2015年10月4日日曜日

南朝の変人やヴぁすぎ




 劉宋の高祖・劉裕の知恵袋に劉穆之という人がいました。
 劉裕の幼馴染のような間柄で、東晋末年に劉裕が北のほうへ軍事行動を起こしたときは、彼が建康で留守を守って一手に政務を決していた。劉裕からの信頼もかなり厚かったらしいが、激務がたたったためか、劉裕が皇帝になるまえに病没してしまった。劉裕は即位後、その功績を称えて南康郡公に封じている。

 その爵と封国は子孫にも継承され・・・、孫の劉邕にいたる。今回はこの劉邕についてのお話。『宋書』巻42劉穆之伝に附伝されている彼の伝から。

これより以前、郡、県が封国になった場合は(その郡県の)内史や相は国主に対して臣と称し、任期が終わればそれをやめることになっていた。孝武帝の孝建年間になって、はじめてこの制度が改正され、卑称は(臣から)下官に変更され、贈物を贈るように定まった[1]。河東の王歆之はかつて(制度改正以前に)南康相に就いていたが、平素から(国主である)劉邕を軽蔑していた。のちに王歆之と劉邕が元会〔元日における朝廷での儀礼・宴会のようなもの〕に出席したとき、席が隣り合った。劉邕は酒好きだったので、王歆之に言った。「あなたは以前、(私の)臣であったが、現在では一杯の酒も(私に)注げないのかな?」王歆之は孫晧の歌をまねて応答した。「むかしはおまえの臣だったけれど、いまはおまえと肩を並べている。おまえに酒を勧めることはしないし、おまえの長寿を願うつもりもない」。(先是郡県為封国者、内史、相並於国主称臣、去任便止。至世祖孝建中、始革此制、為下官致敬。河東王歆之嘗為南康相、素軽邕。後歆之与邕俱豫元会、並坐。邕性嗜酒、謂歆之曰、「卿昔嘗見臣、今不能見勧一盃酒乎?」歆之因学孫晧歌答之曰、「昔為汝作臣、今与汝比肩。既不勧汝酒、亦不願汝年」。)

 ちょい悲しいお話だが、まあまあまあ。可能な範囲で掘り下げてみましょう。
 まず内史や相は国主に対して「臣」と称した、という点について。「称臣」については尾形勇氏の古典的研究があるが、氏は漢代の「称臣」のパターンを検証したさいに、呉王濞の郎中であった牧乗が「臣乗」と自称している例を挙げている(『漢書』巻51牧乗伝。氏は正確には「陪臣」と称したであろうと指摘している)。もっとも、封国の官吏が国主に臣を称した例はこの一例しか見られないようである。氏は、漢代の「称臣」は皇帝に限定されて用いられており、それは皇帝権力の確立と関係があると論じているが、この一例を例外ないし逸脱とは見なさず、これもまた皇帝権力構造のなかで機能したものであろうと肯定している(尾形『中国古代の「家」と国家』岩波書店、1979、pp. 118-120、156-160)
 最近はいわゆる「郡国制」の理解が深められており、漢初の王(王国)は漢朝(皇帝)からあるていど独立して王国内の行政を執っていたらしい、という側面が強調されている[2]。なので、陪臣が「臣」と自称していた可能性は十分あり、じゃないですかね。とはいっても、「郡国制」秩序が変化していった武帝期以後もそうであったと言えるのかはあんまり詳しくないからわからないが。
 魏晋以降については、徐冲氏により国主への「称臣」があったことが指摘されている[3]
 というわけで、おそらく漢代以来つづいていたと思われる慣習が孝武帝のときに突如改められたわけだけれども、これはいったいどうしてだろう。
 孝武帝といえば、とまずイメージでいうと、皇帝権力の確立に腐心した皇帝、かなと[4]。そんな彼のことだから、どうも「外」が権力をもつことに非常に警戒心を抱いていたらしい。『宋書』百官志の録尚書のところにも次のような記述が見える。

