2014年7月6日日曜日

家伝から見る家伝系史料の特徴と王敦の人望のなさ

『世説新語』言語篇
摯瞻曾作四郡太守、大将軍戸曹参軍、復出作内史[一]。年始二十九。嘗別王敦、敦謂瞻曰、「卿年未三十、已為万石、亦太蚤」、瞻曰、「方於将軍少為太蚤、比之甘羅已為太老」[二]

摯瞻はかつて四郡太守、大将軍(王敦)戸曹参軍を歴任していたが、今度は内史〔王国の長官。要するに太守〕に就任が決まった。そのとき、年齢はようやく29になったところ。王敦と別れるさい、王敦は摯瞻に言った、「君はまだ30にもなっていないというのに万石〔2000石×5=1万〕とは、ちょい早すぎるのではないかね」。摯瞻、「将軍と比べるといささか早すぎるようですが、(12歳で上卿になった)秦の甘羅と比べると遅すぎます」。

 ここで二ヶ所、劉孝標の注[一][二]が付され、『摯氏世本』が引用されている。見てみよう。
[一]
瞻字景游、京兆長安人、太常虞兄子也。父育、凉州刺史。瞻少善属文、起家著作郎。中朝乱、依王敦為戸曹参軍。歴安豊、新蔡、西陽太守。見敦以故壊裘賜老病外部都督、瞻諌曰、「尊裘雖故、不宜与小吏」、敦曰、「何為不可」、瞻時因醉、曰、「若上服皆可用賜、貂蟬亦可賜下乎」、敦曰、「非喩所引、如此不堪二千石」、瞻曰、「瞻視去西陽、如脱屣耳」。敦反、乃左遷随郡内史。

摯瞻は字を景游といい、京兆は長安の人である。太常であった摯虞の兄の子にあたる。父の育(の最高官)は涼州刺史であった。摯瞻は若いころから文章の作成に長けており、最初に就任した官は著作郎〔起居注の執筆など、言ってみればライター的な仕事〕であった。永嘉の乱で朝廷が混乱すると、(荊州にいた)王敦を頼り、その戸曹参軍となった。安豊太守、新蔡太守、西陽太守を歴任した。王敦が使い古しでぼろぼろの毛皮の服を、高齢あるいは病気の外部都督にあげているのを見ると、摯瞻は諌めた、「使い古しとはいえ、高級な毛皮を下っ端にあげるのはいかがかと思います」。王敦、「どうして?」。摯瞻は酔いにかまけて言った、「高級な服をあげてよいことになるなら、貂蝉をあげてもよいことになりませんか〔貂蝉は侍官の冠につける装飾。暗に侍官を独断で任命する=野心をもつのはよしなさいと言っている。注[1]参照〕」。王敦、「下手な喩えだな。それではまるで、二千石では満足できないと言っているようなものだぞ〔侍官の筆頭侍中は比二千石で三品〕」、摯瞻、「西陽太守を離れることなぞ、わたしにとってはくつを脱ぐこととたいして変わりません〔おまえのとこを辞めるなんてよゆーだし!という意味だろう〕」。王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された。


[二]
瞻高亮有気節、故以此答敦。後知敦有異志。建興四年、与第五琦拠荊州以距敦、竟為所害。

摯瞻は高潔で気概盛んなため、王敦(の意地悪な言い方)に(強気に)答えたのである。のち、王敦が野心を抱いていることに気づいた。建興四年、摯瞻は第五猗とともに荊州を根城として王敦に背いたが、ついには殺害された。
 摯瞻は摯虞の親族であるらしい。摯虞といえば礼制のスペシャリストとして西晋政治史に欠かせない人物。最期は洛陽で餓死してしまうが・・・。
 摯瞻は『晋書』に列伝が立てられていない。なかなか気骨のある人物がこういうかたちでしか知れないとは。劉孝標および摯氏の家伝と思われる『摯氏世本』は本当にいい仕事をしてくれた。












で終わると思ったか?
終わってやらねーーー


 いやまあ、ともかく。この『摯氏世本』の記述、ちょい検討する必要がありそうなのである。
 徐震堮氏は次のような興味深い注を記している(『世説新語校箋』中華書局、1984年)
第五猗が荊州で王敦に反抗したことは、元帝紀で建武元年に記されている。この年は愍帝の建興四年である。王敦が反乱を起こしたのは永昌元年なので、王敦が反乱を起こす5、6年前の出来事になるのだが、どうやって王敦の野心を察知できたのだろう。また、摯瞻は第五猗と反乱を起こして最終的に殺害されたとあるのに、最初の注に引かれた『摯氏世本』の文章には「王敦が反乱を起こすと、随郡内史に左遷された」とある。同一の本の記述なのに矛盾している。
 なるほど。双方の佚文が『摯氏世本』のなかでどのような文脈のもとで配置されていたのかがわからないのだが、[一]の佚文は王敦のお気に召さなかったために、王敦の反乱後は遠くに飛ばされたって内容になっている。一方の[二]は、王敦の反乱を事前に察知し、第五猗と組んで反乱の芽を摘もうとしたけど失敗して殺された、という内容。うむ、たしかに。この[一]と[二]の佚文だけで比較してもつじつまが合わなくなっている。

 それに加えて徐氏の指摘で注目したいのが、摯瞻の反乱が王敦反乱の直前になされたものではなく、かなり前のものだという点だ。少し詳しく調べてみよう。まず元帝紀。
建武元年・・・八月・・・荊州刺史の第五猗が賊の頭領・杜曾から推戴され、とうとう杜曾と反乱を起こした。九月、戊寅の日、王敦は武昌太守の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻に第五猗を討伐させたが、杜曾らに敗北し、趙誘らはみな戦死した。・・・梁州刺史の周訪が杜曾を討ち、おおいに破った。・・・太興二年、・・・五月、・・・甲子の日、梁州刺史の周訪は杜曾と武当で戦い、杜曾を斬り、第五猗を捕えた。
 あれ、賊と組んでたの? っていうか賊から推戴されちゃってたの? さいわい、杜曾伝が『晋書』にあるので、それを参考にしてみると、杜曾は新野の人で、武官として活躍していた。永嘉の乱前後、荊州は徐々に混乱におちいり、胡亢、王沖、王如、杜弢など、様々な流民集団が自立・自衛し、晋朝の統制からはずれてしまっていた。賊乱立の無政府状態になってしまったんですね(もちろん、「賊」というのは晋朝側からの物言いである)。杜曾は当初、胡亢の部下として過ごしていたが、やがて胡亢を殺害し、胡亢集団を乗っ取ってしまった。要するに、杜曾は荊州に割拠していた群雄(?)の一人で、晋朝の支配下から抜けていた人物なのである。

