『芸文類聚』って、正史などの文献史料では見ることができないマニアックでおもしろい文章がたくさん収められているんですよ。
今回はそのなかでも三国志関係のものを二つ紹介してみようかなって。『芸文類聚』は詳しく調べてみるとおもしろいよ!っていう布教的なのをしたくて。
本記事においては(というか私は基本的に)『芸文類聚』は1980年に中文出版社から出版された活字本を使用する。この活字本は南宋の紹興年間に刊行されていた刻本を底本に、明代の数種類の刻本を利用して校訂したものである。
さて、最初に取り上げたいのは『芸文類聚』巻12・帝王部2・漢昭帝に引用されている曹魏・文帝の「周成漢昭論」。周の成王と漢の昭帝はどっちが優れているだろうっていう、そんなことを論じています。
とても気になりませんか? 私はとても気になってしまって、とても興奮してしまいました。どうして彼はこんなしょーもなくてどーでもいいことを論じているんでしょう? どうして彼はこんなことに頭を使ってしまったのだろう? いったい何が彼をここまで衝き動かしてしまったのか・・・いや馬鹿にしているわけではないんですが(失礼)、多少知的に飾り立てて言ってみれば、彼がこのような言論を発した当時の言論状況・文脈みたいなものは何であったのでしょう。この二人を比較するということは、当時においてはそれほど重い意味を有していたことなのでしょうか。
そうしたことを念頭に置きつつ、見てみましょう(「周成漢昭論」は『太平御覧』巻89・皇王部14・孝昭皇帝にも引用されているが、引用文にさしたる違いはないので、『芸文類聚』をもとに訳文を作成する)。
ある者たちは周の成王を漢の昭帝と比較しているが、みな成王が優れ、昭帝が劣っていると論じている。(しかし)私は以下のように考える。周の成王は前代の聖王〔原文「上聖」、後文とのつながりから勘案して、成王の父・武王を指していると考えられる〕のうるわしい気を(受け継いで)身に備え、賢母〔一説に成王の母は邑姜という、『史記集解』に引用された服虔の左伝注によると太公望の娘〕から妊娠中の教育をほどこされ[1]、周公が太傅、召公が太保、呂尚が太師となっ(て幼少で即位した成王を助け)た[2]。すでにしゃべれるようになったのに行人〔使者を職務とする官〕が代弁して話し、もう自分で靴がはけ(自分の意志で歩け)るのに相者〔帝王のお付役みたいな〕が付き添って歩くちやほやぶりで[3]、目は立派なものに慣れ、耳は美しい音を満足に聴くほど。奥深い流れに身をひたし、清らかな風で沐浴するとはこのことである。それでも(成王には)問題があった。管叔と蔡叔の讒言を聴きいれて周公を東に左遷したため、天は怒って(大風を起こして秋の稲をすべてなぎ倒し、王の過ちに対する)咎を示した。(周公が武王の病の快癒を祈って身代わりになろうとした儀式のさいの告文を入れた)金縢〔金属製の封緘〕の箱を開いて(告文を知り)、(はじめた知ったものなのでその詳細について)史官(?)に聴き、そうしてようやく(周公の真実の忠誠を)悟ったのである[4]。周公の聖徳を解さず、金縢の箱に入っていた告文を信頼する、なんと道理に暗いことか。一方、昭帝はというと、そもそも父は武王(のような人)でないし、母は邑姜(のような人)でもない。保育したのは蓋長公主〔武帝の娘で蓋侯の妻、のちに燕王や上官桀らと謀叛を企図した〕で、補佐役だったのは上官桀と霍光である。聖人の気を受け継いではいないし、胎児のときに教育を受けていないし、保育した者に仁や孝の性質が備わっていないし、補佐した者に国家を栄えさせる政治的手腕もない。つまり、宮中で生まれ、婦人の手で育てられたのだが、徳と性は完成され、振る舞いと身体はともに成熟したわけで、年齢27の若年にして聡明であり、霍光を批判する燕王の上書が嘘だと見ぬき、霍光の忠誠を解していた。