2015年3月15日日曜日

『宋書』百官志訳注(10)――門下・散騎

 侍中は四人。奏上された事案(の検討)を職掌とし、(皇帝の)側近くに侍り、(皇帝から奏上された事案に関する質問があるとそれに)応答して進言する。皇帝が外出した際、正直侍中〔その日の宿直当番の侍中の意か、註[1]を参照〕一人が璽を持って車に同乗する[1]。宮殿内や門下に関するあらゆる仕事〔原文「殿内門下衆事」〕はすべて(侍中が)管轄した[2]。周公が成王を誡めた「立政」で言及されている「常伯」が侍中の職務に相当する。侍中は秦の丞相の史〔書記官?かな?〕を由来とする。(秦代は丞相の史のうち)五人を宮殿の東廂〔直訳すると「東の方の部屋」、固有名詞ではないかも?〕に行かせて奏上された事案の決済をさせた。そこで、東廂に派遣された史のことを侍中〔禁中に侍る、の意だろう〕と呼ぶようになった[3]。西漢では定員がなく、多いときは数十人いた[4]。宮中に入って侍り、天子の車や衣服、持ち物から、下は便器の類にいたるまで、担当を分けていた。武帝のとき、孔安国が侍中となると、彼が儒者であったことから、特別に天子の唾壺を担当させたので、朝廷はこれを光栄なことと見なした。(侍中を)長期のあいだ務めた者は侍中僕射になった[5]。東漢では少府に所属し、依然定員がなかった。(皇帝の)側に侍り、(皇帝の)もろもろの業務を補助し、天子から質問されたら応答することが職務であった。皇帝が外出した際、(侍中のうちでもとりわけ)博識の者一人が伝国璽を持ち、斬白蛇剣を手にして同乗した。ほかの侍中はみな馬に乗り、車の後ろについた[6]。光武帝のとき、侍中僕射を侍中祭酒に改称した。漢の時代は、宦官と同様、宮中に勤務していた。武帝のとき、侍中の莽何羅が刀をわきにはさみ持って暗殺を謀ったので、これをきっかけに侍中は宮中の外へ出され、仕事があれば宮中に入り、終われば出るようになった。王莽が漢の政権を掌握すると、侍中は再び宮中に入り、宦官とともに宮中で勤務した。章帝の元和年間、侍中の郭挙が後宮の側室と通じようとたくらみ、佩いていた刀を抜いて侍妃を驚かせたので、郭挙は誅に伏し、侍中はこうして宮殿の外に出ることとなった[7]。魏晋以降、侍中は四人置いた。この定員とは別に加官の侍中もあったが、その場合は定員がなかった[8]。秩は比二千石[9]

〔以上、巻39百官上、了〕

『宋書』巻四十志第三十百官下


 給事黄門侍郎は四人。侍中とともに門下の衆事を管轄する[10]。郊祀や宗廟(のときであれば、一人がかさを持ち)、臨軒(や朝会)のときであれば、一人が麾(はた)を持つ[11]。『漢百官表』によると、秦では給事黄門と言い、定員はなく、左右に侍従することを職務としており、漢はこれを継承したのだと述べている[12]。東漢では給事黄門侍郎と言い、やはり定員はなく、左右に侍ることを職務とし、宮殿と宮外を取り次いだ。諸王が朝見した際は王を引率して着席させた[13]。応劭が言うに、「毎日夕方に青瑣門に向かって拝礼するので、夕郎と呼ぶ」と[14]。史臣が按ずるに、劉向が子の歆に書簡を送って、「黄門郎は要職だ」と言っている[15]。したがって、前漢のときからすでに(給事黄門は)黄門侍郎になっていたのである[16]。董巴『漢書』〔隋書・新唐書に董巴の名で記録されている著作は、魏の董巴の『大漢輿服志』のみ。これを指す可能性高〕に「禁門を黄闥と言い、宦官がこの門を管理したので、(その官を)黄門令[17]と呼んだのである。とすれば、黄門郎も(黄門令と同様に)黄闥門の内側で仕事をした〔原文「給事」〕ので、黄門郎と呼んだのであろう」とある[18]。魏晋以降、定員は四人、秩は六百石[19]
 公車令は一人。章や奏などの文書を(官から)受け取る仕事を職務とする。秦には公車司馬令があり、衛尉に所属していた。漢はこれを継承した。(秦漢の公車司馬令は)宮殿の南の闕門を管轄していた。(漢代においては?)およそ、吏や民が文書を上奏した際や、地方が(中央に物資などを)貢献した際、(皇帝に)召されて公車令のところに(取り次ぎを願い出て)来た者は、すべて公車司馬令が取り次いでいた[20]。江左以来、たんに公車令と言った[21]
 太医令は一人。丞は一人。『周官』では医師と言い、秦では太医令であった。二漢のときは少府に所属していた[22]
 太官令は一人。丞は一人。『周官』では膳夫と言い、秦で太官令であった。漢のときは少府に所属していた[23]
 驊騮厩丞は一人。西漢では龍馬長、東漢では未央厩令、魏では驊騮令と言った[24]
 公車令から驊騮厩丞までは侍中の管轄下にある[25]

