2013年10月26日土曜日

西晋時代の人事運用の一例(『晋書』李重伝)

『晋書』巻46李重伝
 遷尚書吏部郎、務抑華競、不通私謁、特留心隠逸、由是群才畢挙、抜用北海西郭湯、琅邪劉珩、燕国霍原、馮翊吉謀等為秘書郎及諸王文学、故海内莫不帰心。
 時燕国中正劉沈挙霍原為寒素、司徒府不従、沈又抗詣中書奏原、而中書復下司徒参論。
 司徒左長史荀組以為、「寒素者、当謂門寒身素、無世祚之資。原為列侯、顕佩金紫、先為人間流通之事、晚乃務学、少長異業、年踰始立、草野之誉未洽、徳礼無聞、不応寒素之目」。
 重奏曰、「案如癸酉詔書、廉譲宜崇、浮競宜黜。其有履謙寒素靖恭求己者、応有以先之。如詔書之旨、以二品繫資、或失廉退之士、故開寒素以明尚徳之挙。司徒総御人倫、実掌邦教、当務峻準評、以一風流。然古之厲行高尚之士、或棲身巖穴、或隠跡丘園、或克己復礼、或耄期称道、出処黙語、唯義所在。未可以少長異操、疑其所守之美、而遠同終始之責、非所謂擬人必於其倫之義也。誠当考之於邦党之倫、審之於任挙之主。沈為中正、親執銓衡。陳原隠居求志、篤古好学、学不為利、行不要名、絶跡窮山、韞韣道芸、外無希世之容、内全遁逸之節、行成名立、搢紳慕之、委質受業者千里而応、有孫孟之風、厳鄭之操。始挙原、先諮侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼。去三年、諸州還朝、幽州刺史許猛特以原名聞、擬之西河、求加徴聘。如沈所列、州党之議既挙、又刺史班詔表薦、如此而猶謂草野之誉未洽、徳礼無聞、舍所徴検之実、而無明理正辞、以奪沈所執。且応二品、非所求備。但原定志窮山、修述儒道、義在可嘉。若遂抑替、将負幽邦之望、傷敦徳之教。如詔書所求之旨、応為二品」。
 詔従之。

 (李重は)尚書吏部郎に移った。体裁ばかりで浮薄な人(「浮華」)を抑え込むのに努め、私的な斡旋を行なわず、とりわけ隠逸の士に心を向けていたので、多くの有能な士が推挙された。(例えば)北海の西郭湯、琅邪の劉珩、燕国の霍原、馮翊の吉謀らを抜擢し、秘書郎や諸王の文学に就けた。かくして、天下の人々はみな(李重に)心服したのである。
 当時、燕国中正の劉沈が霍原を「寒素」に推挙したが、司徒府は(劉沈の推挙を)採用しなかった。劉沈は抗弁のため、中書省に出向いて霍原のことを報告したところ、中書省はもう一度司徒府に調査を命じた。
 司徒左長史の荀組の意見、「『寒素』とは、家柄が低く、その人個人も貧素で、家代々の『資』[1]がない者を対象としている。(だが)霍原は列侯で、金印紫綬を帯びている。当初は世間をさすらい歩き、年をとってからようやく勉学に打ち込み、成人になってからやっと立派な行ないをおさめ、三十歳を越えてようやく成果をあげた〔原文「年踰始立」。『論語』の「三十而立」を意識した表現〕。原野における(彼の)名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない。(霍原は)『寒素』の科目にふさわしくない(以上が司徒府の下した結論である)」。
 李重の意見、「癸酉詔書〔原文ママ。詔書はしばしば下された日の干支を頭に着けてこのように呼ばれる〕には、『廉潔の士は重用し、浮華の者は退けよ。履謙・寒素・靖恭・求己(の科目)にふさわしい者がおれば、彼らを優先的に登用せよ』とある。詔書の主旨をかんがみるに、二品の評定を『資』に関係させて下してしまうと、(『資』を有していない)廉潔の士を失うことになるから、(『資』がない人士を対象とした)寒素の科目を設けて徳を尊重する選挙であることを明確にしたのである。司徒は人材を総括し、国家の教化をつかさどるところ、まさに厳格な人物評定に努め、風俗を正すべきである。さればこそ、いにしえの行ないに励んだ高尚の士は、ある者はほら穴に隠棲し、ある者は田舎に隠退し、ある者は身を節制して礼に立ち返り、ある者は年老いてから道を主張した。(彼らが)仕えるか退くか、黙るか話すか(を決めた基準)は、ただ義があるかどうかだけであった。(だというのに、このたびの司徒府は、霍原が)時間をかけて立派な行ないをおさめたことを評価せず、彼が善しとして固持していることを疑い、しかも過去をさかのぼって(行動が)終始一貫していないあやまち〔行動が軽薄だということ。具体的な経歴で言うと、最初はぶらつき遊んでいて、あとになってから勉学したことを指すか〕と同一視しているが、(このような評定は)人物は必ず同輩たちの徳義によって測らねばならないという原則に反している。まさしく、人物は郷党の友人たちや推挙の保証人[2]によって審査しなければならない。(このたび保証人となっている)劉沈は中正であり、みずから選挙の公務を執っている。彼が述べるところによると、『霍原はひっそり隠居生活を送って志をめざし、いにしえを尊重して学問を好み、利益のために勉学せず、名声のために行ないをせず、交際を絶って山にこもり、道術を修め、外面は立身出世を望む様子もなく、内面は隠逸としての節義をまっとうせんとしている。振る舞いが完成し、名声が広まると、人士たちは彼を慕うようになり、(弟子入りのための)贈り物を渡して学問の指導を受けようとする者は、千里をものともせずにやって来ている。霍原には孫卿(荀子)や孟軻(孟子)〔原文「孫孟」。勘でこの二人だと思ったが、自信はない。後漢末~魏の時期に孫炎という学者がいたが、ああるいは孫炎を指すかも。その場合、孟が誰かという問題になるが〕のような風格があり、(漢の)鄭子真や厳君平[3]のような節操が備わっている。最初に霍原を推挙しようとしたとき、事前に侍中・領中書監の(張)華、さきの幽州大中正・後将軍の嬰、河南尹の軼に(可か不可かを)たずねた(ところ、了承を得ることができた)。また三年前、各州の刺史が朝廷に戻ったとき、幽州刺史の許猛は霍原の名声が高く、西河太守(の某)に匹敵するとし、特別に(朝廷に霍原を)招聘するよう求めている』ということだ。劉沈によれば、郷党の意見はすでに得ており、また幽州刺史も(癸酉?)詔書を(州内に)ふれまわって、(霍原の)推薦を上表していることになる。このようであるというのに、『原野における名声はまだ高くなく、徳や礼についても評判は立っていない』と言い、保証の根拠となる事実を棄ておき、しかも明白な論理も正確な陳述もなく、劉沈の推薦をむりやり否決している。それに、二品にふさわしいというのは、全ての面が備わっていることを求めるのではない。ただ、霍原は固い意志を抱いて山にこもり、儒学と道術を修得しており、その義は評価すべきである。もし(彼を登用せずに)おさえつけてしまえば、幽州の名望家を裏切り、徳を厚くする教化を損なうことになるだろう。癸酉詔書が要望する趣旨に従い、(霍原を)二品にすべきである」。
 詔が下り、李重の意見を採用した。
 なかなか興味深い記事である。まず人事選考の流れをまとめてみると、
  中正の選挙→司徒府の採決――(可)―→尚書吏部の選考? 
              ┖―(不可)―→不採用
                                       ┖→中書が仲介して関係各所(中正・尚書・司徒府)で再審査
という感じだろうか? 知らんけど。
 『宋書』百官志上訳注(2)の注20、24で言及したように、司徒府には左長史という特殊な長史が置かれ、「掌差次九品、銓衡人倫」(『通典』巻20)、すなわち九品官人における品の評定を職掌としていたらしい。

