2017年8月14日月曜日

論語集解序

◎『古注十三経』(明・永懐堂本)所収の論語集解の訳。
◎邢昺『論語注疏』を多く参照した。参照したらなるべくその旨を注記するが、しないこともあるかもしれない。
◎ほか、ネット上で公開されている皇侃『論語義疏』もそこそこに参照した。

論語序


 叙に述べる劉向の録に言う[1]、「漢の中塁校尉の向、申し上げます。魯論語、20篇。すべて孔子の弟子たちが師のすぐれた言葉を記録したものです。太子太傅の夏侯勝、前将軍の蕭望之、丞相の韋賢と子の玄成らはこれを授受していました」。「斉論語、22篇。(そのうちの)20篇については、(魯論と篇名は共通していますが)篇のなかの章(段落)と句(文言)は魯論よりも少し多くなっています。琅邪の王卿、膠東の庸生、昌邑中尉の王吉はみなこれを伝えていました」。つまり、(論語には)魯論語と斉論語があった。(また劉向の録によると?)漢の魯共王のとき、王が孔子の家屋を王宮にしようと思い、解体したところ、古文の論語を発見した。斉論語には問王篇、知道篇という篇があり、これが魯論語より多い2篇だが、古論語にもこの2篇はなかった。(古論語は)堯曰篇の「子張問」の章を独立させて1篇とし、子張篇が2つあった。そのため、全21篇となる。篇の順番は斉論語、魯論語と違っている。安昌侯の張禹はもともと魯論語を伝授されていたのだが、同時に斉論語の読み方も研究しており、すぐれている説があれば採用していた。(そうしてできあがった彼独自の論語を)「張侯論」と呼び、世で重んじられた。包氏と周氏の章句〔読み方、文意の取り方。皇侃「章句者注解。因為分断之名也」〕はこの張侯論にもとづいている。古論語には、博士の孔安国の注釈〔「訓解」。皇侃「訓亦注也」〕があるのみだが、広まらなかった。漢の順帝のとき、南郡太守の馬融が張侯論〔皇侃に由る〕の注釈〔「訓説」。字義を説き明かすこと〕を著した。漢末に大司農の鄭玄が、魯論での篇と章の区切りにもとづきつつ、斉論、古論と比べながら注を記した。近年ではもと司空の陳羣、太常の王粛、博士の周生烈が注釈〔「義説」。疏に「注をつくって義を説き明かすので義説という」〕を著している〔皇侃によれば三人とも張論〕。かつては、師の説を学んで、またそれを授けていくのであって、賛成しかねる箇所があってもその部分の(自分の)注釈を記すことはなかった。その後になって(包氏、周氏のように)注釈が書かれるようになり、現在ではその数も多くなってきた。目にする説で同じものはないし、各人の説にはそれぞれ長短がある。いま、学者たち〔具体的には孔安国、包氏、周氏、馬融、鄭玄、陳羣、王粛、周生烈〕のすぐれた説を収集し、(そのまま引用するときには)その姓名を記し、微妙なところがある説は多く手を加えて注とした[2]。これを「論語集解」と名づける[3]
 光録大夫、関内侯の臣、孫邕、光録大夫の臣、鄭沖、散騎常侍、中領軍、安郷亭侯の臣、曹羲、侍中の臣、荀顗、尚書、附馬都尉、関内侯の臣、何晏、献上いたします。



―――注―――

[1]原文「叙曰」。邢昺の疏(以下、たんに「疏」)によると、「序と叙は音も意味も同じ。曰は発語の辞」。邢昺はそう言っているが、ここの「叙」は劉向の録を指すのだろう。つまり劉向の引用は冒頭からはじまる。劉向の録は「目」(篇目)と「叙」(序)からなり、そのゆえにこの録を「叙録」等々と呼ぶこともあったらしい(余嘉錫『目録学発微』古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹訳、平凡社・東洋文庫、2013年、pp. 41-43参照)。録の冒頭が「――劉向言」ではじまることは、余氏前掲書や厳可均『全漢文』巻37収録の佚文を参照。どこまでが劉向からの引用なのかは最初に更新したときから悩んでおり、まえは「中尉王吉以教授」までとしていたのだが、今回は篇目の次第を云々しているところ全部とした。変だけど劉向の録は魯論と斉論で別個につくられていたであろうと思ったので本文のような感じでわけた(2018/01/02修正)。[上に戻る]

[2]ここは集解の体例を述べた大事なところ。疏が具体的でわかりやすいので以下に引用。「学者たちのすぐれた説を収集して記録し、剽窃でないことを示す。そのため、それぞれで『その姓名を記す』のである。集解の注に『包曰』『馬曰』とあるのがこれである。本文の注では姓のみを書いているのに、序では『名』と言っているが、これは姓を記すことによってその人を名づける(示す)という意味であって、名前のほうの意味ではない。『微妙なところがある』というのは、学者たちの説に疑問があることである。『多く手を加えた』というのは、すぐれた説はそのまま記録して改変することをせず、疑問のある説は多く改変したということである。注の最初に『包曰』『馬曰』となかったり、学者の注の引用のあとにつづけて『一曰』とあるのは、どれも何氏のものであり、そこから下は先学の説を改変したものであることを示している」。

