2017年10月9日月曜日

『宋書』百官志訳注(13)――御史台(蘭台)

 御史中丞は一人。不法の弾劾を掌る[1]。秦のとき、御史大夫には丞が二つ置かれたが、一つを御史丞、もう一つを御史中丞と言った[2]。殿中の蘭台には秘書が所蔵されていたが、御史中丞はここに勤務し、外では部刺史を監督して、内では侍御史を統べた。(侍御史は)公卿の奏事〔告発の奏文〕を受けると、弾劾して法のとおりに処置した[3]。当時は御史中丞も奏事を受けていたので、(御史中丞と侍御史とで)職務を分担していたのであろう。成帝の綏和元年、御史大夫を大司空に改称し、長史を置いたが、御史中丞は従来のままとされた。哀帝の建平2年、(大司空は)御史大夫に戻された。元寿2年、大司空に戻された。(このとき)御史中丞は(勤務先を殿中から?)外に出され、(御史大夫に代わって)御史台の主任となり、御史長史と改名された[4]。光武帝のときに御史中丞に戻され、少府の所属となった[5]。献帝のとき、改革で御史大夫と長史一人が置かれたが、(御史大夫が)御史中丞を管轄することはなかった。東漢では、御史中丞が尚書の丞や郎に偶然会うと、御史中丞は車を止め、笏を手にして拱手の礼をおこなうが、尚書丞、郎は車に座ったまま手を挙げて返礼するのみであった。この決まりがいつ廃されたのかはわからない[6]。御史中丞は毎月25日に、行宮の城壁を視察して修繕していた〔原文「繞行宮垣白壁」。「白」を「キレイにする」で取ってみたが・・・〕。史臣が考えるに、漢志〔続漢書〕によると、執金吾は毎月三回、行宮の城壁を視察していたという。おそらく執金吾を廃したさい〔=魏晋のころ〕、この仕事が御史中丞に割り振られたのであろう。御史中丞は秩千石[7]
 治書侍御史は、官品六品以上の弾劾を掌る。漢の宣帝が身体を洗って(宣室で)過ごしながら判決事務を執るとき、御史二人に(傍に控えさせて)文書を作成させた。(のちに)このことにちなんで(この役職を)治書侍御史と言うようになった[8]。東漢では法に明るい者をこの官に就かせ、地方から(中央に)疑事〔判決に悩む案件〕の裁定判断を仰がれたさいには、法を根拠に判決を示した[9]。魏晋以降、侍御史が配属されていた諸曹を分担して管轄することになり、尚書二丞のようになった[10]
 侍御史は、周では柱下史と言う[11]。『周官』に御史が見え、治の法令のことを担当していたが[12]、侍御史もこの職務である。秦は侍御史を置き、漢はこれを継承した。二漢はともに定員十五人であった。不法の弾劾に従事する。公卿の奏事を受けたさいは、違反があったら告発する。五つの曹があった。一つめを令曹といい、律令を担当した。二つめを印曹といい、刻印を担当した。三つめを供曹といい、齋祠〔厳密には「春にものいみしておこなう祭祀」の意っぽいが通じていないので不詳〕を担当した。四つめを尉馬曹といい、官厩の馬を担当した。五つめを乗曹といい、護駕〔天子の車の護衛隊列〕を担当した。魏は御史を八人置いた。(列曹には)度支と運送を担当する治書曹、考課を担当する課第曹があったが、そのほかについてはわからない。西晋には全部で、吏曹、課第曹、直事曹、印曹、中都督曹、外都督曹、媒曹、符節曹、水曹、中塁曹、営軍曹、算曹、法曹の十三曹があったが、御史は九人であった[13]。江左の初め、課第曹を廃した。庫曹を置き、厩牧の牛馬や市税を担当した。のち、庫曹を外左庫曹、内左庫曹に分けた。宋の太祖の元嘉年間、外左庫曹を廃したので、内左庫曹をたんに左庫曹と言うようになった。世祖の大明年間、(外左庫曹を)復置した。廃帝の景和元年にまた廃された。順帝の初め、営軍曹を廃して水曹に、算曹を廃して法曹に、それぞれ統合し、吏曹には御史を置かず、全部で(曹が十なので?)御史を十人とした。
 魏には殿中侍御史が二人いたが、おそらくこれは蘭台が御史二人を殿中に居らせて不法を挙げさせたものであろう。西晋では四人、江左では二人[14]
 秦、漢には符節令がおり、少府に所属し、符璽郎、符節令史を管轄していたが[15]、これらは『周礼』に見える典瑞、掌節の職務である[16]。漢から魏までは(御史台とは)別に台(符節台)を組織しており、位は御史中丞に次いだに位置した[17]。節、銅虎符、竹使符の授与を職掌とした。晋の武帝の泰始9年、符節令を廃して蘭台に統合し、(蘭台に)符節御史を置いて、この職務を担当させた。