 それと「寒素」という選挙科目だけど、文脈からしてどうやら「二品」に相当するみたいだね。科目のある選挙って言ったら、いわゆる「孝廉」「茂才(秀才)」「賢良」をはじめとする漢代の選挙が想起される。漢代の選挙は、郡太守(郡太守の人物推挙は「孝廉」という科目)や州刺史(刺史の推挙は「秀才」という科目)や二千石以上の高官が、特定の秩石以下の人物を推薦する仕組みとなっている。太守(孝廉)や刺史(秀才)のような定期的に行なわれる場合と、皇帝が不定期に二千石以上高官に推挙を求める場合とがあった(賢良、方正など。この場合の選挙を「察挙」と呼ぶ)。孝廉や秀才などに推薦された人物は中央に行き、皇帝の策問(時事や経義などにかんする質問)に回答(「対策」と呼ぶ)し、この試験結果次第で、その後に任命される官職やコースに差がでるわけです(あやふな知識で話してます。専門書としては福井重雅先生の『漢代官吏登用制度の研究』創元社、1988年が詳しい。一般書ではちょっと・・・)
 かかる他薦式の選挙方式は魏晋以後も細々ながら継続していたことが諸史料に見えている。霍原がかつて幽州刺史に推薦されたという話も、「秀才」に選ばれたことを言ってるんじゃないかな。もっと具体的な例を述べてみよう。東晋時代のこと、東晋初期は戦乱直後ということで特別に孝廉や秀才に試験を課さずに官に命じていたけども、落ち着き始めると元帝は試験制度を復活させた。そうすると今度は孝廉、秀才に推挙されてもそれに応じない者が続出し、たまに中央に来る者はいても、「病気なんで」とか言って何とか試験をやりすごそうとする。孔坦が「時期が時期だし、もう少し落ち着いてから試験を再開した方がいいっすよ」と提案すると、元帝は五年間孝廉の試験を免除した。だが秀才に関しては試験が存続したので、湘州刺史の甘卓は秀才も試験をなくすよう求めたものの、却下された。のち甘卓は谷倹を秀才に推挙した。当時、秀才に挙げられた人物は試験を嫌がってみんな応じず、中央試験に行くものは誰もいなかった。ちなみに秀才は定期的に義務づけられているので、刺史は恒常的に人物を推挙しなければならんのである。ところが谷倹はそうした当時の風潮をものともせず、一人だけ試験を受けに都に行った。ほかに受験者は誰もいないので、試験を実施せずに谷倹は合格となった。だが谷倹はどうしても試験をやらせて欲しいと懇願し、試験を受け、好成績を収めて郎中就任というエリートコースを得たのであった。という長々としたエピソードがあります。(『晋書』巻70甘卓伝、同書巻78孔愉伝附坦伝)
 ついわきに逸れに逸れてしまったが、要するに言いたいことは、中正による九品官人の選挙にも、郡太守や州刺史の「孝廉」「察挙」同様、科目名があったのだろうか、ということです。あったのかな。よくわからないけど。中正が人物評価をしたためるときは、「輩」という推薦人物と同格と思われる人物のリストと[4]、「状」という簡潔な人物評=才能の評価を作成するのだけど[5]、その「輩」や「状」に「こいつは何品くらい」って書いてそれで終わり、みたいな選考じゃなかったんだね。「寒素」に厳密な条件があったことからして、「輩」や「状」を作成しつつ各科目に仕分けして推薦する仕事もあったのかな。
 ちなみに「寒素」の科目で検索してみると、陸機のような孫呉系人士や陶侃など、たしかに寒門っぽい人たちがこの科目に挙がっていたようだ。

 さらに気になるのが、中正が推薦する際、事前に三人の人物に聞き訪ねてお墨つきを得たという話だ。このうち、「侍中・領中書監華」は訳文で補っておいたように、おそらく張華を指すと思われる。他の二人、某嬰と某軼は不明。だがここで張華が登場している時点でどういうやつらなのかは推測がつく。張華といえばそう、本貫は范陽、すなわち幽州の出身なんですよこれが。そうすると後文のいくつかの箇所が色々と思い当たって来るよね。「郷党の意見ですでに了承されている」「幽州の名士たちに背くことになる」とか。そう、それらの文言は張華や某嬰、某軼をはじめとする幽州の名士にもうお墨つきをもらってるんだけど文句あんの? ってことを言っているのだろうね。中正が人物を推挙するにあたって、その州の著名人に意見を聞くことが、郷党の意見から了承を得ることになっているわけだ。他の州でも同様だったのかもしれないし、これが常制だったかもしれない。まあつまりね、先行研究で散々議論されていた「郷論」っていうのはこういうもんなんじゃないですかね。

