2015年8月23日日曜日

『宋書』百官志訳注(11)――中書・秘書

 中書令は一人[1]。中書監[2]は一人。中書侍郎は四人。中書通事舎人は四人。漢の武帝が後宮で宴をしたとき、はじめて宦官に尚書事〔尚書の仕事=文書の皇帝への取次&文書作成?としてここでは解しておく。注[12]を参照〕を担当させた。(以後、)これを(この業務をおこなう部門を)中書謁者といい、令と僕射を置いた[3]。元帝のとき、中書謁者令の弘恭、中書謁者僕射の石顕が権勢を握り、その権力は内外を傾かせた[4]。成帝は中書謁者令を中謁者令と改称し、僕射を廃した。東漢は中謁者令を廃した。(東漢には)中官謁者令という官があったが、これは中謁者令とは職務が違う。魏武帝が魏王となると、秘書令を置き、尚書奏事〔上の「尚書事」と同義〕を担当させたが、すなわちこれが(本来の)中書の職務である。文帝の黄初年間の初め、(秘書令を)改称して中書令とし、また(中書に)監と通事郎を設け[5]、(通事郎の位は)黄門郎に次いだ[6]。黄門郎が(文書をチェックして認可の)署名をすると、文書は通事郎を通過する。そうして通事郎は(文書を)奉じて(禁中に)入り、皇帝のために読み上げ、(皇帝から裁可が得られたら)「可(よし)」と(文書に)記す[7]。晋では(通事郎を)中書侍郎に改称し、定員は四人とした[8]。江左の初め、中書侍郎を通事郎に改称したが、まもなく中書侍郎に戻った[9]。晋の初め、舎人一人、通事一人を置いた。江左の初め、舎人と通事を合わせて通事舎人とし[10]、上奏文書〔原文「呈奏」〕の草案作成を職務とした。のちに通事舎人は廃され 、中書省から侍郎一人を選んで西省に当直させ(て、その中書侍郎に通事舎人の仕事をおこなわせ)、また下達文書〔原文「詔命」〕の作成を担当した。宋の初め、ふたたび通事舎人を置いたので、侍郎の職務は軽くなった[11]。通事舎人は閤内に当直し、中書省に所属した。通事舎人の下には主事が置かれ、本来は武官を用いていたが、宋は改めて文吏を用いた。[12]

 秘書監は一人。秘書丞は一人。秘書郎は四人[13]。漢の桓帝の延熹二年、秘書監を置いた[14]。皇甫規の張奐宛ての書簡に「従兄の秘書の它の様子はどうだろうか」とあるが、これのことである。応劭『漢官』に「秘書監は一人、秩は六百石」とある。のちに廃された。魏の武帝が魏王となると、秘書令、秘書丞を置いた。(このときの)秘書は(それまでの中書のように)尚書奏事を担当した。文帝の黄初年間の初め、中書令を置き、(中書令に)尚書奏事をおこなわせ、(従来の)秘書令を秘書監に改めた[15]。のちに何楨を秘書丞にしようとしたが、秘書にすでに丞がいたので、何楨を秘書右丞とした。(丞は)のちに廃された[16]。(秘書は)書籍の管理を職掌とした[17]。『周官』では外史が地方志、三皇五帝の書を管理したとあるが、すなわちこの職務である。西漢では書籍が所蔵されていた場所は、天禄閣、石渠閣、蘭台、石室閣、延閣、広内閣である[18]。東漢では書籍は東観に所蔵されていた。晋の武帝は秘書を中書省に併合し、秘書監を廃し、秘書丞を中書秘書丞とした[19]。恵帝はさらに著作郎一人、佐郎[20]八人を置き、国史(の著述・管理)を担当させた。周のとき、左史は事件を、右史は言行を記録したが、すなわちこの職務である。東漢の書籍は東観に所蔵されていたため、名声のある儒者や研鑽を積んだ学者を著作東観とし、国史を執筆させた[21]。「著作」の名はこれに由来している。(著作郎は)魏のときは中書省に所属していた[22]。晋の武帝のとき、繆徴が中書著作郎となった。元康年間、秘書の所属に改め、のちに独立させられて著作省とされたが、なお秘書の所属とされた[23]。著作郎は大著作といい、もっぱら史官の職務をおこなった。晋の制度では、著作佐郎が最初に就任したとき、必ず一人分の名臣伝を撰述することとなっていた[24]。宋の初め、朝廷が建てられたばかりで、まだ撰述に適当な人物がいなかったため、この制度はとうとう廃れてしまった[25]



