2022年8月13日土曜日

唐修『晋書』と『世説新語』

 今般、サイトに山濤伝王戎伝楽広伝の訳をアップしたが、これにちなんで改めて表題の件について簡単に確認しておこうと思う。

 ずいぶん前にずいぶん古い文章で「唐の晋書は世説新語を採用していてけしからん」という旨を読み、「そうなのかなあ」と長いあいだ思っていた。
 そうではあるが、私はこの件にかんしてあまり業界の人と話したことがなかった。以前の専門が五胡十六国だったこともあって、十六国春秋とかの話はよくしていたのだが……。
 すでに専門の分野では周知の問題なのかもしれないが、私は唐の史官が世説新語を参照して採用したという考えは疑わしいと思っている。

 幸い、今回訳出した上の三人(+王衍と王澄)は『世説新語』にたくさん登場するため、その分だけ調べる機会も多かった。そしてやはり、「この三伝にかんしては唐の史官は世説新語の記述を採用していない」と結論せざるをえなかった。
 ただ、サイトの訳注にいちいち異同や出典を注記するのも煩瑣に思えたので(ただでさえ十分に煩瑣なのに……)、サイトの訳注ではこの件にかんしてあまり記載しなかった。
 そこでこのブログ記事で、『晋書』と『世説新語』の違いがよくわかる事例を手短に列記しておこうと考えたわけである。


(1)山濤
呉平之後、帝詔天下罷軍役、示海内大安、州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。帝嘗講武于宣武場、濤時有疾、詔乗歩輦従。因与盧欽論用兵之本、以為不宜去州郡武備、其論甚精。于時咸以濤不学孫呉、而闇与之合。帝称之曰、「天下名言也」。而不能用。及永寧之後、屡有変難、寇賊猋起、郡国皆以無備不能制、天下遂以大乱、如濤言焉。

呉が平定されたのち、武帝は天下に詔を下し、軍役(戦時の労役)を停止し、海内に平和を示し、すべての州郡から兵士を廃し、大郡には武吏百人、小郡には五十人を置くこととした。武帝が宣武場で軍事訓練を実施したとき、山濤はちょうど病気を患っていたが、詔を下し、歩輦(持ち上げたりかついだりして運ぶみこし)に乗せて随従させた。そして〔山濤は〕盧欽と用兵の本質について議論し、州郡から軍備を取り去るべきではなかったと主張し、その論はひじょうに精密であった。そのときに話を聞いていた面々はこう思った。山濤は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している、と。武帝は山濤の論を「天下の名言である」と称えたが、採用できなかった。〔恵帝の〕永寧年間以後になると、何度も事変が起き、寇賊が大量に沸き起こったが、どの郡国にも軍備がなかったために制圧できず、天下はとうとう大混乱に陥ってしまい、山濤の言ったとおりになったのである。

 これに類した話は『世説新語』識鑑篇、第四章に収められている。
晋武帝講武於宣武場、帝欲偃武修文、親自臨幸、悉召群臣。山公謂不宜爾、因与諸尚書言孫呉用兵本意、遂究論。挙坐無不咨嗟、皆曰、「山少傅乃天下名言」。後諸王驕汰、軽遘禍難。於是寇盜処処蟻合、郡国多以無備不能制服、遂漸熾盛。皆如公言。時人以謂山濤不学孫呉、而闇与之理会。王夷甫亦嘆云、「公闇与道合」。

晋の武帝が宣武場で軍事訓練を実施したときのこと。武帝は武装を廃し、文化事業を整備しようと思い、みずから訓練場にお出ましになり、群臣を全員召集した。山公は〔武帝の考えは〕適切ではないと思い、そこで尚書たちと『孫子』や『呉子』における用兵の本質について議論し、つきつめるまで論じた。一同の人々は誰もが感嘆し、みな言った、「山少傅〔の言論〕こそ天下の名言だ」。のちに諸王がおごり高ぶり、軽々しく変難を起こした。かくして盗賊があちこちで群がり集まったが、郡国の多くは武装がないために制圧できず、しだいに賊の勢力は増していったのであった。すべて山公の言葉どおりだったのである。世の人々はこう評したという、「山公は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している」。王衍もこう感嘆したのであった、「公は図らずも道と合致している」。

