2014年5月4日日曜日

『宋書』百官志訳注(7)――卿(少府・将作大匠・大鴻臚・太僕+宗正)

 少府は一人。丞は一人[1]。皇帝の衣服や車馬などの物品在庫を調整するのが職務である。秦の官であり、漢はこれを継承している。「禁銭」によって皇帝個人の生活用具をそろえるので、少府と言うのである[2]。晋の哀帝の末年、廃して丹陽尹に併合した。孝武帝のときに復置された。
 左尚方令と丞は各一人ずつ。右尚方令と丞も各一人ずつ。ともに兵器の製造を担当する。秦の官であり、漢はこれを継承した。周では(この職掌をおこなっていた官を)玉府と言った。江右〔西晋〕では中尚方、左尚方、右尚方があったが[3]、江左以降、尚方は一つだけであった[4]。宋の高祖が帝位につくと、丞相府の作部[5]を役所として独立させ、左尚方と名づけた。一方で、本来の尚方を右尚方と呼ぶことにした。また丞相府の細作[6]を役所として独立させ、細作令一人、丞二人を置き、門下省の所属とした。世祖の大明年間、細作署を御府に改称し、令一人、丞一人を置いた[7]。御府とは、二漢のときに官婢を監督して(皇帝の)普段の衣服の製作・補修・洗濯をさせることを職務としていた官で、魏晋でも置かれていたのだが、江左のときに廃されていた官である。後廃帝の初め、御府を廃して中署を置き、右尚方に所属させた。東漢の太僕の属官に考工令という官がおり、兵器・弓弩・刀・鎧の類(の製造)を担当し、完成したら執金吾に渡して武庫に入庫させ、また綬を織る職人も監督していた[8]。(漢代の)尚方令は皇帝の刀・綬・剣や玩具の製作のみを職務とするだけであった[9]。つまり(漢代の)考工令は現在の尚方令のようなもので、(漢代の)尚方令は現在の中署のようなものである[10]
 東冶令は一人、丞は一人。南冶令は一人、丞は一人。漢代には鉄官がおり、晋は令を置いていた。職人の鋳鉄を監督し、(漢代は大司農に、晋代は)衛尉に所属していた。江左以降、衛尉を廃したので、少府の所属に移った。宋のときに衛尉が復置されたが、冶令は少府の所属のままであった[11]。江南諸郡県で鉄を産出する所は、冶令を置いたり丞を置いたりまちまちであったが、多くは孫呉が設けた場所に置かれた。
 平准令は一人、丞は一人。染織をつかさどる。秦の官であり、漢はこれを継承した。漢では大司農の所属であったが、いつの時代かに少府の所属となった[12]。宋の順帝が即位すると、帝の諱(=準)を避けて、染署と改称した。[13]

 将作大匠は一人、丞は一人。土木仕事を統括する。秦のときに将作少府が置かれ、漢はこれを継承した。景帝の中六年、将作大匠に改称された。光武帝の建武中元二年に廃され、謁者に統括させた。章帝の建初元年に復置された。晋以降は、仕事があれば置かれたが、無ければ廃された[14]

 大鴻臚は、諸侯王の(入朝や祭祀の際の)先導と、封建のときの印綬の受け渡しを職掌とする[15]。秦のときは典客であったが、漢の景帝の中六年に大行令に改称され、武帝の太初元年に大鴻臚に改称された。「鴻」とは「大」、「臚」とは「陳」を意味する[16]。江左の初めは廃されていた。仕事があれば一時的に置かれるが、仕事が終われば廃された[17]

 太僕は、(皇帝の)馬車の馬を管理する。周の穆王が設置し、秦はこれを継承した。『周官』〔『周礼』〕によれば、(周は当初、)校人が馬を、巾車が車を管轄していたが[18]、(穆王が)太僕を置くと、(太僕が)その二つの職務を兼ねるようになった。江左では置いたり廃したりでまちまちであったが、宋以降は置かれなかった。郊祀のときは臨時に太僕を置いて(皇帝の)馬の轡を取り、祭祀が終われば廃された[19]

〔宗正〕[20]



――注――

[1]前漢までは六人であったが、後漢以降は一人。『通典』巻27職官典・少府監参照。
 ちなみに少府卿には主簿も置かれていた。『通典』に「晋置二人、自後歴代一人」とある。[上に戻る]

