2017年2月8日水曜日

馬融「周官伝」序、鄭玄「周礼注」序

 ともに賈公彦「序周礼廃興」の引用より。明・永懐堂本を使った。句読点は私がつけた。改行も私が勝手に加えた。途中に挿入されている賈氏の文(又云とか)は省略したか、ポイントを下げて文中に挿入した。


馬融「周官伝」

 秦は孝公以降、商君子の法を採用したため、その政治は苛烈となり、『周官』とは真逆の方針であった。そのため、始皇帝は挟書を禁じたさいに、とくに『周官』を嫌って消滅させようとはかり、捜索して焼いたのであった。ただこのためのだけに、百年間秘蔵されたのである。
 孝武帝が挟書律をとりはらって、書籍を募集するようになるや、山の洞穴や旧宅の壁から取り出され、朝廷の秘書に入れられたのであった。しかし五家の儒者(礼の五伝弟子の学派を指すか)はこれを見ることができなかった(理解することができなかった?)
 孝成帝のときになって、達才通人と称すべき、劉向とその子の歆が朝廷の秘書を整理、校勘した。こうしてようやく『周官』は整えられ、劉向の『別録』および劉歆の『七略』に記録されたのである。だが、冬官の一篇は失われていたため、『考工記』を付け加えたのであった。
 当時、多くの儒者が世に出ていたが、そろって『周官』を退けておかしいと批判した。ただ劉歆だけが(この書の意義を)見抜いていた。彼はまだ若いにもかかわらず(原文「尚幼」。ちょっと年を増した感じで訳した)、広く書物を読むことに力を注いでいたし、春秋末年のことに精通していた。それゆえ、周公が太平を招来した事跡はすべて『周官』に記録されていることを彼は理解していたのである。
 ところが、天下は戦乱の世となり、戦争が各地で起こり、流行病と凶年が重なるようになってしま(い、このようななかで彼は亡くなってしま)った。弟子たちも死去してしまったが、河南緱氏の杜子春だけは生き延びた。永平のはじめころには、九十歳になろうかという高齢で、終南山に家を構えていた。『周官』の(あるいは「劉歆の」?)読み方に通じており、劉歆の(?)学説に詳しかった。鄭衆と賈逵は彼のもとに行って『周官』の学業を受けた。
 鄭衆、賈逵は博識の秀才で、経、書、記はたがいに典拠となって文意を明らかにしているとみなし、注釈を著した。賈逵の注釈は広く読まれたが、鄭衆のものはあまり読まれなかった。二氏の説をいっしょに採用していけば、本文はよく読めるようになるが、それでも誤りやいたらない箇所が多い。
 とはいえ、鄭衆の説のほうはしばしば妥当さを得ている。彼が誤っているのは、尚書の周官篇の序に「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」とあるのをみて、これこそ『周官』のことだと主張しているくらいのものである(原文は「鄭衆はこの書物が尚書の周官篇だということを見逃していた」の意にも読めるが、馬国翰も訳文のように理解しているみたいだし、とりあえずこれで)
 賈逵はというと、「六郷大夫は冢宰である」云々と言ったり、「六郷(原文は「六遂」だが後文と通じないので改める)は十五万家で、千里の地にわたっている」と論じているが、ひどいまちがいだ。このような例がひじょうに多い。慨嘆してやまぬものだ。六郷の住民は四同の地に居住しているのだから、「千里の地にわたっている」というのは誤りだ(賈曰く、「『六郷大夫は冢宰である』以降の批判している箇所は省略する。また『ひじょうに多い』という箇所だが、馬融による賈逵説の紹介については多く省略したという意である」)
 ・・・(省略あり?)・・・私は六十歳になったときに武都の太守になったが、郡は小さくて仕事が少ないので、考えをまとめておこうと思い、易、尚書、詩、礼の伝(注釈)を書き記し、すべて完成させた。しかし『周官』のみ完成させれなかったことを気にしていた。そこで六十六のとき、目は悪くなり、集中力もつづかなくなってきたなかで、なんとかまとめることができた。かくてこれを「周官伝」と名づける。


 秦、自孝公已下、用商君之法、其政酷烈、与周官相反。故始皇禁挟書、特疾悪、欲絶滅之、捜求焚焼之、独悉是以隠蔵百年。
 孝武帝始除挟書之律、開献書之路、既出於山巌屋壁、復入于秘府。五家之儒莫得見焉。
 至孝成皇帝、達才通人、劉向子歆、校理秘書、始得列序、著于録略。然亡其冬官一篇、以考工記足之。
 時衆儒並出、共排以為非。是唯歆独識。其年尚幼、務在広覧博観、又多鋭精于春秋末年、乃知其周公致太平之迹、迹具在斯。
 奈遭天下倉卒、兵革並起、疾疫喪荒、弟子死喪、徒有里人河南緱氏杜子春。尚在永平之初、年且九十、家于南山、能通其読、頗識其説。鄭衆、賈逵往受業焉。
 衆、逵、洪雅博聞、又以経書記轉(阮元は「傳」の誤りとするが、ママとしておいた)相証明為解。逵解行於世、衆解不行。兼攬二家為備、多所遺闕。
 然衆、時所解説、近得其実。独以書序言「成王既黜殷命、還帰在豊、作周官」、則此周官也、失之矣。
 逵以為六郷大夫則冢宰以下、及六遂為十五万家、絙千里之地、甚謬焉。此比多多。吾甚閔之久矣。六郷之人、実居四同地、故云「絙千里之地」者、誤矣。〔又六郷大夫冢宰以下所非者不著。又云「多多」者如此解不著者多。〕
 至六十為武都守、郡小少事、乃述平生之志、著易尚書詩礼伝、皆訖。惟念前業未畢者、唯周官。年六十有六、目瞑意倦、自力補之、謂之周官伝也。