――注――

[1]『通典』巻21・職官典3・中書省「中書省の官は由来が古いが、中書省と呼ぶようになったのは魏晋からである(中書之官旧矣、謂之中書省、自魏晋始焉)」。[上に戻る]

[2]中華書局によると『宋書』の各種版本では「中書舎人」につくっているという。中華書局校勘記に従い、「中書監」として訳出する。[上に戻る]

[3]『太平御覧』巻220・職官18・中書令引『応劭漢官儀』「左右曹は尚書事を受け持っていた。前世(前漢)の文人は、中書が右(=西)省(?)に勤務(?)していたことから、中書のことを右曹とか西掖などと呼んだ(左右曹受尚書事、前世文人、以中書在右、因謂中書為右曹、又称西掖)」。[上に戻る]

[4]『通典』巻21・職官典3・中書令では以下の文章がつづいている。「蕭望之以為中書政本、宜以賢明之選、更置士人、自武帝故用宦者、掌出入奏事、非旧制也。・・・成帝建始四年、・・・更以士人為之、皆属少府」。[上に戻る]

[5]『三国志』巻14劉放伝「黄初初、改秘書為中書、以放為監、資為令」とあり、曹丕は曹操時代の秘書を中書に改称したらしい。要するに本書で中書の本来の職務とされている「尚書奏事」をふたたび職掌とするようになったということ。『通典』中書令「文帝黄初初、・・・以秘書左丞劉放為中書監、右丞孫資為中書令、並掌機密。中書監、令、始於此也。及明帝時、中書監、令、号為専任、其権重矣」。
 これ以降、中書令、中書監の記述がないので、『通典』より補足しておく。西晋でも曹魏同様、中書監と令は一人ずつ置かれていた。東晋では散騎省に併合されたこともあったらしいが、すぐに復置されたらしい。彼らの職務は詔などの文書の作成であった。尊崇される地位にあったので、「鳳凰池」と呼ばれることもあったらしい(荀勖がそういうふうに呼んだらしい)。『通典』中書令「晋因之、置監、令一人、始皆同車、後乃異焉」、「東晋嘗併其職入散騎省、尋復置之」、「魏晋以来、中書監、令掌賛詔命、記会時事、典作文書。以其地在枢近、多承寵任、是以人固其位、謂之鳳凰池焉」。また『太平御覧』巻220・職官18・中書令引『晋令』「中書為詔令、記会時事、典作文書也」。
 なお、中書監と令ではどっちがえらいのかというと、中書監のがえらいように見えそうですが、ちょっとよくわからんですね。前引の『通典』にあるように、西晋では当初、車に差別がなかったらしいから、それまでは礼的待遇に差異はなかったのかもしれない。それ以降はよくわからないが、本書では中書令→中書監の順番で記述されているものの、他書では「中書監令」といった書き方もよく散見するし、梁の天監改革では中書監=15班、中書令=13班とされているので、中書監のがえらかったのかもしれない。[上に戻る]

[6]『通典』巻21・職官典3・中書侍郎の原注に通事郎の職務について、「『魏志』によると、詔の起草を職務とし、漢の尚書郎に相当する(魏志曰、掌詔草、即漢尚書郎之位」とあるが、かかる一文を『三国志』から発見できていない。見つけた人は教えて欲しい。[上に戻る]

