしたことを主眼とする研究ではないが、例えば阿部幸信「漢初「郡国制」再考」(『日本秦漢史学会会報』9、2008)。氏は「実態はともかくとして、建国当初の漢朝が諸侯王を自らの「内」のものとして観念して」おらず、諸侯王は「「外」の分子とみなされていた」ことを指摘し、「漢朝は、「内」に諸侯王を抱えこんでいたのではなく、「外」に置いた諸侯王と天下を「共同所有」していた」のであり、「「天下安定」下の支配階層が形成していた秩序は、いわば、構成員が共通の利害や目的において結ばれた社会すなわち「連合体」としての性質を帯びていた、といえる。このようにいうとき、現実に漢朝から諸侯王に対して加えられていた各種の制約も、それは他の利害から独立した支配―被支配関係にかかるものとして読まれるべきではなく、「共通の利害や目的」を維持し再生産するのに有益であるとみなされる限りにおいて受容されていたにすぎない」と論じている<span class="sm">(pp. 53-65)</span>。<SPAN class="sm"><a href="#201510042b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201510043">[3]</a>徐冲「漢唐間の君臣関係と「臣某」形式に関する一試論」(『歴史研究』44、2006)pp. 41-45。氏が根拠として挙げる史料のひとつが『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝「朝廷は、東宮属官は(太子に対して)陪臣と称するべきだとしたが、鄭黙は上言して、「・・・東宮の属官はみな朝廷から任命されたものですから、(辟召で任命される)藩国の場合と同様にするべきではありません」。<span class="sm">(朝廷以太子官属宜称陪臣、黙上言、「・・・宮臣皆受命天朝、不得同之藩国」。)</span>」。「藩国」は諸侯王のことを指すであろうから、諸侯王の場合は陪臣が「称臣」していたということですな。<SPAN class="sm"><a href="#201510043b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="201510044">[4]</a>川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大――魏晋南北朝』(講談社、2005年)。「孝武帝は自己に権力を集中し、中央集権を進めた皇帝として知られているが、そのような権力集中を行うとすれば、当然その手足となって働いてくれる人々が必要となる。こうした為政者の欲求と庶民層の台頭が一致したところに、・・・孝武帝以降の南朝において顕著に見られる恩倖政治が出現する」<span class="sm">(p. 146)</span>。余談にすぎないが、最近戸川貴行氏は、孝武帝の政治をたんなる自己顕示欲に発するものではなく、南朝政権そのものの正統性と伝統の創出という観点から理解されるべきものであることを論じている。戸川『東晋南朝における伝統の創造』(汲古書院、2015)。孝武帝って概説書だと兄弟とか殺しまくったやべーやつとしか言及されていないからいちおう。彼は彼なりに画期的なことやろうとしてたんだよって。<SPAN class="sm"><a href="#201510044b">[上に戻る]</span></a></p>
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<br/>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-23788127795937240732015-08-23T12:17:00.000+09:002017-12-30T23:31:25.793+09:00『宋書』百官志訳注(11)――中書・秘書<p class="mb5"></p>
中書令は一人<span class="sm"><a name="1b150823"><a href="#1150823">[1]</a></a></span>。中書監<span class="sm"><a name="2b150823"><a href="#2150823">[2]</a></a></span>は一人。中書侍郎は四人。中書通事舎人は四人。漢の武帝が後宮で宴をしたとき、はじめて宦官に尚書事<span class="sm">〔尚書の仕事=文書の皇帝への取次&文書作成?としてここでは解しておく。注[12]を参照〕</span>を担当させた。(以後、)これを(この業務をおこなう部門を)中書謁者といい、令と僕射を置いた<span class="sm"><a name="3b150823"><a href="#3150823">[3]</a></a></span>。元帝のとき、中書謁者令の弘恭、中書謁者僕射の石顕が権勢を握り、その権力は内外を傾かせた<span class="sm"><a name="4b150823"><a href="#4150823">[4]</a></a></span>。成帝は中書謁者令を中謁者令と改称し、僕射を廃した。東漢は中謁者令を廃した。(東漢には)中官謁者令という官があったが、これは中謁者令とは職務が違う。魏武帝が魏王となると、秘書令を置き、尚書奏事<span class="sm">〔上の「尚書事」と同義〕</span>を担当させたが、すなわちこれが(本来の)中書の職務である。文帝の黄初年間の初め、(秘書令を)改称して中書令とし、また(中書に)監と通事郎を設け<span class="sm"><a name="5b150823"><a href="#5150823">[5]</a></a></span>、(通事郎の位は)黄門郎に次いだ<span class="sm"><a name="6b150823"><a href="#6150823">[6]</a></a></span>。黄門郎が(文書をチェックして認可の)署名をすると、文書は通事郎を通過する。そうして通事郎は(文書を)奉じて(禁中に)入り、皇帝のために読み上げ、(皇帝から裁可が得られたら)「可(よし)」と(文書に)記す<span class="sm"><a name="7b150823"><a href="#7150823">[7]</a></a></span>。晋では(通事郎を)中書侍郎に改称し、定員は四人とした<span class="sm"><a name="8b"><a href="#8">[8]</a></a></span>。江左の初め、中書侍郎を通事郎に改称したが、まもなく中書侍郎に戻った<span class="sm"><a name="9b150823"><a href="#9150823">[9]</a></a></span>。晋の初め、舎人一人、通事一人を置いた。江左の初め、舎人と通事を合わせて通事舎人とし<span class="sm"><a name="10b150823"><a href="#10150823">[10]</a></a></span>、上奏文書<span class="sm">〔原文「呈奏」〕</span>の草案作成を職務とした。のちに通事舎人は廃され 、中書省から侍郎一人を選んで西省に当直させ(て、その中書侍郎に通事舎人の仕事をおこなわせ)、また下達文書<span class="sm">〔原文「詔命」〕</span>の作成を担当した。宋の初め、ふたたび通事舎人を置いたので、侍郎の職務は軽くなった<span class="sm"><a name="11b150823"><a href="#11150823">[11]</a></a></span>。通事舎人は閤内に当直し、中書省に所属した。通事舎人の下には主事が置かれ、本来は武官を用いていたが、宋は改めて文吏を用いた。<span class="sm"><a name="12b150823"><a href="#12150823">[12]</a></a></span><br/>
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秘書監は一人。秘書丞は一人。秘書郎は四人<span class="sm"><a name="13b150823"><a href="#13150823">[13]</a></a></span>。漢の桓帝の延熹二年、秘書監を置いた<span class="sm"><a name="14b150823"><a href="#14150823">[14]</a></a></span>。皇甫規の張奐宛ての書簡に「従兄の秘書の它の様子はどうだろうか」とあるが、これのことである。応劭『漢官』に「秘書監は一人、秩は六百石」とある。のちに廃された。魏の武帝が魏王となると、秘書令、秘書丞を置いた。(このときの)秘書は(それまでの中書のように)尚書奏事を担当した。文帝の黄初年間の初め、中書令を置き、(中書令に)尚書奏事をおこなわせ、(従来の)秘書令を秘書監に改めた<span class="sm"><a name="15b150823"><a href="#15150823">[15]</a></a></span>。のちに何楨を秘書丞にしようとしたが、秘書にすでに丞がいたので、何楨を秘書右丞とした。(丞は)のちに廃された<span class="sm"><a name="16b150823"><a href="#16150823">[16]</a></a></span>。(秘書は)書籍の管理を職掌とした<span class="sm"><a name="17b150823"><a href="#17150823">[17]</a></a></span>。『周官』では外史が地方志、三皇五帝の書を管理したとあるが、すなわちこの職務である。西漢では書籍が所蔵されていた場所は、天禄閣、石渠閣、蘭台、石室閣、延閣、広内閣である<span class="sm"><a name="18b150823"><a href="#18150823">[18]</a></a></span>。東漢では書籍は東観に所蔵されていた。晋の武帝は秘書を中書省に併合し、秘書監を廃し、秘書丞を中書秘書丞とした<span class="sm"><a name="19b150823"><a href="#19150823">[19]</a></a></span>。恵帝はさらに著作郎一人、佐郎<span class="sm"><a name="20b150823"><a href="#20150823">[20]</a></a></span>八人を置き、国史(の著述・管理)を担当させた。周のとき、左史は事件を、右史は言行を記録したが、すなわちこの職務である。東漢の書籍は東観に所蔵されていたため、名声のある儒者や研鑽を積んだ学者を著作東観とし、国史を執筆させた<span class="sm"><a name="21b150823"><a href="#21150823">[21]</a></a></span>。「著作」の名はこれに由来している。(著作郎は)魏のときは中書省に所属していた<span class="sm"><a name="22b150823"><a href="#22150823">[22]</a></a></span>。晋の武帝のとき、繆徴が中書著作郎となった。元康年間、秘書の所属に改め、のちに独立させられて著作省とされたが、なお秘書の所属とされた<span class="sm"><a name="23b150823"><a href="#23150823">[23]</a></a></span>。著作郎は大著作といい、もっぱら史官の職務をおこなった。晋の制度では、著作佐郎が最初に就任したとき、必ず一人分の名臣伝を撰述することとなっていた<span class="sm"><a name="24b150823"><a href="#24150823">[24]</a></a></span>。宋の初め、朝廷が建てられたばかりで、まだ撰述に適当な人物がいなかったため、この制度はとうとう廃れてしまった<span class="sm"><a name="25b150823"><a href="#25150823">[25]</a></a></span>。<br/>
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――注――<br/>
<p><a name="1150823">[1]</a>『通典』巻21・職官典3・中書省「中書省の官は由来が古いが、中書省と呼ぶようになったのは魏晋からである<span class="sm">(中書之官旧矣、謂之中書省、自魏晋始焉)</span>」。<SPAN class="sm"><a href="#1b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2150823">[2]</a>中華書局によると『宋書』の各種版本では「中書舎人」につくっているという。中華書局校勘記に従い、「中書監」として訳出する。<SPAN class="sm"><a href="#2b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="3150823">[3]</a>『太平御覧』巻220・職官18・中書令引『応劭漢官儀』「左右曹は尚書事を受け持っていた。前世(前漢)の文人は、中書が右(=西)省(?)に勤務(?)していたことから、中書のことを右曹とか西掖などと呼んだ<span class="sm">(左右曹受尚書事、前世文人、以中書在右、因謂中書為右曹、又称西掖)</span>」。<SPAN class="sm"><a href="#3b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="4150823">[4]</a>『通典』巻21・職官典3・中書令では以下の文章がつづいている。「蕭望之以為中書政本、宜以賢明之選、<b>更置士人、自武帝故用宦者、掌出入奏事、非旧制也。</b>・・・成帝建始四年、・・・<b>更以士人為之、皆属少府</b>」。<SPAN class="sm"><a href="#4b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="5150823">[5]</a>『三国志』巻14劉放伝「黄初初、改秘書為中書、以放為監、資為令」とあり、曹丕は曹操時代の秘書を中書に改称したらしい。要するに本書で中書の本来の職務とされている「尚書奏事」をふたたび職掌とするようになったということ。『通典』中書令「文帝黄初初、・・・以秘書左丞劉放為中書監、右丞孫資為中書令、並掌機密。<b>中書監、令、始於此也。</b>及明帝時、中書監、令、号為専任、其権重矣」。<br/>