[2]国家財政には民からの毎年の田租と算賦(銭納の人頭税)を充てるのに対し、皇帝家の財政運営には皇帝家の領有地として所有されている山林・沼沢、いわば国立公園のようなところなんだけど(厳密にはそう言えないのだがそういうふうに理解してもらえるとわかりやすい)、その山林・沼沢や市場から得られる税収入などが充てられていた。このうち山林・沼沢からの税収入のことを「禁銭」と言うらしい。応劭らによると、皇帝家の財政はこの「禁銭」によってまかなわれていた。なお、山林・沼沢からの税収入とは具体的に想像しづらいが、増淵龍夫氏の考察によると、皇帝家が山林・沼沢を民間の商人・業者に貸し与え、貸借分を税として徴収していたらしい(増淵『新版 中国古代の社会と国家』岩波書店、1996年、第3篇第1章)。租と賦によって国家(「軍国」「公用」)の財政を管理するのが大司農であるが、皇帝家(「私養」「私用」)の財政は国家財政とは独立して運営される。そこでこの皇帝家の財政を国家財政と対照させ、皇帝家財政を担当する官のことを「少」=「小」府と呼ぶにいたったそうだ。次の各史料を参照のこと。『漢書』巻19百官公卿表・上「少府、秦官、掌山海池沢之税、以供共養」、同応劭注「名曰禁銭、以給私養、自別為蔵。少者、小也、故称少府」、同師古注「大司農供軍国之用、少府以養天子也」、『続漢書』百官志三・少府卿・李賢注引『漢官』「王者以租税為公用、山沢陂池之税以供王之私用」、同『漢官儀』「田租・芻稾以経用・凶年、山沢魚塩市税少府以供私用也」、『太平御覧』巻236『応劭漢官儀』「少府、掌山沢陂池之税、名曰禁銭、以給私養、自別為蔵。少者、小也。故称少府」。[上に戻る]

[3]『通典』巻27少府監・中尚署には「漢末分尚方為中・左・右三尚方。魏晋因之」とあり、三尚方は後漢末から存在していたらしい。[上に戻る]

[4]『通典』には「哀帝以隷丹陽〔ママ〕尹」とある。前文にあるように、少府自体が廃されて丹楊尹に併合されていた時期があるのだから、尚方も同様に丹楊尹に合わせられたのだろう。本文後文とのつながりを考えると、少府卿同様、孝武帝のときに尚方も復置されたと考えられる。[上に戻る]

[5]「作部」はイマイチわからんが、『晋書』巻9孝武帝紀・太元14年の条「詔淮南所獲俘虜付諸作部者一皆散遣、男女自相配匹、賜百日廩、其没為軍賞者悉贖出之、以襄陽・淮南饒沃地各立一県以居之」、『宋書』巻45劉粋伝「因誅殺謀等三十家、男丁一百三十七人、女弱一百六十二口、收付作部」のように、捕虜や罪人の一族を収容しており、おそらくは官奴婢になにか物を作らせる部署であると見てよいのではないだろうか。孝武帝紀の書き方だと、作部はたくさんあった、というより役所ごとに置かれていた可能性がある。現に州にも作部があったらしい(『宋書』巻54羊玄保伝)。丞相府の作部もそうした作部のうちの一つで、丞相府で使用する兵器などの管理をおこなっていたのかもしれないが詳しい記述はないのでなんとも。[上に戻る]

[6]「細作」については、『宋書』巻6孝武帝紀・元嘉30年7月の条「可省細作并尚方、雕文靡巧、金銀塗飾、事不関実、厳為之禁」、『南斉書』巻56呂文度伝「呂文度、会稽人。宋世為細作金銀庫吏、竹局匠」。詳しい記述は見られないが、孝武帝紀のように尚方などと並列されている例が多く、尚方と同様、なにかの製造をおこなう部署なのだろう。後文との関連から見るに、細作令は皇帝の衣服関連の管理をおこなっていたと見られる。丞相府の細作部がなにをしていたかは推測によるしかないが、もしかしたら府主の衣服関連の管理をしていたのかもしれないね。[上に戻る]

[7]『宋書』孝武帝紀・大明4年の条「十一月戊辰、改細作署令為左右御府令」とある。これによると、御府令には左右があったらしい。[上に戻る]

[8]『続漢書』百官志二・本注に「主作兵器弓弩刀鎧之属、成則伝執金吾入武庫、及主織綬諸雑工」。『宋書』本文とほぼ同じ。[上に戻る]

[9]『続漢書』百官志三・少府・尚方令・本注「掌上手工作御刀剣諸好器物」。『宋書』本文とだいたい同じ。[上に戻る]

