大長秋は、皇后の卿である。皇后がいれば置かれるが、いなければ廃される。秦のときは将行であったが、漢の景帝の中六年に大長秋に改称された[1]。韋曜が言うに、「長秋は皇后の陰官〔皇后に近侍する官のこと〕である。秋とは陰の始めであり、日が暮れてから(夜が)長いことから、(皇后が)長久であることを願って(皇后の官に)名づけられたのである[2]」。
太常から長秋まで、みな功曹、主簿、五官を置いた。(五官とは)東漢の諸郡には五官掾がいたが、その名称を継承したのである[3]。漢の制度では卿・尹はみな秩中二千石、丞は一千石である。
――注――
[1]『続漢書』百官志四本注「承秦将行、宦者。景帝更為大長秋、或用士人。中興常用宦者、職掌奉宣中宮命」。後漢では常に宦官が務めていたらしい。魏晋以後もそうなんじゃないかな。[上に戻る]
[2]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「秋者收成之時、長者恆久之義、故以為皇后官名」。[上に戻る]
[3]『通典』職官典15・総論郡佐・五官掾「後漢有之、署功曹及諸曹事」。郡の功曹や列曹事の任命をつかさどっていた人事職だったらしい、けっこうえらいね。南朝正史にも用例が見えるので、南朝期にも置かれていたようだ。卿の五官も同様の職掌だったのかも。[上に戻る]
さて、これでようやく卿は終わり!
百官志・上もあと2、3割で終わる! ようやくあと一息まで来ました。
しかし次は難解な尚書の条項。力尽きそう。
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