これ以降、中書令、中書監の記述がないので、『通典』より補足しておく。西晋でも曹魏同様、中書監と令は一人ずつ置かれていた。東晋では散騎省に併合されたこともあったらしいが、すぐに復置されたらしい。彼らの職務は詔などの文書の作成であった。尊崇される地位にあったので、「鳳凰池」と呼ばれることもあったらしい(荀勖がそういうふうに呼んだらしい)。『通典』中書令「晋因之、置監、令一人、始皆同車、後乃異焉」、「東晋嘗併其職入散騎省、尋復置之」、「<b>魏晋以来、中書監、令掌賛詔命、記会時事、典作文書。</b>以其地在枢近、多承寵任、是以人固其位、謂之鳳凰池焉」。また『太平御覧』巻220・職官18・中書令引『晋令』「<b>中書為詔令、記会時事、典作文書也</b>」。<br/>
なお、中書監と令ではどっちがえらいのかというと、中書監のがえらいように見えそうですが、ちょっとよくわからんですね。前引の『通典』にあるように、西晋では当初、車に差別がなかったらしいから、それまでは礼的待遇に差異はなかったのかもしれない。それ以降はよくわからないが、本書では中書令→中書監の順番で記述されているものの、他書では「中書監令」といった書き方もよく散見するし、梁の天監改革では中書監=15班、中書令=13班とされているので、中書監のがえらかったのかもしれない。<SPAN class="sm"><a href="#5b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="6150823">[6]</a>『通典』巻21・職官典3・中書侍郎の原注に通事郎の職務について、「『魏志』によると、<b>詔の起草を職務とし、漢の尚書郎に相当する</b><span class="sm">(魏志曰、<b>掌詔草、即漢尚書郎之位</b>)</span>」とあるが、かかる一文を『三国志』から発見できていない。見つけた人は教えて欲しい。<SPAN class="sm"><a href="#6b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="7150823">[7]</a>原文「黄門郎已署事過通事乃奉以入為帝省読書可」。中華書局校点本の整理者は「黄門郎已署事過、通事乃奉以入、為帝省読書可」と読んでいるが、非常に読みにくい。一方、『晋書』の校点者は「黄門郎已署、事過通事乃署名。已署、奏以入、為帝省読、書可」(巻24職官志)と読んでおり、文章としてはこちらの校点のほうが読みやすいので、本書原文も「黄門郎已署、事過通事、乃奉以入、為帝省読、書可」と読むことにする。『晋書』の記述はとても丁寧で、黄門郎のチェック・署名→通事郎へ、通事が確認したら署名→皇帝のところへ行って読み上げ、裁可をもらう、と過程を説明してくれている。<br/>
なお原文の「奉」は『晋書』『通典』では「奏」につくっている。言わんとするところはどちらでも変わらんとは思うが。<SPAN class="sm"><a href="#7b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="8150823">[8]</a>『晋書』職官志はこの中書侍郎改称に触れて、「中書侍郎蓋此始也」と記述している。<SPAN class="sm"><a href="#8b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="9150823">[9]</a>東晋の中書侍郎については、『通典』中書侍郎に「<b>其職副掌王言</b>、更入直省五日、従駕則正直従、次直守」とあり、文書の作成が職掌であること、交代で五日間西省に当直勤務すること、皇帝外出時には正直が車に同乗し(?)次直が護衛することが記述されている。「正直」「次直」については<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2015/03/10.html">訳注(10)</a>の注[1][29]を参照。<SPAN class="sm"><a href="#9b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="10150823">[10]</a>『通典』巻21・職官典3・中書舎人には「魏置中書通事舎人、或曰舎人通事、各為一職」とあり、曹魏のときにすでに通事舎人が置かれたことがあったらしい。<SPAN class="sm"><a href="#10b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="11150823">[11]</a>『通典』中書舎人「晋江左、・・・<b>掌呈奏案章</b>。後省之<span class="sm">〔通事舎人〕</span>。而以中書侍郎一人直西省、即侍郎兼其職、而<b>掌其詔命</b>。宋初、又置中書通事舎人四員、入直閣内、出宣詔命。<b>凡有陳奏、皆舎人持入、参決於中</b>、自是則中書侍郎之任軽矣」。また『通典』中書侍郎によれば、劉宋の中書侍郎は散騎常侍より登用していたらしい。「宋中書侍郎、・・・用散騎常侍為之」。<br/>
東晋で通事舎人が廃されていた時期は中書侍郎が「西省」に出向して舎人の仕事を兼務していたという点について、『宋書』巻60王韶之伝に関連する記述が見える。「晋の皇帝は孝武帝以降、いつも宮殿にこもっていた。<b>武官<span class="sm">(禁軍?)</span>の主書<span class="sm">(本文後文の中書主事のことなのかもしれない)</span>が宮中で文書の取次をおこない、中書省の官一人に下達文書の作成をおこなわせた。後者は西省で仕事をしていたので、西省郎と呼ばれた</b><span class="sm">(晋帝自孝武以来、常居内殿、<b>武官主書於中通呈、以省官一人管司詔誥、任在西省、因之西省郎</b>)</span>」。ここで言及されている西省郎こそ中書侍郎のことを指すのであろう。<SPAN class="sm"><a href="#11b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="12150823">[12]</a>中書は当初より「尚書事」のために設置され、その機能が結局魏晋以降も継承された官であったらしい。前漢では少人員、後漢では置かれず、曹魏文帝から常設されるようになる、と。しかし、この「尚書事」がいつか<a href="http://sinyousyuden.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html">ブログ</a>で書いたように、<b>「尚書から送られてくる文書を決裁する業務」を指すと考えてよいのかは自信がない。</b>通事郎の仕事が本文中に出てくるが、文書を皇帝のところに持っていく取次業務などのことを指して「尚書事」と言っているんじゃないかという気がしてならない。散騎のところでも「尚書事をつかさどる」って記述があって、そのときはなんも思わずスルーしていたのだが、そもそもこの「尚書事」の代表的な役職は言うまでもなく録尚書なわけで、そんでその録尚書は後漢からほぼ常設に近い扱いなわけでしょ。そのうえに常設の中書を創設しちゃいますかね。皇帝へ文書を持っていくのは元来は尚書の仕事なのだが、それを中書にやらせることにした、ってことなのかな。実際、本文にはあまり記述されていないが、『晋書』職官志や『通典』では中書の職務を文書の作成としている。これはまさに漢代の尚書の仕事だったわけで。そういう意味では、たしかに中書は「尚書の事」を仕事にしているんですよね。かりにその解釈が通るのであれば、後漢時代に中書が置かれなかったのは、尚書がその仕事をちゃんとやっていたということだろうし、曹操が置いた秘書令もやっぱりそういう意味での「尚書事」をおこなっていたということでしょうね。<SPAN class="sm"><a href="#12b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="13150823">[13]</a>『太平御覧』巻233・職官部31・秘書郎に引く『沈約宋書』に「秘書郎は四人、後漢の校書郎に相当する<span class="sm">(秘書郎四人、後漢校書郎也)</span>」とある。<font color="red">百官志の佚文</font>か。<br/>
校書郎および秘書郎については本文に詳しい記述がないので、『通典』から補足しておく。<br/>
後述するように、後漢末に王朝の蔵書を管理する秘書監が置かれたものの、それ以前の後漢初期から管理業務を担当する者は存在した。それが校書郎と呼ばれる者たちである。<br/>
後漢の蔵書庫としては東観<DEL>、蘭台</DEL>が知られているが、これらは書庫であると同時に国史を執筆する場所でもあった。漢朝は郎や郎中のなかからメンバーを選抜して、蔵書<del>(主に経書であろうと考えられる)</del>の文字校正を研究する仕事や、国史編纂業務をおこなわせた。書物の校正がメインのお仕事、ということで、彼らは校書郎、校書郎中と呼ばれた。<br/>
注意すべきなのが、校書郎は定員化されて官として設けられていたわけではないということだ。とくにやることがなくてヒマな郎のうち、ついでにそういうことをやっておけと命じられた郎がいたってことで、そんであだ名みたいに校書郎って呼ばれるようになったのだと。<br/>
『通典』によると、魏では秘書校書郎が置かれたらしいが、晋、宋では設置の形跡がないという。晋の武帝は少なくとも秘書郎を四人置いたことがわかっているので、晋になって秘書郎に改名されたのではないだろうか。つまり晋以降の秘書郎は、系譜的には漢代の校書郎を継承するものであると考えられる。<br/>
晋代の秘書郎は「中外三閣」に所蔵されてい書籍の校訂作業に従事していたという。また一方では、武帝期に蔵書が甲乙丙丁の四つに分類されたが、秘書郎中(秘書郎のボス)四人で一つずつ責任を負わせたとか。<br/>
余談だが、井上進氏の推測によると、この武帝の四部分類で分類方針を定めたのは荀勖(『晋中経簿』)であったらしい。『隋書』巻32経籍志一によれば、甲部は「紀六芸及小学等書」、乙部「古諸子家、近世子家、兵書、兵家、術数」、丙部「史記、旧事、皇覧簿、雑事」、丁部「詩賦、図讃、汲冢書」で、のちの四部分類法でいえば経・子・史・集に相当する。井上進「四部分類の成立」(『名古屋大学文学部研究論集』史学45、1999年)参照。<br/>
宋、斉の時期は、秘書郎の定員は四人になった。<b>秘書郎は「美職」であったとのことで、「甲族」の起家官であったのだという。</b>とはいって、それは仕事に人気があったわけではなく、キャリアから見たときに起家官だとおいしかったにすぎないようだ。たんに次の異動を待つだけの官で、就任10日くらいで次の官に移ったのだという。宮崎市定氏は「西晋時代には別にこれが起家の官だとは定まって居らず、単に貴族が就職を望む官であったらしい。・・・東晋以後の例で見ると、何か特別な理由がないと、容易には秘書郎では起家できなかったらしい。その稀少価値がいよいよ秘書郎の声価を高めたであろう。・・・郷品二品、起家六品ということが別に珍しくなくなると、いかなる六品官で起家するかということに競争の中心が移り、争って秘書郎起家を希望する。そこで秘書郎で起家する者が出るようになれば、その家が一流貴族であることの証明になる」と述べておられるが<span class="sm">(『九品官人法の研究』中公文庫、1997年、pp. 250-251)</span>、的を得ていると思う。<br/>
なお、秘書郎のような官を、とくに実務に煩わされず、基本的にはヒマで責任が軽い文化的な官と人文学者が言ってしまうとわりかしひでー自虐というかなんというか。興味深いことに、<b>後漢時代、校書郎は「学者」から羨望された地位であったらしく、東観のことを「老氏蔵室」「道家蓬莱山」と呼んだという。</b>蔵書に優れた非常にレベルの高い環境で好きなだけ研究できるうえに、王朝から給料までもらえるという、そりゃあ天国だよね。ヒマなやつにはヒマなんだろうが、ヒマじゃない人にはぜんぜんヒマでなかろうて。まあ研究が進んじゃって、南朝では漢代ほどやることがなくなってしまった、というのはあるかもしれないけどね。学問的なものも金と地位だなあ。<br/>
というわけで、王朝の蔵書を管理、校訂する官として秘書郎がいました、と。<br/>
『通典』巻26・職官典8・秘書郎「後漢の馬融は秘書郎になると、東観に行って書物の校正をおこなった。魏武帝が魏王国を建てると秘書郎を設けた。・・・<b>晋の秘書郎は中、外、三閣の書籍を管理し、校正に従事していた。</b>・・・秘書郎中とも呼んだ。<b>武帝は秘書の蔵書を甲乙丙丁の四つに分類し、四人の秘書郎中に一つずつ担当させた。</b>宋、斉の秘書郎は定員四人で、<b>とりわけ名誉的な官とみなされており、(定員は?)すべて甲族の起家官であった。(秘書郎は)次の任命を待つだけのつなぎで、おおよそ就任して10日で次の官に移った</b><span class="sm">(後漢馬融、為秘書郎、詣東観典校書。及魏武建国、又置秘書郎。・・・<b>晋秘書郎掌中外三閣経書、校閲脱誤。</b>・・・亦謂之郎中。<b>武帝分秘書図籍為甲乙丙丁四部、使秘書郎中四人各掌其一。</b>宋、斉秘書郎皆四員、<b>尤為美職、皆為甲族起家之選、待次入補、其居職、例十日便遷</b>)</span>」。<br/>