[10]どうしてこのような逆転が起こってしまったのかというと、たぶん考工令が廃されてしまったことに関係があるのだと思う。というのも、考工令は魏晋以後にまったく見えなくなっているのだ。以下はすべてわたしの推測にしかすぎないが、考工令は後漢末に廃され、その職務は三尚方が担うようになったのではないだろうか。つまり尚方令が国家の兵器および皇帝の身辺道具の製造をおこなうようになった。あわせて皇帝の衣服は御府令が担当していたが、御府も東晋以後は廃されたのだから、この仕事も尚方がしていたのかもしれない。それが宋の武帝のとき、国家のもの=左右尚方、皇帝のもの=細作→御府→中署というように分化したのであろう。そんときにどうして漢代の名称をそのまま継承しなかったのかというとそれはけっきょくわかりません。[上に戻る]

[11]訳注(5)で冶令はずっと衛尉の所属でしたと述べてましたが、誤りでした。[上に戻る]

[12]『続漢書』百官志3・大司農・平準令・本注「掌知物賈、主練染、作采色」。染色だけじゃなくて、物価(の均衡?)も管理していたんだけどね。国家財政の仕事が大司農から(度支尚書あたりに?)移ってしまったことは訳注(6)で述べたが、たぶん同じ時期に平準令から物価の仕事もなくなったのだろう。で、残った染色の仕事って尚方に似てるやん?→少府に移しちまえ、みたいな感じになったんじゃねーの? 知らんけど。[上に戻る]

[13]西晋時代の少府の属官については、『晋書』巻24職官志に「材官校尉、中左右三尚方、中黄左右藏、左校、甄官、平準、奚官等令、左校坊、鄴中黄左右藏、油官等丞」と豊富に見えている。わかる限りで補足しておこう。
 材官校尉、左校令 土木職人を監督する官。後漢のときは右校令、左校令がいた。魏晋ころの情報が錯綜していていまいちわからないが、曹魏のときに右校令に代わって(?)材官校尉が置かれたらしい。曹魏までは将作大匠に所属していたが、西晋から少府に所属。東晋になると材官校尉は材官将軍に改称され、左校令は廃されたという。『宋書』百官志・上によると、哀帝の時期に少府が廃されると、尚書および領軍将軍に移されたらしい。詳しくはいずれ触れるでしょう。『通典』巻27職官典9・将作監・左右校署参照。
 中黄蔵令、左蔵令、右蔵令 帝室の貨幣を管理する官。後述。鄴の中黄蔵丞、左蔵丞、右蔵丞は鄴に置かれていたというだけでしょう。武官でもそうだけど、鄴にはこんな具合に特殊に官が置かれることってしばしばなので、珍しくはない。
 甄官令 れんがの製造。後漢のときは前・後・中の三官おり、将作大匠に属していた。いつごろ少府に移ったのは不明。また東晋、劉宋ではどうだったのかも不明。唯一、『通典』によれば劉宋でも官自体は置かれていたらしい。『通典』将作監・甄官署を参照。
 奚官令 宮中で働く人(おそらく官奴婢)たちの監督者。漢代には見られず。いつごろ置かれたのか不明。『通典』巻27職官典9・内侍省・奚官局を参照。
 左校坊丞 わからん。
 油官丞 史料は見つからないけど想像できるからいいでしょ。
 少府はおもに皇帝のプライベートなことがらを職務としていた。後漢のときには、太官(皇帝の食事)、太医、守宮(紙とか墨とか)、上林苑令(苑に生息している動物の管理)、掖庭令(後宮の女性の監督者)のような日常生活や施設のサポート官、侍中、黄門令のような顧問官・宦官、尚書令のような秘書、そして尚方のような皇帝専門物品の製造官が少府に所属していた。しかし魏晋以後、侍中や黄門令は門下省(侍中府)として、尚書令は尚書省として少府から独立し、太官、守宮、掖庭令などは西晋代に光禄勲へ、太医は宗正へそれぞれ移ったあと、東晋~宋代に門下省へと移動している(訳注(5)注[7]参照)。また『晋書』巻24職官志・光禄勲に「光禄勲、統武賁中郎将、羽林郎将、冗従僕射、羽林左監、五官左右中郎将、東園匠、太官、御府、守宮、黄門、掖庭、清商、華林園、暴室等令」、同宗正に「統太医令史、・・・及渡江、哀帝省并太常、太医以給門下省」とあるのも参照。太字にしてある官は後漢時代だとすべて少府所属であった(東園匠は東園秘器をはじめ、皇帝陵に使用する木製物を製作する。「清商令」というのは曹魏・洛陽の清商殿という殿の管理者なんでしょう、詳しくはわからん。華林園は曹魏・洛陽城北に設けられた苑。暴室は病気になった後宮の夫人や罪を得た皇后・貴人を収容する施設)。
 細々書いてしまいましたが、要するに魏晋以後の少府は物品の製造に特化しただけの官になっているといえるのだ。皇帝家御用達の製品が中心だとは思うが、尚方に代表されているように、必ずしも御用達の物だけに限らなかったようでもある。後漢と較べ、少府は大幅に役割が減ってしまった。
 またもう一つ重要なのが中蔵府令である。この官は後漢のときは少府に所属し、貨幣(金・帛・銭)を管理していた、まさに帝室財政を運営するうえでの要となる官職である(『続漢書』百官志三)。この官は西晋までは少府所属として存続していたのだが、東晋になると御史中丞府に移され、新たに庫曹御史が置かれた。庫曹御史はのちに外左庫、内左庫に分かれたが、宋代に外左庫が廃され、内左庫はたんに左庫と呼ばれるようになった(『通典』巻26職官典8・太府卿・左右蔵署)。庫曹御史の設置はおそらく哀帝の時期に少府が廃されたのと同時期であろう。で、そのまま左庫は少府に戻ることがなかったようなので、帝室財政への関与にしても少府の役割はかなり狭くなったようだ。なんとねえ。
 太官や太医などの官が西晋時期に少府から離れた理由は不明である。それらが最終的(宋代)に門下省へと集結していったのは、門下の官が少府由来であったこともあるであろうが、大司農・光禄勲・宗正といった移譲先の卿官がすべて哀帝の時期に廃されてしまったことが一番大きな原因だと思う。哀帝の時期に廃された卿は少府も含め、孝武帝の時期に(宗正以外は)復置されているが、門下省に移譲した官が戻ることはなかった。大司農や光禄勲と較べれば、尚方や冶令、平准は少府に戻っているのだし、だいぶ充実している方だとは思うけどね。[上に戻る]