 ところで、邢昺のこの記述は歴史的にも興味深いものである。というのも、邢昺は「序だと姓名を記すと言っているのに実際には姓しか書いていないのはなぜか」という問いを提出して、序の字義を解説しているが、私の見ている永懐堂本も邢昺が例に引いているとおり、姓しか書いていない。
 ところが邢昺に先立って論語集解の疏を著した梁の皇侃の『論語義疏』では、集解の注に「馬融曰」「王粛曰」とバッチリ名も書いて引用してある。皇侃の義疏は中国では佚してしまい、日本に伝存していたものが逆輸入されたそうなのだが(詳しいことは知らない・・・)、学而篇第1章の包氏注への皇侃の疏に「何氏の集解ではすべて人名で呼んでいるのに、包氏だけ『包氏』としている。包氏の名は咸である。何氏の(父の)諱なので避けているのだ」とあるとおり、元来の論語集解の体裁は、ちゃんと姓名を書いて引用していたのであろう(ちなみに包氏の名が咸であるという根拠はよくわからない。周氏のほうは、皇侃も「まったくわからない」らしいのに)。
 いつ、どうして、論語集解で引用されている注が「姓のみ」になってしまったのかはちゃんと研究を読んでいないのでわからないけれど、少なくとも邢昺の時点では、集解の注は名を省略して姓のみにするタイプの本が広くおこなわれていて、邢昺もそれを参照したのであろう。上の引用文はそういう事情をうかがわせるのだ。いい加減な解説でゴメンナサイ[上に戻る]

[3]疏「杜預の春秋左氏伝も『集解』と言っているが、あちらは『春秋の経と伝(注釈=左氏伝)とを集めまとめ、その解釈を著した』という意味である。こちらのほうは『学者たちの解釈を収集して論語を解き明かした』という意味である。ともに『集解』と言っていても、このように意味はちがう」。[上に戻る]

2017年2月8日水曜日

馬融「周官伝」序、鄭玄「周礼注」序

 ともに賈公彦「序周礼廃興」の引用より。明・永懐堂本を使った。句読点は私がつけた。改行も私が勝手に加えた。途中に挿入されている賈氏の文(又云とか)は省略したか、ポイントを下げて文中に挿入した。


馬融「周官伝」

 秦は孝公以降、商君子の法を採用したため、その政治は苛烈となり、『周官』とは真逆の方針であった。そのため、始皇帝は挟書を禁じたさいに、とくに『周官』を嫌って消滅させようとはかり、捜索して焼いたのであった。ただこのためのだけに、百年間秘蔵されたのである。
 孝武帝が挟書律をとりはらって、書籍を募集するようになるや、山の洞穴や旧宅の壁から取り出され、朝廷の秘書に入れられたのであった。しかし五家の儒者(礼の五伝弟子の学派を指すか)はこれを見ることができなかった(理解することができなかった?)
 孝成帝のときになって、達才通人と称すべき、劉向とその子の歆が朝廷の秘書を整理、校勘した。こうしてようやく『周官』は整えられ、劉向の『別録』および劉歆の『七略』に記録されたのである。だが、冬官の一篇は失われていたため、『考工記』を付け加えたのであった。
 当時、多くの儒者が世に出ていたが、そろって『周官』を退けておかしいと批判した。ただ劉歆だけが(この書の意義を)見抜いていた。彼はまだ若いにもかかわらず(原文「尚幼」。ちょっと年を増した感じで訳した)、広く書物を読むことに力を注いでいたし、春秋末年のことに精通していた。それゆえ、周公が太平を招来した事跡はすべて『周官』に記録されていることを彼は理解していたのである。
 ところが、天下は戦乱の世となり、戦争が各地で起こり、流行病と凶年が重なるようになってしま(い、このようななかで彼は亡くなってしま)った。弟子たちも死去してしまったが、河南緱氏の杜子春だけは生き延びた。永平のはじめころには、九十歳になろうかという高齢で、終南山に家を構えていた。『周官』の(あるいは「劉歆の」?)読み方に通じており、劉歆の(?)学説に詳しかった。鄭衆と賈逵は彼のもとに行って『周官』の学業を受けた。
 鄭衆、賈逵は博識の秀才で、経、書、記はたがいに典拠となって文意を明らかにしているとみなし、注釈を著した。賈逵の注釈は広く読まれたが、鄭衆のものはあまり読まれなかった。二氏の説をいっしょに採用していけば、本文はよく読めるようになるが、それでも誤りやいたらない箇所が多い。
 とはいえ、鄭衆の説のほうはしばしば妥当さを得ている。彼が誤っているのは、尚書の周官篇の序に「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」とあるのをみて、これこそ『周官』のことだと主張しているくらいのものである(原文は「鄭衆はこの書物が尚書の周官篇だということを見逃していた」の意にも読めるが、馬国翰も訳文のように理解しているみたいだし、とりあえずこれで)
 賈逵はというと、「六郷大夫は冢宰である」云々と言ったり、「六郷(原文は「六遂」だが後文と通じないので改める)は十五万家で、千里の地にわたっている」と論じているが、ひどいまちがいだ。このような例がひじょうに多い。慨嘆してやまぬものだ。六郷の住民は四同の地に居住しているのだから、「千里の地にわたっている」というのは誤りだ(賈曰く、「『六郷大夫は冢宰である』以降の批判している箇所は省略する。また『ひじょうに多い』という箇所だが、馬融による賈逵説の紹介については多く省略したという意である」)
 ・・・(省略あり?)・・・私は六十歳になったときに武都の太守になったが、郡は小さくて仕事が少ないので、考えをまとめておこうと思い、易、尚書、詩、礼の伝(注釈)を書き記し、すべて完成させた。しかし『周官』のみ完成させれなかったことを気にしていた。そこで六十六のとき、目は悪くなり、集中力もつづかなくなってきたなかで、なんとかまとめることができた。かくてこれを「周官伝」と名づける。