[7]原文「黄門郎已署事過通事乃奉以入為帝省読書可」。中華書局校点本の整理者は「黄門郎已署事過、通事乃奉以入、為帝省読書可」と読んでいるが、非常に読みにくい。一方、『晋書』の校点者は「黄門郎已署、事過通事乃署名。已署、奏以入、為帝省読、書可」(巻24職官志)と読んでおり、文章としてはこちらの校点のほうが読みやすいので、本書原文も「黄門郎已署、事過通事、乃奉以入、為帝省読、書可」と読むことにする。『晋書』の記述はとても丁寧で、黄門郎のチェック・署名→通事郎へ、通事が確認したら署名→皇帝のところへ行って読み上げ、裁可をもらう、と過程を説明してくれている。
 なお原文の「奉」は『晋書』『通典』では「奏」につくっている。言わんとするところはどちらでも変わらんとは思うが。[上に戻る]

[8]『晋書』職官志はこの中書侍郎改称に触れて、「中書侍郎蓋此始也」と記述している。[上に戻る]

[9]東晋の中書侍郎については、『通典』中書侍郎に「其職副掌王言、更入直省五日、従駕則正直従、次直守」とあり、文書の作成が職掌であること、交代で五日間西省に当直勤務すること、皇帝外出時には正直が車に同乗し(?)次直が護衛することが記述されている。「正直」「次直」については訳注(10)の注[1][29]を参照。[上に戻る]

[10]『通典』巻21・職官典3・中書舎人には「魏置中書通事舎人、或曰舎人通事、各為一職」とあり、曹魏のときにすでに通事舎人が置かれたことがあったらしい。[上に戻る]

[11]『通典』中書舎人「晋江左、・・・掌呈奏案章。後省之〔通事舎人〕。而以中書侍郎一人直西省、即侍郎兼其職、而掌其詔命。宋初、又置中書通事舎人四員、入直閣内、出宣詔命。凡有陳奏、皆舎人持入、参決於中、自是則中書侍郎之任軽矣」。また『通典』中書侍郎によれば、劉宋の中書侍郎は散騎常侍より登用していたらしい。「宋中書侍郎、・・・用散騎常侍為之」。
 東晋で通事舎人が廃されていた時期は中書侍郎が「西省」に出向して舎人の仕事を兼務していたという点について、『宋書』巻60王韶之伝に関連する記述が見える。「晋の皇帝は孝武帝以降、いつも宮殿にこもっていた。武官(禁軍?)の主書(本文後文の中書主事のことなのかもしれない)が宮中で文書の取次をおこない、中書省の官一人に下達文書の作成をおこなわせた。後者は西省で仕事をしていたので、西省郎と呼ばれた(晋帝自孝武以来、常居内殿、武官主書於中通呈、以省官一人管司詔誥、任在西省、因之西省郎」。ここで言及されている西省郎こそ中書侍郎のことを指すのであろう。[上に戻る]

[12]中書は当初より「尚書事」のために設置され、その機能が結局魏晋以降も継承された官であったらしい。前漢では少人員、後漢では置かれず、曹魏文帝から常設されるようになる、と。しかし、この「尚書事」がいつかブログで書いたように、「尚書から送られてくる文書を決裁する業務」を指すと考えてよいのかは自信がない。通事郎の仕事が本文中に出てくるが、文書を皇帝のところに持っていく取次業務などのことを指して「尚書事」と言っているんじゃないかという気がしてならない。散騎のところでも「尚書事をつかさどる」って記述があって、そのときはなんも思わずスルーしていたのだが、そもそもこの「尚書事」の代表的な役職は言うまでもなく録尚書なわけで、そんでその録尚書は後漢からほぼ常設に近い扱いなわけでしょ。そのうえに常設の中書を創設しちゃいますかね。皇帝へ文書を持っていくのは元来は尚書の仕事なのだが、それを中書にやらせることにした、ってことなのかな。実際、本文にはあまり記述されていないが、『晋書』職官志や『通典』では中書の職務を文書の作成としている。これはまさに漢代の尚書の仕事だったわけで。そういう意味では、たしかに中書は「尚書の事」を仕事にしているんですよね。かりにその解釈が通るのであれば、後漢時代に中書が置かれなかったのは、尚書がその仕事をちゃんとやっていたということだろうし、曹操が置いた秘書令もやっぱりそういう意味での「尚書事」をおこなっていたということでしょうね。[上に戻る]