――注――

[1]『通典』巻24職官志6御史台「所居之署、漢謂之御史府、亦謂之御史大夫寺、亦謂之憲台。…後漢以来、謂之御史台、亦謂之蘭台寺」。『太平御覧』巻226職官部24御史大夫下引『謝霊運晋書』「漢官、尚書為中台、御史為憲台、謁者為外台、是為三台。自漢罷御史大夫、而憲台猶置、以丞為台主、中丞是也」。[上に戻る]

[2]『通典』巻24中丞「亦謂中丞為御史中執法」。[上に戻る]

[3]『漢書』百官公卿表・御史大夫「有両丞、…一曰中丞、在殿中蘭台、掌図籍秘書、外督部刺史、内領侍御史、員十五人、受公卿奏事、挙劾按章」。本文とほぼ同じなので、本文は『漢書』を参考に作成された可能性が高いと思われる。とすると、本文の侍御史以下の記述「受公卿奏事…」は、『漢書』におけるように、侍御史の職掌についての記述と読むべきである。したがって、訳文のように区切って読んだ。とはいえ、百官志作成者がそのように『漢書』を読んで引用したのかは不明だが。[上に戻る]

[4]『続漢書』志26百官志五・小府・御史中丞には「及御史大夫転為司空、因別留中、為御史台率」とあり、御史台は変わらず宮中に留められたとされている。『三国志』巻13王朗伝附粛伝に「蘭台為外台、秘書為内閣」とあるのを見ると、蘭台は「外」であったとみるのがよいのだろうか。後文に魏の殿中侍御史の条文があるが、そこでわざわざ「蘭台から殿中に派遣させている侍御史」と説明しているのをみると、蘭台自体はやはり「外」にあったのかもね。[上に戻る]

[5]『太平御覧』巻225職官部23御史中丞上引『漢官解詁注』「建武以来、省御史大夫官属、入侍蘭台。蘭台有十五人、特置中丞一人、以惣之。此官得挙非法、其権次尚書」。[上に戻る]