 秦、自孝公已下、用商君之法、其政酷烈、与周官相反。故始皇禁挟書、特疾悪、欲絶滅之、捜求焚焼之、独悉是以隠蔵百年。
 孝武帝始除挟書之律、開献書之路、既出於山巌屋壁、復入于秘府。五家之儒莫得見焉。
 至孝成皇帝、達才通人、劉向子歆、校理秘書、始得列序、著于録略。然亡其冬官一篇、以考工記足之。
 時衆儒並出、共排以為非。是唯歆独識。其年尚幼、務在広覧博観、又多鋭精于春秋末年、乃知其周公致太平之迹、迹具在斯。
 奈遭天下倉卒、兵革並起、疾疫喪荒、弟子死喪、徒有里人河南緱氏杜子春。尚在永平之初、年且九十、家于南山、能通其読、頗識其説。鄭衆、賈逵往受業焉。
 衆、逵、洪雅博聞、又以経書記轉(阮元は「傳」の誤りとするが、ママとしておいた)相証明為解。逵解行於世、衆解不行。兼攬二家為備、多所遺闕。
 然衆、時所解説、近得其実。独以書序言「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」、則此周官也、失之矣。
 逵以為六郷大夫則冢宰以下、及六遂為十五万家、絙千里之地、甚謬焉。此比多多。吾甚閔之久矣。六郷之人、実居四同地、故云「絙千里之地」者、誤矣。〔又六郷大夫冢宰以下所非者不著。又云「多多」者如此解不著者多。〕
 至六十為武都守、郡小少事、乃述平生之志、著易尚書詩礼伝、皆訖。惟念前業未畢者、唯周官。年六十有六、目瞑意倦、自力補之、謂之周官伝也。

鄭玄「周礼注」序

 世祖(後漢)以降の通人達士といえば、大中大夫の鄭少贛、名は興、および子の大司農仲師、名は衆。もと議郎、衛次仲、侍中の賈君景伯。南郡太守の馬季長。みな周礼の注釈を著した。
 ・・・(省略あり?)・・・玄がみるところ、二、三の君子の注釈は原文の曖昧な文章によく注意をはらっているので、夜明けを見るかのように文意がはっきりするし、割符を一致させてまた切り離されたものであるかのように(注釈と本文が)ぴったりとした説である。優れた解釈が多く集められていると言えよう。
 しかし、本文には依然として混乱している箇所が残っているし、(本文が?諸子が?)同じ事柄についてであっても記述が相違している場合がある。したがって、(まず)本文の文字の発音へとたちもどり、(そこから)読み方を考察し、(そのなかでも)とりわけよいものを採用する(べきである)。
 思うに、二鄭は同族の大儒者であり、書籍に明るく、皇祖(文王?周公?)の道をあらまし知っていたため、『周官』の義は古文字にあることを理解し、疑わしい箇所を見抜いて読み方を正した。実際、優れた説が多いのである。だが、門徒が(?)少なく、(二子の文が)簡略であるゆえに、世に広まっていない。ここに二子を称えて議論にとりあげるが、これは鄭家の訓詁を完成させんと願ってのことである。
(鄭衆は?)[1]『周礼』を『尚書』周官篇とみなし、周官篇は周の天子の官を述べたものだと言っている。これは『尚書』周官篇の序に「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」とあるのを根拠としている。しかし、これはおそらくまちがいである。『尚書』の盤庚、康誥、説命、泰誓などの篇は三篇で、序には「某篇を若干篇つくる」とあり、現存している篇は多くても三千言をこえない。また『尚書』に書かれているのは、時事の事柄か、君臣の訓戒である。(推測するに、)周官篇が作成されたころ、周公も『周礼』をつくり、それによって上下の別を正した。周官篇はただ一篇だが、『周礼』は六篇である。文章は数万字を数える。その言葉は全篇にわたって『尚書』の体裁と異なり、『尚書』の篇だとはとてもみなせない。そうだと考える余地はあるにしても、その見解に従うことはできない。
 ・・・(省略あり?)・・・(『周官』に示されている)この道たるや、文王、武王が周を秩序だて、天下に君臨した法である。周公は『周礼』を定めて、太平と龍鳳の瑞獣を到来させたのである。


