2013年11月21日木曜日

三十六国時代

 『太平御覧』は、引用する書物の表題を間違えることがよくある。今回は崔鴻『十六国春秋』と蕭方等(あるいは武敏之)『三十国春秋』をとりあげて、そのことを例示してみよう。

『太平御覧』巻35時序部20凶荒
崔鴻三十国春秋曰、諸州自建武元年十一月不雨雪、至十二年八月、穀價踴貴、金斤値米二升、民流散死者十有五六、百姓嗷然、人無生頼。
 あー、まあね、三十国春秋と十六国春秋ってなんかややこしいからね、わかるわかるーー ってわかんねえよ!!!!! どっちなんだよ! 崔鴻の『十六国春秋』なのかよ、『三十国春秋』なのかよ、どっちなんだよ! はっきりしろよ!!!![1]
 まあ、とにかくね、まざっちゃったんだろうね。だいたい似た時代を書いてるし、表題も似てるしね・・・。

『太平御覧』巻142皇親部8劉曜皇后
崔鴻三十国春秋前趙録曰、劉皇后、侍中暟女。年十三、長七尺八寸、手垂過膝、髮与身斉、姿色才徳,邁於列后。
 これはね、さすがに許そう。「前趙録」ってあるから十中八九、崔鴻『十六国春秋』を誤記して『三十国春秋』てしちゃったんだろうね。

『太平御覧』巻370人事部11手
三十六国春秋曰、劉淵父豹、母呼延氏、淵生而左手有文、曰淵、遂以命之。
 ふええぇぇえ・・・聞いたことがないよぉ・・・新しいよぉ・・・どっちかぜんぜんわかんないよぉ・・・
 もちろん『隋書』経籍志に記録はございません。書いた人物が完全にごちゃまぜになって、ミックスさせた表題にしてしまったんだろう。なんと迷惑なことを・・・




 少し真面目な話を最後に。『太平御覧』から佚文などを引用する場合、例えば『太平御覧』の巻いくついくつに引く某の『~~』、ってするじゃないですか。でも最初と最後の事例だと、そういうふうに引用しづらいよね。最初の方は撰者名を優先すればいいのか、書名を優先すればいいのかで判断がつきにくいし、仮についたとしても、「巻35に引く崔鴻の『十六国春秋』には・・・」って文章も書きづらい。だって巻35に引用してあるのは「三十国春秋」になってるわけだし。それともいちいち断り書きを書きます? 「『十六国春秋』(ただし表記は「三十国春秋」)」とか。めんどいね。最後のほうはもっとめんどいね。
 じつは便利な引用の仕方がある。わたしだったらこの箇所、「巻35に引く『崔鴻三十国春秋』には『~~』とあり・・・」と書いてしまう。以下も同様に、巻142所引「崔鴻三十国春秋前趙録」、巻370所引「三十六国春秋」、と表記してしまう。
 そう、完全に思考を停止して、書いてあることをそのまま全部「 」か『 』にくくっちまえばいんですよ。どちらかといえば「 」でくくるのがいいのかな。必ずこのような表記原則にしなければならないってわけではないんだけど、まあ上記のような面倒な事例があるので、こういう引用表記の仕方も念頭に置いておくと幅が広がるのではないかと思います(ちなみに本ブログで連載している宋書百官志訳注の場合、『太平御覧』から引用するときは基本的にこの表記原則に従い、『 』でくくっています)。


――注――

[1]ちなみに『三十国春秋』は武敏之のと梁・蕭方等らのがあるが、どちらも後漢末(=晋宣帝)から晋恭帝(=東晋末)までを叙述対象としていたらしい。晋を正統としながらも、劉淵ら五胡系諸国も記述していた(以上は清・湯球撰/呉振清校注『三十国春秋輯本』〔天津古籍出版社、2009年]の「序」を参照)。[上に戻る]