鄭玄「周礼注」序

 世祖(後漢)以降の通人達士といえば、大中大夫の鄭少贛、名は興、および子の大司農仲師、名は衆。もと議郎、衛次仲、侍中の賈君景伯。南郡太守の馬季長。みな周礼の注釈を著した。
 ・・・(省略あり?)・・・玄がみるところ、二、三の君子の注釈は原文の曖昧な文章によく注意をはらっているので、夜明けを見るかのように文意がはっきりするし、割符を一致させてまた切り離されたものであるかのように(注釈と本文が)ぴったりとした説である。優れた解釈が多く集められていると言えよう。
 しかし、本文には依然として混乱している箇所が残っているし、(本文が?諸子が?)同じ事柄についてであっても記述が相違している場合がある。したがって、(まず)本文の文字の発音へとたちもどり、(そこから)読み方を考察し、(そのなかでも)とりわけよいものを採用する(べきである)。
 思うに、二鄭は同族の大儒者であり、書籍に明るく、皇祖(文王?周公?)の道をあらまし知っていたため、『周官』の義は古文字にあることを理解し、疑わしい箇所を見抜いて読み方を正した。実際、優れた説が多いのである。だが、門徒が(?)少なく、(二子の文が)簡略であるゆえに、世に広まっていない。ここに二子を称えて議論にとりあげるが、これは鄭家の訓詁を完成させんと願ってのことである。
(鄭衆は?)[1]『周礼』を『尚書』周官篇とみなし、周官篇は周の天子の官を述べたものだと言っている。これは『尚書』周官篇の序に「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」とあるのを根拠としている。しかし、これはおそらくまちがいである。『尚書』の盤庚、康誥、説命、泰誓などの篇は三篇で、序には「某篇を若干篇つくる」とあり、現存している篇は多くても三千言をこえない。また『尚書』に書かれているのは、時事の事柄か、君臣の訓戒である。(推測するに、)周官篇が作成されたころ、周公も『周礼』をつくり、それによって上下の別を正した。周官篇はただ一篇だが、『周礼』は六篇である。文章は数万字を数える。その言葉は全篇にわたって『尚書』の体裁と異なり、『尚書』の篇だとはとてもみなせない。そうだと考える余地はあるにしても、その見解に従うことはできない。
 ・・・(省略あり?)・・・(『周官』に示されている)この道たるや、文王、武王が周を秩序だて、天下に君臨した法である。周公は『周礼』を定めて、太平と龍鳳の瑞獣を到来させたのである。


 世祖以来、通人達士、大中大夫鄭少贛、名興、及子大司農仲師、名衆、故議郎、衛次仲、侍中賈君景伯、南郡太守馬季長、皆作周礼解詁。
 玄竊観二三君子之文章、顧省竹帛之浮辞、其所変易灼然、如晦之見明、其所弥縫奄然、如合符復析斯。可謂雅達広攬者也。
 然猶有参錯、同事相違、則就其原文字之声類、考訓詁、捃秘逸。
 謂、二鄭者同宗之大儒、明理于典籍、觕識皇祖大経、周官之義、存古字、発疑正読、亦信多善。徒寡且約、用不顕伝于世。今讃而辨之、庶成此家世所訓也。
 其名周礼為尚書周官者周天子之官也。書序曰、「成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官」。是言、蓋失之矣。案尚書盤庚、康誥、説命、泰誓之属、三篇、序皆云「某作若干篇」、今多者不過三千言。又書之所作、拠時事為辞、君臣相誥命之語。作周官之時、周公又作、立政上下之別。正有一篇、周礼乃六篇。文異数万、終始辞句非書之類、難以属之。時有若茲、焉得従諸。
 斯道也、文武所以綱紀周国、君臨天下。周公定之、致隆平龍鳳之瑞。


[1]「庶成此家世所訓也」以下につづく、「其名」からはじまる段落には、篇章の区切りを示す記号が附されている。はじめの「其名」から「従諸」までの部分は鄭玄の序とみなすこともできるので、序の引用がまだつづいているものとして、とりあえずまとめてみた。が、阮元の校勘記に「盧文炤がここの段落は鄭玄の序ではないって言ってる」とあるものだから、だめかもしれない。
 しかしだとしたら、(1)「是言、蓋失之矣」とあるが、周礼=周官篇と考えているのは誰のことなのか。賈公彦の時代にそんなことを考えていたやつおるんか? だって賈公彦の時代的には、周官篇と『周礼』が両方あったわけで。『周礼』こそ周官篇なのだ、という推測は、周官篇そのものを見ることができない、という条件下でなければならないはずである。(2)そこでやや譲歩して、「其名」から「作周官」までを鄭玄、「是言」以下の按語を賈公彦による鄭玄批判だと考えることもできるだろう。つまり、鄭玄が『周礼』と周官篇を同一に見なしていたという読み方である。しかし、これはいろいろとおかしくなる。天官・小宰における、天地四時の官のおおまかな体系を述べたくだりの鄭玄注に「前此者、成王作周官、其志有述天授位之義、故周公設官分職以法之」とあり、鄭玄は『周礼』と周官篇の関係をそれとなく示している。賈公彦はここの疏で次のような鄭玄の他書の注(?)を引用している。「周公摂政三年、践奄、与滅淮夷同時。又按、成王周官、成王既黜殷命、滅淮夷、還帰在豊、作周官、則成王作周官、在周公摂政三年時周公制礼、在攝政六年時」。すなわち、『周礼』は周公の摂六年に成ったが、それ以前の同三年に周官篇がつくられており、周官篇で述べられた義を周公が官に体系化して記録したのが『周礼』である、と彼は理解していたのではないかと思われる。したがって、もとの論点に戻るが、(2)鄭玄が周官篇と『周礼』を同一にみなしていた可能性はありえない。
 ここの本文自体は偽古文を見ていなければ書けないわけではないはずだと思うし(序でいけるんじゃないか?)、鄭玄とみなしておいたほうがいい気がするんだが・・・。せっかく訳しちゃったんでこのままにしちゃいます。
 余談だが、賈公彦はさきの小宰の鄭玄注を周官篇を参照しつつ解説し、「此鄭義〔周官篇の志は「述天授位之義」のこと〕不見古文尚書、故為此解」、鄭玄が言っている義というものが周官篇にまったく見られないので、この義というものは鄭玄の解釈なのであろう、とする。とはいっても、いまとなってはという話であるが、賈公彦の見ている、そして現存している周官篇は偽古文とされている。孫詒譲が言うように、鄭玄が偽古文の周官篇を見られるわけがないのだから合致していなくたってしょうがないだろう。孫氏は「ひょっとするとマジモンの周官篇を鄭玄は見ていて、それにもとづいて其志有述天授位之義と言っているんじゃね」と言うが、希望的である。[上に戻る]