 第五猗はどうしてそんな杜曾と組むにいたったのだろうか。この事情もかなりややこしいが、諸列伝を参照すると次のように整理できる。

 荊州が晋の統制からはずれていたことは前述の通り。これに苦心して取り組んだのが琅邪王(のちの元帝)率いるグループであった。
 元帝は揚州刺史王敦と甘卓に江州(豫章)を鎮圧させたのち(後述)、王敦に当時暴れまわっていた杜弢集団を討伐するよう命じた。豫章に駐屯した王敦は、陶侃や周訪を派遣、とりわけ陶侃の活躍により杜弢集団を鎮圧することに成功した。陶侃は功績が認められ、荊州刺史に昇進していたが、長沙で余勢も討伐し終え、いよいよ帰還というとき、
王敦は陶侃の功績を妬んだ。(長沙から)江陵に帰還し、王敦に(荊州刺史赴任にあたっての)いとまごいを告げようとしていたが〔当時の荊州刺史の赴任地は襄陽かな、たぶん〕、皇甫方回や朱伺らは行ってはいけないと諌めた。陶侃は聴きいれずに江陵へ向かった。はたして、王敦は陶侃を江陵に留めて赴任地へ行かせず、かえって広州刺史、平越中郎将に左遷し、王廙を荊州刺史に命じた[2]。陶侃の部下たちは陶侃の留任を王敦に願い出たが、王敦は怒ってしまい、許さなかった。陶侃の部将の鄭攀、蘇温、馬儁らは南の広州に行きたくなかったので、とうとう西の杜曾を迎えて王廙に反抗した。(『晋書』巻66陶侃伝)
 王廙はもちろん琅邪王氏。さて、同じ事情を記した王廙伝を見てみよう。
はじめ、王敦が陶侃を左遷し、王廙を荊州刺史に命じた。陶侃の部下の馬俊(「俊」、原文ママ)、鄭攀らは王敦に陶侃の留任を要請したが、王敦は許可しなかった。すると、王廙は馬俊らの襲撃を受け、江安に敗走した。賊の杜曾は馬俊、鄭攀らと手を組み、北に進んで第五猗を迎え、王廙に反抗した。(『晋書』巻76王廙伝)
 ほほう、第五猗は王廙に反発した陶侃の部将たちによって迎えられたわけだね。杜曾伝によると、直後に陶侃の討伐軍が来るのだがこれを破ったとか。おまえらの望みは陶侃じゃねーのかよと言いたくなるのは措いとくとして、次に注意したいのが周訪伝だ。
当時、梁州刺史の張光が没したので、愍帝は侍中の第五猗を征南大将軍、監荊・梁・益・寧四州とし、武関から荊州に向かわせた。荊州の賊の頭領たち、杜曾、摯瞻、胡混らはみな第五猗を迎え、彼を推戴し、数万の兵を集めた。陶侃を石城で撃破すると、宛で平南将軍の荀崧を包囲したが、落とすことができず、兵を率いて江陵に向かった。王敦は従弟の王廙を荊州刺史にし、征虜将軍の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻を統率させて杜曾らを討伐させたが、女観湖で大敗し、趙誘、朱軌らはみな殺害された。杜曾はとうとう王廙を荊州から追い出した。・・・元帝は周訪に討伐を命じた。・・・杜曾の部将の蘇温が(敗走していた)杜曾を捕まえて周訪軍に出頭した。また周訪軍は第五猗、胡混、摯瞻らを捕えた。全員を王敦に送るにあたり、周訪は、第五猗は杜曾に脅されていただけだから殺すべきでないと伝言した。王敦は聴きいれずに斬った。(『晋書』巻58周訪伝)
 さきに引用した元帝紀と同様の記述が見えてきました。周訪伝によれば第五猗は愍帝によって派遣された荊州刺史であることがわかる。杜曾伝も愍帝から派遣された刺史だと明記しており、さらに襄陽で迎えたこと、杜曾と第五猗が婚姻関係を結んだことも記されている(「会愍帝遣第五猗為安南将軍、荊州刺史、曾迎猗於襄陽、為兄子娶猗女、遂分拠沔漢」)

 諸史料で若干人名が違うとか、ほかにもいろいろ異同はあるのだが、荊州における王敦派と陶侃派との対立が起き始めたときにたまたま第五猗が北から来ちゃって、「コイツは使える」と思った陶侃派が王敦に対抗する意図で彼を反乱に巻き込んだ、ってことでしょうかね[3]。なにしろ愍帝からのお墨つきもらってるからなー。いくら王敦が元帝から自由に地方官を任命する権限を与えらえているとはいえ、愍帝はその元帝の上にいるわけだし、王敦の法的正当性/正統性なんぞ一瞬で吹き飛ぶわな。
 陶侃は杜弢の反乱を鎮圧しているうちに荊州の人々のハートをがっちりつかんでおり、「陶将軍がいなかったらいまの荊州はなかった」なんて言われてるくらい慕われていたようである。第五猗らの反乱が鎮圧されたあと、結局王廙が荊州刺史に留任するのだが、「陶侃が刺史だったときの官吏や処士の皇甫方回を殺害しつくし、荊州の人望を失った」(『晋書』王廙伝)ため、中央に召され、その後任には王敦が就いた(『晋書』王敦伝)。なんかヨゴレ役をぜんぶ王廙に押しつけたかっこうになってるね、王敦。

 別に王敦ディスってないし、王敦が陶侃を広州刺史に任命したのだってほかの意図があったかもしんないじゃん。めんどいから調べないけど。
 で、問題なのは冒頭に挙げた摯瞻。彼はいったいどういう経緯から杜曾&第五猗連合軍に加わったのだろう、捕まったあとどうなったのだろう、という肝心のところは推測する手がかりすらないので、ちょい度外に置いときましょう[4]。気になるのは『摯氏世本』の書き方だ。

 『摯氏世本』の言っていることは間違っちゃいない。しかしなにか違和感を感じないだろうか。違和感があるという人、それはこの時代の歴史を東晋の側からしか見ていない証です。
 摯瞻のやったことは、王敦や元帝などのちに東晋となる政治集団から見れば、まぎもない「反乱」。自分たちの言うことを聞かないし、杜曾と組むしで、いくら愍帝の任命した刺史とはいえ、反抗者に違いはない。王敦だって第五猗を斬ってるじゃないか。の割にはかなり書き方がマイルドになっていないだろうか。杜曾の名前は伏せ、摯瞻は反乱を起こしたのではなく、王敦を事前に潰そうとしたのだと、反乱を起こしたことを弁護し、行動を正当化しているように見えないだろうか。
 『摯氏世本』の執筆者は摯氏か、親しい関係者で、のちに王敦が武力で政府の実権を制圧したことを利用して、摯瞻の反乱はじつは反乱ではなく朝廷を守るための行為だったのだと記述し、名誉を回復しようとしたとかそんなねらいがあったように思われる。ものは言いようですね。

 『摯氏世本』の記述を簡単に調べてみる程度だったのだが、思った以上にいろいろ興味深かった。まず、王敦派と陶侃派との対立があんな出来事まで誘発していたこと。正直、この時期の荊州は複雑だなあという印象だけでちゃんと調べたことはなかったので、ああやっぱり複雑だなあと思いました。
 次に元帝グループと懐帝・愍帝グループとの軋轢。いちおう元帝は愍帝から権限を任命されている立場なので元帝グループは愍帝に逆らえないはずだが・・・第五猗の例から見ると、愍帝の権威なんぞなんとも思ってなさそう。『資治通鑑』によると、周訪は第五猗を王敦に送るさいに「中央政府が任命した刺史だから斬っちゃダメよ」って伝言してるのだけど見事に王敦は無視。このような傾向は王敦だけのものかと言うと、そうとも言えない節がある。例えば江州刺史華軼なんかがそうだ[5]。元帝からすれば、もう力の残っていない中原政府に一々おうかがいするより、自分たちで判断してテキパキやったほうが早いわけ。実際、「例外状態・異常事態」下である程度の権限を緊急に振るうことは禁じられているわけではないだろうし、元帝たちはそういう理由をもって自分たちの勢力を各地に浸透させていたわけだね。