金縢の箱を開き、史官を信じてからようやく理解したなどというようなことが昭帝にあっただろうか。昭帝も成帝も同じ年齢で即位し〔『漢書』によると昭帝は8歳で即位〕、代が改まっても教化が維持され、臣が一新しても政治はよくおさまり、音楽を改定しても唱和の調和が取れていたが、漢ばかりが劣っていたわけではなく、周ばかりが優れていたわけではない。(或方周成王於漢昭帝、僉高成而下昭、余以為周成王体上聖之休気、稟賢妣之貽誨、周召為保傅、呂尚為太師、口能言則行人称辞、足能履則相者導儀、目厭威容之美、耳飽仁義之声、所謂沈漬玄流、而沐浴清風者矣。猶有咎悔、聆二叔之謗、使周公東遷、皇天赫怒、顕明厥咎、猶啓諸金縢、稽諸国史、然後乃悟、不亮周公之聖徳、而信金縢之教言、豈不暗哉。夫孝昭父非武王、母非邑姜、養惟蓋主、相則桀光、体不承聖、化不胎育、保無仁孝之質、佐無隆平之治、所謂生於深宮之中、長於婦人之手、然而徳与性成、行与体并、年在二七、早智夙達、発燕書之詐、亮霍光之誠、豈将有啓金縢、信国史、而後乃寤哉。使夫昭成均年而立、易世而化、貿臣而治、換楽而歌、則漢不独少、周不独多也。)
間接的に霍光と上官桀をディスるのやめろ! と思ったのは私だけではないはずだ。
さて、曹丕はどうしてこの二人を比較したのだろう。彼の論述によると、彼以外にも二人を比較する風潮があったみたいだが。
ということで探してみると、なんと早いことにすでに後漢初期の班固によって比較がなされているんですね。『漢書』巻7昭帝紀・賛曰、
むかし、周の成王は幼児にして王位を継いだが、(在位中に)管叔と蔡叔など四国による流言の事件があった。昭帝も幼年で帝位につき、やはり(在位中に)燕王、蓋長公主、上官桀の謀叛があった。(それでも)成王は周公を疑わず、昭帝は霍光に政治を任せた。成王も昭帝も時期に適した判断をしたので名声を立てたのである。なんと立派なことか。(昔周成以孺子継統、而有管、蔡四国流言之変。孝昭幼年即位、亦有燕、蓋、上官逆乱之謀。成王不疑周公、孝昭委任霍光、各因其時以成名、大矣哉。)
もしかするとこれより早い漢代の記述もあるかもしれないが、まあ班固の時点ですでに見えているってことが確認できればいいでしょう。まして『漢書』なんだから、後漢・魏・晋の知識人ならみんな読んでいるだろう。
で、注意してほしいのだが、班固においては確かに二人は比較されている。だが優劣を定めるための比較ではない。昭帝は成王に似ていると論じるために比較しているのだ。
曹丕の論を読んだあとでは実感が湧かないだろうが、実際、周の成王は評判の高い君主である。周朝安定の基礎は彼が築いたんだみたいな、そんな感じの言説もどっかにあったような気もするくらいわりかし褒められている。昭帝を成王になぞらえるのは、昭帝に高い評価を与えているということなんですよ。漢の臣下だし漢の国史を書いているわけだから当然のことですが。
ところで、『芸文類聚』(および『太平御覧』)には丁儀の「周成漢昭論」も引用されている。内容は大したことはなくて、曹丕と同じく昭帝の方がスゲェと言っている感じ。問題としている論点も曹丕と同じなんで、媚びているとまでは言えないかもしれんが、意識はしているでしょう、ともかく両者の「周成漢昭論」は時期を同じくして出されたものだろう。丁儀は文帝即位まもなく誅殺されているので、曹丕の論も即位前のものと見て良いのではないでしょうか。
これらの点を確認したうえで曹丕の論をちょい掘り下げてみよう。曹丕の論は二つの点で「開かれている」ように思われる。
