でも急にモチベが出てきたのでつづきっぽいことを書こうかなと思う次第なのだが、本来つづきとして何を書こうとしていたのかぜんぜん思い出せないので、過去記事以来の構想とはちょっとズレるかもしれない。
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「成漢」は言うまでもなく、李氏の政権が当初は成を、のちに漢を称したことに因んだ通称なのだが、この出来事をたんに「国号の変更」で片づけてしまってはいけない。客観的には、あるいは外在的にはそのような理解でとくに問題ない。だが、この事件を政権の内側から取り組もうと思うのであれば、政権のイデオロギー、つまり内在的に通行していた政治の論理の観点から解さなければならない。ようするに、「国号の変更」で済ませてしまっても構わないのだが、じゃあどうして変更する必要があったのか、その変更はどのように正当化されていたのか、という問題は説明できないわけで、そうしてこれらの問題を措いたままで「国号を変更したんだ」との説明を採用するのもどうであろうか。
こういうわけで、本記事では李氏称漢の問題を追究してゆきたい。私の考えでは、この問題は李氏の来歴に関する語りとも関連しているはずである。
まず称漢をめぐる記述を見てみよう。『晋書』巻121李寿載記。
李寿は龔壮の進言に従い、ひそかに長史の略陽の羅恒、巴西の解思明とともに、成都を占拠して(晋に)藩を称して帰順することを謀った。そこで文官武官と盟約して(同志を)数千人を得て、成都を襲撃して落とした。・・・。
羅恒と解思明、および李奕、王利らは李寿に、鎮西将軍、益州牧、成都王を称して、晋に藩を称することを勧めたが、任調、司馬の蔡興、侍中の李艶、張烈らは自立を勧めた。李寿はこのことを占うように命じると、占者は「数年のあいだは天子になれましょう」と告げた。任調は喜んで、「一日でさえも十分であるのに、まして数年ならば!」と言った。解思明、「数年の天子と、百世の諸侯、どちらがよいものか」。李寿、「孔子は『朝に道を知れば、夕べに死んでも良い』と言った。私もそう思う(から、占いの結果を道とすれば、わずかなあいだでも私は十分である)。任侯の進言が上策だろう」。そこでとうとう、晋の咸康四年に僭して偽位に即き、境内を大赦し、改元して漢興とした。・・・追尊して父の李驤を献帝、母の昝氏を太后とし、妻の閻氏を立てて皇后とし、世子の李勢を太子とした。(寿従之、陰与長史略陽羅恒、巴西解思明共謀拠成都、称藩帰順。乃誓文武、得数千人、襲成都、克之。・・・。恒与思明及李奕、王利等勧寿称鎮西将軍、益州牧、成都王、称藩于晋、而任調与司馬蔡興、侍中李艷及張烈等勧寿自立。寿命筮之、占者曰、「可数年天子」。調喜曰、「一日尚為足、而況数年乎」。思明曰、「数年天子、孰与百世諸侯」。寿曰、「朝聞道、夕死可矣。任侯之言、策之上也」。遂以咸康四年僭即偽位、赦其境内、改元為漢興。・・・追尊父驤為献帝、母昝氏為太后、立妻閻氏為皇后、世子勢為太子。)
成を建てた李雄は、西晋末に益州に移動した流民グループのリーダー・李特の子であるが、特にはいっしょに益州に入った兄弟たちがいた。そのひとりが驤、すなわち寿の父である。驤は雄の叔父にあたるので、雄と寿とは従兄弟の関係になる。雄の死後、成の帝位は雄の兄の子・班に継承され、寿はいわば宗室扱いとして、王に封建されて輔政を遺嘱された。雄の子らは班が継いだことに不満で、即位して数ヶ月後、雄の子の越が班を殺害し、越は後継に弟の期を推薦した。期が立って約4年後、期と越は寿の謀殺を図り、身の危険を感じた寿は前引した史料にみられるごとく、成都襲撃のクーデターを実行し、政治的実権を得た。
さて、引用文をあらためて眺めてみるが、ここには李寿が、漢を称することにした、という記述、表現がみられない。せいぜい、漢興という元号がそれを示唆させる程度である。