『通典』巻26・職官典8・秘書校書郎「漢の蘭台と後漢の東観はどちらも蔵書庫であり、同時に(国史を)執筆する場所でもあった。多くの当時の文人たちに、それらの書庫で書物の校正をおこなわせていた。そのため、(漢代には)校正の仕事があったのである。のち、蘭台には令史が18人置かれた(が、これらがその校正職である)。<span class="sm">〔原注:蘭台令史は秩百石、御史中丞に所属した。〕</span>また、(後漢では)ほかの官に就いている者を東観に行かせ、秘書の蔵書を校正させたり、歴史的な文書を書かせていた。このように、<b>(漢代には)校正の仕事があったのではあるが、官として定まっていたわけではなく、郎にその仕事をさせていた。そのためそのような郎を校書郎と呼ぶようになった。</b>郎中である場合は校書郎中と呼んだ。<b>当時、校書郎は尊重されて、学者たちは東観を『老氏蔵室』『道家蓬莱山』と呼んだ。</b>魏になってはじめて(官化されて)秘書校書郎が置かれた。晋、宋以降は設置の形跡がない<span class="sm">(漢之蘭台及後漢東観、皆藏書之室、亦著述之所。多当時文学之士、使讐校於其中、故有校書之職。後於蘭台置令史十八人。〔秩百石、属御史中丞。〕又選他官入東観、皆令典校秘書、或撰述伝記。<b>蓋有校書之任、而未為官也、故以郎居其任、則謂之校書郎。以</b>郎中居其任、則謂之校書郎中。<b>当時重其職、故学者称東観為老氏蔵室、道家蓬莱山焉。</b>至魏、始置秘書校書郎。晋、宋以下無聞)</span>」。<br/>
『太平御覧』巻233・職官部31・秘書郎引『晋令』「<b>秘書郎掌外三閣経書、覆省校閲、正定脱誤</b>」、『太平御覧』巻224・職官部32・校書郎引『晋令』「<b>秘書郎掌中外三閣経書</b>、覆校闕遺、正定脱誤」。<SPAN class="sm"><a href="#13b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="14150823">[14]</a>桓帝時代の秘書監は秘書(後述の注を参照)に所蔵されている書籍の校正業務を管轄していた。太常に所属していたという。『太平御覧』巻233・職官部31・秘書監引『東観漢記』「桓帝延嘉<span class="sm">〔ママ〕</span>二年、初置秘書監。<b>掌典図書、古今文字、考合異同</b>」。『通典』巻26・職官典8・秘書監「桓帝延熹二年、始置秘書監一人、掌典図書古今文字、考合同異、属太常」。<SPAN class="sm"><a href="#14b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="15150823">[15]</a>『通典』秘書監に曹魏時代のこととして、「初属少府、後乃不属」とある。はじめから秘書が独立していたわけではなかったようだ。<SPAN class="sm"><a href="#15b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="16150823">[16]</a>『通典』巻26・職官典8・秘書丞「其後遂有左右二丞、劉放為左丞、孫資為右丞、後省」。<SPAN class="sm"><a href="#16b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="17150823">[17]</a>『通典』巻26・職官典8・秘書正字に、魏以後の秘書は「掌図籍之紀、監述作之事、不復専文字之任矣」とあり、図書管理、執筆業務もおこなうようになり、漢代の文字校正業務だけではなくなったという。が、漢代より秘書に関係する業務には国史の執筆などもあったので、一概にそうも言えないだろう。魏晋以降の秘書は、たしかに魏晋時代を通して法整備された部署だが、後述するように、そのベースは漢代の伝統を継承しているものなので、実態的には時代間の差異はない。<SPAN class="sm"><a href="#17b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="18150823">[18]</a>後引する『宋書』<font color="red">百官志の佚文</font>に「むかし、漢の武帝が蔵書のスペース(?)をつくり、筆写のための官を設けた。こうして天下の書物はすべて天録閣、石渠閣、延閣、広内閣、秘府に収録された。<b>これらに所蔵された書物のことを秘書と呼ぶ</b><span class="sm">(昔漢武帝建蔵書之冊、置写書之官、於是天下文籍、皆在天録、石渠、延閣、広内、秘府之室、<b>謂之秘書</b>)</span>」とある。<br/>
また『通典』秘書監には「漢で書物が保管されていた場所には、石渠閣、石室、延閣、広内閣があり、外府(宮城の外)に所蔵しているものである。また御史中丞は殿中に勤務していたので、蘭台の秘書を管理しており、さらに麒麟閣、天録閣も、内禁(宮城の内)の蔵書庫であった。・・・(魏の)蘭台も書籍を収録しており、やはり御史が管理していた<span class="sm">(漢氏図籍所在、有石渠、石室、延閣、広内、貯之於外府。又有御史中丞居殿中、掌蘭台秘書及麒麟、天録二閣、蔵之於内禁。・・・其蘭台亦蔵書籍、而御史掌之)</span>」とある。<br/>
注[13]で晋代の秘書郎は「中外三閣」の書籍を管理していたと言及し、あえて「中外三閣」を特定していなかった。井上進氏は『隋書』経籍志の「蔵在秘書中外三閣」を「蔵して秘書、中(中書)、外(蘭台)三閣に在り」と読んでいるが、この理解には疑問が残る。中書に行政文書は保管されていたと思うが、書物はどうであろうか。<DEL>また『隋書』のこの箇所は「蔵して秘書の在るところ、中外三閣なり」とも読めるのではないか。そしてその場合、「中、外、三閣」と読むのではないだろうか。蘭台は変わらず宮城中にあったでろうから「中」。「外」は秘書省、というのも『通典』秘書監に晋代のこととして「掌三閣図書、自是秘書之府、始居於外」とあり、秘書省は「外」にあったことがわかるからである。「三閣」はよく知らないが、漢代の石渠閣やらのように、秘書を所蔵している某閣ってのがあったんでないか。というわけで、私は晋代の秘書郎の「中外三閣」を「蘭台、秘書省、三つの閣」の意で解しておきたい。</DEL>再考中。秘書の府が外に出たのは恵帝のときで、武帝のときは秘書は中書に合わさっていたが、「中外三閣」を校正する秘書郎としての規定は武帝が定めている。「中外の三閣」と読むのが良いのだろうか。<SPAN class="sm"><a href="#18b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="19150823">[19]</a>『晋書』職官志に「秘書著作之局不廃」とあり、中書省に併合されたといっても、中書の所属下に置かれたと解しておくのがよいかもしれない。<br/>
本文はこれ以降の秘書監については記述していないが、晋の恵帝の永平元年に中書から独立して置かれるようになったらしい。秘書省が「外」に設けられたのもこの時期のことであるようだ。『太平御覧』巻233・職官部31・秘書監『王隠晋書』「<b>恵帝永平元年詔云、秘書監綜理経籍、考校古今、課試署吏、領有四百人、宜専其事</b>」、『晋書』職官志「恵帝永平中、復置秘書監、其属官有丞、有郎、并統著作省」、『通典』秘書監「恵帝永平中、・・・掌三閣図書、自是秘書之府、始居於外」。<SPAN class="sm"><a href="#19b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="20150823">[20]</a>原文は「佐郎」。後文では「著作佐郎」と記されているが、『晋書』では「佐著作郎」と記述されている。『通典』巻26・職官典8・著作郎に「宋、斉以降、ついに『佐』の字を下に移し、著作佐郎と呼ぶようになった。国史の編纂、起居注の整理をおこなう<span class="sm">(宋斉以来、遂遷「佐」於下、謂之著作佐郎、亦掌国史、集注起居)</span>」とあるので、晋代では「佐著作郎」が正式な名称であったらしい。<SPAN class="sm"><a href="#20b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="21150823">[21]</a>『通典』著作郎に「名声のある儒者や研鑽を積んだ学者を東観に行かせ、国史を編纂させた。<b>彼らを『著作東観』と呼び、みな本官を有しながらこの業務をこなしていた。著作の仕事はあったが、専門の官はまだ置かれていなかった</b><span class="sm">(使名儒碩学入直東観、撰述国史、<b>謂之著作東観、皆以他官領焉、蓋有著作之任、而未為官員也</b>)</span>」とあるのに従い、本文を訳出した。<br/>
「曹操が秘書令を置いた」からここの部分まで、本文にはかなりの脱落があるらしく、『太平御覧』の引く『沈約宋書百官志』には<font color="red"_>佚文</font>が多く見られる。以下に引用する。<br/>
「魏武帝が魏王国を建てると秘書令と左右丞が置かれた。黄初年間、秘書を分割して中書を独立させたが、秘書の部署がなくなったわけではない。むかし、漢の武帝が蔵書のスペース(?)をつくり、筆写のための官を設けた。こうして天下の書物はすべて天録閣、石渠閣、延閣、広内閣、秘府に収録された。これらに所蔵された書物のことを秘書と呼ぶ。成帝、哀帝の時代、劉向、劉歆の父子に本官から出向させて蔵書管理、校正の仕事をおこなわせた。後漢になると書籍は東観に保管され、校書郎が置かれた。また著作郎もあった。<span class="sm">〔原注:傅毅、馬融のような人々は多く校書郎となった。また蔡邕は尚書から東観著作に選ばれている。蔡邕は尚書郎であったのに東観著作にゆき、また議郎にも任じられたから、これが著作郎を指していたことがわかる(?)〕</span>また碩学の学者や高官は劉向父子の故事に倣い、よく蔵書の校正などをおこなっていた。ある者は東観で書物の校正をおこなうだけで、ある者はついでに『(東観)漢記』を執筆した<span class="sm">(魏武建国有秘書令、左右丞。黄初中、分秘書立中書、而秘書之局不廃。昔漢武帝建蔵書之冊、置写書之官、於是天下文籍、皆在天録、石渠、延閣、広内、秘府之室、謂之秘書。至成哀世、使劉向父子以本官典其事、至于後則図籍在東観、有校書郎。又有著作郎。〔傅毅、馬融之徒、多為校書郎。又蔡邕従尚書選入東観著作。邕既已為尚書郎、而入東観著作、復拝議郎、知是著作郎也。〕又碩学達官、往往典校秘書、如向歆故事。或但校書東観、或有兼撰漢記也)</span>」。<SPAN class="sm"><a href="#21b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="22150823">[22]</a>曹魏時代の著作郎は明帝の太和年間に置かれ、中書省に所属していたらしい。上の百官志佚文だと、漢代から著作郎が置かれていたかのごとくだがもちろん実際はそうではない。この明帝のときにはじめて著作郎が置かれたようだ。注[20]の『通典』にあるように、国史の執筆、その資料となる起居注の執筆整理を専門とする。『晋書』職官志「魏明帝太和中、詔置著作郎、於此始有其官、隷中書省」。<SPAN class="sm"><a href="#22b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="23150823">[23]</a>『晋書』職官志が詳しい。「元康二年、詔曰、著作旧属中書、而秘書既典文籍、今改中書著作為秘書著作。於是改隷秘書省。後別自置省而猶隷秘書」。ややこしいので整理しておく。<b>【魏武帝】</b>秘書(中書の仕事をおこなう)→<b>【文帝】</b>中書省設置、秘書監設置→<b>【明帝】</b>著作郎設置(中書省所属)→<b>【晋武帝】</b>秘書監を廃止、秘書の業務は中書省に統合→<b>【恵帝、永平元年】</b>秘書監設置、秘書を中書省から独立させる→<b>【恵帝、元康2年】</b>著作郎の所属を中書から秘書に改める→<b>【時期不明】</b>著作省を設置、ただし秘書の所属は変わらず。<br/>
秘書が中書に統合されたり、著作が長いあいだ中書の所属下だったりしたのは、中書が文書作成業務を旨としていることと関係しているだろう。それに秘書もわざわざこれだけで独立させてもなあというような消極的要因も働いていたのかもしれない。<SPAN class="sm"><a href="#23b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="24150823">[24]</a>『史通』巻9・内篇・覈才の引く『晋令』「国史之任、委之著作、毎著作郎、初至、必撰名臣伝一人」。<br/>
『世説新語』賞誉篇にはこのことにまつわる話も収録されている。「<b>謝朗は著作郎になると、『王堪伝』をつくろうと思ったが</b>、王堪がどんな人物であったか覚えていないので、謝安に訊いたところ、『王堪もひとかどの人物とみなされていた。彼は王烈の子、阮瞻と姨兄弟<span class="sm">〔互いの妻が姉妹〕</span>、潘岳といとこ<span class="sm">〔王堪の父の姉妹が潘岳の母〕</span>にあたる。潘岳の詩に「きみの母親はわたしのおば/わたしの父はきみのおじ」とある。許允の婿である』と答えた<span class="sm">(<b>謝胡児作著作郎、嘗作王堪伝</b>、不諳堪是何似人、咨謝公。謝公答曰、世冑亦被遇。堪、烈之子。阮千里姨兄弟、潘安仁中外、安仁詩所謂、子親伊姑、我父唯舅。是許允婿)</span>」。<br/>
私的な経験で恐縮だが、以前に新聞社へインターンに行った先輩が、「新人は最初高校野球の記事を書かされるらしい、そこで記事の書き方を覚えるんだって」と話していたのを思い出してしまう。その話の真偽は不明だが、就任直後の著作郎に「別伝」を書かせるというのも、史書の文体を覚えてもらうこと、どういうふうに情報を集め整理するのか体験してもらうこと、等々のねらいがあったのだろう。もちろんこれに加えて、こうした「別伝」は国史の資料に転用可能なのだから情報が新鮮なうちにまとめておく効果もあっただろう。<br/>