[6]『南斉書』巻16百官志・御史中丞に「宋孝建二年制、中丞与尚書令分道、雖丞郎下朝相値、亦得断之、余内外衆官、皆受停駐」と、御史中丞と尚書令とで優先道路?のようなもの(朝廷への/からの道の途中で他の官と出くわしたりしてもそのままスルーできたりするとかいうやつだろう)が定められ?、御史中丞が尚書丞・郎と出くわしてもそのままスルーできた?っぽいから、漢のしきたりが廃されたのは孝武帝のこのときなんじゃね?とか思うのだけどよくワカラン(よく読めない)。
 この件については、先立つ文帝の元嘉13年に御史中丞の劉式之の議(『宋書』巻15礼志2引)も関係している。長いのでまとめてみると、①法には「中丞は道を専らにする」とあるのみで、「他の官と分ける」とは定められていない、しかし分けたほうが良い。②揚州刺史、丹陽尹、建康令もこの土地の官で、迅速な対応が必要になるからやっぱり道を分けたほうが良いと思うけど、それらの官が行馬内の官に属するのかよくわかんないからそんな特別扱いしちゃって妥当かは自信がない。これに対する回答が、①要望通り中丞は分ける。②行馬内=六門内は州郡県に属さないし、門外の事情を持ち出すのは妥当じゃないんじゃないかな。③ついでだから、尚書令と尚書僕射にも中丞と同じように専道の定めがあったけど、中丞と同じ感じで分けておくね。という文脈で、孝武帝のときの改革があるのでした。(宋書の原文:宋文帝元嘉十三年七月、有司奏、「御史中丞劉式之議、『毎至出行、未知制与何官分道、応有旧科。法唯称中丞専道、伝詔荷信、詔喚衆官、応詔者行、得制令無分別他官之文、既無画然定則、準承有疑。謂皇太子正議東儲、不宜与衆同例、中丞応与分道。揚州刺史、丹陽尹、建康令、並是京輦土地之主、或検校非違、或赴救水火、事応神速、不宜稽駐、亦合分道。又尋六門則為行馬之内、且禁衞非違、並由二衛及領軍、未詳京尹、建康令門内之徒及公事、亦得与中丞分道与不。其准參旧儀、告報參詳所宜分道』。聴如台所上。其六門内、既非州郡県部界、則不合依門外。其尚書令、二僕射所応分道、亦悉与中丞同」)
 なお、揚州刺史なども分ければいいのに~という要望についてだが、『太平御覧』巻225御史大夫上引『魏氏春秋』に「故事、御史中丞与洛陽令、相遇、則分路而行。以土主多逐捕、不欲稽留也」と、劉式之が挙げたのと同じ理由で曹魏の洛陽令は優先されていたようである。[上に戻る]

[7]魏晋、劉宋期の消息について。『通典』中丞「魏のはじめ、中丞を宮正に改称し、鮑勛をこれに就けた。のちに中丞に戻った。晋も漢と同様に中丞を設けた。中丞を蘭台のボスとし、司隷校尉と分担して百官を監督した。皇太子以下、糾弾できない官はいなかった。当初は尚書を弾劾できなかったのだが、のちに可能となった。中丞は行馬の内側での違反者を、司隷校尉は外側での違反者を担当していた。とはいえ、このように内外で区切られていても、どんな官でも告発していたので、実際にはその区別はないようなものである(魏初、改中丞為宮正、挙鮑勛為之、百僚厳憚。後復為中丞。晋亦因漢、以中丞為台主、与司隷分督百僚。自皇太子以下、無所不糾。初不得糾尚書、後亦糾之。中丞専糾行馬内、司隷専糾行馬外。雖制如是、然亦更奏衆官、実無其限」とあり、司隷校尉と補完的な関係にあったらしい。「行馬内」というのは、殿中のことを言うのであろう。
 『通典』のこの記述の参考資料であったと思われる一つが、『晋書』巻47傅玄伝附咸伝の上事である。長い文章なのだが、要点としては、①晋令には「御史中丞は百官を監督し、行馬内では皇太子以下誰でも弾劾でき、外だと弾劾はできないが、奏文は可能である」と定められていること、②といっても、行馬外のことでも拡大解釈的な感じでやっちゃっているが、令の解釈的には「百官を監督する」と定めながら内外の区別を導入しているのは、中丞は内だけ、司隷は外だけと分割させず、双方とも内外に対して一定の権限をもたせ、もって補完させているので、「(内外の)百官を監督する」と記しているのだ、とする(原文はコチラ:按令、御史中丞督司百僚。皇太子以下、其在行馬内、有違法憲者、皆弾糾之。雖在行馬外、而監司不糾、亦得奏之。如令之文、行馬之内有違法憲、謂禁防之事耳。宮内禁防、外司不得而行、故専施中丞。今道路橋梁不修、闘訟屠沽不絶、如此之比、中丞推責州坐、即今所謂行馬内語施於禁防。既云中丞督司百僚矣、何復説行馬之内乎。既云百僚、而不得復説行馬之内者、内外衆官謂之百僚、則通内外矣。司隸所以不復説行馬内外者、禁防之事已於中丞説之故也。中丞、司隸俱糾皇太子以下、則共対司内外矣、不為中丞専司内百僚、司隸専司外百僚。自有中丞、司隸以来、更互奏内外衆官、惟所糾得無内外之限也。)
 東晋だと御史中丞には優秀な名門が就いていたらしいが、しかし当の名門たちにとってはあまり喜べない職であったらしい。多忙だったからとかそんな理由かな? 『通典』中丞「自斉梁皆謂中丞為南司。江左中丞雖亦一時髦彦、然膏粱名士猶不楽」。[上に戻る]