[13]『太平御覧』巻233・職官部31・秘書郎に引く『沈約宋書』に「秘書郎は四人、後漢の校書郎に相当する(秘書郎四人、後漢校書郎也)」とある。百官志の佚文か。
 校書郎および秘書郎については本文に詳しい記述がないので、『通典』から補足しておく。
 後述するように、後漢末に王朝の蔵書を管理する秘書監が置かれたものの、それ以前の後漢初期から管理業務を担当する者は存在した。それが校書郎と呼ばれる者たちである。
 後漢の蔵書庫としては東観、蘭台が知られているが、これらは書庫であると同時に国史を執筆する場所でもあった。漢朝は郎や郎中のなかからメンバーを選抜して、蔵書(主に経書であろうと考えられる)の文字校正を研究する仕事や、国史編纂業務をおこなわせた。書物の校正がメインのお仕事、ということで、彼らは校書郎、校書郎中と呼ばれた。
 注意すべきなのが、校書郎は定員化されて官として設けられていたわけではないということだ。とくにやることがなくてヒマな郎のうち、ついでにそういうことをやっておけと命じられた郎がいたってことで、そんであだ名みたいに校書郎って呼ばれるようになったのだと。
 『通典』によると、魏では秘書校書郎が置かれたらしいが、晋、宋では設置の形跡がないという。晋の武帝は少なくとも秘書郎を四人置いたことがわかっているので、晋になって秘書郎に改名されたのではないだろうか。つまり晋以降の秘書郎は、系譜的には漢代の校書郎を継承するものであると考えられる。
 晋代の秘書郎は「中外三閣」に所蔵されてい書籍の校訂作業に従事していたという。また一方では、武帝期に蔵書が甲乙丙丁の四つに分類されたが、秘書郎中(秘書郎のボス)四人で一つずつ責任を負わせたとか。
 余談だが、井上進氏の推測によると、この武帝の四部分類で分類方針を定めたのは荀勖(『晋中経簿』)であったらしい。『隋書』巻32経籍志一によれば、甲部は「紀六芸及小学等書」、乙部「古諸子家、近世子家、兵書、兵家、術数」、丙部「史記、旧事、皇覧簿、雑事」、丁部「詩賦、図讃、汲冢書」で、のちの四部分類法でいえば経・子・史・集に相当する。井上進「四部分類の成立」(『名古屋大学文学部研究論集』史学45、1999年)参照。
 宋、斉の時期は、秘書郎の定員は四人になった。秘書郎は「美職」であったとのことで、「甲族」の起家官であったのだという。とはいって、それは仕事に人気があったわけではなく、キャリアから見たときに起家官だとおいしかったにすぎないようだ。たんに次の異動を待つだけの官で、就任10日くらいで次の官に移ったのだという。宮崎市定氏は「西晋時代には別にこれが起家の官だとは定まって居らず、単に貴族が就職を望む官であったらしい。・・・東晋以後の例で見ると、何か特別な理由がないと、容易には秘書郎では起家できなかったらしい。その稀少価値がいよいよ秘書郎の声価を高めたであろう。・・・郷品二品、起家六品ということが別に珍しくなくなると、いかなる六品官で起家するかということに競争の中心が移り、争って秘書郎起家を希望する。そこで秘書郎で起家する者が出るようになれば、その家が一流貴族であることの証明になる」と述べておられるが(『九品官人法の研究』中公文庫、1997年、pp. 250-251)、的を得ていると思う。