 違いは一目瞭然なので説明は不要であろう。
 ひとこと加えれば、ここで山濤のことを「山少傅」と称しているところがあるが、山濤伝によれば咸寧のはじめに太子少傅に就いている。それゆえ、この話は咸寧はじめのときである可能性がある。しかしいっぽう、『隋書』経籍志、集部、別集に「晋少傅山濤集」という文集が著録されている。すなわち「山少傅」という呼称は王導を「王丞相」、郗鑑を「郗太尉」と呼ぶような類いとも考えられる。「少傅就任前の話に少傅という呼称を使うなんて道理があるか!」と思う向きもあるだろうが、私も『世説新語』のそのあたりを徹底的に調べたわけではないものの、そういう正論がはたして『世説新語』に通じるのか疑問である。

 ここの劉孝標注には「竹林七賢論」と「名士伝」という佚書が引用されている。これも合わせて引いておこう。

「竹林七賢論」
咸寧中、呉既平、上将為桃林華山之事、息役弭兵、示天下以大安。於是州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。時京師猶講武、山濤因論孫呉用兵本意。濤為人常簡黙、蓋以為国者不可以忘戦、故及之。

永寧之後諸王構禍、狡虜欻起、皆如濤言。

「名士伝」
山濤居魏晋之間、無所標明。嘗与尚書盧欽言及用兵本意、武帝聞之、曰、「山少傅名言也」。

 『世説新語』本文は『晋書』本伝と違い、孫呉平定後だとは明言しておらず、盧欽と議論したとも書かれていなかったが、この二つの佚書にはそれぞれその旨が書かれていたらしい。
 ただし「竹林七賢論」は孫呉平定後の逸話とするが、山濤が盧欽と議論したとまでは書いていない。「名士伝」は盧欽と議論したことは書いているが、時機がいつなのかはわからない。

 時期は意外と大事で、というのも盧欽は咸寧四年に死去しているからである(武帝紀、盧欽伝)。したがって、じつは『晋書』本伝のように孫呉平定後に盧欽と議論するのはもともと不可能なのである。
 そうすると、「名士伝」は〈咸寧四年以前に山濤はたまたま盧欽と用兵について議論する機会があり、そのときの山濤の主張を耳にした武帝は「イイね」と言った〉と書かれているとも読め、孫呉平定とは関係がない話だと言えてしまうわけである。
 しかしそれだと、では「竹林七賢論」や『晋書』に言うような孫呉平定後の武備撤廃との絡みはいったい何であるのか。咸寧に用兵について論じて武帝からイイねされ、孫呉平定後もあらためて論じてやっぱりみんなからイイねされたというのだろうか。

 どうも山濤が用兵について見事な論を張ったという逸話にはさまざまなバリエーションがあったようである。ただ『晋書』本伝は盧欽の没年と矛盾しているので、これはダメなバージョンである。
 唐の史官がいろいろな史書からごちゃまぜに引っ張ってきたのか、依拠している晋史の記述をそのまま採用したのかはわからないが、少なくとも『世説新語』をそのまま採用した可能性はありえないだろう。


(2)王衍(王戎伝附伝)
衍嘗喪幼子、山簡弔之。衍悲不自勝、簡曰、「孩抱中物、何至於此」。衍曰、「聖人忘情、最下不及於情。然則情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。

王衍が幼児を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王衍は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王衍は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。しからば、情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。

 これに似た話は『世説新語』傷逝篇、第四章に収録されている。
王戎喪児万子、山簡往省之、王悲不自勝。簡曰、「孩抱中物、何至於此」。王曰、「聖人忘情、最下不及情。情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。

王戎が子供の万子を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王戎は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王戎は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。

 字句はほとんど変わらない。王衍が王戎になり、幼児が王万子(王戎の子)になっている以外は。
 ちなみに劉孝標の注に「一説にこの話は王衍が子を亡くして山簡が弔問したときのことという(一説是王夷甫喪子、山簡弔之)」とある。劉孝標の時代からすでに王戎の逸話か王衍の逸話かで分裂していたようだ。

 王戎の子の「万子」のプロフィールについて確認すると、同章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「戎子綏、……綏既蚤亡」とあり、劉孝標によれば「万子」というのは王綏という人物のことらしい。『世説新語』賞誉篇、第二九章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」には「王綏字万子、……年十九卒」とある。しかし『晋書』王戎伝には「子万、……年十九卒」とあり、名が万であったかのごとくである。このあたりはいろいろ混乱があるみたいだが、ともかく十九歳で早世した子供であるのは確かのようだ。
 また引用時に記述を省いたが、『晋書』王戎伝によるとこの子はひじょうに太っていたという。