[8]『続漢書』御史中丞・劉昭注に引く胡広「孝宣感路温舒言、秋季後請讞。時帝幸宣室、齋居而決事、令侍御史二人治書、御史起此。後因別置、冠法冠、秩千石、有印綬、与符節郎共平廷尉奏事、罪当軽重」。[上に戻る]

[9]『続漢書』御史中丞・劉昭注引蔡質『漢儀』「選御史高第補之」。[上に戻る]

[10]魏晋期の治書侍御史については、『晋書』巻24職官志から補足しておきたい。まず曹魏では、治書侍御史と同格の官として治書執法が新設された及魏、置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史、掌律令、二官俱置)。だが晋ではすぐ廃されてしまったらしい。「晋のときになると、治書侍御史のみを設け、定員は四人であった。泰始4年、黄沙獄治書侍御史を一人設けた。秩は御史中丞と同じで、詔獄と廷尉が担当しない裁判を職務とした。のちに河南尹と統合され、とうとう黄沙獄治書侍御史は廃止された。太康年間になると、治書侍御史の定員を二人減らした(及晋、唯置治書侍御史、員四人。泰始四年、又置黄沙獄治書侍御史一人、秩与中丞同、掌詔獄及廷尉不当者皆治之。後并河南、遂省黄沙治書侍御史。及太康中、又省治書侍御史二員)」。これ以後、法のエキスパートという漢代の特質も剥落したようで、『続漢書』御史中丞・劉昭注に引く荀綽『晋百官表注』に「恵帝以後、無所平治、備位而已」とある(なお『通典』はこの形骸化を漢桓帝以後としている)。この傾向は劉宋以降も変わらなかったようで、『通典』中丞によれば、劉宋以降も侍御史の統御官という位置づけは有していたが、「自宋斉以来、此官不重、自郎官転持書者、謂之南奔」とある。[上に戻る]

[11]老子が就いていたとされる周の職。[上に戻る]

[12]『周礼』春官・御史「掌邦国都鄙及万民之治令、以賛冢宰。凡治者受灋令焉。掌賛書。凡数従政者」。[上に戻る]

[13]『晋書』職官志に「品同治書」とある。[上に戻る]

[14]このほかの蘭台の官として、『晋書』職官志に「案魏晋官品令又有禁防御史第七品、孝武太元中有検校御史呉琨、則此二職亦蘭台之職也」とある。検校御史については、『通典』巻24職官典6監察侍御史にも見えており、「至晋太元中、始置検校御史、以呉混之為之、掌行馬外事、亦蘭台之職」とあり、「掌行馬外事」の原注に「晋志云、古司隷知行馬外事、晋過江、罷司隷官、故置検校御史、専掌行馬外事」と、行馬外の監察をなしていた司隷校尉に代わって設けられた職であったらしい。ちなみに原注に引く「晋志」は唐修晋書ではないようである。[上に戻る]

[15]『続漢書』百官志五・小府・符節令・本注「為符節台率、主符節事、凡遣使掌授節」。属官として尚符璽郎中(「主璽及虎符、竹符之半者」)、符節令史(「掌書」)が記されている。[上に戻る]

[16]典瑞は春官、掌節は地官。『周礼』典瑞「掌玉瑞玉器之蔵。弁其名物与其用事、設其服飾」。形状等によって所持者や祭祀対象のランクを表したりするモノをつかさどる(という感じ)。同掌節「掌守邦節而弁其用、以輔王命」。使者など、それの所持者を保証するモノをつかさどる(みたいな感じ)。[上に戻る]

[17]『晋書』職官志には「秦符璽令之職也。漢因之、位次御史中丞。至魏、別為一台、位次御史中丞」とあり、符節台の設置は曹魏とされていているが、注 [15] で引いた『続漢書』や史書の用例を参照するに、少なくとも後漢期には符節台は置かれていたとみるのが妥当のように思われる。[上に戻る]


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