 かなり補いまくって読んでみたので、思い込みで読んでいるところがけっこうある。スマニョ。
 鄭玄が文字の正しい読み方に注の方針を置いていた、というところだけは読めた(と思う)ので、それだけで個人的には満足である。

 実際、鄭玄はテキトウに言っているのではなく、彼の注を読んでいけば「この字はこの字として読む」「この字は本来この字だろう、発音が似ているから誤写したんだ」とかすっごく言っている。
 なんか鄭玄には勝手な偏見をもっていたのだが、「ああ、字をどう読むかが鄭玄の基本なんだな、思ったよりメタじゃないんだな」と思えたので、少し好きになったヨ。でもこのおっさんは変なひとですね。

 そしてまた、二鄭の注、とりわけ鄭衆(鄭司農)を重んじていることも、彼が頻繁に引用していることからわかる。杜子春の注もけっこうな頻度で引用されているが、引用されている杜注はやはり「この字はこう読む」「この字はこの字の誤り」のたぐい。
 鄭衆はよく「春秋の伝にこう言っている」のようなことをよく言っているが、これが馬融の伝に言われていることであろう。鄭玄も同様の方法で周礼を読み解いている。

 しかし、周礼の鄭玄注でおもしろいのは、鄭玄と鄭司農の解釈がいちじるしくちがっているところである。
 たとえば、秋官に野廬氏という、道路整備の官があるのだが、

若有賓客、則令守涂地之人聚【柝と通じる表現するのがムズイ字。以下「柝」】之、有相翔者誅之。

という一節がある。ここの鄭玄注。

守涂地之人、道所生廬宿旁民也。相翔、猶昌翔観伺者也。鄭司農云、聚柝之、聚撃柝、以宿衛之也。有姦人相翔於賓客之側、則誅之、不得令寇盜賓客。

「守涂地之人」とは、道路上の休息・宿泊所そばの住民のことである。「相翔」とは、好き勝手に出歩いて周囲を見回ることである。鄭司農は次のように言う。「『聚柝之』とは、住民を集めて拍子木を打たせて警戒させ、賓客を夜通し護衛することである。悪者が賓客の付近に『相翔』、すなわちかけとんで近寄ったら、この者を誅殺し、賓客の拉致を阻止するのである」。

 両説にしたがって本文を読むと、

鄭玄
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。その者たちのなかで勝手に出歩く者がおれば、その者を誅殺する。


鄭司農
もし賓客が道路上の宿泊施設を利用することがあれば、野廬氏は周囲の住民を集めて夜通し警戒させる。悪者が賓客の近くにかけよるようなことがあれば、その者を誅殺する。

 これは秋官だからたまたま記憶に新しいだけで、そこらにこんなんがある。だいたい鄭玄のほうが筋が通っている。
 また訓詁の区切りがそもそもちがう、という箇所もある。これまた最近読んだのでまだ覚えているところになるが、考工記・輪人の蓋のくだり。〔 〕は鄭玄注。

桯長倍之四尺者二〔杠長八尺、謂達常以下也。加達常二尺、則葢高一丈立乗也〕十分寸之一謂之枚〔為下起数也。枚一分。故書十与上二合為二十字、杜子春云、当為四尺者二十分寸之一

 ちなみに何を言っているのかはさっぱりわからない。
 唯一わかるところ(にして興味を覚えたところ)は、鄭玄は「四尺者二」と「十分寸」以下を分けて読んでいるのだが、従来のテキストでは「二」と「十」で分けずに読んでおり、たとえば杜子春は「四尺者二十分寸……」と読んでいる、というところ。
 従来の読みにまったく束縛されない、というところに彼の天性があるんじゃないでしょうか。

 繰り返しになるけど、鄭玄はもっとこう、メタってるっていう偏見があったから、こういう姿を見れてよかった。安心した。
 こういう感じのが経学、なんですかね。オレは好きだよ。

2015年11月3日火曜日

「闕」ってなんのことだろうって前々からずっと気になってたけど雰囲気でなんとなくわかってるつもりになっててごめんなさい

西晋・崔豹『古今注』都邑篇より[1]

「闕」とは「観」〔物見台〕のことである。いにしえは一つの門につき二つの観を門の前に建て、宮門の目印とした。観の上は座ることができるだけのスペースがあり、登れば遠くまで眺めることができるので「観」と呼ぶ。人臣が朝廷に上るとき、ここまで来ると自分の闕(=欠)けているところを反省する。そのためここを「闕」と呼ぶ。上〔屋根?〕はすべて赤い粉末で塗装されており、下〔下部の外壁?〕には気や神仙、珍獣が描かれ、図柄によって四つの方角を示している。蒼龍闕には蒼龍、白虎闕には白虎、玄武闕には玄武、朱雀闕の上には二匹の朱雀が描かれている[2](闕、観也。古毎門樹両観於其前、所以標表宮門也。其上可居、登之則可遠観、故謂之観。人臣将朝、至此則思其所闕、故謂之闕。其上皆丹堊、其下皆画雲気仙霊、奇禽怪獣、以昭示四方焉。蒼龍闕画蒼龍、白虎闕画白虎、玄武闕画玄武、朱雀闕上有朱雀二枚。)

 またテキストの校注者は『釋名』釋宮室の一節を引用している。「闕とは闕のことである。門の両端にあり、真ん中は闕然(がらん)としていて道をつくっている(ので、門の両端にあるものを「闕」と呼ぶようになった)(闕、闕也。在門両傍、中央闕然為道也)」。

 いままでどういうものを「闕」って言ってるのかたいして理解しようとしてなかった・・・ごめんわかってあげられなくて。
 これからは「闕」って出てきたら、それは「宮門の両端にあるやつで、なんかマンガとかにもよく出てきそうな雰囲気のあるよくわかんねー長いやつ、転じてだいたい宮門のことらしい」って理解すれば良いのだな! 「闕」と呼ばれるゆえんも知ったからもう忘れてやんねー。

 『古今注』にはこのほかにもおもしろそうな豆知識満載なので、これからちょくちょく紹介するかも?



