馬融「周官伝」
秦は孝公以降、商君子の法を採用したため、その政治は苛烈となり、『周官』とは真逆の方針であった。そのため、始皇帝は挟書を禁じたさいに、とくに『周官』を嫌って消滅させようとはかり、捜索して焼いたのであった。ただこのためのだけに、百年間秘蔵されたのである。
孝武帝が挟書律をとりはらって、書籍を募集するようになるや、山の洞穴や旧宅の壁から取り出され、朝廷の秘書に入れられたのであった。しかし五家の儒者(礼の五伝弟子の学派を指すか)はこれを見ることができなかった(理解することができなかった?)。
孝成帝のときになって、達才通人と称すべき、劉向とその子の歆が朝廷の秘書を整理、校勘した。こうしてようやく『周官』は整えられ、劉向の『別録』および劉歆の『七略』に記録されたのである。だが、冬官の一篇は失われていたため、『考工記』を付け加えたのであった。
当時、多くの儒者が世に出ていたが、そろって『周官』を退けておかしいと批判した。ただ劉歆だけが(この書の意義を)見抜いていた。彼はまだ若いにもかかわらず(原文「尚幼」。ちょっと年を増した感じで訳した)、広く書物を読むことに力を注いでいたし、春秋末年のことに精通していた。それゆえ、周公が太平を招来した事跡はすべて『周官』に記録されていることを彼は理解していたのである。
ところが、天下は戦乱の世となり、戦争が各地で起こり、流行病と凶年が重なるようになってしま(い、このようななかで彼は亡くなってしま)った。弟子たちも死去してしまったが、河南緱氏の杜子春だけは生き延びた。永平のはじめころには、九十歳になろうかという高齢で、終南山に家を構えていた。『周官』の(あるいは「劉歆の」?)読み方に通じており、劉歆の(?)学説に詳しかった。鄭衆と賈逵は彼のもとに行って『周官』の学業を受けた。
鄭衆、賈逵は博識の秀才で、経、書、記はたがいに典拠となって文意を明らかにしているとみなし、注釈を著した。賈逵の注釈は広く読まれたが、鄭衆のものはあまり読まれなかった。二氏の説をいっしょに採用していけば、本文はよく読めるようになるが、それでも誤りやいたらない箇所が多い。
とはいえ、鄭衆の説のほうはしばしば妥当さを得ている。彼が誤っているのは、尚書の周官篇の序に「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」とあるのをみて、これこそ『周官』のことだと主張しているくらいのものである(原文は「鄭衆はこの書物が尚書の周官篇だということを見逃していた」の意にも読めるが、馬国翰も訳文のように理解しているみたいだし、とりあえずこれで)。
賈逵はというと、「六郷大夫は冢宰である」云々と言ったり、「六郷(原文は「六遂」だが後文と通じないので改める)は十五万家で、千里の地にわたっている」と論じているが、ひどいまちがいだ。このような例がひじょうに多い。慨嘆してやまぬものだ。六郷の住民は四同の地に居住しているのだから、「千里の地にわたっている」というのは誤りだ(賈曰く、「『六郷大夫は冢宰である』以降の批判している箇所は省略する。また『ひじょうに多い』という箇所だが、馬融による賈逵説の紹介については多く省略したという意である」)。
・・・(省略あり?)・・・私は六十歳になったときに武都の太守になったが、郡は小さくて仕事が少ないので、考えをまとめておこうと思い、易、尚書、詩、礼の伝(注釈)を書き記し、すべて完成させた。しかし『周官』のみ完成させれなかったことを気にしていた。そこで六十六のとき、目は悪くなり、集中力もつづかなくなってきたなかで、なんとかまとめることができた。かくてこれを「周官伝」と名づける。
秦、自孝公已下、用商君之法、其政酷烈、与周官相反。故始皇禁挟書、特疾悪、欲絶滅之、捜求焚焼之、独悉是以隠蔵百年。