およそ重号将軍や刺史であれば、みな属官の任用を自分の裁量ででき、(皇帝直任官の)任命や(属官に)節を与えることができなかったのみで(それだけで権限が非常に大きく、これに録尚書事を加えると内外の要事を一手に握ることになるので)、宋の孝建年間、権力を朝廷の外〔地方に出鎮する将軍や刺史〕に与えたくなかった孝武帝は、録尚書事を廃した。(しかし)大明年間の末年に復置された。以後、置かれたり置かれなかったりした。訳注(9)

 とりわけ孝武帝が警戒したのはおそらく皇族であった。劉宋は東晋と違い、中央の要職も地方の要衝も皇族を充てる人選をおこなっていた。文帝の元嘉27年の北伐でも、東西各前線への指示は将軍・刺史・都督であった皇族たちがおこなっていたくらいにこの方針は貫かれている。すると、皇族たちが政治的権力をにぎるようになったためか、皇族間のいさかいがぽちぽち起きはじめる。文帝と彭城王義康、文帝と劉劭(元凶)・・・かくいう孝武帝も、父・文帝を殺害して帝位についた兄の劉劭を殺害して即位している。
 孝武帝が皇族への疑心を広げて、封国をもち独自に官府を組織できる異姓諸侯王一般へも向けたであろうことは想像の範囲内であろう。ここで想起されるのは上述でも触れた尾形勇氏の研究である。氏は、元来「称臣」は皇帝や天子のみを対象としておこなわれていたわけではなく、目上の人や上司に対してもおこなわれていたが、漢になってから徐々に、その対象が皇帝へ限定されるようになったと述べているのだ。「「称臣」の限定集中化は、皇帝権力の確立ということと表裏していたのであり、・・・「称臣」という事柄が、皇帝を頂点とする一元的支配体制のもとに置かれていた」(p. 158)
 孝武帝はおそらく、この原理を徹底的に推し進めようとしたのではないだろうか。諸侯王とその部下とが皇帝を介在させずに強固な紐帯を結ぶのを阻止すること、その一環として「称臣」という形式的・心理的臣従をやめさせること。当然ながら、王歆之のように「称臣」していたからといって心まで売ってない場合があるわけで、「称臣」の心理的内面化の効果を過大視してもしょうがないが、まあ形的に臣を認めちゃってるしね。
 なお『隋書』巻26百官志・上の梁武帝・天監の改革前の記述のうちに、「諸王公侯国官、皆称臣、上於天朝、皆称陪臣」とある。彼の死後まもなく改められた可能性が高いのではないかな。

 それにしてもここまで話を展開できるとは予想外でした。最初はとくに深めるところはなさそうだなと思ってたけど、調べているうちにあれもこれもと、いやーつながっちゃったね。しかし本当に申しわけないんですが、上の称臣の話題は正直どうでもいいことでした。ゴメン。

***
 冒頭に引いた劉邕と王歆之のエピソード。おもしろいところというか盛りあがるところというか、話の見せ場は王歆之がやり返したって場面だね。この箇所、孫晧のまねをしたとある。これはいったいどういうことだろう。王歆之が言っているのは次の逸話に違いない。『世説新語』排調篇より。

武帝は孫晧にたずねた。「南人は「爾汝歌」〔爾も汝も「なんじ」の意〕をつくるのが得意と聞いたが、君はできるのか」。孫晧は杯を挙げて、武帝に酒を勧めて歌った。「むかしはおまえ〔原文「汝」、以下同〕と隣国だったが、いまはおまえの臣。おまえに一杯の酒を献じて、おまえの長寿を祝おう」。武帝は後悔した。(晋武帝問孫皓、「聞南人好作「爾汝歌」、頗能為不」。皓正飲酒、因挙觴勧帝而言曰、「昔与汝為隣、今与汝為臣。上汝一杯酒、今汝寿万春」。帝悔之。)

