2014年5月5日月曜日

『宋書』百官志訳注(8)――卿(太后三卿・大長秋)

 太后三卿は、(少府、衛尉、太僕の)各一人ずつ。応劭の『漢官(儀)』に、「(太后)衛尉、少府は秦の官である。太僕は漢の成帝が置いた。みな太后宮に付き従っていたので、それ(太后)を名称とした。朝位は正卿〔通常の衛尉、少府、太僕〕の上とし、太后がいなければ欠員とした」とある。魏は漢の制度を改め、(朝位を)卿〔衛尉、少府、太僕〕の下とした。晋は旧制に戻し、卿の上とした。
 大長秋は、皇后の卿である。皇后がいれば置かれるが、いなければ廃される。秦のときは将行であったが、漢の景帝の中六年に大長秋に改称された[1]。韋曜が言うに、「長秋は皇后の陰官〔皇后に近侍する官のこと〕である。秋とは陰の始めであり、日が暮れてから(夜が)長いことから、(皇后が)長久であることを願って(皇后の官に)名づけられたのである[2]」。

 太常から長秋まで、みな功曹、主簿、五官を置いた。(五官とは)東漢の諸郡には五官掾がいたが、その名称を継承したのである[3]。漢の制度では卿・尹はみな秩中二千石、丞は一千石である。



――注――

[1]『続漢書』百官志四本注「承秦将行、宦者。景帝更為大長秋、或用士人。中興常用宦者、職掌奉宣中宮命」。後漢では常に宦官が務めていたらしい。魏晋以後もそうなんじゃないかな。[上に戻る]

[2]『漢書』巻19百官公卿表・上・師古注「秋者收成之時、長者恆久之義、故以為皇后官名」。[上に戻る]

[3]『通典』職官典15・総論郡佐・五官掾「後漢有之、署功曹及諸曹事」。郡の功曹や列曹事の任命をつかさどっていた人事職だったらしい、けっこうえらいね。南朝正史にも用例が見えるので、南朝期にも置かれていたようだ。卿の五官も同様の職掌だったのかも。[上に戻る]






 さて、これでようやく卿は終わり!
 百官志・上もあと2、3割で終わる! ようやくあと一息まで来ました。
 しかし次は難解な尚書の条項。力尽きそう。

0 件のコメント:

コメントを投稿