孝武帝始除挟書之律、開献書之路、既出於山巌屋壁、復入于秘府。五家之儒莫得見焉。
至孝成皇帝、達才通人、劉向子歆、校理秘書、始得列序、著于録略。然亡其冬官一篇、以考工記足之。
時衆儒並出、共排以為非。是唯歆独識。其年尚幼、務在広覧博観、又多鋭精于春秋末年、乃知其周公致太平之迹、迹具在斯。
奈遭天下倉卒、兵革並起、疾疫喪荒、弟子死喪、徒有里人河南緱氏杜子春。尚在永平之初、年且九十、家于南山、能通其読、頗識其説。鄭衆、賈逵往受業焉。
衆、逵、洪雅博聞、又以経書記轉(阮元は「傳」の誤りとするが、ママとしておいた)相証明為解。逵解行於世、衆解不行。兼攬二家為備、多所遺闕。
然衆、時所解説、近得其実。独以書序言「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」、則此周官也、失之矣。
逵以為六郷大夫則冢宰以下、及六遂為十五万家、絙千里之地、甚謬焉。此比多多。吾甚閔之久矣。六郷之人、実居四同地、故云「絙千里之地」者、誤矣。〔又六郷大夫冢宰以下所非者不著。又云「多多」者如此解不著者多。〕
至六十為武都守、郡小少事、乃述平生之志、著易尚書詩礼伝、皆訖。惟念前業未畢者、唯周官。年六十有六、目瞑意倦、自力補之、謂之周官伝也。
鄭玄「周礼注」序
世祖(後漢)以降の通人達士といえば、大中大夫の鄭少贛、名は興、および子の大司農仲師、名は衆。もと議郎、衛次仲、侍中の賈君景伯。南郡太守の馬季長。みな周礼の注釈を著した。
・・・(省略あり?)・・・玄がみるところ、二、三の君子の注釈は原文の曖昧な文章によく注意をはらっているので、夜明けを見るかのように文意がはっきりするし、割符を一致させてまた切り離されたものであるかのように(注釈と本文が)ぴったりとした説である。優れた解釈が多く集められていると言えよう。
しかし、本文には依然として混乱している箇所が残っているし、(本文が?諸子が?)同じ事柄についてであっても記述が相違している場合がある。したがって、(まず)本文の文字の発音へとたちもどり、(そこから)読み方を考察し、(そのなかでも)とりわけよいものを採用する(べきである)。
思うに、二鄭は同族の大儒者であり、書籍に明るく、皇祖(文王?周公?)の道をあらまし知っていたため、『周官』の義は古文字にあることを理解し、疑わしい箇所を見抜いて読み方を正した。実際、優れた説が多いのである。だが、門徒が(?)少なく、(二子の文が)簡略であるゆえに、世に広まっていない。ここに二子を称えて議論にとりあげるが、これは鄭家の訓詁を完成させんと願ってのことである。
(鄭衆は?)[1]『周礼』を『尚書』周官篇とみなし、周官篇は周の天子の官を述べたものだと言っている。これは『尚書』周官篇の序に「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」とあるのを根拠としている。しかし、これはおそらくまちがいである。『尚書』の盤庚、康誥、説命、泰誓などの篇は三篇で、序には「某篇を若干篇つくる」とあり、現存している篇は多くても三千言をこえない。また『尚書』に書かれているのは、時事の事柄か、君臣の訓戒である。(推測するに、)周官篇が作成されたころ、周公も『周礼』をつくり、それによって上下の別を正した。周官篇はただ一篇だが、『周礼』は六篇である。文章は数万字を数える。その言葉は全篇にわたって『尚書』の体裁と異なり、『尚書』の篇だとはとてもみなせない。そうだと考える余地はあるにしても、その見解に従うことはできない。
・・・(省略あり?)・・・(『周官』に示されている)この道たるや、文王、武王が周を秩序だて、天下に君臨した法である。周公は『周礼』を定めて、太平と龍鳳の瑞獣を到来させたのである。