そこで同様の事態を記した『華陽国志』李特雄期寿勢志のほうを確認してみよう。
寿亦生心、遂背思明所陳之計、称漢皇帝。・・・下赦、改元漢興。
また『魏書』巻96賨李雄伝附寿伝。
改年為漢興、又改号曰漢。
これらによって、李寿が「漢の皇帝を称した」ことは明白であり、漢興の元号はそれにもとづくものであることがわかる。
ところが、この成→漢、どうも穏やかな変更ではなかったようなのである。李寿載記の最後のほうの記述を引いてみよう。
偽位に即いたのち、宗廟を立てなおし、父の李驤の廟を漢の始祖廟とし、李特、李雄の廟を大成廟とし、また書を下して李期、李越とは族を別にすると言い、すべての諸制度を改易した。公卿以下には、おおよそみずからの僚佐を登用し、李雄のときの旧臣や六郡〔李特時代にいっしょに流入した流民らの出身地〕の士人はみな罷免された。(及即偽位之後、改立宗廟、以父驤為漢始祖廟、特、雄為大成廟、又下書与期、越別族、凡諸制度、皆有改易。公卿以下、率用己之僚佐、雄時旧臣及六郡士人、皆見廢黜。)
李寿の称した漢の始祖はあくまで父・驤であって、特や雄ではない。彼ら二人は大成の廟として、漢の廟とは別にされて祀られている。
寿が雄をどう考えていたかは微妙なところで、雄の子らと自分とは族がちがうと明言しているし、雄の子はすべて殺害したらしいのだが(李期載記)、載記には寿が雄の政治スタンスを継承しようとしていたとも記されており(「寿承雄寬倹、新行簒奪、因循雄政、未逞其志欲」)、容易には理解できない距離を置いていたのかもしれない。
とはいっても、漢の廟と別にすることからは、ある重大なスタンスが汲み取れるはずである。つまり寿は、漢は成とは異質の政治共同体だと主張しているのだ。寿からすれば、成はすでに過ぎ去った朝代であったはずである――それは漢にとっての秦、魏にとっての漢、晋にとっての魏のようなもので、「二王之後」的に、あるいはいちおうの先人扱いとして、廟を設けているのでないか。両者の継続的関係が全面に拒絶されているわけではないのだろうが、その継続性は〈切り離された〉両者を結ぶものであって、両者を同一化させるような意味での連続性ではない[1]。
国号が変更されたのはたしかにそうである。しかし、たんに成の表面をちょっとした都合が生じたから変更したのではなくて、根本的なところが革まったがゆえに、国号が変わるという表面上の現象を引き起こしたと考えるべきなのである。したがって、私は成から漢へのこの事件を――便宜上から今後も「成漢」の通称は用いていくであろうが――「革命」と把握すべきだと考える。
李寿が創出したイデオロギーは、彼の子・勢のときにある変更を余儀なくされる。
太史令の韓皓が奏上し、熒惑が心宿にとどまって不吉な予兆を示しているが、これは宗廟の礼が廃絶されているからである、と具申した。李勢は群臣にこのことについて議論するよう命じた。相国の董皎、侍中の王嘏らの意見は、景帝(李特)と武帝(李雄)が帝業を盛りあげ、献帝(李驤)と昭文帝(李寿)がそれを継承したのだし、双方の家系は至親の近しい関係にあるのだから、(景帝、武帝の家を)ないがしろにして絶やすべきでない、というものであった。李勢はそれに従って李特と李雄を祀るように命じ、号を漢王に統一した。(太史令韓皓奏熒惑守心、以宗廟礼廃、勢命群臣議之。其相国董皎、侍中王嘏等以為景武昌業、献文承基、至親不遠、無宜疏絶。勢更令祭特、雄、同号曰漢王。)
これがいつごろのことなのかハッキリはしないが、李勢載記のはじめに記されていることからして、李勢の即位からそれほど時を経ていないと思われる。李特、李雄復権の動きは李寿の時代から潜勢しており、寿の死によって噴出したのであろうと予想はつくが、ここではその運動自体に切り込んでいかない。