 「汝」は日本語で言うと「おまえ」みたいなそんな感じ。皇帝に使っていい言葉じゃないけど、使っていいよって武帝が言っちゃったばかりに・・・ってやつだね。
 そう、王歆之の歌も訳文で「おまえ」と訳したところはぜんぶ「汝」なんですよ。

〈孫晧〉
昔与汝為隣 むかしはおまえと隣国だったが
今与汝為臣 いまはおまえの臣
上汝一杯酒 おまえに一杯の酒を献じて
今汝寿万春 おまえの長寿を祝おう

〈王歆之〉
昔為汝作臣 むかしはおまえの臣だったけれど
今与汝比肩 いまはおまえと肩を並べている
既不勧汝酒 おまえに酒を勧めることはしないし
亦不願汝年 おまえの長寿を願うつもりもない

 こういうふうに意味をうまーく反転させたパロディなんですねー。ちなみに酒を勧めるときに「長寿を祝う」ってのは、皇帝に酒を献じるときに「万歳」「千万歳寿」って言うことですな。
 さらにちなみにの話ですが、劉邕は王歆之のことを「卿」と呼んでいるんだよね。丁寧語というか軽い敬称というか、「あなた」「君」みたいなニュアンスかな。いちおう丁重に呼んでいるんですよ。だから「汝」って突然言われちゃってすごくかわいそう。。。

***
 ところでこの劉邕、ちょっとした奇行があったらしいのだ。

劉邕はところかまわずかさぶたを食べるのが好きで、あわびのような味がすると言っていた。ある日、孟霊休のところへ遊びに行ったときのこと。孟霊休はちょっとまえにおきゅうで傷ができてしまっていたが、そのかさぶたがテーブルの上に落ちると、劉邕はそれを拾い取って食べてしまった。びっくりする孟霊休。「 好き なんだよなあ」と言う劉邕。孟霊休は残りのかさぶたを次々にはがし、ぜんぶ劉邕にあげた。劉邕が帰ると、孟霊休は何勗へ手紙をしたためた。「劉邕がかさぶたを食うのを向かい合って、しかとこの目で見たぜ。あいつそのうちかさぶたの食いすぎで全身から血が出んじゃねえか」。南康国の吏は約200人いたが、劉邕は罪の有無を問わず、(全員を)代わりばんこに鞭で打ち、そのかさぶたを食膳に加えていた。(邕所至嗜食瘡痂、以為味似鰒魚。嘗詣孟霊休、霊休先患灸瘡、瘡痂落牀上、因取食之。霊休大驚。答曰、「性之所嗜」。霊休瘡痂未落者、悉褫取以飴邕。邕既去、霊休与何勗書曰、「劉邕向顧見噉、遂挙体流血」。南康国吏二百許人、不問有罪無罪、逓互与鞭、鞭瘡痂常以給膳。)

 いやあ 驚いたね。
 かさぶたがあわびの味するってまじ? いや仮にしたとしてもあわび好きってわけでもないから食べないけどね。じゃあかさぶたがサッポロポテトバーベQ味したら食べるのかよって言われたらそりゃうーん、ちょっとやるかもしれないよ? でもそんなあなたさあ、人前で食べるぅ? それも友達の食べちゃう?
 この話のミソは孟霊休だよね。彼の鬼畜根性ときたら。そこはがしてまであげちゃうんかい。そこまでする必要あった? おもしろかったのかおまえ。それともおまえあれか、かさぶたは自然に落ちるまえの、あのギリギリのところでぴりぴりはがすのがたまんねえってやつか、はがしたついでにあげただけか。

 上の王歆之との関連で注目しておきたい箇所がひとつある。そう、いちばん最後の南康国の吏からかさぶたを強制徴収したっていうところ。王歆之は原文では「素軽(もとヨリかろンズ)」とあるが、おそらく彼は南康相の時代、この劉邕の行動を見て引いてしまったのではないだろうか。こいつようこんな効率的なシステムつくりやがったな、みたいな。