 と、つい長くなってしまいました。この李重伝の記事、宮崎市定『九品官人法の研究』にも取り上げられていて(中公文庫版、pp. 121-122, 157-158)、それなりに知られてはいるのだけど、もっと注目されるべき史料だと思うんだよなぁ・・・。
 ちなみに霍原は『晋書』隠逸伝にも立伝されています。このときのお話も少し載っているよ。霍原はのち、幽州刺史・王浚に因縁をつけられて殺されてしまいました。


――注――

[1]『資』は原文のママ訳出した。官制用語。だがどうやら用語であるらしいということがわかっているだけで、なにをもって「資」と呼んでいるのかは明確ではない。中村圭爾氏は昇進ルートのランクのようなものを指すと解しておられるようである。つまり、同じ品でも官によって出世コース上の官とそうでない官があり、出世コースのルートにつけるかどうかはその人がこれまでどのような官歴をたどってきたかに依るが、その官歴の累積ポイントのようなものが「資」で、「資」が一定まで積もればルートのランクがアップする、といった感じのようだ。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。
 ただ、中村氏も言及しているが、「資」に関する熟語には「門資」「世資」、さらには今回取り上げた李重伝の記事にも「世祚之資」とあるように、明らかに家柄に関する何かを意味しているような場合がある、というか比較的そのような用例が多い印象がある。かりに「資」を上のようなものと考えてみると、個人だけに留まらず家ごとに「資」が累積していたことになる。その場合、どのように「資」は決まっていたのだろう? 父の官歴?
 「資」という語は劉寔「崇譲論」(『晋書』巻41本伝所載)、劉毅「八損論」(『晋書』巻45本伝所載)などにも見えており、西晋時代にはもう一般的な語であったようだ。わたしもよく見かけてきた語で、以前からとても気になっていた語なのだけど、申し訳ないが具体的なイメージがいまだにつかめない。中村氏が言うように、人事運用上で参照される「何か」であることはたしかなのだが・・・
 余談だが、北魏には「階」という制度があり、官職の成績や勤続年数、あるいは軍功によって累積するもので、官を得たり転任する場合は「階」を参考基準として人事の運用がなされたという(岡部毅史「北魏の「階」の再検討」、『集刊東洋学』83、2000年)。中村氏の「資」の解釈にどことなく似ている。[上に戻る]

[2]人物推薦の際に保証人がつくことは、戦国秦から行なわれていた制度である。詳しくは楯身智志「秦・漢代の「卿」――ニ十等爵制の変遷と官吏登用制度の展開」(『東方学』116、2008年)を参照。[上に戻る]

[3]原文「鄭厳」。人名なのはわかるけど、誰のことだかはよくわかりませんね。このような、六朝時代の漢文で出典を調べるとき、最も役に立つのが『文選』の唐・李善注である。李善はひたすら典拠を記述するというスタイルで注釈をつけたため、熟語の出典をはじめとして調べものをするときはホントに助かるんですよ。え? でも唐代の人物じゃん? は、何言ってんの? 李善なんて現代の我々よりうん百倍と教養あるんですけど。むしろ李善さんを呼び捨てにするのもためらわれると感じないの? じゃあさっそくこの「鄭厳」の出典について、李善さんのお言葉を賜わることといたしましょう。幸いなことに、李善さんは我々を見棄ててはいなかった。『文選』巻23諸州の嵇康「幽憤詩」に「仰慕鄭厳」という句があり、李善どのの注、「漢書曰、谷口有鄭子真、蜀有厳君平、皆脩身保性。成帝時、元舅王鳳以礼聘子真、子真遂不詘而終、君平卜筮於成都市、以為卜筮賤業、而可以恵衆、日閲数人、得百銭、足以自養、則閉肆下簾而授老子、年九十余、遂以其業終」。この文章は現行『漢書』巻72王貢両龔鮑伝の冒頭からの節略引用である。鄭子真は官に招かれても応じず、隠居して世を終えた人、厳君平は占いを仕事にしていたが、それで満ちるを知り、仕事のあとは『老子』の教授などをしながら生活し、そのまま天寿を全うしたという。[上に戻る]

[4]輩で著名な話が司馬炎と鄭黙の事例。司馬炎が魏末に中正の選挙を受けたときのこと、郡内では司馬炎の「輩」に相当する人物がいなかったため、州内に対象範囲を広げて「輩」を探したところ、鄭黙に決まったという(『晋書』巻44鄭袤伝附黙伝)。選挙するにあたって、「コイツはこの人物と同等ですよ」みたいなね、なんかそういうのが必要だったらしい。[上に戻る]

[5]状については矢野主税「状の研究」(『史学雑誌』76-2、1967年)が詳しい。矢野氏が状の例として挙げるのが、列伝冒頭にあるリズミカルな標語。例えば「少有風鑑、識量清遠」(王導)、「風格峻整、動由礼節」(庾亮)など。また中村圭爾氏によれば、状には才能評価だけを記したものだけでなく、それに加えて品を記したものを指す場合があったが、西晋になるとさらに、その人個人の官歴の記録(「薄伐」と言う)も状に記録するようになったという。中村「初期九品官制における人事について」(川勝義雄・礪波護編『中国貴族制社会の研究』同朋舎、1987年)参照。[上に戻る]

2013年10月12日土曜日

石勒ファミリー

 石勒、と言えば、西晋末期から五胡初期を代表する人物であるが、彼は「匈奴」劉氏や巴氐李氏と違い、族的なバックボーンが皆無なところから勢力を形成したことでも著名であろう。
 だが載記などを読んでみると、ちょくちょく石氏が出てきてるじゃん?ってなるじゃん? そこでね、今回は石勒時代の石氏たちの素性を詳しく調べてみた。これで石勒ファミリーの全貌がわかるね!