 なお、秘書郎のような官を、とくに実務に煩わされず、基本的にはヒマで責任が軽い文化的な官と人文学者が言ってしまうとわりかしひでー自虐というかなんというか。興味深いことに、後漢時代、校書郎は「学者」から羨望された地位であったらしく、東観のことを「老氏蔵室」「道家蓬莱山」と呼んだという。蔵書に優れた非常にレベルの高い環境で好きなだけ研究できるうえに、王朝から給料までもらえるという、そりゃあ天国だよね。ヒマなやつにはヒマなんだろうが、ヒマじゃない人にはぜんぜんヒマでなかろうて。まあ研究が進んじゃって、南朝では漢代ほどやることがなくなってしまった、というのはあるかもしれないけどね。学問的なものも金と地位だなあ。
 というわけで、王朝の蔵書を管理、校訂する官として秘書郎がいました、と。
 『通典』巻26・職官典8・秘書郎「後漢の馬融は秘書郎になると、東観に行って書物の校正をおこなった。魏武帝が魏王国を建てると秘書郎を設けた。・・・晋の秘書郎は中、外、三閣の書籍を管理し、校正に従事していた。・・・秘書郎中とも呼んだ。武帝は秘書の蔵書を甲乙丙丁の四つに分類し、四人の秘書郎中に一つずつ担当させた。宋、斉の秘書郎は定員四人で、とりわけ名誉的な官とみなされており、(定員は?)すべて甲族の起家官であった。(秘書郎は)次の任命を待つだけのつなぎで、おおよそ就任して10日で次の官に移った(後漢馬融、為秘書郎、詣東観典校書。及魏武建国、又置秘書郎。・・・晋秘書郎掌中外三閣経書、校閲脱誤。・・・亦謂之郎中。武帝分秘書図籍為甲乙丙丁四部、使秘書郎中四人各掌其一。宋、斉秘書郎皆四員、尤為美職、皆為甲族起家之選、待次入補、其居職、例十日便遷」。
 『通典』巻26・職官典8・秘書校書郎「漢の蘭台と後漢の東観はどちらも蔵書庫であり、同時に(国史を)執筆する場所でもあった。多くの当時の文人たちに、それらの書庫で書物の校正をおこなわせていた。そのため、(漢代には)校正の仕事があったのである。のち、蘭台には令史が18人置かれた(が、これらがその校正職である)。〔原注:蘭台令史は秩百石、御史中丞に所属した。〕また、(後漢では)ほかの官に就いている者を東観に行かせ、秘書の蔵書を校正させたり、歴史的な文書を書かせていた。このように、(漢代には)校正の仕事があったのではあるが、官として定まっていたわけではなく、郎にその仕事をさせていた。そのためそのような郎を校書郎と呼ぶようになった。郎中である場合は校書郎中と呼んだ。当時、校書郎は尊重されて、学者たちは東観を『老氏蔵室』『道家蓬莱山』と呼んだ。魏になってはじめて(官化されて)秘書校書郎が置かれた。晋、宋以降は設置の形跡がない(漢之蘭台及後漢東観、皆藏書之室、亦著述之所。多当時文学之士、使讐校於其中、故有校書之職。後於蘭台置令史十八人。〔秩百石、属御史中丞。〕又選他官入東観、皆令典校秘書、或撰述伝記。蓋有校書之任、而未為官也、故以郎居其任、則謂之校書郎。以郎中居其任、則謂之校書郎中。当時重其職、故学者称東観為老氏蔵室、道家蓬莱山焉。至魏、始置秘書校書郎。晋、宋以下無聞)」。
 『太平御覧』巻233・職官部31・秘書郎引『晋令』「秘書郎掌外三閣経書、覆省校閲、正定脱誤」、『太平御覧』巻224・職官部32・校書郎引『晋令』「秘書郎掌中外三閣経書、覆校闕遺、正定脱誤」。[上に戻る]