 最後に家伝・家譜の記述の扱い方。魏晋南北朝では大量につくられたこれらの書物も、現在ではほとんどが散佚してしまい、どういう形態の書物だったのかはうかがいしれないのが大変残念(ちなみに魏収の『魏書』は家伝をたくさん集めたようなものと言われることがあるから、一種の家伝と言えるかもしれない)。
 家伝系の書物でよくわからないのは、①誰が書いていたのか、②どういう目的で書いたのか、③そもそも何が書かれていたのか。③がわからない限り①と②もわかりっこなさそうなのだが、種々の佚文を見る限り、名・字、官歴、長所、逸話がコンパクトに書かれている感じ。『摯氏世本』もそんな感じだった。史書の列伝に近い感じだろうな、と思われます。
 ①と②は書物ごとに違っている可能性もあるだろうし、一般的に言うことはできないけども、少なくとも『摯氏世本』に関しては、前述の通り親族か親しい関係者かが書いたでしょうな。目的は『摯氏世本』に限ってもわからないが、まあ悪いこともひっくるめていろいろ書くぜ、みたいな書物ではなさそうだ。そういえば吉川忠夫先生の『六朝精神史研究』だったか、沈約の祖先はかつて東晋に反乱を起こしたのだけど、沈約の自序ではそこらのことがぼかされているとかなんとか指摘されていたと思う。
 繰り返すが、『摯氏世本』の記述が間違っているとか言いたいのではない。後年の王敦の挙兵にこじつけるのはどうかと思うけど、王敦派への反発から生まれたこじれではあるし。ただ、ああいうぼかした書き方は、あきらかに東晋朝廷への弁護的な意味合いがあるだろうにしても、現代の研究者からすれば信用問題に関わってくるだろう。今回取り上げた件はそんなに問題視するほどでもなかったかもしれないが、他の家譜・家伝の記述はどうだろうか。史料として参照する場合、吟味しておいた方がよさそうだ。たんに信用問題だけでなく、ひょっとすると今回のように、東晋側の視点を相対化してこの時代をみるいいきっかけになるかもしれないからね。



――注――

[1]少なくとも西晋以降、侍中を含めた侍臣の官は、武冠を「貂蝉」で飾る規定であったらしい。『宋書』巻18礼志五に「侍中・散騎常侍及中常侍、給五時朝服、武冠。貂蝉、侍中左、常侍右。皆佩水蒼玉」とある(礼志五のかかる箇所が、西晋泰始年間の規定である可能性が高いことは、小林聡「六朝時代の印綬冠服規定に関する基礎的考察」、『史淵』130、1993年を参照)。具体的には、蝉の羽で飾りつけた金製のバッジと、貂の毛を挿した金製の竿のことで、竿を侍中は左、散騎常侍は右に挿す。『晋書』職官志「侍中・常侍則加金璫、附蝉為飾、挿以貂毛、黄金為竿、侍中挿左、常侍挿右」。武冠は戦国趙が起源だというが、これに貂蝉を飾る習慣は秦漢以来あったようで、その由来について、後漢の胡広は「昔趙武霊王為胡服、以金貂飾首。秦滅趙、以其君冠賜侍臣」と言い、応劭『漢官儀』は金=剛健・百錬不耗、蝉=高潔(「居高食潔」)、貂=内剛外柔、を比喩しているとするなど諸説ある。[上に戻る]

[2]このとき王敦は。鎮東大将軍、開府儀同三司、都督江揚荊湘交広六州諸軍事、江州刺史で、都督下の州郡の長官を自分で任命する権限を与えられている(『晋書』巻98王敦伝)[上に戻る]

[3]ちょっと異なる経緯を記しているのが『晋書』巻81朱伺伝と、朱伺伝をベースにしている『資治通鑑』。これらによると、鄭攀らは杜曾と結託して王廙を拒絶しようとしたが、趙誘、朱軌らを差し向けられると、誅殺をビビッて投降、杜曾も罪をつぐなうため、襄陽の第五猗を討伐したいと願い出た。しかしこれは王廙らを油断させる罠で、杜曾は王廙らを急襲し、さらに趙誘らも破って戦死させる。その後の経緯は特に本文の説明と変わりなし。鄭攀は結局降ったママ?っぽいが、馬俊と蘇温はそのまま杜曾軍にいた感じになる。[上に戻る]

[4]ホントはここらをいろいろ妄想考察してみたいんだけど、残念ながらあまりにも材料不足。最初考えたのは、摯瞻は第五猗と一緒に荊州に来て、なりゆきで反乱に加わってしまい、捕まったあとは王敦に罪を許され、その後は王敦の爪牙として働いた、というもの。ただこれは永嘉の乱前に王敦を頼ったという『摯氏世本』の記述と乖離してしまうし、微妙。『世説新語』本文の記述から見ても、摯瞻は多少王敦に反感をもっていたのかもしれないが、王敦派の一人ではあろうし、わざわざ王敦に背くまでの理由がなんかあったのだろうか。なさそうだから上記のように考えてみたんですけどね、もう完全に謎ですね。[上に戻る]

[5]江州は荊州と揚州のあいだにある州とイメージしてもらえるとよい。華軼は琅邪王が江南に来る以前から江州刺史として政治を執っており、なかなか評価は高かった。華北で劉淵や石勒らが跋扈しはじめても、洛陽に皇帝がいる限り皇帝の詔書以外の命令は聴かないと言い、江南で秩序を回復させようと努める元帝たちの命令を受けつけなかった(『晋書』巻61華軼伝「軼自以受洛京所遣、而為寿春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡県多諌之、軼不納、曰、『吾欲見詔書耳』」)
 やがて洛陽が陥落し、荀藩が元帝を盟主にしようとの檄を飛ばしても元帝に従わなかったため、とうとう元帝から討伐部隊を差し向けられ、殺害されてしまった。華軼が辟召していた高悝という人物は、華軼の二人の子と妻を何年もかくまい、大赦が出てからかくまっていたことを出頭したというから、華軼は反乱者扱いにされていることがわかる。
 たしかに華軼は融通が利かないが、言い分が間違っているわけではない。懐帝はまだ存命中だし、元帝が後継者に指名されたわけでもない。荀藩が勝手に言っているだけだ。元帝に法的正当性がないことは元帝たちだって知っているだろう、だからこそはじめから武力を使用しなかったものと思われる。
 元帝も懐帝・愍帝ら中原政府から正当性を付与されているにすぎないのだが、懐帝・愍帝をタテにとって元帝の言うことを聞かないやつらが邪魔でしょうがなく、そうなると懐帝や愍帝すらも元帝にとっては邪魔だっただろう。そういった建前と本音がこれらの事例には垣間見えるよね。元帝の正当性/正統性の弱さゆえ、最終的には武力で無理矢理聞かせていき、人々も中原政府には期待できないからだと元帝に服従していったこの時期の政治的過程がよく想像できる。[上に戻る]

2014年6月7日土曜日

書道で死にかけた話

『晋書』巻80王羲之伝附献之伝
謝安甚欽愛之、請為長史。安進号衛将軍、復為長史。太元中、新起太極殿、安使欲献之題榜、以為万代宝、而難言之、試謂曰、「魏時陵雲殿榜未題、而匠者誤釘之、不可下、乃使韋仲将懸橙書之。比訖、鬚鬢尽白、裁余気息。還語子弟、宜絶此法」。献之揣知其旨、正色曰、「仲将、魏之大臣、寧有此事。使其若此、有以知魏徳之不長」。安遂不之逼。