石虎
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石虎字季龍、勒之従子。勒父朱幼而子之、故或謂之為勒弟。晋永興中、与勒相之[1]。嘉平元年、劉琨送勒母王及虎于葛陂、時年十七。

石虎は字を季龍といい、石勒の従子である。石勒の父の周葛朱が幼少の石虎を子として養ったので、石勒の弟とも言われることがある。晋の永興年間、石勒と生き別れた。嘉平元年、劉琨が石勒の母の王氏と石虎を(石勒の駐留していた)葛阪に送った。そのとき、石虎は十七歳であった。
『世説新語』言語篇注引『趙書』[2]
虎字季龍、勒従弟也。
敦煌発見「晋史」残巻[3]
従子虎。
 「従弟」か「従子」かで記述に多少の違いがある。「従弟」とはおそらく、父方の兄弟の子でありかつ石勒より年少、ということであろう。石勒の父親がわざわざ引き取って育て、石勒の弟のようにしたというのもそれならうなずける。他方、「従子」とは父方・母方の兄弟姉妹の子を言うこともあるそうだ(『漢辞海』)そうなると「従弟」とほとんど同じ意味だね。ちがいます(2020/8/13)。まあ、こういう場合に各史料を整合的に突き合わせるのはあんまりよくないとは思うのだけど、とりあえず石勒より年少であり、石勒と父あるいは母を同じくする兄弟というわけではなさそう、ということだけおさえられればよろしい。

石会
『晋書』巻104石勒載記上
時胡部大張〔勹+背〕督・馮莫突等擁衆数千、壁于上党、・・・勒於是命〔勹+背〕督為兄、賜姓石氏、名之曰会、言其遇己也。

ときに、胡部大の張〔勹+背〕督や馮莫突らが数千の衆を擁して、上党に自衛拠点を築いた。・・・(ここにやって来た石勒は張〔勹+背〕督らを自分に従うよう説得し、成功すると、)石勒はこうして張〔勹+背〕督を兄(?)とし、石氏を賜い、「会」と名付けた。「石勒と出会った」ことを意味している。
 石勒が劉淵に帰順する直前のこと、石勒は上党にいた「胡部大」の張らを説得した、「オレはすごいから、オレに従え」。こうして張らは石勒の指揮下に入り、石勒はこの手勢を引き連れて劉淵のところへ行ったのだという。で、このときに「胡部大」の張に石氏を賜い、「オレと会ったのも運命なんやで」という意味で「会」の名を授け、石勒の兄弟としたのだそうだ。「胡部大」は詳しくわからんが、まあ胡族の親分とかそんなもんでしょう。唐長孺氏だったかは忘れたが、誰かが「烏丸には張姓が多い」とかいうことで、この胡部大の張は烏丸であろうとか推測していた気がする。記憶違いかもしれんが。

石生
『太平御覧』巻326所引『二石偽事』[4]
劉曜躬領将士二十七万、大挙征勒、勒養子生為衛将軍、領三千人、鎮洛金墉城。

劉曜はみずから将兵二十七万を統率し、全軍挙げて石勒を討とうとした。石勒は養子の石生を衛将軍とし、三千人を統率させて、洛陽の金墉城に駐屯させた。
敦煌発見「晋史」残巻
晋人則程遐・徐光・朱表・韓攬・郭敬・石生・劉徴、旧族見用者河東裴憲・穎川荀綽・北地傅暢・京兆杜憲・楽安任播・清河崔淵。
 興味深い事例。『二石偽事』によると養子として見えている。石勒載記・下などでも、石生は劉曜攻撃の先鋒に立ち、洛陽金墉城に駐留しているので、『二石偽事』の「養子生」は他書に見える石生と同一人物と考えてよいだろう。さらに敦煌「晋史」残巻には登用された「晋人」の一人に「石生」の名が挙がっているが、もしこの「石生」が「養子の石生」と同一であったとすれば、石生は石勒の養子となった晋人であることになる。なんとまあ!(ちなみに「晋史」残巻に挙がっている晋人のなかには有名人もいますね。石氏の外戚となる程遐、石勒の懐刀であり牛医の家から出た徐光、若き日の石勒を評価し援助していた郭敬、おそらく十八騎の一人で曹嶷を滅ぼしたあとに青州刺史として活躍した劉徴、などなど)
 また、『晋書』巻105石勒載記・下・附石弘載記に、石勒没後のこと、石虎が政権を握る中途におけることとして、
時石生鎮関中、石朗鎮洛陽、皆起兵於二鎮。

当時、石生は関中に出鎮し、石朗は洛陽に出鎮していたが、両者とも各鎮所で挙兵した。
とか、『宋書』巻24天文志二には、
其年七月、石勒死、彭彪以譙、石生以長安、郭権以秦州、並帰従。於是遣督護高球率衆救彪、彪敗救退。又石虎、石斌攻滅生、権。

咸和八年の七月、石勒が死ぬと、彭彪が譙で、石生が長安で、郭権が秦州で、みな(東晋に)帰順した。こうして、(晋の朝廷は)督護の高救に軍を統率させて派遣し、彭彪を救援しようとしたが、彭彪は(石虎に)敗れたたため、高救も退却した。また石虎、(虎の子の)石斌が石生と郭権を攻め滅ぼした。
とある。石勒晩年から石弘時期にかけての石虎が権力を手中にする時期においては、石生は長安に出鎮しており、石虎に対し反発の挙兵を実行している。出鎮ということはその周辺地域に関する大権を有していたのだろう、養子とはいえそれなりの権力を委託されていたようだ。なお、洛陽にいたという石朗は素性不明。

石聡
『晋書』巻63李矩伝
石勒遣其養子悤襲默。

石勒は養子の悤を派遣して郭黙を襲撃させた。
 この記事、石勒載記・下は「石聡」に作っている。まあ通じる字なので、同一人物と見なしてよろしかろう。ということで、石聡は養子。
 石聡も石生同様、石虎に反発したらしい。『晋書』巻7成帝紀・咸和八年(西暦333年)七月の条に、
石勒死、子弘嗣偽位、其将石聡以譙来降。