[14]桓帝時代の秘書監は秘書(後述の注を参照)に所蔵されている書籍の校正業務を管轄していた。太常に所属していたという。『太平御覧』巻233・職官部31・秘書監引『東観漢記』「桓帝延嘉〔ママ〕二年、初置秘書監。掌典図書、古今文字、考合異同」。『通典』巻26・職官典8・秘書監「桓帝延熹二年、始置秘書監一人、掌典図書古今文字、考合同異、属太常」。[上に戻る]

[15]『通典』秘書監に曹魏時代のこととして、「初属少府、後乃不属」とある。はじめから秘書が独立していたわけではなかったようだ。[上に戻る]

[16]『通典』巻26・職官典8・秘書丞「其後遂有左右二丞、劉放為左丞、孫資為右丞、後省」。[上に戻る]

[17]『通典』巻26・職官典8・秘書正字に、魏以後の秘書は「掌図籍之紀、監述作之事、不復専文字之任矣」とあり、図書管理、執筆業務もおこなうようになり、漢代の文字校正業務だけではなくなったという。が、漢代より秘書に関係する業務には国史の執筆などもあったので、一概にそうも言えないだろう。魏晋以降の秘書は、たしかに魏晋時代を通して法整備された部署だが、後述するように、そのベースは漢代の伝統を継承しているものなので、実態的には時代間の差異はない。[上に戻る]

[18]後引する『宋書』百官志の佚文に「むかし、漢の武帝が蔵書のスペース(?)をつくり、筆写のための官を設けた。こうして天下の書物はすべて天録閣、石渠閣、延閣、広内閣、秘府に収録された。これらに所蔵された書物のことを秘書と呼ぶ(昔漢武帝建蔵書之冊、置写書之官、於是天下文籍、皆在天録、石渠、延閣、広内、秘府之室、謂之秘書」とある。
 また『通典』秘書監には「漢で書物が保管されていた場所には、石渠閣、石室、延閣、広内閣があり、外府(宮城の外)に所蔵しているものである。また御史中丞は殿中に勤務していたので、蘭台の秘書を管理しており、さらに麒麟閣、天録閣も、内禁(宮城の内)の蔵書庫であった。・・・(魏の)蘭台も書籍を収録しており、やはり御史が管理していた(漢氏図籍所在、有石渠、石室、延閣、広内、貯之於外府。又有御史中丞居殿中、掌蘭台秘書及麒麟、天録二閣、蔵之於内禁。・・・其蘭台亦蔵書籍、而御史掌之)」とある。
 注[13]で晋代の秘書郎は「中外三閣」の書籍を管理していたと言及し、あえて「中外三閣」を特定していなかった。井上進氏は『隋書』経籍志の「蔵在秘書中外三閣」を「蔵して秘書、中(中書)、外(蘭台)三閣に在り」と読んでいるが、この理解には疑問が残る。中書に行政文書は保管されていたと思うが、書物はどうであろうか。また『隋書』のこの箇所は「蔵して秘書の在るところ、中外三閣なり」とも読めるのではないか。そしてその場合、「中、外、三閣」と読むのではないだろうか。蘭台は変わらず宮城中にあったでろうから「中」。「外」は秘書省、というのも『通典』秘書監に晋代のこととして「掌三閣図書、自是秘書之府、始居於外」とあり、秘書省は「外」にあったことがわかるからである。「三閣」はよく知らないが、漢代の石渠閣やらのように、秘書を所蔵している某閣ってのがあったんでないか。というわけで、私は晋代の秘書郎の「中外三閣」を「蘭台、秘書省、三つの閣」の意で解しておきたい。再考中。秘書の府が外に出たのは恵帝のときで、武帝のときは秘書は中書に合わさっていたが、「中外三閣」を校正する秘書郎としての規定は武帝が定めている。「中外の三閣」と読むのが良いのだろうか。[上に戻る]

[19]『晋書』職官志に「秘書著作之局不廃」とあり、中書省に併合されたといっても、中書の所属下に置かれたと解しておくのがよいかもしれない。
 本文はこれ以降の秘書監については記述していないが、晋の恵帝の永平元年に中書から独立して置かれるようになったらしい。秘書省が「外」に設けられたのもこの時期のことであるようだ。『太平御覧』巻233・職官部31・秘書監『王隠晋書』「恵帝永平元年詔云、秘書監綜理経籍、考校古今、課試署吏、領有四百人、宜専其事」、『晋書』職官志「恵帝永平中、復置秘書監、其属官有丞、有郎、并統著作省」、『通典』秘書監「恵帝永平中、・・・掌三閣図書、自是秘書之府、始居於外」。[上に戻る]