 散騎常侍は四人。左右に侍するのが職掌である[26]。秦は散騎を置き、またこれとは別に中常侍を置いた。散騎は天子の車のうしろにつきしたがう[27]。中常侍は宮中に入ることができた。ともに定員はなく、(常設ではなく)加官であった。東漢のはじめ、散騎を廃し、中常侍には宦官を充てることにした。魏の文帝の黄初のはじめ、散騎を置き、中常侍と統合して散騎常侍とし、孟達を最初に任命した。長く就官した者は祭酒散騎常侍となった[28]。秩は比二千石。
 通直散騎常侍は四人。魏末、散騎常侍にも員外〔正規の定員メンバーではなく、非常勤メンバーみたいなやつ〕の者がいた。晋の武帝は(員外の)二人を(正員の)散騎常侍と同じように宿直をおこなわせた〔原文「通直」、注で指摘するが、本来の字句は「通員直」の可能性がある。どっちにしろわからんけど、「当直」を「正員」と「共通」させてやらせた、みたいに解した〕。これを通直散騎常侍と言うようになった。江左では五人置かれた[29]
 員外散騎常侍は魏末に置かれた。定員はなし。
 散騎侍郎は四人。魏の初めに散騎常侍と一緒に置かれた。魏晋の散騎常侍、散騎侍郎は侍中、黄門侍郎とともに尚書から送られてきた奏上文の決済に関わっていたが、江左になってこの仕事は職掌から外れた。
 通直散騎侍郎は四人。初め、晋の武帝が員外散騎侍郎を四人置き、元帝は(その内の)二人を散騎侍郎とともに通直させたので、これを通直散騎侍郎と言うようになった。のちに増員して四人となった。
 員外散騎侍郎は晋の武帝が置いた。定員はなし[30]
 給事中は定員なし。西漢が置いた。皇帝からの質問に応答する。官位は中常侍に次いだに位置した。東漢に廃されたが、魏のときに復置された[31]
 奉朝請は定員がないが、しかし官ではなかった。東漢が三公、外戚、宗室、諸侯を罷免したり廃するとき、(彼らを)多く奉朝請に命じた。奉朝請とは、春と秋の謁見儀礼を奉ずる(参加する)という意味である〔春の儀礼を「朝」、秋のものを「請」と呼ぶ〕[32]。晋の武帝は宗室・外戚を奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉とし、(これらを)奉朝請とした。元帝が晋王となると、参軍を奉車都尉、掾属を駙馬都尉、行参軍・舎人を騎都尉としたが、みな奉朝請である。のち、奉車都尉、騎都尉を廃し、駙馬都尉だけを奉朝請として残した。宋の高祖の永初以来、奉朝請の選任基準が混乱していたので、公主を娶った者だけを駙馬都尉に任ずることとした 。(もともとは)この三都尉はみな漢の武帝が置いた官である。宋の孝建の初め、奉朝請は廃された。駙馬都尉、また三都尉の秩は比二千石。