まず漢の皇帝を遠慮なく論評している点。班固の場合、彼は昭帝を褒めたい前提で比較をしているに過ぎない、なので比較といってもあっさいよね。もちろん、漢の臣だからといって漢の皇帝を批判してはならん道理はなく、武帝なんか前漢のころからえらい評価の分かれる皇帝でよく知られている。しかし、わざわざ成王と第三者的観点から比較をおこない、「うん、昭帝陛下は大したことはありませんね!」なんて言い出す漢臣がいるとも思えない。
それに比べ曹丕の場合、結論的には昭帝を高く買っているが、彼なりの基準を持ち出して比較的公平に評価を下そうとしている。というか、班固と比較する目的が明らかに異なっている。彼の場合は政治的目的があるように見えないのである。
班固の時代においてはおそらく許されなかったであろう、こうした比較の議論も、後漢末の時代においてはそうした方向へと開かれていた。魏晋時代といえば、儒教から解放され比較的自由な学問的精神が芽生えていたと主張されることがある。この曹丕の論もそうした傾向の一端なのだ! ・・・なんてもちろん、無条件でそうは思いません。曹丕に政治的な意図がなかったとしても、それでもこの論が後漢末に語られたということは高度に政治的意味を有すると思う。いまだ漢の時代であるはずなのに、その漢の皇帝を政治的に扱うつもりがなく、自らの知的関心に基づいて議論の素材にしてしまう――私はとても政治的な意義を認めてしまうのですがどうでしょうか。
もうひとつ興味深い点が、周を無条件に良いとしないところ。前述したが、成王は決して評判の低い王ではない。まして周ときたら理想視される王朝。そういう政治的に慎重に扱われるところを彼は平気で自分の議論の材料に使ってしまうんですね。
こういったあたりに彼のしたたかさがあるような気がしてならんですが、ちょっと深読みしすぎだろうか。あまり深刻に考えんほうがいいかもしれん。
さて、もうひとつ論を取りあげて終わりです。西晋の張輔という人の「名士優劣論」というやつで、曹操と劉備を比較したものです。『芸文類聚』巻22・人部6・品藻に引用されている。『太平御覧』巻447・人事部88・品藻下にも引用されており、双方での字句の異同が激しいが、『芸文類聚』のほうが情報量が多いので、『類聚』をベースにして部分的に『太平御覧』で補っておきたい。『御覧』から補った箇所は[ ]で示す。
世の人々はみな、魏武帝は中原を支配していたから劉備より優れていると言い合っている。(しかし)私は劉備のほうが優れていると思う。(なぜかを以下に述べよう。)そもそも戦乱を収める君主というのは、将を確保することに第一義を認めるものである。自分ひとりだけで奮戦してもどうにもならないからだ。世の人々は、劉備は呂布に奇襲されて武帝のもとへ逃亡し、また大軍を起こして長江を下ったのに陸孫にボロ負けしたと(強調)している。しかし、呂布に奇襲され(敗走し)たといっても、武帝が徐栄に大敗して、馬を失い身体に傷を負ったときの危機的状況と比べたらマシである。劉備は徐州に戻っても勢力を安定させることができないままで、荊州にいたときは、劉表親子が彼の作戦を採用せず、曹操に降ってしまった。彼の手勢の歩兵と騎兵は数千にも満たず、武帝の大軍によって敗走させられた。しかしこれも、武帝が呂布の騎兵に捕まり、(そこからなんとか逃れると)火を突っ切っ(て門から逃げ)た急場と比べてればマシである[5]。陸孫にボロカスにされたのだって、武帝が張繍に苦しめられ、単独で逃亡し、二人の子〔曹昂と曹安民?〕を失ったのと比べればマシである。[もし漢の高祖が彭城で(項羽に急襲されたときに)戦死していたら、世の人々は彼を項羽に遠く及ばないと評しただろう。(それと同様に)武帝が宛で戦死していたら、張繍に及ばない人物だと評されていたであろう。]しかも(武帝は)他人の才能を嫌い、残忍な振る舞いを平気でおこない、他人を親任することがない。