[20]原文は「佐郎」。後文では「著作佐郎」と記されているが、『晋書』では「佐著作郎」と記述されている。『通典』巻26・職官典8・著作郎に「宋、斉以降、ついに『佐』の字を下に移し、著作佐郎と呼ぶようになった。国史の編纂、起居注の整理をおこなう(宋斉以来、遂遷「佐」於下、謂之著作佐郎、亦掌国史、集注起居)」とあるので、晋代では「佐著作郎」が正式な名称であったらしい。[上に戻る]

[21]『通典』著作郎に「名声のある儒者や研鑽を積んだ学者を東観に行かせ、国史を編纂させた。彼らを『著作東観』と呼び、みな本官を有しながらこの業務をこなしていた。著作の仕事はあったが、専門の官はまだ置かれていなかった(使名儒碩学入直東観、撰述国史、謂之著作東観、皆以他官領焉、蓋有著作之任、而未為官員也」とあるのに従い、本文を訳出した。
 「曹操が秘書令を置いた」からここの部分まで、本文にはかなりの脱落があるらしく、『太平御覧』の引く『沈約宋書百官志』には佚文が多く見られる。以下に引用する。
 「魏武帝が魏王国を建てると秘書令と左右丞が置かれた。黄初年間、秘書を分割して中書を独立させたが、秘書の部署がなくなったわけではない。むかし、漢の武帝が蔵書のスペース(?)をつくり、筆写のための官を設けた。こうして天下の書物はすべて天録閣、石渠閣、延閣、広内閣、秘府に収録された。これらに所蔵された書物のことを秘書と呼ぶ。成帝、哀帝の時代、劉向、劉歆の父子に本官から出向させて蔵書管理、校正の仕事をおこなわせた。後漢になると書籍は東観に保管され、校書郎が置かれた。また著作郎もあった。〔原注:傅毅、馬融のような人々は多く校書郎となった。また蔡邕は尚書から東観著作に選ばれている。蔡邕は尚書郎であったのに東観著作にゆき、また議郎にも任じられたから、これが著作郎を指していたことがわかる(?)〕また碩学の学者や高官は劉向父子の故事に倣い、よく蔵書の校正などをおこなっていた。ある者は東観で書物の校正をおこなうだけで、ある者はついでに『(東観)漢記』を執筆した(魏武建国有秘書令、左右丞。黄初中、分秘書立中書、而秘書之局不廃。昔漢武帝建蔵書之冊、置写書之官、於是天下文籍、皆在天録、石渠、延閣、広内、秘府之室、謂之秘書。至成哀世、使劉向父子以本官典其事、至于後則図籍在東観、有校書郎。又有著作郎。〔傅毅、馬融之徒、多為校書郎。又蔡邕従尚書選入東観著作。邕既已為尚書郎、而入東観著作、復拝議郎、知是著作郎也。〕又碩学達官、往往典校秘書、如向歆故事。或但校書東観、或有兼撰漢記也)」。[上に戻る]

[22]曹魏時代の著作郎は明帝の太和年間に置かれ、中書省に所属していたらしい。上の百官志佚文だと、漢代から著作郎が置かれていたかのごとくだがもちろん実際はそうではない。この明帝のときにはじめて著作郎が置かれたようだ。注[20]の『通典』にあるように、国史の執筆、その資料となる起居注の執筆整理を専門とする。『晋書』職官志「魏明帝太和中、詔置著作郎、於此始有其官、隷中書省」。[上に戻る]