【以下追記2017/10/25】『史通』外篇・史官建置「<b>旧事、佐郎職知博採、正郎資以草伝</b>、如正佐有失、則秘監職思其憂。其有才堪撰述、学綜文史、雖居他官、或兼領著作。亦有雖為秘書監、而仍領著作郎者」、同「案晋令、著作郎掌起居集注、撰録諸言行勲伐旧載史籍者」。<SPAN class="sm"><a href="#24b150823">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="25150823">[25]</a>ここで言及されている「別伝」が『世説』注なんかでよく引用されている「別伝」と同一であったかはわからないが、著作郎の作成した「別伝」が含まれている可能性は高いだろう。実際、劉宋期の人物の別伝はあまり見た覚えがない。矢野主税氏は、「魏から晋にかけての頃に、自分の一門或は親しき人々の為に、その人の伝を作る風習が広く行われていた」と指摘し、「個人の伝記が作られた場合、それらの中に別伝と呼ばれたものと、そうでない場合とがあったこと明かである。・・・兄弟、或は母子の如き一家或は一門の如き関係の人々による伝記作製では、別伝と呼ばれることはあまりなかったのではないか、・・・別伝は、むしろ伝をつくられる人物とは直接的関係の少ない人々によって作られることが多かったのではあるまいか」と推測している。もっとも、著作郎による著述の可能性にまでは及んでいないが。矢野「別伝の研究」(『社会科学論叢』16、1967年)pp. 21、27。<br/>
「別伝」がどれだけの情報価値を有するのかわからないが、記録はあればあるほど後世の整理者に役立つわけで。その意味で、その後の王朝に継承されなかったのは残念だなあ。宋、斉、梁、陳にも、もちろん正史以外の史書が存在していたわけで、決して正史のみというわけではなかったのだけど、別伝の制度が活きていれば、もう少し状況は変わっていたかもね。<SPAN class="sm"><a href="#25b150823">[上に戻る]</span></a></p>
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<br/>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-54756803019596491382015-07-05T14:14:00.002+09:002015-07-05T14:20:56.011+09:00『芸文類聚』に見える人物優劣論――曹丕の「周成漢昭論」と張輔の「曹操劉備論」<STYLE type="text/css">
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『芸文類聚』って、正史などの文献史料では見ることができないマニアックでおもしろい文章がたくさん収められているんですよ。<br/>
今回はそのなかでも三国志関係のものを二つ紹介してみようかなって。『芸文類聚』は詳しく調べてみるとおもしろいよ!っていう布教的なのをしたくて。<br/>
本記事においては(というか私は基本的に)『芸文類聚』は1980年に中文出版社から出版された活字本を使用する。この活字本は南宋の紹興年間に刊行されていた刻本を底本に、明代の数種類の刻本を利用して校訂したものである。<br/>
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さて、最初に取り上げたいのは『芸文類聚』巻12・帝王部2・漢昭帝に引用されている曹魏・文帝の「周成漢昭論」。周の成王と漢の昭帝はどっちが優れているだろうっていう、そんなことを論じています。<br/>
とても気になりませんか? 私はとても気になってしまって、とても興奮してしまいました。どうして彼はこんなしょーもなくてどーでもいいことを論じているんでしょう? どうして彼はこんなことに頭を使ってしまったのだろう? いったい何が彼をここまで衝き動かしてしまったのか・・・いや馬鹿にしているわけではないんですが(失礼)、多少知的に飾り立てて言ってみれば、彼がこのような言論を発した当時の言論状況・文脈みたいなものは何であったのでしょう。この二人を比較するということは、当時においてはそれほど重い意味を有していたことなのでしょうか。<br/>
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そうしたことを念頭に置きつつ、見てみましょう(「周成漢昭論」は『太平御覧』巻89・皇王部14・孝昭皇帝にも引用されているが、引用文にさしたる違いはないので、『芸文類聚』をもとに訳文を作成する)。<br/>
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<blockquote>ある者たちは周の成王を漢の昭帝と比較しているが、みな成王が優れ、昭帝が劣っていると論じている。(しかし)私は以下のように考える。周の成王は前代の聖王<span class="sm">〔原文「上聖」、後文とのつながりから勘案して、成王の父・武王を指していると考えられる〕</span>のうるわしい気を(受け継いで)身に備え、賢母<span class="sm">〔一説に成王の母は邑姜という、『史記集解』に引用された服虔の左伝注によると太公望の娘〕</span>から妊娠中の教育をほどこされ<a name="1b"><a href="#1">[1]</a></a>、周公が太傅、召公が太保、呂尚が太師となっ(て幼少で即位した成王を助け)た<a name="2b"><a href="#2">[2]</a></a>。すでにしゃべれるようになったのに行人<span class="sm">〔使者を職務とする官〕</span>が代弁して話し、もう自分で靴がはけ(自分の意志で歩け)るのに相者<span class="sm">〔帝王のお付役みたいな〕</span>が付き添って歩くちやほやぶりで<a name="3b"><a href="#3">[3]</a></a>、目は立派なものに慣れ、耳は美しい音を満足に聴くほど。奥深い流れに身をひたし、清らかな風で沐浴するとはこのことである。それでも(成王には)問題があった。管叔と蔡叔の讒言を聴きいれて周公を東に左遷したため、天は怒って(大風を起こして秋の稲をすべてなぎ倒し、王の過ちに対する)咎を示した。(周公が武王の病の快癒を祈って身代わりになろうとした儀式のさいの告文を入れた)金縢<span class="sm">〔金属製の封緘〕</span>の箱を開いて(告文を知り)、(はじめた知ったものなのでその詳細について)史官(?)に聴き、そうしてようやく(周公の真実の忠誠を)悟ったのである<a name="4b"><a href="#4">[4]</a></a>。周公の聖徳を解さず、金縢の箱に入っていた告文を信頼する、なんと道理に暗いことか。一方、昭帝はというと、そもそも父は武王(のような人)でないし、母は邑姜(のような人)でもない。保育したのは蓋長公主<span class="sm">〔武帝の娘で蓋侯の妻、のちに燕王や上官桀らと謀叛を企図した〕</span>で、補佐役だったのは上官桀と霍光である。聖人の気を受け継いではいないし、胎児のときに教育を受けていないし、保育した者に仁や孝の性質が備わっていないし、補佐した者に国家を栄えさせる政治的手腕もない。つまり、宮中で生まれ、婦人の手で育てられたのだが、徳と性は完成され、振る舞いと身体はともに成熟したわけで、年齢27の若年にして聡明であり、霍光を批判する燕王の上書が嘘だと見ぬき、霍光の忠誠を解していた。金縢の箱を開き、史官を信じてからようやく理解したなどというようなことが昭帝にあっただろうか。昭帝も成帝も同じ年齢で即位し<span class="sm">〔『漢書』によると昭帝は8歳で即位〕</span>、代が改まっても教化が維持され、臣が一新しても政治はよくおさまり、音楽を改定しても唱和の調和が取れていたが、漢ばかりが劣っていたわけではなく、周ばかりが優れていたわけではない。<span class="sm">(或方周成王於漢昭帝、僉高成而下昭、余以為周成王体上聖之休気、稟賢妣之貽誨、周召為保傅、呂尚為太師、口能言則行人称辞、足能履則相者導儀、目厭威容之美、耳飽仁義之声、所謂沈漬玄流、而沐浴清風者矣。猶有咎悔、聆二叔之謗、使周公東遷、皇天赫怒、顕明厥咎、猶啓諸金縢、稽諸国史、然後乃悟、不亮周公之聖徳、而信金縢之教言、豈不暗哉。夫孝昭父非武王、母非邑姜、養惟蓋主、相則桀光、体不承聖、化不胎育、保無仁孝之質、佐無隆平之治、所謂生於深宮之中、長於婦人之手、然而徳与性成、行与体并、年在二七、早智夙達、発燕書之詐、亮霍光之誠、豈将有啓金縢、信国史、而後乃寤哉。使夫昭成均年而立、易世而化、貿臣而治、換楽而歌、則漢不独少、周不独多也。)</span></blockquote>
<br/>
間接的に霍光と上官桀をディスるのやめろ! と思ったのは私だけではないはずだ。<br/>
さて、曹丕はどうしてこの二人を比較したのだろう。彼の論述によると、彼以外にも二人を比較する風潮があったみたいだが。<br/>
ということで探してみると、なんと早いことにすでに後漢初期の班固によって比較がなされているんですね。『漢書』巻7昭帝紀・賛曰、<br/>
<br/>
<blockquote>むかし、周の成王は幼児にして王位を継いだが、(在位中に)管叔と蔡叔など四国による流言の事件があった。昭帝も幼年で帝位につき、やはり(在位中に)燕王、蓋長公主、上官桀の謀叛があった。(それでも)成王は周公を疑わず、昭帝は霍光に政治を任せた。成王も昭帝も時期に適した判断をしたので名声を立てたのである。なんと立派なことか。<span class="sm">(昔周成以孺子継統、而有管、蔡四国流言之変。孝昭幼年即位、亦有燕、蓋、上官逆乱之謀。成王不疑周公、孝昭委任霍光、各因其時以成名、大矣哉。)</span></blockquote>
<br/>
もしかするとこれより早い漢代の記述もあるかもしれないが、まあ班固の時点ですでに見えているってことが確認できればいいでしょう。まして『漢書』なんだから、後漢・魏・晋の知識人ならみんな読んでいるだろう。<br/>
で、注意してほしいのだが、班固においては確かに二人は比較されている。だが優劣を定めるための比較ではない。昭帝は成王に似ていると論じるために比較しているのだ。<br/>
曹丕の論を読んだあとでは実感が湧かないだろうが、実際、周の成王は評判の高い君主である。周朝安定の基礎は彼が築いたんだみたいな、そんな感じの言説もどっかにあったような気もするくらいわりかし褒められている。昭帝を成王になぞらえるのは、昭帝に高い評価を与えているということなんですよ。漢の臣下だし漢の国史を書いているわけだから当然のことですが。<br/>
<br/>
ところで、『芸文類聚』(および『太平御覧』)には丁儀の「周成漢昭論」も引用されている。内容は大したことはなくて、曹丕と同じく昭帝の方がスゲェと言っている感じ。問題としている論点も曹丕と同じなんで、媚びているとまでは言えないかもしれんが、意識はしているでしょう、ともかく両者の「周成漢昭論」は時期を同じくして出されたものだろう。丁儀は文帝即位まもなく誅殺されているので、曹丕の論も即位前のものと見て良いのではないでしょうか。<br/>
<br/>
これらの点を確認したうえで曹丕の論をちょい掘り下げてみよう。曹丕の論は二つの点で「開かれている」ように思われる。<br/>
まず漢の皇帝を遠慮なく論評している点。班固の場合、彼は昭帝を褒めたい前提で比較をしているに過ぎない、なので比較といってもあっさいよね。もちろん、漢の臣だからといって漢の皇帝を批判してはならん道理はなく、武帝なんか前漢のころからえらい評価の分かれる皇帝でよく知られている。しかし、わざわざ成王と第三者的観点から比較をおこない、「うん、昭帝陛下は大したことはありませんね!」なんて言い出す漢臣がいるとも思えない。<br/>
それに比べ曹丕の場合、結論的には昭帝を高く買っているが、彼なりの基準を持ち出して比較的公平に評価を下そうとしている。というか、班固と比較する目的が明らかに異なっている。彼の場合は政治的目的があるように見えないのである。<br/>
班固の時代においてはおそらく許されなかったであろう、こうした比較の議論も、後漢末の時代においてはそうした方向へと開かれていた。魏晋時代といえば、儒教から解放され比較的自由な学問的精神が芽生えていたと主張されることがある。この曹丕の論もそうした傾向の一端なのだ! ・・・なんてもちろん、無条件でそうは思いません。曹丕に政治的な意図がなかったとしても、それでもこの論が後漢末に語られたということは高度に政治的意味を有すると思う。いまだ漢の時代であるはずなのに、その漢の皇帝を政治的に扱うつもりがなく、自らの知的関心に基づいて議論の素材にしてしまう――私はとても政治的な意義を認めてしまうのですがどうでしょうか。<br/>
<br/>
もうひとつ興味深い点が、周を無条件に良いとしないところ。前述したが、成王は決して評判の低い王ではない。まして周ときたら理想視される王朝。そういう政治的に慎重に扱われるところを彼は平気で自分の議論の材料に使ってしまうんですね。<br/>
こういったあたりに彼のしたたかさがあるような気がしてならんですが、ちょっと深読みしすぎだろうか。あまり深刻に考えんほうがいいかもしれん。<br/>
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さて、もうひとつ論を取りあげて終わりです。西晋の張輔という人の「名士優劣論」というやつで、曹操と劉備を比較したものです。『芸文類聚』巻22・人部6・品藻に引用されている。『太平御覧』巻447・人事部88・品藻下にも引用されており、双方での字句の異同が激しいが、『芸文類聚』のほうが情報量が多いので、『類聚』をベースにして部分的に『太平御覧』で補っておきたい。『御覧』から補った箇所は[ ]で示す。<br/>