――注――

[1]原文は「正直一人負璽陪乗」。『晋書』巻24職官志によれば、この規定は魏晋以降のものである。本文後半に後漢時代の規定が記されているが、そこには「多識者一人」が同乗することになっており、そのためここの「正直」も人の性質を表した言葉だと解釈したくなるのだが、『晋書』職官志に「次直侍中」は車の護衛、「正直侍中」は同乗、その他は馬に乗る、と見え、『宋書』や『晋書』には「次直侍中」「正直侍中」が一種のタームとして使用されている用例がほかにも散見する。さらに『北史』巻49念賢伝に北魏が分裂しはじめたころのこととして、「(念賢は)広陵王欣、扶風王孚らと同時に正直侍中になった(与広陵王欣、扶風王孚等同為正直侍中)」とあり、北朝の用例であるとはいえ、「正直侍中」は何らかの官の正式な名称であると解釈した方が良さそうである。
 とはいえ、「次直」も「正直」も意味を示唆してくれるような用例が見つからず、はっきりしたことはわからない。「次直」は文字通りに読むと「宿直すること」で、「宮城宿直」が当番制で割り当てられていたかもしれず、だとすれば「次直」をこの意で押し通すことはできるかもしれない。
 しかしながら、だとすると「正直」はなんであるのかがいっそうわからなくなってしまう。「正直」と「次直」はまったく違う意味なのではなく、むしろかなり似た意味で捉える必要があるように思われるからだ。
 一方で、本文後半の通直散騎常侍のところの注[29]で言及するが、「直」という字は「宮殿に入って宿直すること」であるのはたしかなようである。
 要するに、「直」はどちらも「当直する」の意ととって良いが、「正」と「次」を対照の関係に解するべきではないだろうか。「正」であるか「次」であるかによって「直」の性質が変わるのだ、といった具合に。上のように「次」を「やどる」の意で読むのは避けるべきである。
 で、ここからは推測の域に入るが、まずシンプルに解せば、「正直」というのは「その日がちょうど宿直当番」のことで、「次直」はそのまま、「次の宿直当番」のことだと考えられるだろう。正直言うと、私はこの方向で解釈をしたいのだが、前引の『北史』の用例があるので、この解釈はむずかしいみたいである。
 次に考えられるのは、「正直」=定員枠の専任侍中、「次直」=加官の非常勤侍中、という解釈だ。しかし、この解釈もきびしい。加官扱いの侍中が宿直当番をしていたとは思えないこと、散騎常侍は定員内か定員外かの区別を「員外」であらわしており、「直」で区別はしていないこと、これらのことから、解釈としては魅力的なのだけど採用するのはむずかしいように思える。
 これ以上はうまい理解が考えつかないので、今回は『北史』の用例に目をつぶって、シンプルなほうの解釈で訳文を作成した。
 『晋書』職官志「皇帝が外出された際は、次直侍中(の一人)が車(の側で)護衛をし、正直侍中(の一人)が璽をもって同乗して剣を佩かない。他の侍中はみな馬に乗って(車のうしろから)つきしたがう。(皇帝が外出から戻って)宮殿にあがる際は、散騎常侍と一緒に皇帝がのぼるのをたすけ、侍中は左を、散騎常侍は右をはさみかかえる(大駕出則次直侍中護駕、正直侍中負璽陪乗、不帯剣、余皆騎従。御登殿、与散騎常侍対扶、侍中居左、常侍居右。)」。『太平御覧』巻219および『初学記』巻12侍中に引く『斉職儀』はこれとほぼ同じ。[上に戻る]

[2]注[10]に引く『通典』によれば、侍中を頂点とする官のグループが「門下省」と呼ばれたのは、侍中や黄門侍郎が「門下衆事」を職掌としていたからだという。って言ってみると、とってもトートロジーな感じなんだけど、そう書いてあるんだからしょうがない。『初学記』巻12侍中には「門下省、自晋以来名之」とあり、晋代からかたちを取りはじめたところであるらしい。実際、用例を見てみると、西晋時期から用例が多く見えている。
 じゃあ「門下衆事」ってのは何なのだねという問題が出てくるわけなんですが・・・ちょい考えてみましょう。
 まず魏晋宋の侍中や黄門侍郎は具体的にどのような職務をおこなうと規定されていたのか。『斉職儀』の佚文には、「(侍中)備切問近対、拾遺補闕也」(『御覧』巻219)、「(黄門侍郎)与侍中掌奏文案、賛相威儀、典署其事」(『御覧』巻221)、「(晋宋斉)侍中並与三公参国政、直侍左右、応対献替」(『初学記』巻12)とある。まとめてみると・・・