董昭や賈詡はいつも愚かなフリを装うことで禍から逃れることができ、荀彧や楊脩のような者たちは多く殺されてしま[い、孔融や桓瞱らは恨みを買ってしまったので殺されてしま]った[6]。[有能な将軍に戦争を任せることができず、]30余年の軍事活動のあいだ、必ず自ら軍を統率し、功臣や参謀は諸侯に封じられることもなかった。仁愛は親族に加えられず、恩恵は人民に行き渡らなかった。劉備は威厳を備えながら配慮深さもあり、勇敢でありながら義を重んじ、度量は寛大で遠謀を抱いていたが、武帝がどうしてこれに匹敵しようか。諸葛亮は政治に精通し、機会に明るく、王佐の才と言える人材である。劉備は強大な勢力を張っていたわけではないが、この諸葛亮の忠誠を得ていたのである。張飛と関羽はどちらも傑物だが、服従させて自在に用いていた。いったい、その主君の明暗は人材を用いることができるかどうか、有能無能は部下を使うことができるかどうかにかかっている〔原文「明闇不相為用、能否不相為使」、よく読めないのだが、訳文のようなニュアンスだろうと思うので意訳した。音韻かなんかで、文末にくるはずの「不」を真ん中に移したのかな?〕。武帝は安定して強大な勢力を有していたにもかかわらず、人材を(十分に)用いることができなかった。まして、(劉備のような)不安定な情況で、弱小の勢力しか抱えていない土地であればなおさら(活用することができなかった)であろう。もし劉備が中原を支配していれば、周王朝の興隆にも匹敵する(繁栄を得た)であろうし、その場合、(彼のもとに参じた英傑は)諸葛亮、張飛、関羽の三傑にとどまらなかったであろう。(世人見魏武皇帝処有中土、莫不謂勝劉玄徳也。余以玄徳為勝。夫撥乱之主、先以能收相獲将為本、一身善戦、不足恃也。世人以玄徳為呂布所襲、為武帝所走、挙軍東下、而為陸遜所覆。雖曰為呂布所襲、未若武帝為徐栄所敗、失馬被創之危也。玄徳還拠徐州、形勢未合、在荊州、景叔父子不能用其計、挙州降魏、手下歩騎、不満数千、為武帝大衆所走、未若武帝為呂布北騎所禽、突火之急也。為陸遜所覆、未若武帝為張繍所困、挺身逃遁、以喪二子也。[若令高祖死於彭城、世人方之不及項羽遠矣。武帝死于宛下、将復謂不及張繍矣。]然其忌克、安忍無親、董公仁賈文和、恒以佯愚自免、荀文若楊徳祖之徒、多見賊害、[孔文挙桓文林等以宿恨見殺。良将不能任、]行兵三十余年、無不親征、功臣謀士、曾無列土之封、仁愛不加親戚、恵沢不流百姓、豈若玄徳威而有思、勇而有義、寬弘而大略乎。諸葛孔明、達治知変、殆王佐之才、玄徳無強盛之勢而令委質、張飛関羽、皆人傑也、服而使之。夫明闇不相為用、能否不相為使。武帝雖処安強、不為之用也、況在危急之間、勢弱之地乎。若令玄徳拠有中州、将与周室比隆、豈徒三傑而已哉。)
この張輔という人、『晋書』巻60にも立伝されていて、「管仲鮑叔論」など様々な比較論を著しているらしい。伝には「管仲鮑叔論」と「司馬遷班固論」の(おそらく)一部が引用されている。『太平御覧』の引用の仕方を見ると「名士優劣論」という題の文章のなかに「管仲鮑叔論」や「司馬遷班固論」が収録されている、すなわち「誰と誰との比較論」が集積されているのが「名士優劣論」で、『類聚』や『御覧』はそのうちの一部を引用しているようだ。『隋書』経籍志によると『張輔集』という書があったらしいので、そこに「名士優劣論」が収められていたのだろう。
『晋書』張輔伝にも「曹操劉備論」について言及があるのだが、
魏の武帝は劉備に匹敵しないこと、楽毅は諸葛亮に劣ることを論じているが、文字が多いのでここに掲載しない。(論魏武帝不及劉備、楽毅減於諸葛亮、詞多不載。)