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<blockquote>世の人々はみな、魏武帝は中原を支配していたから劉備より優れていると言い合っている。(しかし)私は劉備のほうが優れていると思う。(なぜかを以下に述べよう。)そもそも戦乱を収める君主というのは、将を確保することに第一義を認めるものである。自分ひとりだけで奮戦してもどうにもならないからだ。世の人々は、劉備は呂布に奇襲されて武帝のもとへ逃亡し、また大軍を起こして長江を下ったのに陸孫にボロ負けしたと(強調)している。しかし、呂布に奇襲され(敗走し)たといっても、武帝が徐栄に大敗して、馬を失い身体に傷を負ったときの危機的状況と比べたらマシである。劉備は徐州に戻っても勢力を安定させることができないままで、荊州にいたときは、劉表親子が彼の作戦を採用せず、曹操に降ってしまった。彼の手勢の歩兵と騎兵は数千にも満たず、武帝の大軍によって敗走させられた。しかしこれも、武帝が呂布の騎兵に捕まり、(そこからなんとか逃れると)火を突っ切っ(て門から逃げ)た急場と比べてればマシである<a name="5b"><a href="#5">[5]</a></a>。陸孫にボロカスにされたのだって、武帝が張繍に苦しめられ、単独で逃亡し、二人の子<span class="sm">〔曹昂と曹安民?〕</span>を失ったのと比べればマシである。[もし漢の高祖が彭城で(項羽に急襲されたときに)戦死していたら、世の人々は彼を項羽に遠く及ばないと評しただろう。(それと同様に)武帝が宛で戦死していたら、張繍に及ばない人物だと評されていたであろう。]しかも(武帝は)他人の才能を嫌い、残忍な振る舞いを平気でおこない、他人を親任することがない。董昭や賈詡はいつも愚かなフリを装うことで禍から逃れることができ、荀彧や楊脩のような者たちは多く殺されてしま[い、孔融や桓瞱らは恨みを買ってしまったので殺されてしま]った<a name="6b"><a href="#6">[6]</a></a>。[有能な将軍に戦争を任せることができず、]30余年の軍事活動のあいだ、必ず自ら軍を統率し、功臣や参謀は諸侯に封じられることもなかった。仁愛は親族に加えられず、恩恵は人民に行き渡らなかった。劉備は威厳を備えながら配慮深さもあり、勇敢でありながら義を重んじ、度量は寛大で遠謀を抱いていたが、武帝がどうしてこれに匹敵しようか。諸葛亮は政治に精通し、機会に明るく、王佐の才と言える人材である。劉備は強大な勢力を張っていたわけではないが、この諸葛亮の忠誠を得ていたのである。張飛と関羽はどちらも傑物だが、服従させて自在に用いていた。いったい、その主君の明暗は人材を用いることができるかどうか、有能無能は部下を使うことができるかどうかにかかっている<span class="sm">〔原文「明闇不相為用、能否不相為使」、よく読めないのだが、訳文のようなニュアンスだろうと思うので意訳した。音韻かなんかで、文末にくるはずの「不」を真ん中に移したのかな?〕</span>。武帝は安定して強大な勢力を有していたにもかかわらず、人材を(十分に)用いることができなかった。まして、(劉備のような)不安定な情況で、弱小の勢力しか抱えていない土地であればなおさら(活用することができなかった)であろう。もし劉備が中原を支配していれば、周王朝の興隆にも匹敵する(繁栄を得た)であろうし、その場合、(彼のもとに参じた英傑は)諸葛亮、張飛、関羽の三傑にとどまらなかったであろう。<span class="sm">(世人見魏武皇帝処有中土、莫不謂勝劉玄徳也。余以玄徳為勝。夫撥乱之主、先以能收相獲将為本、一身善戦、不足恃也。世人以玄徳為呂布所襲、為武帝所走、挙軍東下、而為陸遜所覆。雖曰為呂布所襲、未若武帝為徐栄所敗、失馬被創之危也。玄徳還拠徐州、形勢未合、在荊州、景叔父子不能用其計、挙州降魏、手下歩騎、不満数千、為武帝大衆所走、未若武帝為呂布北騎所禽、突火之急也。為陸遜所覆、未若武帝為張繍所困、挺身逃遁、以喪二子也。[若令高祖死於彭城、世人方之不及項羽遠矣。武帝死于宛下、将復謂不及張繍矣。]然其忌克、安忍無親、董公仁賈文和、恒以佯愚自免、荀文若楊徳祖之徒、多見賊害、[孔文挙桓文林等以宿恨見殺。良将不能任、]行兵三十余年、無不親征、功臣謀士、曾無列土之封、仁愛不加親戚、恵沢不流百姓、豈若玄徳威而有思、勇而有義、寬弘而大略乎。諸葛孔明、達治知変、殆王佐之才、玄徳無強盛之勢而令委質、張飛関羽、皆人傑也、服而使之。夫明闇不相為用、能否不相為使。武帝雖処安強、不為之用也、況在危急之間、勢弱之地乎。若令玄徳拠有中州、将与周室比隆、豈徒三傑而已哉。)</span></blockquote>
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この張輔という人、『晋書』巻60にも立伝されていて、「管仲鮑叔論」など様々な比較論を著しているらしい。伝には「管仲鮑叔論」と「司馬遷班固論」の(おそらく)一部が引用されている。『太平御覧』の引用の仕方を見ると「名士優劣論」という題の文章のなかに「管仲鮑叔論」や「司馬遷班固論」が収録されている、すなわち「誰と誰との比較論」が集積されているのが「名士優劣論」で、『類聚』や『御覧』はそのうちの一部を引用しているようだ。『隋書』経籍志によると『張輔集』という書があったらしいので、そこに「名士優劣論」が収められていたのだろう。<br/>
『晋書』張輔伝にも「曹操劉備論」について言及があるのだが、<br/>
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<blockquote>魏の武帝は劉備に匹敵しないこと、楽毅は諸葛亮に劣ることを論じているが、文字が多いのでここに掲載しない。<span class="sm">(論魏武帝不及劉備、楽毅減於諸葛亮、詞多不載。)</span></blockquote>
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と、列伝では割愛されている。しかし上記のように、『芸文類聚』には全文ではないが長文で引用されているので、論の骨格も明瞭に見て取れるようになっている。ありがたいことです。ちなみに『芸文類聚』の同じ箇所には張輔の「司馬遷班固論」、「楽毅諸葛亮論」も引用されている。<br/>
さて、私が曹丕の論で展開した推測を適用すればこの張輔も「したたかだ!」ということになるわけですが、時代の雰囲気はちょい違うよね、たぶんそうだよね。後漢末は400年つづいた漢朝がとうとう終わってしまうんじゃないかという、なんというかいろいろな意味で新鮮な時期であったと思う、曹丕の論はそうした時期に漢の神聖性を剥落させてしまうような効能があった(かもしれない)。西晋時代も新しい時代の到来を予感させるものではあったが、漢魏革命、魏晋革命と二度の王朝革命を経験したあとの時代となると、まあそこまで深い意義を読み出そうとしなくてかまわないんじゃなかろうか。<br/>
しかし、論の当否はわりとどっちでもいいんですが、場合によってはこの論って危なくないか、政治的に。魏を貶めるのはかまわんのですよ、場合によっては「ダメな魏に代わって晋が天命を受けたのだ」って話にもつながるからね。そっちではなくて劉備側の評論。彼は、劉備はスゲェと言い、劉備のもとに集まった部下も有能なのがいたと言っているだけで、蜀漢の政治的正当性/正統性を認めているわけではない。でも、ifとはいえ、「劉備が中原を支配していたら周に匹敵したであろうに」なんてうっかり口に出していいもんでもないでしょう。<br/>
彼は西晋恵帝期を中心に官として活動しており、晩年は河間王顒に仕えている。王朝に比較的近いところにいた人物と見てよいのではないか。そんな彼の論にしてはあまり穏やかじゃない気がするんだよなあ・・・。<br/>
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以上二つの論を見てきました。わかったことは、私はこの時代を「政治に憚って自由にモノが言えなかった時代」とすぐ想定してしまうことですね。あまり過度にそういう見方をしてはいけないのかもしれない。自戒。<br/>
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――注――<br/>
<p><a name="1">[1]</a>原文は「稟賢妣之貽誨」。「貽誨(おしエヲのこス)」は子孫のために残した教訓のような意味であり、また『春秋左伝』昭公十年の疏に「生母を母と言い、死母を妣と言う」ともあり、そのためここの文章は「産後まもなく死去した母が遺した教育マニュアルをほどこされて」、のように読むこともできるだろう。ただし、成王の母に関する逸話として『大戴礼記』保傅篇に「周后妃任成王於身、立而不跂、坐而不差、独処而不倨、雖怒而不詈、胎教之謂也」とあり、要約すると妊婦が行動をつつしみ、品行を良くすることによって、胎児に良い影響を与えるという教育術があり、それを「胎教」と呼ぶのだそうだが、成王の母はこの「胎教」を実行した代表的な人であったようだ。管見の限り、成王の母の死没状況は具体的に記されておらず、不明。成王の母の教育となるとこの「胎教」が知られているくらいである。「誨」は「教」と意味が通じるので特に気にしなくて良いが、原文の「貽」は「胎」の誤字なのかもしれない(もっとも、誤字といっても底本では「胎」かもしれないが。つまり校訂者の釈字ミスかもね)。ともかく、訳文では文帝の意に背く可能性もあるが、「胎教」の意で訳出をしてみた。<SPAN class="sm"><a href="#1b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2">[2]</a>原文「周召為保傅、呂尚為太師」。「保傅」は具体的な官名ではなく、もりやく一般の意で取ることも可能だが、『漢書』巻48賈誼伝の賈誼の上疏に「昔者成王幼在繈抱之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師」とあるのを踏まえ、具体的官名として訳出した。<SPAN class="sm"><a href="#2b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="3">[3]</a>原文「口能言則行人称辞、足能履則相者導儀」。『淮南子』主術訓の「口能言而行人称辞、足能行而相者先導」が出典だろう。董仲舒の『春秋繁路』離合根篇にも「足不自動而相者導進、口不自言而擯者賛辞」と似たような表現があり、当該箇所の日本語訳を参照して訳出した。坂本具償・財木美樹「『春秋繁露』訳注稿正貫・愈序・離合根・立元神・保位権篇」(『高松工業高等専門学校研究紀要』38、2003年、CiNiiオープンアクセスPDF)pp. 85-88。<SPAN class="sm"><a href="#3b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="4">[4]</a>語られている周公の逸話に関しては、原話は『尚書』金縢篇に見える。「史官」のところで(?)をつけたのは、原文では「問諸国史」となっているが、『尚書』や『史記』魯周公世家では「諸史」すなわち史官に問うたと記されているからで、原文の「国史」は「諸史」と同一の意を有しているのか、それとも異なっているのか判別ができない。「国史」の文を尊重したとしても意味を取りにくいので、ここでは「史官」と訳出させてもらった。後文にもう一度出てくる「史官」も原文は「国史」。<br/>
周公のこのときの話は様々なバージョンがあったらしく、史料間で細部の情報が異なることがある。武王が死んだとき成王は何歳であったか、周公はいつ東にいったのか、天の災異と金縢開封は周公没後か否か、等々。特に最後の点は訳出にも多少影響がありそうな問題で、『史記』魯周公世家では周公没後として語られているが、司馬貞は「『尚書』では没後として書かれていない!」と反対をぶつけており、『漢書』の顔師古注を見る限り、顔師古も金縢開封を周公没以前のものとして認識しているようである。しかし、『洪範五行伝』<span class="sm">(『後漢書』伝51周挙伝・李賢注引)</span>も『史記』と同様の記述をしているようだし、さらに肝心の『尚書』は司馬貞が主張しているほど明確な記述ではなく、没後でも没前でも解釈できるし、『漢書』『後漢書』等の故事の引用例もこれまたどちらでも解釈できる。要するに没後か没前はこの説話においてはそれほど重要な要素ではなく、「金縢を開いてからようやく周公を信じるようになった、そんで天の怒りもおさまった」、このプロットだけが重要だったみたいだ。なので、曹丕もそれほどこの点は気にしていないのではないかと思っています。訳文も没後没前は明言しておかずにしておきます。<SPAN class="sm"><a href="#4b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="5">[5]</a>私は調べないとわからなかったので注をつけておきます。これは張邈と結託して兗州を強襲し、濮陽にこもった呂布を曹操が攻囲したときの話である。詳しい話は武帝紀の裴松之注に引く『献帝春秋』に見える。ちくま訳から引用(p. 30)、「太祖が濮陽を包囲すると、濮陽の豪族田氏が内通して来たので、太祖は城に入ることができた。その〔侵入した〕東門に火を放ち、引き返す意志のないことを示した。戦闘になり、軍は敗れた。呂布の騎兵は太祖を捕えたが彼だと知らずに訊ねた、「曹操はどこにいる。」太祖、「黄色の馬に乗って逃げて行くのがそうです。」呂布の騎兵はそこで太祖を放置して黄色の馬に乗った者を追いかけた。門の火はなお盛んであったが、太祖は火を突いて城を出た」。<SPAN class="sm"><a href="#5b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="6">[6]</a>桓瞱、字は文林。『後漢書』伝27桓栄伝に附伝されている。本伝中には曹操との関係が特に記されていないのだが、あるブログ記事<span class="sm">(<a href="http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-56.html">http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-56.html</a>)</span>によると、『三国志』武帝紀・建安25年の条の裴注に引く『曹瞞伝』に見える桓邵なる人物と同一人物でないかとの指摘が研究者によってなされているらしい。桓邵は若年時代の曹操を侮蔑していたために曹操の恨みを買ってしまい、後年謝罪したが許してもらえず、誅殺されたという。その研究者の本を所有していないので、どういう根拠でそのような主張をしているかは不明だが、そうだったらまさにぴったりという感じ。<SPAN class="sm"><a href="#6b">[上に戻る]</span></a></p>hienhttp://www.blogger.com/profile/16862096640930768908noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8437729557813727094.post-62579578546952882522015-03-15T12:55:00.000+09:002019-11-07T19:05:52.080+09:00『宋書』百官志訳注(10)――門下・散騎<p class="mb5"></p>