①(尚書事などの)政務の相談役
②尚書から送られてきた文書の取次
③儀礼での整列や行幸のときの行列などの補助役、あるいはそれらの事案の責任管理

  というわけでこれらが「門下衆事」に相当するようなんだが、どうして「門下」なのかはさっぱりわからんね。
 ここで参考になりそうなのが、州や郡の官組織。門下掾、門下督、門下書佐・・・「門下云々」って名称の役職がたくさんいるじゃない。
 この手の研究で古典的な厳耕望氏によれば、郡守の秘書、文書業務補佐、護衛、顧問役等々の役職が「門下」に分類できるらしい(『厳耕望史学著作集 中国地方行政制度史――秦漢地方行政制度』上海古籍出版社、2007年、pp. 124-29)。だからまあ、郡守個人に密接に関係する事柄や業務補佐が「門下」と言えるのだろう。
 郡守を皇帝に置き換えれば、侍中もそれに近いような感じの立ち位置にいるし、皇帝の日常生活・業務全般の補佐雑務を「門下衆事」と呼んでいたのではなかろうか。
 なおそれでも「門下」って何が由来なんだと気になるでしょうが、これはもうワカラン。『後漢書』伝3公孫述伝の「門下掾」の李賢注に「州郡有掾、皆自辟除之、常居門下、故以為号」とあるが、いや「いつも門下にいる」ってどういう意味なんだと・・・。主人の受付的な、あるいは取次的なそんな意味なのかな。[上に戻る]

[3]『晋書』職官志は侍中の由来について、「考えてみるに、黄帝のときに風后が侍中になっている。周では常伯に相当する職務であった。秦は古名を採用して侍中を設け、漢はそれを継承したのである(案黄帝時風后為侍中、於周為常伯之任、秦取古名置侍中、漢因之)」と記す。[上に戻る]

[4]漢の侍中はそもそも加官であった。『漢書』巻19百官公卿表・上「侍中・左右曹・諸吏・散騎中常侍、皆加官、所加或列侯・将軍・卿大夫・将・都尉・尚書・太医・太官令至郎中、亡員、多至数十人。侍中・中常侍得入禁中、諸曹受尚書事、諸吏得挙法、散騎騎並乗輿車給事中亦加官、所加或大夫・博士・議郎、掌顧問応対、位次中常侍。中黄門有給事黄門、位従将大夫。皆秦制」。本文で言及のある官は太字にしておいた。[上に戻る]

[5]侍中僕射については『通典』巻21職官典3侍中に「もともと侍中僕射が一人置かれていた。〔原注:秦漢時代は侍中で功(=勤続期間)が高い(長い)者一人を侍中僕射とした。〕後漢の光武帝は僕射を祭酒に改めた。(後漢時代は)置いたり置かなかったりで、常設ではなかった。また侍中祭酒は少府に所属した(本有僕射一人。〔秦漢以功高者一人為僕射。〕後漢光武帝改僕射為祭酒、或置或否、而又属少府)」とある。[上に戻る]

[6]秦の丞相史からここまでは『御覧』巻219引『漢官儀』にそのまま見える。また、侍中が色々な器物を分担担当していて、孔安国はとりわけ~のくだりと後漢の皇帝外出の記述は『初学記』巻12侍中に引く『斉職儀』にもそのまま見えるが、さらに次のように続けている。「初、漢侍中親省起居、故俗謂虎子、虎子、褻器也」。侍中は皇帝の日常生活のお世話をしていたから、俗に「おまる」(便器のことね)って呼ばれてたんだって。[上に戻る]

[7]「宦官と禁中に勤務していた」からここまでは『続漢書』百官志三・侍中の条・劉昭注引『蔡質漢儀』にそのまま見える。魏晋時代の侍中がどうであったのかはわからないが、ここに何も言及されていないままであることを踏まえると、依然として宮中から出されたままだったのかもね、用があるとき、許可されたときだけ入れるみたいな。普通やん・・・。[上に戻る]