[23]『晋書』職官志が詳しい。「元康二年、詔曰、著作旧属中書、而秘書既典文籍、今改中書著作為秘書著作。於是改隷秘書省。後別自置省而猶隷秘書」。ややこしいので整理しておく。【魏武帝】秘書(中書の仕事をおこなう)→【文帝】中書省設置、秘書監設置→【明帝】著作郎設置(中書省所属)→【晋武帝】秘書監を廃止、秘書の業務は中書省に統合→【恵帝、永平元年】秘書監設置、秘書を中書省から独立させる→【恵帝、元康2年】著作郎の所属を中書から秘書に改める→【時期不明】著作省を設置、ただし秘書の所属は変わらず。
 秘書が中書に統合されたり、著作が長いあいだ中書の所属下だったりしたのは、中書が文書作成業務を旨としていることと関係しているだろう。それに秘書もわざわざこれだけで独立させてもなあというような消極的要因も働いていたのかもしれない。[上に戻る]

[24]『史通』巻9・内篇・覈才の引く『晋令』「国史之任、委之著作、毎著作郎、初至、必撰名臣伝一人」。
 『世説新語』賞誉篇にはこのことにまつわる話も収録されている。「謝朗は著作郎になると、『王堪伝』をつくろうと思ったが、王堪がどんな人物であったか覚えていないので、謝安に訊いたところ、『王堪もひとかどの人物とみなされていた。彼は王烈の子、阮瞻と姨兄弟〔互いの妻が姉妹〕、潘岳といとこ〔王堪の父の姉妹が潘岳の母〕にあたる。潘岳の詩に「きみの母親はわたしのおば/わたしの父はきみのおじ」とある。許允の婿である』と答えた謝胡児作著作郎、嘗作王堪伝、不諳堪是何似人、咨謝公。謝公答曰、世冑亦被遇。堪、烈之子。阮千里姨兄弟、潘安仁中外、安仁詩所謂、子親伊姑、我父唯舅。是許允婿)」。
 私的な経験で恐縮だが、以前に新聞社へインターンに行った先輩が、「新人は最初高校野球の記事を書かされるらしい、そこで記事の書き方を覚えるんだって」と話していたのを思い出してしまう。その話の真偽は不明だが、就任直後の著作郎に「別伝」を書かせるというのも、史書の文体を覚えてもらうこと、どういうふうに情報を集め整理するのか体験してもらうこと、等々のねらいがあったのだろう。もちろんこれに加えて、こうした「別伝」は国史の資料に転用可能なのだから情報が新鮮なうちにまとめておく効果もあっただろう。
 【以下追記2017/10/25】『史通』外篇・史官建置「旧事、佐郎職知博採、正郎資以草伝、如正佐有失、則秘監職思其憂。其有才堪撰述、学綜文史、雖居他官、或兼領著作。亦有雖為秘書監、而仍領著作郎者」、同「案晋令、著作郎掌起居集注、撰録諸言行勲伐旧載史籍者」。[上に戻る]

[25]ここで言及されている「別伝」が『世説』注なんかでよく引用されている「別伝」と同一であったかはわからないが、著作郎の作成した「別伝」が含まれている可能性は高いだろう。実際、劉宋期の人物の別伝はあまり見た覚えがない。矢野主税氏は、「魏から晋にかけての頃に、自分の一門或は親しき人々の為に、その人の伝を作る風習が広く行われていた」と指摘し、「個人の伝記が作られた場合、それらの中に別伝と呼ばれたものと、そうでない場合とがあったこと明かである。・・・兄弟、或は母子の如き一家或は一門の如き関係の人々による伝記作製では、別伝と呼ばれることはあまりなかったのではないか、・・・別伝は、むしろ伝をつくられる人物とは直接的関係の少ない人々によって作られることが多かったのではあるまいか」と推測している。もっとも、著作郎による著述の可能性にまでは及んでいないが。矢野「別伝の研究」(『社会科学論叢』16、1967年)pp. 21、27。
 「別伝」がどれだけの情報価値を有するのかわからないが、記録はあればあるほど後世の整理者に役立つわけで。その意味で、その後の王朝に継承されなかったのは残念だなあ。宋、斉、梁、陳にも、もちろん正史以外の史書が存在していたわけで、決して正史のみというわけではなかったのだけど、別伝の制度が活きていれば、もう少し状況は変わっていたかもね。[上に戻る]



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