謝安はとても王献之を気に入っていたので、自分の長史にしたいと願い出(て許可され)た。謝安が衛将軍になると、またも王献之は長史となった。太元年間、太極殿を新築したさい、謝安は王献之に扁額の題字を書かせようと思い、大量の財宝を報酬に出そうとしていたが、言い出せずにいた。そこで謝安はやる気をうかがってみるために、ためしに語ってみた、「魏の時代、陵雲殿の扁額に題字がまだ書かれていなかったのに、職人が間違って扁額を釘で打ちつけてしまい、下ろすことができなくなってしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて扁額に題字を書かせた。ほどなく終わったのだが、そのときには韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えの様子。帰宅すると年少の親族たちに、『書道なんてやらんほうがええで・・・死んでまうわ・・・』と語った、という話があったそうだ(ところで太極殿の扁額もまだ題字がないんだけど、もう打ちつけちゃったんだよねー、どうしようかなー、まじで困ったわー)」。王献之は謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「韋誕は魏の大臣ですよ、そんなバカなことをさせるわけないでしょう! もしそんなことをさせたのなら、魏が短命だったのも当然ですね!」こうして謝安は諦めたのだった
 そんな話を聞いて「おれもやるぅーー」って言うやついると思ってんの、謝安氏よ?
 え? ゴンドラの上で悲鳴をあげながら震えた字を書いてる韋誕を想像すると萌えるでしょ?キミがやってくれるともう・・・///って謝安は言ってんの? そこまでオレは察せられなかったわー、まじごめーーん。



 ところで、このお話は『世説新語』および同書劉孝標注引の佚書にも見えている。参考までに引いておきましょう。

『世説新語』方正篇
太極殿始成、王子敬時為謝公送版使王題之、王有不平色、語信云、「可擲著門外」。謝後見王、曰、「題之上殿何若、昔魏朝韋誕諸人亦自為也」。王曰、「魏祚所以不長」。謝以為名言。

太極殿が完成したとき、王献之は謝安の長史であった。謝安は王献之に扁額を送りつけ、題字を書かせようとしたが、王献之は不満な様子。扁額を持って来た謝安の使者に「門外に放っておけや」と言う始末。後日、謝安が王献之に会ったさいに、「扁額を打ちつけたあとならどうかな? かつて魏の韋誕はそうしたらしいぞ」と言うと、「へえ、だから魏は短命だったんですね」と王献之は答えた。名言ですねえ、と謝安は思ったのだった。

宋明帝『文章志』(同書同篇劉注引)
太元中、新宮起、議者欲屈王献之題榜、以為万代宝。謝安与王語次、因及魏時起陵雲閣、忘題榜、乃使韋仲将県橙上題之、比下、須髪尽白、裁余気息、還語子弟云、宜絶楷法。安欲以此風動其意、王解其旨、正色曰、「此奇事、韋仲将魏朝大臣、寧可有使其若此、有以知魏徳之不長」。安知其心、迺不復逼之。

太元年間、新しく宮殿が完成したさい、財宝を報酬にして王献之に扁額の題字を依頼しようと会議で決まった。謝安と王献之が雑談しているさいにこの話題におよび、そこから魏の韋誕の話に話題が移った。(その話は次の通り。)魏の時代、陵雲閣を建てたさいに扁額に題字を書くのを忘れてしまった。そこで板を吊るしてゴンドラを作り、韋誕をそれに乗せて題字を書かせた。ほどなく(終わって)下ろされると、韋誕のあごひげと頭髪は真っ白になってしまい、息も絶え絶えな様子。帰宅して年少の親族に、「書道なんてやめとけや・・・」と語った。謝安はこの話で王献之をやる気にさせようとしたのだが、王献之はその謝安の意図を察知し、かしこまって言った、「おかしな話ですね。韋誕は魏の大臣なのにそんなことをさせるんですか。それじゃあ魏も短命に終わりますよね」。謝安は王献之の心中を知ったので、無理強いしなかった。

『世説新語』巧芸篇
韋仲将能書。魏明帝起殿、欲安榜、使仲将登梯題之。既下、頭鬢皓然。因勅児孫勿復学書。

韋誕は書道に長けていた。魏の明帝が宮殿を新築したさい、扁額を設けようと思い、(打ちつけたあとで)韋誕をはしごに登らせて題字を書かせた。はしごから下ろされると、頭髪は真っ白になっていた。韋誕は子や孫に、書道なんて習うんじゃないと命じたそうだ。

衛恒『四体書勢』(同書同篇劉注引)〔晋の衛瓘の子〕
誕善楷書、魏宮観多誕所題。明帝立陵霄閣、誤先釘榜、乃籠盛誕、轆轤長絙引上、使就題之、去地二十五丈、誕甚危懼、乃戒子孫絶此楷法、著之家令。

韋誕は楷書の達人で、魏の宮殿や台観の題字はほぼ韋誕が書いたものだった。明帝が陵霄閣を建てたさい、間違って扁額を先に打ちつけてしまったので、韋誕をかごに乗せ、滑車と長めの綱を使って吊るし上げて題字を書かせた。その高さ、地面から二十五丈(約60メートル)。韋誕は恐ろしくたまらなかった。そこで子や孫には書道なんて習うもんじゃないと戒め、家令にも記したのである。
 けっこう書物によって記述が違う。『晋書』はいいとこどりしてきれいにまとめた感じ。たいてい、いいとこだけ混ぜ合わせると駄作ができるもんなんですが。そもそも佚文には残っていない先行晋史から唐の史官が引っ張ってきた可能性もかなり高いけどね。

 てか60メートルも吊るされたのかよ・・・! 家令に記録して戒めたという『四体書勢』の記述はなまなましいね・・・

2014年5月18日日曜日

『晋書』の載記について

 できたら近いうちに前回の李氏の話のつづきを書きたいと思っているのだけど、その前にやや史料のお話をしておいたほうがよさそうなので。
 といっても、今回の記事は李氏ではなく、匈奴劉氏の政権である漢・趙を中心に書きます。李氏はいずれ。長文&やや専門的なので、その点ご了承ください。

『晋書』載記
 特徴としては以下が挙げられる。
①載記冒頭に序文がついていること。
②十四国が項目に立てられていること(漢・前趙、後趙、前燕、前秦、後秦、成・漢、後涼、後燕、西秦、北燕、南涼、南燕、北涼、夏)。
③名臣などの伝が載記末尾に付記される場合があること。
④君主の即位には「僭」字を必ず使ったり、晋の軍隊を「王師」と表記したりすること。
 ②などは特に不思議に思わない人もいるだろうが、じつはとても重要である。念頭に置いてほしい。
 『晋書』はいろいろと問題が指摘されてはいるものの、五胡時代の史料で体系的にまとまったかたちで残存しているのはこの載記のみ。なので、これを基礎にせざるを得ないのが現状。その基本資料がどういうなりたちをもっているのか、推測がかなり交じってしまうけれども、そのあたりの考察は必要でしょう。


『魏書』
 巻95~99にかけて、五胡関連(および南朝)の列伝が並んでいる。項目は十四(後燕、南燕などは「徒何慕容廆伝」に一括され、赫連勃勃は「鉄弗劉虎伝」に記されてる)。巻95には五胡に関する序文もあるが、『晋書』の載記とはだいぶ違う。ただ、諸列伝の内容はおおよそ載記のダイジェスト版みたいなものになっている(少なくとも漢・前趙に関してはそう言える)。『魏書』は北斉の魏収によって編纂された史書で、唐の『晋書』よりも当然ながら成立が早いにもかかわらず、どうして『魏書』は『晋書』のコンパクト版になっているのか。ここは大事なポイント。
 史料的には載記よりも情報量は劣る。漢・前趙関連で言えば、それほど『魏書』に独自な記述はなかったと思う。しかし、他のところでは独自史料があったりするかもしれないんで、見逃さないほうがよろしい。