――注――

[1]テキストは牟華林校箋『《古今注》校箋』(線装書局、2015年)を使用した。底本は明嘉靖年間の『四部叢刊』(覆宋本)。校勘や語釈が充実しているテキストである。附録として佚文や明清ころ?の知識人の跋文やらなにやらがいくつか収録されている。
 撰者の崔豹については『世説新語』言語篇・劉孝標注に引く『晋百官名』に「崔豹字正熊、燕国人、恵帝時、官至太傅丞」とあるほか詳細不明。『古今注』はさまざまな事物の名称の由来を中心に雑学知識を集めたもの。古今の事物の注解を書きました、って感じだね。現存する本は全三巻八篇(輿服、都邑、音楽、鳥獣、魚虫、草木、雑注、問答釈義)。隋書経籍志は三巻、旧唐書経籍志は五巻、新唐書芸文志は一巻と伝世文献の目録では構成にバラつきがあるが、上記附録に収載されている南宋の『群斎読書志』関連記事は全三巻全八篇で上記の篇名を記録しているそうなので、まあ巻数にバラつきはあっても全体の構成は(少なくとも南宋ころから)あまり変わっていないのではなかろうか。佚文がそこそこあったり字句に混乱があったりと、現在の本にはちょこちょこ散佚やら錯簡があるようだ。
 崔豹の『古今注』は成立とか本のこととかあんまり詳しくないのだが、残念なことに上記の校注本には解題がない(この部分は本当に残念!)。附録にある前近代知識人の感想文やら考証やらを読んで察しろ、というスタンスなのかもしれない。
 ともかく、附録をおおまかに参照して私なりにまとめておくことにする。

 現在伝わっている崔豹『古今注』には偽書疑惑がかけられていた。代表的なものが『四庫全書総目提要』で、そこで問題点とされているのは二つある。まず一つに、現今の崔豹『古今注』は後唐の馬縞『中華古今注』(後述)と非常に酷似している、つまり両書の出所は同一ではないのか、ということ。もう一つに、崔豹の『古今注』は北宋から元にかけて失われている可能性がある、例えば『太平御覧』は崔豹の『古今注』を引用していて『中華古今注』を引用していないのに、『文献通考』はその逆であること。この二点から、崔豹の本は北宋~元に失われたのであり、現今の崔豹本は馬縞のものをもとにして作成されたものである、というのがどうやら提要の見解みたいである。

 これに反論を加えているのが余嘉錫。まず一点目の問題について。そもそも『中華古今注』ってのは何なのだねという話なのだが、撰者の馬縞の自序には「崔豹の本は博識だけど、ところどころいたらないところがあって残念だなあと思ったからオレが新たに注を加えたよ、書名も変えてみたよ」ってある(そうだ)。つまり『古今注』の注っていう位置づけになるのだろう。したがって余嘉錫は、『中華古今注』が崔豹の『古今注』と大部分同じであるのは『古今注』本文をほぼそのまま収録して一部加筆・改変したにすぎないからだ、と主張している。また彼によれば、明の覆宋本『古今注』と『百川学海』本『中華古今注』とを比較し、馬縞が独自に加筆したところを調べてみたところ、55条「も」加筆があったそうで、しかもその加筆は崔豹本文への追加の注は除いた合計数、つまり崔豹の本文ではもともと取りあげられていなかった題材・記事の加筆数をカウントしたもので、注の追加も数えたらもっとあるんだけど?と嫌味をたれ、「どーーーこがまったく同じなんだ」と息巻いている。コイツまじでやばくない?

 二点目の問題だが、まず余嘉錫も指摘していることで問題の核心にはあまり関係がないが、そもそも北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』を下敷きにしていると言われているもので、『修文殿』が後世の『中華古今注』を参照できるはずがないのだから、『太平』に『中華古今注』が引用されていないというのはありうることである。なので『太平御覧』のみを論拠にして、「この時期まではこの本はあったがあの本はなくて~」と論じるのは少々不適切ではないだろうか。
 だがこれは大して重要な論点ではない。『文献通考』にはどうして崔豹本が著録されていないのか、というのが重要である。そこで余嘉錫が『通考』の撰者・馬端臨の参照したという北宋~南宋期の3つの目録書を調べてみたところ、どの本にも崔豹本が記録されているじゃあないかと。これはたんに馬端臨がたまたま見落としてしまったにすぎないのであって、南宋にもちゃんと崔豹本はきっちり伝わっているしぃ、てかそもそも『文献通考』の経籍考ってその書物が現存しているかどうかに関係なく記録していたのだから、「『通考』にない=当時現存していなかった」なんて等式は成り立たないんですけど?、そんなことも知らねーーーの???、と完全に彼はエクスタシーしています。

 というわけで、提要の論拠をすべて論破した余嘉錫なわけだが、さらに彼は現今の崔豹本と隋唐宋代の書籍に引用されている『古今注』の文を比較検討してみたところ、やはり現本は引用文の「本体」といえる確かさがあり、宋人や明人が佚文やらを拾い集めてつくった偽書とは一線を画しているという。このあたりの感覚はわりかし信用してもいいんじゃなかろうか。

 以上、偽書疑惑について簡単にまとめてみた。私が詳しくないばっかりに現在ではどういう扱いになっているのかわからないが、提要の疑念は確かな根拠にもとづいているとは言えないし、そもそも宋史芸文志にも崔豹『古今注』って採録されているし。北魏・崔鴻『十六国春秋』のように、宋史芸文志には記録がないのに明代にぽっと本が出てくるようなものとは問題の質が違っている。「じつは一度散佚していていま残っているのは後世の偽書だ」と言われたら確かに「そうではない」証拠を出すことはできないのだけど、逆に「散佚している」証拠もないのであって、いちおう余嘉錫に従って、現今の『古今注』は崔豹の原本だと見ておいて良いのかな、たぶん。
 てかこの2015年のテキストもさー、研究助成?かなんかで出版したらしいのだけど、それってつまり長らく『古今注』テキストを研究した成果がコレ、ってことなんでしょ。だったらテキスト問題の解題くらい書いて、研究の結果どう結論が出せそうか表明しておこうよ・・・。購入してから解題がないことに気づいた私もアレですけど。[上に戻る]