私が注意しておきたいのは、この変更によっていかなる政治論理の変動が起きたか、である。私は先ほど、李寿がやったことは実質的に革命であると述べた。ところが李勢時代の変更は、李寿が創りあげた公式見解の修正をともなっている――「革命はなかった」。李特も李雄も「漢王」に回収されていくことで、李氏の朝代は李特以来、連綿とつづく歴史を築くことができる[2]。かかる変更後に、成を称していた時代をどう理屈づけたのか。これはいっさい不明であるけれども、比較例としては趙の劉曜を挙げることができる。彼は、劉淵が漢帝を称したのは一時的な措置である、と主張して趙に改めたのであった[3]。
革命ではなくなった成から漢への移行は、まさしくたんなる「国号の変更」という出来事に語りなおされることであろう。「漢への変更を国号の変更と理解することは誤っていない」と私が述べたのは、その意味においてである。
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それにしても、なぜ李寿は「漢」を選んだのか。これはしばしば、三国の蜀漢と関連して語られることがある。私も以前はその可能性を捨てきれずにいたのだが・・・いまは断言したい。その可能性はない。
そもそも、李寿はみずから漢帝を称している。しかし、もし「あの」劉氏の漢の復興を掲げて「漢」を名乗るのならば、当然劉氏が天子でなければならない。張昌という、西晋末に長江中流域を中心に一勢力を築いた人物がいるが、彼はたまたま知り合った人間を劉氏に改名させ、漢の劉氏の後裔ということにして天子にまつりあげ、自身は相国に就いたそうだ(『晋書』巻100張昌伝)。劉淵だって同じである。高祖の子孫を名乗ったわけだから。劉氏漢の名を借りるのであれば、それが当然なのである。
ところが李氏に関しては、そのような痕跡がいっさいみられない。とてもだが、劉氏漢を考慮したとは思えないのだ。
益州で漢といえば、当時の人びとにとってもあの劉備らを想起するであろう。李寿もまったく知らなかったなんて考えがたい。だが、そういう効果が結果的にあった可能性がある、ということと、李寿のイデオロギーのねらいがそこにあった、ということは別個である。漢を称することによって劉備たち劉氏漢の記憶を喚起すること、そこに李寿の目的、政治的正統の構築があったとはとても思えない。だって劉氏漢のことガン無視してるんだもの・・・。にもかからず蜀漢との関連を推測してしまうのは、ただの期待過多である。
イデオロギー的なものの意図を解釈するにあたり、受け取る側の目線に立つことからいったん離れることも必要である。李寿が劉氏とは関係ない仕方で漢を名乗ったのには、彼自身の生涯のうちに必然的な理由があったはずである。
と、仰々しく言ってみたのだが、実際、その理由とやらはかなり単純なものだったと思われる。李寿は、李期が即位したさい、期によって漢王に封じられていた。約4年後、漢王としてクーデターを実行した。――おそらく、それだけである。
いやいやいや。いくらなんでもあっさりすぎるというか、漢との結合が薄弱である。なのでもうちょい調べてみたところ、『資治通鑑』巻94咸和三年の条。
是歳、成漢献王驤卒〔胡注:成封李驤為漢王〕。
なんとまあ、李驤は漢王に封じられていたらしいのだ。
李驤を漢王と呼称するのは他の史書にみられず、『資治通鑑』でもおそらくここだけである。司馬光は現在では散佚してしまった五胡関係史料を参考にしているので、他書に出てこない記述がよくみられる。そういう事情なので、これもそのひとつであろうとみなしておきたい。そうだとして、こう考えられるんじゃあないか。李驤は李雄のときに漢王に封じられた、やはり李雄のときに彼は没したのだが、諡号は「献」であった、一方の李寿は李雄時代にすでに父とは別に公・王に封じられていたが、のちに父の王位を継ぐことができた、李寿は漢王を、したがって漢を、みずからの家を象徴する記号とし、漢王から漢帝に即いた、それにともない、漢の献王・驤は献帝へと昇格した。・・・。