 なんか『宋書』っておもしろエピソードを積極的に、というかむしろそれだけを集めて収録している感がある。



――注――

[1]「贈物を贈る」の箇所の原文は「致敬」。『宋書』百官志の参軍の箇所にも用例がある訳注(2)の注[26]が付いている箇所)。百官志の箇所は当初、「敬礼する」くらいの意味で理解していたのだが、『続漢書』百官志二・謁者僕射の本注の劉昭注に引く『蔡質漢儀』に「謁者僕射が尚書令と会ったさいはたがいに拱手の礼をかわすが敬はない(見尚書令、対揖無敬)」と見え、たんに「敬礼」と訳すのは皮相的な解釈になる場合があるようだ。ということで、「敬」は具体的に「贈物」を指すと現在では考えている。本文のこの箇所も、違和感は残るものの、とりあえずその解釈に従って訳出した。
 またこのときの改革を『通典』巻31職官典13・歴代王侯封爵は「不得追敬、不得称臣、止宜云下官而已」と記述している。訳してみると、「餞別を贈ることと臣と称すことを禁じ、たんに下官とだけ言うようにした」。「敬」周辺の記述が本文と違いそうだ。[上に戻る]

[2]そうしたことを主眼とする研究ではないが、例えば阿部幸信「漢初「郡国制」再考」(『日本秦漢史学会会報』9、2008)。氏は「実態はともかくとして、建国当初の漢朝が諸侯王を自らの「内」のものとして観念して」おらず、諸侯王は「「外」の分子とみなされていた」ことを指摘し、「漢朝は、「内」に諸侯王を抱えこんでいたのではなく、「外」に置いた諸侯王と天下を「共同所有」していた」のであり、「「天下安定」下の支配階層が形成していた秩序は、いわば、構成員が共通の利害や目的において結ばれた社会すなわち「連合体」としての性質を帯びていた、といえる。このようにいうとき、現実に漢朝から諸侯王に対して加えられていた各種の制約も、それは他の利害から独立した支配―被支配関係にかかるものとして読まれるべきではなく、「共通の利害や目的」を維持し再生産するのに有益であるとみなされる限りにおいて受容されていたにすぎない」と論じている(pp. 53-65)[上に戻る]

[3]徐冲「漢唐間の君臣関係と「臣某」形式に関する一試論」(『歴史研究』44、2006)pp. 41-45。氏が根拠として挙げる史料のひとつが『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝「朝廷は、東宮属官は(太子に対して)陪臣と称するべきだとしたが、鄭黙は上言して、「・・・東宮の属官はみな朝廷から任命されたものですから、(辟召で任命される)藩国の場合と同様にするべきではありません」。(朝廷以太子官属宜称陪臣、黙上言、「・・・宮臣皆受命天朝、不得同之藩国」。)」。「藩国」は諸侯王のことを指すであろうから、諸侯王の場合は陪臣が「称臣」していたということですな。[上に戻る]

[4]川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大――魏晋南北朝』(講談社、2005年)。「孝武帝は自己に権力を集中し、中央集権を進めた皇帝として知られているが、そのような権力集中を行うとすれば、当然その手足となって働いてくれる人々が必要となる。こうした為政者の欲求と庶民層の台頭が一致したところに、・・・孝武帝以降の南朝において顕著に見られる恩倖政治が出現する」(p. 146)。余談にすぎないが、最近戸川貴行氏は、孝武帝の政治をたんなる自己顕示欲に発するものではなく、南朝政権そのものの正統性と伝統の創出という観点から理解されるべきものであることを論じている。戸川『東晋南朝における伝統の創造』(汲古書院、2015)。孝武帝って概説書だと兄弟とか殺しまくったやべーやつとしか言及されていないからいちおう。彼は彼なりに画期的なことやろうとしてたんだよって。[上に戻る]




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