 

[2]原文は「朱雀闕上有朱雀二枚」。校注者によれば『古今事文類聚続集』は「上有」を「画」に作っており、おそらくこちらが正しいだろうとしている。私もそう思うが、とりあえず訳文では原文を尊重しておいた。また「蒼龍闕」以降の文は別の本だと改行されている、すなわちその前の闕の文とは別扱いになっているそうだ。ここでは使用したテキストに従い、すべてをまとめて一条と見なすことにする。[上に戻る]

2015年7月5日日曜日

『芸文類聚』に見える人物優劣論――曹丕の「周成漢昭論」と張輔の「曹操劉備論」



 『芸文類聚』って、正史などの文献史料では見ることができないマニアックでおもしろい文章がたくさん収められているんですよ。
 今回はそのなかでも三国志関係のものを二つ紹介してみようかなって。『芸文類聚』は詳しく調べてみるとおもしろいよ!っていう布教的なのをしたくて。
 本記事においては(というか私は基本的に)『芸文類聚』は1980年に中文出版社から出版された活字本を使用する。この活字本は南宋の紹興年間に刊行されていた刻本を底本に、明代の数種類の刻本を利用して校訂したものである。


 さて、最初に取り上げたいのは『芸文類聚』巻12・帝王部2・漢昭帝に引用されている曹魏・文帝の「周成漢昭論」。周の成王と漢の昭帝はどっちが優れているだろうっていう、そんなことを論じています。
 とても気になりませんか? 私はとても気になってしまって、とても興奮してしまいました。どうして彼はこんなしょーもなくてどーでもいいことを論じているんでしょう? どうして彼はこんなことに頭を使ってしまったのだろう? いったい何が彼をここまで衝き動かしてしまったのか・・・いや馬鹿にしているわけではないんですが(失礼)、多少知的に飾り立てて言ってみれば、彼がこのような言論を発した当時の言論状況・文脈みたいなものは何であったのでしょう。この二人を比較するということは、当時においてはそれほど重い意味を有していたことなのでしょうか。

 そうしたことを念頭に置きつつ、見てみましょう(「周成漢昭論」は『太平御覧』巻89・皇王部14・孝昭皇帝にも引用されているが、引用文にさしたる違いはないので、『芸文類聚』をもとに訳文を作成する)。

ある者たちは周の成王を漢の昭帝と比較しているが、みな成王が優れ、昭帝が劣っていると論じている。(しかし)私は以下のように考える。周の成王は前代の聖王〔原文「上聖」、後文とのつながりから勘案して、成王の父・武王を指していると考えられる〕のうるわしい気を(受け継いで)身に備え、賢母〔一説に成王の母は邑姜という、『史記集解』に引用された服虔の左伝注によると太公望の娘〕から妊娠中の教育をほどこされ[1]、周公が太傅、召公が太保、呂尚が太師となっ(て幼少で即位した成王を助け)た[2]。すでにしゃべれるようになったのに行人〔使者を職務とする官〕が代弁して話し、もう自分で靴がはけ(自分の意志で歩け)るのに相者〔帝王のお付役みたいな〕が付き添って歩くちやほやぶりで[3]、目は立派なものに慣れ、耳は美しい音を満足に聴くほど。奥深い流れに身をひたし、清らかな風で沐浴するとはこのことである。それでも(成王には)問題があった。管叔と蔡叔の讒言を聴きいれて周公を東に左遷したため、天は怒って(大風を起こして秋の稲をすべてなぎ倒し、王の過ちに対する)咎を示した。(周公が武王の病の快癒を祈って身代わりになろうとした儀式のさいの告文を入れた)金縢〔金属製の封緘〕の箱を開いて(告文を知り)、(はじめた知ったものなのでその詳細について)史官(?)に聴き、そうしてようやく(周公の真実の忠誠を)悟ったのである[4]。周公の聖徳を解さず、金縢の箱に入っていた告文を信頼する、なんと道理に暗いことか。一方、昭帝はというと、そもそも父は武王(のような人)でないし、母は邑姜(のような人)でもない。保育したのは蓋長公主〔武帝の娘で蓋侯の妻、のちに燕王や上官桀らと謀叛を企図した〕で、補佐役だったのは上官桀と霍光である。聖人の気を受け継いではいないし、胎児のときに教育を受けていないし、保育した者に仁や孝の性質が備わっていないし、補佐した者に国家を栄えさせる政治的手腕もない。つまり、宮中で生まれ、婦人の手で育てられたのだが、徳と性は完成され、振る舞いと身体はともに成熟したわけで、年齢27の若年にして聡明であり、霍光を批判する燕王の上書が嘘だと見ぬき、霍光の忠誠を解していた。金縢の箱を開き、史官を信じてからようやく理解したなどというようなことが昭帝にあっただろうか。昭帝も成帝も同じ年齢で即位し〔『漢書』によると昭帝は8歳で即位〕、代が改まっても教化が維持され、臣が一新しても政治はよくおさまり、音楽を改定しても唱和の調和が取れていたが、漢ばかりが劣っていたわけではなく、周ばかりが優れていたわけではない。(或方周成王於漢昭帝、僉高成而下昭、余以為周成王体上聖之休気、稟賢妣之貽誨、周召為保傅、呂尚為太師、口能言則行人称辞、足能履則相者導儀、目厭威容之美、耳飽仁義之声、所謂沈漬玄流、而沐浴清風者矣。猶有咎悔、聆二叔之謗、使周公東遷、皇天赫怒、顕明厥咎、猶啓諸金縢、稽諸国史、然後乃悟、不亮周公之聖徳、而信金縢之教言、豈不暗哉。夫孝昭父非武王、母非邑姜、養惟蓋主、相則桀光、体不承聖、化不胎育、保無仁孝之質、佐無隆平之治、所謂生於深宮之中、長於婦人之手、然而徳与性成、行与体并、年在二七、早智夙達、発燕書之詐、亮霍光之誠、豈将有啓金縢、信国史、而後乃寤哉。使夫昭成均年而立、易世而化、貿臣而治、換楽而歌、則漢不独少、周不独多也。)