[14]原文だと「晋氏以来」と書いてあるが、『通典』将作監によると、置かれたり置かれなかったり体制になったのは東晋以後のことらしい。[上に戻る]

[15]『漢書』百官公卿表・上「典客、秦官、掌諸帰義蛮夷」、『続漢書』百官志二・本注「掌諸侯及四方帰義蛮夷。其郊廟行礼、贊導、請行事、既可、以命羣司。諸王入朝、當郊迎、典其礼儀。及郡国上計、匡四方來、亦属焉。皇子拝王、贊授印綬。及拝諸侯・諸侯嗣子及四方夷狄封者、台下鴻臚召拝之。 王薨則使弔之、及拝王嗣」。おわかりのとおり、大鴻臚は漢代、外交的な仕事にあたっていた。すなわち、諸国の代表を出迎えたり、封建のときに印綬を授けたり、王が亡くなった際には見舞ったり、等々。なので、夷狄もその仕事の範囲内に入っていたのである。が、『宋書』本文を読む限り、そのあたりはどうなっているのだろう、曖昧にぼかされている気もするし(夷狄だって封建されれば「諸王」だし)、すっぽり抜け落ちているのかもしれない。南朝の正史での大鴻臚の用例を確認すると、大鴻臚は夷狄ではない諸王(つまり帝室の諸侯王)に対して派遣されているのが多く、夷狄の迎えたなどといった記述は見られない。だからといって大鴻臚の仕事でなくなったとは言えないけど。[上に戻る]

[16]『太平御覧』巻232『韋昭辯釈』「腹の肉が出ていることを『臚』という。京師を心腹、王侯や外国を四肢と見なし、心服で諸外国を養うということを意味する。弁じるに、大鴻臚はもともと典客であり、賓客への礼を担当としていた。『鴻』とは『大』のこと、『臚』とは『陳序』のことを意味し、大いなる賓礼をつかさどって賓客を整然と並べることをいうのである」、同『漢官解詁』「『鴻』は『声』を、『臚』は『伝』を意味する。声を響かせて賓客を誘導するからである」。[上に戻る]