『十六国春秋』
 ところで、北魏の五行をみなさんはご存じだろうか。唐代の公式見解では、王朝の五行は次のように継承されていた。
漢(火)→曹魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)
 北魏は晋の金徳を承けて水徳、これを覚えておこう[1]

 以下では、川本芳昭「五胡十六国・北朝時代における「正統」王朝について」(『九州大学東洋史論集』25、1997年)、梶山智史「崔鴻『十六国春秋』の成立について」(『明大アジア史論集』10、2005年)を参照にして、『十六国春秋』のことについて簡単にまとめておこう。
 『十六国春秋』は北魏末に編纂された史書である。撰者は崔鴻(本貫は清河)。梶山氏によると、彼が執筆活動を開始したのは景明年間(500-503年)のはじめころ、崔鴻20代前半のころであった。完成は正光三年(522年)、45歳のとき。序と年表各1巻を加え、全102巻であったという。残念ながら現在では散佚してしまい、『太平御覧』などに引用された佚文が残るのみである。
 川本氏によると、もともとの書名はたんに「春秋」であった可能性もあるらしいが、そうであったにしても、「十六国」を対象に歴史叙述をしていると見て大過ない。崔鴻は十六国各国で編纂された国史(『隋書』経籍志では「覇史」に分類されている史書)などの資料を収拾し、それらを参考にして一書を著わしたとのこと。従来、この時代をひとつにまとめて記した史書が存在しなかったことが崔鴻の執筆動機であったとされる。

 構成は『三国志』をイメージしてもらえるとわかりやすいが、まず各国ごとに大きなブロックが設けられ、そのなかにさらに伝が立てられる、といった具合。前者の区切りには「録」字を使う(前趙録、後趙録、蜀録)。後者には「伝」を使う(苻堅伝)。たとえば前趙録には劉淵伝、劉和伝、劉聡伝、劉粲伝、劉曜伝あたりが立てられていたと思われる(劉和と劉粲はちょい微妙だが)。「春秋」という名称からしても、おそらく編年体に近い体裁だったと思われるので、各録は編年体の形式で記述されていたのではなかろうか。だとすれば、「伝」は基本的に君主のみ立てられ、臣下の「伝」は独立して立てられていなかったと考えられる。以前記事にしたが、この時期の編年体は臣下たちの列伝を編年の途中で挿入する形式を有していたので、臣下たちの列伝も各君主の「伝」のなかに組み込まれていたのではないだろうか。

 『十六国春秋』の特徴として、梶山氏が陳寿『三国志』と比較しているのはとても素晴らしい着眼点である。すなわち、周知の通り、『三国志』には「正統」王朝が存在している。魏が「正統」なので、魏書にのみ本紀が存在し、蜀書・呉書はすべて列伝になっているわけ。ところが、『十六国春秋』には正統王朝が存在しない。川本氏・梶山氏の検討によると、『十六国春秋』で叙述されている各国はすべて「僭」、つまり非正統王朝として記述されているのだ。しかもこの見方は、孝文帝以後の北魏において、公式に取られた見解とも一致するのだ。

 もう少し詳しく見ておこう。さきほど北魏の五行について確認をしておいた。唐代、北魏は晋の金徳を継承して水徳となっている。しかし、じつはこの考え方もまた、孝文帝時代に確立されたものなのである。
 かの拓跋珪(道武帝)が即位した当初は、北魏は土徳を称していた。どうしてかと言えば、拓跋氏は黄帝の子孫だから、ということであったらしい。他にも理由は色々あったかもしれないが、ともかく土徳を採用していたことは間違いない。これが改革されたのが孝文帝のときであった。
 『魏書』巻108・礼志一によると、太和14年(490年)、孝文帝は北魏の五行について議論するように詔をくだしている。いままでなんとなくで土徳にしていたけど、ホントにそれでいいのか考えようぜ、っていう感じの内容だ。
 この詔を受けた会議において、高閭は土徳のままにすべきで変えてはならないと意見を述べている。重要と思われる一節を以下に引用してみよう。
魏は漢を継承しておりますが、火は土を生じさせるので、魏は土徳でございます。晋は魏を継承しておりますが、土は金を生じさせるので、晋は金徳でございます。〔おそらく後趙を指す〕は(金徳の)晋を継承しておりますが、金は水を生じさせるので、趙は水徳でございます。(前)燕は趙を継承しておりますが、水は木を生じさせるので、燕は木徳でございます。(前)秦は燕を継承しておりますが、木は火を生じさせるので、秦は火徳でございます。秦がまだ滅んでいないとき、わが魏はまだ中原〔原文「神州」〕を領有していませんでした。秦が滅んでから、わが魏は北方〔原文「玄朔」〕で帝号を称したのです。・・・もし晋を継承するということにすれば、晋が滅んでかなり時間が経ってわが魏が帝号についたことになり(違和感がございますし)、もし秦を継承しないということにすれば、中原(を領有しているかどうか)は基準からはずれてしまいます〔原文「中原有寄」。川本氏に従い、「有」を「無」の誤字として読んでおく。中華書局の校勘記も参照〕。このように考えてみますと、秦を継承することの道理は明々白々、ゆえに魏は秦を継承して土徳とすべきなのです。・・・いま、もし三家〔趙、燕、秦〕を一挙に切り捨て、遠くさかのぼって晋を継承することにすれば、中原が王者としての中心〔原文「正次」、こう訳して良いかは自信無〕であったという事実をないがしろにすることになるでしょう。
 史料には詳細な記述はないが、高閭が発言する前に、北魏は土徳ではない、晋を継承して水徳とすべきだ、という意見が出され、それに対する反論として彼が発言したであろうことは容易に察せられよう。拓跋氏が黄帝の子孫だから土徳なのだ、というものではなく、彼は論理的・法則的に土徳なのだと証明しようとしているのだが、そのさいに五行継承の基準に置かれたのが「中原を支配したか否か」であった。彼から見れば、後趙・前燕・前秦がそれに該当し、ゆえに、この三国を継承の順序からはずすことはあってはならないことなのである。
 礼志を読む限り、北魏=土徳説の代表格がこの高閭であったらしい。注意しておきたいのは、高閭の考え方がかなり独特あるいは独創的なものであったとも必ずしも言えないことだ。川本氏が前燕時代の例をすでに指摘しているが、前燕がみずからの五行を定めたさいのことを記した史料に、「後趙の水徳を継承して木徳とする」(『晋書』巻111慕容暐載記)とか、「後趙は中原を領有したが、これは人事で成し遂げられることではなく、天が命じたことであったのだ(したがって後趙を継承すべきだ)」(『晋書』巻110慕容儁載記附韓恒伝)といった記述が見えており、高閭の論理は十六国諸国でも参照されていた基準に従っていた可能性が高いのだ。色々な意味で、高閭は五胡十六国の延長上に北魏を考えているのである。

 一方、北魏=水徳説の代表格が孝文帝のブレーンであった李彪、崔光らであった。分量がアレなのではしょりますが、

①北魏の来歴をさかのぼると、神元帝(拓跋力微)のときに帝業の基礎が築かれたが、神元帝は晋の武帝と友好関係を築いていた。その後も晋朝とは関係を保ち続けていた。つまり、時代が離れていたとは必ずしも言えず、むしろ同時代的であり、晋が中原で滅亡し、魏が北方で天命を受けたと言えるのだ。

②過去の事例を探してみると、漢は秦ではなく周の五行を継承している。周が滅んで漢が興るまで約60年、晋が滅んで道武帝が即位するまでも約60年。すなわち、仮に①は大した理由にならないとしても、さかのぼって晋を継承することはそれほど不自然なことではない。

③そもそも石氏とか慕容氏とか苻氏とかってさぁ、短命だったじゃん? 天下に秩序を立てたっていうほどのことでもないじゃん? そんなやつらどうでもよくね? わが魏と比較対象にすらならんでしょうが!

