2013年5月26日日曜日

『晋陽秋』の由来

ブログ始めました。ごひいきにしてください!

 『晋陽秋』は東晋の孫盛の著作です。
 『隋書』巻33経籍志2では別史に分類されており、哀帝年間(西暦361~365年)までを記述した全32巻の史書だったようです。佚文の状況から見ると、宣帝の時代から叙述が開始されています。
 残念ながら『晋陽秋』は散佚してしまいましたが、いくつか輯本が作られています。現在のところ最も便利な輯本は喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1999年)でしょう。

 ところで、「陽秋」とは何でしょう?
 これは「春秋」の言い換え表記です。簡文帝の母である鄭太后の諱が「阿春」だったので、「春」を避けて「陽秋」と書いているわけです。
 とすると、『晋陽秋』も「春」を避けて「陽秋」を書名にしている可能性が高い、避諱が行われるようになったのは簡文帝即以降のはずだ、ならば『晋陽秋』が成書されたのは簡文帝の即位以降!論証成立!キモチイイイイイ、となりそうですが、少し考えておきましょう。

『宋書』巻35州郡志1・揚州呉郡の条
富陽令。漢旧県、本曰富春。・・・晋簡文鄭太后諱「春」、孝武改曰富陽
『宋書』巻36州郡志2・江州安成郡の条
宜陽子相。漢旧県、本名宜春、属予章。晋孝武改名
 避諱が行われるようになったのはどうやら、簡文帝を継いだ孝武帝の時期と考えられます。ちなみに『宋書』には言及されてませんが、「寿春」が「寿陽」に改名されたのもこの時期でしょう。杜祐『通典』、胡三省『資治通鑑』注はそのように理解していますし、おそらく正しい。

 それにしてもなぜ孝武帝年間?その事情はよくわかりません。
 ただ鄭太后はもともと、元帝の「夫人」、つまり皇后ではなく、側室のような位にいた人でした。その子の簡文帝も本来皇帝にはなりえないはずでしたが、長生きした甲斐あって(?)、偶然皇帝になってしまった人です。子供が偉くなったらその母親も偉くせねば!なんていう議論は漢代にもしばしばあった気がしますが、このときもそういう議論が出てきたみたいです。
 しかし簡文帝は即位後間もなくに崩じてしまったこともあってか、簡文帝年間に「追尊」はなされなかった。ようやく孝武帝の太元19(383)年になって、「太后」に追尊する詔、すなわち「実際は皇后じゃなかったけど待遇は皇后と同格にするぜ」という詔が下ったわけです。だとすれば、この太元19年の出来事をきっかけにして避諱が行われるようになったんやん、それでええやんとなりそうですが、いやいやいや。さらに問題になるのは「孫盛はいつ没したのか?」。

 孫盛の本貫は太原、現在の山西省太原市のあたりです。生没年に関する手がかりは、彼が10歳のときに長江を渡ったということと、享年が72であったということ(『晋書』巻82孫盛伝)。この2つの情報から、次の2つの生没年が提出されています。

①太安元(302)年~寧康元(373)年
 この説では孫盛の渡江を永嘉5(311)年、すなわち洛陽が陥落した年にかけます。
②永嘉元(307)年~太元3(378)年
 この説では渡江を建興4(316)年、すなわち長安が陥落した年にかけます。

 ①は「洛陽が陥落した年にみんな長江を渡ったんやろ」という先入観が根拠で、それから生没年を計算している。
 ②は少し複雑なので省きますが、結論から言うと①よりはまし。(興味のある方は王建国「孫盛若干生平事迹及著述考辨」、『洛陽師範学院学報』2006-3を参照ください)

 なんでこんな話をしているかというと、「避諱が行われるようになったと推測される太元19年の時点で孫盛は生きているか否か」を問題にしたいからなわけです。という次第で2説を見返してみると、
どっちの説にしてもももう死んでるやん…
というわけでね。
 いや、そもそも太元19年に避諱が行われるようになったというのも何ら根拠はないわけで、実際はまだ孫盛が存命中の孝武帝年間初期から行われていたのかもしれない。
 あるいは何らかの事情で孫盛没後に後人が改めたのかもしれない。
 またまた、仮に太元19年の時点でも孫盛が存命だとすれば、孫盛の渡江は320年代以降になり、少し遅い気もするが、無いわけではない。しかし、厳可均『全晋文』巻11孝武帝には太元15年に発せられた「答孫潜詔」という詔が収録されていて、孫盛の子の潜が孫盛の著作を朝廷に献上したことに対し、孝武帝が「ごくろう、秘書におさめとくわ」とねぎらったという主旨の詔だけども、ここでは孫盛のことを「故秘書監」と呼んでいる。秘書監は孫盛の最終官歴。おそらく太元15年の時点では孫盛は既に没していたため、子供が代わりに献上したのでしょう。
 以上より、「『晋陽秋』がいつ成書されたのかはよくわからん」という結論にたどりつきました。お疲れ様でした。

 当ブログはこんな感じで歴史ネタを中心に記事を書こうかと思います。「伝」というのは左氏伝、毛伝、孔伝とかみたいに、「注解」みたいな意味です。裴松之だか劉知幾だかは『晋陽秋』のことを左氏春秋のマガイモノだと評していましたが、「そのマガイモノをさらに解釈してやんよ!」という意気込みで継続してみようと思います。

 今回は長くなってしまいましたが、次からは短くします。ゆるして

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