こんなシナリオでどうだろう。
***
で、結局これが私が過去に投稿して問題にしてきた来歴神話とどう関係があんのって話だが・・・。あくまで私の関心では、ああいういびつな李氏の神話は誰によって語られたのか、にある。李氏みずからが廩君を自己の起源に据えたのかどうなのか。李氏のイデオロギーを検討することによって、その手がかりが得られるのではないかと私は期待したのである。
だが、それというヒントはとくにみつからなかった。強いて言うなら、李寿にとっては廩君をもちだす必要があったと思えない、程度か。
石勒なんかのように、建国したから家を神話化するパターンは一般的でなさそうだしなあ。だとすると、後世の崔鴻なんかが、「あの李氏ってのはそこらのよくわかんねえ蛮夷のようにみえるが、その由来を説明するとだなあ」みたいな感じで付け加えた説明だったりするのかな。
本記事では、問題をひどく静態的に論じた。だが李寿の行動の背景には、よりワイドで、ダイナミックなエネルギーがあったはずである。そのような観点からも見直していく必要があるが、それはまあそのうちやる気が出たらというわけで、これにていったん。
――注――
[1]李雄は帝位に即くと、李特を始祖と追尊している。一方、寿の父・驤も始祖と追尊されていることは前述の史料に述べられているとおり。廟号が、それも始祖という超特別な号がかぶるなど、ありえないことである。成の始祖は李特、漢の始祖は李驤、と明確に切断されていることがわかる。[上に戻る]
[2]材料があまりにも少ないなかでの、勇み足な推測になるが、李氏の国史『漢之書』(常璩撰、別名『蜀李書』)が李雄を「始祖第三子」と記していること(『太平御覧』巻363引ほか)は、李特が漢の起源に置かれた可能性を示すのではないか。『漢之書』、この書名からして李寿時代に編纂がはじまったものと私は考えるが、おそらく李特、李雄は当初から『漢之書』に立伝されていたと思われる。それが李勢以後、どのように変容し、修正されたのか、あるいはまったくされなかったのか、現在私たちが閲覧する五胡関係史料に影響を及ぼしたのか否か、深い闇なんだよなぁ・・・。[上に戻る]
[3]これまたうがった勘ぐりの一種だが、『華陽国志』大同志に、李特らが当時の益州刺史・趙廞とまだ良好であったころのこととして、李特の弟・庠が趙廞に「称大号漢」=漢を称して自立することを勧めたという。このことは『華陽国志』にしかみえず、常璩がいかなる資料を参考にしたのか不明である。もっとも、彼は『漢之書』の撰者なのだから、現在私たちが目にすることができないものを多く知っていたにちがいないが。かりにこれが『漢之書』に記されていたことだとすれば――まるで李特らが益州に入った当初から「称漢して自立する」プランを抱いていたかのような歴史に、成はやむをえない事情で称したもので、本来の意志は漢であるかのような物語になるだろう! と思うのだけどこれは病気の考え方で、そこまで壮大な物語は構築していないような・・・。じゃあ庠はどうして漢を? となるとぜんぜん文脈がわかんないから見当がつかない。
なお、劉曜との比較の点で付言をさせてもらうと、劉曜は劉総をネガな存在として扱いこそすれ、劉淵に対しては決してそのような態度を取ることなく、趙の天命を下された者として上帝に配して祀り、自身を劉淵の継承者と位置づける仕方で正統を組み上げていった。それゆえ、彼は漢の時代を切り離すことができなかった。趙の国史が『漢趙記』という名であることは、かかる歴史観を反映しているものと考えられる。このように劉曜と李寿とは方法がいちじるしく異なっている。[上に戻る]
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