[8]侍中に定員が設けられたはじまりは後漢献帝即位ころであったらしい。『通典』巻21侍中に「献帝即位、初置六人、賛法駕則正直一人負璽陪乗、殿内門下衆事皆掌之」、『続漢書』百官志三・黄門侍郎・劉昭注引『献帝起居注』に「帝初即位、初置侍中・給事黄門侍郎、員各六人、出入禁中、近侍帷幄、省尚書事」とある。
 『晋書』職官志には東晋時代のことが記されている。「東晋の哀帝の興寧四年、桓温は侍中の定員を二人削るようにと奏上し(採用され)た。のちに定員はもと(四人)に戻った(及江左哀帝興寧四年、桓温奏省二人、後復旧)」。桓温の改革が戻されたのは、他の官府同様、孝武帝時期のことであっただろう。[上に戻る]

[9]別のブログ記事でも触れたことがあるのだけど、侍中は冠の装飾が特殊(「貂蝉」)であったことでも著名。そのブログ記事からそのまま文章を以下に流用します。西晋以降、侍中を含めた侍臣の官は、武冠を「貂蝉」で飾る規定であったらしい。『宋書』巻18礼志五に「侍中・散騎常侍及中常侍、給五時朝服、武冠。貂蝉、侍中左、常侍右。皆佩水蒼玉」とある(礼志五のかかる箇所が、西晋泰始年間の規定である可能性が高いことは、小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年を参照)。具体的には、蝉の羽で飾りつけた金製のバッジと、貂の毛を挿した金製の竿のことで、竿を侍中は左、散騎常侍は右に挿す。『晋書』職官志「侍中・常侍則加金璫、附蝉為飾、挿以貂毛、黄金為竿、侍中挿左、常侍挿右」。武冠は戦国趙が起源だというが、これに貂蝉を飾る習慣は秦漢以来あったようで、その由来について、後漢の胡広は「昔趙武霊王為胡服、以金貂飾首。秦滅趙、以其君冠賜侍臣」と言い、応劭『漢官儀』は金=剛健・百錬不耗、蝉=高潔(「居高食潔」)、貂=内剛外柔、を比喩しているとするなど諸説ある。
 『通典』巻21侍中には「漢代では皇帝のお側つきの官職で(能力如何ではなく皇帝の好みに左右しての任命で)あったが、魏晋時代に(定員枠が設けられて)選挙によって登用されるようになると、社会的ステータス〔原文の「華重」をとりあえずこう訳しておく〕が高くなった。だからといって、役割や職務に大きな変化があったわけではない(漢代為親近之職、魏晋選用、稍増華重、而大意不異)」。つまり、侍中は漢代も魏晋も皇帝の諮問相手であったことに違いはなく、「尚書からの文書決裁をおこなった(省尚書事)」などの記述もその程度のイメージで軽く受け止めておくのが良いと私は思います。[上に戻る]

[10]『通典』21「門下省、後漢謂之侍中寺。晋志曰、給事黄門侍郎与侍中、倶管門下衆事、或謂之門下省」。ここで引用されている「晋志」の文章は唐修『晋書』のなかには見えない。[上に戻る]

[11]原文「郊廟臨軒、則一人執麾」。『通典』巻21門下侍郎に「郊廟則一人執蓋、臨軒朝会則一人執麾」とあり、中華書局はこれをもって宋書本文に脱文があるのではないかと推測している。いちおうこの指摘に従って本文を補った。[上に戻る]

[12]現行の班固『漢書』百官公卿表(注[4]引用)には「給事黄門」の名がわずかに見え、侍中らと同じく無員であり、秦官であることは記述から読み取れるが、「左右に侍従すること」については明記されていない。ここに言及されている『漢百官表』は班固のものとは違うのかもしれないが、しかしこの名を有する著作は隋書などに記録されておらず、詳細は不明。[上に戻る]

[13]「東漢では給事黄門侍郎と言い・・・」からここまで、『続漢書』百官志三・黄門侍郎の本注とほぼ同じ。なので、宮中と外との取次とかうんたらは後漢時代の職掌として受け止めておいた方が良い。魏晋時期の黄門侍郎はあくまで「門下衆事」が職務なのだ。[上に戻る]