 世祖以来、通人達士、大中大夫鄭少贛、名興、及子大司農仲師、名衆、故議郎、衛次仲、侍中賈君景伯、南郡太守馬季長、皆作周礼解詁。
 玄竊観二三君子之文章、顧省竹帛之浮辞、其所変易灼然、如晦之見明、其所弥縫奄然、如合符復析斯。可謂雅達広攬者也。
 然猶有参錯、同事相違、則就其原文字之声類、考訓詁、捃秘逸。
 謂、二鄭者同宗之大儒、明理于典籍、觕識皇祖大経、周官之義、存古字、発疑正読、亦信多善。徒寡且約、用不顕伝于世。今讃而辨之、庶成此家世所訓也。
 其名周礼為尚書周官者周天子之官也。書序曰、「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」。是言、蓋失之矣。案尚書盤庚、康誥、説命、泰誓之属、三篇、序皆云「某作若干篇」、今多者不過三千言。又書之所作、拠時事為辞、君臣相誥命之語。作周官之時、周公又作、立政上下之別。正有一篇、周礼乃六篇。文異数万、終始辞句非書之類、難以属之。時有若茲、焉得従諸。
 斯道也、文武所以綱紀周国、君臨天下。周公定之、致隆平龍鳳之瑞。


[1]「庶成此家世所訓也」以下につづく、「其名」からはじまる段落には、篇章の区切りを示す記号が附されている。はじめの「其名」から「従諸」までの部分は鄭玄の序とみなすこともできるので、序の引用がまだつづいているものとして、とりあえずまとめてみた。が、阮元の校勘記に「盧文炤がここの段落は鄭玄の序ではないって言ってる」とあるものだから、だめかもしれない。
 しかしだとしたら、(1)「是言、蓋失之矣」とあるが、周礼=周官篇と考えているのは誰のことなのか。賈公彦の時代にそんなことを考えていたやつおるんか? だって賈公彦の時代的には、周官篇と『周礼』が両方あったわけで。『周礼』こそ周官篇なのだ、という推測は、周官篇そのものを見ることができない、という条件下でなければならないはずである。(2)そこでやや譲歩して、「其名」から「作周官」までを鄭玄、「是言」以下の按語を賈公彦による鄭玄批判だと考えることもできるだろう。つまり、鄭玄が『周礼』と周官篇を同一に見なしていたという読み方である。しかし、これはいろいろとおかしくなる。天官・小宰における、天地四時の官のおおまかな体系を述べたくだりの鄭玄注に「前此者、成王作周官、其志有述天授位之義、故周公設官分職以法之」とあり、鄭玄は『周礼』と周官篇の関係をそれとなく示している。賈公彦はここの疏で次のような鄭玄の他書の注(?)を引用している。「周公摂政三年、践奄、与滅淮夷同時。又按、成王周官、成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官、則成王作周官、在周公摂政三年時周公制礼、在攝政六年時」。すなわち、『周礼』は周公の摂六年に成ったが、それ以前の同三年に周官篇がつくられており、周官篇で述べられた義を周公が官に体系化して記録したのが『周礼』である、と彼は理解していたのではないかと思われる。したがって、もとの論点に戻るが、(2)鄭玄が周官篇と『周礼』を同一にみなしていた可能性はありえない。
 ここの本文自体は偽古文を見ていなければ書けないわけではないはずだと思うし(序でいけるんじゃないか?)、鄭玄とみなしておいたほうがいい気がするんだが・・・。せっかく訳しちゃったんでこのままにしちゃいます。
 余談だが、賈公彦はさきの小宰の鄭玄注を周官篇を参照しつつ解説し、「此鄭義〔周官篇の志は「述天授位之義」のこと〕不見古文尚書、故為此解」、鄭玄が言っている義というものが周官篇にまったく見られないので、この義というものは鄭玄の解釈なのであろう、とする。とはいっても、いまとなってはという話であるが、賈公彦の見ている、そして現存している周官篇は偽古文とされている。孫詒譲が言うように、鄭玄が偽古文の周官篇を見られるわけがないのだから合致していなくたってしょうがないだろう。孫氏は「ひょっとするとマジモンの周官篇を鄭玄は見ていて、それにもとづいて其志有述天授位之義と言っているんじゃね」と言うが、希望的である。[上に戻る]

 かなり補いまくって読んでみたので、思い込みで読んでいるところがけっこうある。スマニョ。
 鄭玄が文字の正しい読み方に注の方針を置いていた、というところだけは読めた(と思う)ので、それだけで個人的には満足である。