 間接的に霍光と上官桀をディスるのやめろ! と思ったのは私だけではないはずだ。
 さて、曹丕はどうしてこの二人を比較したのだろう。彼の論述によると、彼以外にも二人を比較する風潮があったみたいだが。
 ということで探してみると、なんと早いことにすでに後漢初期の班固によって比較がなされているんですね。『漢書』巻7昭帝紀・賛曰、

むかし、周の成王は幼児にして王位を継いだが、(在位中に)管叔と蔡叔など四国による流言の事件があった。昭帝も幼年で帝位につき、やはり(在位中に)燕王、蓋長公主、上官桀の謀叛があった。(それでも)成王は周公を疑わず、昭帝は霍光に政治を任せた。成王も昭帝も時期に適した判断をしたので名声を立てたのである。なんと立派なことか。(昔周成以孺子継統、而有管、蔡四国流言之変。孝昭幼年即位、亦有燕、蓋、上官逆乱之謀。成王不疑周公、孝昭委任霍光、各因其時以成名、大矣哉。)

 もしかするとこれより早い漢代の記述もあるかもしれないが、まあ班固の時点ですでに見えているってことが確認できればいいでしょう。まして『漢書』なんだから、後漢・魏・晋の知識人ならみんな読んでいるだろう。
 で、注意してほしいのだが、班固においては確かに二人は比較されている。だが優劣を定めるための比較ではない。昭帝は成王に似ていると論じるために比較しているのだ。
 曹丕の論を読んだあとでは実感が湧かないだろうが、実際、周の成王は評判の高い君主である。周朝安定の基礎は彼が築いたんだみたいな、そんな感じの言説もどっかにあったような気もするくらいわりかし褒められている。昭帝を成王になぞらえるのは、昭帝に高い評価を与えているということなんですよ。漢の臣下だし漢の国史を書いているわけだから当然のことですが。

 ところで、『芸文類聚』(および『太平御覧』)には丁儀の「周成漢昭論」も引用されている。内容は大したことはなくて、曹丕と同じく昭帝の方がスゲェと言っている感じ。問題としている論点も曹丕と同じなんで、媚びているとまでは言えないかもしれんが、意識はしているでしょう、ともかく両者の「周成漢昭論」は時期を同じくして出されたものだろう。丁儀は文帝即位まもなく誅殺されているので、曹丕の論も即位前のものと見て良いのではないでしょうか。

 これらの点を確認したうえで曹丕の論をちょい掘り下げてみよう。曹丕の論は二つの点で「開かれている」ように思われる。
 まず漢の皇帝を遠慮なく論評している点。班固の場合、彼は昭帝を褒めたい前提で比較をしているに過ぎない、なので比較といってもあっさいよね。もちろん、漢の臣だからといって漢の皇帝を批判してはならん道理はなく、武帝なんか前漢のころからえらい評価の分かれる皇帝でよく知られている。しかし、わざわざ成王と第三者的観点から比較をおこない、「うん、昭帝陛下は大したことはありませんね!」なんて言い出す漢臣がいるとも思えない。
 それに比べ曹丕の場合、結論的には昭帝を高く買っているが、彼なりの基準を持ち出して比較的公平に評価を下そうとしている。というか、班固と比較する目的が明らかに異なっている。彼の場合は政治的目的があるように見えないのである。
 班固の時代においてはおそらく許されなかったであろう、こうした比較の議論も、後漢末の時代においてはそうした方向へと開かれていた。魏晋時代といえば、儒教から解放され比較的自由な学問的精神が芽生えていたと主張されることがある。この曹丕の論もそうした傾向の一端なのだ! ・・・なんてもちろん、無条件でそうは思いません。曹丕に政治的な意図がなかったとしても、それでもこの論が後漢末に語られたということは高度に政治的意味を有すると思う。いまだ漢の時代であるはずなのに、その漢の皇帝を政治的に扱うつもりがなく、自らの知的関心に基づいて議論の素材にしてしまう――私はとても政治的な意義を認めてしまうのですがどうでしょうか。

 もうひとつ興味深い点が、周を無条件に良いとしないところ。前述したが、成王は決して評判の低い王ではない。まして周ときたら理想視される王朝。そういう政治的に慎重に扱われるところを彼は平気で自分の議論の材料に使ってしまうんですね。
 こういったあたりに彼のしたたかさがあるような気がしてならんですが、ちょっと深読みしすぎだろうか。あまり深刻に考えんほうがいいかもしれん。


 さて、もうひとつ論を取りあげて終わりです。西晋の張輔という人の「名士優劣論」というやつで、曹操と劉備を比較したものです。『芸文類聚』巻22・人部6・品藻に引用されている。『太平御覧』巻447・人事部88・品藻下にも引用されており、双方での字句の異同が激しいが、『芸文類聚』のほうが情報量が多いので、『類聚』をベースにして部分的に『太平御覧』で補っておきたい。『御覧』から補った箇所は[ ]で示す。