[14]『続漢書』百官志三・黄門侍郎・劉昭注引『漢旧儀』「黄門郎属黄門令、日暮入対青瑣門拝、名曰夕郎」。青瑣門は劉昭の引く『宮閣簿』によれば、洛陽南宮の門なんだって。[上に戻る]

[15]劉向の書簡は『御覧』巻221に『劉向集書誡子歆』として詳しく引用されている。「今若年少得黄門侍郎、顕処也。新拝、皆謝貴人、叩頭謹戦戦慄慄、乃可必免」。[上に戻る]

[16]「史臣」がここで問題としたいのは、ある史書(『漢百官表』)によると秦・前漢では給事黄門だったのに、後漢の史料(『続漢書』)になると給事黄門侍郎と名称が変わっていることであり、このことに補足を試みようとしているのだ。で、彼の結論は、「給事黄門はすでに前漢時代には侍郎の名称を加えられていた」である。
 ところが、『初学記』巻12黄門侍郎引『斉職儀』をみると、「当初、秦には(黄門侍郎とは別に)給事黄門を置いており、漢はこれを継承した。後漢のはじめ、黄門侍郎と給事黄門を統合して給事黄門侍郎を置いた。のちに侍中侍郎に改称されたが、まもなく給事黄門侍郎に戻された。魏と晋では給事黄門侍郎が四人置かれ、侍中とともに門下衆事を管轄した。侍中と給事黄門侍郎とは、散騎常侍とあわせて清官であったので、(合わせて)黄散と呼ばれてきた。宋と斉も給事黄門侍郎を四人置いた(初、秦又有給事黄門之職、漢因之、至東漢初、并二官曰給事黄門侍郎。後又改為侍中侍郎、尋復旧。自魏及晋、置給事黄門侍郎四人、与侍中俱管門下衆事、与散騎常侍並清華、代謂之黄散焉。宋斉置四人)」とあって、『斉職儀』が何にもとづいているかは知らんが、史臣の理解とは食い違っている、ってか史臣は『斉職儀』も『斉職儀』が参考にした史料もたぶん見てないよね。
 なお『斉職儀』で言及されている侍中侍郎への改称は後漢・献帝の時期のことであったようだ。『続漢書』百官志三・劉昭注引『献帝起居注』「献帝が即位した当初、はじめて(定員枠のある)侍中と給事黄門侍郎を置いた。定員はともに六人。・・・給事黄門侍郎を侍中侍郎と改称し、給事黄門の名称を除いたが、まもなくもとに戻された。かつて、侍中と黄門侍郎は宮中で勤務していたため、政治から距離を置かせていた。(その後、事件が相次いだので侍官は宮外で仕事をするようになったが、後漢末に)宦官を誅殺したのち、侍中と黄門侍郎は(ふたたび)宮中に出入りできるようになり、機密情報が漏洩するようになってしまった。そこで王允は尚書と同様の措置を取るように奏上した。これ以降、侍官は宮中に出入りできず、客人との交際も禁止された(帝初即位、初置侍中・給事黄門侍郎、員各六人・・・。改給事黄門侍郎為侍中侍郎、去給事黄門之号、旋復復故。旧侍中・黄門侍郎以在中宮者、不与近密交政。誅黄門後、侍中・侍郎出入禁闈、機事頗露、由是王允乃奏比尚書、不得出入、不通賓客、自此始也)」。[上に戻る]

[17]後漢時代、宦官のボスだった。『続漢書』百官志三・黄門令を参照。[上に戻る]

[18]『御覧』巻221引『輿服志』「禁門曰黄闥、以中人主之、故号曰黄(門)令、然則黄門郎給事黄闥之内、故曰黄門郎、本既無員、於此各置六人也」。本文とほぼ同じ。この文章は『通典』にも引用されている。『御覧』では『続漢書』の「輿服志」として引用されているが、司馬彪の『続漢書』輿服志には見えず、『後漢書』李賢注などもあわせて調べるかぎり、董巴『大漢輿服志』からの引用であるらしい。
 なお、中華書局は「黄門令と呼んだのである」までが董巴の著作からの引用で、つづく「とすれば(然則)・・・黄門郎と呼んだのであろう(故曰黄門郎也)」を百官志執筆者(史臣)の文章と解釈して校点しているが、『御覧』の引用を信ずれば、「然則・・・故曰黄門郎也」も董巴の引用に含まれる。本文ではその方向で訳文を作成している。[上に戻る]