侍中は四人。奏上された事案(の検討)を職掌とし、(皇帝の)側近くに侍り、(皇帝から奏上された事案に関する質問があるとそれに)応答して進言する。皇帝が外出した際、正直侍中<span class="sm">〔その日の宿直当番の侍中の意か、註[1]を参照〕</span>一人が璽を持って車に同乗する<span class="sm"><a name="1b"><a href="#1">[1]</a></a></span>。宮殿内や門下に関するあらゆる仕事<span class="sm">〔原文「殿内門下衆事」〕</span>はすべて(侍中が)管轄した<span class="sm"><a name="2b"><a href="#2">[2]</a></a></span>。周公が成王を誡めた「立政」で言及されている「常伯」が侍中の職務に相当する。侍中は秦の丞相の史<span class="sm">〔書記官?かな?〕</span>を由来とする。(秦代は丞相の史のうち)五人を宮殿の東廂<span class="sm">〔直訳すると「東の方の部屋」、固有名詞ではないかも?〕</span>に行かせて奏上された事案の決済をさせた。そこで、東廂に派遣された史のことを侍中<span class="sm">〔禁中に侍る、の意だろう〕</span>と呼ぶようになった<span class="sm"><a name="3b"><a href="#3">[3]</a></a></span>。西漢では定員がなく、多いときは数十人いた<span class="sm"><a name="4b"><a href="#4">[4]</a></a></span>。宮中に入って侍り、天子の車や衣服、持ち物から、下は便器の類にいたるまで、担当を分けていた。武帝のとき、孔安国が侍中となると、彼が儒者であったことから、特別に天子の唾壺を担当させたので、朝廷はこれを光栄なことと見なした。(侍中を)長期のあいだ務めた者は侍中僕射になった<span class="sm"><a name="5b"><a href="#5">[5]</a></a></span>。東漢では少府に所属し、依然定員がなかった。(皇帝の)側に侍り、(皇帝の)もろもろの業務を補助し、天子から質問されたら応答することが職務であった。皇帝が外出した際、(侍中のうちでもとりわけ)博識の者一人が伝国璽を持ち、斬白蛇剣を手にして同乗した。ほかの侍中はみな馬に乗り、車の後ろについた<span class="sm"><a name="6b"><a href="#6">[6]</a></a></span>。光武帝のとき、侍中僕射を侍中祭酒に改称した。漢の時代は、宦官と同様、宮中に勤務していた。武帝のとき、侍中の莽何羅が刀をわきにはさみ持って暗殺を謀ったので、これをきっかけに侍中は宮中の外へ出され、仕事があれば宮中に入り、終われば出るようになった。王莽が漢の政権を掌握すると、侍中は再び宮中に入り、宦官とともに宮中で勤務した。章帝の元和年間、侍中の郭挙が後宮の側室と通じようとたくらみ、佩いていた刀を抜いて侍妃を驚かせたので、郭挙は誅に伏し、侍中はこうして宮殿の外に出ることとなった<span class="sm"><a name="7b"><a href="#7">[7]</a></a></span>。魏晋以降、侍中は四人置いた。この定員とは別に加官の侍中もあったが、その場合は定員がなかった<span class="sm"><a name="8b"><a href="#8">[8]</a></a></span>。秩は比二千石<span class="sm"><a name="9b"><a href="#9">[9]</a></a></span>。<br/>
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<span class="sm">〔以上、巻39百官上、了〕</span><br/>
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<span class="xr"><b>『宋書』巻四十志第三十百官下</b></span><br/>
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給事黄門侍郎は四人。侍中とともに門下の衆事を管轄する<span class="sm"><a name="10b"><a href="#10">[10]</a></a></span>。郊祀や宗廟(のときであれば、一人がかさを持ち)、臨軒(や朝会)のときであれば、一人が麾(はた)を持つ<span class="sm"><a name="11b"><a href="#11">[11]</a></a></span>。『漢百官表』によると、秦では給事黄門と言い、定員はなく、左右に侍従することを職務としており、漢はこれを継承したのだと述べている<span class="sm"><a name="12b"><a href="#12">[12]</a></a></span>。東漢では給事黄門侍郎と言い、やはり定員はなく、左右に侍ることを職務とし、宮殿と宮外を取り次いだ。諸王が朝見した際は王を引率して着席させた<span class="sm"><a name="13b"><a href="#13">[13]</a></a></span>。応劭が言うに、「毎日夕方に青瑣門に向かって拝礼するので、夕郎と呼ぶ」と<span class="sm"><a name="14b"><a href="#14">[14]</a></a></span>。史臣が按ずるに、劉向が子の歆に書簡を送って、「黄門郎は要職だ」と言っている<span class="sm"><a name="15b"><a href="#15">[15]</a></a></span>。したがって、前漢のときからすでに(給事黄門は)黄門侍郎になっていたのである<span class="sm"><a name="16b"><a href="#16">[16]</a></a></span>。董巴『漢書』<span class="sm">〔隋書・新唐書に董巴の名で記録されている著作は、魏の董巴の『大漢輿服志』のみ。これを指す可能性高〕</span>に「禁門を黄闥と言い、宦官がこの門を管理したので、(その官を)黄門令<span class="sm"><a name="17b"><a href="#17">[17]</a></a></span>と呼んだのである。とすれば、黄門郎も(黄門令と同様に)黄闥門の内側で仕事をした<span class="sm">〔原文「給事」〕</span>ので、黄門郎と呼んだのであろう」とある<span class="sm"><a name="18b"><a href="#18">[18]</a></a></span>。魏晋以降、定員は四人、秩は六百石<span class="sm"><a name="19b"><a href="#19">[19]</a></a></span>。<br/>
公車令は一人。章や奏などの文書を(官から)受け取る仕事を職務とする。秦には公車司馬令があり、衛尉に所属していた。漢はこれを継承した。(秦漢の公車司馬令は)宮殿の南の闕門を管轄していた。(漢代においては?)およそ、吏や民が文書を上奏した際や、地方が(中央に物資などを)貢献した際、(皇帝に)召されて公車令のところに(取り次ぎを願い出て)来た者は、すべて公車司馬令が取り次いでいた<span class="sm"><a name="20b"><a href="#20">[20]</a></a></span>。江左以来、たんに公車令と言った<span class="sm"><a name="21b"><a href="#21">[21]</a></a></span>。<br/>
太医令は一人。丞は一人。『周官』では医師と言い、秦では太医令であった。二漢のときは少府に所属していた<span class="sm"><a name="22b"><a href="#22">[22]</a></a></span>。<br/>
太官令は一人。丞は一人。『周官』では膳夫と言い、秦で太官令であった。漢のときは少府に所属していた<span class="sm"><a name="23b"><a href="#23">[23]</a></a></span>。<br/>
驊騮厩丞は一人。西漢では龍馬長、東漢では未央厩令、魏では驊騮令と言った<span class="sm"><a name="24b"><a href="#24">[24]</a></a></span>。<br/>
公車令から驊騮厩丞までは侍中の管轄下にある<span class="sm"><a name="25b"><a href="#25">[25]</a></a></span>。<br/>
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散騎常侍は四人。左右に侍するのが職掌である<span class="sm"><a name="26b"><a href="#26">[26]</a></a></span>。秦は散騎を置き、またこれとは別に中常侍を置いた。散騎は天子の車のうしろにつきしたがう<span class="sm"><a name="27b"><a href="#27">[27]</a></a></span>。中常侍は宮中に入ることができた。ともに定員はなく、(常設ではなく)加官であった。東漢のはじめ、散騎を廃し、中常侍には宦官を充てることにした。魏の文帝の黄初のはじめ、散騎を置き、中常侍と統合して散騎常侍とし、孟達を最初に任命した。長く就官した者は祭酒散騎常侍となった<span class="sm"><a name="28b"><a href="#28">[28]</a></a></span>。秩は比二千石。<br/>
通直散騎常侍は四人。魏末、散騎常侍にも員外<span class="sm">〔正規の定員メンバーではなく、非常勤メンバーみたいなやつ〕</span>の者がいた。晋の武帝は(員外の)二人を(正員の)散騎常侍と同じように宿直をおこなわせた<span class="sm">〔原文「通直」、注で指摘するが、本来の字句は「通員直」の可能性がある。どっちにしろわからんけど、「当直」を「正員」と「共通」させてやらせた、みたいに解した〕</span>。これを通直散騎常侍と言うようになった。江左では五人置かれた<span class="sm"><a name="29b"><a href="#29">[29]</a></a></span>。<br/>
員外散騎常侍は魏末に置かれた。定員はなし。<br/>
散騎侍郎は四人。魏の初めに散騎常侍と一緒に置かれた。魏晋の散騎常侍、散騎侍郎は侍中、黄門侍郎とともに尚書から送られてきた奏上文の決済に関わっていたが、江左になってこの仕事は職掌から外れた。<br/>
通直散騎侍郎は四人。初め、晋の武帝が員外散騎侍郎を四人置き、元帝は(その内の)二人を散騎侍郎とともに通直させたので、これを通直散騎侍郎と言うようになった。のちに増員して四人となった。<br/>
員外散騎侍郎は晋の武帝が置いた。定員はなし<span class="sm"><a name="30b"><a href="#30">[30]</a></a></span>。<br/>
給事中は定員なし。西漢が置いた。皇帝からの質問に応答する。官位は中常侍に<del>次いだ</del>に位置した。東漢に廃されたが、魏のときに復置された<span class="sm"><a name="31b"><a href="#31">[31]</a></a></span>。<br/>
奉朝請は定員がないが、しかし官ではなかった。東漢が三公、外戚、宗室、諸侯を罷免したり廃するとき、(彼らを)多く奉朝請に命じた。奉朝請とは、春と秋の謁見儀礼を奉ずる(参加する)という意味である<span class="sm">〔春の儀礼を「朝」、秋のものを「請」と呼ぶ〕</span><span class="sm"><a name="32b"><a href="#32">[32]</a></a></span>。晋の武帝は宗室・外戚を奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉とし、(これらを)奉朝請とした。元帝が晋王となると、参軍を奉車都尉、掾属を駙馬都尉、行参軍・舎人を騎都尉としたが、みな奉朝請である。のち、奉車都尉、騎都尉を廃し、駙馬都尉だけを奉朝請として残した。宋の高祖の永初以来、奉朝請の選任基準が混乱していたので、公主を娶った者だけを駙馬都尉に任ずることとした 。(もともとは)この三都尉はみな漢の武帝が置いた官である。宋の孝建の初め、奉朝請は廃された。駙馬都尉、また三都尉の秩は比二千石。<br/>
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――注――<br/>
<p><a name="1">[1]</a>原文は「正直一人負璽陪乗」。『晋書』巻24職官志によれば、この規定は魏晋以降のものである。本文後半に後漢時代の規定が記されているが、そこには「多識者一人」が同乗することになっており、そのためここの「正直」も人の性質を表した言葉だと解釈したくなるのだが、『晋書』職官志に「次直侍中」は車の護衛、「正直侍中」は同乗、その他は馬に乗る、と見え、『宋書』や『晋書』には「次直侍中」「正直侍中」が一種のタームとして使用されている用例がほかにも散見する。さらに『北史』巻49念賢伝に北魏が分裂しはじめたころのこととして、「(念賢は)広陵王欣、扶風王孚らと同時に正直侍中になった<span class="sm">(与広陵王欣、扶風王孚等同為正直侍中)</span>」とあり、北朝の用例であるとはいえ、「正直侍中」は何らかの官の正式な名称であると解釈した方が良さそうである。<br/>
とはいえ、「次直」も「正直」も意味を示唆してくれるような用例が見つからず、はっきりしたことはわからない。「次直」は文字通りに読むと「宿直すること」で、「宮城宿直」が当番制で割り当てられていたかもしれず、だとすれば「次直」をこの意で押し通すことはできるかもしれない。<br/>