石勒が死に、子の弘があとを継いだ。後趙の将軍の石聡は譙を挙げて(晋に)来降した。
とあり、同様の記事は『晋書』巻78孔愉伝附坦伝にも、
咸康元年、石聡寇歴陽、王導為大司馬、討之、請坦為司馬。会石勒新死、季龍専恣、石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。

咸康元年(335年)、石聡が歴陽を侵略してきたので、王導を大司馬とし、討伐させることにした。王導は孔坦を司馬にしたいと要請した。たまたま石勒が死に、石虎が横暴に振るまったので、石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。
とある。前掲の史料に見えていた譙の彭彪も登場している。石聡も譙で降ったという先の『晋書』成帝紀の記事も重視すれば・・・譙の太守は彭彪だけども、石聡は譙に出鎮していたのかもしれないね。
 だがしかし、この二つの史料、おかしいと思いませんか? 年代合ってないじゃん・・・っていう。成帝紀によれば、石聡は咸和八年に降っているのに、孔坦伝では咸康元年に攻めてきて、そんときに降ったことになっている。咸康元年の攻撃は成帝紀にも記事があるが、そこでは石虎が攻めて来た、とあるのみ。また、当時歴陽太守であった袁耽の伝には、「咸康年間の初め、石虎が游騎十余を率いて歴陽に来た。袁耽はそのことを上奏して報告したが、騎馬が少ないことは言わなかった。当時、夷狄の侵略が激しく、朝廷も原野も危惧していたので、王導は宰相の重責をになうゆえにみずから討伐したいと願い出た(咸康初、石季龍游騎十余匹至歴陽、耽上列不言騎少。時胡寇強盛、朝野危懼、王導以宰輔之重請自討之)」とある(『晋書』巻83袁瓌伝附耽伝)。ほんとうに石聡が攻めて来たんだろうか? 石聡は咸康元年より前に降ったんじゃないだろうか? よくよく見れば、『宋書』天文志二の記事でも、彭彪は咸和八年に降ったことになっているじゃん、石聡も同時期に降ったんじゃねーの? 孔坦伝の記事うそくさくねーか?
 なんでこんなにこだわるかというと、じつはかなり重要な史料が『晋書』孔坦伝に掲載されているからだ。孔坦が石聡に送ったという書簡である。
石聡及譙郡太守彭彪等各遣使請降。坦与聡書曰、「・・・将軍出自名族、誕育洪冑。遭世多故、国傾家覆、生離親属、仮養異類。雖逼偽寵、将亦何頼。聞之者猶或有悼、況身嬰之、能不憤慨哉。非我族類、其心必異、誠反族帰正之秋、図義建功之日也。・・・」。

石聡と譙郡太守の彭彪らはそれぞれ使者を派遣して降服を願い出た。孔坦は石聡に書簡を送った。「・・・将軍は名族の出身でございまして、立派な家にてお育ちになられました。不運なことに、非常な時期に遭われまして、国は傾き、家は転覆し、親族とは生き別れ、一時的に異民族に養われたそうですね。(現在、将軍は)夷狄の恩寵に促されて(後趙に仕えて)いるとはいえ、どうしてやつらの恩寵が頼りになりましょうか。(将軍のような過去を)聞いただけの者でもいたましく思うもの、ましてやご自分の身に降りかかったことでありますれば、憤慨せずにおられましょうや。『我が族類でなければ、その心は必ず異なる』(『左伝』成公四年)と言われておりますが、まこと、(いまこそ)本来の族に戻り、正しきところに帰るべきときであり、義のために功績を打ち立てるべき日なのです。・・・」。
 このあとも孔坦は、「石聡よ、オレたちに味方しろ」「これから水陸一斉に北上すんぜ」などと述べている。なので、咸康元年の王導による撃退計画が立てられていたらしい様子がうかがえる。
 それにしても興味深い書簡じゃないですか。石聡が名族かどうかは世辞の可能性もあるので知らんが、もともとは晋人であったことが明記されてるやん! すげええええええ! ともろ手を挙げたいけれども、先に述べたように、そもそも石聡は咸康元年に降ったのだろうか? もしそうではなく、それ以前の咸和八年に降ったいたとすれば、この書簡も含む孔坦伝の記事はウソだらけっていうことになる。妙に生々しい書簡だから信じたいのだけど・・・あああああああああああああ
 強いて不思議なのが、この孔坦の書簡は降ってくる石聡に宛てたものというより、まだ後趙にいる石聡に離叛を促しているように読めるんだよね。咸和八年に降ると言っておきながら、行動には移さず、譙にずっと留まったまま晋の言うことを聞いていなかった、とかそういう感じだろうか。わからないねえ・・・。
 石聡だけ長くなってしまったが、結論としては、彼は石勒の養子であるということだけは確実なんだろう[追記1]

石肇
『太平御覧』巻499所引『趙書』(おそらく田融『趙書』)
石肇、前石之昆弟也。前石既貴、肇在軍中不能自達、人送詣前石、前石哀之、拝建威将軍。以肇無才力、毎高選参佐輔之。為娉広川劉典兄女、肇甚懼之。拝長楽太守、治官、毎入門、動称「阿劉、教可爾、不可爾」、時人以為嗤謡。

石肇は石勒の兄弟である。石勒が高貴になったあと、石肇は軍中において自力で動くことができず、石勒のもとまで人に送ってきてもらった。石勒は哀れんで、建威将軍を授けた。石肇は才能も武力もからきしなので、(石勒は)いつも有能な輔佐を選んで助けさせた。(また石勒は)石肇のために広川の劉典の兄の娘を嫁に取ったが、石肇は恐れおののくだけであった。長楽太守に任じられた。公務をこなしているときは、(役所の?)門に入るたび、いつも「劉や劉や、これでいいのか、よくないのか、教えておくれ」と言っていた。当時の人々はこれを笑い話とした。
 石肇の記述はこれだけ。載記にも登場しない。こんなんじゃ登場せんわな・・・。

石挺
敦煌発見「晋史」残巻
従弟挺。
 『晋書』載記にもしばしば登場する石挺は従弟である可能性がある[追記2]