 さて、この子供のことをはたして「まだ抱きかかえる年ごろの子供」と呼ぶだろうか。私には少し難しいように思う。つまり王戎が王綏(あるいは王万)を亡くしたときの逸話だとするとかなり不自然だと感じる。
 唐の史官も同様に思い、王衍説のほうを採用したのだろうか。言葉は悪いが、唐の史官がそのような細やかな配慮をするとはとても思えない。依拠した晋史の王衍伝に記載されていたからそのまま採用しただけのように思えてならない。
 ともかくこの箇所にかんしても、『世説新語』を意識しているわけではないと言えると思う。


(3)楽広
成都王穎、広之壻也、及与長沙王乂遘難、而広既処朝望、群小讒謗之。乂以問広、広神色不変、徐答曰、「広豈以五男易一女」。乂猶以為疑、広竟以憂卒。

成都王穎は楽広の婿であった。〔成都王が〕長沙王乂と仲たがいを起こしたため、楽広は朝廷の名士の地位にあったものの、小人たちが楽広のことを〔長沙王に〕讒言した。長沙王が楽広に事情を質問したところ、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「広(わたくし)、五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。長沙王はなおも疑念を抱いていたため、楽広はとうとう不安のあまりに卒してしまった。

 『世説新語』言語篇、第二五章に同様の話が記されている。
楽令女適大将軍成都王穎、王兄長沙王執権於洛、遂構兵相図。長沙王親近小人、遠外君子、凡在朝者、人懐危懼。楽令既允朝望、加有婚親、群小讒於長沙。長沙嘗問楽令、楽令神色自若、徐答曰、「豈以五男易一女」。由是釈然、無復疑慮。

楽広の娘は成都王穎に嫁ぎ、成都王の兄の長沙王乂は洛陽で朝政を握っていたが、とうとう二王は戦争を起こしてたがいにたがいを滅ぼそうとした。長沙王は小人を近づけ、君子を遠ざけていたので、朝廷に身を置いている者はみな不安を感じていた。楽広は朝廷の人望を集め、さらに〔成都王と〕姻戚関係にあったため、小人たちが〔楽広のことを〕長沙王に告げ口した。長沙王はあるとき、楽広に〔成都王と通じていないかと〕質問したが、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。これによって疑いが晴れ、二度と疑惑を向けられることはなかった。

 結末がまったく違うのがわかる。
 劉孝標注に引く「晋陽秋」には、長沙王と楽広との同様のやりとりを記したあと、「乂猶疑之、遂以憂卒」とあり、『晋書』本伝とまったく変わらない結末になっている。
 なお『資治通鑑考異』に引く「晋春秋」には「太安二年八月、楽広自裁」とあり、自殺と伝える史書もあったらしい。

 この箇所にかんしても『世説新語』を参照しているとは言いがたいように思われる。


***
 三つの例だけを簡単に見てきた。『晋書』と『世説新語』の違いが激しいところを挙げただけと言われればそのとおりである。『世説新語』とほとんど変わらない記述も一定数存在するからである。
 しかしながら、劉孝標注や『初学記』などの類書に引用された散佚晋史を見ると、先行晋史にも『世説新語』に類した話が確認できる。しかもその話が『世説新語』と微妙に異なっていることも決して珍しくはない。また『世説新語』に収められている話がすべて『晋書』に見えているわけでもない。

 ようするに、たとえ『晋書』と『世説新語』の記述が同じであったとしても、その取材源を『世説新語』だと考えるのは早計だと私は考える。『世説新語』以外の晋史にも同様の記述が存在する例がありふれているのに、どこに取材源として『世説新語』を挙げる必然性があるのか。『世説新語』から採った可能性はあるが、必然性はない。そのあたりはきちんとすべきである。
 と、とありあえず現在は考えることにする。私は不真面目でひとの議論はきちんと読んでいないので、この程度の事柄であればすでに誰かが言っているかもしれない。そこは今後きちんとします……。

 前回記事(「『魏書』僭晋司馬叡伝の史料的価値にかんする暫定的私見」)から引き続き、歴史的事実としての妥当性云々は措いて記述の成り立ちについて考えてみた。
 それはそれとして、『世説新語』を今回のような仕方で読んだりするのは何だか書物の意向に即していない気がするというかなんというか、ごめんなさいって気分になりますね。ごめん。。

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