 実際、鄭玄はテキトウに言っているのではなく、彼の注を読んでいけば「この字はこの字として読む」「この字は本来この字だろう、発音が似ているから誤写したんだ」とかすっごく言っている。
 なんか鄭玄には勝手な偏見をもっていたのだが、「ああ、字をどう読むかが鄭玄の基本なんだな、思ったよりメタじゃないんだな」と思えたので、少し好きになったヨ。でもこのおっさんは変なひとですね。

 そしてまた、二鄭の注、とりわけ鄭衆(鄭司農)を重んじていることも、彼が頻繁に引用していることからわかる。杜子春の注もけっこうな頻度で引用されているが、引用されている杜注はやはり「この字はこう読む」「この字はこの字の誤り」のたぐい。
 鄭衆はよく「春秋の伝にこう言っている」のようなことをよく言っているが、これが馬融の伝に言われていることであろう。鄭玄も同様の方法で周礼を読み解いている。

 しかし、周礼の鄭玄注でおもしろいのは、鄭玄と鄭司農の解釈がいちじるしくちがっているところである。
 たとえば、秋官に野廬氏という、道路整備の官があるのだが、

若有賓客、則令守涂地之人聚【柝と通じる表現するのがムズイ字。以下「柝」】之、有相翔者誅之。

という一節がある。ここの鄭玄注。

守涂地之人、道所生廬宿旁民也。相翔、猶昌翔観伺者也。鄭司農云、聚柝之、聚撃柝、以宿衛之也。有姦人相翔於賓客之側、則誅之、不得令寇盜賓客。

「守涂地之人」とは、道路上の休息・宿泊所そばの住民のことである。「相翔」とは、好き勝手に出歩いて周囲を見回ることである。鄭司農は次のように言う。「『聚柝之』とは、住民を集めて拍子木を打たせて警戒させ、賓客を夜通し護衛することである。悪者が賓客の付近に『相翔』、すなわちかけとんで近寄ったら、この者を誅殺し、賓客の拉致を阻止するのである」。

 両説にしたがって本文を読むと、

鄭玄
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。その者たちのなかで勝手に出歩く者がおれば、その者を誅殺する。


鄭司農
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。悪者が賓客の近くにかけよるようなことがあれば、その者を誅殺する。

 これは秋官だからたまたま記憶に新しいだけで、そこらにこんなんがある。だいたい鄭玄のほうが筋が通っている。
 また訓詁の区切りがそもそもちがう、という箇所もある。これまた最近読んだのでまだ覚えているところになるが、考工記・輪人の蓋のくだり。〔 〕は鄭玄注。

桯長倍之四尺者二〔杠長八尺、謂達常以下也。加達常二尺、則葢高一丈立乗也〕十分寸之一謂之枚〔為下起数也。枚一分。故書十与上二合為二十字、杜子春云、当為四尺者二十分寸之一

 ちなみに何を言っているのかはさっぱりわからない。
 唯一わかるところ(にして興味を覚えたところ)は、鄭玄は「四尺者二」と「十分寸」以下を分けて読んでいるのだが、従来のテキストでは「二」と「十」で分けずに読んでおり、たとえば杜子春は「四尺者二十分寸……」と読んでいる、というところ。
 従来の読みにまったく束縛されない、というところに彼の天性があるんじゃないでしょうか。

 繰り返しになるけど、鄭玄はもっとこう、メタってるっていう偏見があったから、こういう姿を見れてよかった。安心した。
 こういう感じのが経学、なんですかね。オレは好きだよ。

2016年8月8日月曜日

成漢革命――李氏の来歴神話

 故あって先日、過去に投稿した成漢李氏についての記事(来歴神話来歴神話・続)を見返していて、やっぱり素材はおもしろいんだよなあ。しかし、この素材をどう活かしたらよいものか、と悩みつつ投稿してみたのだけれども、結局「これでええんや!」みたいな自信を得られず、「次回つづく」としたまま次回をいっこうに投稿するモチベが出なくてぇ。
 でも急にモチベが出てきたのでつづきっぽいことを書こうかなと思う次第なのだが、本来つづきとして何を書こうとしていたのかぜんぜん思い出せないので、過去記事以来の構想とはちょっとズレるかもしれない。

***

 「成漢」は言うまでもなく、李氏の政権が当初は成を、のちに漢を称したことに因んだ通称なのだが、この出来事をたんに「国号の変更」で片づけてしまってはいけない。客観的には、あるいは外在的にはそのような理解でとくに問題ない。だが、この事件を政権の内側から取り組もうと思うのであれば、政権のイデオロギー、つまり内在的に通行していた政治の論理の観点から解さなければならない。ようするに、「国号の変更」で済ませてしまっても構わないのだが、じゃあどうして変更する必要があったのか、その変更はどのように正当化されていたのか、という問題は説明できないわけで、そうしてこれらの問題を措いたままで「国号を変更したんだ」との説明を採用するのもどうであろうか。
 こういうわけで、本記事では李氏称漢の問題を追究してゆきたい。私の考えでは、この問題は李氏の来歴に関する語りとも関連しているはずである。