2013年11月17日日曜日

東晋・孝武帝の最期

『晋書』巻9孝武帝紀
既而溺于酒色、殆為長夜之飲。・・・醒日既少、而傍無正人、竟不能改焉。時張貴人有寵、年幾三十、帝戯之曰、「汝以年当廃矣」。貴人潛怒、向夕、帝醉、遂暴崩。

孝武帝は即位してすぐ酒や女に溺れるようになり、いっつも深夜まで飲んだくれていた。・・・日中に目が覚めることはまれで、わがまま放題、まったく改善の余地がなかった。当時、張貴人は孝武帝の恩寵を受けていたが、三十になりかかろうとしていた。孝武帝はふざけて「おまえも歳だしなあ! 貴人、やめよっか(クイッ」と言ったところ、張貴人、表情には出さないが内心怒り心頭。夜になり、帝が酔いつぶれると、とうとうにわかに孝武帝は崩じてしまった。
 ん? 最期の展開が急すぎてまったくついていけないんだが? いったい何が起こったんや・・・・
 と、このときの出来事を克明に記述した史書がある。宋の檀道鸞『続晋陽秋』である。その佚文(『太平御覧』巻99皇王部24孝武帝、引)をご覧いただこう。
初、帝耽於色。末年、殆為長夜之飲。醒治[1]既少、多居内殿、留連於盤鐏之間。時張貴人寵冠後宮、威行閫内、年幾三十。帝妙列伎楽、陪侍嬪少、乃笑而戯之、「汝已年廃矣、吾已属諸妹少矣」。貴人潜怒、上不覚。上稍酔臥、貴人遂令其婢蒙之以被、既絶。云以魘崩。

当初、孝武帝は女に夢中であったが、末年になると深夜まで飲んでばかりであった。日中に目が覚めることはまれで、一日の大半を宮殿で過ごし、ごちそうと酒に囲まれて暮らしていた。当時、張貴人が受けている恩寵は後宮トップで、その権威は後宮に行き渡っていたが、歳は三十になろうかというところであった。ある日の宴会、孝武帝は若い妓女や側室を侍らせると、ほくほくになって思わずにやけてしまい、張貴人に対し、「おまえは年寄りだしもうええわ、若いチャンネー集まったし」とふざけて言った。張貴人、あらわにはしないが内心は怒り狂う。が、孝武帝、気づかない。孝武帝が酔いつぶれ、倒れて寝はじめると、張貴人は介抱せず、下女をおおいかぶさせて、のしかからせたに布団で帝をくるませた〔原文「蒙之以被」の箇所。まちがえてました。申しわけない〕。ほどなく、孝武帝は息絶えてしまった窒息してしまった。張貴人は「悪夢にうなされてお亡くなりになりました」と報告した。
 ははあ、なるほどねえ。「暴崩」=「にわかに崩御した」との記述のウラには、じつはこんな経緯があったんですねえ。たまげたなあ・・・。
 しかし、なんでこれが唐修『晋書』だとああいう記述になっているんだろうか?
 それは唐修『晋書』の帝紀が何に基づいて編集されたか、に関係しているだろう。例えば東晋末に編纂された徐広『晋紀』。徐広の『晋紀』は国史として編纂されたが、おそらくそのゆえに、孝武帝のかかる最期は忌むべき、隠すべき秘事として扱われた蓋然性は高い。その意味で、「暴崩」なんていうあいまいだけど便利な記述は、徐広『晋紀』に由来していると言えなくもない。ただその場合、張貴人のエピソードを挿入する必要がないじゃんてなるけども。まあほかにも何法盛『晋中興書』もあるし、あるいは唐の史官が独自に編集してこのような記述を残したのかもしれないね(そうであったらなおさら、どうして隠したのかが気になるが)。



――注――

[1]「治」というのは意味が通じない。ここは『晋書』に従い、「日」に字を改めて訳出する。なお清・湯球『衆家編年体晋史』(喬治忠氏校注本)は「時」に釈字しているが、わたしの手元にある宋本『太平御覧』(影印本)を何度見たって「時」には読めない。[上に戻る]