という感じ。この考え方にしても、必ずしも孝文帝期にこねくりだされたとは言えないかもしれないが、詳しくはわかりません。ちなみに崔鴻は崔光の孫にあたる。
 この議論は太和15年に結論がくだされ、水徳説が採用された。かくして十六国時代は、正統王朝が存在していなかった時代として、公式に見なされるようになった。この五行観が唐代における認識をも規定づけ、したがって唐修『晋書』においても同様の見解が取られているのと考えられるのである。
 長くなってしまったが、崔鴻もこの公式見解と同様の著述をおこなっているわけ。北魏の公式見解が崔鴻に内面化していたのか、あるいはその枠内で著述をおこなわざるをえなかったのか、そこらへんはよくわからない。梶山氏によると、崔鴻がこの書を私撰したことは時の皇帝・宣武帝に伝わり、献上を要求されたのだという。朝廷側としても、この時代をどう記述されたのかが気になったのであろう。崔鴻は上表文を作成したが、結局生前にその上表文を奏上することも、書物を献上することもなく、鴻の没後、子によって朝廷に献上されたという(『魏書』巻67崔光伝附鴻伝)。崔鴻伝によると、『十六国春秋』はかなり初歩的なミスが多かったという。それなりに毀誉褒貶もあったらしいが、禁止されるとかそのあたりにまではいたっていないので、大きな史観では抵触していなかったのではなかろうか。

 以上のほか、『十六国春秋』ではもう一つ重要なポイントがある。それは「十六国」という言葉である。十六国マニアならご存じのように、五胡十六国時代は「五胡」ではないし「十六国」ではない。丁零の翟氏がいたじゃないか! 漢人は含めないの? 仇池は? 冉魏は? 西燕は? 等々。これらはすべて排除され、五胡=匈奴・羯・氐・羌・鮮卑、十六国=前趙・後趙・成漢・前凉・前燕・前秦・後秦・後燕・後涼・西秦・南涼・北涼・西涼・南燕・北燕・夏、ということになっているのだ。どうしてそういう選別になってしまったのか?
 じつは「十六国」に関しては、崔鴻が『十六国春秋』で対象としている国、すなわち「録」を立てて叙述をおこなった国とぴったり一致するのである。
劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連勃勃、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋らをまとめて、・・・崔鴻は『十六国春秋』百巻を撰述した。(以劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連屈孑、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋等、・・・鴻乃撰為十六国春秋、勒成百巻。)

晋の永寧年間以後、あちこちで兵が起こり、みなが競ってみずからの尊厳を確立させようしていましたが、しっかりと国を立てて官職を設け、先進国となることができましたのは、十六国でした。(自晋永寧以後、雖所在称兵、競自尊樹、而能建邦命氏成為戦国者、十有六家。)

臣の亡父・鴻は、・・・趙・燕・秦・夏・涼・蜀などの事跡を叙述し、賛・序を立てて批評を加えました。先帝の御世、下書きはできていましたが、李雄の国史がまだ入手できておりませんでしたので、この国の記述のみできておらず、完成が遅れていました。正光三年、当該書を購入することができ、検討をおこなって叙述をちょうど終えたとき、鴻は世を去りました。全部で十六国、「春秋」と名づけ、全102巻となっています。(乃刊著趙、燕、秦、夏、涼、蜀等遺載、為之贊序、褒貶評論。先朝之日、草構悉了、唯有李雄蜀書、搜索未獲、闕茲一国、遅留未成。去正光三年、購訪始得、討論適訖、而先臣棄世。凡十六国、名為春秋、一百二巻。)
 以上はすべて崔鴻伝からの引用。三崎良章氏によると、現在確認し得る「十六国」の初出はこの崔鴻伝であるらしい(『五胡十六国』東方書店)。崔鴻以前にもこのような「十六国」認識はあったかもしれない。崔鴻前後の時代に「十六国」という考え方が一般的だったかは微妙なところで、三崎氏は魏収『魏書』の伝の構造が崔鴻のものと相違していることなどを挙げ、共通した「十六国」理解が存在していなかったとしている。共通した理解がないことはたしかだが、まあでもおおよその枠組みでは共通しているようにも見えますけどもね。たとえば仇池や翟魏は排したり、とか。ともかく、崔鴻が当該時代を「十六国」時代と明確に打ち出したことは、相応のインパクトがあったはずである[2]

 冗長になってしまったが、『十六国春秋』は、
①晋以後北魏以前の華北時代を「十六国」時代として歴史把握したこと。
②「十六国」はすべて非正統と見なしていたこと。それは北魏の公式見解に抵触しなかったこと。
という特徴があった。現在でもこの時代を「十六国時代」と通称し、正統王朝の不在時代と見なすのが一般的であるから、孝文帝改革および『十六国春秋』の影響は非常に大きい。

 ここでようやく本題になるのですが、どうしてこの『十六国春秋』がそんなに大事なのかというと、じつは唐修『晋書』の載記は『十六国春秋』をコピペないし簡略に引用したものだと考えられるからだ。構造としても、載記は前述したように、項目は十四だが、前凉と西涼が列伝に移されているのを含めればぴったり十六、しかも崔鴻が「録」に立てた諸国と一致している。
 『太平御覧』偏覇部の十六国関連の項目では、『十六国春秋』が長文で引用されている[3]。わたしが詳しく検討したことがあるのは漢・前趙のみだが、たしかに両者の内容はとてもよく似ている。『十六国春秋』は節略した引用文のため、載記と比べるとどうしても情報量は劣るが、それでも載記の文言とかなり似ている。『十六国春秋』の佚文にはたまに載記ではすっ飛ばされている記述があったりするので、細かく見ることはけっこう価値がある。
 そもそも考えてみれば、崔鴻がこの書を執筆した動機が、十六国時代の史書が国別にバラバラで、全体をまとめて記した史書が存在しないからであった。唐修『晋書』の時代においても、『十六国春秋』を除けば依然として同じ状況。唐の史官としても、国別の国史を参照してイチから編集をはじめるより、すでにその作業をやってくれた『十六国春秋』を利用した方が手っ取り早いに決まっている。太宗の晩年に急いで編纂された『晋書』であれば、なおさらそんなめんどい作業をすることも考えにくい。
 とはいえ、唐の史官の手がまったく入らないまま転載されているとまでは言えない。引用にも取捨選択があった、というレベルではなくいろいろと。たとえば避諱。あるいは序。序はもしかしたら崔鴻のものを転載している可能性もありうるが、その可能性が高いのはどちらかといえば『魏書』のほうで『晋書』載記のものは違うと思う。雑伝の序も唐の史官が書いているっぽいので、たぶん序文は唐の史官が書き下ろしたのではないだろうか[4]。それと、前述したように、『十六国春秋』は君主の「伝」のなかに臣下の伝を挿入していたと考えられるが、唐の史官はそれをすべて削除したようである。ただ、削除に惜しい人物は、載記の末尾に附記したり、孝友伝や忠義伝などの雑伝に組み込んだらしい[5]。だからアレだね、編集者みたいに最低限の校正と編集だけやって『十六国春秋』から載記を作りだしたのではないかな。おそらく魏収も『十六国春秋』を基礎に叙述をしたと思う。また、載記からは削除された『十六国春秋』の文章がときどき『資治通鑑』に引用されていたりします。