 まず称漢をめぐる記述を見てみよう。『晋書』巻121李寿載記。

 李寿は龔壮の進言に従い、ひそかに長史の略陽の羅恒、巴西の解思明とともに、成都を占拠して(晋に)藩を称して帰順することを謀った。そこで文官武官と盟約して(同志を)数千人を得て、成都を襲撃して落とした。・・・。
 羅恒と解思明、および李奕、王利らは李寿に、鎮西将軍、益州牧、成都王を称して、晋に藩を称することを勧めたが、任調、司馬の蔡興、侍中の李艶、張烈らは自立を勧めた。李寿はこのことを占うように命じると、占者は「数年のあいだは天子になれましょう」と告げた。任調は喜んで、「一日でさえも十分であるのに、まして数年ならば!」と言った。解思明、「数年の天子と、百世の諸侯、どちらがよいものか」。李寿、「孔子は『朝に道を知れば、夕べに死んでも良い』と言った。私もそう思う(から、占いの結果を道とすれば、わずかなあいだでも私は十分である)。任侯の進言が上策だろう」。そこでとうとう、晋の咸康四年に僭して偽位に即き、境内を大赦し、改元して漢興とした。・・・追尊して父の李驤を献帝、母の昝氏を太后とし、妻の閻氏を立てて皇后とし、世子の李勢を太子とした。(寿従之、陰与長史略陽羅恒、巴西解思明共謀拠成都、称藩帰順。乃誓文武、得数千人、襲成都、克之。・・・。恒与思明及李奕、王利等勧寿称鎮西将軍、益州牧、成都王、称藩于晋、而任調与司馬蔡興、侍中李艷及張烈等勧寿自立。寿命筮之、占者曰、「可数年天子」。調喜曰、「一日尚為足、而況数年乎」。思明曰、「数年天子、孰与百世諸侯」。寿曰、「朝聞道、夕死可矣。任侯之言、策之上也」。遂以咸康四年僭即偽位、赦其境内、改元為漢興。・・・追尊父驤為献帝、母昝氏為太后、立妻閻氏為皇后、世子勢為太子。)

 成を建てた李雄は、西晋末に益州に移動した流民グループのリーダー・李特の子であるが、特にはいっしょに益州に入った兄弟たちがいた。そのひとりが驤、すなわち寿の父である。驤は雄の叔父にあたるので、雄と寿とは従兄弟の関係になる。雄の死後、成の帝位は雄の兄の子・班に継承され、寿はいわば宗室扱いとして、王に封建されて輔政を遺嘱された。雄の子らは班が継いだことに不満で、即位して数ヶ月後、雄の子の越が班を殺害し、越は後継に弟の期を推薦した。期が立って約4年後、期と越は寿の謀殺を図り、身の危険を感じた寿は前引した史料にみられるごとく、成都襲撃のクーデターを実行し、政治的実権を得た。

 さて、引用文をあらためて眺めてみるが、ここには李寿が、漢を称することにした、という記述、表現がみられない。せいぜい、漢興という元号がそれを示唆させる程度である。
 そこで同様の事態を記した『華陽国志』李特雄期寿勢志のほうを確認してみよう。

寿亦生心、遂背思明所陳之計、称漢皇帝。・・・下赦、改元漢興。

 また『魏書』巻96賨李雄伝附寿伝。

改年為漢興、又改号曰漢

 これらによって、李寿が「漢の皇帝を称した」ことは明白であり、漢興の元号はそれにもとづくものであることがわかる。

 ところが、この成→漢、どうも穏やかな変更ではなかったようなのである。李寿載記の最後のほうの記述を引いてみよう。

偽位に即いたのち、宗廟を立てなおし、父の李驤の廟を漢の始祖廟とし、李特、李雄の廟を大成廟とし、また書を下して李期、李越とは族を別にすると言い、すべての諸制度を改易した。公卿以下には、おおよそみずからの僚佐を登用し、李雄のときの旧臣や六郡〔李特時代にいっしょに流入した流民らの出身地〕の士人はみな罷免された。(及即偽位之後、改立宗廟、以父驤為漢始祖廟、特、雄為大成廟、又下書与期、越別族、凡諸制度、皆有改易。公卿以下、率用己之僚佐、雄時旧臣及六郡士人、皆見廢黜。)