[19]魏晋宋については、注[16]引用の『斉職儀』のほか、『通典』巻21門下侍郎「魏晋以来、給事黄門侍郎並為侍衛之官、員四人。宋制、武冠、絳朝服、多以中書侍郎為之」。[上に戻る]

[20]『漢書』百官公卿表・上・師古注「漢官儀云、公車司馬掌殿司馬門、夜徼宮中、天下上事及闕下凡所召皆総領之、令秩六百石」。『続漢書』百官志二・衛尉・公車司馬によれば、後漢時代は丞と尉も一人ずつ置かれていた。本訳注(5)の注[17]を参照。[上に戻る]

[21]『通典』巻25職官典7衛尉卿・公車司馬令に「宋以後属侍中」とある。[上に戻る]

[22]皇帝専属のお医者さん。所属の変遷が激しい。秦漢魏:少府→西晋:宗正→東晋:門下省(宗正廃止のため)→宋:門下省。『通典』巻25職官典7太常卿・太医署を参照。[上に戻る]

[23]皇帝の食事の責任者。飲食物、食器、酒、果物とか。太医同様、所属の変遷が激しい。秦漢魏:少府→晋:光禄勲→宋:門下省。『続漢書』百官志三・少府・太官、『通典』巻25職官典7光禄勲・太官署を参照。[上に戻る]

[24]皇帝や宮中で使う専用馬を育てる牧場の管理者。それぞれ各王朝における牧場の名前を冠している。漢は太僕の所属だったが、宋以後は門下省の所属。魏晋時代も太僕所属だった可能性が考えられるが、東晋以後は太僕は常設官ではなくなったため、それにともなって太常か門下かに異動したと思われる。『通典』巻25職官典7太僕卿・典厩署「漢西京太僕有龍馬長、東京有未央厩令、掌乗輿及宮中之馬。魏為驊騮厩、晋有驊騮・龍馬二殿。自宋以後、驊騮厩属門下」。[上に戻る]

[25]侍中を頂点としたこのグループを門下省と呼ぶことは前に見たとおり。ここに挙がっている官はすべて、漢代では少府の所属であった。それがどういうわけか、魏晋ころから少府の役割は縮小しはじめ、少府は物品の製造をおこなう官府になってゆき、様々な異動を経て、宋のはじめころには、旧少府所属で皇帝の日常生活のお世話をする官職は門下省に集まるようになった。けっこう共通性が高いわりには、太医や太官はすぐにこのグループに入ったわけじゃないんだよね。前述したように、「門下」という考え方は西晋時期にできあがったものと考えられるので、門下省が「門下衆事」を仕事とする「皇帝の日常生活を輔佐する官職グループ」の意で構想され、侍中らが中心に置かれていたのであれば、当然すぐにでも太官やらをここに移していいはずである。それを宗正とか光禄勲に移していったのはどうしてなんだろうね。この時期の門下省ってのはかなり特殊なもので、一種の官府のようなものとして捉えるべきではないんだろうか。[上に戻る]

[26]『御覧』巻224散騎常侍引『魏略』「出入侍従、与上談議、不典事」。皇帝につきしたがって、相談役にはなるけど、直接政治(「事」)を執ることはない、ってことかな。また『初学記』巻12散騎常侍に引く『斉職儀』には「典章表詔命手筆之事」とあり、『通典』巻21職官典3散騎常侍に東晋以降のこととして「以中書職入散騎省、故散騎亦掌表詔焉」とあり、東晋以降は詔や上表などの公文書の起草をおこなっていたらしいです。[上に戻る]

[27]注[4]で引用した『漢書』百官公卿表・上に「散騎騎並乗輿車」とあり、その師古注に「騎而散従、無常職也」とある。[上に戻る]