 かなり推測交じりになっているが、唐修『晋書』は史観も記述もかなりの部分で『十六国春秋』に負っていると考えられる。そういうことを念頭に置いて載記は扱ったほうが良い。


覇史(『漢趙記』)
 『隋書』経籍志では、五胡諸国で編纂された史書のことを「覇史」と呼んでいる。わたしも便宜的に「覇史」と呼んでおく。
 さて、『十六国春秋』がどういうものか、これまで力説したつもりである。ただし、諸所で触れてきたように、崔鴻は覇史を基礎にして『十六国春秋』を編集している。しかも、成漢の国史が入手できないことをもって成漢の記述(「蜀録」)をしなかったということは、覇史をかなり重視していたらしいことがわかるだろう。そこでこうした覇史にかんしても考慮の外に置くことはできないのである。
 といっても覇史の種類はさまざま、そのうえ現在では佚文もわずかしか残っていないくらいに痕跡がない。なので、かなりの部分を推測に頼ることになるが、決して無駄な作業にはならないだろう。ここでは前趙の国史『漢趙記』について述べておく。
 覇史については、唐初に残存していた覇史は隋書経籍志に書名が記述されているほか、唐の劉知幾『史通』巻12外篇・古今正史に詳しい記述がある。前趙に関連する部分を引用してみよう。
前趙は、劉聡の時代に領左国史の公師彧が高祖〔劉淵の廟号〕本紀、功臣伝二十人を著述したが、きちんとした史書の体裁であった。しかし、凌修が先帝を誹謗していると讒言したので、劉聡は怒って公師彧を誅殺した。劉曜の時代、平輿子〔平輿県に封ぜられた子爵〕の和苞が『漢趙記』10巻を編纂したが、記録は盛時のものに留まり、劉曜が死んだところまで記されていない。(前趙劉聡時、領左国史公師彧撰高祖本紀及功臣伝二十人、甚得良史之体。凌修譛其訕謗先帝、聡怒而誅之。劉曜之時、平輿子和苞撰漢趙記十篇、事止当年、不終曜滅。)
 公師彧や和苞は載記にも見える。凌修も、「陵修」という人物と同一かもしれない。
 そんなことはまあ良いのだ。ここで言及されている『漢趙記』こそ、崔鴻が前趙録編纂時に参照したと思われる覇史なのだ[6]
 『漢趙記』のポイントは劉曜時代に編纂されたということ。劉曜が即位して間もなくおこなったことは、国号と太祖の変更である。 
光初二年六月、劉曜は宗廟と社稷、長安の南郊・北郊を修繕すると、令をくだして言った、「王者がおこるときというのは、必ず始祖を祀るものである。わが一族の祖先は禹の子孫で、北方の夷狄として生活し、代々北方地帯で勢力を誇ってきた。光文帝〔劉淵〕は、漢が久しく天下を領有し、その恩徳が庶民に行き渡っていたため、(便宜的に)漢の皇帝たちの廟を立て、民の支持を得ようとしたのである。(しかし)昭武帝〔劉聡〕はそのまま継承し、とうとう改革を加えなかった。いま、漢帝の宗廟を取り除き、国号を改め、また〔原文は「御」だが意味が通じない。仮に「復」と見なして読んでみる〕大単于〔冒頓単于〕を太祖に定めたいと考えている。この件について議論し、意見を述べよ」。太保の呼延晏らの議、「いま思いますに、(漢を称するのは魏や晋を継承しないことを意味していますが、)晋を継承すべきであり、母から子へと受け継がれるように、国号も考えるべきであります。光文帝はもともと(晋から)盧奴に封建されていましたが、盧奴は中山の領域に相当します。また、陛下のわが国家における功績は洛陽平帝をはじめ、偉大なものでございまして、ついには中山王に封建されました。(かくして中山という点で、陛下と光文帝は共通点がございますが、)中山の分野は梁・趙に属します。ですので、大趙を国号とし、(晋の金徳を継承して)水徳とするのがよろしいと存じます」。劉曜はこれに従った。かくして、冒頓単于を天に配し、劉淵を上帝に配することとした。(六月、繕宗廟社稷、南北郊于長安、令曰、「蓋王者之興、必褅始祖。我皇家之先、出自夏后、居于北夷、世跨燕朔。光文以漢有天下歳久、恩徳結於民庶、故立漢祖宗之廟、以懐民望。昭武因循、遂未悛革。今欲除宗廟、改国号、御以大単于為太祖。其連議以聞」。於是太保呼延晏等議曰、「今宜承晋、母子伝号。以光文本封盧奴、中之属城。陛下勲功懋於平洛、終於中山。中山分野属大梁・趙也。宜革称大趙、遵以水行」。曜従之。於是以冒頓配天、淵配上帝。)
 以上は『太平御覧』巻119に引く『十六国春秋前趙録』の文章である。劉曜載記ではこの詳しい経緯は省略されてしまっている。
 趙を結論に出す論理はよくわからんが、大事なことは劉淵による漢帝の祭祀・宗廟を否定したことである。劉淵は即位時、はっきりと「太祖高皇帝」と述べていたが、劉曜は完全にそれを拒絶し、太祖(王朝の始祖的存在者)を漢の高祖から冒頓単于に変更し、あわせて国号も変更してしまった。冒頓単于を持ち出すあたり、「漢なんかクソくらえ!」という彼の認識がうかがえるね。たかが国号、されど国号、この変更には重大なイデオロギーの変更があったわけで、軽視すべきではないのだ。
 しかし、かといって劉曜は劉淵時代を否定するわけではない。むしろ、彼は劉淵を継承することに自身の正統性を見いだしている。「漢趙記」という国史の名前もそうだろう。趙は漢を否定して成り立った国号にも関わらず、漢を名乗っていた時代をなかったことにはできない、一概に否定的評価をくだすわけにもいかない。複雑でゆがんだ歴史観がここに現前することは、容易に想像できるだろう。
 ①劉淵は臨時に漢を国号としたこと、②劉曜にいたって本来の姿=趙になったこと、大まかにこの二つを視点を基礎に、『漢趙記』が編纂されたと思われる。もちろん、崔鴻も載記も同様の視点。前趙録、劉淵・劉聡・劉曜載記を根本から枠づけているのは『漢趙記』なのである[7]。このこともやはり忘れてはならない。

 ところで、劉曜が言うように、劉淵は便宜的に漢を称したのであろうか。わり本気で漢を称していたんじゃないだろうか。
 劉淵の即位直前、劉淵に即位を勧めていた劉宣は「呼韓邪単于の業績を復興する」べきだと説いていた。劉淵は「その通りだ」と返答しておきながら、漢帝こそわが先祖と宣言しちゃって即位してしまった。即位までの詳しい経緯はよくわからないが、この政治的変更は劉淵の個人的判断に基づくところが大きいと思う。劉宣が冒頓でなく呼韓邪を持ち出したのはとても不思議だが、漢と友好を築いた単于なのだし、たぶん漢にそんなに悪い印象はもっていなかったとは思う。
 が、劉淵の即位宣言を読めばわかるように、呼韓邪か漢帝かという問題は自分たちの来歴の物語にとても重大な変更をもたらすものである。劉曜が冒頓に変更したのだって、自分たちの来歴を確認しながらなされている。要するに、自分たちの歴史をどう語るかという問題。そのとき、劉淵は自分たちの物語の由来を漢皇帝に求めて歴史を語り直したのでは・・・? このあたりの記述も『漢趙記』の観点から編集し直されているんだ!と言われるともう何も言えなくなるんですけどね。
 ともかく、政治的視点もさることながら、移住民はどのように歴史を語り継いでいくのか、という視点からも考える必要があるように思います。