しかしながら、だとすると「正直」はなんであるのかがいっそうわからなくなってしまう。「正直」と「次直」はまったく違う意味なのではなく、むしろかなり似た意味で捉える必要があるように思われるからだ。<br/>
一方で、本文後半の通直散騎常侍のところの注[29]で言及するが、「直」という字は「宮殿に入って宿直すること」であるのはたしかなようである。<br/>
要するに、「直」はどちらも「当直する」の意ととって良いが、「正」と「次」を対照の関係に解するべきではないだろうか。「正」であるか「次」であるかによって「直」の性質が変わるのだ、といった具合に。上のように「次」を「やどる」の意で読むのは避けるべきである。<br/>
で、ここからは推測の域に入るが、まずシンプルに解せば、「正直」というのは「その日がちょうど宿直当番」のことで、「次直」はそのまま、「次の宿直当番」のことだと考えられるだろう。正直言うと、私はこの方向で解釈をしたいのだが、前引の『北史』の用例があるので、この解釈はむずかしいみたいである。<br/>
次に考えられるのは、「正直」=定員枠の専任侍中、「次直」=加官の非常勤侍中、という解釈だ。しかし、この解釈もきびしい。加官扱いの侍中が宿直当番をしていたとは思えないこと、散騎常侍は定員内か定員外かの区別を「員外」であらわしており、「直」で区別はしていないこと、これらのことから、解釈としては魅力的なのだけど採用するのはむずかしいように思える。<br/>
これ以上はうまい理解が考えつかないので、今回は『北史』の用例に目をつぶって、シンプルなほうの解釈で訳文を作成した。<br/>
『晋書』職官志「皇帝が外出された際は、次直侍中(の一人)が車(の側で)護衛をし、正直侍中(の一人)が璽をもって同乗して剣を佩かない。他の侍中はみな馬に乗って(車のうしろから)つきしたがう。(皇帝が外出から戻って)宮殿にあがる際は、散騎常侍と一緒に皇帝がのぼるのをたすけ、侍中は左を、散騎常侍は右をはさみかかえる<span class="sm">(大駕出則次直侍中護駕、正直侍中負璽陪乗、不帯剣、余皆騎従。御登殿、与散騎常侍対扶、侍中居左、常侍居右。)</span>」。『太平御覧』巻219および『初学記』巻12侍中に引く『斉職儀』はこれとほぼ同じ。<SPAN class="sm"><a href="#1b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="2">[2]</a>注[10]に引く『通典』によれば、侍中を頂点とする官のグループが「門下省」と呼ばれたのは、侍中や黄門侍郎が「門下衆事」を職掌としていたからだという。って言ってみると、とってもトートロジーな感じなんだけど、そう書いてあるんだからしょうがない。『初学記』巻12侍中には「門下省、自晋以来名之」とあり、晋代からかたちを取りはじめたところであるらしい。実際、用例を見てみると、西晋時期から用例が多く見えている。<br/>
じゃあ「門下衆事」ってのは何なのだねという問題が出てくるわけなんですが・・・ちょい考えてみましょう。<br/>
まず魏晋宋の侍中や黄門侍郎は具体的にどのような職務をおこなうと規定されていたのか。『斉職儀』の佚文には、「(侍中)備切問近対、拾遺補闕也」<span class="sm">(『御覧』巻219)</span>、「(黄門侍郎)与侍中掌奏文案、賛相威儀、典署其事」<span class="sm">(『御覧』巻221)</span>、「(晋宋斉)侍中並与三公参国政、直侍左右、応対献替」<span class="sm">(『初学記』巻12)</span>とある。まとめてみると・・・<br/></p>
<BLOCKQUOTE>
①(尚書事などの)政務の相談役<br/>
②尚書から送られてきた文書の取次<br/>
③儀礼での整列や行幸のときの行列などの補助役、あるいはそれらの事案の責任管理
</BLOCKQUOTE>
<p> というわけでこれらが「門下衆事」に相当するようなんだが、どうして「門下」なのかはさっぱりわからんね。<br/>
ここで参考になりそうなのが、州や郡の官組織。門下掾、門下督、門下書佐・・・「門下云々」って名称の役職がたくさんいるじゃない。<br/>
この手の研究で古典的な厳耕望氏によれば、郡守の秘書、文書業務補佐、護衛、顧問役等々の役職が「門下」に分類できるらしい<span class="sm">(『厳耕望史学著作集 中国地方行政制度史――秦漢地方行政制度』上海古籍出版社、2007年、pp. 124-29)</span>。だからまあ、郡守個人に密接に関係する事柄や業務補佐が「門下」と言えるのだろう。<br/>
郡守を皇帝に置き換えれば、侍中もそれに近いような感じの立ち位置にいるし、皇帝の日常生活・業務全般の補佐雑務を「門下衆事」と呼んでいたのではなかろうか。<br/>
なおそれでも「門下」って何が由来なんだと気になるでしょうが、これはもうワカラン。『後漢書』伝3公孫述伝の「門下掾」の李賢注に「州郡有掾、皆自辟除之、<b>常居門下、故以為号</b>」とあるが、いや「いつも門下にいる」ってどういう意味なんだと・・・。主人の受付的な、あるいは取次的なそんな意味なのかな。<SPAN class="sm"><a href="#2b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="3">[3]</a>『晋書』職官志は侍中の由来について、「考えてみるに、黄帝のときに風后が侍中になっている。周では常伯に相当する職務であった。秦は古名を採用して侍中を設け、漢はそれを継承したのである<span class="sm">(案黄帝時風后為侍中、於周為常伯之任、秦取古名置侍中、漢因之)</span>」と記す。<SPAN class="sm"><a href="#3b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="4">[4]</a>漢の侍中はそもそも加官であった。『漢書』巻19百官公卿表・上「<b>侍中</b>・左右曹・諸吏・<b>散騎</b>・<b>中常侍</b>、皆加官、所加或列侯・将軍・卿大夫・将・都尉・尚書・太医・太官令至郎中、亡員、多至数十人。<b>侍中・中常侍得入禁中</b>、諸曹受尚書事、諸吏得挙法、<b>散騎騎並乗輿車</b>。<b>給事中亦加</b>官、所加或大夫・博士・議郎、<b>掌顧問応対</b>、位次中常侍。中黄門有<b>給事黄門</b>、位従将大夫。皆秦制」。本文で言及のある官は<b>太字</b>にしておいた。<SPAN class="sm"><a href="#4b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="5">[5]</a>侍中僕射については『通典』巻21職官典3侍中に「もともと侍中僕射が一人置かれていた。〔原注:秦漢時代は侍中で功(=勤続期間)が高い(長い)者一人を侍中僕射とした。〕後漢の光武帝は僕射を祭酒に改めた。(後漢時代は)置いたり置かなかったりで、常設ではなかった。また侍中祭酒は少府に所属した<span class="sm">(本有僕射一人。〔秦漢以功高者一人為僕射。〕後漢光武帝改僕射為祭酒、或置或否、而又属少府)</span>」とある。<SPAN class="sm"><a href="#5b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="6">[6]</a>秦の丞相史からここまでは『御覧』巻219引『漢官儀』にそのまま見える。また、侍中が色々な器物を分担担当していて、孔安国はとりわけ~のくだりと後漢の皇帝外出の記述は『初学記』巻12侍中に引く『斉職儀』にもそのまま見えるが、さらに次のように続けている。「初、漢侍中親省起居、故俗謂虎子、虎子、褻器也」。侍中は皇帝の日常生活のお世話をしていたから、俗に「おまる」(便器のことね)って呼ばれてたんだって。<SPAN class="sm"><a href="#6b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="7">[7]</a>「宦官と禁中に勤務していた」からここまでは『続漢書』百官志三・侍中の条・劉昭注引『蔡質漢儀』にそのまま見える。魏晋時代の侍中がどうであったのかはわからないが、ここに何も言及されていないままであることを踏まえると、依然として宮中から出されたままだったのかもね、用があるとき、許可されたときだけ入れるみたいな。普通やん・・・。<SPAN class="sm"><a href="#7b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="8">[8]</a>侍中に定員が設けられたはじまりは後漢献帝即位ころであったらしい。『通典』巻21侍中に「<b>献帝即位、初置六人</b>、賛法駕則正直一人負璽陪乗、殿内門下衆事皆掌之」、『続漢書』百官志三・黄門侍郎・劉昭注引『献帝起居注』に「<b>帝初即位、初置侍中・給事黄門侍郎、員各六人</b>、出入禁中、近侍帷幄、省尚書事」とある。<br/>
『晋書』職官志には東晋時代のことが記されている。「東晋の哀帝の興寧四年、桓温は侍中の定員を二人削るようにと奏上し(採用され)た。のちに定員はもと(四人)に戻った<span class="sm">(及江左哀帝興寧四年、桓温奏省二人、後復旧)</span>」。桓温の改革が戻されたのは、他の官府同様、孝武帝時期のことであっただろう。<SPAN class="sm"><a href="#8b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="9">[9]</a>別のブログ記事でも触れたことがあるのだけど、侍中は冠の装飾が特殊(「貂蝉」)であったことでも著名。そのブログ記事からそのまま文章を以下に流用します。西晋以降、侍中を含めた侍臣の官は、武冠を「貂蝉」で飾る規定であったらしい。『宋書』巻18礼志五に「侍中・散騎常侍及中常侍、給五時朝服、武冠。貂蝉、侍中左、常侍右。皆佩水蒼玉」とある<span class="sm">(礼志五のかかる箇所が、西晋泰始年間の規定である可能性が高いことは、小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年を参照)</span>。具体的には、蝉の羽で飾りつけた金製のバッジと、貂の毛を挿した金製の竿のことで、竿を侍中は左、散騎常侍は右に挿す。『晋書』職官志「侍中・常侍則加金璫、附蝉為飾、挿以貂毛、黄金為竿、侍中挿左、常侍挿右」。武冠は戦国趙が起源だというが、これに貂蝉を飾る習慣は秦漢以来あったようで、その由来について、後漢の胡広は「昔趙武霊王為胡服、以金貂飾首。秦滅趙、以其君冠賜侍臣」と言い、応劭『漢官儀』は金=剛健・百錬不耗、蝉=高潔<span class="sm">(「居高食潔」)</span>、貂=内剛外柔、を比喩しているとするなど諸説ある。<br/>
『通典』巻21侍中には「漢代では皇帝のお側つきの官職で(能力如何ではなく皇帝の好みに左右しての任命で)あったが、魏晋時代に(定員枠が設けられて)選挙によって登用されるようになると、社会的ステータス<span class="sm">〔原文の「華重」をとりあえずこう訳しておく〕</span>が高くなった。だからといって、役割や職務に大きな変化があったわけではない<span class="sm">(漢代為親近之職、魏晋選用、稍増華重、而大意不異)</span>」。つまり、侍中は漢代も魏晋も皇帝の諮問相手であったことに違いはなく、「尚書からの文書決裁をおこなった(省尚書事)」などの記述もその程度のイメージで軽く受け止めておくのが良いと私は思います。<SPAN class="sm"><a href="#9b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="10">[10]</a>『通典』21「門下省、<b>後漢謂之侍中寺</b>。晋志曰、給事黄門侍郎与侍中、<b>倶管門下衆事、或謂之門下省</b>」。ここで引用されている「晋志」の文章は唐修『晋書』のなかには見えない。<SPAN class="sm"><a href="#10b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="11">[11]</a>原文「郊廟臨軒、則一人執麾」。『通典』巻21門下侍郎に「郊廟則一人執蓋、臨軒朝会則一人執麾」とあり、中華書局はこれをもって宋書本文に脱文があるのではないかと推測している。いちおうこの指摘に従って本文を補った。<SPAN class="sm"><a href="#11b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="12">[12]</a>現行の班固『漢書』百官公卿表(注[4]引用)には「給事黄門」の名がわずかに見え、侍中らと同じく無員であり、秦官であることは記述から読み取れるが、「左右に侍従すること」については明記されていない。ここに言及されている『漢百官表』は班固のものとは違うのかもしれないが、しかしこの名を有する著作は隋書などに記録されておらず、詳細は不明。<SPAN class="sm"><a href="#12b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="13">[13]</a>「東漢では給事黄門侍郎と言い・・・」からここまで、『続漢書』百官志三・黄門侍郎の本注とほぼ同じ。なので、宮中と外との取次とかうんたらは後漢時代の職掌として受け止めておいた方が良い。魏晋時期の黄門侍郎はあくまで「門下衆事」が職務なのだ。<SPAN class="sm"><a href="#13b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="14">[14]</a>『続漢書』百官志三・黄門侍郎・劉昭注引『漢旧儀』「黄門郎属黄門令、日暮入対青瑣門拝、名曰夕郎」。青瑣門は劉昭の引く『宮閣簿』によれば、洛陽南宮の門なんだって。<SPAN class="sm"><a href="#14b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="15">[15]</a>劉向の書簡は『御覧』巻221に『劉向集書誡子歆』として詳しく引用されている。「今若年少得黄門侍郎、顕処也。新拝、皆謝貴人、叩頭謹戦戦慄慄、乃可必免」。<SPAN class="sm"><a href="#15b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="16">[16]</a>「史臣」がここで問題としたいのは、ある史書(『漢百官表』)によると秦・前漢では給事黄門だったのに、後漢の史料(『続漢書』)になると給事黄門侍郎と名称が変わっていることであり、このことに補足を試みようとしているのだ。で、彼の結論は、「給事黄門はすでに前漢時代には侍郎の名称を加えられていた」である。<br/>