世の人々はみな、魏武帝は中原を支配していたから劉備より優れていると言い合っている。(しかし)私は劉備のほうが優れていると思う。(なぜかを以下に述べよう。)そもそも戦乱を収める君主というのは、将を確保することに第一義を認めるものである。自分ひとりだけで奮戦してもどうにもならないからだ。世の人々は、劉備は呂布に奇襲されて武帝のもとへ逃亡し、また大軍を起こして長江を下ったのに陸孫にボロ負けしたと(強調)している。しかし、呂布に奇襲され(敗走し)たといっても、武帝が徐栄に大敗して、馬を失い身体に傷を負ったときの危機的状況と比べたらマシである。劉備は徐州に戻っても勢力を安定させることができないままで、荊州にいたときは、劉表親子が彼の作戦を採用せず、曹操に降ってしまった。彼の手勢の歩兵と騎兵は数千にも満たず、武帝の大軍によって敗走させられた。しかしこれも、武帝が呂布の騎兵に捕まり、(そこからなんとか逃れると)火を突っ切っ(て門から逃げ)た急場と比べてればマシである[5]。陸孫にボロカスにされたのだって、武帝が張繍に苦しめられ、単独で逃亡し、二人の子〔曹昂と曹安民?〕を失ったのと比べればマシである。[もし漢の高祖が彭城で(項羽に急襲されたときに)戦死していたら、世の人々は彼を項羽に遠く及ばないと評しただろう。(それと同様に)武帝が宛で戦死していたら、張繍に及ばない人物だと評されていたであろう。]しかも(武帝は)他人の才能を嫌い、残忍な振る舞いを平気でおこない、他人を親任することがない。董昭や賈詡はいつも愚かなフリを装うことで禍から逃れることができ、荀彧や楊脩のような者たちは多く殺されてしま[い、孔融や桓瞱らは恨みを買ってしまったので殺されてしま]った[6]。[有能な将軍に戦争を任せることができず、]30余年の軍事活動のあいだ、必ず自ら軍を統率し、功臣や参謀は諸侯に封じられることもなかった。仁愛は親族に加えられず、恩恵は人民に行き渡らなかった。劉備は威厳を備えながら配慮深さもあり、勇敢でありながら義を重んじ、度量は寛大で遠謀を抱いていたが、武帝がどうしてこれに匹敵しようか。諸葛亮は政治に精通し、機会に明るく、王佐の才と言える人材である。劉備は強大な勢力を張っていたわけではないが、この諸葛亮の忠誠を得ていたのである。張飛と関羽はどちらも傑物だが、服従させて自在に用いていた。いったい、その主君の明暗は人材を用いることができるかどうか、有能無能は部下を使うことができるかどうかにかかっている〔原文「明闇不相為用、能否不相為使」、よく読めないのだが、訳文のようなニュアンスだろうと思うので意訳した。音韻かなんかで、文末にくるはずの「不」を真ん中に移したのかな?〕。武帝は安定して強大な勢力を有していたにもかかわらず、人材を(十分に)用いることができなかった。まして、(劉備のような)不安定な情況で、弱小の勢力しか抱えていない土地であればなおさら(活用することができなかった)であろう。もし劉備が中原を支配していれば、周王朝の興隆にも匹敵する(繁栄を得た)であろうし、その場合、(彼のもとに参じた英傑は)諸葛亮、張飛、関羽の三傑にとどまらなかったであろう。(世人見魏武皇帝処有中土、莫不謂勝劉玄徳也。余以玄徳為勝。夫撥乱之主、先以能收相獲将為本、一身善戦、不足恃也。世人以玄徳為呂布所襲、為武帝所走、挙軍東下、而為陸遜所覆。雖曰為呂布所襲、未若武帝為徐栄所敗、失馬被創之危也。玄徳還拠徐州、形勢未合、在荊州、景叔父子不能用其計、挙州降魏、手下歩騎、不満数千、為武帝大衆所走、未若武帝為呂布北騎所禽、突火之急也。為陸遜所覆、未若武帝為張繍所困、挺身逃遁、以喪二子也。[若令高祖死於彭城、世人方之不及項羽遠矣。武帝死于宛下、将復謂不及張繍矣。]然其忌克、安忍無親、董公仁賈文和、恒以佯愚自免、荀文若楊徳祖之徒、多見賊害、[孔文挙桓文林等以宿恨見殺。良将不能任、]行兵三十余年、無不親征、功臣謀士、曾無列土之封、仁愛不加親戚、恵沢不流百姓、豈若玄徳威而有思、勇而有義、寬弘而大略乎。諸葛孔明、達治知変、殆王佐之才、玄徳無強盛之勢而令委質、張飛関羽、皆人傑也、服而使之。夫明闇不相為用、能否不相為使。武帝雖処安強、不為之用也、況在危急之間、勢弱之地乎。若令玄徳拠有中州、将与周室比隆、豈徒三傑而已哉。)

 この張輔という人、『晋書』巻60にも立伝されていて、「管仲鮑叔論」など様々な比較論を著しているらしい。伝には「管仲鮑叔論」と「司馬遷班固論」の(おそらく)一部が引用されている。『太平御覧』の引用の仕方を見ると「名士優劣論」という題の文章のなかに「管仲鮑叔論」や「司馬遷班固論」が収録されている、すなわち「誰と誰との比較論」が集積されているのが「名士優劣論」で、『類聚』や『御覧』はそのうちの一部を引用しているようだ。『隋書』経籍志によると『張輔集』という書があったらしいので、そこに「名士優劣論」が収められていたのだろう。
 『晋書』張輔伝にも「曹操劉備論」について言及があるのだが、

魏の武帝は劉備に匹敵しないこと、楽毅は諸葛亮に劣ることを論じているが、文字が多いのでここに掲載しない。(論魏武帝不及劉備、楽毅減於諸葛亮、詞多不載。)

と、列伝では割愛されている。しかし上記のように、『芸文類聚』には全文ではないが長文で引用されているので、論の骨格も明瞭に見て取れるようになっている。ありがたいことです。ちなみに『芸文類聚』の同じ箇所には張輔の「司馬遷班固論」、「楽毅諸葛亮論」も引用されている。
 さて、私が曹丕の論で展開した推測を適用すればこの張輔も「したたかだ!」ということになるわけですが、時代の雰囲気はちょい違うよね、たぶんそうだよね。後漢末は400年つづいた漢朝がとうとう終わってしまうんじゃないかという、なんというかいろいろな意味で新鮮な時期であったと思う、曹丕の論はそうした時期に漢の神聖性を剥落させてしまうような効能があった(かもしれない)。西晋時代も新しい時代の到来を予感させるものではあったが、漢魏革命、魏晋革命と二度の王朝革命を経験したあとの時代となると、まあそこまで深い意義を読み出そうとしなくてかまわないんじゃなかろうか。
 しかし、論の当否はわりとどっちでもいいんですが、場合によってはこの論って危なくないか、政治的に。魏を貶めるのはかまわんのですよ、場合によっては「ダメな魏に代わって晋が天命を受けたのだ」って話にもつながるからね。そっちではなくて劉備側の評論。彼は、劉備はスゲェと言い、劉備のもとに集まった部下も有能なのがいたと言っているだけで、蜀漢の政治的正当性/正統性を認めているわけではない。でも、ifとはいえ、「劉備が中原を支配していたら周に匹敵したであろうに」なんてうっかり口に出していいもんでもないでしょう。
 彼は西晋恵帝期を中心に官として活動しており、晩年は河間王顒に仕えている。王朝に比較的近いところにいた人物と見てよいのではないか。そんな彼の論にしてはあまり穏やかじゃない気がするんだよなあ・・・。