石樸
『晋書』巻33石苞伝附樸伝
苞曾孫樸字玄真、為人謹厚、無他材芸、没於胡。石勒以与樸同姓、倶出河北、引樸為宗室、特加優寵、位至司徒。

石苞の曾孫の樸は字を玄真という。人となりは慎み深く、温厚であったが、ほかに才能はなかった。夷狄の支配におちいった。石勒は石樸と同姓であり、ともに河北出身であることから、樸を招きよせて宗室とし、特別に恩寵を加えた。司徒にまで至った。
 石苞は西晋時代の人。金持ちで有名だね。それにしても石勒の思考単純すぎだろ・・・。

石瞻
『太平御覧』巻120所引『崔鴻十六国春秋後趙録』
石閔字永曽、虎之養孫也。父瞻字弘武、本姓冉、名良、魏郡内黄人也。・・・勒破陳午於河内、獲贍、時年十二。・・・勒奇之曰、「此児壮健可嘉」。命虎子之。

石閔は字を永曽といい、石虎の養孫〔養子の子〕である。父の瞻は字を弘武という。もとの姓は冉、名は良といい、魏郡内黄の人である。・・・石勒が乞活の陳午を河内で破ったとき、石瞻を捕えた。当時、石瞻は十二歳であった。・・・石勒は石贍を高く評価し、「この子は壮健で見どころがある」と言い、石虎に子とするよう命じた。
 ご存じ冉閔の父親。石勒ではなく石虎の養子だが、まあ同じようなもんでしょ、石勒の命令だしね。石瞻は劉曜との最終決戦の際に戦死したようである(『晋書』巻103劉曜載記)
 石瞻はもとの名が「良」であったためか、「石良」と記述されることもあったらしい。例えば『晋書』巻6明帝紀・太寧三年の条「石勒将石良寇兗州、刺史檀贇力戦、死之」は、石勒載記・下では「石瞻攻陷晋兗州刺史檀斌于鄒山、斌死之」と記されている。

 ほか、石弘、石宏、石恢が石勒の子っぽい。石斌は石勒の子なのか石虎の子なのか不明確でよくわからないwikiによると、石勒の子で石虎の養子になったらしいが)。素性が不明なのは石泰、石同、石謙、石堪、石他。石泰、石同、石謙は一度しか出てこないのでさっぱり。石他は途中で登場しなくなり、手がかりがない(太寧三年に劉曜軍と戦闘により戦死。『晋書』劉曜載記、『資治通鑑』巻93太寧三年の条)。石堪は石勒没後、石虎に反発して殺害される。数年前のわたしのメモには「義兄弟か養子」とあるのだが、何を根拠にしているのか自分でもわからない・・・[5][追記3]

 ということでね、わたしの感覚では石勒時代の石姓は擬似血縁者が多いと思う。わたしのピックアップの仕方が恣意的だと思う方もおられようが、仮にそうであったとしても、「匈奴」劉氏や巴氐李氏と比べると、異様なくらいに疑似血縁者が目立つはずだ。だって劉氏や李氏にそんな人たちがここまで見られただろうか?
 単に疑似血縁者に過ぎないと軽視できないのがミソである。石樸伝にあるように、彼らもみな「宗室」扱い。石生のように出鎮という大権を委ねられることさえあった。石勒は勢力形成・拡大する過程において、晋人などをみずからの宗室扱いとしながら血縁集団を創出したわけで、彼らを中核とした集団形成を企図していたのであろう。石勒が劉曜から独立する際に述べたと言う次の言葉も、かかる文脈から理解すべきかもしれない。
孤兄弟之奉劉家、於人臣之道過矣。若微孤兄弟、豈能南面称朕哉。(『晋書』石勒載記・下)

孤(わたし)の兄弟が劉家に奉仕すること、人臣の道を過ぎるほどであった。もし孤の兄弟がいなければ、どうして南面して朕と称せただろうか。
 最初にこれを読んだとき、えっ、おまえ言うほど兄弟いたっけ? って思ったんだけど、たぶん義兄弟・養子も含めた疑似血縁者のことを言ってたんだろうね[6]。こういう兄弟関係の原理って種族的・習俗的特徴なのだろうか[7]。あんまりよく知りませんが。そう言えば、唐後半期からの藩鎮の時代では、節度使と幕府官との仮父子関係が人間関係の原理として特徴的だと、どこかで聞いたことがある。そんで藩鎮といえば、やはりソグド系などの中央アジア諸族、北方諸族の人々が多く混じっていたことが近年指摘されている。なんか突っついてみると面白そうね。
 附言すれば、この「兄弟」の原理、石勒集団内部だけでなく、外部集団と関係を結ぶときにも持ち出されたらしい。
『魏書』巻1序紀・平文帝三年の条
石勒自称趙王、遣使乞和、請為兄弟。帝斬其使以絶之。

石勒が趙王を自称すると、使者を派遣して(拓跋氏と)和解を求め、兄弟の関係になるよう願い出た。平文帝はその使者を斬って絶交した。
『晋書』石勒載記・上
遣石季龍盟就六眷于渚陽、結為兄弟。

(石勒は)石虎を派遣して、段就六眷と渚陽で盟約を結ばせ、兄弟とさせた。
 せっかく父ちゃんが「兄弟になろう」と言っているのに、あろうことかそれを拒絶した拓跋氏はアホとしか言いようがない。拓跋氏は永遠に許されない。やつらを許すな!