世祖以来、通人達士、大中大夫鄭少贛、名興、及子大司農仲師、名衆、故議郎、衛次仲、侍中賈君景伯、南郡太守馬季長、皆作周礼解詁。
玄竊観二三君子之文章、顧省竹帛之浮辞、其所変易灼然、如晦之見明、其所弥縫奄然、如合符復析斯。可謂雅達広攬者也。
然猶有参錯、同事相違、則就其原文字之声類、考訓詁、捃秘逸。
謂、二鄭者同宗之大儒、明理于典籍、觕識皇祖大経、周官之義、存古字、発疑正読、亦信多善。徒寡且約、用不顕伝于世。今讃而辨之、庶成此家世所訓也。
其名周礼為尚書周官者周天子之官也。書序曰、「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」。是言、蓋失之矣。案尚書盤庚、康誥、説命、泰誓之属、三篇、序皆云「某作若干篇」、今多者不過三千言。又書之所作、拠時事為辞、君臣相誥命之語。作周官之時、周公又作、立政上下之別。正有一篇、周礼乃六篇。文異数万、終始辞句非書之類、難以属之。時有若茲、焉得従諸。
斯道也、文武所以綱紀周国、君臨天下。周公定之、致隆平龍鳳之瑞。
[1]「庶成此家世所訓也」以下につづく、「其名」からはじまる段落には、篇章の区切りを示す記号が附されている。はじめの「其名」から「従諸」までの部分は鄭玄の序とみなすこともできるので、序の引用がまだつづいているものとして、とりあえずまとめてみた。が、阮元の校勘記に「盧文炤がここの段落は鄭玄の序ではないって言ってる」とあるものだから、だめかもしれない。
しかしだとしたら、(1)「是言、蓋失之矣」とあるが、周礼=周官篇と考えているのは誰のことなのか。賈公彦の時代にそんなことを考えていたやつおるんか? だって賈公彦の時代的には、周官篇と『周礼』が両方あったわけで。『周礼』こそ周官篇なのだ、という推測は、周官篇そのものを見ることができない、という条件下でなければならないはずである。(2)そこでやや譲歩して、「其名」から「作周官」までを鄭玄、「是言」以下の按語を賈公彦による鄭玄批判だと考えることもできるだろう。つまり、鄭玄が『周礼』と周官篇を同一に見なしていたという読み方である。しかし、これはいろいろとおかしくなる。天官・小宰における、天地四時の官のおおまかな体系を述べたくだりの鄭玄注に「前此者、成王作周官、其志有述天授位之義、故周公設官分職以法之」とあり、鄭玄は『周礼』と周官篇の関係をそれとなく示している。賈公彦はここの疏で次のような鄭玄の他書の注(?)を引用している。「周公摂政三年、践奄、与滅淮夷同時。又按、成王周官、成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官、則成王作周官、在周公摂政三年時。周公制礼、在攝政六年時」。すなわち、『周礼』は周公の摂六年に成ったが、それ以前の同三年に周官篇がつくられており、周官篇で述べられた義を周公が官に体系化して記録したのが『周礼』である、と彼は理解していたのではないかと思われる。したがって、もとの論点に戻るが、(2)鄭玄が周官篇と『周礼』を同一にみなしていた可能性はありえない。
ここの本文自体は偽古文を見ていなければ書けないわけではないはずだと思うし(序でいけるんじゃないか?)、鄭玄とみなしておいたほうがいい気がするんだが・・・。せっかく訳しちゃったんでこのままにしちゃいます。
余談だが、賈公彦はさきの小宰の鄭玄注を周官篇を参照しつつ解説し、「此鄭義〔周官篇の志は「述天授位之義」のこと〕不見古文尚書、故為此解」、鄭玄が言っている義というものが周官篇にまったく見られないので、この義というものは鄭玄の解釈なのであろう、とする。とはいっても、いまとなってはという話であるが、賈公彦の見ている、そして現存している周官篇は偽古文とされている。孫詒譲が言うように、鄭玄が偽古文の周官篇を見られるわけがないのだから合致していなくたってしょうがないだろう。孫氏は「ひょっとするとマジモンの周官篇を鄭玄は見ていて、それにもとづいて其志有述天授位之義と言っているんじゃね」と言うが、希望的である。[上に戻る]