[28]『初学記』巻12散騎常侍引『斉職儀』「魏文帝置散騎之職、以中常侍合為一官、除中字、直曰散騎常侍、置四人。典章表詔命手筆之事。晋置四人、隷門下。晋初此官、選望甚重、与侍中不異。自宋以来、其任閑散、用人益軽、別置集書省領之」。[上に戻る]

[29]『晋書』職官志は「泰始十年、武帝使二人与散騎常侍通員直、故謂之通直散騎常侍。江左置四人」と記し、本文と若干の相違がある。しかし、『御覧』巻224通直散騎常侍に引く『宋書』には本文と同じ文章が引用されているが、「通直」は「通員直」、「五人」は「四人」になっている。『宋書』の本来の字句はそうなっていたのかもしれない。
 また『御覧』同巻引『陶氏職官要録』に「晋太始十年、詔東平王楙為員外常侍、通直殿中、与散騎常侍通直。通直之号、蓋自此始也」とあり、同引『朱鳳晋書』に「陳与・・・以父老、求去職、宿衛不宜曠、詔以為通直常侍」とある。これらから判断すれば、「通直」は「殿中」においてなされるものであるのだから、「宿直当番」のようなものと解するのが良いようである。また陳与が「宿衛が長期間にわたるのは不都合である(宿衛不宜曠)」ことから通直散騎常侍に任命されていることを考えると、いちおうやっぱり宿直はするみたいね。長期間にならないってことは、当番制で回転が速いか、少日数出勤で許されていたか、どっちかだろう。仮にこのように解釈できるのならば、当直をおこなうのは通常は定員のある散騎常侍のみの仕事で、員外は関係なかった、ってことなのだろう。[上に戻る]

[30]散騎省の成立史に関しては下倉渉「散騎省の成立――曹魏・西晋における外戚について」(東北史学会『歴史』86、1996年)がある。下倉氏によれば、曹魏文帝は自分=皇帝個人との関係が深い人間にとりあえず位を与えておくための、一種の人材プールとしての目的から散騎省を設立した。しかしその運営は徐々に外戚や宗室が多くを占めるようになり、それでも「皇帝個人との関係を重視する」という方針自体は保たれてこそいるが、彼らの就任官としての性格を濃くしていった。またこれに伴ない、もともと定員枠のあった散騎省は拡大=無員化が進んでいった。
 氏がこの散騎省の動向と対比させて理解しているのが侍中系統のいわゆる門下省。下倉氏によれば侍中は外戚・宗室の就任官であったが(氏の「後漢末における侍中・黄門侍郎の制度改革をめぐって」、『集刊東洋学』72、1994年で論じられているようだが、未見)、また注[8]や[16]で言及してきたように、侍中は後漢末に定員化され、外戚らの任命に抑制がかけられていた。しかし結局散騎省があんな感じになっちゃったから、この後漢末の改革の方向はどっかに行っちゃったね、って。
 氏の結論も要約しておくと、後漢から魏にかけては外戚や宗室の過度の政治参与を防止する方向に力が注がれていたが、明帝ころを境にまず外戚、そして晋ころから宗室の政治参与が重視されるようになったことが、散騎省の変化と拡大に影響した。これは魏晋の政治が、漢代とは異なる秩序原理を模索する一方で、旧来の漢代的原理からは完全に脱却することができなかったことの一例である、と。
 散騎省の専論は珍しいので、幅を割いて紹介しておきました。[上に戻る]

[31]『御覧』巻221給事中引『漢儀注』、『晋書』職官志、『初学記』巻12引『斉職儀』にそれぞれ詳しい記述が見えているが、ここではそれらをすべてまとめてくれている『通典』巻21職官典7門下省・給事中の記述を引用しておく。「諸給事中、日上朝謁、平尚書奏事、分為左右曹、以有事殿中、故曰給事中。漢東京省。魏代復置、或為加官、或為正員。晋無加官、亦無常員、在散騎常侍下、給事黄門侍郎上、・・・宋斉隷集書省」。[上に戻る]

[32]要は臣から官僚としての役割が剥落した状態。官僚ではないけど臣である、みたいな。儀礼の場での朝位(席次)が確保されていたということは、儀礼の場に立ちあうのは皇帝の官僚としてではなく、純粋に皇帝の臣として参列しなければならない、ということだろうか。[上に戻る]

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