と、列伝では割愛されている。しかし上記のように、『芸文類聚』には全文ではないが長文で引用されているので、論の骨格も明瞭に見て取れるようになっている。ありがたいことです。ちなみに『芸文類聚』の同じ箇所には張輔の「司馬遷班固論」、「楽毅諸葛亮論」も引用されている。
さて、私が曹丕の論で展開した推測を適用すればこの張輔も「したたかだ!」ということになるわけですが、時代の雰囲気はちょい違うよね、たぶんそうだよね。後漢末は400年つづいた漢朝がとうとう終わってしまうんじゃないかという、なんというかいろいろな意味で新鮮な時期であったと思う、曹丕の論はそうした時期に漢の神聖性を剥落させてしまうような効能があった(かもしれない)。西晋時代も新しい時代の到来を予感させるものではあったが、漢魏革命、魏晋革命と二度の王朝革命を経験したあとの時代となると、まあそこまで深い意義を読み出そうとしなくてかまわないんじゃなかろうか。
しかし、論の当否はわりとどっちでもいいんですが、場合によってはこの論って危なくないか、政治的に。魏を貶めるのはかまわんのですよ、場合によっては「ダメな魏に代わって晋が天命を受けたのだ」って話にもつながるからね。そっちではなくて劉備側の評論。彼は、劉備はスゲェと言い、劉備のもとに集まった部下も有能なのがいたと言っているだけで、蜀漢の政治的正当性/正統性を認めているわけではない。でも、ifとはいえ、「劉備が中原を支配していたら周に匹敵したであろうに」なんてうっかり口に出していいもんでもないでしょう。
彼は西晋恵帝期を中心に官として活動しており、晩年は河間王顒に仕えている。王朝に比較的近いところにいた人物と見てよいのではないか。そんな彼の論にしてはあまり穏やかじゃない気がするんだよなあ・・・。
以上二つの論を見てきました。わかったことは、私はこの時代を「政治に憚って自由にモノが言えなかった時代」とすぐ想定してしまうことですね。あまり過度にそういう見方をしてはいけないのかもしれない。自戒。
――注――
[1]原文は「稟賢妣之貽誨」。「貽誨(おしエヲのこス)」は子孫のために残した教訓のような意味であり、また『春秋左伝』昭公十年の疏に「生母を母と言い、死母を妣と言う」ともあり、そのためここの文章は「産後まもなく死去した母が遺した教育マニュアルをほどこされて」、のように読むこともできるだろう。ただし、成王の母に関する逸話として『大戴礼記』保傅篇に「周后妃任成王於身、立而不跂、坐而不差、独処而不倨、雖怒而不詈、胎教之謂也」とあり、要約すると妊婦が行動をつつしみ、品行を良くすることによって、胎児に良い影響を与えるという教育術があり、それを「胎教」と呼ぶのだそうだが、成王の母はこの「胎教」を実行した代表的な人であったようだ。管見の限り、成王の母の死没状況は具体的に記されておらず、不明。成王の母の教育となるとこの「胎教」が知られているくらいである。「誨」は「教」と意味が通じるので特に気にしなくて良いが、原文の「貽」は「胎」の誤字なのかもしれない(もっとも、誤字といっても底本では「胎」かもしれないが。つまり校訂者の釈字ミスかもね)。ともかく、訳文では文帝の意に背く可能性もあるが、「胎教」の意で訳出をしてみた。[上に戻る]
[2]原文「周召為保傅、呂尚為太師」。「保傅」は具体的な官名ではなく、もりやく一般の意で取ることも可能だが、『漢書』巻48賈誼伝の賈誼の上疏に「昔者成王幼在繈抱之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師」とあるのを踏まえ、具体的官名として訳出した。[上に戻る]