――注――

[1]『晋書』巻106石季龍載記・上は「之」を「失」に作る。『十六国春秋』だと、「永興年間に石勒と知り合った」。載記なら「永興年間に石勒と生き別れた」。まあ載記のが妥当かなあ。ということで、「失」に字を改めて翻訳しました。[上に戻る]

[2]『趙書』は①前燕・田融撰と、②呉篤撰の二種あることが知られているが、多くは①を指す。『隋書』巻33経籍志二に「『趙書』十巻 一曰『二石集』、記石勒事。偽燕太傅長史田融撰」とある。[上に戻る]

[3]羅振玉『鳴沙石室佚書正続編』(北京図書館出版社、2004年)所収。20世紀初頭に敦煌で発見された写本。書名は無いが、東晋・元帝期の記事が編年体で記されており、羅振玉氏は東晋・鄧粲『晋紀』の写本と推定した。これに対し、周一良氏は鄧粲『晋紀』ではなく、東晋・孫盛『晋陽秋』であるとしている。周一良「乞活考――西晋東晋間流民史之一頁」(『周一良集』第壱巻、魏晋南北朝史論、遼寧教育出版社、1998年)参照。
 近年、岩本篤志氏がこの残巻を詳細に検討し、①唐修『晋書』よりは古いが、『資治通鑑』には影響を与えておらず、北宋期には散佚していた可能性がある、②『晋陽秋』である可能性を退けることはできないが、別の晋史である可能性が高い、などと述べておられる。岩本「敦煌・吐魯番発見「晋史」写本残巻考――『晋陽秋』と唐修『晋書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』2、2005年)。なお同論文には、岩本氏が校訂した敦煌発見「晋史」残巻のテキストも掲載されているので、参照されたい。[上に戻る]

[4]『隋書』巻33経籍志二に「『二石偽治時事』二巻 王度撰」とあり、『旧唐書』巻46経籍志・上には「『二石偽事』六巻 王度・隋翽等撰」とある。『隋書』によると、王度は「晋北中郎参軍」で、『二石伝』(二巻)という書物も編纂している。『史通』巻12古今正史には、「その後、前燕の太傅長史の田融、宋の尚書庫部郎の郭仲産、北中郎参軍の王度が二石〔石勒と石虎のこと。石勒を「前石」、石虎を「後石」とも言う〕の事跡を記述し、編集して『鄴都記』『趙記』などの書物を作った(其後燕太傅長史田融・宋尚書庫部郎郭仲産・北中郎参軍王度撰二石事、集為鄴都記・趙記等書)」と、後趙関連の史書を記述した人物として名が見えている。『晋書』巻95芸術伝・仏図澄伝だと、「著作郎王度」が石虎期の記事に見えており、このことから内田吟風氏は、王度は当初は後趙に仕えていたが、のちに東晋に降ったのだろうと推測している。隋翽については全くの不明。内田「五胡時代匈奴系諸国史の編纂とその遺文」(『龍谷史壇』79、1981年)参照。[上に戻る]

[5]wikiでも旧姓は田で、石勒の養子とある。少し調べてみたところ、『十六国春秋』にそのような記述があるらしい。が、わたしの持っている『十六国春秋輯補』および『十六国春秋纂録校本』にはかかる記述は見られなかった。『十六国春秋』はややこしい本で、北魏の崔鴻によって編纂された編年体の史書(記録により異同があるが、おおよそ百巻前後)なのだが、北宋~南宋くらいにいったん散佚し、明代に復元が試みられた(屠喬孫本)。ただこの屠本は現在ではあまり使われない。現在おもに使用されているのは、清の湯球が当時流伝していた『十六国春秋纂録』(十六巻。屠本より以前に成立していたらしいが、どういう経緯で編纂されたのかは全く不明。『隋書』経籍志に記載のある『(十六国春秋)纂録』のことだとか、後人が百巻本をコンパクトにしたものとか、載記をまとめただけだとか言われているが、詳しくはわからんらしい。孫啓治ら編『古佚書輯本目録 附考證』中華書局、1997年、p. 161参照。)を校訂した『十六国春秋纂録校本』、『纂録』をベースにしつつ、『十六国春秋』の佚文や『晋書』載記などで大幅に記述を補った『十六国春秋輯補』、の二つである。わたしが見落とした可能性もあるが、この二つでは石堪に関する記述を見つけることができなかった。屠本に書いてあるのだろうか? 今後機会があったら調べます。→[追記3]を参照。[上に戻る]

[6]あるいは、これまで一緒に苦楽をともにしてきた仲間たち全員のことを「兄弟」と言っているのだろうか。だとしたら石勒父ちゃんマジあったけえ・・・。[上に戻る]

[7]石氏はソグド(石国=タシュケント)出身のソグド人とする説もあったりする(譚其驤氏の論文、題名は忘れた。。ほか羯族にかんしては内田吟風氏など多くの先行研究がある)。たしかに「深目」などの身体的特徴は中央アジア種族と似ているのだけども、ソグド人と見てしまうよりも、中央アジア系との混血種族と見たほうが無難であるらしい(町田隆吉「西晋時代の羯族とその社会」、『史境』4、1982年。三﨑良章『五胡十六国』東方書店、2002年、p. 62)。あんまり羯族に関してはわたしも詳しく調べてないので、こんなことぐらいしか知らないです。[上に戻る]


[追記1]記事をアップした後、『資治通鑑』をめくっていたら、石勒の死没直後の咸和八年七月の条に「後趙の将軍の石聡と譙郡太守の彭彪が、それぞれ(晋に)使者を派遣して降服した。〔胡注:石聡はこのとき譙城に出鎮していたのである〕。石聡はもともと晋人であるが、姓を石氏に変えたのである。晋朝廷は督護の喬球を派遣して救援させようとしたが、到着しないうちに、石聡らは石虎に誅殺されてしまった(趙将石聡及譙郡太守彭彪、各遣使来降。〔聡時鎮譙城。〕聡本晋人、冒姓石氏。朝廷遣督護喬球救之、未至、聡等為虎所誅)」とあった。[上に戻る]

[追記2]『資治通鑑』巻95咸和八年の条の胡注に「挺、虎之子」とあったのを見落としていた。胡三省が何をもとに言っているのかは知らんが。[上に戻る]

[追記3]『資治通鑑』巻95咸和八年の条に「石堪はもともと田氏の子であったが、しばしば功績を立てたので、石勒は彼を養子とした堪本田氏子、数有功、趙主勒養以為子」とありました。申し訳ない、見落としていました。唐修『晋書』などには記載のない、『資治通鑑』だけの独自の五胡十六国情報はおおよそ『十六国春秋』が出典だと思われるので、『十六国春秋』に基づいて司馬光がかかる記述をした可能性が高いだろう。[上に戻る]