 全体的に長くなってしまったし、専門的な話が多くなってしまった。ただ、史書がいつ、誰が主導して、どのように成り立ったかというところは本当にとても大事なこと。それを調べるのは容易でない。日本語では概説書がないから、研究論文を読んだり、電子文献にない史書をめくったりし、あるいは史書の「書きグセ」を実感するために何度も通読したり・・・。わたしだって、『十六国春秋』や覇史全般に精通しているわけではない。漢・趙関連を多少知っている程度にすぎない。
 そういうこともあるので、なるべく自分が知っている情報は開示してみようと思った次第です。役立つかは知りません。なんというか、うまく言えないんだけど、間違い探しじゃないんですよ、史書を読むっていうのは。キーワードを検索して、ヒットした記述をもってきて自分の意見を正当化するだけで、その文章がどのような史料のどのようなところに書かれてあるのか、ってことは軽視してはいけないんですよ、本来は。それはとても高い要求のようだけど、でも「事実」を語るっていうのはそういうことなんじゃないかな。

 それともう一つ。『十六国春秋』のところで、長々と北魏孝文帝時代の五行改革に言及しておいたが、アレから想像してもらえるように、現在では「五胡十六国時代」と呼んでいるあの時代は、そうでない可能性もありえた。というか、現にそういう見方があった。「もしかしたらこういうふうに語れるのでは・・・」という想像力は大事なことだ。
 わたしは、劉淵たちの歴史が「歴史をどう語るかという歴史」にしか見えなくなってしまい、それ以来、「歴史はどのように語られてきたのか」という観点からこの時代を眺めつつ、「歴史」自体にいかなる意味があるのだろうかと考えるようになりました。わたしにはそういう現れ方をした、そういうことですね。


――注――

[1]唐代の五行の継承に関する認識は、『旧唐書』巻190文苑伝上・王勃伝、『新唐書』巻201文芸伝上・王勃伝、『唐語林』巻5を参照。本記事から脱線するが、せっかくなので『新唐書』の記事を以下に紹介しておく。

武周のとき、李嗣真は周・漢を(直接継承したとしてこれらの王朝を)「二王後」 と見なし、北周・隋を(正しい継承関係から)はずすよう要請し(採用され)たが、(則天武后が退くと)中宗は再び北周・隋を「二王後」に採用した。玄宗の天宝年間、平和が長く続き、奏上される進言の多くは妖しげなものであった。崔昌という者がおり、王勃のかつての学説を採用して、『五行応運暦』を(著して)献上し、周・漢を継承することを説き、北周・隋を(継承することを)やめて閏とみなすよう請うた。右丞相の李林甫もこれに賛同した。・・・こうして玄宗は詔をくだし、唐は漢を直接継承していることにし、隋以前の(魏晋南北朝の)皇帝をしりぞけ、(「二王後」であった北周の後裔)介公・(隋の後裔)酅公を廃し、周・漢を尊んで「二王後」とし、(周・漢と)商を三恪とした。京師に周の武王と漢の高祖の廟を建て、崔昌を太子賛善大夫に任命した・・・。楊国忠が右丞相となると、自身が隋の子孫を称しているので、再び北魏(から北周・隋)を三恪とし、北周・隋を「二王後」とするよう建議した。そのため酅公・介公は以前の爵位を戻され、崔昌は烏雷尉に官を降格された。
 すなわち玄宗の天宝九載(750年)、崔昌『五行応運暦』の提案により、漢→唐の継承が正式に採用され 、漢(火)→魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)とされてきた五行継承も漢(火)→唐(土)に変更されたということである。
 崔昌『五行応運暦』の基となったと言われる王勃の旧説についてであるが、王勃は魏晋以降の王朝は「みな天下を一統していない(咸非一統)(『唐語林』)、「みな正統ではない(咸非正統)(『旧唐書』)、「北周・隋は短命である(周・隋短祚)(『新唐書』)とし、一方「黄帝から漢までが、五行の正しい継承王朝である」とし、唐は「真主」の王朝「周・漢」を継承するべきだと主張しているようである。かかる王勃の理論は「現実的でない(迂闊)」とされ、高宗の受け入れるところとはならなかった(『唐語林』)
 また、玄宗ころの文士に蕭穎士という者がいたが、こちらは梁の皇族の子孫のようで、梁陳革命を否定し、晋(金)→劉宋(水)→南斉(木)→梁(火)→唐(土)という案を提出したという(『新唐書』巻202文芸伝・中・蕭穎士伝)。唐の土徳を梁の火徳から正統化づけたかったわけだね。ただこの説が普及したかどうかはとくに言及がないので不明。さっきの漢→唐説もそうだけど、北朝をすっとばすのは唐にとってはきつかったんじゃないかな。[上に戻る]

[2]なお崔鴻は「五胡」という言葉によってこの時代を特徴づけてはいない。彼は「十六国」の戦国時代と見ているにすぎない。「五胡」の語については、三崎氏の前掲書に詳しいので、そちらを参照のこと。[上に戻る]

[3]梶山氏も指摘しているが、北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』をもとに成立したものであり、『太平御覧』偏覇部の当該項目で唐修『晋書』ではなく『十六国春秋』を引用しているのは、北斉『修文殿御覧』を継承しているからだと考えられる。[上に戻る]

[4]載記に設けられている「史臣曰」と「賛」は不明。[上に戻る]

[5]漢・趙関連で言えば、劉殷(孝友伝)、王延(同前)、王育(忠義伝)、劉敏元(同前)、喬智明(良吏伝)、崔遊(儒林伝)、范隆(同前)、董景道(同前)、卜珝(芸術伝)、台産(同前)、賈渾妻宗氏(列女伝)、劉聡妻劉氏(同前)、王広女(同前)、陝婦人(同前)、靳康女(同前)、劉宣(劉元海載記)、陳元達(劉聡載記)。すべて『十六国春秋』由来とも言いきれないが。『十六国春秋』の佚文にも、こうした臣下たちの伝が多く見えている。またも漢・趙関連になるが、「李景年字延祐、前部人也。長平之戦、劉聡馬中失、幾為晋軍所獲、景年以馬授聡、揮戈前戦。以功封梁鄒侯」(『太平御覧』巻351引)、「江都王延年、年十五喪二親、奉叔父孝聞。子良孫及弟従子、為噉人賊所掠。延年追而請之。賊以良孫帰延年、延年拝請曰、『我以少孤、為叔父所養。此叔父之孤孫也。願以子易之』。賊曰、『君義士也』。免之」(『太平御覧』巻421引)とか。[上に戻る]

[6]公師彧が編纂した国史の書名は伝わっていない。少なくとも唐初の時点で残存していなかったと見られるが、そもそも『漢趙記』編纂時点で吸収されたか、あるいは淘汰されたかどちらかであろう。[上に戻る]

[7]わたしは、劉聡へのあの徹底的にネガティヴな記述は、すべて『漢趙記』に由来するのではないかと疑っている。安田二郎氏か福原啓郎氏かが曹魏の明帝を取り上げたさいに「王朝滅亡の原因を提示するために、暗君の姿が描かれやすいものだ」みたいな言及をしていたが、劉聡への否定的評価も同様の理由でなされたものと感じている。「漢が滅んだのはこいつのせいです」みたいにね。ここらへんは感触に過ぎませんが。[上に戻る]