 李寿の称した漢の始祖はあくまで父・驤であって、特や雄ではない。彼ら二人は大成の廟として、漢の廟とは別にされて祀られている。
 寿が雄をどう考えていたかは微妙なところで、雄の子らと自分とは族がちがうと明言しているし、雄の子はすべて殺害したらしいのだが(李期載記)、載記には寿が雄の政治スタンスを継承しようとしていたとも記されており(「寿承雄寬倹、新行簒奪、因循雄政、未逞其志欲」)、容易には理解できない距離を置いていたのかもしれない。
 とはいっても、漢の廟と別にすることからは、ある重大なスタンスが汲み取れるはずである。つまり寿は、漢は成とは異質の政治共同体だと主張しているのだ。寿からすれば、成はすでに過ぎ去った朝代であったはずである――それは漢にとっての秦、魏にとっての漢、晋にとっての魏のようなもので、「二王之後」的に、あるいはいちおうの先人扱いとして、廟を設けているのでないか。両者の継続的関係が全面に拒絶されているわけではないのだろうが、その継続性は〈切り離された〉両者を結ぶものであって、両者を同一化させるような意味での連続性ではない[1]
 国号が変更されたのはたしかにそうである。しかし、たんに成の表面をちょっとした都合が生じたから変更したのではなくて、根本的なところが革まったがゆえに、国号が変わるという表面上の現象を引き起こしたと考えるべきなのである。したがって、私は成から漢へのこの事件を――便宜上から今後も「成漢」の通称は用いていくであろうが――「革命」と把握すべきだと考える。

 李寿が創出したイデオロギーは、彼の子・勢のときにある変更を余儀なくされる。

太史令の韓皓が奏上し、熒惑が心宿にとどまって不吉な予兆を示しているが、これは宗廟の礼が廃絶されているからである、と具申した。李勢は群臣にこのことについて議論するよう命じた。相国の董皎、侍中の王嘏らの意見は、景帝(李特)と武帝(李雄)が帝業を盛りあげ、献帝(李驤)と昭文帝(李寿)がそれを継承したのだし、双方の家系は至親の近しい関係にあるのだから、(景帝、武帝の家を)ないがしろにして絶やすべきでない、というものであった。李勢はそれに従って李特と李雄を祀るように命じ、号を漢王に統一した。(太史令韓皓奏熒惑守心、以宗廟礼廃、勢命群臣議之。其相国董皎、侍中王嘏等以為景武昌業、献文承基、至親不遠、無宜疏絶。勢更令祭特、雄、同号曰漢王。)

 これがいつごろのことなのかハッキリはしないが、李勢載記のはじめに記されていることからして、李勢の即位からそれほど時を経ていないと思われる。李特、李雄復権の動きは李寿の時代から潜勢しており、寿の死によって噴出したのであろうと予想はつくが、ここではその運動自体に切り込んでいかない。
 私が注意しておきたいのは、この変更によっていかなる政治論理の変動が起きたか、である。私は先ほど、李寿がやったことは実質的に革命であると述べた。ところが李勢時代の変更は、李寿が創りあげた公式見解の修正をともなっている――「革命はなかった」。李特も李雄も「漢王」に回収されていくことで、李氏の朝代は李特以来、連綿とつづく歴史を築くことができる[2]。かかる変更後に、成を称していた時代をどう理屈づけたのか。これはいっさい不明であるけれども、比較例としては趙の劉曜を挙げることができる。彼は、劉淵が漢帝を称したのは一時的な措置である、と主張して趙に改めたのであった[3]
 革命ではなくなった成から漢への移行は、まさしくたんなる「国号の変更」という出来事に語りなおされることであろう。「漢への変更を国号の変更と理解することは誤っていない」と私が述べたのは、その意味においてである。

***
 それにしても、なぜ李寿は「漢」を選んだのか。これはしばしば、三国の蜀漢と関連して語られることがある。私も以前はその可能性を捨てきれずにいたのだが・・・いまは断言したい。その可能性はない。
 そもそも、李寿はみずから漢帝を称している。しかし、もし「あの」劉氏の漢の復興を掲げて「漢」を名乗るのならば、当然劉氏が天子でなければならない。張昌という、西晋末に長江中流域を中心に一勢力を築いた人物がいるが、彼はたまたま知り合った人間を劉氏に改名させ、漢の劉氏の後裔ということにして天子にまつりあげ、自身は相国に就いたそうだ(『晋書』巻100張昌伝)。劉淵だって同じである。高祖の子孫を名乗ったわけだから。劉氏漢の名を借りるのであれば、それが当然なのである。
 ところが李氏に関しては、そのような痕跡がいっさいみられない。とてもだが、劉氏漢を考慮したとは思えないのだ。

 益州で漢といえば、当時の人びとにとってもあの劉備らを想起するであろう。李寿もまったく知らなかったなんて考えがたい。だが、そういう効果が結果的にあった可能性がある、ということと、李寿のイデオロギーのねらいがそこにあった、ということは別個である。漢を称することによって劉備たち劉氏漢の記憶を喚起すること、そこに李寿の目的、政治的正統の構築があったとはとても思えない。だって劉氏漢のことガン無視してるんだもの・・・。にもかからず蜀漢との関連を推測してしまうのは、ただの期待過多である。
 イデオロギー的なものの意図を解釈するにあたり、受け取る側の目線に立つことからいったん離れることも必要である。李寿が劉氏とは関係ない仕方で漢を名乗ったのには、彼自身の生涯のうちに必然的な理由があったはずである。
 と、仰々しく言ってみたのだが、実際、その理由とやらはかなり単純なものだったと思われる。李寿は、李期が即位したさい、期によって漢王に封じられていた。約4年後、漢王としてクーデターを実行した。――おそらく、それだけである。
 いやいやいや。いくらなんでもあっさりすぎるというか、漢との結合が薄弱である。なのでもうちょい調べてみたところ、『資治通鑑』巻94咸和三年の条。