2013年10月8日火曜日

新・三国時代――後趙・東晋・成漢

 後趙の石勒と徐光とのあいだに交わされたというつぎの問答、なかなか面白くない?(『晋書』巻105石勒載記・下・附弘載記)
 遐退告徐光曰、「主上向言如此、太子必危、将若之何」。光曰、「中山常切歯於吾二人、恐非但国危、亦為家禍、当為安国寧家之計、不可坐而受禍也」。
 光復承間言於勒曰、「陛下廓平八州、帝有海内、而神色不悦者何也」。
 勒曰、「呉蜀未平、書軌不一、司馬家猶不絶於丹楊、恐後之人将以吾為不応符籙。毎一思之、不覚見於神色」。
 光曰、「臣以陛下為憂腹心之患、而何暇更憂四支乎。何則、魏承漢運、為正朔帝王、劉備雖紹興巴蜀、亦不可謂漢不滅也。呉雖跨江東、豈有虧魏美。陛下既苞括二都、為中国帝王、彼司馬家児復何異玄德、李氏亦猶孫権。符籙不在陛下、竟欲安帰。此四支之軽患耳。中山王藉陛下指授神略、天下皆言其英武亜於陛下、兼其残暴多姦、見利 忘義、無伊霍之忠。父子爵位之重、勢傾王室。観其耿耿、常有不満之心。近於東宮曲讌、 有軽皇太子之色。陛下隠忍容之、臣恐陛下万年之後、宗廟必生荊棘、此心腹之重疾也、惟陛下図之」。勒黙然、而竟不従。

 程遐は退出すると、徐光に告げた、「主上〔石勒〕がさきほど、かくかくしかじかと言っていたのだが〔程遐が石勒に石虎を排斥するよう進言したところ、石虎はそんなやつじゃない、自分は太子を輔佐させるつもりだと程遐の勧めを却下したこと〕、(こうであっては)太子〔石弘〕は必ず危険だ。どうしようか?」。徐光、「中山王〔石虎〕はつねに我々二人に歯ぎしりして(嫌って)いるから、(石虎が輔佐に就けば)おそらくたんに国家の危難であるだけでなく、我々の家の禍ともなろう。国と家を安寧させる計略を案じなければならん。ただ黙って禍を受けるわけにはいかぬ」。
 徐光は機会をうかがって再度、石勒に言った、「陛下は八州〔九州=天下の表現を踏まえれば、「天下の九分の八」の意か〕を平定し、帝王となって天下を保有しておりますのに、顔色が喜ばしくないのはどうしてでしょうか?」。
 石勒、「呉と蜀がまだ平定されておらず、文字と車輪の幅が統一されていないし、司馬家はなお丹楊に復興しているから、おそらく後世の人はわたしを(天の)予兆に応じた者ではないとみなすだろう。いつもこのことを考えているから、不覚にも顔色に出てしまったのだろう」。
 徐光、「臣が思いますに、陛下は腹心のやまいを心配する必要があるのであって、四肢のけがを心配するお時間なぞございません。どうしてでしょうか。魏は漢の暦運を継承した正朔の帝王でございます。劉備は巴蜀で漢を復興させたとはいえ、(魏が漢を継いでいる以上、)漢が滅んでいないとは言えません。呉が江東に割拠していたとはいえ、魏の有利な点〔魏が漢を継承していること〕を損なってはおりません。陛下はすでに二都〔洛陽・長安〕を手中におさめ、中国〔中原〕の帝王となっております。かの司馬家の小僧は劉玄徳とどこが違いましょうか。(巴蜀の)李氏も孫権のようなものです。予兆が陛下になければ、最終的にどこに帰結しようというのでしょう。呉蜀のことは四肢の軽いけがのようなものに過ぎません。中山王は陛下が神のような策略を授けたことに頼っているだけですが、天下の者はみな中山王の英略武勇は陛下に次ぐと言っておりまして、加えて残虐で邪悪な行ないが多く、利を見れば義を忘れるような者ですから、伊尹や霍光のような忠誠はないでしょう。(現在)親子で爵位は高く、権勢は王室を傾けるほどであります。(だというのに、)中山王が心を落ち着けていないさまを観察するに、つねに不満の心を抱いているのでしょう。最近では東宮で宴会を催しましたときに、皇太子を軽視する様子が見られました。陛下が我慢して中山王をお許しになっても、臣は陛下の万年のち、宗廟に必ずいばらが生えるであろうことを心配しております。これが腹心の重病であります。陛下はこのことだけをお考えください」。石勒は黙ったが、ついに従わなかった。
 石勒晩年のお話で、石虎の処遇がメインなわけですが、まあここはそんなんいいじゃない。そんなことよりも、ちゃっかり垣間見えている正統観、あるいは歴史観の方が面白いじゃないですか。
 つまり、徐光は後趙=曹魏=中原の帝王だと見る。自分たちは前代の王朝を正式に継承した正朔の帝王だと述べている。そうである以上、前王朝の残党(東晋=蜀漢)だとか、一地方の群雄(成漢=孫呉)が割拠しようが、自分たちの正統はまったく揺るがない。こんなやつら放っておいたって、自分たちの正統は何ら傷つかないから無視で構わん、そんなことより石虎が・・・。そういうロジックなわけだ。
 ここに見られるように、徐光は当時の時代状況を三国時代に擬えている。そう言われると確かに、かなり酷似している。大陸がおおよそ中原・呉・蜀の三つに分割されていて・・・端っこに小勢力(張氏前涼、鮮卑慕容氏)がいるのもどことなく似ている。
 それだけじゃない、劉備のように司馬睿が王朝の復興を掲げて一地方に中興するという政治的状況まで一緒なのだ。まさに三国時代の再来。
 この天下三分が解消されるのは東晋の永和三年(西暦347年)、桓温が漢の李勢を降し、益州を支配域におさめたときであった。以後、前秦に益州を奪われたり、譙縦が益州で自立したりすることはあったものの、基本的には江南王朝が益州を保有することになる。前・三国時代では中原王朝が四川を得て、江南を平定したのだが、今度の三国時代は江南が四川を得てしまったために、なまじ分裂がなかなか収束しなかったとさえ言えるかもしんない(適当
 そういうことなんでね、「三国志」の続編とでも銘打って、「趙・晋・成(漢)」の三国鼎立でだれか書いてみない?