ところが、『初学記』巻12黄門侍郎引『斉職儀』をみると、「当初、秦には(黄門侍郎とは別に)給事黄門を置いており、漢はこれを継承した。後漢のはじめ、黄門侍郎と給事黄門を統合して給事黄門侍郎を置いた。のちに侍中侍郎に改称されたが、まもなく給事黄門侍郎に戻された。魏と晋では給事黄門侍郎が四人置かれ、侍中とともに門下衆事を管轄した。侍中と給事黄門侍郎とは、散騎常侍とあわせて清官であったので、(合わせて)黄散と呼ばれてきた。宋と斉も給事黄門侍郎を四人置いた<span class="sm">(初、秦又有給事黄門之職、漢因之、至東漢初、并二官曰給事黄門侍郎。後又改為侍中侍郎、尋復旧。自魏及晋、置給事黄門侍郎四人、与侍中俱管門下衆事、与散騎常侍並清華、代謂之黄散焉。宋斉置四人)</span>」とあって、『斉職儀』が何にもとづいているかは知らんが、史臣の理解とは食い違っている、ってか史臣は『斉職儀』も『斉職儀』が参考にした史料もたぶん見てないよね。<br/>
なお『斉職儀』で言及されている侍中侍郎への改称は後漢・献帝の時期のことであったようだ。『続漢書』百官志三・劉昭注引『献帝起居注』「献帝が即位した当初、はじめて(定員枠のある)侍中と給事黄門侍郎を置いた。定員はともに六人。・・・給事黄門侍郎を侍中侍郎と改称し、給事黄門の名称を除いたが、まもなくもとに戻された。かつて、侍中と黄門侍郎は宮中で勤務していたため、政治から距離を置かせていた。(その後、事件が相次いだので侍官は宮外で仕事をするようになったが、後漢末に)宦官を誅殺したのち、侍中と黄門侍郎は(ふたたび)宮中に出入りできるようになり、機密情報が漏洩するようになってしまった。そこで王允は尚書と同様の措置を取るように奏上した。これ以降、侍官は宮中に出入りできず、客人との交際も禁止された<span class="sm">(帝初即位、初置侍中・給事黄門侍郎、員各六人・・・。改給事黄門侍郎為侍中侍郎、去給事黄門之号、旋復復故。旧侍中・黄門侍郎以在中宮者、不与近密交政。誅黄門後、侍中・侍郎出入禁闈、機事頗露、由是王允乃奏比尚書、不得出入、不通賓客、自此始也)</span>」。<SPAN class="sm"><a href="#16b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="17">[17]</a>後漢時代、宦官のボスだった。『続漢書』百官志三・黄門令を参照。<SPAN class="sm"><a href="#17b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="18">[18]</a>『御覧』巻221引『輿服志』「禁門曰黄闥、以中人主之、故号曰黄(門)令、然則黄門郎給事黄闥之内、故曰黄門郎、本既無員、於此各置六人也」。本文とほぼ同じ。この文章は『通典』にも引用されている。『御覧』では『続漢書』の「輿服志」として引用されているが、司馬彪の『続漢書』輿服志には見えず、『後漢書』李賢注などもあわせて調べるかぎり、董巴『大漢輿服志』からの引用であるらしい。<br/>
なお、中華書局は「黄門令と呼んだのである」までが董巴の著作からの引用で、つづく「とすれば(然則)・・・黄門郎と呼んだのであろう(故曰黄門郎也)」を百官志執筆者(史臣)の文章と解釈して校点しているが、『御覧』の引用を信ずれば、「然則・・・故曰黄門郎也」も董巴の引用に含まれる。本文ではその方向で訳文を作成している。<SPAN class="sm"><a href="#18b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="19">[19]</a>魏晋宋については、注[16]引用の『斉職儀』のほか、『通典』巻21門下侍郎「魏晋以来、給事黄門侍郎並為侍衛之官、員四人。宋制、武冠、絳朝服、多以中書侍郎為之」。<SPAN class="sm"><a href="#19b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="20">[20]</a>『漢書』百官公卿表・上・師古注「漢官儀云、公車司馬掌殿司馬門、夜徼宮中、天下上事及闕下凡所召皆総領之、令秩六百石」。『続漢書』百官志二・衛尉・公車司馬によれば、後漢時代は丞と尉も一人ずつ置かれていた。本訳注(5)の注[17]を参照。<SPAN class="sm"><a href="#20b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="21">[21]</a>『通典』巻25職官典7衛尉卿・公車司馬令に「宋以後属侍中」とある。<SPAN class="sm"><a href="#21b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="22">[22]</a>皇帝専属のお医者さん。所属の変遷が激しい。秦漢魏:少府→西晋:宗正→東晋:門下省(宗正廃止のため)→宋:門下省。『通典』巻25職官典7太常卿・太医署を参照。<SPAN class="sm"><a href="#22b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="23">[23]</a>皇帝の食事の責任者。飲食物、食器、酒、果物とか。太医同様、所属の変遷が激しい。秦漢魏:少府→晋:光禄勲→宋:門下省。『続漢書』百官志三・少府・太官、『通典』巻25職官典7光禄勲・太官署を参照。<SPAN class="sm"><a href="#23b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="24">[24]</a>皇帝や宮中で使う専用馬を育てる牧場の管理者。それぞれ各王朝における牧場の名前を冠している。漢は太僕の所属だったが、宋以後は門下省の所属。魏晋時代も太僕所属だった可能性が考えられるが、東晋以後は太僕は常設官ではなくなったため、それにともなって太常か門下かに異動したと思われる。『通典』巻25職官典7太僕卿・典厩署「漢西京太僕有龍馬長、東京有未央厩令、掌乗輿及宮中之馬。魏為驊騮厩、晋有驊騮・龍馬二殿。自宋以後、驊騮厩属門下」。<SPAN class="sm"><a href="#24b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="25">[25]</a>侍中を頂点としたこのグループを門下省と呼ぶことは前に見たとおり。ここに挙がっている官はすべて、漢代では少府の所属であった。それがどういうわけか、魏晋ころから少府の役割は縮小しはじめ、少府は物品の製造をおこなう官府になってゆき、様々な異動を経て、宋のはじめころには、旧少府所属で皇帝の日常生活のお世話をする官職は門下省に集まるようになった。けっこう共通性が高いわりには、太医や太官はすぐにこのグループに入ったわけじゃないんだよね。前述したように、「門下」という考え方は西晋時期にできあがったものと考えられるので、門下省が「門下衆事」を仕事とする「皇帝の日常生活を輔佐する官職グループ」の意で構想され、侍中らが中心に置かれていたのであれば、当然すぐにでも太官やらをここに移していいはずである。それを宗正とか光禄勲に移していったのはどうしてなんだろうね。この時期の門下省ってのはかなり特殊なもので、一種の官府のようなものとして捉えるべきではないんだろうか。<SPAN class="sm"><a href="#25b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="26">[26]</a>『御覧』巻224散騎常侍引『魏略』「出入侍従、与上談議、不典事」。皇帝につきしたがって、相談役にはなるけど、直接政治(「事」)を執ることはない、ってことかな。また『初学記』巻12散騎常侍に引く『斉職儀』には「典章表詔命手筆之事」とあり、『通典』巻21職官典3散騎常侍に東晋以降のこととして「以中書職入散騎省、故散騎亦掌表詔焉」とあり、東晋以降は詔や上表などの公文書の起草をおこなっていたらしいです。<SPAN class="sm"><a href="#26b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="27">[27]</a>注[4]で引用した『漢書』百官公卿表・上に「散騎騎並乗輿車」とあり、その師古注に「騎而散従、無常職也」とある。<SPAN class="sm"><a href="#27b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="28">[28]</a>『初学記』巻12散騎常侍引『斉職儀』「魏文帝置散騎之職、以中常侍合為一官、除中字、直曰散騎常侍、置四人。典章表詔命手筆之事。晋置四人、隷門下。晋初此官、選望甚重、与侍中不異。自宋以来、其任閑散、用人益軽、別置集書省領之」。<SPAN class="sm"><a href="#28b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="29">[29]</a>『晋書』職官志は「<b>泰始十年</b>、武帝使二人与散騎常侍<b>通員直</b>、故謂之通直散騎常侍。<b>江左置四人</b>」と記し、本文と若干の相違がある。しかし、『御覧』巻224通直散騎常侍に引く『宋書』には本文と同じ文章が引用されているが、「通直」は「通員直」、「五人」は「四人」になっている。『宋書』の本来の字句はそうなっていたのかもしれない。<br/>
また『御覧』同巻引『陶氏職官要録』に「晋太始十年、詔東平王楙為員外常侍、通直殿中、与散騎常侍通直。通直之号、蓋自此始也」とあり、同引『朱鳳晋書』に「陳与・・・以父老、求去職、宿衛不宜曠、詔以為通直常侍」とある。これらから判断すれば、「通直」は「殿中」においてなされるものであるのだから、「宿直当番」のようなものと解するのが良いようである。また陳与が「宿衛が長期間にわたるのは不都合である(宿衛不宜曠)」ことから通直散騎常侍に任命されていることを考えると、いちおうやっぱり宿直はするみたいね。長期間にならないってことは、当番制で回転が速いか、少日数出勤で許されていたか、どっちかだろう。仮にこのように解釈できるのならば、当直をおこなうのは通常は定員のある散騎常侍のみの仕事で、員外は関係なかった、ってことなのだろう。<SPAN class="sm"><a href="#29b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="30">[30]</a>散騎省の成立史に関しては下倉渉「散騎省の成立――曹魏・西晋における外戚について」(東北史学会『歴史』86、1996年)がある。下倉氏によれば、曹魏文帝は自分=皇帝個人との関係が深い人間にとりあえず位を与えておくための、一種の人材プールとしての目的から散騎省を設立した。しかしその運営は徐々に外戚や宗室が多くを占めるようになり、それでも「皇帝個人との関係を重視する」という方針自体は保たれてこそいるが、彼らの就任官としての性格を濃くしていった。またこれに伴ない、もともと定員枠のあった散騎省は拡大=無員化が進んでいった。<br/>
氏がこの散騎省の動向と対比させて理解しているのが侍中系統のいわゆる門下省。下倉氏によれば侍中は外戚・宗室の就任官であったが<span class="sm">(氏の「後漢末における侍中・黄門侍郎の制度改革をめぐって」、『集刊東洋学』72、1994年で論じられているようだが、未見)</span>、また注[8]や[16]で言及してきたように、侍中は後漢末に定員化され、外戚らの任命に抑制がかけられていた。しかし結局散騎省があんな感じになっちゃったから、この後漢末の改革の方向はどっかに行っちゃったね、って。<br/>
氏の結論も要約しておくと、後漢から魏にかけては外戚や宗室の過度の政治参与を防止する方向に力が注がれていたが、明帝ころを境にまず外戚、そして晋ころから宗室の政治参与が重視されるようになったことが、散騎省の変化と拡大に影響した。これは魏晋の政治が、漢代とは異なる秩序原理を模索する一方で、旧来の漢代的原理からは完全に脱却することができなかったことの一例である、と。<br/>
散騎省の専論は珍しいので、幅を割いて紹介しておきました。<SPAN class="sm"><a href="#30b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="31">[31]</a>『御覧』巻221給事中引『漢儀注』、『晋書』職官志、『初学記』巻12引『斉職儀』にそれぞれ詳しい記述が見えているが、ここではそれらをすべてまとめてくれている『通典』巻21職官典7門下省・給事中の記述を引用しておく。「諸給事中、日上朝謁、平尚書奏事、分為左右曹、以有事殿中、故曰給事中。漢東京省。魏代復置、或為加官、或為正員。晋無加官、亦無常員、在散騎常侍下、給事黄門侍郎上、・・・宋斉隷集書省」。<SPAN class="sm"><a href="#31b">[上に戻る]</span></a></p>
<p><a name="32">[32]</a>要は臣から官僚としての役割が剥落した状態。官僚ではないけど臣である、みたいな。儀礼の場での朝位(席次)が確保されていたということは、儀礼の場に立ちあうのは皇帝の官僚としてではなく、純粋に皇帝の臣として参列しなければならない、ということだろうか。<SPAN class="sm"><a href="#32b">[上に戻る]</span></a></p>
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