[17]『晋書』職官志によれば、晋代だと属官には「大行、典客、園池、華林園、鈎盾等令、又有青宮列丞、鄴玄武苑丞」がいた。以下補足。
 大行令、典客令 郎(下働き)のボス。後漢のときは大行令と呼ばれ、大鴻臚の属官であった。『通典』によると、魏のときに客館令に、晋のときに典客令に改称された。ここの『晋書』の記述はいまいちよくわからない感じだね。晋代の大行令には理礼郎(四人)という属官がいる(『通典』巻25職官典7太常卿・奉礼郎)。宋のときには南客館令と北客館令に分かれた。
 園池令、華林園令、鈎盾令 鈎盾令は苑や池などの遊閑地を管理する官で、後漢のときは少府に属していた。知らんけど園池令も似たようなものなんじゃない? 鄴玄武苑丞は鄴の玄武池関連の管理者でしょうね。華林園令は前注[13]で見たように、『晋書』職官志では光禄勲の属官として記されているのだが、流れ的には大鴻臚の属官であったほうがふさわさしいね。東晋以後、この官がどこにいったのか不明。門下省かな? 
 青宮列丞 わからん。[上に戻る]

[18]『太平御覧』巻230厩令『斉職儀』「諸厩有圉師・牧人、養馬之官、校人掌王之馬正也」、同車府令『斉職儀』「車府署、周有巾車、典輅之職、辨五輅之制」。[上に戻る]

[19]『晋書』職官志によると、晋代には属官に「典農・典虞都尉、 典虞丞、左・右・中典牧都尉、車府、典牧、乗黄廐、驊騮廐、龍馬廐等令。典牧又別置羊牧丞」がいた。
 典農・典虞都尉 典農都尉はいわゆる屯田の官だが、大司農所属だったはず・・・。典虞都尉は不明。
 典牧都尉 全国には厩舎が設置されている。それら厩舎のボスのボスのこと。『通典』では「牧官都尉」と記されている。
 車府令 車の管理。漢魏晋では太僕に所属していたが、宋以後は尚書の駕部に所属した。
 典牧令 全国の厩舎への馬の配分をつかさどる。漢魏晋と置かれていたが、それ以後の詳細は不明。
 乗黄廐、驊騮廐、龍馬廐 帝室や禁軍で使う馬を飼育するエリート牧場の名称。乗黄廐令は劉宋では太常に所属していた(訳注(1)参照)。驊騮廐は曹魏のときに、龍馬厩は西晋のときに置かれた。本文にあるように、東晋以後の太僕は置かれたり置かれなかったりという不安定な卿だったので、この二つの厩令は門下省の所属へ移ったらしい(『通典』巻25職官典7・太僕卿)。乗黄厩令が太常に移ったのも同様の理由だろうね、どうして乗黄だけ太常なのかは知らんけど。まあともかく、牧場の管理は欠かせないから常設ではない太僕の下に置くわけにはいかなくなったのだ。[上に戻る]

[20]漢以来の卿である宗正は、『宋書』百官志に記されていない。もちろんうっかりミスではない。宗正は皇族の綱紀を取り締まる官で、魏、西晋では置かれていた。漢魏では皇族が就いていたが、西晋では皇族でなくとも就任するようになった。だが東晋の哀帝期、宗正は廃され、その職務は太常に移ったという。そして劉宋では置かれることがなかった。『宋書』百官志に記述されないのはかかる理由によるのだろう。
 晋では属官に「太医令史、又有司牧掾員」がいたらしいが、前述したように、太医令は宗正の廃止とともに門下省へ移った。後者の官は不明。
 余談ですが、西晋の咸寧三年に宗正とは別に宗という官も置いたらしいよ。『晋書』にもいくつか用例が見えるね。普通に「師」を使ってるね。[上に戻る]





 いまさらながら、哀帝の時期に廃止された卿ってすごく多いんですね、てか卿の廃止ってすべて哀帝の時期におこなわれているはず。で、ほぼぜんぶ孝武帝のときに復活。
 『通典』を見てたら、どうもこうした組織改革をやったのは桓温であるらしい。そういえば! かれは「省官併職」という官制改革をおこなっている。その一環か! 川合安先生が論文を執筆しているが内容は忘れてしまったけど。
 孝武帝の初年に卿が復活、要するに桓温死後に復活しているあたりに、孝武帝は桓温のやり方が少し気に食わなかったのかもしれんね。
 形骸化するくらいならいっそなくしてしまい、必要な職務は他の官に移してしまえばいいというのが桓温だったのかもしれないが、だとすると、形骸化が進む卿をわざわざ復活させた孝武帝の意図はなんだったのだろう。ともかく、こうして廃したり復活させたり一貫しなかったために、官がごちゃごちゃしてしまったんじゃなかろうか。要するに調べんのめんどくさかったって言ってんの。

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