[3]原文「口能言則行人称辞、足能履則相者導儀」。『淮南子』主術訓の「口能言而行人称辞、足能行而相者先導」が出典だろう。董仲舒の『春秋繁路』離合根篇にも「足不自動而相者導進、口不自言而擯者賛辞」と似たような表現があり、当該箇所の日本語訳を参照して訳出した。坂本具償・財木美樹「『春秋繁露』訳注稿正貫・愈序・離合根・立元神・保位権篇」(『高松工業高等専門学校研究紀要』38、2003年、CiNiiオープンアクセスPDF)pp. 85-88。[上に戻る]
[4]語られている周公の逸話に関しては、原話は『尚書』金縢篇に見える。「史官」のところで(?)をつけたのは、原文では「問諸国史」となっているが、『尚書』や『史記』魯周公世家では「諸史」すなわち史官に問うたと記されているからで、原文の「国史」は「諸史」と同一の意を有しているのか、それとも異なっているのか判別ができない。「国史」の文を尊重したとしても意味を取りにくいので、ここでは「史官」と訳出させてもらった。後文にもう一度出てくる「史官」も原文は「国史」。
周公のこのときの話は様々なバージョンがあったらしく、史料間で細部の情報が異なることがある。武王が死んだとき成王は何歳であったか、周公はいつ東にいったのか、天の災異と金縢開封は周公没後か否か、等々。特に最後の点は訳出にも多少影響がありそうな問題で、『史記』魯周公世家では周公没後として語られているが、司馬貞は「『尚書』では没後として書かれていない!」と反対をぶつけており、『漢書』の顔師古注を見る限り、顔師古も金縢開封を周公没以前のものとして認識しているようである。しかし、『洪範五行伝』(『後漢書』伝51周挙伝・李賢注引)も『史記』と同様の記述をしているようだし、さらに肝心の『尚書』は司馬貞が主張しているほど明確な記述ではなく、没後でも没前でも解釈できるし、『漢書』『後漢書』等の故事の引用例もこれまたどちらでも解釈できる。要するに没後か没前はこの説話においてはそれほど重要な要素ではなく、「金縢を開いてからようやく周公を信じるようになった、そんで天の怒りもおさまった」、このプロットだけが重要だったみたいだ。なので、曹丕もそれほどこの点は気にしていないのではないかと思っています。訳文も没後没前は明言しておかずにしておきます。[上に戻る]
[5]私は調べないとわからなかったので注をつけておきます。これは張邈と結託して兗州を強襲し、濮陽にこもった呂布を曹操が攻囲したときの話である。詳しい話は武帝紀の裴松之注に引く『献帝春秋』に見える。ちくま訳から引用(p. 30)、「太祖が濮陽を包囲すると、濮陽の豪族田氏が内通して来たので、太祖は城に入ることができた。その〔侵入した〕東門に火を放ち、引き返す意志のないことを示した。戦闘になり、軍は敗れた。呂布の騎兵は太祖を捕えたが彼だと知らずに訊ねた、「曹操はどこにいる。」太祖、「黄色の馬に乗って逃げて行くのがそうです。」呂布の騎兵はそこで太祖を放置して黄色の馬に乗った者を追いかけた。門の火はなお盛んであったが、太祖は火を突いて城を出た」。[上に戻る]
[6]桓瞱、字は文林。『後漢書』伝27桓栄伝に附伝されている。本伝中には曹操との関係が特に記されていないのだが、あるブログ記事(http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-56.html)によると、『三国志』武帝紀・建安25年の条の裴注に引く『曹瞞伝』に見える桓邵なる人物と同一人物でないかとの指摘が研究者によってなされているらしい。桓邵は若年時代の曹操を侮蔑していたために曹操の恨みを買ってしまい、後年謝罪したが許してもらえず、誅殺されたという。その研究者の本を所有していないので、どういう根拠でそのような主張をしているかは不明だが、そうだったらまさにぴったりという感じ。[上に戻る]
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