鄭玄が文字の正しい読み方に注の方針を置いていた、というところだけは読めた(と思う)ので、それだけで個人的には満足である。
実際、鄭玄はテキトウに言っているのではなく、彼の注を読んでいけば「この字はこの字として読む」「この字は本来この字だろう、発音が似ているから誤写したんだ」とかすっごく言っている。
なんか鄭玄には勝手な偏見をもっていたのだが、「ああ、字をどう読むかが鄭玄の基本なんだな、思ったよりメタじゃないんだな」と思えたので、少し好きになったヨ。でもこのおっさんは変なひとですね。
そしてまた、二鄭の注、とりわけ鄭衆(鄭司農)を重んじていることも、彼が頻繁に引用していることからわかる。杜子春の注もけっこうな頻度で引用されているが、引用されている杜注はやはり「この字はこう読む」「この字はこの字の誤り」のたぐい。
鄭衆はよく「春秋の伝にこう言っている」のようなことをよく言っているが、これが馬融の伝に言われていることであろう。鄭玄も同様の方法で周礼を読み解いている。
しかし、周礼の鄭玄注でおもしろいのは、鄭玄と鄭司農の解釈がいちじるしくちがっているところである。
たとえば、秋官に野廬氏という、道路整備の官があるのだが、
若有賓客、則令守涂地之人聚【柝と通じる表現するのがムズイ字。以下「柝」】之、有相翔者誅之。
という一節がある。ここの鄭玄注。
守涂地之人、道所生廬宿旁民也。相翔、猶昌翔観伺者也。鄭司農云、聚柝之、聚撃柝、以宿衛之也。有姦人相翔於賓客之側、則誅之、不得令寇盜賓客。
「守涂地之人」とは、道路上の休息・宿泊所そばの住民のことである。「相翔」とは、好き勝手に出歩いて周囲を見回ることである。鄭司農は次のように言う。「『聚柝之』とは、住民を集めて拍子木を打たせて警戒させ、賓客を夜通し護衛することである。悪者が賓客の付近に『相翔』、すなわちかけとんで近寄ったら、この者を誅殺し、賓客の拉致を阻止するのである」。
両説にしたがって本文を読むと、
鄭玄
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。その者たちのなかで勝手に出歩く者がおれば、その者を誅殺する。
鄭司農
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。悪者が賓客の近くにかけよるようなことがあれば、その者を誅殺する。
これは秋官だからたまたま記憶に新しいだけで、そこらにこんなんがある。だいたい鄭玄のほうが筋が通っている。
また訓詁の区切りがそもそもちがう、という箇所もある。これまた最近読んだのでまだ覚えているところになるが、考工記・輪人の蓋のくだり。〔 〕は鄭玄注。
桯長倍之四尺者二〔杠長八尺、謂達常以下也。加達常二尺、則葢高一丈立乗也〕十分寸之一謂之枚〔為下起数也。枚一分。故書十与上二合為二十字、杜子春云、当為四尺者二十分寸之一〕
ちなみに何を言っているのかはさっぱりわからない。
唯一わかるところ(にして興味を覚えたところ)は、鄭玄は「四尺者二」と「十分寸」以下を分けて読んでいるのだが、従来のテキストでは「二」と「十」で分けずに読んでおり、たとえば杜子春は「四尺者二十分寸……」と読んでいる、というところ。
従来の読みにまったく束縛されない、というところに彼の天性があるんじゃないでしょうか。
繰り返しになるけど、鄭玄はもっとこう、メタってるっていう偏見があったから、こういう姿を見れてよかった。安心した。
こういう感じのが経学、なんですかね。オレは好きだよ。
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