是歳、成漢献王驤卒〔胡注:成封李驤為漢王〕。

 なんとまあ、李驤は漢王に封じられていたらしいのだ。
 李驤を漢王と呼称するのは他の史書にみられず、『資治通鑑』でもおそらくここだけである。司馬光は現在では散佚してしまった五胡関係史料を参考にしているので、他書に出てこない記述がよくみられる。そういう事情なので、これもそのひとつであろうとみなしておきたい。そうだとして、こう考えられるんじゃあないか。李驤は李雄のときに漢王に封じられた、やはり李雄のときに彼は没したのだが、諡号は「献」であった、一方の李寿は李雄時代にすでに父とは別に公・王に封じられていたが、のちに父の王位を継ぐことができた、李寿は漢王を、したがって漢を、みずからの家を象徴する記号とし、漢王から漢帝に即いた、それにともない、漢の献王・驤は献帝へと昇格した。・・・。
 こんなシナリオでどうだろう。

***
 で、結局これが私が過去に投稿して問題にしてきた来歴神話とどう関係があんのって話だが・・・。あくまで私の関心では、ああいういびつな李氏の神話は誰によって語られたのか、にある。李氏みずからが廩君を自己の起源に据えたのかどうなのか。李氏のイデオロギーを検討することによって、その手がかりが得られるのではないかと私は期待したのである。
 だが、それというヒントはとくにみつからなかった。強いて言うなら、李寿にとっては廩君をもちだす必要があったと思えない、程度か。
 石勒なんかのように、建国したから家を神話化するパターンは一般的でなさそうだしなあ。だとすると、後世の崔鴻なんかが、「あの李氏ってのはそこらのよくわかんねえ蛮夷のようにみえるが、その由来を説明するとだなあ」みたいな感じで付け加えた説明だったりするのかな。

 本記事では、問題をひどく静態的に論じた。だが李寿の行動の背景には、よりワイドで、ダイナミックなエネルギーがあったはずである。そのような観点からも見直していく必要があるが、それはまあそのうちやる気が出たらというわけで、これにていったん。



――注――

[1]李雄は帝位に即くと、李特を始祖と追尊している。一方、寿の父・驤も始祖と追尊されていることは前述の史料に述べられているとおり。廟号が、それも始祖という超特別な号がかぶるなど、ありえないことである。成の始祖は李特、漢の始祖は李驤、と明確に切断されていることがわかる。[上に戻る]

[2]材料があまりにも少ないなかでの、勇み足な推測になるが、李氏の国史『漢之書』(常璩撰、別名『蜀李書』)が李雄を「始祖第三子」と記していること(『太平御覧』巻363引ほか)は、李特が漢の起源に置かれた可能性を示すのではないか。『漢之書』、この書名からして李寿時代に編纂がはじまったものと私は考えるが、おそらく李特、李雄は当初から『漢之書』に立伝されていたと思われる。それが李勢以後、どのように変容し、修正されたのか、あるいはまったくされなかったのか、現在私たちが閲覧する五胡関係史料に影響を及ぼしたのか否か、深い闇なんだよなぁ・・・。[上に戻る]

[3]これまたうがった勘ぐりの一種だが、『華陽国志』大同志に、李特らが当時の益州刺史・趙廞とまだ良好であったころのこととして、李特の弟・庠が趙廞に「称大号漢」=漢を称して自立することを勧めたという。このことは『華陽国志』にしかみえず、常璩がいかなる資料を参考にしたのか不明である。もっとも、彼は『漢之書』の撰者なのだから、現在私たちが目にすることができないものを多く知っていたにちがいないが。かりにこれが『漢之書』に記されていたことだとすれば――まるで李特らが益州に入った当初から「称漢して自立する」プランを抱いていたかのような歴史に、成はやむをえない事情で称したもので、本来の意志は漢であるかのような物語になるだろう! と思うのだけどこれは病気の考え方で、そこまで壮大な物語は構築していないような・・・。じゃあ庠はどうして漢を? となるとぜんぜん文脈がわかんないから見当がつかない。
 なお、劉曜との比較の点で付言をさせてもらうと、劉曜は劉総をネガな存在として扱いこそすれ、劉淵に対しては決してそのような態度を取ることなく、趙の天命を下された者として上帝に配して祀り、自身を劉淵の継承者と位置づける仕方で正統を組み上げていった。それゆえ、彼は漢の時代を切り離すことができなかった。趙の国史が『漢趙記』という名であることは、かかる歴史観を反映しているものと考えられる。このように劉曜と李寿とは方法がいちじるしく異なっている。[上に戻る]