 以上二つの論を見てきました。わかったことは、私はこの時代を「政治に憚って自由にモノが言えなかった時代」とすぐ想定してしまうことですね。あまり過度にそういう見方をしてはいけないのかもしれない。自戒。



――注――

[1]原文は「稟賢妣之貽誨」。「貽誨(おしエヲのこス)」は子孫のために残した教訓のような意味であり、また『春秋左伝』昭公十年の疏に「生母を母と言い、死母を妣と言う」ともあり、そのためここの文章は「産後まもなく死去した母が遺した教育マニュアルをほどこされて」、のように読むこともできるだろう。ただし、成王の母に関する逸話として『大戴礼記』保傅篇に「周后妃任成王於身、立而不跂、坐而不差、独処而不倨、雖怒而不詈、胎教之謂也」とあり、要約すると妊婦が行動をつつしみ、品行を良くすることによって、胎児に良い影響を与えるという教育術があり、それを「胎教」と呼ぶのだそうだが、成王の母はこの「胎教」を実行した代表的な人であったようだ。管見の限り、成王の母の死没状況は具体的に記されておらず、不明。成王の母の教育となるとこの「胎教」が知られているくらいである。「誨」は「教」と意味が通じるので特に気にしなくて良いが、原文の「貽」は「胎」の誤字なのかもしれない(もっとも、誤字といっても底本では「胎」かもしれないが。つまり校訂者の釈字ミスかもね)。ともかく、訳文では文帝の意に背く可能性もあるが、「胎教」の意で訳出をしてみた。[上に戻る]

[2]原文「周召為保傅、呂尚為太師」。「保傅」は具体的な官名ではなく、もりやく一般の意で取ることも可能だが、『漢書』巻48賈誼伝の賈誼の上疏に「昔者成王幼在繈抱之中、召公為太保、周公為太傅、太公為太師」とあるのを踏まえ、具体的官名として訳出した。[上に戻る]

[3]原文「口能言則行人称辞、足能履則相者導儀」。『淮南子』主術訓の「口能言而行人称辞、足能行而相者先導」が出典だろう。董仲舒の『春秋繁路』離合根篇にも「足不自動而相者導進、口不自言而擯者賛辞」と似たような表現があり、当該箇所の日本語訳を参照して訳出した。坂本具償・財木美樹「『春秋繁露』訳注稿正貫・愈序・離合根・立元神・保位権篇」(『高松工業高等専門学校研究紀要』38、2003年、CiNiiオープンアクセスPDF)pp. 85-88。[上に戻る]

[4]語られている周公の逸話に関しては、原話は『尚書』金縢篇に見える。「史官」のところで(?)をつけたのは、原文では「問諸国史」となっているが、『尚書』や『史記』魯周公世家では「諸史」すなわち史官に問うたと記されているからで、原文の「国史」は「諸史」と同一の意を有しているのか、それとも異なっているのか判別ができない。「国史」の文を尊重したとしても意味を取りにくいので、ここでは「史官」と訳出させてもらった。後文にもう一度出てくる「史官」も原文は「国史」。
 周公のこのときの話は様々なバージョンがあったらしく、史料間で細部の情報が異なることがある。武王が死んだとき成王は何歳であったか、周公はいつ東にいったのか、天の災異と金縢開封は周公没後か否か、等々。特に最後の点は訳出にも多少影響がありそうな問題で、『史記』魯周公世家では周公没後として語られているが、司馬貞は「『尚書』では没後として書かれていない!」と反対をぶつけており、『漢書』の顔師古注を見る限り、顔師古も金縢開封を周公没以前のものとして認識しているようである。しかし、『洪範五行伝』(『後漢書』伝51周挙伝・李賢注引)も『史記』と同様の記述をしているようだし、さらに肝心の『尚書』は司馬貞が主張しているほど明確な記述ではなく、没後でも没前でも解釈できるし、『漢書』『後漢書』等の故事の引用例もこれまたどちらでも解釈できる。要するに没後か没前はこの説話においてはそれほど重要な要素ではなく、「金縢を開いてからようやく周公を信じるようになった、そんで天の怒りもおさまった」、このプロットだけが重要だったみたいだ。なので、曹丕もそれほどこの点は気にしていないのではないかと思っています。訳文も没後没前は明言しておかずにしておきます。[上に戻る]

[5]私は調べないとわからなかったので注をつけておきます。これは張邈と結託して兗州を強襲し、濮陽にこもった呂布を曹操が攻囲したときの話である。詳しい話は武帝紀の裴松之注に引く『献帝春秋』に見える。ちくま訳から引用(p. 30)、「太祖が濮陽を包囲すると、濮陽の豪族田氏が内通して来たので、太祖は城に入ることができた。その〔侵入した〕東門に火を放ち、引き返す意志のないことを示した。戦闘になり、軍は敗れた。呂布の騎兵は太祖を捕えたが彼だと知らずに訊ねた、「曹操はどこにいる。」太祖、「黄色の馬に乗って逃げて行くのがそうです。」呂布の騎兵はそこで太祖を放置して黄色の馬に乗った者を追いかけた。門の火はなお盛んであったが、太祖は火を突いて城を出た」。[上に戻る]

[6]桓瞱、字は文林。『後漢書』伝27桓栄伝に附伝されている。本伝中には曹操との関係が特に記されていないのだが、あるブログ記事http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-56.htmlによると、『三国志』武帝紀・建安25年の条の裴注に引く『曹瞞伝』に見える桓邵なる人物と同一人物でないかとの指摘が研究者によってなされているらしい。桓邵は若年時代の曹操を侮蔑していたために曹操の恨みを買ってしまい、後年謝罪したが許してもらえず、誅殺されたという。その研究者の本を所有していないので、どういう根拠でそのような主張をしているかは不明だが、そうだったらまさにぴったりという感じ。[上に戻る]